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icon icon世界に誇る日本の女性
2009/10/07 00:40
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緒方貞子さん
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昨日は、明治の女性でEUで最も有名な日本人として、クーデンホーフ光子さんの物語を書かせていただきました。

なので今日は、現役でいまも活躍をしておいでて、しかも日本人女性として世界的に有名な女性を書いてみたいと思います。

その人の名は、緒方貞子さん。

経歴がまたすごいです。

 聖心女子大学文学部卒業後、

 ジョージタウン大学大学院修了
 カリフォルニア大学バークレー校大学院修了

 前職 上智大学

 国際基督教大学準教授
 上智大学外国語学部学部長

 国連公使
 国際連合児童基金執行理事会議長
 国連人権委員会日本政府代表
 第8代国連難民高等弁務官

 2001年からアフガニスタン支援政府特別代表
 2003年から国際協力機構(JICA)理事長・・・

いやはや、ねずきちのような凡人には到底およびもつかないすごい経歴です。

この緒方貞子さんが、国際的に一躍名を馳せたのが、彼女が重責多忙を極める国連難民高等弁務官を1991年から10年間勤めあげたこと。

ちなみにgooで“緒方貞子”と入れて検索してみたら、「緒方貞子ってそんなに偉いの?」なんていう質問コーナーがありました。

その中の答えのひとつ・・・

「彼女は日本有数の超名門一家に生まれ、何不自由なく育って 死ぬほどあるコネクションで今の地位にのぼっただけ。人間は生まれながらにして、不平等であるということを身をもって教えてくれてます。もし彼女がごく普通の家庭だったら、今頃はそこらへんのババアと同じということでしょう・・・」

わるいけれど、ねずきちには、こういう答えを書く人の気がしれないです。

超一流の名門一家に生まれ、何不自由なく育ち、死ぬほどあるコネクションがありながら、なにひとつ社会に貢献できない人がウヨウヨいるなかで、本当に努力し、世界中から高い評価を得ている逸材に対して、かくもさもしい言い方がどうしてできるのか。

とてもじゃないが、そういう回答をする人が同じ日本人とは到底思えません。

しかも彼女のやってきたことは、それこそ命がけの紛争最前線に立って現場の指揮を執り、さらに並みいる世界の強国を相手取ってコアな交渉を実現すること。

幕末の坂本竜馬の役割を、国際舞台で堂々と行ってきたのです。

緒方貞子さんの祖父は、昭和7(1932)年5月15日、5・15事件の凶弾に倒れた犬養毅元首相です。彼女は、幼いころから祖母から当時の政治状況を聞かされて育った。
貞子さんがのちに米カリフォルニア州立バークレー校で取得したときの政治学博士号の論文は、
「満州事変と政策の形成過程---日本は自己を破滅に導くような膨張政策をなぜとらなければならなかったのか」で、この論文は原書房から本になって出版されています。

本の中で彼女は、日本における帝国主義はファシズムとはいえない、という論説を展開しています。正鵠を射ていると思います。

緒方貞子さんの国際評価が高まったのは、海外からです。

1991年、63歳で国連難民高等弁務官に就任した貞子さんは“行動する高等弁務官”として、世界を駆け回った。


最初に抱えた問題が“クルド難民危機”です。

クエートへの侵攻で始まった湾岸戦争直後に、イラク軍によってイラク北部で武装蜂起したクルド人が制圧された。このとき、175万人に及ぶクルド難民が発生したのです。

隣国トルコは、難民の受け入れを拒否します。

このため、クルド難民は生活困難な山岳地帯に追い込まれた。

ちなみに朝鮮戦争のとき、北朝鮮の南下侵攻によって発生した朝鮮人難民を、日本は、日本自体が戦後の焼け野原状態にあったのに、これを保護し、国内定住を許しています。

それがいまの在日コリアンたちなのだけれど、要するに、イラクを追われた難民を、隣国が受け入れを拒否したがために、クルド難民は壮絶な生き地獄に陥った。

国連難民高等弁務官に就任したばかりの緒方貞子さんは、すぐに現地へ飛びます。

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現場を詳しく視察した貞子さんは、各国の反対を押し切って、イラク北部に強引に難民キャンプを設営します。

そして米軍に、食糧と住居の支援を依頼し、これを継続しました。

これにより、多くのクルド人の命が助かった。


同じ年、バルカン半島ではユーゴスラビア社会主義共和国がソ連とともに崩壊します。

ここでは、主要民族であるセルビア系、クロアチア系、イスラム教徒が、壮絶な権力闘争をはじめ、“民族浄化”と称する殺戮が日常化します。

このためボスニア・ヘルツエゴビナ地域に、約200万人の難民が発生する。

貞子さんは、セルビアのミロシェヴィッチ大統領と交渉します。

しかし、大統領は軍事的強圧的政治手法を変えようとしない。

そこで貞子さんは、国連を通じて国際社会に訴えます。

これを受けて、NATO軍は、セルビアを攻撃します。

そして国連難民高等弁務官事務所は、75万人の難民の保護を実施します。


94年、アフリカ大湖に接するルワンダとブルンジで、フツ族とツチ族による熾烈な抗争が勃発します。

ルワンダ全土で大虐殺が始まり80万人が犠牲になった。
隣国ザイールのゴマ市に流入した難民の数は100万人に達した。
国連は、治安に無能と、世界から批判を受けます。

貞子さん自ら現地入りして実態把握に努めます。
そして国外に避難したフツ系住民を200万、ルワンダ国内避難民を200万と推定。
そして難民を速やかに故郷へ帰還させることを決断します。

しかし、コンゴ・ザイール開放民主勢力連合や、ルワンダ政府軍などの軍隊は、次々と殺戮、残虐行為を続けた。

そこで貞子さんは、97年の安保理事会で“保護や援助行為を行うための最低条件さえ欠如している現在、ルワンダ難民に関する我々の活動は一時中止せざるを得ない”と声明を発表します。

この声明により、安保理事会は、多国籍軍として治安維持に乗り出さざるを得なくなった。

そしてようやく難民の帰還がはじまると、国連難民高等弁務官事務所は、全国規模で住宅を建設し、司法制度を構築した。

暴力が支配する地域では、非力な女性は性的肉体的暴行の被害者になりがちです。
そこで貞子さんは、女性の地位向上のため、女性の教育に注力し、女性の自立を促し能力の向上を図った。

2000年。平和を取り戻したルワンダで、カガメル大統領は、緒方貞子さんに“ルワンダの友”と記した感謝状を送りました。

国際社会が本気で支援の手を差し伸べなかった悲惨な現実の中で、大統領は“真にルワンダの民のために貢献してくれた人”を懸賞したのです。


1970年代から23年間戦場であり続けたアフガニスタンは、世界最大の難民がいる国でもあります。

ソ連の侵攻により国土は荒廃し、米国はイスラム抵抗勢力を支援したのだけれど、ソ連の撤退とともに米国も、あっさりと手を引いてしまう。

復興援助がない中で小康状態が続いたが、人民の生活は苦しい。

1994年タリバンが台頭し、タジク人・ウズベク人・ハザラ族・トルクメン人と衝突、互いを大虐殺しはじめます。

貞子さんは、直接アフガンに乗り込み、タリバン政権と直接交渉をします。

しかしタリバンの反応はかんばしくない。
女性が交渉にくるということ自体が、伝統を無視したものとされてしまったのです。

このため、貞子さんの任期である2000年の時点で、まだ300万人の難民がいた。

98年7月。緒方は自民党総裁選に勝ったばかりの小渕恵三から外相就任の打診を受けます。

このときの貞子さんの回答・・・
「(高等弁務官の)任期が残っているのにもどれません」・・・にべもなかった。

国連高等弁務官の前任者は、母国ノルウェーの外相に就任するため、わずか10ヶ月で職を去ったそうです。

3期10年に及んだ高等弁務官を退いた後、貞子さんは当時の小泉内閣から外相候補に擬せられた。
ところがこれにたいしていも、
「あれはそういうことを言った人がいた、というだけのことでしょう」
とにべもなかった。

ところがアフガニスタン問題で小泉首相から首相特別代表を依頼されると、彼女はあっさり引き受けます。

なぜなら、彼女にはアフガニスタンに悔やみきれない思い出があったからです。

2500万人に及ぶとされる全世界の難民のうち、アフガニスタンは最多の460万人の難民がまだのこっている。
難民はパキスタンに逃れてもいつまでともとも知れぬキャンプ生活。
国に戻れば、そのパキスタンに後押しされたタリバン政権。
そして国際社会は無関心。

貞子さんにしてみれば、やり残した仕事という気持ちがあったようです。

9.11テロの後、タリバンは米国の明確な軍事目標になります。
このとき彼女は小泉首相の要請で、アフガニスタン支援特別代表を引き受けます。

彼女は、東京で復興会議を主催し、新体制のカルザイ政権を支えます。
そしてさらに避難民の帰還と再定住のための人道援助から復興・長期開発への継ぎ目のない移行の達成を目指す日本政府の支援計画“緒方イニシアテイブ”を提案しました。

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国連事務総長コフィー・アナン氏は、緒方貞子さんに最大級の謝辞を送っています。

「国連難民高等弁務官事務所は、緒方貞子さんによって緊急事態即応体制を強化し、関係諸国政府の支持を得て、食糧やその他の救援物資を輸送する大規模な空輸作戦を展開しました。

これは国連難民高等弁務官事務所の歴史上初めてのことでした。

また強いられた移動の解決をはかることと世界の平和と安全を構築することは不可分の関係にあることを、加盟各国に認識させました」


彼女の評価は、着任早々から高かったわけではありません。

当時を知る関係者によると、
「最初はアジアのお金持ちの国から送られてきた女性くらいの感覚」しかなかったそうです。

彼女の就任当時、国連職員の士気は非常に低かったそうです。
職員もリストラで2千人近くまで減っていた。

そんな中で、就任したての貞子さんは、膨大な資料を読み込み、こんなに覚えられるのかと思っていると、ネイティブな英語で次々に鋭い質問が飛んだ。

しばらくすると、貞子さんが事務所に現れただけで、張りつめた雰囲気が事務所に広がるようになったそうです。

平素、物静かで無駄口はきかない。日本人のイメージにつきものの「あいまいな微笑」もない。

最後は、さも当たり前のように決断する。

ひたすら現場を歩き、人の話を聞く。


英エコノミスト誌は「ラストリゾート(最後の頼み)の女性」とたたえ、95年にはユネスコ平和賞を受賞。ノーベル平和賞や国連事務総長の候補にも名前が挙がりました。

当時の部下の一人、UNHCRのカンディス・ロチャナンコ日本・韓国地域事務所代表は、貞子さんの存在が「退官してから一層、鮮明になった」といいます。
そして、緒方を駆り立てた資質を「計り知れぬエネルギー、人道上の被害者に対する妥協なき専心、そして現場主義の熱意」と振り返った。


緒方貞子さんの言葉です。

「日本の教育は、平均点がきわめて高い人材群をつくり出すが、そこに重きを置きすぎていて、リーダーシップの育成には不向きだと感じる。
国際社会で、決まったことを実施する力において群を抜く日本が、なかなか主導権を握れず、何となくもたもたした国だと見られるのは、このあたりに原因があるのだと思う」

「日本では、コンセンサスは自然に形成されると考えられがちだが、実際は、強力なリーダーシップによって形になる」

「あいまいで不透明な問題などというものはない。あいまいで不透明と考えるのであれば、それを個々の課題に落とし込み、課題ごとの方策を考えていくことが肝要なのである」

「上からの保護というのは“統治”の考え方。下からの能力の強化というのは“自治”の考え方。“統治”と“自治”が一体化して、初めてグッド・ガバナンスになる」

緒方貞子さんが虐殺や飢餓から救いだした世界の難民は、何百万人という規模のものです。

そしてその行動と成功は、すべて現場の第一線に立つことから始まった。

いまの日本に必要なのは、テレビ番組での無責任な討論会ではなく、国益を護る強いリーダーの輩出と、謙虚に素晴らしい人から生きざまを学ぶ国民民度の向上なのかもしれませんね。

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