日本に手を出した国は必ず滅びる・・・それが歴史の事実です。 日本は相互信頼主義を根本とする国です。 命をかけて戦った先人たちの努力を見直し、日本の素晴らしさを再認識して、階級闘争主義の汚染から日本を守ろう。

小沢一郎は日本国の敵である

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西村眞悟先生


正論3月号に、敬愛する前衆議院議員西村眞悟先生の記事が掲載されました。

「まったくもってその通り!」と思いますので、転載します。

なお、転載にあたりましては、正論のご許可もいただいています。

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「日本に仇なす無道の人に告ぐ」

(前略)
本文において述べたように、私は今まで幾度も小沢氏を誰何してきた。
一体貴殿は何者なのかと。

貴殿の推進する外国人の参政権付与は、一体何処の為になるのかと。

さらに、同人の昨年末の中国・韓国訪問と帰国後の記者会見や党大会における言動を踏まえて、この思想戦に勝ち、誇りある日本を再興するために、ここで明確にお伝えする。

中国共産党が歓迎した民主党幹事長小沢一郎は、日本国の敵である。

【WEB正論】
http://www.sankei.co.jp/seiron/
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まったくもって同感です。

以下は、この文章をもとに、日心会MLに投稿された所感です。

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小沢とその一派及び民主党は「売国政党」であると以前より指摘はしておりましたが、保守の重鎮の一人からこのように明確な意志表示がなされた事はきわめて重大だと思います。

小沢一郎が日本国の敵ならば、日本を護るためには、御皇室を護るためには 彼らから権力を奪う以外に日本が生き残る道はないとい。

ほとんどの日本人が気づかないうちに、いよいよ日本の正念場が近づいています。

戦争に負けて「戦争の悲惨さ」を大いに学んだ日本人です。
しかし、共産主義独裁国家に蹂躙された国が、国民が、どういう目に遭うのか「一度属国になってみないと分からない」などと相変わらず能天気にいうのなら、それはあまりにも無知・無能です。

自分たちは散々自由主義の恩恵にあずかっておきながら、子供に孫に「共産主義で我慢しろ」というのですか?

自分の妻や夫や子供や孫に、中国共産党が自国民やチベット、ウイグル、東トルキスタンでした事と同じことをされるのを指を咥えて見ているわけにはいかないのです。

私は絶対にイヤです。
中国や韓国のいいなりになるつもりは毛頭ありません!

私はもう50歳も過ぎました。必要とあらば妻と子供のためならいつでもこの命捧げます。
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西村眞悟先生は、ご自身のホームページにも、2月4日、以下のように書いておいでです。

先生は、保守は「愛である」と説かれます。
名文だと思います。

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「原点・愛国心、祖国への愛が日本を守り救う」
http://www.n-shingo.com/cgibin/msgboard/msgboard.cgi?page=487

政治も、教育も、経済も、経営も、祖国への愛が根底になければならない。
それがなければ、無力だ。

二月二日の日比谷公会堂の「頑張れ日本!日本解体阻止!外国人参政権阻止!全国総決起集会」のことを書いたが、そこに参集した三千名を越える方々が訴えたものは、つまり、
「祖国への愛」であった。

この単純で明快な心的事実をお伝えするために、昨日に続きここに入力している。

二月二日に集まられた方々、即ち同志は、この「祖国への愛」の故に、国家の危機を感じ、自分も祖国に対して何かをしなければならないという思いで集まられたのである。


では、その危機とは何か。


それは、戦後体制の極まった果てにこの一年で我が国の中枢部に顕著に表れてきた外国勢力に迎合した日本解体の動き、つまり、


 「祖国への裏切り」である。

考えてみれば、民衆が如何に祖国を忘れようとも、政治の中枢にあるものは祖国に忠誠を誓わなければならない。
また教育者として日々子供たちに接する者は、祖国への愛を子供たちに伝えねばならない。
また、自国の若者に、職場を提供できなくなった経営者は、如何に会社が世界的大企業であっても、自国の経済界の代表となってはならない。
経営者は、外国に存立の足場を置けば、お得意様である外国のために働かざるを得ないからである。

しかし、現在の我が国は、政界、教育界、経済界において全てこの正反対の現象が起きている。

即ち、具体的に言えば、

政治の中枢にある者は、中国共産党に迎合して、韓国で祖国を侮辱している。

教育者は、日本が中国や朝鮮に悪いことをした国だと日々子供たちに教えている。

経営者の代表は、中国の統計に幻惑されて中国で儲けさせてもらえると迎合し、常に中国寄りの発言をして国政に影響を与えようとしてきた。特に、車を中国で売っている会社。


そして、これらの各界の者達は、

   靖国神社に参拝しない。


我が国では政界、教育界、財界で「偉くなれば」、中国様に気兼ねして靖国神社に参拝しないのだ。

つまり、各界の中枢部が、祖国よりも外国に迎合する者達で占められている。
そもそも外国に迎合する者でなければ中枢に入れない。
この逆転現象、閉塞状況、これが我が国の危機である。

よって、日本解体阻止、日本再興の道とは、この逆転を解消することに尽きる。
我が国の中枢部に祖国への愛をもった者達を送り込むことである。

その為に、政界の再編はどうしても必要である。

その再編は、祖国への愛をもった保守の新党誕生という起爆剤によって開始される。

今は、その為の圧縮熱を高める時期である。


臥薪嘗胆という言葉がある。

日清戦争後の明治二十八年、我が国はロシア、フランス、ドイツの三国干渉を受け入れて山東半島を清国に返還した。

以後我が国は、この屈辱を忘れずに独立自尊の力をつけるために歯を食いしばった。
この時の合い言葉が、臥薪嘗胆である。
 

今、歴史観において教育において政治において、我が国は三国干渉を遙かに凌駕する干渉を中国共産党から受けている。
その上で、中国共産党は、核ミサイルと海軍力を中心に巨大な軍備拡大に乗り出している。
明らかに、我が国を力で屈服させるためである。

中国は、日本と戦いそして勝つために、軍備を増強している。
つまり、、我が国は顔を背けて見ようとしていないのであるが、中国は、近い将来、我が国と力で対決しようとしているのである。

これ、第二次日清戦争ではないか。中国共産党の国は、清国の版図を引き継いだ帝国である。
その戦争の前段階が、今ある中国共産党の対日内政干渉と位置づけられる。

従って、今が本当の臥薪嘗胆の時と言わねばならない。

ところが、この状況において、こともあろうに、在日中国人に参政権を与えるなど、利敵行為の最たることである。

よって、この状況下において、外国人に参政権を与える為に動く者は、ご承知の通り、一見人権や平等を尊重してみせながら日中友好を装って国民を誘導しているのであるが、
本質は祖国日本を中国共産党に売り渡す中国共産党の走狗、「祖国を裏切る者」である。

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まったく同感です。

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100202頑張れ日本!全国行動委員会結成大会_西村眞悟氏赤池誠章氏


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五族協和を目指した満洲国

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大日本帝国の国旗


上の旗は、大日本帝国の国旗です。
日本国の国旗と大日本帝国の国旗とは丸の大きさと縦横の比率が違います。

すこし、赤丸が大きいです。
個人的には、大日本帝国の国旗の方が、好きな気がします。

さて、この国旗はどこの国の国旗でしょうか。

連合国統治領日本の国旗


実はこれも日本の国旗です。
連合国統治領日本の国旗でした。
二度とこんな国旗は掲げたくないものです。

次の国旗は、どこの国のものでしょう。

満洲国国旗


実はこれ、満洲国の国旗です。

黄色い広い部分があり、左上に四色があります。
「五族協和」をイメージしています。
黄色は満州民族と統一、赤は大和民族と情熱、青は漢民族と青春、白はモンゴル民族と純真、黒は朝鮮民族と決心を表しています。

満州国は、1932年から1945年までのたった13年間、現在の中国東北部に存在した国家です。
かつて、東亜の平和と統合の象徴として築かれた満洲国。
いま、満洲国は地球上に存在しません。

しかし、かつては一つの国家として、まるで奇跡のような素晴らしい建設と発展を遂げた国でした。

満洲について語るとき、多くの歴史教科書や左翼系学者は、昭和6(1931)年の柳条湖事件に端を発した満州事変、これによる帝国陸軍の満洲占領をきっかけとして、昭和7(1932)年の満洲国建国が行われた、と語られることが多いようです。

そういう記述は、実は故意に日本を貶めようとする罠(わな)です。
赤穂浪士の討ち入りを、討入当日だけを切り出して、四十七士が、爺をみんなでよってたかったいじめた物語とするようなものです。

歴史には、常に流れがあるのです。

満洲というのは、もともと、広大な原野の土地です。
そこには、半農半牧の女真族がいて、広大な原野で静かに暮らしていた。
女真人には、顔立ちに特徴があります。
面長で、眉が薄い。
漢人が卵型、朝鮮人がえらが張っているのと同様、女真人にも特有の特徴がありました。

女真人と言うのは、清王朝を興した種族です。
いまから400年近く前、支那の明国の治世が乱れ、国内が内乱状態となります。

そこで多くの漢人たちが、万里の長城を越えて、女真人の土地に流れてきた。
悪さばかりします。
徒党を組み、農地を襲い、家畜を奪い、農場主に暴行を加えた。

やむなく女真族は、ヌルハチが八部族を統一して、明を攻め滅ぼします。
そして漢族の首都である北京に紫禁城を構えて、そこに移り住んだ。

マキャベリの君主論には「統治に従わない国家制するためには、国王がその国に出向いて、直接統治をせよ」というくだりがあります。

17世紀のはじめ、明国を攻めたヌルハチも、その通りの実践をしたのです。
彼は、明を滅ぼすと、みずから北京に移り住み、清国を建国します。

そして学問好きだった清の皇帝が、女真族の聖地である万里の長城以北の地を、文殊菩薩の名前をもじって、マンジュ=満洲と呼んだ。
そして、満洲の地には漢人立ち入るべからずという制度をひきます。
北京に本拠を構える女真族の清王朝にとって、満洲は聖地だったのです。

ところが、清朝末期になって、ロシアが露骨な南下政策を推進してきます。

このまま放置したら、満洲も朝鮮半島も、いずれロシアの植民地にされてしまう。
そうなったら、国力の弱い日本は、あっという間に、ロシアに蹂躙されてしまう。

ロシアに蹂躙されたらどうなるか。
そのことは、日本が大東亜戦争終結のとき、実際に体験しています。
女は死ぬまで強姦され、家族は財産を没収され、抵抗する者は容赦なく殺された。

そういう現実が目の前に迫ったとき、日本の明治政府は、朝鮮王と交渉し、共同してロシアの侵略から両国を守ろうと提言します。

ところが当時の朝鮮は、清の属国です。
みずからの力ではなにひとつ決めることができない。

やむをえず日本は清と交渉するのだけれど、清はなにも手を打つことなく、自国の領土が欧米列強に食い散らかされ、民が奴隷として私財や自由を収奪されるにまかせている。
皇帝以下の王族は、広い支那の大地をいくら食い散らかされても、相変わらずの贅沢暮らしができるかもしれないが、民は不幸です。
家財を没収され、奴隷にされ、男は生涯苦力に、女は生涯なぐさみものにされた。

あげくのはてが、清国政府は、日本に対して余計な口は出すなとばかり、無防備な日本の船舶を攻撃したりしてきた。

欧米列強に下手に手出しをすれば、苛烈な報復が待っています。
ところが、日本は下手に紳士だから、少々軽くあしらっても、話し合いで解決しましょうと言ってくるだけで、直接的な報復はしてこない。

報復がないから、平気で攻撃する。昨今のシーシェパードと同じです。
相手が日本で、日本はやさしくて、なんの報復の心配もないから、徹底的にいたぶり、嘘八百を並べ立てて攻撃する。
同じことを、日本と同様クジラを獲るフィンランドあたりには、絶対に彼らはしません。
なぜか。報復が怖いからです。

弱きを助け、強きをくじくのが正義である、なんてのは、日本の常識、世界の非常識です。
世界は弱肉強食。強い者に対してはどこまでも媚びへつらい、抵抗しな相手には、どこまでも居丈高になる。

ロシアの脅威が迫っているのに、清はなにもしない。
日本は清に、互いに連携し、ロシアの南下に対抗しましょうという。
どうやって対抗するのかといえば、清は国力があるから(当時の清は日本の何十倍もの国力があった)、一緒にロシアと「話し合いで解決しましょう」。いつぞやの反日左翼と同じです。「話し合い」が最終兵器と思っている。

これでは清にすら相手にされません。
大国清の国力を利用して、自らは戦わずにロシアの脅威を防ごうとする。
そんな日本を、清は侮ります。
清は、日本の商船を平気で襲うようになった。
先に書いたシーシェパードと同じです。
軟弱だから襲われる。

これ対し、日本がついに堪忍袋の緒を切らして立ち上がったのが日清戦争です。

日清戦争は、陛下率いる帝国軍人たちの必死の努力で、辛くも勝利します。

そして日清戦争のあとの下関条約(明治28(1895)年)で、日本は清国から「永遠に」遼東半島の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物の割与を受けました。

「永遠に」です。

下関条約に、はっきりとそう書いてある。
このとき割与を受けたところは、他に台湾、澎湖諸島があります。

日本にしてみれば、もともとがロシアの南下(侵略)から日本を守ろうとして始めた戦争です。
台湾はともかく、遼東半島とそこにある旅順港は、日本の対ロシア対策として、どういうカタチであれ、押さえておく必要のある場所です。

このことは、逆にロシアにしてみれば、南下政策にあたってどうしても必要な旅順の港を日本に取られたのは、大失策です。
なぜなら寒国ロシアにとって、太平洋側の足がかり(不凍港)となる旅順はどうしても必要な土地だったからです。

ロシアは、極東に艦隊を派遣して日本に圧力をかけるとともに、ドイツ、フランスと組んで日本の権益に干渉します。
これが、明治28(1895)年の三国干渉です。


三国干渉の際の文言は、概略次のようなものです。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
日本による遼東半島所有は、清国の首都北京を脅かすだけでなく、朝鮮の独立を有名無実にし、極東の平和の妨げとなる。
従って、半島領有の放棄を勧告し誠実な友好の意を表する
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

つまり、「日本の遼東半島を領有」は、北京に対する脅迫で、「朝鮮の独立」を否定するものだという。いいがかりもはなはだしいです。

三国干渉は、こっちが入院加療中であることをよいことにして、イチャモンをつけてきて、2枚のTシャツのうちの1枚をよこせ!と言ってきたようなものですが、国力の乏しい日本は、とてもじゃないが、三国と戦うだけの力はありません。この干渉を受け入れざるをえなかった。

三国干渉を、文字どおりに解釈すれば、ロシア、ドイツ、フランスの三国は、もともと旅順は清の土地なのだから、まー、戦争があったとはいっても、あまりムキにならずに、返してあげなさいよ、と一見好々爺風の勧告に見えます。
その三国の意思が本当なら、旅順は清に返還され、外国がそこを領有することはありえない。

ところが日本が三国干渉を受け入れると、すぐにドイツは、明治30(1897)年には、宣教師殺害を理由に膠州湾を占領した。

フランスは明治32(1899)年に広州湾一帯を租借した。
イギリスは九龍半島・威海衛を租借してしまいます。

租借といえば聞こえはいいが、要するに領土の一部をぶんどって自国の領土にしたのです。

ロシアはどうしかというと、なんと清国の総理李鴻章に50万ルーブル、副総理の張蔭桓に25万ルーブルという大金を渡し、明治29(1896)年には、李鴻章・ロバノフ協定を結び、明治38(1898)年には、遼東半島南端の旅順・大連を租借してしまいます。

つまり、日本が返還したTシャツを、横からさらってしまった。

このあたりのドイツ、フランス、イギリス、ロシアの対応というのは、非常にわかりやすいです。

とくにドイツのように、たったひとりのドイツ人宣教師が殺害されたことで、いっきに領土的野心を全開にして大量の支那人を殺戮(報復)し、膠州湾を占領して、租借してします。

欧米には、こういう呵責な報復主義があって、だから舐められない。
いまだに支那人に恐怖を与え続けている。
香港などは、つい最近までイギリスが統治していたけれど、そのことに支那がいちゃもんをつけたり、香港国内で、イギリス人を殺傷したり、暴動をおこしたり、英国人貴婦人を強姦したりという事件は、まるで発生していません。

苛烈な報復主義の相手と、いくらいじめても我慢する相手。
国際社会にあって日本にないもの。それは、良心を実現したいなら、それなりの武力をもち、言うことを聞くか、さもなければ死か、という二者択一を迫る迫力があるかないかなのかもしれません。

日本人はきれいごとをいうから、まず、暴力は振るわないし、振るっても、ごめんなさいと誤れば、すぐに許してくれる。
だから、日本に対してならいくらでも、平気で悪口を言える。

これが欧米が相手だと、下手なことを言ったら、あとでナニをされるかわかったものではない。必ず報復される。だから何もいわない。いわないごころか、ゴマをする。

もうひとつ大切な教訓は、ロシアが、清の総理や副総理個人に大金を渡して買収したという事実です。
権力を持ったものに大金を渡して懐柔するとともに、いうことを聞かないなら、徹底的に国を荒らして弾圧するぞと軍力を展開する。

三国志で、魏の曹操が、呉の孫権に、魏と提携しよう(属国になれ)と親書を送る一方で、80万の軍勢を赤壁に展開した。
仲良くしようと話を持ちかける一方で、言うことを聞かなければ圧倒的な軍事力で攻め滅ぼすぞと圧力をかける。これが古来外交の要諦です。

これが貨幣経済の発展とともに、さらに複雑になります。
中東の王族といえば、世界の大金持ちとして有名ですが、なぜ彼らが大金持ちなのかといえば、オイル資本が、「石油を安く売ってくれたら、王様に何百億献金しまっせ」とやっている。
それで相場よりはるかに下値で石油を買う。
王様が、個人で金を受け取らず、相場で石油を売れば、石油の売却益が庶民に分散され、庶民が豊かになります。
民を思う王なら、自己の利益よりも国民の生活が豊かになることを望む。
しかしそれでは、石油を格安で手に入れられないから、金を受け取らず、石油を相場で売るというなら、王宮にミサイルを撃ち込み、軍を上陸させて国を滅ぼすぞ、と脅す。
飴とムチ。これが世界の外交の常識といえるのです。

こうして、軍事力を展開するとともに、権力者にカネを与え、その国に言うことを聞かせ、実効支配するという手段は、現代日本でもみられます。
朝鮮半島や台湾では、支那からカネをもらった政治家が、政治権力をとり、自己の利益と引き換えに、国民に嘘八百を教え込み、民の生活の劣化を招いている。

日本では、戦後間もないころ済州島から密入国して日本に住みつき、GHQが朝鮮進駐軍を編成したとき、そこで利益を得て上野で貧しい日本人から戸籍を買って、地方に「進駐」した司令官の倅が、いま、支那からカネをもらい、日本を売り渡そうとしている。

先ほど中東の王族の話を書きましたが、第一次世界大戦以降の世界の大戦は、ある意味石油の奪い合いです。
第二次大戦の前には、東亜が石油産地だった。
それが中東に大油田が発見され、世界の火薬庫は、中東に移った。
いま、中東の石油が枯渇してきて、東シナ海の海底油田が、火薬庫になっている。
東シナ海は、支那と台湾と日本の国境が交差しているけれど、油田は国境とは関係なしに海底に広がっています。
その石油を露骨にモノにしようという極道国家が、のこりの二つの国の政治に介入し、国を乱しているというのが、いまの世相の根っこにあたります。


さて、話は飛びましたが、日本が遼東半島を清に帰すと、即座にロシアは遼東半島を清から取り上げて、これを自国の領土にしてしまいます。
もう領土的野心全開です。
だったら、あの三国干渉の文言は何なのさっ!などと、いまさら言ってもアトノマツリです。

そしてロシアは、旅順に世界最強ともいえる何重にも防御線を引いた要塞を築いてしまう。
これが後年、二百三高地の大激戦の舞台になります。

また旅順港に、ロシアは太平洋艦隊を停泊させます。
満洲もいっきにロシアの支配下に置いてしまいます。

いよいよ次は朝鮮半島を支配下です。
その向こうには日本がある。

なにせこの時代、世界で植民地化されていないイエローの国は、日本しかなかったのです。
日本には資源はないけれど、人間が働き者です。男には技術があり、奴隷に使うにはちょうど良い。
女は世界一美しい肌を持ち、年をとってもその美しさがかげらず、従順でおとなしい。なんとも世界で稀有な魅力を持つ民族です。

しかも、軍事的にみると、日本の港は凍らない。
ロシアの太平洋進出への足がかりになります。

日本は、そもそもロシアの南下を防ぐために、日清戦争を戦ったのです。
それが、結果として遼東半島をロシアに奪われ、ついでに満洲まで、奪われた。

これでは、なんのために日清戦争で、陛下と軍が多くの将兵の命を犠牲にして戦ったのかわからりません。

そもそも政府というものは、国民が最小の労力で最大の民益をあげるために存在しているのです。命を犠牲にして、最大の労力をかけたあげく、最小の成果では、政府はなにをやっているのかわからない。

あげくの果てが、朝鮮国王の妻の閔妃などが、せっかく日本が朝鮮のために開発してあげた鍾城・鏡源の鉱山採掘権や朝鮮北部の森林伐採権、関税権など、朝鮮国家の基盤ともいうべき権益を、個人や一族の贅沢のために、そくさくとロシアに売り払い、むしろ率先してロシアを朝鮮半島に引き込もうとします。
これも、上に述べた、買収工作です。
朝鮮には、教養がなくて贅沢好きな閔妃がいたから、ロシアにしてみれば、非常に工作がしやすかった。

最近、閔妃を明成皇后などといってもてはやす風潮があるけれど、そもそも当時の朝鮮は支那属国であり、国王は「王」です。「皇帝」ではない。したがって、「王」の妻は、「王妃」であって「皇后」ではない。
しかもその閔妃は、朝鮮の国家経営の柱ともいうべき、最大の国益(当時)を、ただ同然でロシアに売却しているのです。
いまの日本で言ったら、トヨタとマツシタと、ソニー、シャープに、JR、郵政と大手都銀の経営権を、ぜんぶまとめて支那に売ってしまったようなものです。

売った閔妃とその一族は、個人的には大儲けできたし、贅沢三昧できたかもしれないが、そこで働く社員と、基幹産業を失った国民にとっては、地獄の日々が待っています。

日本は、あわてて国費を出して、朝鮮にこれらの買い戻しをさせています。
中途半端な似非平和主義が、よけいに話をこじらせていたのです。

ロシアの南下圧力を前に、日本は明治36(1903)年の日露交渉で、朝鮮半島を日本、満洲をロシアの支配下に置くという妥協案・・・いわゆる満韓交換論をロシア側へ提案します。

あたりまえのことですが、ロシアはこれを一蹴します。
ロシアは、かのナポレオンさえも破った世界最強の陸軍と、世界最強の海軍力を誇り、日本との国力は20倍以上あるのです。
日本の交換条件など、稚戯(ちぎ:幼稚な遊び)に等しい。

結局最後は、追い詰められ、追いつめられて、明治大帝陛下のご聖断を仰ぎ、やむなくロシアに宣戦布告した(明治37(1904)年2月)、つまり、政府が軍に泣きついた。
これが日露戦争です。


日露戦争は、軍部の必死の努力で日本の勝利に終わります。
間違えちゃいけないです。ほんとに「必死の努力」だったのです。

だから軍部は、勝利した勢いで、強引に停戦を政府に迫ります。

ところが日本政府の文民たちは、軍が戦いに勝利したとみるや、一転して、戦いの継続を支援しますなどと寝ぼけたことを言い始める。

「話し合い」という最終兵器があるから、軍などは必要ないといっていた文民が、結局話をこじらせて、日本を戦争に引きづり込んだと思えば、こんどはもっと戦えなどと言い出す。

しかし、奉天戦までで精いっぱいであることを認識している軍は、どうしてもと停戦を政府にせまった。

陛下は、政府に対し、絶対に停戦をするよう命じます。

明治38(1905)年)9月5日、アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、米国ニューハンプシャー州ポーツマス近郊のメイン州にある「ポーツマス海軍造船所」において、日本全権小村寿太郎とロシア全権セルゲイ・ウィッテの間で調印されたのが、「ポーツマス条約」です。

このあたりの国内の駆け引きや、政治と軍の動きを見ていると、やはり日本という国は、陛下を頂点に仰いで、武士が統治しなければ、どうにもならない国なのかと思ってしまいます。
いまでも一般の町人(会社員・商店)、農民、職人(製造業従事者)は、政治などは、雲の上のオカミたちが勝手にやっていることで、ワシらには関係ない、くらいの軽い気持ちしか持ち合わせていない人がなかにはある。

武人は常に命がけです。負けはすなわち死を意味します。
文民は、負けても死にません。言い訳をします。

話を戻します。
ポーツマス条約には、概略次のことが書かれています。
おどろくべきことに、これだけ情報が発達した現代においても、ポーツマス条約の全文は、なかなか手に入らない。ネットからでも探し出すのは困難です。

ウィキペディア(Wikipedia)などを見ても、ポーツマス条約については、いちばん肝心な第二条については、なぜか省略されて書かれている。へんてこな話です。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【前文】日本国天皇とロシア皇帝は、平和を強く希求し、この条約の締結に至った。

第一条  ロシアは、日本が韓国における最高の政治的・軍事的・経済的利益を有することを認める。

第二条 ロシアは遼東半島を除いて、満州を支那に返す。

第五条 ロシアは、日本が支那の同意を得て、旅順、大連を租借することを認める。

第六条 ロシアは、支那政府の同意を得て、長春以南の鉄道、付属利権を日本に譲渡する。

第九条 ロシアは、日本に南樺太と隣接するすべての島を割譲する。その境界線は北緯50度とする。また両国ともに樺太には軍事施設は設けないものとする。

第十一条 ロシアは、日本にオホーツクとベーリング海の漁業権を認める。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜

ポーツマス条約は、全文15条と付属文書からなる条約です。

日露戦争後に締結されたポーツマス条約で、明確に、ロシアは満洲を支那に返すと約束します。

そして第五条、第六条の「支那政府の同意」については、明治38(1905)年12月22日に、北京で、日本ー清国両国間の日清条約(満州善後条約)において、次のように取り決めがなされた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
第一条 清は、ロシアがポーツマス条約第5条6条により日本に譲った権利を認める。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これで結論が出ました。

長春より南の鉄道とその地域の一切の権利は、日本のものとなったわけです。
これは国際条約によって締結された正規の調印文書です。

日本は、満洲をロシアと清から「正式に」、譲り受けたのです。

しかしなりゆきで日本は満洲を統治することになったけれど、もともと、日本には領土的野心はありません。
(あるなら、その地に住む人々から、徹底的な搾取と財産の強奪をしています)。

たまたま日本の安全を図るための行動が、結果として満洲を日本が統治するという事態を招いたというのが、実際のところです。

その満洲には、広大な原野が広がっているだけです。
後年、豊富な資源があることが日本の調査でわかり、その開発が行われますが、日露戦争直後の時点では、そうしたことはわかっていない。
わかっていたら、そもそもロシアも支那も、絶対に満洲を手放しません。

だから、満洲の経営は、まずは農地の開墾からとなります。

日本からは、民間の開拓団が、満洲の原野の開拓のために現地に向かいます。
これも政府のきちんとした展望や政策に基づくものではありません。
いわば、民間のボランティアとして開拓団が組まれ、満洲の原野の農業指導と農地確保に向かった。

「開拓」というのは、野山を耕して畑にすることです。
「開拓」と「侵略」では意味が違う。
「侵略」するなら、農地の開拓など必要ないです。
なぜなら、農地は、簡単に荒らされる危険を伴うからです。

満洲に開拓のために移住した人たちを、「満洲開拓団」といいました。

満洲開拓団


彼らは、現地の人々に農業指導を行い、また自ら率先して、農業を営み、原野しかなかった満洲での農業生産高を劇的に向上させていきます。


ここで、もうひとつの歴史を語っておく必要があります。
それは満洲の馬賊のことです。

もともと、満洲は、清王朝の聖地として、漢族立ち入るべからずとされた土地です。
清朝統治約200年。満洲は、満人たちだけのいわば楽土となっていました。

ところが、清朝末期になると国が乱れ、内乱続きの清国から、平和な楽土を求めて、多くの漢人たちが満洲の地に進出してきます。

このあたりの歴史は、昨今、支那人の流入著しい日本も、しっかりと振り返ってみる必要があると思うのですが、漢人たちの満洲進出によって、それまで治安のよかった満洲地方は、いきなり、治安が悪化します。

古来、漢族の特徴は、武器を持たない弱者に対しては集団で居丈高になる。自己の利益のためには、他人を殺してもなんとも思わない、そういう人が数多くいる、ということです。

満人たちしかいなかった満洲に、漢人が進出してくることにより、泥棒、窃盗、強姦、集団による暴行、残虐なリンチなどが横行します。
漢人の進出が、どんな事態を招くか。

このことは、昨今の日本でも、見ることができます。
今年正月には、銀座の時計店に、壁をこじ開けるという強引な方法の泥棒がはいった。
あんな事件が起こったら、これから先、銀行や保険会社は、宝飾店が開店するときは、壁に鋼鉄が仕込んであるか確認しなければ、融資も保険の引き受けもできなくなる。
福岡一家惨殺事件のような、日本人には考えもつかないような悲惨で惨たらしい事件が起こっている。

まして銃刀の所持があたりまえだった時代の出来事です。
漢人たちの傍若無人は、酸鼻を極めた。

やむなく満人たちは、得意の馬を駆って、そうした盗賊団を退治するための自警団を作りました。これが満洲の馬賊です。

ちなみに満洲人というのは、もとの名前を女真人といいます。
日本は支那との戦争では連戦連勝しているけれど、この女真人との戦いには、かつて日本は大敗を喫したことがあります。
西暦663年の白村江(はくすきのえ)の戦いです。


馬賊は、だんだんに専業化し、武器を蓄え、軍閥と化していきます。
また当初は満人たちだけで構成されていた馬賊も、人口比で、漢人が上回るようになってくると、漢人たちだけの馬賊(もどき)なども横行しはじめます。

当時、そうした馬賊は、「もどき」を含めて、満洲地方に30万人もいたといいます。
満人たちは、こうした馬賊たちの跋扈(ばっこ)に悩まされ続けていた。

そうしたところに、お気楽な日本人開拓団が行ったのです。
話がやっかなことには、当時の満州の地に、共産パルチザンが多数いたことです。

共産パルチザンというのは、国際共産党コミンテルンの指令に基づいて活動する暴力革命集団です。その元締めは、当時ロシア革命を起こしていたロシア国内の共産主義者たちです。パルチザンを焚きつけて、日本の統治をぐじゃぐじゃにしちまえ!
内乱が起こればいいのです。
国際的に、日本が統治の責任をまっとうできないとなれば、再び国際的に圧力をかけて、日本を満洲から追い出すことができる。

反日暴徒と化した馬賊は、軍閥を名乗り、日本排除のためと称して、テロや暴行、略奪、放火、殺人、強姦など、好き放題の犯罪をした。

そんな中で書かれた者に、元関東軍司令官本庄繁の遺稿があります。

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日本人や朝鮮人に対する暴力が広がり、小学生が学校に通うにも、関東軍による保護が必要だった。
そのような状態の中で、学校を閉鎖するにいたった。

満洲の日本人や朝鮮人も帰国せざるを得なくなり、30万人ほどの人達が帰って行った。

関東軍自体も、満洲軍を刺激しないよう気を配った。
軍の訓練の時には、実弾を持たないようにし、訓練の日時や場所も満洲軍に報告した。

しかし、満洲軍は実弾を持って、関東軍と同じ場所で軍事訓練を始めたり、銃を向けたりしてきた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

当時、満洲鉄道の路線妨害事件などは、年間なんと30万件です。
30万件です。30万件。とんでもない数です。

昭和6(1931)年6月には、満洲で中村大尉ら二人の日本軍人が中国兵に殺される事件が起きています。
帝国軍人が殺されたのです。
戦争になりそうになるけれど、日本政府は争いを避け、中国に抗議するだけに止めています。
亡くなられた中村震太郎大尉らは、泣き寝入りです。
仲間を殺された戦友たちも、涙をのむしかなかった。

7月には、満洲で万宝山事件(朝鮮の農民が満洲で開拓した土地を、中国の農民500人が襲撃した事件)が起きています。とんでもない破壊活動です。

万宝山事件現場
万宝山事件現場


こんな情況が続いたらどうなるか。
日本は、いっさいの卑怯な手段をとることなく、正々堂々と国際条約にのっとり満洲を領有し、そこに民間人の開拓団が行っている。
現地の農業指導をし、農地を開拓し、種を植え、作物を育て、道路を作り、町を作り、線路をひいた。
現地の人々への医療活動も行った。
まじめに誠実に、誠心誠意、町の人々とも共同した。

ところが一方では、共産パルチザンと結託した支那人たちが、暴徒を作り、あちこちで破壊工作や略奪、殺人を繰り広げている。

日本人経営の商店で買い物した客から取引税を改めてとる。
日本人に土地家屋を貸した満人を投獄する。

長春や奉天では、支那人の警官が、日本人を見ると袋叩きにしたり投石したりしています。

ついには、小学生の通学を領事館警察隊が護衛しなければならないという、異常な状態まで日常化してしまいます。

襲われたのは日本人だけではありません。
朝鮮人農民に至っては、入植した農地を取り上げられ、暴行を受けた上で家財道具一切を略奪されて追放されたりもしている。

こうして20万人もいる日本人入植者たちが、餓死するか、日本へ引き上げるかの選択を余儀なくされるところまで追いつめられたのです。

これがもし現代の日本社会で同様なことが行われたらどうだろうか。
山手線や新幹線の運行が、毎日妨害され、線路を壊され、駅が破壊され、町中で銃撃が行われ、建物が爆破され、商店が投石され、暴行され、財産を奪われる。

おそらく欧米ならばすぐに自警団が編成され、不逞のヤカラに対して銃をもっておとなたちが立ち向かうだろうし、即時、軍を出動させて徹底的な治安維持が図られる。
そもそもイエローは、人ですらないという認識だったのです。
徹底した、弾圧と反撃を行ったであろうことは、容易に想像できます。

ところが日本政府の文民がこれにたいして行ったことは、
「平和のために我慢しろ。戦争はいけない」

日本政府の対応は、いまの日本の世の中と同じです。
ひとにぎりの在日朝鮮人に裏社会を牛耳られ、国会までも汚染され、利権をほしいままにされ、パチンコ賭博で財産を奪われ、女たちが穢され、日本人には考えもつかないような凶悪な犯罪を行われ、全国各地で偉人の銅像や彫像が、首を折られ、横倒しにされ、日本の国旗さえも、日の丸をウンコマークにされ、それでもひとつ覚えに無責任な「平和第一、戦争反対」のきれいごとしかいわない。

世の中には、ふつうにまじめに生きたい人の方が多いのです。
そのまともな人たちが、日々被害にあい、身内を殺される。

これが内地なら、警察や機動隊の出動になるかもしれない。
しかし、満洲は、当時まだ「国」ではなく、支那の一部を日本が「統治」しているにすぎない。しかも相手は銃で武装した大軍です。

外地であれば、治安維持活動は軍の仕事です。
なぜなら、警察は、国内で法を執行する機関です。
つまり国内法があって、はじめて警察による治安活動は正当化される。

国内法が通用しない外地にあっては、軍による統制活動しか他に方法はないのです。
これは世界の常識です。

だからこそ軍が駐屯している。

ところが、日本政府は、その治安活動をすべき軍に対し、軍事行動を起こしてはならない、銃には弾を込めてはならないという。

敵が大勢で迫ってきても、実際に銃撃を受けるまでは、丸腰でいなさいという。
これが文民統制です。聞いて呆れます。

その結果何が起こったか。
被害規模はますます膨らんだ。
多くの日本人が、ひどい目にあわされた。

目の前に訓練を受けた軍人がいるのです。
しかし、軍は行動してくれない。
軍は国家の命令がなければ、動けないのです。

軍は何もしてくれない。
私たちが、殺され、盗まれ、奪われても、軍は、なにひとつしてくれない。

狙われたのは日本人ばかりではないのです。
要するにパルチザン以外のふつうの満洲人、漢人、朝鮮人、日本人、抵抗しない者たちが、片端から被害にあっている。

誰のための政府なのか。なんのための軍隊なのか。

「腰の軍刀は竹光かっ!」


なぜ漢人たちが、満洲で暴れたかには、理由があります。
そうです。日本の調査で、満洲には豊富な資源があることがわかったのです。

日本は戦えば強い。
だから満洲の資源に着目したアメリカ、ロシアは、支那人たちにカネや武器を与え、日本人や日本人と仲良くする満洲人たちにイヤガラセの限りをつくして、出て行かせようとしたのです。

一方で、漢人たちからみれば、満洲良いとこ一度はおいで、です。
いくら暴れても、統治者である日本人は抵抗しない。
軍資金や食糧、武器は、米露が、後ろからいくらでも補給してくれる。

万一日本の官憲に捕まっても安心です。
日本人はやさしいから、牢屋でたらふく飯を食わしてくれるし、腹が痛いといえば、薬もくれるし、風呂もはいらせてくれるし、一日いくらで日当までつけてくれる。
体が痛いといえば、医者やマッサージまでつけれくれる。
しかも、生まれてはじめて、「布団」という、やわらかなマットの上で、上掛けまでつけて気持ちよく寝かせてくれる。おまけに健康のために、毎日、体操までさせてくれます。

これではどちらが看守で、どちらが犯罪者かわからない。
しかも冬には暖房付きです。

シャバにいれば、満洲では、大衆は武器を持っていないし、農家は丸腰です。自警団も、せいぜい六尺棒くらいしか持っていない。
どんなに盗もうが、暴れようがやりほうだい。
逮捕されたら、生まれてはじめての文化的生活まで満喫できる。

共産パルチザンたちにとって、満洲はまさに犯罪天国そのものだったのです。

おかげで満洲には、続々と悪党たちが集まってきます。
気がついたら、満洲にいた関東軍1万人に対し、満洲の軍閥は、軍装を整えた正式な軍隊だけで25万人、その他着たきりすずめで、武器を持った共産パルチザンは、その数倍以上、合計してみれば、なんと300万人もの支那人パルチザンがいる、という状況になってしまった。

もともと満洲にいた満洲人が、300万人です。
そこに2600万人もの漢人たちが勝手にはいりこんだ。

あたりまえです。
悪党を野放しにしといたら、どんどん増殖する。
ガン細胞みたいなものです。
ガンは、小さいうちに切除しないと、全身に広がって死に至らしめます。

要するに、このときの日本政府は、満洲の地に、ガンが生まれ、ちゃんとした外科医(軍)がいたにもかかわらず、外科医(軍)にメス(弾)をもっちゃいけないと指導し、おかげで多くのまっとうな市民の生活が圧迫されることを放置した。

そもそもガン細胞というものは、早期発見早期治療があたりまえです。

日本は、満洲で権益を得ると同時に、全軍を派遣し、徹底的なパルチザン掃討作戦を展開していたら、その後の支那事変も、大東亜戦争も起こらなかったかもしれないのではないか。当時の状況を知るにつけ、そんな気がしてなりません。

当時の日本人入植者は、23万人です。
関東軍は、1万人。

対する漢人パルチザンや軍閥は、300万人です。

どうにもならないところまで追い詰められて、日本軍は、万宝山事件の2か月後、柳条湖事件を起こします。

これは、関東軍が満洲鉄道の線路を爆破したものです。そして事件を張学良軍閥のやったことに見せかけ、反撃を開始します。

なるほど張学良軍閥がやったと見せかけたことは、悪いことといえます。
ですが、そこまでしなければならないまで、打つべき手を遅らせ、現場を追い詰めたのは政府です。
そしてそうまでしなければならないだけの事情が、当時の満洲にはたしかにあったのです。

結局、正規軍だけで25分の1、非正規軍を含めれば、300分の1しかいない状況で、関東軍は、パルチザンの正規軍と戦うことになりました。
兵の数は圧倒的大差ですが、関東軍の将兵は、必死の覚悟で戦い、連戦連勝、軍閥やパルチザンを追い詰めます。
そしてあっという間に、満洲の軍閥を制圧してしまう。

悪党を駆逐したのです。
満洲の地に平和と安全が戻った。

満洲から、日本に対抗する軍閥が追い出されると、満洲各地では、自分たちこそ清王朝の本拠地である、清王朝を満洲の地で再興し、満洲国を支那から独立させよう、という動きが、満洲全土で起こります。
これも軍部の独走という歴史学者がいるけれど、当時の満洲の生活者の立場にたってみろといいたい。
いまで言ったら、オウムが村の人口をはるかに上回るサティアンを作って、近隣に毒ガスをばら撒いたり、村人を拉致し暴行を働き続けていたようなものです。
やっと警官隊が入り、関係者一同を逮捕して、サティアンを取り壊し、村に平和がもどったら、どうするか。

満洲では、一気に、独立の機運が高まります。
もともと満洲は、女真族の土地。独立地だったのです。
かつての平和を取り戻したい。

独立運動の中心となった于沖漢(うちゅうかん)に、石原莞爾はこう言ったといいます。

「五族は絶対に平等でなくてならない。それには、日本のもっている一切の権益を満州にかえす」

于沖漢は、それをきいて驚いたといいます。
日本に領土的野心はまるでない。

于沖漢ら、満人たちは、満洲の独立をよびかける建国集会を開きます。

このときの于沖漢の演説です。

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満蒙は古来東亜の天府と称せられた地です。土地は広大で、住民は多い。
もし、在住している五族が互いに協力して資源開発をしたら、必ずや満洲の文明は欧州にまさり、その富源は東洋に冠絶することでしょう。

しかしながら今日に至るまで文化なおいまだ興らず、富源なおいまだ啓けないのは、すなわち過去において各民族が協和を欠いたせいです。

もし諸民族が建国精神と王道主義に則って、協和に努力し、共同発展したならば、農治産業は改革され、資本主義の独占もなく、共産主義の横行もなく、三民主義の欺瞞もなく、人々の負担は軽減され、治安は維持され、幸福は増進するのです。

産業はこれによって興り、人民の生活はこれより富裕となるにちがいありません!
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そしてまず奉天省が中国と離れて新しい国をつくろうと動き始めました。
次に吉林省が独立します。
そして、遼寧省、熱河省が共同で独立宣言を発表します。
それぞれの地域が、支那と離れて独立を始めたのです。

ふつうの市民たちにとって、共産パルチザンの横行や、三民主義者たちの暴行は、もううんざりだったのです。

そして政治を根本から立て直すため、いまの日本でいったら各都道府県が独立を宣言。そして、各省の代表がついに奉天に集まり,建国会議が行なわれます。

みんなが、満洲全体を一つにまとめて王道楽土の新国家を作ろうと燃えていたのです。

「王道楽土」というのは、国王が道楽を楽しむ地(土)ではありません。
「正しい道で国を治め、国民が安らかで明るく暮らせる地」という意味です。

そして、奉天城に集まった各省や団体の代表約700人の総意で、満洲国建国が宣言されます。

これにより「五族協和」をモットーとする満洲国が誕生したのです。
「五族協和」は満洲国の理想です。
「満洲、日本、朝鮮、漢、蒙古の五族が、仲良く力を合わせよう」という意味です。

日本は、満洲国の国づくりを支える決断をします。

まずはダムの建設です。大規模なダムを次々と建設しました。
なかでも「豊満ダム」は、高さ90M、長さ1100M、東洋最大級のダムです。

ダム建設によって、まず満洲の水害が減りました。
治水が可能になったのです。
これにより、農業がいっきに振興します。

加えてダムは、満洲やその周辺の電力を賄います。

豊満ダムが完成した時、世界中から多くの人が見学に来ています。

フィリピンの外相は、ダムの大きさと役割の大きさに驚き、次のように述べています。

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フィリピンはスペイン植民地として350年、アメリカの支配下で40年が経過しています。
しかしスペインも、アメリカも、住民の生活向上に役立つものはなに一つ作っていません。
満洲は建国わずか10年にしてこのような建設をしています。
素晴らしいの一語につきます。
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日本が開発した夢の超特急「あじあ号」は、当時の蒸気機関車の水準をはるかに上回る最高時速120km/hで走行します。しかも、当時の機関車でありながら、冷暖房完備です。

鉄道敷は、年間600kmも延長され、新京、奉天、ハルビン、吉林、チチハル等の都市が建設されます。

首都・新京では、百万人都市となるべく計画が進められ、電気、上下水道が完備し、東洋初の水洗便所が整備された。

新京放送局は、百キロワットという東洋一の出力規模の放送局としてスタートした。
おかげで、当初ラジオに馴染みのなかった満洲人が、昭和15年頃には日本人以上にラジオを聴く人が増えました。

満洲電信電話株式会社は、電話を敷設し、電話加入者は昭和15年には107,707人になっています。

昭和9年には国立新京法制大学、昭和12年には建国大学が建立されました。

その他、銀行が生まれ、小中高の学校が設立され、重工業地帯が整備され、農地は整備されかつ拡大し、病院ができ、道路ができ、空港や港ができています。

さらに満洲国では、治外法権もなくした。
満洲人であれ、支那人であれ、日本人であれ、満洲国法の下で等しく裁かれるようになった。

この間、わずか13年。

満州国の繁華街
満州国の繁華街


大東亜戦争の最中でも、止むことのなかった満洲国の国家的インフラ整備事業は、昭和20年8月9日、米国が広島に原爆を落とした3日後のソ連による宣戦布告で破られます。

南方戦線に戦闘用物資を送り、ほとんど丸裸状態だった満洲の関東軍17万人に、ソ連陸軍175万人が襲いかかります。

日本軍の将兵には、弾も残されていない。
あるのは、終戦直前まで工事進行のために用意されていたダイナマイトだけです。

彼らは、そのダイナマイトを抱え、肉弾突撃で、ソ連軍の戦車の来襲を食い止めようとした。
なぜか。日本の婦女子や老人たちを、内地に逃すためです。

しかし、男たちがソ連軍に肉弾突撃をして戦い死んで行ったことをよいことにして、難民となった日本人の婦女子や老人に、支那人や朝鮮人が襲いかかります。

ようやく北朝鮮との国境の町、通化にたどりついたとき、女たちは、衣類さえも奪われ、身にまとっているものといえば、大陸の寒空の中で、むしろ1枚にされていた。

そしてソ連は、戦後、日本の軍人、民間人、60万人〜70万人と、様々な機械設備等をシベリアに連行し、ソ連の理想とする、有産階級(労働者)が働かなくても、国家によって給料が支給され、みなが平等に暮らせるという「理想」の実現のために、奴隷的労働を課せられた。

わずか13年で満洲国一国を建設した、その技術とノウハウと、設備一式のすべてを、ソ連に連行し、無給で彼らを働かせ、ソ連国内のインフラ整備をさせたのです。

アメリカのボーレー調査団の報告によれば、ソ連が満洲から連行した資産は、約9億ドルに相当する資産だったといわれています。

当時大蔵省から抜擢されて満洲国総務長官を務めた星野直樹氏の言葉があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜
生命わずか13年。
満洲国の建設は遂に見果てぬ夢に終わった。

しかしこの間、日本の若き人々の費やした努力と苦心とは永久に日本民族の誇りとするに足るものであると確信する。

満洲国建設の仕事に参画することができたことを、いまに幸福と考えているのは、決して私一人ではないと思う。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

満洲はその後、支那共産党が、摂取し、自国の領土とします。

毛沢東はこれを狂喜し、「東北省(満洲)を手に入れたことは、支那すべての富を入手したことに等しい」と述べています。

しかし、支那共産党は、日本と満洲国が作った鉄道路線を、戦後60年間、ただの1Mも伸ばすことなく、日本と満洲国が築いた高速道路も、ようやく近年、日本の経済と技術援助で完成させた。

五族協和と王道楽土を夢見た満洲国は、いまはもうありません。
そして、支那共産党の民族同化政策により、かつて一国を築いた女真族も、すでにありません。

満洲国の物語は、わたしたちにいろいろなことを教えてくれます。

たいせつなことは、国家というものは、消えてなくなることもある、ということです。

そのことを、わたしたち日本人は、もういちどよくかみしめてみるべき時がきているのではないでしょうか。

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西郷頼母と姿三四郎

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シンクロナイズドスイミング日本チーム
シンクロナイズドスイミング日本チーム


シンクロナイズドスイミングといえば、オリンピックの水中の女神たちとして、最近は大人気です。
水深3M以上のプールで、音楽に合わせて体を動かし、技の完成度、同調性、構成、芸術的な表現力などの得点で競います。

チームやコンボ競技では、8〜10人の団体競技となり、選手たちの息のぴったり合った演技は、とても美しく、見る者を魅了します。

現在は、女子のみがオリンピック種目となっていますが、日本選手団は大健闘し、1984年大会から現在に至るまで、全ての大会でメダルを獲得しているのはご存じのとおりです。

実は、このシンクロナイズドスイミングを日本に導入したのは、「日本泳法」の団体です。

「日本泳法」というのは、日本古来の水泳術で、重たい鎧(よろい)を着たまま泳ぐ方法や、水中での格闘、立ち泳ぎしながら火縄銃を射撃するなどの古武道泳法です。
武士のたしなみとして江戸時代に大発展しています。

昭和6(1932)年以降は日本水泳連盟が、日本泳法12の流派を公認しています。

明治時代に「日本泳法」の指導者として有名だった人に、西郷四郎という人物がいます。

西郷四郎と聞くと、ピンとくる方も多いかもしれません。
そうです。あの「姿三四郎」のモデルになった人です。

西郷四郎
西郷四郎


そういえば「ヤワラちゃん」で有名な女子柔道家の谷亮子選手(いまは先生)は、女三四郎と呼ばれていたことがありましたけれど、小柄で強い柔道家を「○○三四郎」と呼ぶのは、西郷四郎がモデルとなった「姿三四郎」の影響です。

姿三四郎といえば、有名な村田英雄の歌もあります。
Youtubeにありましたので、下に貼っておきます。

姿三四郎」村田英雄


西郷四郎は、大正11(1922)年、病気療養先だった広島県尾道で逝去されました。

講道館柔道の創始者の嘉納治五郎は、西郷四郎の死を悼み、没後、六段を追贈するとともに、碑に、次の文章を刻んでいます。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
講道館柔道開創の際 予を助けて研究し、
投技の薀奥(うんおう:奥義の意)を窮む。

その得意の技に於ては、
幾万の門下、いまだその右に出たる者なし。

不幸、病にかかり他界せりと聞く。
えん惜に堪えず。

よって六段を贈り
もってその効績を表わす

(注:原文はカナ文字)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

西郷四郎は、講道館柔道の師範代、講道館柔道四天王のひとりとして、幾多の名勝負に勝利した人として有名です。

彼は、明治15(1882)年に上京し、成城学校(当時は陸軍士官学校の予備校:いまの成城中学・成城高校)新宿区原町)に入学し、天神真楊流柔術の井上敬太郎道場で学んでいるところを、嘉納治五郎に見出され、16歳で講道館に入門しました。

ちなみに四郎が学んだ井上敬太郎の弟子に、前田光世がいます。

その前田光世の弟子に、エリオという少年がいました。
その少年が、最近話題のグレイシー柔術の開祖エリオ・グレイシーです。

そしてエリオの長男が、いまや世界最強、無敗の王者と呼ばれているヒクソン・グレイシーです。
ちなみに、ヒクソン・グレイシーは日本をとても愛していて、京都大原三千院なども訪問し、正面の売店に色紙なども書いています。


姿三四郎に話を戻します。

西郷四郎は、講道館に入門した翌年には初段を取得します。
実は、講道館柔道が人気となったのは、この昇段制度で、黒帯がもらえるという点にあったともいわれています。練習する生徒たちの励みになったんですね。

それから3年後の明治19(1886)年、警視庁武術大会で、他の柔術諸派の選手にことごとく勝利します。講道館強し。そこから講道館柔道が警察の正課科目になっています。


師匠の嘉納治五郎が外国通だったこともあり、西郷四郎は、23歳のとき講道館を飛び出します。そして東京で義勇軍を募り、支那の解放運動に身を投じます。

当時の支那は、権力をとったら民衆に何をしても許される、そのくせ権力をとっても民衆に対してなんの仁徳も示さない。そのため国は植民地化され、民は地獄の苦しみを味わっている。いまもですが、こうした悪風を打ち破り、普通の人がふつうに暮らせる新しい国家の建設をしよう、というわけです。
要するにいまで言ったら、真正保守の活動のようなものです。

支那人の中にも国情を憂いて、古代にあった義と徳を柱とする新たな国家を建設しようとする者たちがいたのです。
とくに日本で学んだ孫文などの優秀な学生たちは、支那に日本風の相互信頼主義に基づく道義国家を建設しようとしていました。
それの動きが、支那の辛亥革命の動きになっていきます。

西郷四郎は、友人で二天一流の使い手の宮崎滔天と語らい、義勇軍の友らと支那にわたり、孫文らとともに、支那の秘密結社哥老会・三合会・興中会3派の大同団結を実現し、辛亥革命の基礎作りをします。

13年後、辛亥革命に敗れた四郎らは、日本に帰国し、長崎で新聞の編集長をしながら「日本泳法」の指導家になります。


さて、その西郷四郎ですが、実は会津藩士です。

四郎の実の父親は会津藩士志田貞二郎で、四郎は三男。会津若松の生まれです。

実父の志田貞二郎は、戊辰戦争で元新撰組副長の土方歳三の配下として、越後方面を転戦します。

戦争が起こったとき、当時3歳だった四郎は、母に連れられて、新潟県の津川(いまの阿賀町)に疎開します。
そして7歳で大東流武術を習い始めました。
大東流は、柔術だけでなく、水練も含め、様々な武術を伝習するものです。

四郎はめきめき上達し、もはや津川では四郎に敵う相手が誰もいなくなります。


そんな四郎を、見出し、東京で本格的に柔術の勉強をさせようと、四郎を養子に迎えたのが、元会津藩家老西郷頼母(さいごうたのも)です。

西郷頼母
西郷頼母


西郷頼母といえば、戊辰戦争のときの会津藩の家老だった人として有名です。
西郷家は、代々会津藩の家老職を勤め千七百石を拝領する名門だったのですが、頼母は、現職の家老時代、会津藩の京都守護職就任に反対し、幕末動乱で熱くなっている家中から、「腰ぬけ家老」とののしられ、家老職を解任され、蟄居(ちっきょ)処分となります。

ところが腰ぬけどころか、西郷頼母は、会津藩秘伝の日新館正果武術の達人です。

漢の劉邦の時代に、背水の陣の逸話で有名な「韓信の股くぐり」同様、武芸百般に通じた猛者だったからこそ、虚心坦懐に藩の行く末を案じて不戦を唱えたのです。

会津若松城の戦いでは、頼母の母や妻子など一族21人の女たちが、頼母の登城後自刃するという悲劇が語り継がれています。

国難に際し、戦いの足手まといになるのを不本意とした彼女らは、全員白装束に身支度し、辞世を詠んで、水盃を交わしたあと、妻の千恵子が、まず9歳の田鶴子を刺し、4歳の常盤、2歳の季を刺したあと、その返す懐剣で自らの咽喉を突いて自刃した。このとき千鶴子34歳です。そして次々と女たちが自刃して果て、逆さ屏風を立てた広間は21人の遺体で埋まった。

このときの有名な物語で、まだ13歳だった次女の瀑布が、

 けなげにも
 手をとりて共に行きなば迷はじな

と上の句を詠むと、姉の細布16歳が、

 いざたどらまし 死出の山道

と下の句をついぎ、二人で互いの咽喉を突いて果てています。


父の頼母は、彼女たちの思いを受け、戊辰戦争を最後まで戦い抜きます。

会津若松城の落城の際は、切腹しようとする主君の松平容保に対し「殿が死なれれば、家中の者がみな後を追いましょう」と、家中の藩士たちの命を慮って自害を思いとどまらせ、容保に降伏を勧めます。

そして頼母は、榎本武揚や土方歳三と合流して、函館五稜郭に立て篭って、篭城戦を戦い抜いた。

五稜郭の敗戦後、西郷頼母は捕縛され、禁固刑を受けますが、その後、福島県霊山(りょうぜん)神社の宮司となり、そこで、大東流合気武術を編纂し、74歳の生涯を閉じます。

大東流合気武術というのは、八百年前、源義家の弟、新羅三郎義光が創始したといわれるもので、甲斐源氏武田家が代々秘伝の武芸として門外不出のまま伝え、会津藩では、これを会津藩「合気之術」として、上級武士の間だけで伝承してきたものです。

そして大東流合気武術が、西郷頼母によって、武田惣角に伝承され、戦後植芝盛平に「よって「合気道」となって現在に伝わっています。

そして一方では、シンクロナイズドスイミングとなっている。


日本の歴史というの実におもしろいと思います。
いろいろな物事や人が、いろいろなところでつながっている。

ちなみに植芝盛平の弟子で、神と呼ばれた人が塩田剛三です。

塩田剛三の動画がありましたので、これも下に貼っておきます。

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超偉人伝説 神様と呼ばれた男 合気道塩田剛三伝(1


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ちいさくても強いサムライ

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悲しみ


下に、一枚の写真を掲載しました。

写真は、米従軍カメラマンのジョー・オダネル氏が撮ったものです。
オダネル氏は、次のようにこの写真にコメントしています。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。

10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。

少年の様子はあきらかに違っていました。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。

足は裸足です。

少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしています。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。

男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。

まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。

それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。
少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。背筋が凍るような光景でした。

ちいさくても強いサムライ


昭和20年8月9日午前11時02分、長崎原爆が投下されました。
原爆は浦上地区の中央で爆発し、この地区を壊滅させました。

被災して亡くなった方々の遺体を焼いているところに、幼い弟(妹?)を背負い、はだしで、歩いてきた少年。

男の子は泣いちゃいけない、精いっぱい、涙をこらえて、直立不動の姿勢をとり、唇に血がにじむほど、歯を食いしばっていた少年。

こんなちいさな少年でも、その頃の日本人は立派な、サムライだったのです。

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【感々学々】永井隆「長崎の鐘」に思ふ[桜 H21/8/15]


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昭和の巌流島決戦・・・国井善弥

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国井善弥
国井善弥


実は、戦後の一時期、GHQによって柔道や剣道、弓道などが全面的に禁止されたことがあったのです。
日本精神を形づくるものだから、という趣旨です。

どういう政策かというと「3R,5D,3S」というものです。

「3R」=Revenge, Reform, Revive
「5D」=Disarmament, Demilitalization, Decentralization, Democracy, Deindustrialization.
「3S」=Sports, Sex, Screen

つまり、

「3R」=復讐(Revenge)の念をもって日本を改造(Reform)し、日本を米国の属国として復活(Revive)させる。

「5D」=武装解除(Disarmament)させ、以後武装させず(Demilitalization)、財閥を解体させ(Decentralization)、民主化を促進し(Democracy)、非工業化(Deindustrialization)を促進する。

そして民衆の抵抗を削ぐため、
「3S」=スポーツ(Sports)を奨励し、セックスを解放してみだらな風潮を促進し、映画(Screen)を振興する。

要するにしっかり者の日本を解体し、スポーツ観戦に熱狂し、セックスに耽って、テレビばかりみていて親子の対話のない日本にしちまえ!という、政策ですから無茶な話です。

武道は、英語では Martial Arts です。
当然GHQの武装解除項目に当てはまる。だから、終戦から3カ月目には廃止命令が出されています。

ちょっと脱線しますが、ちなみに「非工業化」については、朝鮮戦争の勃発で、物資の補給のために日本の工業力の再生が必要となったため軌道修正されました。

でも当時の日本の輸出用工業製品には、いまのような Made in Japan の刻印はありません。
代わりに Made in Occupied Japan(占領された日本製)と刻印されていました。
日本は徹底的に辱められたのです。

実際、終戦の年の昭和20(1945)年11月6日には、GHQは学校の剣道を禁止しし、翌年には、社会体育の剣道も禁止し、剣道関係者1300余名も公職追放されてしまいます。

町道場ですら、剣道を教えているとGHQにひっぱられる。
ひとりでこっそり稽古していても、GHQに見つかると、逮捕されます。

いくら No. No !! It is not military training , but it is Japanese culture !! などと言っても受け付けてもらえません。

やむをえず剣道界は、防具をフェンシングの防具そっくりに改良(?)し、竹刀も竹を細く細かく割ったものを用いて、フェンシングルールに、面、胴、小手を加えて、しない競技(撓協議)というスポーツを考案します。

竹刀も、いまのような竹を縦に4つに割ったものではありません。
8つに割った。
するとどうなるかというと、当たってもぜんぜん痛くない。
そのかわり、竹刀がすぐにバラバラになってしまうので、剣の部分に柔らかい白い布を巻きました。

試合では、打ち込みの鋭さなどはいっさい問題にしません。
制限時間内に、小手や面に、竹刀が何回当たったかの回数で、勝負が決まる。
ほんとに、苦肉の生き残り策だったのです。

しかも練習や試合で、打ちこみに声を出すことは禁止です。
声を出すのは、日本兵の突撃をイメージするからなのだそうです。
だから終始、無言で稽古した。
これもまたムゴイ話です。


そんな中で、なんとかして剣道を復活させようとしてGHQと交渉を重ねた国会議員がいました。笹森順造です。

笹森順造は、青森県弘前藩士の出のキリスト教徒で、青学の学長も勤めた人です。
戦後の片山内閣では、復員庁総裁、賠償庁長官などを歴任し、ソ連抑留者の早期返還に努力しています。

そして自身、小野派一刀流剣術宗家の剣の使い手です。


彼は、幾度となくGHQに掛け合いました。
なんとしても剣道の復活を期そうとしたのです。


「剣道は、相手に怪我をさせるとか殺 すための武道ではない。一瞬にして相手に最小限のダメージを与え、しかも自分が悪かったと悟らせる。それが、剣道なのです」
と笹森は主張します。

「そんなことはない。武道は闘いに勝つためのものだ。 Martial Arts(軍事武道)だ。危険なものだ。」とGHQは反論します。

「それは違う! 断じて違う」

では、なにが違うのか、証明して見せろ!ということになります。

単に勝つだけではない。相手を懲らしめ、悔い改めさせるものだ。神の教えにも通じるそんなことが現実にできるのか証明してみせろ、というわけです。

相手には、米海兵隊にいる、めちゃくちゃ強い銃剣術の先生が選ばれました。
かつてその先生に、誰も勝てた者はいない。
その者と、実際に日本の剣道家を戦わせ、いかにして悔い改めさせようと言うのか、実践してみせろ、となったのです。

ただし条件があります。

米海兵隊の教官は、本物の剣を用いた銃剣を使います。
もちろん対戦相手の日本人は、殺して構わない。

日本側は、上にご紹介した竹刀競技用の柔らかな竹にやさしく布を巻いたものを使う。
防具は着けさせない。

「それでも良いか?」というGHQに、笹森は、もちろんOKだと答えます。

日本側が負けたら、もはや剣道復活の見込みはありません。
試合は、日本武道の誇りと名誉がかかった一戦です。
絶対に勝たなければならない。

相手の米海兵隊銃剣術教官は、銃、銃剣、徒手での格闘のすべてに通じた、海兵隊最強の男です。ガタイも大きい。喧嘩でも試合でも、これまで負けたことは一度もない。

当然、対戦する日本側も、剣術だけでなく、徒手でも強いことが求められます。

この勝負、受けて立つに、誰かいるか・・・

真剣になって考えた笹森の頭の中に、ひとりの武道家が浮かびます。
國井善弥です。

國井善弥は、鹿島神流(かしましんりゅう)の使い手です。

鹿島神流とは、茨城県鹿嶋市にある鹿島神社に古くから伝わる「鹿島の太刀」を元とした古武術流派で、剣術と柔術を中心に、抜刀術、薙刀術、棒術、杖術、槍術、手裏剣術を扱います。
防御と攻撃は常に同時に行なわれ、剣は振りかぶらず一挙動に打つ。

國井善弥は、その宗家18代目の実戦の大家です。

これまでに、たくさんの腕に覚えのある武道家から他流試合を求められ、一度たりとも負けたことがない。
武器を持たない柔道家や空手家、鎖鎌、大薙刀、棒術等の達人から、相手が望む通りの条件で試合を受け、全部勝っている。
世間は、その圧倒的な実力から「今武蔵」(昭和の宮本武蔵という意味)という異名と呼んでいた。

笹森は、國井善弥に、GHQ海兵隊教官との試合を依頼します。
負ければ、國井はその場で命を失います。
そして日本武道も、完全に破壊される。

これはたいへんな仕事です。
しかし、依頼を受けた國井は、二つ返事でこの試合を請けます。


いよいよ試合当日がやってきます。
國井が試合場にやってきます。
なんの緊張感もありません。
まるっきり普段通りです。
衣服は、白の練習着。

米国の教官が、本物の銃剣を手にします。
國井が、やわらかな竹刀を手にします。

そして二人は、中央に歩み出た。

相手の海兵隊教官は、大柄です。
手にしている銃剣も、通常のものより長くて大きい。

試合場は緊張に包まれます。

二人は、約3mの間合いをとって、相対します。

國井が、礼をして、竹刀を中段に構えようとした、そのとき、米教官は、銃剣を國井ののど元に向かって鋭く突きだしてきた。

國井は、半歩さがってこの攻撃をかわした。

米教官は、そのまま突進を続けながら、銃剣を回転させて、國井の即頭部めがけて銃底を打ちつけようとします。

普通ならこれはかわせない。
カタイ銃底での即頭部殴打です。
当たれば即死です。

その瞬間、國井が半歩前進して銃底をかわしながら、米教官の後頭部にやわらかく竹刀を当て、そのまま教官の突進する力を利用して、教官を床に倒します。

教官が四つん這いになって床に手をつきます。

國井は、そのまま教官の後頭部を、竹刀で押さえる。

四つん這いになって、上から頭を体の内側に押さえつけられると、人間は身動きができません。

「勝負あった!」


すべてが一瞬の出来事です。

米教官は、素直に負けを認めます。

國井は、いっさい相手と剣先を合わすことなく、敵を見事に制しました。

圧倒的な実力差です。

そして、剣道は、相手に怪我をさせたり殺害したりするものでなく、相手を制するものであるということも、立派に証明して見せたのです。

しかも國井は、相手と一太刀も合わせていない。

國井善弥の戦いの再現


この事実は、米軍の間に、衝撃とともに伝えられます。

そして米軍の間に、「日本剣道は、失うにはあまりにももったいない」という機運をもたらします。

そしてそのことが、後年、日本武道の復活となって、いまの剣道の存続につながります。


ちなみに國井善弥は、道場に入門したての頃、先生からよく
「ナニを持って来い、ナニもついでに」と指示されたそうです。

「ナニ」と言われても、それが何かはわかりません。
しかしこれは「相手の思っているところを察知する心眼獲得のための修業」だったのだそうです。

先生の指示は、次第に「ナニをナニして、ナニをナニナニ」と、まさに暗号のようなものになっていったそうですが、國井は、かなりの確率で師の意思を掴むことができるようになったといいます。

そしてこの修業が、立会いで相手の動きを事前に読みきる能力に活かされたといいます。

この試合でも、國井は、相手の銃剣の先生の動きを事前に読んで、体の動きを捌き、相手を制しています。
こういう動きは、長年の鍛錬の賜物です。


國井善弥のこの試合は、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島の戦いになぞらえて、昭和の巌流島と呼ばれました。
これも、忘れてはならない日本の歴史のヒトコマだと思います。

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國井善弥、鹿島神流


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第二次上海事変

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上海の海軍特別陸戦隊
上海海軍特別陸戦隊


最近「日中戦争」という言葉をよく聞きます。
これは、言葉の使い方自体が間違っています。

正しくは「支那事変」です。

「日中戦争」という用語は、通称または俗称だから、別にいいじゃん、などと軽く考えるのは大きな間違いです。
そもそもそういう用語はもとからないし、戦争と事変では、国際法上の立ち位置がぜんぜん異なります。

名称についていえば、
昭和12(1937)年7月11日、ときの近衞内閣が「北支事変」と命名。
同年9月2日、閣議で北支事変を「支那事変」と改名しています。

どちらも、「事変」という用語が使われています。

この件について、反日色の濃い教科書などでは「軍部が勝手に暴走して戦争を引き起こし、大義名分がなかったから戦争ではなく事変だとごまかしたのだ」などと、くだならい言いがかりをつけていますが、そうではありません。

軍事行動については、ときの内閣に第四委員会を設置して、戦闘の利害を研究し、政府の決定で大本営まで設置して事実上の全面的な戦闘に踏み切っているのです。

ときの内閣は、これを「戦争」として宣戦布告をするか、それとも「事件」とするか、十二分に検討したうえで、事件解決のために限定的な戦闘に踏み切っています。

これを軍部だけの単独暴走だの、「戦争」だのというのは、あきらかな侮日工作です。

そもそもこの支那事変勃発の前年には、蒋介石はドイツ政府にと交渉し、高射砲、魚雷、機雷、銃器弾薬等、国民党軍の洋式完全武装のための装備を取りそろえています。

そして翌年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が起こり、これが11日に停戦すると、近衛内閣は戦闘の不拡大のための華北派兵を決断している。

派兵は当然です。現地の治安を確保しなきゃならない。
いまだって国内で暴動が起きれば、そこに警官隊や機動隊を派遣する。あたりまえのことです。

ただし、当時の近衛内閣が華北に移動を命じた兵力は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけです。内地にいる師団の派兵まではしていない。

そもそも、当時の日本に支那への領土的野心はまったくありません。
もし領土的野心があるのなら、現地に汪兆銘政権など認める必要はなく、日本はさっさと支那を征服し、支配下に置いていればよかったのです。

むしろ日本にそれだけの覇気と野心があったのなら、日本は徹底的に蒋介石軍や八路軍を追い込んでいたろうし、占領地の医療・教育・農業振興・殖産興業を、日本人的几帳面さでしっかりと行ったであろうし、そう考えると、内乱で疲弊した多くの支那人たちにとっては、その方がよっぽど幸せだったとすらいえます。

「事にあたって心を動かすな」という誰かの言葉がありましたが、戦闘になったのならなったで、断固とした対応を採らなければ、かえって被害が膨らんでしまう。

支那事変では、なまじ日本が「事変」などと曖昧なで中途半端な対応をしたばかりに、親日派の支那人指導者たちさえも、日本の覚悟と決意に疑念を抱く結果を招いたし、戦争でなく「事件対処」のための「限定的軍事行動」という立場を貫いたばかりに、日本軍の作戦行動に制約が生まれ、徹底的な掃討作戦もできなかった。

実際、こうした日本の曖昧な対応を見て、盧溝橋事件の翌々日には、北京で日本軍のトラックが支那国民党兵に爆破され、なんの罪もない日本兵4人が犠牲になったし、

これで調子づいた蒋介石は、17日には、廬山で演説し「日本の出方次第では、徹底抗戦する!」などといきまいています。

ここでいう「日本の出方次第では」というのは、非常に政治的な言い回しです。
蒋介石は、日本が「戦争による解決はしない」と宣言したことを受けて、「徹底抗戦する」と言っているのです。

これは、対日本向けには、日本が攻めてくるなら徹底的に戦うぞ、というメッセージになりますが、
対国民党兵士向けには、
「日本軍は、たいした兵力を出してこないとわかったから、徹底的にやっつけようぜ!」という意味です。

日本は、この間もなんとかして和平の道を探ろうと、国民党側代表と再三にわたって停戦調停を設けるのだけれど、19日になると、盧溝橋の国民党が、日本軍に対して一斉射撃をしてきます。
ぜんぜん和平するそぶりがない。

要するに、近衛内閣の、いっけんやさしさと慈愛にあふれた戦闘不拡大方針と戦力の不投入宣言が、日本軍甘し!というメッセージとなり、かえって戦乱を泥沼化させた。

戦争というものは、いわば国家の威信をかけた最後の手段といえます。
やるかやられるか、なのです。
そこには人の命がかかっている。

絶対的に有利な武器を持っていたら戦争にも戦闘にもならない。そのことは核を保有した米ソの冷戦が、その後の歴史の真実で証明しています。
要するに、舐められたらヒドイ目に遭うのです。

7月25日には、郎坊駅で国民党軍が、少数の日本兵を襲撃します。
7月26日には、国民党軍の依頼を受けて広安門居留民保護に駆けつけた日本兵が、広安門で国民党兵に襲撃されるという広安門事件が起きています。

この事件などひどいもので、支那側の市当局とちゃんと交渉して、居留民保護のために日本兵が26台のトラックに分乗して、現場に向かったのです。
城砦都市の門が閉められていたので、城砦側の国民党と交渉し、ちゃんと了解を得て、門を開けてもらい、トラックを中に進ませた。

すると、半分強のトラックが城門をくぐったところで、突然、城門が閉ざされた。

城門をくぐるトラックというのは、門の外で終結し、一台ずつ城門から城内にはいります。
城内に入ったトラックは、後続車を待つために、門の内側に集結している。

つまり、塀の高い城門の、中と外に日本兵の乗ったトラックが分断された状態で集結している・・・そういう情況で、突然城門が閉ざされ、城門の上やら、塀の上から、不意打ちに国民党軍が手榴弾や機関銃で猛射を浴びせてきたのです。

この事件で、日本側は、兵士15名が死亡。他に民間人の通訳、新聞記者など4名の、合計19名の命が失われています。

突如約3000人の冀東防共自治政府保安隊(中国人部隊)が、華北各地の日本軍留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民約420名を襲撃し、約230名が虐殺された。これにより通州特務機関は全滅。

さらに3日後の7月29日には、通州事件が起こっています。
この事件は、支那軍が三千名の大軍で、過半数が婦女子だった日本人居留民420名を突然襲い、約230名を虐殺。された。これにより通州特務機関は全滅。女性は子供から老婆まで全員強姦され、裸体のまま膣部にほうきを刺すなどして殺害され、腹から腸を出されて殺害されている者、針金で鼻輪を通された子供、両手を合わせて針金を通されて結ばれ、10本の指を全部切断されている子供など、殺され方が極めて残虐なものです。

なお、このとき世界の報道で使われた事件写真が、アイリス・チャンの南京大虐殺時の日本軍の残虐行為の証拠写真として日本を貶める工作に使われています。空いた口がふさがりません。


このあたりまで戦闘は北支(北京近郊)での限定的なものでした。

一方国民党軍は、ドイツから豊富な兵器の提供を受けたのを奇貨として、前年の11月ごろから、張治中を軍長とする第4路軍が、続々と集結を開始します。

上海は、この時点では本来、非武装地帯だったのです。
なぜなら、昭和7(1932)年の多国間上海事変停戦協定があったからです。

その上海に蒋介石は、当時としては世界最高水準の軍装を持つ国民党軍の最精鋭部隊、88師と87師を基幹とする第4路軍を指揮する張治中を派遣し、上海の要塞化と軍隊配置を行います。

繰り返しますが、支那事変において、日支両国は宣戦布告をしていません。
つまり国際法上は「平時」であり、戦争関係ではありません。
そういう中で、国際条約によって定められた非武装地帯に兵力を進め、要塞化まで図ると言うことは、これは明らかに国民党の国際法違反です。

もちろん蒋介石にしてみれば、外国との交渉の結果とはいえ、「俺の国に勝手に非武装地帯なんか作りやがって!」という屈辱感があったことは事実でしょう。
しかし、条約は条約のはずです。

蒋介石率いる張治中の上海軍は、この非武装地帯に、なんと二万個以上のトーチカを作ります。
これ自体、明らかな国際法違反です。

ちなみに、中華民国国防部の「抗戦簡史」によると、以下の記述があります。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
当局は、張治中にひそかに命じて南京、上海方面の抗戦工事を準備させ、優勢な兵力をもって敵の不意に出て、上海の敵全部を殲滅してこれを占領し、爾後、敵の増援を不可能にしようと企図した。
(そして)民衆の組織訓練を実施した。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

要するに、国民党は「停戦協定違反」を認めているのです。


ところが日本はのんきなものです。
政府も参謀本部も、出兵は北支(北京近郊)にとどめ、上海には戦線を拡大しないよう指令を出している。

日本が、主力戦闘団を出さないなら、支那側にしてみれば、気楽なものです。

昭和7(1932)年8月9日、上海国民党司令の張治中は、
「徹底的長期抗戦をもって日本軍を殲滅すべく、今や最良の好機である。日本の作戦持久は6ヶ月を越えない」と管区将兵に訓示しています。

そしてこの日、斉藤与蔵一等水兵の運転する車で上海市内を走行していた海軍陸戦隊の大山勇夫中尉が、理由なく多数の支那兵にいきなり機関銃の乱射を受け、両名とも死亡します。(大山事件)。
さらに一人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺されます。日本側が先に発砲したように見せかけるための張治中の工作です。


同じ支那人どうしのヤラセはともかく、世界中どこの国でも、一緒に戦う仲間が敵に殺されたら黙って捨て置けないのが軍人です。
「みんなはひとりのために。」たった一人でも仲間の命を奪う奴がいたら、徹底的に戦う。それが軍人精神です。

しかし、上海での戦闘を避けたい日本は、第三艦隊司令長官谷川清中将に命じ、国民党に対して、日本は、二名の兵士の死亡について責任追及をしない。その代わりに、あなたたちは国際法で定められた上海の停戦協定区域内から出てもらえないか、と交渉します。

仲間が殺されたのです。
いくら上層部の命令とはいえ、このときの谷川中将以下、第三艦隊の面々のくやしい思いはいかばかりだったでしょう。

しかし、彼らは軍人です。軍は国家の命令を受けてはじめて動く。
彼らは、仲間を不条理に失った辛い思いを抑え、粛々と戦闘の拡大を招かないよう、交渉を行います。


ところが事件の翌日(8月11日)になると、支那側は谷川司令長官の要求を拒否するどころか、公然と軍隊を上海に増強させ、租界地周辺にまで堂々と布陣してしまいます。

この時点で支那側の兵力は約5万です。

しかも国民党の最精鋭部隊です。ドイツ製の武器で完全武装し、十分な訓練も積み、軍を率いる参謀部は、ドイツ軍事顧問団です。

対する日本の第三艦隊陸戦隊はわずか4千。

これだけの兵力差があって「徹底長期抗戦」だの「日本の作戦持久は6カ月を超えない」だの、いい加減にしろと言いたくなりますが、絶対的に優勢とみるや、とたんに強気になるのは、卑怯者の常です。


8月13日午前10時半、上海商務館付近の国民党軍は、突然、日本軍陣地に対して機関銃射撃を開始します。

やむなく海軍陸戦隊は応戦します。どう考えてもこれは正当防衛です。
5万対4千の兵力差に加え、機関銃等、圧倒的に有利な火力を持った敵が先に発砲してきたのです。

しかも日本側は、完全防衛戦術に徹しています。

敵が撃たなければ撃たない。
戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定して戦う。

しかも戦いの途中で、支那軍の爆撃機が低空を飛行したけれど、陸戦隊は対空砲火をしていません。
近くには列強の公使館が立ち並ぶ租界地があります。
日本は、戦線の拡大を阻止し、なんとかして列強各国の調停の申し出を期待しのです。


ところが、日本軍の反撃が限定的なものとして甘くみた支那軍は、午後4時54分には、市内各所の橋を爆破(これにより日本軍には戦車などの援軍が来れなくなる)し、戦闘中の日本海軍陸戦隊を孤立させ、包囲したうえで、猛烈な砲撃を開始します。

このままでは、さすがに日本側が全滅してしまいます。

やむなく午後5時、大川内上海特別陸戦隊司令官は、全軍の戦闘配置を命令します。


つまり日本は、支那側が非武装地帯に兵力を展開し、トーチカを作り、市中走行中の日本の尉官を理由なく殺害され、あたかも日本が先に攻撃したかのように支那人が同国人を殺害し、和平韓国を無視して戦闘が開始されても、最小限の応戦だけにとどめ、周囲を完全包囲されてもまだ我慢し、半日の攻防の末、敵が完全にせん滅戦を挑んできてはじめて、ここで「全軍戦闘配置」を命じている。

これでもまだ日本の軍部の暴走だの、侵略行為だのという人がいるのなら、もはやその人は頭がどうかしているとしか言いようがないです。

なかには日本が軍を出しているからこうなるのだ、などとわかったようなことを言う人がいるかもしれないです。

当時の支那は、いまで言ったらソマリアみたいなもので、いわば無政府状態です。

各国の公使館は、どの国も軍隊を進駐させていたし、そもそも日本の派兵はいまでいったら国連平和維持活動の部隊みたいなもので、支那国内の民間人を護るために駐屯していた。

それも戦争を防ぐために、最小限の派兵しかしていなかった。
だから通州事件など、日本人に多数の犠牲者が出る悲惨な事件が起こっているのです。

日本軍の駐屯地は、いずれも支那各地に設けられていた共同租界の中です。
条約によって、各国の公使や民間人、軍隊がそこに駐屯していた。
しかも兵力は最低限です。とてもじゃないが、侵略などできるような規模のものではない。
後楽園ホールに満員の観客の警備のために、数名の警察官が派遣されているようなものです。

もうひとつ。
ソマリアの話が出たので追加すると、ソマリアの海賊退治のために各国が軍を出しているけれど、そもそもどうしてソマリア沖に海賊が出現するようになったのかというと、ソマリア沖で支那人たちが魚の乱獲をした。
おかげで、ソマリア人の漁師たちが飯が食えなくなり、やむなく彼らが自衛のために武装を始めた。それが発展し、海賊となっています。

それにしても、第二次上海事変における初期の海軍陸戦隊の動きは、客観的に見て、見事というほかないです。
誰だって撃たれるのは怖い。まして敵は10倍以上の兵力です。
それでも、あくまでも防衛戦であるという一点を守りぬき、撃たれたら撃ち返すというだけの戦法で、よく敵をしのいだものだと思います。


同じ日、さすがの情況を見かねた英米仏三か国の上海領事は、日支双方に上海市内での敵対行動を回避するための直接交渉を勧めます。
そして、具体的解決案として、次の3つを提言します。

1 支那軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2 日本軍は国際租界から撤退する。
3 支那軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

この解決案は、日本国政府にこの日の深夜には情報がもたらされます。
現地からは、五個師団の派遣の要請があったけれど、日本政府は戦線の拡大を極力抑えるために、一個師団の増援を決定する。


三か国の停戦勧奨、日本の戦線不拡大方針の一方で、圧倒的戦力に自信を深めた支那軍は、翌8月14日午前9時15分、支那軍の飛行機が日本軍上海上陸本部に銃撃を加えます。

また10時55分には、別な航空部隊が、日本の第三艦隊に飛来して爆弾を投下します。

そして午後4時頃、支那の飛行隊は、4機で上海の外国人租界地の中心部を爆撃します。
飛行上から250キロ弾を投下し、これが租界地4カ所で炸裂、市民2000人以上が亡くなっている。
この空爆では、有名なライシャワー国務長官の兄も死亡しています。

上海空爆
上海空爆


どうでもいいことですが、国民党は、この非戦闘員である一般市民2千人を外国人租界で殺害したことを大戦果として、いまでも8月14日を誇るべき「空軍節」としています。


8月15日、日本政府は、支那軍の暴挙を食い止め、蒋介石国民党に反省を促すために出兵をする、との、国際声明を発表します。
ただし、日本は依然、不拡大方針で、事変の早期解決に努力すべきであるとしています。

ちなみに、租界地というのは、いまでいったら外国の大使館と同じで、そこは土地は支那の中にあっても、外国です。
支那による空爆は、上海租界地内の日本の横浜正金銀行上海支店ビルなどを破壊したけれど、それは要するに日本本土が空爆されたのと同じ意味を持ちます。

蒋介石が同じ日に、全国総動員令を下し、国民党大本営を設置するとともに、自ら陸海軍総司令に就任し、純然たる全面戦争体制をとります。

同日、毛沢東は紅軍の名称を「国民革命軍第八路軍(八路軍と呼称)」と改称します。

支那は、軍閥の国民党と、毛沢東率いる共産党の2つが呼応して、抗日十大綱領を掲げた。
いよいよ国共合作の実をあげて、支那人民総決起、完全に日本との戦争態勢を整えます。

なんの罪もない一般市民を、突然の空爆で殺害し、それを祝して全面戦争体制を取る支那。
戦線不拡大方針を貫き、和平を探ろうとする日本。

やむなく日本は、陸軍上海派遣軍を編制し、松井石根大将が司令官に就任します。後に南京大虐殺を指揮したとされる松井司令官です。

また海軍は、九州からの渡洋爆撃をこの日から開始します。目標は敵航空基地です。
これは短期間で、効果をあげます。
つまり、航空機を輸入に頼る国民党軍は、いまある手持ちの飛行機を空爆され、爆破されたら、もうあとがない。日本はあっという間に、上海周辺の制空権を掌握してしまいます。

8月18日、英政府は、日支両国に対して、「両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告します。
米仏政府も、これを支持します。他の諸国は中立を表明します。

ところが、この時点で制空権は失ったものの、いまだ大軍が健在な国民党は、この勧告を完全無視します。
現場は戦いの最中です。銃弾が飛び交っている。
その中で、日本だけが、武装を解いて、戦闘を中止し、撤退することなどできません。
なぜなら、そんなことをしたら、その時点で日本軍は全滅してしまうからです。敵弾が飛んできているのです。


8月22日、松井石根大将率いる上海派遣軍三個師団が、上海北部沿岸に上陸します。

そこから上海租界地まで到達するためには、あらかじめ支那軍が構築した頑強な二万個のトーチカ群を突破しなければなりません。

しかも、支那軍の兵員は、中央軍の精鋭14〜15師です。
ドイツ参謀部が詳細に検討し構築した、網の目状のクリーク地帯。堅固な火点。

さらに支那軍は、追加兵力を次々と投入してくる。

その中で、およそ一ヶ月、松井石根大将率いる上海派遣軍は、果敢に戦うけれど、死者2,528名、負傷者9806名というたいへんな損害を被ります。

やむなく9月11日には、日本は第9、第13、第101師団、野戦重砲兵1個旅団の追加派遣を決定します。

しかし、敵兵力は、この時点で60万です。

戦況は一向に進展しない。
さらに各部隊に、コレラが発生。
砲兵弾薬も不足します。

やむなく日本は、10月20日に、新たに第10軍を編成し、第6、第18、第114師団に加えて、野戦重砲兵第6旅団、および第四艦隊を派遣。

増援を得た上海派遣軍は、一気に支那軍を攻撃します。

そして11月9日までに、支那国民党60万の兵力は、20万人以上の死傷者を出してほぼ壊滅します。

そして11日までに国民党兵士たちは、上海から退却してしまいます。

ところがこの退却に際して、ひと悶着が起こります。

支那国民党軍は、退却の際に、上海市内で徹底した掠奪と破壊をしているのです。

支那軍は、撤退する際には、掠奪や強盗・強姦を行うのが常態です。
あるフランス将兵によると、彼は支那の住民側も掠奪されるばかりではなく、数で勝る住民側が国民党兵士たちを袋叩きにして殺害する光景を何回も見たといいます。

また、支那の敗残兵によって、上海のフランス租界の重要機関が放火され、避難民に紛れた敗残兵や便衣兵らと、フランス人の警官隊が銃撃戦を行ったという記録もあります。


国民党兵士たちが去った後、上海の英字新聞には、次のような記事が載りました。


「国民党軍の撤退によって、上海に居住する数百万の非戦闘員(市民)の危険が非常に小さくなった。
我々は日本軍に感謝すべきである」


以上が第二次上海事変と呼ばれる昭和12(1937)年8月〜11月にあったできごとの概略です。

この事件のあと、上海派遣軍は南京へと向かいます。

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第二次上海事変における中国人による日本人捕虜の残虐処刑 (1996 CNN)


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いまなお続く法輪功弾圧

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法輪功燭光の写真


法輪功事件というのは、たびたび日本でもブログサイトなどで扱われるのだけれど、実は、いまだに続いている支那政府による残酷な弾圧事件です。

法輪功というのは、もともと支那で李洪志という人が、平成4(1992)年に、支那で始めた気功健康法の団体です。
支那の善意の歴史と伝統を現代に蘇らせ、これを学習しようという団体でもあります。

創始以来、支那国内で法輪功の学習者は劇的に増え、一説によれば1億人を突破しているという説もあります。

平成11(1999)年になると、江沢民は法輪功を全面禁止処分にし、創始者の李洪志を国際手配します。

支那共産党が法輪功に対して危機感を抱いたのは、

1 支那共産党が長年存在しているにもかかわらず、その党員数が法輪功に遥かに及ばないこと。
2 法輪功の主張する「真善忍」という概念が、支那に住む多くの善良な人々に生活の将来性と生きがいを提示していること。
3 法輪功の概念が、支那共産党の嘘と暴力の支配体制の、いわば「対極にある」ものであるから、
といわれています。

法輪功が説く「真善忍」という概念のうち、「忍」について、法輪功のHPにあった一文を紹介します。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「心が動じない」という「忍」 作者・唐開
http://www.epochtimes.jp/jp/2009/12/html/d88741.html

漢字は実におもしろい。
「忍」という字をよく見てみると、「心」に「刃」が刺さっているではないか。

痛いはずだが、刺されている心は安定していて、まったく動じない様子。
痛さを我慢するという「忍耐」ではなく、痛ささえも感じない、心が動揺しないことこそ、本当の「忍」の境地であり、古人がこの字で私たちに伝えたかったことかもしれない。

中国では昔から「忍」の精神が語り継がれてきた。

漢の時代、劉邦の大将軍をつとめた韓信という名将は、小さい時から「忍」の精神が並の人ではなかったという。
彼は少年時代から武術をたしなみ、武術者としていつも剣をさげていた。

ある日、彼が街を歩いていると、ならず者が道の真ん中で仁王立ちして韓信に、

「お前は偉そうに剣をさげているが、人を殺す勇気があるのか。殺せるものなら、俺の頭を切り落としてみろ。殺す勇気がなければ、俺の股下をくぐって行け」と挑発した。

韓信は周囲のあざけりの中、本当にその股下をくぐった。

どんな時も衝動に煽られず、「忍」という動じない心を持っているからこそ、後に偉業を成し遂げたのだと後世は彼を讃える。


孔子の言葉に、
「小忍ばざれば則ち大謀を乱る」
(小さな事を我慢できないようでは、大きなことを成し遂げることは出来ない)がある。

辱められても、勇気を持って耐え、動揺しない。
刃が刺されても動じない。
そういう修養と意志、真の意味での「忍」の心を持ちたいものだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

要するに法輪功というのは、こうした支那に古くからある教えを、広く華人たちに知らしめ、支那を本当の意味で民主化につなげていこうという運動をしています。

はやくいえば、支那の良心といえるかもしれない。


もうひとつ、法輪功のHPからの紹介です。
(ちなみに、ねずきちは別に法輪功の信者とかではありません)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「試練を乗り越え、生まれ変わる」

空高く舞い上がり、力強く飛ぶ鷹(タカ)の一生をご存知ですか?

鷹は鳥類の中でも寿命がもっとも長く、70年ほど生きることが出来るといわれている。
しかし、実際にその長い命を全うするためには、40年という節目に、必ずや一つの大きな試練を乗り越えなければならないのだ。

40歳ごろになると鷹は爪の老化が始まり、獲物を捕らえにくくなり、くちばしも長く伸びすぎて、胸まで曲がってくる。
さらに、羽が多く、分厚くなりすぎているため、重くて飛びにくくなる。

この時期の鷹には二つの選択しかない。
このまま何もしないでただ死ぬのを待つか、自らを変えるために様々な苦痛に耐え、【試練を乗り越え】生まれ変わるか、どちらかである。

鷹の中の勇者達は、やがて渾身の力を振り絞って絶壁に飛び上がり、巣を築く。最初の50日間で、岩石を突いて痛みに耐えながらくちばしを削り落とし、再び生え出るのを静かに待つ。

そして、次の50日間で、生え出たくちばしで、さらなる痛みに耐えながら爪を剥ぎ取り、再生するのをさらに待つ。

最後の50日間で、生え出た爪で、古い羽を1本1本抜き取っていく。

この150日間の間、鷹は生まれ変わるために、ひたすらさまざまな苦痛に耐えて過ごすのである。

やがて鷹は、新たなくちばしと、新たな爪と、新たな羽が揃った翼で、再び、次の30年に向かって羽ばたくのである。

孟子の教えに、

「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、其の筋骨を労し、其の体膚を餓やし、其の身を空乏し、行ひ其の為すところに払乱せしむ」
というのがある。

苦難にじっと耐え、身を削るような努力をする、それをする勇気と精神力の持ち主だけが、新たな境地を迎えることができるのだ。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

江戸時代の日本人が、日本精神として学んだ教えが、ここにあります。

法輪功といえば、カルトであり、邪教であり、支那国内では「法輪功は、気のとき薬を飲ませず、殺人と焼身自殺させる」などと宣伝しているのだそうです。

そして暴行や殺人による弾圧は、いまもなお続いている。

一例を写真で紹介します。
あまりに残酷なものが多いので、URLだけ貼っておきます。
http://photo.minghui.org/images/persecution_evidence/death_300_1.htm

実は、私たち日本人も、かつて通州事件や通化事件、あるいは尼港事件その他、大陸でこの法輪功の被害者たちと同じ目に遭わされてきました。


次にあるのは、法輪功のHPにあった言葉です。

=================

 本当に勇気ある人は

 静かで平和的な方法によって闘う

==================

この世は、もしかすると古代のゾロアスター教の教えにある善と悪の永遠の戦いの場なのかもしれません。

さいわい日本は、陛下の御元で、圧倒的に善神が強い国家として長い年月を過ごしてきました。

私たちは、私たちの住む日本の文化を護り、育て、あらゆる悪に敢然と、そして静かに平和的に戦い続ける民族であってほしいものだと思います。

そして同時に、断固として、二度とこうした悲惨のない国家の建設を図ってゆく必要がある。

そのためにも、私たち日本は、世界に誇るやさしさを持った国家として、断固たる軍の備えをし、市民の一人ひとりが、断固として戦う気概を持つ必要があると思います。

韓信といえば、数千の兵で趙の二十万の軍勢を「背水の陣」をもって打倒したという伝説の人物です。
麻雀の好きな方なら、国士無双の言葉が、実は韓信を讃えて生まれた言葉でもある、短槍の名手の大将軍です。

その韓信が「股くぐり」をしたから絵になるわけで、ただの弱虫で、なんでもかんでもカネで解決しようとする卑怯者が股くぐりをしても、何のシャレにもなりません。

日本が、世界一美しい日本の心を維持していくためには、日本は同時に世界一強い武装国家である必要がある。

そして世界一の強者であればこそ、静かで平和的な闘い方をし、この世から悲惨の二字をなくすことができるのだと、ねずきちは思っています。

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法輪功信者虐殺と日本にいる支那工作員の実態


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ねずきち

Author:ねずきち
日本が好きです。ていうか人間が大好きなのかな。心って、ものすごく大きなこともなしとげる。その時代時代に、真剣に生きた人たちから学ぶこと。歴史って、いまを生きる人が過去に学ぶためにあると思う。だから、歴史にIFは禁物だなんて思わない。歴史を学び、もし〜だったらと考えることで、人は何かを感じることができるんだと思う。

政治に混迷が続く中で、もういちど私たちは過去を振り返ってみる必要もあるのではないか。そうすることで、もしかしたら一条の新しい光を見出すことができるのかもしれない。

このサイトで扱っている動画はYouTubeにアップロードされているもので版権物の知的所有権は、それぞれの著作者・団体に帰属してます。問題があればすぐ削除しますので、
nezu621@yahoo.co.jp
までメールでご連絡ください。

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足跡
特定IPからの投稿/閲覧の禁止について
5月6日付のこのブログ「外国人による凶悪犯罪が日本人の生活を脅かしている」という記事において“大阪のおっさん”と称する人から、連続した投稿がなされました。
記事:http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-492.html
調査しましたところ、それらコメント投稿には、IPアドレスにすべて同一の末尾が“eonet.ne.jp”というIPが用いられていることが判明しました。
IPアドレスは、パソコンをインターネットに接続する際のモデム(弁当箱のような機械)ごとに割り当てられるものです。
たとえばひとつの事務所に複数台のパソコンが設置してある場合でも、ひとつのモデムから複数台のパソコンを接続しているならIPアドレスは同一のものとなります。
従いまして、ネットカフェのように多数のパソコンを設置しているところでも、IPアドレスは同一のものとなります。
ところが、大阪のおっさんさんから投稿されたIPアドレスは、いずれもIPアドレスが異なっており、しかも末尾は決まって“eonet.ne.jp”となっています。
このことは、次のいずれかの場合に起こることといえます。
 ‖膾紊里っさんなる人物が複数いる(組織的活動である)
◆。稗丱▲疋譽垢鯊真使い分けれる環境にあり、しかもそのPCはすべて“eonet.ne.jp”を使用している。
 特別なソフトを用いて、IPアドレスを偽装している。
そして、大阪のおっさんなる人物の投稿に用いられたIPアドレスは、古いものから順に次の通りとなっています。
121.80.34.224.eonet.ne.jp
59.80.162.240..eonet.ne.jp
121.80.162.240.eonet.ne.jp
121.80.35.80.eonet.ne.jp
59.190.75.28.eonet.ne.jp
59.190.97.23.eonet.ne.jp
121.80.34.144.eonet.ne.jp
121.80.27.166.eonet.ne.jp
121.80.33.57.eonet.ne.jp
121.80.14.1.eonet.ne.jp
59.190.103.81.eonet.ne.jp
59.190.71.32.eonet.ne.jp
121.80.16.134.eonet.ne.jp
121.82.192.42.eonet.ne.jp
ごらんいただいてわかります通り、彼の14件の投稿は、すべて異なるIPを使用しており、それらすべての投稿はすべて“eonet.ne.jp”を経由していることがわかります。
なかでも、大阪のおっさんからの5月7日の投稿は、投稿時間が22:16と、22:24と2件が連続された投稿でありながら、それぞれのIPアドレスは別々であり、しかも末尾は同じ “eonet.ne.jp”です。
この“eonet.ne.jp”をネットで検索しみますと、このアドレスについて、2ちゃんねるで、「無意味な文字列の連続投稿(連続コピペ)による2ちゃんねるに対する迷惑行為」が発生しており、このため2ちゃんねるでは、このIPからのアクセスを全面的に禁止処分にしていることがわかりました。
参考:http://qb5.2ch.net/test/read.cgi/sec2ch/1076733717/l50
本ブログに投稿されたすべてのコメントを精査しましたが、末尾“eonet.ne.jp”のIPは、他のコメントには見当たりませんでした。
そこで当ブログにおいても、2ちゃんねる同様、“eonet.ne.jp”からのアクセス、ならに閲覧を全面的に遮断することにしましたので、あしからずご了承ください。
なお、問題のあった記事につきましては、なななさん、四姉妹(ししまい)でおしまいさん等から、中立(?)ともとれる内容の投稿がなされていますが、この2件も、やはり末尾が“eonet.ne.jp”経由の投稿です
もしかしたら大阪のおっさんさんとは、関わりのない方かもしれませんが、多くの方が訪れるこのブログの健全性を保つためのやむをえない手段ですので、何とぞご了承いただきたいと存じます。

ねずきち 拝
コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、ねずきちにはとっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。
同時に、議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。
ねずきちは、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。
ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。
従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人であるねずきちの判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
“けんぶつ”氏からの投稿禁止措置について
これまでこのブログに投稿された“けんぶつ”さんの投稿について、調査しましたところ、その投稿のすべてが、ひとつひとつの投稿が、全部、異なるIPアドレスで行われていることが判明しました。
本来、IPアドレスは、パソコンそれぞれに割り当てられる固有のアドレスです。
コメントをくださる方が、複数のパソコンを用いていたり、ネットカフェを転々としながら投稿される場合にも、もちろんIPアドレスは、コメント毎に異なることになりますが、この場合は、IPアドレスの末尾にあるプロバイダの固有記号が、違う業者のものになるのだそうです。
ところが、”けんぶつ”さんの投稿は、同一のプロパイダから、IP部分だけを数字であからさまに改ざんしたアドレスが用いられています。
これは、以前あった、大阪のおっさんさんと同じく、故意になんらかのソフトを用いて、IPアドレスを詐称して、投稿をしていないかぎり、起こりえないものです。
このブログでは、自由な言論、自由な意見を尊重するものですが、不正ソフトを用いる者まで、受け入れるつもりは毛頭ありません。投稿の内容や趣旨以前の問題です。
したがいまして、当面、以下の措置をとらせていただきます。

(1) みなさまは、“けんぶつ”と称する者からのコメントには、いっさいお答えの必要はありません。
(2) ”けんぶつ”さんの用いているIPは、投稿禁止措置をとらせていただきます。

“けんぶつ”氏がコメントで用いているIPは、九州のBBIQという光ブロードバンド事業者のものが、大半を占めます。他にもいくつかの事業者のものをご利用されているようです。
今回、BBIQ経由のコメントを禁止措置としましたので、“けんぶつ”以外の一般の読者の方で、BBIQを利用されている方まで、コメントの書き込みができなくなります。
たいへんご迷惑をおかけして申し訳ないのですが、不正者排除のため、当面、この措置を継続させていただきます。
以上よろしくお願いします。
解析
田母神俊雄先生・林潤先生講演会のお知らせ
日本の心をつたえる会主催
◆◆◆いざ!鎌倉へ◆◆◆
田母神講演会
「講演テーマ」
誇りある日本を取り戻すためには
----------------------
日時 2010/4/3 19:00〜
場所 鎌倉芸術館ホール
神奈川県鎌倉市大船6-1-2
前売 2000円(当日2500円)
出演 元航空幕僚長田母神俊雄氏
   前衆議院議員林潤氏
   元鎌倉市議伊藤玲子氏
----------------------
前売券お申込窓口
電話 090-1258-3344
   受付時間
   月・水・金
09:00〜13:00
FAX 0487-43-0926
E-mail
office@nippon-kokoro.com
郵送 〒247-0056
神奈川県鎌倉市大船2-20-34
林潤事務所
----------------------
≪チケット発送について≫
送金確認後郵送でお届けします
≪送金先口座≫
ゆうちょ銀行
記号 10360 番号 62735311
  ---------
銀行から送金の場合
ゆうちょ銀行 〇三八支店
普通 6273531
日心会講演会事務局
みなさまにお知らせ
「日本の心をつたえる会」は、
只今、会員募集中です♪

↓↓クリック↓↓
つ

みんなのチカラで日本を再生!
 「日本の心をつたえる会」は、
 草の根徳育推進を行う会です。
登録無料!手続簡単!
【入会申込方法】
以下を書いてメールして下さい
(1) ハンドルネーム
(2) お住まいの都道府県
(3) メールアドレス
(4) ひとこと

宛先:assist@nippon-kokoro.com

設立 2009.9.6
2010.01.26時点会員 1520名
メーリングリスト参加者 631名


【カンパのお願い】
日本の心をつたえる会では、皆様からのご支援をお願いしています。
 ****ご支援先****
 銀行名  三菱東京UFJ銀行
 支店名  春日部支店
 普通    No. 0051756
 ニホンノココロヲツタエルカイ
*************
1口千円から。何口でもOKです
日心会バッチができました
日心会のバッチとストラップができました。
バッチ(徽章)は、紳士用とご婦人用があります。 (ピンの形状が異なります)
画像をクリックすると拡大します。
バッチ

ストラップは、携帯電話用とファスナーホルダー用があります。
ストラップ

↓ご購入ページはコチラ↓
http://nipponkokoro.cart.fc2.com/
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伊勢神宮式年遷宮奉賛金寄付について
日本の心をつたえる会では、20年に一度行われる伊勢神宮、式年遷宮のための寄付を会として行っています。
平成23年末まで、みなさんから寄付を募り、日心会としてこれをとりまとめて伊勢神宮に寄付を行います。

■関連記事
「伊勢神宮の式年遷宮に
協力しよう」


ご寄付のための専用口座は
次の通りです。

■ゆうちょ銀行からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
記号   10380
番号   57524261
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニッシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキョク)

■他の金融機関からお振込
銀行名  ゆうちょ銀行
支店名  〇三八
(読み:ゼロサンハチ)
店番   038
  預金種目 普通預金
口座番号 5752426
口座名
   日心会式年遷宮奉賛金事務局
(ニツシンカイシキネンセンク゛ウホウサンキンシ゛ムキヨク)

神宮遷宮は、1300年間行われ続けた伝統行事です。
日本の歴史では、古来国家の歳費で行われてきましたが、これが歳費で行われなかった時代が2つあります。
ひとつは応仁の乱から戦国時代。国が荒れて国費は遣われませんでした。
もうひとつは日本国憲法下の日本。つまり現代日本です。
日心会では、国家の伝統と文化保護のため、みんなで力をあわせて式年遷宮の伝統行事を応援します。
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