日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、子や孫が安心して暮らせる社会をみんなの力で実現したいです。みなさまからのコメントを楽しみにしています。

三宮事件に学ぶ

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生麦事件


まぁ、このブログ、話が大東亜戦争にいったり、日清戦争にいったり、あっちこっちしていますが、今日は、幕末です^^;

幕末のころ、神戸の三宮で起こった事件が、またの名を神戸事件です。

この事件は、神戸開港早々の明治元年正月11日に起りました。

鳥羽・伏見の戦いのあと、新政府は、備前(岡山)藩に、大阪界隈の警備出向を命じます。
このころ、幕府の大阪町奉行がいなくなってしまい、関西地区は、いわば無政府状態となって、治安が悪化していたのです。

そこで出向してきた備前藩の家中、日置帯刀の従兵らが、兵庫での昼食のために神戸三宮にさしかかったところ、おりから三名の英人水兵が、その行列を横ぎった。

英人水兵らは、この横断が無礼な行為であり、日本では違法にあたるなんて知らない。
おまけに言語が通じない。

前衛の備前兵が、横断をそれを制するつもりで、槍をあげて威嚇したのだけれど、一人の英人は、ナイフを執ってそれに抵抗する態度を示した。

備前侍も武士です。

警護の滝善三郎が前に出て、たちまちのうちに一人を斬り捨て、一人に重傷を負わせた。


報告を聞いた英国は、この事態を重く見て、すぐに陸戦隊を神戸に上陸させ、同地にあった外国人居留区(当時造成中)を軍事的に占領します。

さらに、英国陸戦隊は神戸の通行を封鎖。

そして大阪湾内にあった諸藩の艦船6隻をすべて抑留します。

こんな事件の起こらない前に、時節がら混雑する際であるから、なるべく街道筋を出歩かないようにと、かねて神戸村の臨時取締役から各外国領事を通じて居留の外国人へ注意を与えてあったののだけれど、残念なことにその意味は徹底していなかった。

英国兵の上陸に、神戸の町の人々は、騒然とします。

なにせ街が、外国人によって封鎖され、占拠された。

発足したばかりの明治新政府にとっても、これは外国を敵に回しかねない緊急事態です。

この時期、明治新政府といったって、まだまだ諸外国には何の信用もない。
なにせ鳥羽伏見の戦いに勝ったばかりの状態です。関東には無傷の幕府が残っている。

幕府の鎖国政策に対し、新政府は、開国の方向を確定するのが第一だと聞いてはいても、各国公使らはにわかにこれを信用するわけにいきません。

一方、明治新政府にしてみれば、三宮事件は、新政府の誠意と実力を示し、諸外国の信用を身につけるための試金石です。
なんとかしなきゃなんない。
さりとて、武士の誉れの道を外すわけにもいかない。

新政府は、島津修理太夫、毛利長門守、細川越中守、浅野安芸守、松平大蔵大輔、それに山内容堂などの連署で、朝廷に建議。各国公使あてに詫書を出すことにします。

詫書は、陸奥陽之助(後の陸奥宗光)が使者になり、英国領事パークスの元に届けられた。

書面には、
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朝廷新政のみぎり、この不行き届きのあるは申し訳ない。
今後双方から信義を守って相交わるについては、こんな妄動の所為のないようきっと申し渡して置く。
今後これらの事件はすべて朝廷で引き受ける。
このたびの儀は、備前家来日置帯刀に謹慎を申し付け、下手人滝善三郎に“切腹”を申し付けたから、そのことを各国公使に告げるよう勅命をこうむった。
--------------------------------

というものです。伊達宗城の花押まである。


しかし、おさまらないのは英国代表のバークスです。
新政府の外国事務掛として神戸にいた伊藤博文は、バークスに善三郎の助命を求めたのだけれど、バークスの怒りは収まらない。

バークスは、
「切腹は、日本武士の名誉であると聞く。
本件は犯罪であり、名誉の死であってはならない。
今後の戒めとなるような厳罰に処することであらねばならない。」
と反論します。


兵庫の永福寺での処刑の日がやってきます。
パークスはふたりの書記官を立ち会わせます。

日本側からは、伊藤俊介、他一名のものが立ち会った。


処刑は、作法通りの“切腹”となった。

切腹した滝善三郎は、風采も卑しくなく、世が世なら、滝善三郎は無礼な外人を打ち懲らしたものとして、むしろお褒めにも預かるべき武士です。

彼は死に臨んでも堂々とし、従容として腹を裂いた。


切腹のあまりの荘厳さと、滝善三郎の堂々とした態度に、英国人立会人は、気圧され、その模様を、詳細にバークスに報告します。

そして、迅速かつ筋道を立てた誠意ある対応と、武士の名誉を守る(切腹)について、頑としてこれを曲げない新政府の態度、そして備前藩士、滝善三郎の従容とした立派な最期に、バークスの心は動きます。

こうした一連の事件に対する新政府の対応は、最初の日英の外交的危機を脱しただけでなく、かえって新政府の実力と、英国との友好関係を深めようとしている姿勢を明確に証明することになった。

また、ひとりの日本武士の切腹に堂々とした態度は、英国人バークスをして、新政府を全面的な支援に向かわせることになります。

そして、英国の完全な後ろ盾を得た明治政府は、この後、幕府方を追い詰め、維新を完成させて行きます。

外交は、国と国とのつながりであるとともに、人と人とのつながりでもあります。

そして相手の言い分を聞くだけではなく、断固としてこちらの文化や伝統を主張し、これを守り抜くという姿勢が大事であることを、三宮事件は私たちに教えてくれているのではないかと思います。

なにも、ねつ造史観まで受け入れて、特ア国のいいなりになることが外交ではありません。
そんな安易なことで相互の国際関係が良好になるなどというのは、とんでもない間違いです。

この事件で切腹して果てた滝善三郎の辞世の句は
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きのふみし 夢は今更引かへて
神戸が宇良に 名をやあげなむ
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「名をやあげなん」と詠んだ善三郎の辞世の句には、命をかけて名誉を守ることの誉れが謳われています。

そして靖国に祭られている200万の先の大戦の英霊たちもまた、命をかけてこの国の誇りと名誉を守り抜いた。

私たちの先人たちは、こうしてまさに命がけでこの国の伝統と誇りを守り抜いたのです。

いまを生きる私たちは、そうやって日本を守り抜いてくださった先人達のおかげで、いま、こうして息をしている。

その先人達への感謝の心を、いまこそ日本人は思い出すべきときにきているのではないかと思います。

日本人は先人達への感謝の心を忘れるな!と思う方、
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幕末〜明治維新の群像

日清戦争の開戦に学ぶ・・・友愛精神の嘘

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平壌の戦い
平壌の戦い


今日は日清戦争のお話をしてみようかと思います。

日清戦争のお話というと、日本と清国の戦い、くらいはみなさんご存知だと思うのですが、実は、この戦争の糸をひいた原因は、朝鮮半島にあった。

そういうと、「ん? 日本が朝鮮を侵略することの利権か?」と思う方もいるかもしれません。

残念ながら違います。この時点では、日本は韓半島になんの利権も、持っていません。

お話の発端として、1890年頃からの半島を見てみたいと思います。

約400年続いた李氏朝鮮は、冊法体制(さくほうたいせい)といって、中国の臣下の国でした。

この李氏朝鮮末期の1870年頃、国王高宗に、閔妃(みんぴ)という人物がいた。またの名を明成皇后ともいいます。

当時の国王高宗は、いわゆる色事の好きな人物で、政務などほったらかし。

多数の宮女や妓生相手に漁色や酒におぼれ、楽しい毎日(?)を送っています。

政務をおろそかにしていたことから、次第に、政治の実権は、皇后である閔妃に移っていく。

閔妃は、政治の実権者として、彼女の一族を積極的に重職に登用したほか、積極的な開国政策をとり、1876年(明治9年)、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結します。

そして日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化などを行った。

ところが、彼女の関心が日本の指導による新式軍隊に移ると、従来の清式の旧軍隊は放置されてしまいます。
放置された旧軍隊の兵士たちには、賃金も払われず、食事の配給もない。

期待の星である日本の指導による新式軍隊には、豊富な食料と給料、放置された旧軍隊には、飢えと苦しみ。。。

当然のことながら、旧軍隊内には、新式軍隊に対する不満が募ります。

1882年、旧式軍隊は、閔妃暗殺をもくろんで反乱をおこします(壬午軍乱)。

このとき、多くの閔妃派要人と数十名の日本人が殺されます。日本大使館も焼き討ちされた。

事件を察知した閔妃は、侍女を自らの身替りにして、いち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清の袁世凱のもとに逃げ込みます。

困るのは、朝鮮を属国として軍を派遣していた清と、朝鮮に頼まれて近代化軍の指導をしていた日本です。

どちらが反乱鎮圧を陳圧するかで揉めてしまう。

だけど、日本は、朝鮮は清の冊封国だからという理由で、清軍に反乱の鎮圧を委ねます。当然ですよね。

ところが、建前で動く日本をみた閔妃一派は、こりゃ日本は頼みにならない、と一方的に考えます。
軍の威力にモノを言わせる清という国ほうが、頼もしく思えたのでしょう。

閔妃は、さっさと親日開化政策を、親清復古政策に転換してしまいます。まぁ、勝手なものです。

この事件で、日本は、大使館を焼かれただけでなく、請われて派遣していた日本の軍の指導官らや、その配偶者、子どもたちを無残に殺されます。どんな風に殺害されたかの詳細は、いまではほとんどわかりませんが、ボクのブログで通州事件や、尼港事件、和夫一家殺害事件をお読みになられた方なら、それがどんなに悲惨なものだったか、およその想像はつくものと思います。

日本は当然、朝鮮に対して、日本人被害者への補償、大使館の損害等への補償を要求しました。
同時に、以後の日本大使館の警備のために、若干の日本兵の漢城駐留などを朝鮮との交渉の中で取り決めます。これは当然のことです。ひどいめにあわされたのですからね。

結局そのために、朝鮮には、日本と、袁世凱率いる清軍の両軍が軍を駐屯させることになった。

一方、朝鮮の民衆の暮らしはあいかわらず貧困のどん底にありました。

その朝鮮の隣には、ひとりひとりの庶民の生活が改善し、どんどん近代化し、進歩し、国民が豊かになっていく日本という国がある。

福澤諭吉(慶応大学創始者)や、大隈重信(早稲田大学創始者)らとの親交を深めた朝鮮の金玉均・朴泳孝・徐載弼ら、理想に燃える韓国人は、このままではいけないという思いを深くします。

彼らは、閔氏一族が贅沢三昧をする中、国王である高宗のいわば「一本釣り」を計画します。

そして、外戚の閔氏一族や清に実権を握られ、何一つ思い通りにいかない朝鮮国王高宗も、彼らの理想に燃えた近代化政策の実行を快諾する。


1884年12月、金玉均らは、クーデターを実行します。

金玉均らは「郵政局」の開庁祝賀パーティーで、会場から少し離れたところに放火を行い、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃し、朝鮮の高宗国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。

日本に公使館警備用の軍を派遣してもらい、朝鮮国王を保護するとともに、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、という計画です。

そして彼らは、計画を実行する。

放火は失敗したけれど、計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害。

金玉均・朴泳孝・徐載弼ら新政府樹立を宣言します。

そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明します。

そしてその日のうちに、

(1) 朝鮮国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主とする。
(2) 清国に対して朝貢の礼を廃止する。
(3) 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃止する。
(4) 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる。

などの 革命政策を発表します。

ところがこれを知った袁世凱率いる清軍は、革命派のたてこもる王宮を攻撃します。
これによって、クーデター一派は、壊滅しちゃう。

からくも危機を脱した金玉均らは日本へ亡命するのだけど、朝鮮からの刺客が恐ろしい。

とりわけ、袁世凱ら清軍によって、三親等までの近親者全員が、いかにもシナ・朝鮮風の極めて残虐な方法で、全員が殺された金玉均らは、日本各地を転々とした後、上海に渡るのだけど、結局、閔妃の放った刺客によって暗殺されてしまいます。

ちなみに金玉均らの遺体は、朝鮮半島に移送された後、五体を引き裂かれ、身体の各部を各地で腐るまで晒されたとか。残酷な話です。


このクーデターのとき、高宗国王から依頼をうけた現地の日本軍は、王宮の警備にあたっていた。そして日本の将兵30名は、袁世凱率いる清軍によって全員殺害されてしまいます。
それもかなり酷い殺され方をしている。(亡くなられた将兵の方々は、いまなお靖国に祭られています。)


事件の翌年(1885年)4月、伊藤博文全権大使とする日本は、中国・天津で、清の李鴻章と会談します。
そして、亡くなった日本の将兵に対する賠償は放棄するから、お互い、もう朝鮮半島から撤兵しようともちかけます。
いつまでも、互いに怨恨を引きずっていたら、両国のためにならないからです。

そして、天津会談の結果、日清両国は、朝鮮から兵を引き上げた。なんと以後10年間もの間、朝鮮には、外国軍隊の駐留がなくなったのです。


いっときの平和を手にした朝鮮人たちは、日本人の民間人による指導なども得て、産業を活性化。1990年代になると、なんと朝鮮から日本への輸出は、当時の朝鮮の輸出総額の90%以上、また日本からの物品の輸入は50%を占めるようになったといいます。

つまり、たいへんな対日貿易収支が、猛烈な黒字になった。
韓国経済はいっきに成長する。


一方、1900年に発生した清の義和団事件の混乱収拾を名目に満州へ侵攻したロシアは、この年、満州全土を占領下に置き、満洲の植民地化を既定事実化しようとします。

これに対し、日英米が断固抗議。仕方なくロシアは撤兵を約束するのですが、ロシアは履行期限を過ぎても撤退を行わない。
それどころか、なんと駐留軍の増強を図った。

ロシアの満州占領が、自国の権益と衝突すると考えたイギリスは、1902年に日英同盟を締結し、日本と連携してロシアの南下をくいとめようとします。

1903年4月21日に行われた京都・無鄰庵での「無鄰菴会議」でも、伊藤博文、桂太郎、山形有朋、小村寿太郎らは、
「満州問題に対しては、我に於て露國の優越権を認めよう」とまで宣言しています。


いっぽう、冒頭に登場した閔妃です。

閔妃は、贅沢三昧の生活を送りながら、もっと贅沢をしたいからと、満州を勢力下においたロシアに、朝鮮半島ある鍾城・鏡源の鉱山採掘権や、朝鮮北部の森林伐採権、関税権などを次々に売り渡してしまいます。

そりゃあ、閔妃の一族は大儲けしたでしょう。
だけど、儲ける連中がいる一方で、半島の貧富の差はますます広がってくる。

急激な対日貿易の黒字は、朝鮮半島の経済力を増したけれど、同時に、半島内のインフレを招き、貧富の差を増大させた。
米や大豆の値段が高騰し、貧しい朝鮮庶民の生活は圧迫された。


1894年5月、朝鮮で、東学教団構成員の全琫準を指導者とする甲午農民戦争(東学党の乱)が起きます。

東学党一味は、民生改善を求めて、農民一揆をおこし、5月末までに、羅道全州を占領してしまう。日本でいったら一向一揆みたいなものかもしれない。


6月1日、朝鮮政府は清に派兵を要請します。

清軍の陳圧行動の中、当時、日本との貿易がさかんだった朝鮮には多くの日本人がいましたし、前の騒動で、日本人が婦女子まで虐殺された事実もあり、やむなく日本は6月10日になって、海軍陸戦隊400名(たった400名です)と大鳥圭介公使を漢城に派遣しました。


6月11日には、清軍と朝鮮政府は、一揆軍の弊政改革案を受け入れ、暴動を鎮圧させます。

ところが暴動は鎮圧されたはずなのに、翌12日に、清は、牙山に陸軍を上陸させる。

日本は、6月15日、大島公使が、清に対し、半島の平和のために、両軍が半島から撤兵すること、ならびに、朝鮮の内政改革については、日清共同で平和りに進めたらどうかと、進言した。

日清両軍がいなかったことで、朝鮮の経済は成長したのです。
だから、朝鮮のために、また両軍とも撤退しようよ、というわけです。

しかし、朝鮮をあくまで属国扱いしている清は、この日本の提案に、なかなかウンといわない。

そこで大鳥行使は、朝鮮の王に、6月20日、「朝鮮から、清も日本も撤退してほしいと交渉したらどうか」と、申し向けます。

ところが、7月にはいると、牙山の清軍は、ますます増強され、7月20日ごろには、4165名の陸戦隊が上陸してしまう。

さらに7月25日、朝鮮の北西岸豊島沖で、日本の巡洋艦「秋津洲」「吉野」と「浪速」が、会合予定だった巡洋艦「武蔵」と「八重山」を捜していたところ、突然、海上にあらわれた清国巡洋艦の「済遠」と「広乙」が、21cm砲で、日本の巡洋艦を砲撃してきた。

一方的に撃ってこられたら、反撃しないわけにはいかないです。

数分間、互いに砲撃を交わした後の午前7時50分、日本海軍の応戦の前に、「済遠」と「広乙」は逃亡を開始した。

そこで日本の「秋津洲」は「広乙」を、
「吉野」と「浪速」は大きいほうの「済遠」を追った。

「広乙」は追い詰められて座礁。

「吉野」と「浪速」は「済遠」を追ったのだけど、「済遠」は国旗を降ろして降伏の意を示したかと思えば突如、逃走を図るなんてことを繰り返した。

そして海上にあった清国軍艦「操江」と「高陞」(英国商船旗を掲揚)のもとに逃げ込んでしまいます。

日本の「浪速」は、一時攻撃と追跡をやめ、清国軍艦「操江」らと押し問答をするのだけど、その隙に、「済遠」はさっさと逃走してしまう。

「吉野」の最高速度は23ノット。「済遠」は15ノット。なので「吉野」のほうが、断然、船足が速いです。

「済遠」は逃げながらも2門の21cm砲で砲撃してくる。

「吉野」はジグザグ航法で、敵の弾を避けながら追跡するのだけど、「吉野」の砲門は15cm。あきらかに分が悪い。

それでも「吉野」は、「済遠」を2500mまで追い詰めた。

すると「済遠」は面舵をとって船を浅瀬へと船を向かわせた。

「済遠」はドイツ製巡洋艦で2,300tで、喫水は4.67 m。
「吉野」はイギリス製の4,216tで、喫水は5.18mです。

浅瀬に逃げられたらどうしようもない。
「吉野」は、追撃を中止し、「済遠」は逃げてしまいます。

一方、「浪速」艦長の東郷平八郎大佐は「高陞」に停船を命じ、臨検を行おうとするのだけれど、「高陞」は停戦命令に従わない。

やむなく「浪速」は、「高陞号」を撃沈したうえで、「高陞」に乗っていた英国人船員ら3人と、清国兵50名を救助し、捕虜とした。

この海戦による日本側の死傷者及び艦船の損害は皆無。

清は「広乙」が座礁、「高陞」が撃沈。

ちなみに「吉野」が追撃を中止した「済遠」は、なぜか清の発表では「大破」とされています。日本によって一方的に攻撃されたと発表。逃げたはずなのに変な話です。

この戦いのあと、英国商船旗を掲揚していた「高陞」を撃沈されたことで、イギリス国内で、日本に対する反感が沸き起こるのだけれど、日本の「高陞」攻撃は、完全に国際法に沿ったものだったことが報道されると、英国世論は、沈静化します。紳士の国ですね。


この海戦の2日後の7月25日、朝鮮政府から大鳥圭介公使に対して、牙山に上陸していた清国軍を撃退してほしいという要請が出されます。
やらなければ、半島にいる日本人に何をされるかわからない。
やむなく日本は、翌7月29日に第9歩兵旅団によって牙城に立てこもる清軍を攻撃する。

午前2時、清国兵の襲撃により松崎直臣陸軍歩兵大尉ほかが戦死します(日本側初の戦死者)が、午前7時には、日本軍は、敵陣地を完全に制圧します。日本強いですね。


この戦いで、日本側の死傷者は82名なのに対して、清国兵は500名以上の死傷者を出しますが、清国兵は、武器等を放棄して平壌に逃走してしまいます。

なお、この戦いで、第21連隊の木口小平二等兵が、死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残っています。実に立派です。


7月下旬になると、清国軍は牙山から逃げ帰った兵士と併せて、合計1万2千名の兵員を平壌に集結させます。

日本は、あくまで開戦を避けようと、外交交渉を継続しますが、清はこれに応じない。

やむなく日本は、けじめとして、8月1日に清国に宣戦布告文を発します。
朝鮮の意思を尊重し、兵を引かないなら、日本は戦いますよ、という詔です。


しかし宣戦布告しても、なかなか日本は、戦いをはじめません。
あくまで平和的解決のため、全力を尽くします。

ところが事態は一向に解決しません。


やむなく日本は、1ヵ月半後の9月15日、平壌の清軍基地への攻撃を行います。

同日午後4時40分、清軍は白旗を掲げて翌日の開城を約した。

ところが、清国軍は、約束を違えて逃亡してしまいます。
そして、同日夜に日本軍が入城する。日本の大勝利です。


2日後、9月17日12時50分には、黄海上で、日清両艦隊が遭遇します。

先に攻撃してきたのはこんどもまた清側からです。

日本側は、旗艦「松島」以下12隻。
清国艦隊は、18隻。

敵戦力の方が大きかったのですが、日本艦隊は、果敢に戦い、清国艦5隻を撃沈、5隻を大中破、2隻を擱座させて、大勝利します。

この海戦によって、清国艦隊は威海衛に閉じこもることとなり、日本海軍は黄海・朝鮮の制海権を確保した。


このあと、10月25日には、山形有朋率いる第一軍による鴨緑江渡河作戦で、日本軍大勝利。
10月24日には、大山巌率いる第二軍が旅順を制圧し大勝利。

そして日本は、1895年4月の日清講和条約まで、清軍を相手に連戦連勝していきます。


以上が、日清戦争までの流れです。


わたしたちは、なんとなく、「戦争というものは、施政者の都合で、ある日突然、宣戦布告によってはじまるものだ」と思っています。

しかし事実は、日清戦争の経過にあきらかな通り、さまざまな不条理な出来事によって、世相が泥沼化していき、いつの間にか戦争戦争が起こっている。

宣戦布告というものは、ひとつの施政上の“くぎり”にすぎないということが、おわかりいただけるのではないかと思います。

いま日本は、反日を標榜する国家と、その反日に加担する国内勢力によって、信頼を根本とする日本の治世を、根底から破壊されようとしています。

麻生さんは、選挙をするともしないとも、ひとことも語っていないのに、テレビをつけると、昨年の麻生総理就任以降、「選挙しない太郎攻撃」ばかりです。

日本の底力を信じ、信頼できる国家、世界から信頼される日本を目指し、国内治世においては、筋道を立て、景気回復に死力を尽くす総理が、なぜ批判や攻撃の的とならなければならないのか。

北朝鮮が短距離ミサイルを日本に向けて発射し、日本をターゲットとする中距離ミサイルノドンを日本に向けて発射するためのデモンストレーションを繰り返している中で、どうして国内世論やマスコミは、その事実をきちんと報道せず、国家としての対抗策を語ろうとしないのか。

マスコミの所業は、国民に黙って隠しているから、北朝鮮産、はやくミサイルを日本に打ち込んでくださいといわんばかりにすら見えます。

宣戦布告はまだないけれど、すでに戦争は始まっているようにすら思えます。
てか、これはすでに戦争なのかもしれない。


経済というものは、その基本にあるのは「信頼」です。

企業活動にしても、売掛金や買掛金取引ができるのも、その根底に相互の信頼があるからです。

債権債務の関係というものは、すべてその「相互信頼」が基盤になっている。

会社勤めをしているサラリーマンにしたって、一ヶ月、ちゃんと働けば、かならず給料がもらえると信じて働いている。

その信頼がなかったら、誰もその会社で働いたりしません。

そうした「信頼」というものをきちんと守ろうとする日本と、信頼なんてなぁ関係ないとばかり、自己の利益ばかりを狙う閔妃のような人物。

そして、約束しながら、それを平気で無視して都合よく兵をすすめたり、多勢に無勢をいいことに虐殺の限りをつくす不条理に対して、日本は、我慢に我慢をかさねて、それでも平和的解決の道を模索し続けていた。

このことは、日清・日露、第一次大戦、大東亜戦争と、日本が一貫して貫いてきていることです。

そして戦後の日本にしても、約束は守る。依頼された仕事は完璧に仕上げる、そういう哲学をバカ正直に実践し、国際的信用を勝ち得、経済の復興を図ってきた。

日本の伝統的文化は、約束を守ること・・・つまり相互信頼にその根本があります。

しかし、「友愛」などと、耳触りのよい言葉を発しながら、その実、国を売り、国民の施政者に対する信頼をふみにじり、嘘八百で、過去の日本の先人達が必死で守りとおした信頼という文化を完全に葬り去るような輩が、日本に現れた。
外国から売国のために受け取ったカネを、死んだ人の名義で、献金されたと帳簿につけるようなゲス野郎が堂々と日本の議員をしている。

そんな輩には、絶対に先人達の血のにじむ努力や、本当の意味での信頼や、友愛など、まるで理解できないのではないか?

そんなゲス野郎を、首魁にあおぐ政党など、ボクは絶対に信用したくない。

彼が何億の蓄財をしているのかは知らないけれど、すくなくともはっきりといえるのは、ボクよりはお金持ちだし、エライ人だ(笑)。

だけど、ボクにはほんの残りカス程度かもしれないけれど、日本人としての誇りがある。

その誇りがある分、大金持ちのゲス野郎よりは、よっぽど豊かに生きているのだと思っています。

約束を守り、平和を愛し、信頼を築き、互いに成長できるように気遣う日本。そして一朝事あれば、正々堂々と果敢に戦い、連戦連勝の勝利を果たす日本。

これに対し、大言壮語するけれど、いざとなったら逃げ出してしまう。嘘八百を並べ立てる。自己の金儲けだけしか考えない。多勢に無勢で相手より絶対に強い立場にあると思ったら、ありとあらゆる非道を平気で行う。

そんな文化と、日本の伝統ある信頼文化が、果たして融合などできるのだろうか。

顔かたちが似ていても、まるで考え方の違う人たちと、言葉だけ友愛などと言ってみても、結局最後には、多くの血を流さなければならなくなる。

はじめにひどい目にあうのは、きまって信義を重んじる側です。

幸い、過去の歴史の中では、日本は最後には打ち勝ってきているけれど、でも、その間にも多くの日本人が犠牲になっている。

いまの日本だってそうです。

他国からの干渉や、国内の売国圧力によって、日本の多くの企業が不況にあえぎ、多くの人々が職を求めてさまよっている。

民主党は、選挙マニフェストで、財政の緊縮を標榜しているけれど、この不況下にとんでもない話です。
いまは内需拡大のために、財政を出動しなければならないときです。

そのために日本は多額の国債を発行するけれど、その引き受け手の98%は、日本人です。
つまり、国内の民間部門に眠るお金を、証書一枚で国が吸い上げ、これを流通させる。

流通する通貨量が増えれば、お金がまわる。お金が動く。

もちろん、通貨だけが増えたら、インフレになるけれど、これは新規の通貨の大量印刷ではない。民間部門のお金を、政府が吸い上げ、公共工事やら、中小企業への資金援助に使うということです。

赤字国債が増えると日本は破産するなんてことをいうアホもいるけれど、それも違う。
なぜなら、預金量が増えたからといって、倒産する銀行などないからです。

そして日本の通貨の発行権を持っている日本国政府は、日本国内最大の金融機関でもある。

つまり国債は、銀行にたとえれば、定期預金を確保することに等しく、たくさんの預金を集めれば、それだけ国は自由に使えるお金が増える。
そしてそのお金が国内に流通し、景気の底上げをしてくれる。

ふつうに考えれば、誰にでもわかることです。

明治の日本は、富国強兵政策によって、国内に軍事産業を興し、戦艦や巡洋艦を民間部門に発注。民間は受注により大量の雇用を生み出し、また、徴兵制によっても、国内に大量の雇用を生み出した。

結果、明治維新のころには、当時の清国と、国民ひとりあたりのGDPに大差なかった日本が、その後わずか十数年で、清国を圧倒するだけの経済基盤を築きあげる。

日清戦争は、信頼を重んじ、必死に努力して富を得た日本と、干渉ばかりして努力をせずに事大主義に凝り固まった清国との戦争でもあった。

そしてその結果は、最後に明らかとなった。
もちろん日本の勝利です。

正しい者が、最後は勝つのです。

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日清戦争により日本が朝鮮を独立させた

貧しくても・・・

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十和田湖
十和田湖


樋口一葉といえば「たけくらべ」で有名な明治の女流作家です。

以前は五千円札にも顔が載っていた^^

1985年(明治28年)、当時、めっちゃ売れっ子作家だった樋口一葉は、東京・渋谷に住んでいた。

明治を代表する売れっ子作家です。
さぞかしゴージャスな暮らしをしていたかと思えば、さにあらず。

彼女は渋谷の長屋住まいで、暮らしも質素・・・というか、貧しかった。

着る者も1枚しかない。
だから、着ている着物を洗濯して乾すと、他に着るものがないから、腰巻き1枚で、部屋で執筆作業をしていたそうです。

当時の長屋は、土間+1部屋。平屋で、障子をあけると、裏庭まで見通せた。

そんな部屋の中で、若い樋口一葉は、裸に腰巻ひとつで、たけくらべを執筆していたといいます。

明治の日本の庶民の暮らしは、それほどまでに貧しかった。

そんな明治時代に、日本は、日清・日露の戦争を戦います。

明治政府は、軍艦も、鉄砲も大砲も、基本、ぜんぶ日本国内で製造した。そのための大量の雇用も促進した。

戦費の足らない分は、海外から資金調達したのだけれど、日露戦争のときに、世界中が、絶対に日本は負けると見ていた中で、積極的に日本にお金を貸してくれたのが、昨年倒産したリーマン・ブラザースだったというのも、有名な話です。

話が脱線しましたが、ともあれ明治政府は、富国強兵を柱として、日本国内で軍需産業の育成を図った。雇用の確保を図った。
鉄砲や軍艦を作った。
軍隊にも人を雇い入れた。

そのために多くの人が職を得て、消費が活気づいた。
その消費が、文壇にもまわり、日本は漱石や一葉など、世界に誇る文豪を輩出しています。

お金が、世間に流通することで、日本は少しづつ豊かになっていったのです。

昨今、民主党などが、しきりに政府の歳費の切り詰めや、公務員のクビキリ、給与のカットなどを主張しています。

しかし、公務員の給与カットや、大がかりなクビキリなどを実際に行うと、上に書いた明治という国家が力をつけ、経済力と国力を増していったことの、正反対の効果が起こります。
雇用が減り、国内に流通するお金も減ります。

つまり、日本は、ますます貧しくなる方向に拍車をかける。

民間が四苦八苦しているのに、公務員がいい給料をもらうのは許せない、というご意見は多いけれど、政府が公務員を粗末にしたら、国内景気はますますひっ迫するし、粗末にされた公務員は庶民を粗末にする。いいことなんてないです。
もっとも、日教組に所属している教師などの給料を半分にカットしたり、彼らをクビにすることには大いに賛成ですけどね。

話がますます逸れました。

えっと、樋口一葉です。

一葉が、大ヒット作「たけくらべ」を書いたのは、そんな日露戦争開戦の9年前。
まだまだ日本が貧しかった時代のことでした。

この時代、長屋に住む多くの人の着物といえば、一張羅。

一張羅というと、いまではたくさん持っている衣類の中の、特別な被服くらいに思われていますが、この時代の一張羅は、いま着ている、その着物、一枚しか着るものがない。

まさに一張羅だった。

一葉に限らず、男性なども、着ている着物と褌(ふんどし)を、を井戸端で洗濯したら、他に着るものがないので、素っ裸で、疎チンも丸出しのまま、干した着物が乾くのを待った。

なにせ乾くまで他に着る者がない。

全国の人と富が集中する東京ですら、そんなだった。

これが地方にいくと、もっと貧しかった。食うものもなかった。

樋口一葉が、ちょうど「たけくらべ」の執筆をしていたころ、秋田県鹿角市(かずのし)の武士の家に生まれた、和井内貞行(わいないさだゆき)氏は、同じく秋田県小坂町にあった小坂鉱山に勤務します。

で、十和田湖のほとりに住んだ。

十和田湖は、青森県と岩手県、秋田県、3つの県の交差点に位置する湖です。

面積は61.1 km²。日本で12番目の面積規模。

ヒメマス
ヒメマス


現在十和田湖は、年間200万人近い客が訪れる東北有数の観光地で、ヒメマス漁獲高も日本屈指の豊かな湖ですが・・・・・

和井内貞行氏が、十和田湖に住んだ頃には、十和田湖には、一匹の魚もいなかった。。。

鉱山技師だった和井内貞行は、「この十和田湖に魚がいたら、このあたりの人たちは新鮮な魚を食べられる。食うに困らなくなるのではないか」と考えます。

そこでいろいろな人に相談をして、十和田湖に魚を放してみた。

貞行、26歳のときのことです。

貞行は、はるか遠くの港まで買い付けにいって、最初は鯉(コイ)を600匹放した。

資金?

自分のお金です。

貯金全部をはたいて、鯉を買い、それを山道をわざわざ十和田まで運び、放したのです。

ところが、地元には、古くから「十和田湖の神様は魚が嫌い。だから十和田には魚は住まねえんだ」という伝説があり、伝説を信じる土地の人々から、貞行はボロクソに悪口を言われたそうです。

5年がたち、鯉は十和田湖で大きく育ってくれた。

悪口を言っていた土地の人たちは、大喜びして、みんなで鯉を獲り、腹いっぱい食べた。

ところが、あまりにみんなが喜んで鯉を収穫したので、肝心の鯉が、湖からいなくなってしまった。

十和田湖は、再び、魚のいない湖に戻ります。

和井内貞行は失敗してしまったのです。

和井内貞行
和井内貞行


最初の鯉に、貯金をはたいた貞行には、もうお金がありません。

それでも貞行は、少しづつ給料を貯めては、いろいろな種類の魚を仕入れ、湖に放し続けます。しかし、どの魚も育たない。

それから12年後、38歳になった貞行は、貞行は小坂鉱山をやめ、退職金で、十和田湖で魚を育てることだけに取り組むことにした。

自分の財産を遣って、毎年のように、いろいろな種類の魚を十和田湖に放した。

カワマス、日光マス・・・etc...

しかし、何年かかっても魚が育たない。

和井内貞行は、ついに自分の金をつかいはたし、借金までして魚を放していた。

ただでさえ苦しい生活です。

それでも、貞行はあきらめなかった。

貞行44歳のときのことです。

貞行は、ヒメマスの稚魚を買い、十和田湖に放した。

ヒメマスは3年たつと、放した場所に大きくなってもどってくるという、噂を耳にしたのです。

貞行は、近所からは変人扱いされ、生活も乞食同然。家族はおかゆをすすり、家族全員が、一張羅の、ボロボロの服・・・それが服と呼べればだけど・・・を着ていたといわれています。

だから、このヒメマスが最後のチャンスだった。

ヒメマスを放してから3年がたちます。

貞行47歳のある秋の日、十和田湖の湖畔に立つ貞行の前に、大きく育ったたくさんのヒメマスが帰ってきました。

貞行は、呆然と立ちすくみ、何も言わず、滂沱の涙を流したといいます。

貞行は、ようやく十和田湖に魚を育てるという夢をかなえた。

最初の鯉(恋ではありません)に失敗してから、なんと22年が経っていた。

貞行は、魚を育てただけでなく、美しい十和田湖を全国に紹介することも行った。

十和田の自然と、おいしいヒメマス料理を求めて、多くの人が十和田に訪れるようになった。

自分を犠牲にしながら、人々の飢えから救うために、魚の済まない十和田湖で魚を育て、十和田湖の観光の基礎を作った和井内貞行。

明治という日本には、そういう、他人のために人生のすべてを捧げる生き方をする気骨があった。

いまの若い子供たちに理想の職業のアンケートを取ると、男子の1位が「お笑い芸人」、女子の2位が「キャバクラ嬢」なのだそうです。

人を笑わせ、世に一瞬の快楽を与えることもよいことでしょう。

ストレス社会の中で、疲れたサラリーマンに一瞬の夢を与えるキャバクラ嬢になることもいいいでしょう。

しかしね、彼ら彼女らが、人生をかけてその仕事をし抜くというなら格別、ただ、いっときの贅沢な暮らしのためにお笑いやキャバクラ嬢を目指しているなら、ねずきちはすこし残念に思うのです。

職業に貴賎はないといいます。ボクもそう思う。

だけど、自分が豊かになる、という選択よりも、多くの人を豊かにする、そのために自分の生涯を捧げるという生き方だって、あってもいいのではないでしょうか。

売れっ子作家になりながら、樋口一葉の短い生涯(享年25歳)の人生は、貧しさの中にあった。
彼女は、作家として得たお金を、さらに困窮した縁故の人たちに与えていたといいます。

和井内貞行氏の人生は、貧しかったけれど、彼は多くの人に愛され、没後百年以上経ったいまでも、地域の人に愛され続けている。

お金だけが「豊かさ」の象徴のように言われる世の中ですが、お金がなくても、多くの人々に尊敬され、愛される生き方、なにかに人生を捧げるという生き方もあるのだということを、もういちどぼくたちは考えてみるべきときにきているのかもしれません。

ましてね、政治権力欲しさに、中共や韓国にわざわざ出かけて行って、日本政府にカネを出させるからと、献金をおねだりし、カネを彼らの国にある金融機関の自分名義の口座に振り込ませ、これを日本国内の銀行から引き出す。

それでも、巨額の資金を隠しきれず、あろうかとか死亡者の名前まで使って個人献金を受けたことにし、「あれは自分のカネだった」とあつかましい発言を行うような輩。

挙句、中共や韓国や在日におもねった発言や法案提出まで行い、伝統ある日本を、まっさかさまに突き落とす売国行為を繰り返し、さらにその資金目当てに他の政治家が群がる。

それこそ金権腐敗の極致だと思う。

世の中なんでもかんでもカネカネカネと、カネゴンじゃあるまいし。

いつのまに日本は、そんな政治屋に騙されるふがいない国民になりさがったのだろう。

明治の気骨。和井内貞行氏の、自分を犠牲にしてでも世のためにつくそうという公徳心は、彼が武家出身だったところにも、おおきな原因があるのではないか。

日本は、もういちど原点にかえるべきときがきているのかもしれません。

日本は原点に帰れ!と思う方
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夏の十和田湖の思い出

階級闘争主義と信頼主義

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1848年、マルクスとエンゲルスによって執筆された「共産主義宣言」は、「今日までのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という有名な書き出しで始まっています。

自由民と奴隷、都市貴族と平民、領主と農奴、ギルドの組合員と職人、親子の関係、社内の上下関係など、すべての社会関係は“圧制者と被圧制者の対立と闘争”にあると説いている。

世の中のすべてを「階級闘争」として把握するのですから、会社の中は、社長と社員の階級闘争の場だし、親子の関係も、夫婦の関係も、恋人同士の関係も、すべて「階級闘争の場」となります。

上司と部下の関係も、闘争関係にあるのですから、上司は部下を批判し、部下は上司を批判します。

互いに批判し合うのですから、まさにそれは「闘争」の場であり、そのなかで上司が部下に何かを命令し、何かをやらせようとするならば、当然、強権を発動しなければならない。

どうしても部下が言うことを聞かないのなら、それは「闘争」ですから、その部下の首をきらなければならない。つまり「粛清」です。

首を切られる方の部下は、これも「闘争」ですから、上司を「批判」し、革命を起こして上司の首を取らなければならない。

同様に、マスコミの最大の使命は、それが政治部であれば、政治家を批判し、政治家のすることなすことすべてを否定し、批判し、政治の恥部を洗い出し、政治家を追い出すまでこれを続けることになる。つまり政治の粛正です。

政治家が、これを黙らせようとするなら、強権を発動し、当該マスコミそのものを粛清(全員皆殺し)にしなければならない。

親は子を、よい大人に育てるために叱るけれど、これも階級闘争だから、子は親に叱られたとき、逆に叱った親を批判し、親に土下座して謝らせるまで、徹底して親を追い込まなければならない。そのためには、ときに子供同士で連携し、団交までする必要がある。

恋人同士も、階級闘争です。

男は、夫唱婦随を思い描き、亭主関白を目指そうとするから、女は、これに対して「闘争」し、女性の人権を唱えて戦い、男を社会から放逐する。
女性だけの社会を作り、男性は必要に応じて精子を提供するだけの存在であれば足りるところまで、闘争を行い続けれなければならない。

生まれてくる子供は、優秀な遺伝子を持った男性を選び勝ち取った女性の階級闘争における勝利の産物であり、男性にとっては、女性を下にひいて自分の種を植え付けることができた
という、これも階級闘争の勝利となる。

施政者と庶民の関係も同様に、階級闘争となります。

施政者は権力を行使し、常に庶民から収奪しようとするから、庶民はこれに対抗するために、常に施政者を監視し、批判し、施政者のあらゆる施策を弾劾し、放逐しなければならない。施政者が漢字を読み間違えたときなどは、まさに施政者を批判する絶好の好機であり、そのチャンスに批判し、施政者を追い込み、施政者を退任させ、身分をはく奪し、二度と庶民の前に顔を出すことができないように完膚なまでに叩きのめさなければならい。

隣国との関係も同様に、「階級闘争」です。

となりに経済的に成功し、発展し、世界の信用と信頼を勝ち得た国があれば、自分の国が負けているわけですから、階級闘争に勝利するよう、徹底的にその国の成功を阻止し、発展を阻害し、世界の信用と信頼を徹底的に破壊しつくさなければならない。

こうした「階級闘争主義」が、大量殺戮を屁とも思わない国民性(ロシア)や、残虐行為を好む国民性(シナ)、火病を起こして自己の権利だけを主張し、強姦を好みとする国民性(半島)と結びつくと、何が起こるか。

スターリンによる粛清、文化大革命による粛清、ポルポトによる虐殺、戦前の日本共産党による同士の粛清、戦後の日本赤軍のリンチ殺人、その他これまでの記事でご紹介した通州事件、尼港事件、和夫さん一家殺害事件等々、その残虐性がいかんなく発揮された各種事件が、まるごと正当化されることになる。


これに対し、日本の基底にあるのは、ぼくは「信頼主義」であると思っています。

上司は部下を信頼し、部下は社長を信頼する。

夫は妻を信頼し、妻は夫を信頼する。

恋人は、相手を心から信頼し、愛を育む。

生まれてくる子供は、特定の男女の信頼の証だし、夫婦が互いに信頼の絆を深めることで生まれた子供は、父母の信頼関係を見習い、みずからも信頼に足る大人に育とうとする。

教師は生徒を信頼し、生徒も教師を尊敬し、信頼する。

施政者は、庶民を信頼し、庶民は施政者を信頼する。

約束事は、相互の信頼によってなりたち、企業取引も、売掛・買掛ともに、相互の信頼関係によって成り立つ。

そして社会のいかなるポジションにあったとしても、自省し、常に人から信頼される自分になるよう、努力する。


10時30分発の急行電車がホームにはいってくる。

みんなが、その電車は当然10時30分にホームにはいってくると信じている。(=信頼されている)。

電車も、みんなの信頼に応えるよう、しっかりと時間を守る。1秒の狂いも許さない。

互いの信頼関係あってこそです。

電車が万一時間どおりにはいってこなかったら、これは電車側と乗客の階級闘争なのだから、乗客は電車を批判し、必要に応じて電車を弾劾し、時間に遅れた電車は破壊しつくさなければならないなどとは、誰も考えない。

電車が遅れたら、それは運行契約不履行にあたるから、電車会社は、乗客に対し、事前に契約に定めた損害賠償金を支払わなければならず、もし、そのような賠償義務を負わないような運行契約を定めている会社があれば、それは公序良俗に反する行為だから、その電車会社を被告として契約約款の訂正とこれまでの遅刻行為に対する損害賠償を求めて裁判を行う・・・などとは、誰も思わないし、考えない。

電車が遅れたら、その電車の運行関係者は、乗客の信頼を失ってしまう。だから信頼を失わないように必死で努力し、なんとか電車を時刻通り正確に運行させるべく努力する。

乗客も、その日頃の運航会社の努力を信頼し、少々のことがあっても、次には必ず時刻通り運航してくれると、その会社を信頼し、無用な騒ぎはおこさない。

根底に相互の「信頼」があるからです。

信頼主義のもとでは、不足があれば、それはまず、みずからの努力に不足があったのではないかと、自省します。

これに対し、階級闘争主義では、不足があればそれはすべて相手のせいにします。

自分が不幸なのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
自分が貧しいのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
自分の成績が悪いのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
自分がモテナイのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
自分が出世しないのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
自分の給料が安いのは、国の政治が悪いからだ。だから施政者を批判しよう。
etc....etc...

批判するだけでなく、弾劾し、中傷し、揚げ足を取り、引きずり降ろし、破壊しつくす。
ありとあらゆる暴虐の限りを尽くす。


ねずきちにいわせれば、共産主義も、社会主義も、「階級闘争主義」です。
そして昨今のマスコミも、この階級闘争主義に汚染され、染まりきっている。

とにかく批判し、人のせいにすることがよいことだと勘違いしている。

問題が起きたら、ひとのせいにするのは簡単です。
自省するのはつらい。

みずからの非を認めなきゃなんない。
自分自身が努力して改善していかなきゃなんない。

だけど、自省し、反省し、改善しなかったら、成長なんてない。

互いの信頼がなかったら、この世がどんなにさもしいものになるか。

恋人との関係が、階級闘争の場だなんて、ボクは悪いけど願い下げです。
産まれてくる子供が、階級闘争の勝利の証だなんて、思いたくもない。
子は、夫婦の愛のあかし。信頼の絆のあかし。そして天からの授かりものです。

日本の良さとは何かと問われたら、ボクはなにより

「日本は相互の信頼を根底においた国ですから」と答えたい。

夫婦の良さとは何かと問われれば、ボクはなにより、

「互いに信頼しあっていますから」と答えたい。

政治とは何かと問われたら、

「国家と民衆の信頼である」と答えたい。

日本という国は、信頼主義の国家なのだと、ぼくは思います。

戦前の日本が目指した「八紘一宇」も、「大東亜共栄圏」も、国家間の相互信頼を実現した世界を目指すものだったし、亡くなられた日本の軍人さんも、駐留地で、その地の信頼を勝ち得るために、必死の努力をした。

その日本が、いま、階級闘争主義に大きく汚染されようとしています。

信頼主義が、階級闘争主義に打ち勝つためには何が必要なのか。

それを考えるとき、やはりわたしたちは「真実を知る」ことが必要なのではないかと思うのです。

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山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。

智(ち)に働けば角(かど)が立つ。

情(じょう)に棹(さお)させば流される。

意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。

とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高(こう)じると、安い所へ引き越したくなる。

どこへ越しても住みにくいと悟(さと)った時、詩が生れて、画(え)が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。

やはり向う三軒両隣(りょうどな)りにちらちらするただの人である。

ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。

あれば人でなしの国へ行くばかりだ。

人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

【草枕 - 夏目 漱石】より
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中国共産党の正体 九評共産党 第三評 中国共産党の暴政 1/7

アッツ島の戦い

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アッツ島
アッツ島


ねずきちがいつも思うのは、戦後にGHQがでっちあげた(あえて“でっちあげ”といわせてもらいます)日本軍悪玉論や侵略戦争論に乗っかって、祖国のため生命を捧げた人たちの魂魄までも汚すような発言は、断じて許せない、ということです。

よく、「昔は、人の命は紙より軽かった。いまは生命は地球より重いとされている」などと、わけしり顔でものを言う人がいます。

馬鹿かっ!といいたくなるのです。
昔も今も、命の重さにかわりなんてない。あたりまえのことです。

むしろ個人主義が礼賛され、自分の命が脅かされないならば、他人が暴行にあっても知らんふり、といういまのご時世のほうが、よほど命を軽くみているのではないか。

それどころか、仲間を助けるために、愛する家族や恋人や妻や子を守るために、親兄弟や妻や子のいる祖国を守るために、命をかけて戦った昔の方が、よほどひとりひとりの命は重かったかもしれない。

人を愛する気持ちは、国家がひとつの共同体であった昔のほうが、いまの時代よりももっともっと重かったかもしれない。

大東亜戦争の防衛戦で、最初の玉砕戦となったのが、1943年(昭和18年)5月12日にアメリカ軍のアッツ島上陸によって開始された日本軍とアメリカ軍との戦闘、世に言う「アッツ島の戦い」です。

山崎保代陸軍大佐の指揮する日本軍のアッツ島守備隊は上陸したアメリカ軍と17日間の激しい戦闘の末に玉砕した。

日本軍の防衛部隊は、2,650名。

米軍が投下した兵力は、12,000名

アッツ島の日本軍の指揮を執ったのは、山崎保代大佐です。

山崎保代大佐(没後中将)
山崎保代中将


彼は、水際防御ではなく、硫黄島と同じく敵を島の高地に引き込む戦術を採用しました。
その結果上陸した米軍との戦闘は大東亜戦争の激戦のひとつとして記憶されることとなった。

1943年5月29日、山崎司令官は守備隊の生存者を司令部前に集めます。

そして、彼自身が先頭になって、米軍陣地に最後の突撃を行った。
この時点で生き残っていた傷だらけの兵士150名が後に続いたそうです。

山崎中将は、右手に軍刀、左手に日の丸を持って攻撃部隊の先頭に立ち、山の斜面を駆け上って米軍の哨戒線を突破する。
スピーカーから流れる降伏勧告を拒否し、撃たれては立ち上がって突撃した。

米軍陣地で激しい白兵戦を展開し、突撃部隊は最後の一人が倒れるまで戦い、山崎司令官も戦死した。

戦後、遺骨収集が行われたとき、兵たちのいちばん先頭で遺品・遺骨が確認されたのが、山崎中将だったそうです。

米軍戦史にも、山崎中将を「稀代の作戦家」と讃えている。

「彼の軍隊は今まで前例がない程に塹壕を利用し、最後まで岩と土とを利用して戦った。米軍は今や日本軍から何を予期すべきかを知った。」と戦訓中に述べています。

また「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と伝え、「バンザイ・アタック」の名とともに今も讃えられていると伝えています。

アッツ


この戦いに参加した辰口信夫軍医が遺した日記が、後日、米軍によって発見されています。

辰口医師の日記は 敵上陸の1943年年5月12日から始まって、玉碎前日の29日で終わっています。18日間の短いものです。

5月29日、最後の日の記述を引用します。

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夜20時、地区隊本部前に集合あり。 

野戰病院も参加す。

最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。

僅かに33年の生命にして、私はまさに死せんとす。
但し何等の遺憾なし。

天皇陛下萬歳。
聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとするところなり。

18時、総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。

私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻妙子よ、さようなら。
どうかまた合う日まで幸福に暮らして下さい。 

美佐江様 やっと4歳になったばかりだが、すくすくと育ってくれ。

睦子様 貴女は今年2月生まれたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。

政様 お大事に。 

こーちゃん、すけちゃん、まさちゃん、みっちゃん、さようなら。

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辰口氏は、軍医ですから、おそらくは山崎中将と、最後までご一緒だったものと思います。

アッツ島の日本兵


おわかりいただけますか?

亡くなられた方々は、おひとりおひとりが、私たちと同じ、息をしている人間だったのです。

瀬島竜三氏の「日本の証言」という本があります。

この本の中に、アッツ島玉砕を、陛下に奏上したときの模様が描かれています。

引用します。

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アッツ島部隊は非常によく戦いました。

アメリカの戦史に「突撃の壮烈さに唖然とし、戦慄して為す術が無かった」と記されたほどです。

それでも、やはり多勢に無勢で、5月29日の夜中に、山崎部隊長から参謀総長あてに、次のような電報が届きました。

「こういうふうに戦闘をやりましたが、衆寡敵せず、明日払暁を期して、全軍総攻撃をいたします。
アッツ島守備の任務を果たしえなかったことをお詫びをいたします。
武官将兵の遺族に対しては、、特別のご配慮をお願いします」

その悲痛な電報は、「この電報発電と共に、一切の無電機を破壊をいたします」と、結ばれていました。

当時、アッツ島と大本営は無線でつながれていたのですが、全軍総攻撃ののちに敵に無線機が奪われてはならないと破壊し、アッツ島の部隊は玉砕したわけです。

この種の電報の配布第一号は天皇です。
第二号が参謀総長、
第三号が陸軍大臣となっていまして、宮中にも各上司の方には全部配布いたしました。

そして、翌日九時に、参謀総長・杉山元帥が、このことを拝謁して秦上しようということになりまして、私は夜通しで上秦文の起案をし、御下問奉答資料もつくって、参謀総長のお供をして、参内いたしました。

私どもスタッフは、陛下のお部屋には入らず、近くの別の部屋に待機するわけです。

それで杉山元帥は、アッツ島に関する奏上を終わらせて、私が待機している部屋をご存じですから、「瀬島、終わったから帰ろう」と、こうおっしゃる。

参謀総長と一緒に車に乗るときは、参謀総長は右側の奥に、私は左側の手前に乗ることになっていました。
この車は、運転手とのあいだは、厚いガラスで仕切られていました。

この車に参謀総長と一緒に乗り、坂下門を出たあたりで、手帳と鉛筆を取り出して、
「今日の御下問のお言葉は、どういうお言葉がありましたか。どうお答えになりましたか。」
ということを聞いて、それをメモして、役所へ帰ってから記録として整理するということになっていました。

車の中で何度もお声をかけたのですが、元帥はこちらのほうを向いてくれません。
車の窓から、ずっと右の方ばかりを見ておられるのです。
右のほう、つまり二重橋の方向ばっかり見ておられるわけです。

それでも、その日の御下問のお言葉と参謀総長のお答えを伺うことが私の任務ですから、
「閣下、本日の奏上はいかがでありましたか」と、重ねてお伺いしました。

そうしたら、杉山元帥は、ようやくこちらのほうに顔を向けられて、

「瀬島、役所に帰ったら、すぐにアッツ島の部隊長に電報を打て」と、いきなりそう言われた。

それを聞いて、アッツ島守備隊は、無線機を壊して突撃してしまったということが、すぐ頭に浮かんで、

「閣下、電報を打ちましても、残念ながらもう通じません」と、お答えした。

そうしたら、元帥は、「たしかに、その通りだ」と、うなずかれ、

「しかし、陛下は、自分に対し『アッツ島部隊は、最後までよく戦った。そういう電報を、杉山、打て』とおっしゃった。だから、瀬島、電報を打て」と、言われた。

その瞬間、ほんとに涙があふれて……。

母親は、事切れた後でも自分の子供の名前を呼び続けるわな。
陛下はそう言うお気持ちなんだなあと、そう思ったら、もう涙が出てね、手帳どころじゃなかったですよ。

それで、役所へ帰ってから、陛下のご沙汰のとおり、

「本日参内して奏上いたしたところ、天皇陛下におかせられては、アッツ島部隊は最後までよく戦ったとのご沙汰があった。右謹んで伝達する」

という電報を起案して、それを暗号に組んでも、もう暗号書は焼いてないんですが、船橋の無線台からアッツ島のある北太平洋に向けて、電波を送りました。

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みんな、血も涙もある人だったんです。
ボクにはね、「死人に口なし」みたいな考え方は、到底許せないんだ。

いま、これを書きながら、ねずきちは、涙でボロボロです。

そうやって戦い、死んでいった英霊に、恥ずかしくない日本を残すことが、いま、我々が生きている現代の日本人に課せられた使命ではないかと、ねずきちは思うのです。

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アッツ島血戦勇士顕彰国民歌

北条時宗と元寇

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元寇
元寇


東北地方の山間部に、「モッコ」という言葉があります。

「モッコ」というのは、ふるくから“この世の中で一番怖いもの”とされるもので、「何だかわからないけれども、とにかく一番怖いものなの」なのだそうです。

その「モッコ」は、じつはモーコ(蒙古)のことだといわれています。

元寇の恐怖が、東北の山の中で、いまでもこのような形で語り継がれている。

それほどまでに蒙古襲来は、鎌倉時代の恐怖のできごとだったわけです。

1268年、高麗の使いによってフビライの書簡が九州の太宰府にもたらされました。
ちなみにこの書簡をフビライが書いたのは1266年。その書簡が高麗を経由して、ようやく太宰府に届くまで、なんと2年を経由しています。どこで書簡が停滞していたかというと、高麗です。

当時高麗は元の属国だった。蒙古と日本が戦争になると高麗は兵員や食糧を負担しなければならない。事大主義でああでもないこうでもないと、高麗の国内であれこれ議論やっている間に、2年が経っちゃった。

さてその書簡が、いよいよ大宰府にもたらされます。
当時の太宰府は、中国・朝鮮をはじめとするアジアに向けられた日本の玄関だった。

太宰府はこの書簡に驚き、幕府をとおして朝廷に書簡を届けます。
朝廷も、書簡を見てびっくり。連日会議を重ねたあげく、諸国の大きな寺や神社に蒙古が来ないよう、来ても勝つようにと加持祈祷祈を命じます。
いまでいったら、憲法9条論者に命じ戦争・放棄経を読むように命じたというところでしょうか。

他方、鎌倉幕府にも、蒙古襲来そなえよと命じます。
つまり自衛隊にミサイルに備えよ、と命じた。
これも、命じただけです。この時点で具体策はなにもない。

蒙古の書簡が到着からわずか6日後、北条時宗は、若干18歳にして幕府の頂点、執権の座につきます。

幕府も当初は朝廷と同様だったのでしょう。鳩首会議をするけれど、主戦派、穏健派に分かれ、容易に結論がでない。

時宗もこの時点では、執権に就任したばかり。周囲の声もかしましかったのでしょう。なんの手も打たずに放置した。

しびれをきらしたフビライは、何度か高麗に命じて使者を日本に派遣します。

ところが高麗は、天候が悪いの、海が荒れたのと理屈をつけて途中で帰ってしまったり、日本に蒙古と通交するようにすすめたりと、まるでらちがあかない。

業をにやしたフビライは、4度目(日本には2度目)の使者としてシナ人の趙良弼に命じ、日本に赴かせ、日本との交渉を前にすすめます。蒙古にしてみれば、高麗は属国といっても、なんの信頼に足る国ではなかったのでしょうね。

同時にフビライは、6千人の兵を高麗に送り、日本との戦いに備えます。
高麗はそのために土地や人や農耕のための牛を出さなければならず、人々は草や木を食べて飢えをしのいだと記録に残っているとか。
わずか6千人の兵の駐屯で、そこまで飢えるとは、当時の高麗の国力や、推して知るべしです。

太宰府に着いた趙良弼たちは「天皇や将軍に会わせないならこの首を取れ」とまで言います。

ところが、今回も返事はない。

4ヶ月滞在した趙良弼はいったん高麗に戻りますが、再び日本にやってきて一年間日本に滞在します。

この滞在は、戦争準備のための日本の国力調査のためだったといわれています。
趙良弼の報告を聞いたフビライは「大変よくできている」とほめています。

最初の使いから6年後である1274年1月。

フビライは高麗に対して日本遠征のための造船を命令します。

高麗はそのための人夫3万5千人と食糧・材料の木材を出すことになります。
労働者として使われたり食料を出さなくてはならない庶民の生活は苦しくなり、飢えて死ぬ人も多くいたという記録もあるそうです。

それでも高麗は、わずか10ヶ月の間に大型船300艘、中型船300艘、給水用の小型船300艘、あわせて900艘の船を作りました。

最近でも、韓国が請け負った橋梁工事で、その橋が落ちたとか、できあがった高層ビルが傾いたとか、韓国製品の粗雑さは有名ですが、このことは当時もいまもかわらない。

高麗は、船を作るのにあたり、頑丈な中国式ではなく、簡単な高麗式の船を作った。


1274年10月3日、中国兵6,000人、高麗兵24,000人、合計3万の兵を乗せた船が、高麗の合浦を出発します。

10月5日には対馬、14日には壱岐を襲います。島民の数は、当時おそらく数千人。
いきなり襲ってきた3万の兵にかなうはずもありません。

対馬・壱岐の人々は殺され、生き残った人は手に穴をあけられ、そこをひもで通して船のへりに鎖のように結ばれたといいます。
戦前の通州事件や、尼港事件、終戦直後の半島人やシナ人の残虐さを考えれば、壱岐対馬の方々の惨状は、想像するだに恐ろしい。


中国・朝鮮の連合軍は、19日に博多湾に集結します。
そして10月20日、連合軍は、筥崎・赤坂・麁原・百道原・今津あたりに上陸を開始します。

当時の日本の武士たちは、ほぼ全員が兼業農家です。

それまでの日本の国内のいくさというものは、おおむね次のようなものだった。

農家の長男坊が、いざ鎌倉の掛け声で、馳せ参じる。家の人は心配だから長男坊に、小者4〜5人をつけて出征させます。
おおむね、馬上の者が武士。その周囲には4〜5人の小者。

そしていくさがはじまると、双方の陣地から腕自慢の者が前に出て、
「やぁやぁ我こそは○○県○○村の○×△太郎と申すもの。腕に自慢のあるもの、おであえそうらえ」とやる。

そうすると、敵の陣地からも、同じく腕自慢の男があらわれて、
「我こそは□□村の◇◇と申すもの。いざや尋常に勝負、勝負〜〜」と名乗りをあげ、互いに一騎討ちをやる。

小者を含めた全軍が見守る前での勝負です。いまでいったら、K−1や、ボクシングの試合みたいなもので、ギャラリーとなる観客(この場合は戦いの場にいる武士や小者たち)にとって、名だたる武士の一騎討ちなんてのは、当時としては最高のスポーツ観戦だった。双方、全軍あげて、応援する。

なんどかそうした試合が行われると、双方のギャラリー(兵士たち)の興奮も最高潮に達し、小者たちが、敵陣に向けて、石投げをはじめる。

ちなみに日本の鎧かぶとは、弓矢は通すし、槍や刀も、突かれたら、刺さってしまう。
でも、考えてみてください。兜をみても、よろいを見ても、投石は、よく防ぐ仕様です。

そうした個人試合と、投石にはじまって、大将首をあげたら、それで終わりという日本式いくさ法に対し、シナと高麗の連合軍は、長年の奴隷を使った集団戦法です。

日本の武士が前に出て行って、「やぁやぁ我こそは」とやると、いきなり矢が飛んでくる。

凝り性の日本人は、弓も矢も、凝りに凝って作りますから、なにせ弓も矢も、値段が高い。当然、弓矢を持つのも武士だけです。名入りの高級品です。当然、敵の雑兵に向けて弓を射るなんてもったいない。雑兵相手には、小石で充分。なにせ小石なら、地面にいくらでもある。

これに対し、集団戦術の蒙古隊は、粗製の矢を雨のように射かけてくる。名乗りをあげるなんてのもありゃしません。

こりゃたまらんと、とりあえず、引きに引いて遠巻きにするくらいしかなすすべがない。

ところが一夜明けると、シナ・高麗の連合軍の船が一艘もない。
湾内を埋め尽くしていた船が一艘も見あたらない。

一説によると、この第一回蒙古襲来(文永の役)は、大暴風がやってきて多くの船が沈んだというけれど、日本側の記録である八幡愚童記などを見ても、嵐のことは一行も触れていない。そればかりか「朝になったら敵船も敵兵もきれいさっぱり見あたらなくなったので驚いた」と書いてある。

どうやら、文永の役では、嵐が来た(神風が吹いた)のではなく、そもそもが様子見に来寇したシナ・高麗連合軍が、無抵抗だった壱岐対馬と異なり、意外に日本側が武器を持って戦いに臨んだので、驚いて帰っちゃった。。。というのが真相のようです。

高麗の歴史書である「東国通鑑」には、夜半に大風雨があったこと、多くの船が海岸のがけや岩にあたって傷んだと書かれているけれど、これはどうやら、いがいな抵抗を受けて逃げ帰ったシナ・高麗連合軍が、本国である元に報告する際に、記録を捏造したというのが、最近の通説になっています。
なんと、かれらの捏造史観は、いまにはじまったことではない!


これに対し、ほんとうに神風が吹いたのが、文永の役の7年後に起った1281年の弘安の役です。

この7年の間に、幕府の執権、北条時宗は悩みに悩み、尊敬する日本に禅宗を伝えた宋のお坊主、蘭渓道隆からも、

「宋は蒙古を軽く見て、だらだらと交渉している間に侵略され、国をなくしてしまった」と教わり、

また蘭渓道隆の後継者である無学祖元からは

「莫煩悩(ばくぼんのう)」=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいの意

を教わり、武家の棟梁として、日本を守るために断固戦う決意を固めます。

北条時宗
北条時宗


そして北条時宗は、敵が世界を手中に収める大元帝国であろうと、座して死を待つより、いさぎよく戦って死のう、と決意する。

文永の役の翌1275年4月15日、元は、杜世忠を正使として、日本に降伏を迫る書簡を解けどます。

文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的で早々に撤退したけれど、こんどはもっとたくさんの軍隊を送るよ。言うことを聞くなら今のうちだよ」というわけです。

しかし。「国を守る」。そう覚悟を決めていた北条時宗は、竜の口で、杜世忠一行5名を、全員を処刑。見せしめとして首はさらしました。いまでいう打ち首獄門さらし首です。
時宗は、これによって、日本の国内世論を、開戦やむなしに固めたのだといいます。

ところが、全員殺してしまったので、肝心の元の側は、使者が死んだとは知らない。
いつまでたっても杜世忠が帰ってこないので、元は翌1279年6月に、周福を正使とする一行を、再度日本に送り込みます。

ちなみに杜世忠も周福もシナ人です。さしもの元も、この時点ではまるで高麗を信用していなかったということでしょう。

北条時宗は、この周福一行も、博多で斬り捨てる。

杜世忠と周福が首を刎ねられたことを知った元は、怒りまくります。
「日本をうつべし」
元の腹は固まります。

一方、北条時宗は、全国の御家人に命じて、博多に防塁を築きます。この工事への参加には、時宗は一切の反論を認めなかったし、各藩の御家人たちも、国を守るためにと、幕府の命に従った。

そして、1281年(弘安4年)、元は、范文虎を総大将とする14万の大軍を博多に差し向けます。

これに対する日本の武士団は、小者の数まで入れて6万5千人。武士だけなら、おそらく1万の軍勢です。
なんと武装兵力でいえば、14倍の大軍を相手に日本の武士たちは戦いを挑むことになった。

日本の武士たちは、夜陰にまぎれ、敵船に乗りこんで火をつけたり、敵兵の首を取るなどゲリラ戦を用いて果敢に戦います。
一方、元軍は、あらかじめ日本軍が用意した防塁に阻まれて、侵攻ができない。

戦線は膠着状態となります。

そうして運命の7月1日がやってくる。

旧暦の7月1日は、いまでいう8月16日です。

この日、北九州方面を、大暴風雨が襲った。

港をうめつくしていた4千艘の船は、台風のまえに、ひとたまりもなく破壊されます。なんといっても船は手抜きの高麗製。どうにもならない。


翌2日、船の残骸と無数の死体が海をうめつくした。

当時を記した「八幡愚童記」は、このときの様子を
「死人多く重なりて、島を作るに相似たり」と記しています。

「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死す。屍、潮汐にしたがって浦に入る。浦これがためにふさがり、踏み行くを得たり」と書き残しています。
つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができた。

同史によれば、生存兵19,379名。
士官や将官などの上級軍人の死亡率7〜8割、一般兵士の死亡は8〜9割だった。


すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げます。
港には、置き去りにされた元の兵士が多数残った。

これを見た日本軍はたちまち生き残りの元軍兵士におそいかかります。
戦闘は7月7日まで続いた。
捕虜となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録後、ことごとく首をはねたと記録されています。残虐な殺し方はしない。いっきに首を刎ねている。

殺害したことに抵抗のある人もいるかもしれないが、壱岐対馬での彼らの残虐行為を考えれば、当時の日本軍のやり方は、紳士的にすぎるといっていい。

今でも博多周辺には蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っているけれど、これらは当時元軍兵士の首を埋めた場所でもあります。遺体は、日本はちゃんと供養までしている。この供養に行われたのが”踊り念仏”です。

こののち、鎌倉幕府は、弘安の役に対する御家人への恩賞が不十分だった・・・外国からの防衛戦だったために、恩賞を与える土地がない・・・ことから、教科書によっては、
「鎌倉幕府は、外国からの侵略は防げたが、御家人の生活を守れなかった。このため鎌倉幕府は御家人たちの不満が募り、滅亡した」などと書いています。

アホか!といいたい。戦後左翼の思考はそんな程度か!
もし日本が元に侵略されていたら、その後の日本はなくなっている。

それに鎌倉幕府の滅亡は、1333年です。弘安の役の52年後です。そして幕府は源家から足利家に移るけれど、その後1868年の明治政府樹立まで、日本は長い武家政治の時代が続きます。なるほど鎌倉幕府は滅んだけど、日本の国体が解体されたわけではない。征夷代将軍が、交替しただけで、武家政治は、その後500年続く。

つまり、武家を施政者として認める風潮が我が国に定着した。
いいかえれば、元寇によって、世間で、武家の信用が増したといえるのです。

文永の役と弘安の役、この2つの日本史上の大事件、そしてわずか1万の武家で14万の大軍と対峙したという事実は、東北地方の「モッコ」の怖さの伝説同様、武家というものが、国を守る誇り高き志士たちであるという認識を深く日本人の心に刻んだ事件だったのです。


最後にね、蒙古のフビライが日本に送ってきた書簡(文永の役の前のもの)の口語訳を掲載しますので、是非、一読してみてください。

-------------------------------------
大蒙古国・国書

天に守られている大蒙古国の皇帝から日本国王にこの手紙を送る。

昔から国境が接している隣国同士は、たとえ小国であっても貿易や人の行きなど、互いに仲良くすることに努めてきた。

まして大蒙古皇帝は天からの命によって大領土を支配してきたものであり、はるか遠方の国々も代々の皇帝を恐れうやまって家来になっている。

例えば私が皇帝になってからも、高麗が蒙古に降伏して家来の国となり、私と王は父子の関係のようになり喜ばしいこととなった。

高麗は私の東の領土である。

しかし日本は、昔から高麗と仲良くし、中国とも貿易していたにもかかわらず、一通の手紙を大蒙古皇帝に出すでもなく、国交をもとうとしないのはどういうわけか?

日本が我々のことを知らないとすると困ったことなので、特に使いを送りこの国書を通じて私の気持ちを伝える。

これから日本と大蒙古国とは、国と国の交わりをして仲良くしていこうではないか。

我々は全ての国を一つの家と考えている。

日本も我々を父と思うことである。

このことが分からないと軍を送ることになるが、それは我々の好むところではない。

日本国王はこの気持ちを良く良く考えて返事をしてほしい。

至元3年8月(1266年・文永3年)
-------------------------------------

わかりますか?

相互に仲良くしようといい、一通の国書をも送らないとささいなことでケチをつけ、すべてをひとつの国であるなどと調子のいいことをいい、シナを父と思えと都合のいいことまで云いながら、その一方で言うことを聞かないのなら軍を送るぞと、脅かしている。

これって、いまのシナの対日外交姿勢と似ていると思いませんか?

日本は戦いました。元を強大な国家と知って戦った。

そのおかげで、いまのわれわれがいる。
先の大戦と同じです。
当時の人は、何十倍もの兵力を持つ相手と、必死になって戦った。

それとね、もうひとつ。

文永の役では、実は神風は吹かず、弘安の役で神風が吹いたと書いたけど、上の文にいちばんたいせつなことを加えます。

当時、ただ動揺するだけの朝廷や、幕府の閣僚に対し、北条時宗は元の使者を切り捨てることで、明確に「戦う意思」を示した。

おそらくは当時の多くの「護憲・9条派」から、反対と怨嗟の声を浴びたと思う。

だけど北条時宗は、断固として「戦う意思」を示した。

これに多くの武士たちが賛同し、弘安の役の備えをした。

ぼくはね、元寇における真の「神風」は、台風ではなく“北条時宗の決断”そのものだったのではないかと思っています。時宗そのものが「神風」だったのかもしれない。

そしてその決断に、日本の八百万の神々が、台風をもって答えてくれた。

そしてたぶん、いまの日本に一番必要なのは、北条時宗なのではないか。

ちなみに元も、高麗も、元寇のあと、内乱に次ぐ内乱が起こり、元は明に滅ぼされ、高麗は李氏朝鮮に統治が変わり、とりわけ李氏朝鮮は、国民にとっての収奪国家としてその後の半島の発展を400年間にわたって失わせています。

日本に手を出した国は必ず滅びるのです。

弘安の役で、もし日本が戦うことをしなかったなら、元の大軍は、易々と上陸を果たしていたことでしょう。

そして上陸していたならば、彼らは台風で軍団が壊滅することもなかった。

明確に戦う意思を示した北条時宗の英断と、命を的に戦いぬいた鎌倉武士たちの活躍がなければ、その後の日本の歴史は大きく変わっていた。そのことは、誰でもが理解できることだろうと思います。

日本を守ってくれた北条時宗、そして鎌倉武士団に、わたしたちは深く感謝すべきだと思うのです。

同様に、先の大戦で亡くなられた多くの日本の将兵のみなさんも同じです。
国を守るために必死になって戦った。

施政者は、その苦しい戦いに大決断を下した。

その彼らに対し、わたしたち現代に生きる日本人は、やはり、深い感謝と哀悼をささげなければならないと思うのです。

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玉砕してまで戦った理由

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アッツ島に残された日本軍守備隊の写真
アッツ島


先の大戦では、多くの戦場で日本の将兵が「玉砕」の道を選びました。

「敵は幾萬」とい軍歌には、
----------------------------
敗れて逃ぐるは國の恥
 進みて死ぬるは身のほまれ
瓦となりて殘るより
 玉となりつつ砕けよや
畳の上にて死ぬ事は
 武士のなすべき道ならず
----------------------------

という歌詞があります。
この歌は1886年(明治19年)の歌です。

この歌詞にあるように、玉砕は武士道の一端という見方もあります。

東条英機氏の戦陣訓には「生きて虜囚の辱めを受くることなかれ」とあることから、日本の将兵は、敵兵の捕虜となることもできずに、貴重な人命を犠牲にされた、というように書く人もいます。

そして勝てる見込みも、救済できる見込みも、敵に大きな兵力的損害を与える見込みもない中で、大勢の味方の人命が確実に喪失する玉砕戦は、しばし、大本営や日本軍の人命軽視の象徴のようにいわれることが多い。

大東亜戦争における玉砕戦には、以下のようなものがあります。

おいおい、ひとつひとつの戦いの検証もしていきたいと思いますが、どれも悲しい戦いであったことは事実です。

1943年5月29日:アッツ島守備隊玉砕
1943年11月22日:ギルバート諸島マキン・タラワ守備隊玉砕
1944年2月5日:マーシャル諸島クェゼリン環礁守備隊玉砕
1944年2月23日:マーシャル諸島ブラウン環礁守備隊玉砕
1944年7月3日:ビアク島守備隊玉砕
1944年7月7日:サイパン島守備隊玉砕
1944年8月3日:テニアン島守備隊玉砕
1944年8月11日:グァム守備隊玉砕
1944年9月7日:拉孟守備隊玉砕
1944年9月13日:騰越守備隊玉砕
1944年9月19日:アンガウル島守備隊玉砕
1944年11月24日:ペリリュー島守備隊玉砕
1945年3月17日:硫黄島守備隊玉砕
1945年6月23日:沖縄守備隊玉砕(指揮官の自決により組織的戦闘終了)

このほか、はじめから死ぬことを前提に出撃する特攻や、単騎出撃した戦艦大和の例もある。本土決戦、一億総玉砕といった言葉もある。

しかし本当にそうなのでしょうか。
日本の将兵は、ただ命令があったから、ただ命を軽視されたから玉砕したのでしょうか。
ただ戦陣訓に書かれていたから、それで命を捧げたのでしょうか。

そんな簡単に死ねる?
ぼくにはどうにも、納得ができないのです。

もし、あなた自身が、徴兵され、戦地にいたとして、意味もわからず上官から玉砕せよ!と命令されたら死にますか?

指示・命令だけで死にますか?

会社の社訓に「恥ずかしめをうけないようにしなさい」と書かれていたら死にますか?

日本人の心というものは、いまも昔も、変わりはありません。

死ね、といわれて「はい、そうですか」と簡単に死ねるほど、人は簡単な生き物じゃない。
生に対する執着は、いまもむかしもかわりなどありません。

あなたは死を選ぶかもしれない。では、あなたの周りの同僚の方々はいかがですか?

人間、そんなに簡単に、命令だからといって死ねるものではないです。

上官の命令だから「やむなく」従っただけというのなら、その上官が死んだら、自分はさっさと降伏し、戦いを放棄して逃げ出す。それが人間というものの普通の行動です。

実際大陸での昔の戦争や、シナ兵などの行状をみると、背中から銃を突きつけられてやむなく戦わされていた徴用兵(一般市民から徴用された者)は、戦線の敗色濃厚となったとき、クモの子を散らすように逃げ出した。それどころか、敗色濃厚になったら、真っ先に逃げたのは、後ろから銃を突き付けていた兵士たちです。

上に記した各玉砕戦でも、米軍は日本語で、再三、投降を呼び掛けています。

戦後の学者やマスコミは、日本の兵士は、指示や命令で玉砕を余儀なくされた、と説くけれど、そんなことは、はっきり申し上げて不可能です。

可能だとおっしゃるなら、あなたが、部下に「いますぐに車の前に飛び出して死んでこい」と命令してみてください。

あるいは、あなた自身が、上司からそう命令されたとして、即座に「はぁい♪」と命令を聞きいれ、車に跳ねられて死ぬことができますか?

「平時と戦時は違うよ」という人がいるかもしれない。

戦時だから死を選んだ?

ならば戦地ならあなたは上官も指揮官もいなくなったあとで、突撃しますか?
そこにいる全員が、死を選びますか?

諸外国の兵士たちは、戦局不利が明白になったとき、わりと簡単に投降しています。

では、日本兵だけが特殊だったのですか?

いまこれを読んでいるあなたも日本人です。ではあなたは、上司の命令とあれば、死を選びますか? その上司がいなくなったあとも、ひとりのこって戦って死ぬことを選びますか?

人間、そうそう簡単に死ねるものではないです。

玉砕戦というのは、日本だけのものではありません。

守備側が降伏を拒否し、全滅するまで戦ったものとしては、

テルモピュライの戦いでのスパルタ軍の全滅。
マサダ砦でのユダヤ人の全滅。
アラモの戦いでのテクシャン反乱軍の全滅など、海外にもいちぶその例はあります。

しかし先の大戦のように、日本軍の守備隊が、ことごとく玉砕戦を戦い抜いたという例は、世界史に例をみません。

なぜでしょう。
どうして日本兵は、そこまでして最後の一兵まで戦い抜いたのでしょう。

ひとつには、捕虜となったときの敵の残虐さへの恐怖があった・・・これも事実でしょう。

ご紹介した通州事件や、尼港事件など、敵の残虐さは枚挙にいとまがない。

でもね、愛する人、愛する家族や、恋人、友のいる祖国をね、守るために自分たちがそこにいて、守備隊をしていて、ここで一日でもいいから敵をくぎ付けにしたら、もしかしたら愛する人の命を、ほんのいちにちでもひきのばすことができる、そう思ったら、あなたは戦いませんか?

自分は、ここで死ぬかもしれない。でも、ここでいちにちでも長く敵をくぎ付けにしたら、愛する人がいちにちでもながく生きられるかもしれない。

自分たちが最後の一兵まで戦い抜くことで、日本畏るべし、という印象を敵に与えることができたら、なんとか早期に講和して、愛する人の命を守ることができるかもしれない。

上官の命令なんかじゃないです。

上官に指示されたから死ぬんじゃないです。

戦陣訓なんて関係ないです。

日本の兵士たちは、ひとりひとりが強烈にその思い・・・愛する人を守りたい、愛する人のいる祖国を守りたいという思いがあったから、みんなが死ねた。

日本の将兵は、そのために玉砕戦を戦い抜いた。

補給もない、食べるものも、飲み水さえもない中で、命を懸けて戦った。

それは、祖国にいて生き残る者たちのためであり、未来のわたしたちのため。

そのために、日本の軍人は、ひとりひとりが最後の一兵まで戦い、散って行かれた。そういうことなのだと、ボクは強く言いたいのです。

戦後を生きている私たちの命は、そうやって散って行かれた200万の英霊に守られた。

そして私たちに託された未来は、人々が平和であかるく、そして誇り高く生きることなのだと思います。

そのことを、わたしたちは、いまいちど胸に手を当てて、しっかりと考えてみなければならないときにきているのではないでしょうか。

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Author:ねずきち
日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

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5月6日付のこのブログ「外国人による凶悪犯罪が日本人の生活を脅かしている」という記事において“大阪のおっさん”と称する人から、連続した投稿がなされました。
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調査しましたところ、それらコメント投稿には、IPアドレスにすべて同一の末尾が“eonet.ne.jp”というIPが用いられていることが判明しました。
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たとえばひとつの事務所に複数台のパソコンが設置してある場合でも、ひとつのモデムから複数台のパソコンを接続しているならIPアドレスは同一のものとなります。
従いまして、ネットカフェのように多数のパソコンを設置しているところでも、IPアドレスは同一のものとなります。
ところが、大阪のおっさんさんから投稿されたIPアドレスは、いずれもIPアドレスが異なっており、しかも末尾は決まって“eonet.ne.jp”となっています。
このことは、次のいずれかの場合に起こることといえます。
 ‖膾紊里っさんなる人物が複数いる(組織的活動である)
◆。稗丱▲疋譽垢鯊真使い分けれる環境にあり、しかもそのPCはすべて“eonet.ne.jp”を使用している。
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121.80.35.80.eonet.ne.jp
59.190.75.28.eonet.ne.jp
59.190.97.23.eonet.ne.jp
121.80.34.144.eonet.ne.jp
121.80.27.166.eonet.ne.jp
121.80.33.57.eonet.ne.jp
121.80.14.1.eonet.ne.jp
59.190.103.81.eonet.ne.jp
59.190.71.32.eonet.ne.jp
121.80.16.134.eonet.ne.jp
121.82.192.42.eonet.ne.jp
ごらんいただいてわかります通り、彼の14件の投稿は、すべて異なるIPを使用しており、それらすべての投稿はすべて“eonet.ne.jp”を経由していることがわかります。
なかでも、大阪のおっさんからの5月7日の投稿は、投稿時間が22:16と、22:24と2件が連続された投稿でありながら、それぞれのIPアドレスは別々であり、しかも末尾は同じ “eonet.ne.jp”です。
この“eonet.ne.jp”をネットで検索しみますと、このアドレスについて、2ちゃんねるで、「無意味な文字列の連続投稿(連続コピペ)による2ちゃんねるに対する迷惑行為」が発生しており、このため2ちゃんねるでは、このIPからのアクセスを全面的に禁止処分にしていることがわかりました。
参考:http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2ch/1076733717/l50
本ブログに投稿されたすべてのコメントを精査しましたが、末尾“eonet.ne.jp”のIPは、他のコメントには見当たりませんでした。
そこで当ブログにおいても、2ちゃんねる同様、“eonet.ne.jp”からのアクセス、ならに閲覧を全面的に遮断することにしましたので、あしからずご了承ください。
なお、問題のあった記事につきましては、なななさん、四姉妹(ししまい)でおしまいさん等から、中立(?)ともとれる内容の投稿がなされていますが、この2件も、やはり末尾が“eonet.ne.jp”経由の投稿です
もしかしたら大阪のおっさんさんとは、関わりのない方かもしれませんが、多くの方が訪れるこのブログの健全性を保つためのやむをえない手段ですので、何とぞご了承いただきたいと存じます。

ねずきち 拝
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