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日本は「たみ」が「おほみたから」とされる天皇のシラス(知らす、Shirasu)国です。


勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本軍人

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インパール作戦のインド国民軍将兵
インパール作戦のインド国民軍将兵


まずはお読みください。

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大東亜戦争の頃、Mさんというインド人の若者がいました。

Mさんは、インド国民軍に参加し、日本軍の新藤(仮)という軍人の下で訓練を受けたそうです。
新藤氏は、日本人にしては色が黒く目鼻立ちが濃かったせいで、日本兵の間で「インド人に似ているから、お前のあだ名はインドさんだ!」とおもしろがって呼ばれていたそうです。

また、Mさんたちからも、そのあだ名と、名前の発音がインドの古称である「シンド」と似ているため、「シンドさん、シンドさん」と親しみを込めて呼ばれるようになったそうです。

新藤氏の訓練は厳しく、Mさんたちインドの兵士を怒鳴りつけたり鉄拳制裁を加えたりするのも日常茶飯事だったそうです。

しかし、訓練が終わると、日本の歌やインドの歌を一緒に歌ったり、言葉を教えあったり、時には特別配給されたお菓子を分けてくれたりと、日本人、インド人を問わず、兵士たちの誰からも尊敬され、愛される上官だったそうです。

そして、訓練も終わり、インパール作戦への開始。その時、Mさんたちは新藤氏の部下(?)として、作戦に参加することになったそうです。
激戦の中、新藤氏の部隊は、強力なイギリス軍の陣地を攻めるため、本隊から大きく迂回してジャングルの中を進み、イギリス軍の背後を突くように、という命令を与えられました。

しかし、攻撃前にイギリス軍に発見され、ほぼ全滅するほどの被害を受けたそうです。

気づけば、Mさんの周囲で生き残ったのは、同世代の若いインド兵がわずか5名。

みんな恐怖で 逃げ散ったためにかろうじて生き残った者ばかりだったそうです。
イギリス軍に見つかれば殺される、と怯えるMさんたちの元に、片腕を失った新藤氏が合流し「作戦は失敗した、本隊と合流しよう」と告げたのだそうです。

ですが、武器も食糧も水もろくになく、本隊がどこにいるのかもわからず、しかも敵兵がうようよいる中では、夜中にしか移動できません。
そんな中でも、重傷の新藤氏は怯えるMさんたちを 励まし、杖代わりの小銃にすがって山中をさまよったそうです。


数日後、食糧も水も尽き、新藤氏の病状も悪化し、いよいよもうダメだ、とMさんが覚悟した時、最悪なことに10人ほどのイギリス軍の小部隊が近づいてくるのを発見します。
新藤氏は、Mさんたちにこう告げます。

「私は、この怪我ではまもなく死ぬ。だが、諸君はなんとしても生き延びて、インドの独立のために戦いなさい」

うなずくMさんたちを地面に伏せさせ、その上に土や落ち葉をかぶせた後、新藤氏は 「ガンバレ!」と叫ぶと、弾の尽きた小銃だけを手に、イギリス軍に向かって駆け出します。

しかし、何歩も行かないうちに、イギリス軍の機関銃に頭を撃たれ、鉄兜をはね飛ばされ、その場に倒れます。
それでも、新藤氏は跳ね起き、小銃を構えてイギリス兵に襲いかかり、銃剣で3人を刺し殺したそうです。
なおも片手で血まみれの銃を振り回す新藤氏に恐れをなしたイギリス兵は、武器や荷物を放り出し、悲鳴を上げて逃げ去っていったそうです。

イギリス人が逃げ去って始めて、新藤氏はその場にばったりと倒れます。
敵兵が去った後、新藤氏に駆け寄ったMさんたちが見たのは、最初の機関銃の弾で頭を撃ち抜かれたためか、頭が半分無くなってしまった新藤氏の変わり果てた姿でした。

Mさんたちは、新藤氏の遺体を囲んで泣き、日本人がこんなに勇敢に戦ったのに、私たちは怯えて見ているだけだった。情けない。
これからは勇敢に戦い、新藤氏が願ったように、生き延びてインドのために命がけで働こう、と誓ったそうです。

そして、新藤氏の遺品である銃やお守りを手に、イギリス軍の残していった武器や食料をみんなで分け合い、その場を離れます。新藤氏の死から、10日以上も山中をさまよった後、一行は小さな集落にたどり着き、その住民に助けてもらってようやく日本軍(当初属していた本隊ではない部隊)と合流できたのだそうです。
形見のお守りは合流した日本軍の士官に渡したそうですから、おそらく遺族の元に戻ったことでしょう。

そうそう、士官が確認のために開けた時、中には小さな木の板と、折りたたんだ写真… 新藤氏が奥さんの隣で、小さな女の子を抱いて微笑んでいる写真…が入っていたそうです。
小さなお子さんのためにも、なんとしても日本に帰りたかっただろうに、命がけで自分たちを守ってくれた新藤氏の勇気に、Mさんたちは再び声を上げて泣いたそうです。

そして、終戦。

最後までMさんたちの面倒を見てくれた日本軍の士官は「私たちと一緒にいると、イギリス軍に捕まってしまうから、身分を隠して故郷に帰りなさい」といって、わずかながらお金や食料、衣服などを分け与えてくれたそうです。
そして、「インド独立の約束を果たせなくてすまない」と涙を流して頭を下げたそうです。


戦争の後、故郷に帰ったMさんたちは協力し合い、新藤氏の最後の言葉「ガンバレ!」を合い言葉に、インドの独立と発展のために必死で働いたそうです。
そして、Mさんは軍人として大成し、仲間たちもお互いに力を合わせて、政治家や実業家、学者として同様に成功を修めたそうです。

勇敢で、高潔で、誰からも好かれた日本人。そんな日本人は今どこかにいるのだろうか。

でも、ほんの60年前。私の両親や祖父母の時代に、この国には確かにそんな立派な人間がいたという事実は、私にとって小さな誇りと、負けないように自分も頑張らないと、という目標を与えてくれたような気がします。

最後に。

今回の話は、もともとが古い時代の聞き語り。
話した本人も、聞き覚えた人々も幼い頃の記憶に 頼っていますし、歴史や軍事に詳しい訳でもありません。
また、この話をまとめた私自身も大東亜戦争に関する知識に乏しいので、戦史に詳しい方から見れば首をかしげるような部分もあるかも知れません。

その点をご理解頂ければ幸いです。


そうそう、この話にはちょっとオカルチック(?)な余談があります。

新藤氏が死んでMさんたちが山中をさまよっている時のこと。
疲労で見張りを立てる余裕もなく眠ってしまった5人全員の夢の中、新藤氏が出てきて「敵襲!」と叫んだそうです。
そして、はっとして目覚め、跳ね起きて藪の中に身を潜めたMさんたちのすぐ近くを、イギリス兵の偵察部隊が通り過ぎていったそうです。

その後も何度か、Mさんたちの夢に新藤氏が現れて、敵が近くにいることを教えてくれたそうです。
Mさんたちは、死んで霊になった新藤氏が自分たちを守ってくれていると信じ、夢の警告に従って、ひとりの死者を出すことなく生き延びることができたのだそうです。

しかも、戦後の独立運動の間も、その後の軍務の中でも、新藤氏は何度もMさんたちの夢に現れ、様々な危険を教えてくれたそうです。

霊のお告げ、ってのは「Mさんたちの、疲労状態でも極限まで緊張しきった神経が、敵兵の近づくのに気づき、無意識のうちに便りにしていた新藤氏の姿を借りて警告を発した」合理的に考えることも出来ますが、やっぱり、これだけは、死者の魂が最後まで守っていてくれた、という説明の方がしっくりするような気がします。

さて、以上、インド人の知り合いから聞いた、昔々の英雄譚でございました。

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このお話は、11月24日の記事「臨死体験」のコメント欄に、名無しさんがご投稿くださったものです。

勇敢で高潔で、誰からも好かれた日本人。

そんな誇り高い日本の心を、わたしたちはもう一度取り戻したい。そう思います。

日本人よ目を覚まそう!と思う方
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大東亜戦争


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学校給食の恩

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学校給食(昭和26年)
学校給食


平成2(1990)年のことです。

日本はこの年、重要なひとつを終わらせました。
大東亜戦争終結後の戦後復興援助の借入金を完済したのです。

戦前戦後の米国に関する評価には、さまざまなものがあります。
米国は怪しからんとするもの、陰謀説、米国を礼賛するもの、敵視するもの。

しかし大東亜戦争終結後、焼け野原となった日本に、米国は、合計18億ドル(現在価値で約12兆円相当)もの巨額の救済復興支援金を与えてくれたのです。
しかもこのうち13億ドルは、なんと無償供与です。

この救済復興支援金は、米国のガリオアと、エロアという2つの基金から供出されています。

ガリオラ(占領地域救済政府基金: Government Appropriation for Relief in Occupied Area Fund)というのは、昭和21(1946)年から提供開始されたもので、日本の飢餓、病気等を除くために食糧・肥料・医薬品・石油などを供給するものです。

ガリオラによって提供された援助物資は、
 米  11万トン
 小麦500万トン
 塩  52万トン
 砂糖 80万トン
 缶詰 16万トン
 肥料300万トン
 牛  1万頭 
等々があり、他にも米国から市民レベルで、ララ物資、ケア物資として総額5,000万ドル(現在の貨幣価値で約4,000億円)相当の物資が、学童、青少年を対象に無償配付されました。

ララ物資というのは、戦前に日本に在住していた多数のキリスト教宣教師が、戦後再び日本を訪れて見聞した惨状を、米国の教会関係者に詳しく伝え、これによって全米の教会が一丸となって起こしてくれた募金運動による物資です。

「飢餓にあえぐ日本の子供たちを救おう」
「ゴール 1,000万ドル、日本の難民を救済しよう」

全米を巻き込んだこの大キャンペーンは、高校や大学では週に一度昼食をぬいて、そのお金を日本の子供たちへの募金に回すなどの運動になっています。

さらにサンフランシスコ在住の浅野七之助氏やローズ女史らの献身的な尽力が実り、はやくも終戦の翌年には、米国から市民レベルの善意の品々が届きました。

内容は、食料品、医薬品、日用品など多岐にわたり、なかには子供たちへの牛乳の代わりにと、生きた山羊まで送られてきています。

昭和40年代頃までに小学校の給食を食べた方々は、脱脂粉乳が出されていたことを覚えておいでと思います。
この脱脂粉乳は、ララ物資から提供されたものでした。

他方、エロア(占領地域経済復興基金: Economic Rehabilitation in Occupied Area Fund)は、占領地の経済復興のために工業用原料や資本財の提供基金です。

終戦直後の日本のGNP(国民総生産)は、米国の僅か4%程度にまで落ち込んでいた。鉱工業生産高などは、10年前の3割近くになっていました。

エロア基金から日本が米国から受けた援助金は、昭和21年時点で、なんと日本のGNPの実に12.8%にあたる巨額の資金です。

米国内では、ガリオラ・エロア資金を提供するにあたり、

「昨日まで肉親や友人を戦火にさらした日本に、何で援助するのか」

という強硬な反対意見もあったそうです。
しかし米政府は、こうした反対運動を抑え、日本に対する戦後復興資金を供与してくれた。まことにもったいなく、またありがたいことです。

また、大東亜戦争終戦の年に米国主導で設立されたIMF(国際通貨基金 International Monetary Fund)、ならびに世界銀行(IBRO:国際復興開発銀行 International Bank of Reconstruction and Development)も、日本のために巨額の貢献をしてくれています。

世界銀行からだけでも日本は、昭和41(1966)年までに、計34回、合計8億6,290億ドルの借入を行っているのです。

いまでこそ世界の債権国となっている日本ですが、当時の日本は復興のための資金が不足していたのです。
日本は、世界銀行からの借入で、道路、電力、鉄鋼など、復興のための国内インフラの整備を行いました。

例えば、黒部第四水力発電(黒四ダム)、愛知用水、東海道新幹線、東名・名神高速道路などは世界銀行の融資により建設されたものです。

そしてようやく日本がこれらの世界銀行の債務を完済したのが、平成2(1990)年7月です。
つい最近のことなのです。

人種差別撤廃を唱え、全力を挙げて戦った日本に対し、戦時中の米国は、やはり全力を挙げて日本と戦った。

そして戦後の米国の措置には、たしかに左に行きすぎた、ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムによって日本精神を崩壊させた等の、非難すべき点も多々あろうかと思います。

しかしその一方で米国は、戦後、飢餓と貧困にあえぐ日本の子供たちと社会の復興のために、膨大な支援を行ってくれた。
さらに日本の産業発展のために、莫大な資金を提供してくれた。

そのことを、ボクたち日本人は決して忘れてはならないと思うのです。

本来、日本人は、礼節を尊ぶ国民のはずです。
日本が、国際社会から「ungrateful(恩知らず、不愉快な…)」と非難されるようなことは、社会経済的にも、あってはならないことです。

さんざん世話になっておいて、普天間移設問題で虚言を弄したり、いたずらに米国を裏切り、なんの恩義も受けていない特アにすり寄るような行動は、たとえそれが政府高官によるものであったとしても、断固として日本国民は許すべきでない。

なにがあっても、恩は恩として、何百年経とうがきちんと礼節を守るのが日本です。
日本は、そういう国であり続けなければならないと、ねずきちは思います。

おごる平氏も久しからず。
脱米入特アの政党を許すな!
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【遅い!】マスゴミが今更語る麻生政権の功績【IMF改革】


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広瀬武夫中佐

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広瀬武夫中佐
広瀬武夫中佐


日本の心をつたえる会のメーリングリストで、鷲さんが広瀬中佐のお話を紹介してくださいました。

明治の武人の、繊細で、かつ強い力を感じる文章です。

以下、ご紹介します。

出典は「 国際派日本人養成講座」からだそうです。

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【広瀬武夫とロシアの人々】
~ペテルブルグの人々に
 深い敬愛の念を与えて、
 海軍大尉広瀬武夫は帰っていった~

アリアズナ・ウラジーミロブナ・コヴァレフスカヤは18歳。

豊頬で、愛嬌のあるかわいい顔をしている。目はきらきら輝く褐色、髪は亜麻色である。
サンクト・ペテルブルクの貴族の家に生まれた。

1901年1月末、街は雪で埋め尽くされ、河も凍っていた。アリアズナの父、コヴァレフスキー海軍少将がロシアの将校たちを招待して晩餐会を開いた。ペテルブルクに留学中の日本海軍大尉広瀬武夫も招かれ、少将から武道の達人だと紹介された。

食後、別室でくつろいでいる時、日本の柔術が話題に上ると、一人の大男が突然、広瀬に右手をさし出して、さあやってごらんなさい、と構えた。

広瀬は、
「日本の柔術というものは、そんなものではありません。
私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」
と言った。

男が腰を下ろそうと、気合いが少し抜けた瞬間に、
「こんな風にやるのです」
と叫びながら、広瀬は大男の右手をとって部屋の真ん中にどしんと投げ出した。

大男が腰をさすりながら、おどけて
「日本の柔術コワイコワイ」
と言うと感嘆の声が部屋中に湧いた。

相手の虚をつくその機転、大の男を投げつける武勇が、驚くべき日本人という印象を深くきざみつけた。
「ヒロセ君に乾杯」の声があがった。

その光景を部屋の片隅で見ていたアリアズナは、物も言わず、広瀬の顔を見つめていた。自分の知っているロシアの士官たちとはなんたる違い! 貴族の士官達は、顔立ちも美しいし、やさしいが、朝は遅く、服を着るのも従者に手伝わせ、4、5時間勤務すると、夜は夜会服に身を飾って深夜までトランプや酒に猥談。身分の良いのに安住して退屈しながら日を送っている。

それに比べれば、広瀬の男らしさ、武芸の素晴らしさ! 
私は生涯、ああいう強い、それでいてやさしいお方に守られて暮らしたい。

翌日、アリアズナは広瀬のアパートを訪れた。
父母と一緒に来たことはあったが、今回は内緒だった。広瀬は軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていた。

「戦艦アサヒ」とロシア語で書かれている。広瀬は説明した。

アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことですよ。
朝の太陽のように清らかで、若々しく、力づよいという心をこめているのですね。
私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りましたが、おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。・・・私の国はこういう艦を6隻も持っているのです。

広瀬は嬉しそうに目を輝かせて言った。アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ、それぞれの艦の名前を繰り返して、その意味を説明した。

美しい名前でしょう。
日本は美しい国だから、日本人はみな美しいものを愛しています。

どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、われわれは日本人の連想をかぎりなく刺激する詩のように美しいひびきをもった名前をあたえるのです。

アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・

力は強い。しかし心はやさしい。姿はうつくしい。

これが我々日本人の理想なんですね。。。。

話を聞いているうちに、アリアズナは広瀬のただ一筋の祖国愛にうたれた。
それは一つの国民の魂を信じて、それに帰依している男の信念だった。
「この人の語る言葉は、この人の行う行為は、この人の祖国の上に根を据えている。信念の人だわ。信念をもっているから強いのよ。」 恋する女性の直観だった。

アリアズナは耳までほてって、顔は美しく紅潮した。


この間にも、日露両国の緊張は高まっていった。ロシア軍部は1万5千の軍勢で満洲を制圧していた。北京から、天津、北満に続く重要な鉄道路もすべて押さえられた。

満洲でのロシア軍駐屯に関する密約を清国と結ぼうとしたが、清国はその要求を修正させたいと西洋列強と日本に調停を求めてきた。

3月24日、日本側がロシアに抗議すると、清国は急に強気になってロシア側の案を拒否する姿勢を見せた。
ロシアはとうとう満洲に関する協定を断念した。

それでも依然と満洲に居座り続ける。
その間にシベリア鉄道の建設工事は着々と進められている。
これが完成すれば、満洲開拓は一挙に進み、ロシアを押さえるのは不可能になる。
さらにロシアは、戦艦・一等巡洋艦12隻を一年で作れるほどの巨額の予算を投じて、海軍の大拡張に乗り出していた。

清国にはロシアの極東進出を押さえる力はない。
とすれば、その圧力をまともに受けるのは日本である。
いずれ満洲、朝鮮をめぐって、日露の激突が予想されていた。

その年の10月18日、広瀬に日本からの電報が届いた。
冬のシベリアを横断視察し、翌年3月までに帰国せよとの命令である。

1902年元日、広瀬と親しくしてくれていたパブロフ博士の部屋で送別の宴が開かれた。

博士の知り合いで、ボリス・ヴィルキトゥキーという青年も、自分から頼んで宴に加わった。
ボリスは優しい美青年で、海軍兵学校を卒業したばかりの候補生である。
広瀬のことを大変慕って、二言目には「タケニイサン、タケニイサン」と日本語で呼びかけてくる。

ボリスは、「タケニイサン、艦に乗ったらこれを使ってください」と、ふだん愛用していた柄のついた銅の酒杯を贈った。

「こんなに有り難いものをいただいた君とは、敵味方にわかれられませんね」と広瀬は、いつになく厳粛な顔で言った。

おたがいに戦わねばならない時には、きっと所在を知らせて下さい。
私からもお便りをあげる。
砲火の下でまみえる時は、お互いに愛する祖国のためです、全力をあげて戦い抜こう。
これが武人の本分ですから。

2年後、この誓いは現実となる。

1902年(明治35)年1月16日、いよいよ出発の日である。

その日の午前中、わずかな時間を作って広瀬とアリアズナは二人だけで密かに逢った。
アリアズナはかねて用意していた小型の銀時計を広瀬の手に握らせた。
蓋を開けると「A」の字が彫られている。

私の名前の頭文字だけど、Amour(愛)の意味も含んでいます。
いつまでもあなたのお傍において下さい。

時計の鎖には、彼女の写真を入れたロケットもついていた。
広瀬はうなづいて、チョッキのポケットにおさめた。

わたしはほんとうにタケオサンにはいのちをかけています。
駅には行きません。
今夜10時に、かげながらお立ちを見送っています。
お国へは行けますわね、そのうち、わたしだって、きっと。

黙ってきいていた広瀬は、アリズナの切ない言葉をきくと、彼女の眼を見すえてきっぱりと言った。運命が許すならばです。

その運命を予感したのかアリアズナの頬に涙が伝った。

広瀬は無言でアリアズナをひしと抱きしめた。

これが二人の最後の逢瀬となった。


1904(明治37)年1月、海軍少尉に任官したボリスはロシア最大最新の戦艦「ツェザレーヴィチ」に乗り組み、旅順港についた旨を、かねての約束通り、広瀬に手紙で知らせた。

広瀬は佐世保に集結していた連合艦隊の主力戦艦「朝日」の水雷長室で、その手紙を受け取った。

2月8日夕、旅順沖合に達した連合艦隊主力は、9日午前0時過ぎ、水雷艇10隻を港内に侵入させ、魚雷攻撃によってツェザレーヴィチを含め、戦艦2隻、巡洋艦2隻に損害を与えた。

しかし、その後、ロシア太平洋艦隊は港内に逃げ込み、要塞砲台に守られてじっと動かない。
連合艦隊は旅順港口を遠巻きにして見張りを続けなければならなかった。

この情況を打破するために、旅順口閉塞作戦がとられることになった。

港の出入り口で、大型艦船が航行できる幅はわずか91m、この狭い水路に廃船を沈めて閉塞させようというのである。

砲台からの砲撃にさらされながら、船を沈没させ、手漕ぎのボートで脱出してくる、という決死の作戦であった。

下士官兵を募集とした所、2千名を超える志願者が殺到し、その中から67名が選抜されて、5隻の閉塞船が仕立てられた。

その一隻、「報国丸」を指揮する広瀬少佐は、死地に赴く船内で、ボリスにあててロシア語の手紙を書いた。

今度、不幸にもあなたの国と戦うことになった。何ともいいようがないほど残念である。
しかし、これは国と国との戦いで、あなたに対する個人の友情は昔も今も少しも変わらない。
いや、こんな境遇にいるからこそ、却って親しみも増してくる。
平和が回復するまでは、かねて申し上げたように、武人の本懐をお互いに守って戦い抜こう。

げんに武夫は9日のひるには戦艦「朝日」の12インチ砲を指揮して、旅順沖の貴艦隊を熱心に砲撃した。

それさえあるに、今度は貴軍港を閉塞しようと願い、「報国丸」を指揮して、今、その途上にある。
さらば、わが親しき友よ、いつまでも健在なれ。


この手紙は、2月23日夕刻、通信船に託された。作戦は24日夜明け前に決行されたが、砲台と艦隊の砲撃で目指す地点には沈没させられず、作戦は失敗に終わった。

3月27日夜半、第2回の閉塞作戦が敢行され、4隻の閉塞船が突入した。

要塞砲が一斉に砲撃を開始し、港内から駆逐艦が発砲しながら向かってきた。

広瀬率いる福井丸は港口到着の直後、駆逐艦からの魚雷を受けて、沈み始めた。

敵弾が降り注ぐ中で、全員をボートで退艦させようとしたが、自沈のための爆薬に点火しようとしていた杉野孫七上等兵曹の姿が見えない。

広瀬は沈みかけている船に戻り、三度船内をくまなく探し回ったが、見つからない。

今はこれまでとボートへ移り、船を離れたその時、敵の哨戒艇からの速射砲の直撃を受け、銅貨大の肉片と血だらけの海図を残して広瀬の姿は消えていた。

福井丸の要員18名のうち死者・行方不明は広瀬、杉野を含む4人。

広瀬は死後、中佐に昇進し、軍神として祀られた。

広瀬の英雄的行為はヨーロッパにも伝わり、各国で讃歎の声を巻き起こした。

ドイツでは広瀬の肖像に漢字で「旅順口閉塞決死隊隊長、故海軍少佐、広瀬武夫」と記した絵はがきまで作られた。

広瀬の壮烈な最期はロシアのフォン・ペテルセン家にも伝えられた。
アリアズナのコヴァレフスキー家とともに、広瀬を家族同様に遇していた一家である。

ペテルセン博士は「ヒロセ君が!」と声をうるませた。

広瀬を骨肉の兄のように慕っていた長男のオスカルは、声をあげて慟哭した。

その姉、マリヤは部屋に閉じこもって泣いた。

マリヤは、広瀬の姪が切手を集めていると知って、ロシアの古切手を1500枚も集めて、別れの
日に広瀬に贈っていた。

好意などいう言葉では言いつくせない気持ちを広瀬に対して抱いていたのである。

翌1905年1月2日、広瀬と最後に別れた記念の日に、マリヤは日本の広瀬の姉に哀悼の手紙を送った。

弟御のタケオサンの御逝去は、私どもにとりましても大きな喪失でございました。
私どもは深い悲しみをあなたとともに致しております。・・・

私どもはあの方の情け深く誠実なお心を決して忘れることはございません。
あの方は本当に偉大で、高貴な、たぐい希なお方でございました。・・・

御存知のことかとは存じますが、奥様、タケオサンは殆ど私どもの家族の一員だったのでございます。

そしてご自身でもたしかに私どもの家を居心地よく感じておいでになりました。

クリスマスと新年と、過ぐる数日のあいだ私どもはあの方の思い出とそのお姿とを心によみがえらせては又新たな悲しみにふけったのでございます。・・・

それにしましても、おそらくは御家族の方々にとって唯一の慰めとなる思いは、あの方が、御自身からお望みになっていた通りの立派な最期をお遂げになったということでございましょう。
あの方は、愛する、尊い祖国のために英雄として死んでゆかれました。
そしてあの方の思い出は永遠に、歴史の中に、御家族の心の中に、又多くの友の心のなかに生きつづけてゆくことでございましょう。・・・

深き敬意を以て
マリア・ペテルセン
サンクト・ペテルブルク
1905年1月2日

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広瀬中佐の物語は、沈没する船の中で、部下である杉野上等兵の身を案じて単身捜索し、敵弾に倒れたというだけではない。

広瀬中佐が、深い愛国心を持ち、その愛国心が、国境を越えて共鳴し合ったという事実と、共鳴し合いながら、全力で戦い、散って行かれた、その人生そのものに深い感動があるのだと思います。

昨今、海外に出かける日本人は多いです。

また、海外から日本においでになる外国人の方も多い。

そうした文化や伝統の異なる方々と、真に深い人間関係と信頼を築くためには、私たち日本人は、単に相手の文化や主張に迎合するだけでなく、日本の素晴らしさ、日本の伝統、日本の美意識をちゃんと主張できるだけの教養は、ボクは絶対に不可欠だと思う。

大東亜戦争が終わり、日本に占領軍から与えられた日本国憲法という名の条約が与えられてから、63年が経ちます。

思い返せば、戦後の日本の価値観は、そのすべてを貨幣価値に換算して“いくら”と数えるところに至った。

それが日本の価値観になったから、日本の縮図である国会は、議員さんたちが銭勘定をする場になって行ったといえるかもしれません。

しかし、カネの前に、生きる哲学というか、やはり人としての美意識はとても大切なものだろうと思うのです。


実はねずきちは、10月3日、主権回復を目指す会代表の西村修平さん、日本女性の会そよ風の涼風会長、日本を護る市民の会の黒田会長らとお会いしてきました。

とても素晴らしい出会い、語らい、意見交換ができ、非常に有意義な一日だったと思います。

西村修平氏は、よーめんさんのご紹介で訪問させていただきました。

約2時間が、あっという間に感じる感動の対談でした。

なかでもねずきちは、西村氏の「日本の保守は死んだ。我々はすでにレジスタンス(抵抗)運動となっている」というお言葉に、非常に考えさせられました。

日の丸を愛し、君が代を愛し、教育勅語の精神を大切な指針として生きるという日本人の、つい最近まで“あたりまえ”だった日本人の価値観は、いまや少数派の意見にすぎないものになっている!

まさにこれは一大事です。

そうした認識の上に立って、正しいものを正しいと主張し、間違っているものには断固抵抗する。
西村氏の活動は、ねずきちには、男として実に立派なものと感じました。

日本女性の会「そよ風」さんは、涼風会長様以下4名の皆様、並びに日本を護る市民の会の黒田会長様とお会いさせていただきました。

日本の心をつたえる会からは、ねずきちと、Layさん、bbさんの3人がお伺いしました。

そして約1時間半の懇談で、今後、相互に協力して日本のために、そして子や孫の未来のために、活動していくこととしました。

基本的に、ねずきちらが主宰する「日本の心をつたえる会」は、日本の近代史を中心に、日本の素晴らしい歴史を語る草の根運動です。

政治団体というより教育啓蒙団体に近いものといえます。

根底にあるのは、日本を愛するという思いです。

会派ごとに、その思いを具現化する方法は違っても、根っこにある想念は同じです。

ねずきちは、10月以降、全国のいろいろな保守系会派の皆様とお会いし、お互いに連携・協力できる道を探っていこうと思います。

そうすることで、真正保守が、日本の中で大同団結し、新しい、そして凛とした誇りある日本を1日でも早く取り戻せるよう活動していきます。

広瀬中佐が命をかけて守った日本。
日本という国は、そうするだけの値打が絶対にある国だと信じているからです。
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広瀬中佐


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高砂義勇隊の心

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高砂義勇隊
高砂義勇隊


1930年に起った「霧社事件(むしゃじけん)」というできごとがあります。
台湾でのできごとです。

日本が台湾を統治しはじめたのが、1895年ですから、統治開始から35年目のできごとということになります。

「霧社事件」は、台湾での最大にして最後の抗日事件でもあります。

事件のきっかけとなったのは、日本人の警察官が、台湾原住民の固有の文化を無視した生活指導を行ったこと、材木を担いで運ばせるなど重い労務を課したこと、商取引の利益を中間搾取していた(悪い奴もいた)ことなどが指摘されています。

そうした日頃のストレスが重なっているところに、10月7日、日本人警察官が原住民の若者を殴打した。

タイヤル族の村落酋長の息子のタダオ・モーナが、村での結婚式の酒宴の場を偶々通りがかった日本人警察官・吉村巡査を、宴席に招こうと、手を取った。

ところが、吉村巡査は「其ノ不潔ナル宴席ヲ嫌ヒ拒絶セントシテ握ラレタル手ヲ払ヒタル拍子」にステッキでモーナを2度殴打した。

これを侮辱を受けたと感じた原住民たち(ねずきちだって怒ります)は、吉村巡査をボコボコにした。

しかし、日本の警察官は怖い。

で、事件について警察からの報復をおそれた村人が、先手を打って蜂起した、というのが「霧社事件」の発端です。

10月27日、タイヤル族のリーダーの一人モーナ・ルダオを中心とした6つの村の1200人ほどが、霧社公学校の運動会を襲撃します。

襲撃では日本人のみが狙われ、約140人が殺害される。

このとき、現地の警察にはタイヤル族出身の警察官が2名いたが、彼らは襲撃には参加せずそれぞれ自決したそうです。

軍や警察は蜂起に参加した村々へ鎮圧を開始します。

陳圧行動の結果、700人ほどの抗日タイヤル族が死亡もしくは自殺、500人ほどが投降した。

この事件をもとに、台湾総督府では、1931年1月、台湾総督、総務長官、警務局長、台中州知事が引責辞任しています。

そして体制を入れ替えた上で、反乱を起こしたタイヤル族に対してだけでなく、日本側関係者に対して、より一層厳しい処罰を行った。

さらに日本は、台湾総督府内にあった原住民に対する差別的な政策や行動を修正し、日本人・台湾人ともに皇民として等しい地位にあるという姿勢を加速する。

霧社事件の生存者が移住した清流部落や、霧社では、国費を用いて大規模な水田の開墾事業を起こし、結果的に農業生産性が向上して、住民らの生活は以前よりも豊かにしたりもしています。

また、台湾人であっても、国家に忠誠を示した者は、日本人・台湾人の区別なく顕彰した。

このため、日台の和合はさらに加速し、大東亜戦争時には、台湾人で、高砂義勇隊に自ら志願する者が、多数いた。

一説によれば、霧社事件での山岳戦でタイヤル族がとても強かったため、軍部が高砂義勇隊の創設を着想したとも言われています。


ちなみに、この「霧社事件」は、戦後、日本にかわって中国国民党が台湾を統治するようになると、日本の圧政に対する英雄的な抵抗運動としてみなされ、蜂起の指導者たちは「抗日英雄」と称されるようになった。

そして霧社にあった日本人の殉難記念碑は破壊され、蜂起の参加者らを讃える石碑が建てられた。

ところが、1990年代以降、台湾民主化の動きが高まると、台湾史への再認識がブームとなり原住民文化への再評価が行われるようになった。

すると今度は、「霧社事件」は原住民族のアイデンティティーを賭けた戦いとして位置づけられるようになった。

そして「霧社事件」は、日本による台湾の近代化が進む過程の中で、台湾人のアイデンティティと、日本型近代的統治との融合に、非常に大きな役割を果たした事件、と位置付けられるようになった。

つまり、日本による近代化政策をただ鵜呑みにする、いいなりなるのではなく、主張すべき文化や伝統は、ちゃんと主張し守り抜く。そのうえで、相互の信頼関係を構築し、力を合わせて近代化を促進するという、日台双方にとって前向きな結果をもたらした、象徴的事件として位置付けられるようになった。

これはとても冷静かつ大人としての判断であると、ねずきちも思います。

そして、この事件のときに、台湾の人々が日本人に見せつけたのが、台湾の高砂族の“強さ”です。

とにかく彼らは、強い。
しかも、勇敢だった。

耳が良く、夜目が効き、素足で音も無く夜の密林を駆け巡る。

人間業とは思えない敏捷さ、獣のような視聴覚と方向感覚、正義感の強さ、曲がった行為を嫌うまっすぐさ。

そこで日本軍は、大東亜戦争末期、台湾総督府を通じて、高砂義勇隊を募集します。

この志願には5000人もの人が志願し、選抜から外された人達の多くは怒り、悔しがり、涙を流し、血判書を提出したそうです。

そして高砂義勇隊は、日本の正規軍を超える戦闘力や忠誠心で、世界最強といわれたイギリス軍のグルカ兵と互角に対戦す。その勇猛さとジャングルにおける知識の豊富さで日本軍を支えた。

高砂義勇隊の軍紀の厳正さは正規軍を凌ぐとまでいわれ、純真無垢な心と自己犠牲の精神は日本兵たちの胸を強く打ち、日本兵とも瞬く間に信頼と友情、尊敬の念を芽生えさせたといいます。

このようなエピソードがあります。

ある高砂義勇隊員は、前線で飢餓に苦しむ日本人の戦友のため、自分自身も空腹であるにもかかわらず、山を越えて米を取りに行った。

そして前線に戻る途上で力尽き、死んだ。

背中に米50キロを背負ったまま。自らは一粒も手をつけることなく餓死していたそうです。


高砂義勇隊の隊員は、学校と軍隊で日本精神をたたき込まれていた。

彼らはいいます。
「日本精神は誠の精神。当時の日本軍人はまっすぐで正しかった」

高砂義勇隊の隊員であった簡福源さんは、終戦で日本兵が日本に帰るときの思い出をこう語ります。

「なぜ僕らも帰らないのとおじいさんに聞くと 内地の人とは違う と言われた」
「ああ僕は日本人じゃなかったのか」

簡さんはこの思い出を語るたび涙ぐんだそうです。
それほど日本人意識が強かった。

戦後、台湾を統治した蒋介石・国民党政権は徹底的な日本否定を行いました。

しかし簡さんは日本教育をバネに台湾最年少の県議会議員に当選し、日本の桜3千本を烏来に移植したり、九州の姉妹都市との交流などで日本を20回以上訪れたりして、日台の民間交流に努めた。

台湾が民主化時代に入った1992年、地元リーダーの周愛子さんと日本の戦友会の奉賛によって大東亜戦争中に日本軍の一員として南方戦線で戦った高砂義勇隊の慰霊とその誇るべき民族精神を後世に伝えようと、「高砂義勇隊記念碑」が原住民地区の台北県烏来に建立された。

この記念碑は、地元の管理会社が倒産して、撤去の危機に陥ったけれど、産経新聞の呼びかけによって集まった日本からの義捐金により、地元の県有地に移設された。

あらたな碑の除幕式が行われたのが、2006年。

高砂義勇隊記念碑
高砂義勇隊記念碑


ところが、この「親日」慰霊施設の完成を、反日意識を抱く在台中国人の政治勢力は見逃さなかった。

同年1月月17日、台湾の中国時報が突如一面トップで非難報道を行った。

記念碑にある日本語の碑文や、周辺に建つ日本人奉納の歌碑や日章旗を指摘して「日本軍国主義を賛美している」と騒ぎ立てた。

そして翌18日には中国人の周錫瑋県長(知事)が就任したばかりの台北県が「24日までに記念碑を撤去せよ」との命令を下した。

理由は「建碑の申請手続きに不備があった」等々だった。

しかし、申請を受理したのは県自身であり、しかも実行不可能な短期間での撤去命令です。
中国人勢力には最初から理性などなかった。

24日、撤去作業が強行された。

原住民団体が猛反撥したため、記念碑の撤去は免れたのだけれど、その代わり碑文を覆うため、ベニヤ板が張られた。

歌碑や、付属の碑、日の丸などは、ことごとく排除された。

ベニヤ板を貼られた記念碑
ベニヤ板を貼られた記念碑


だが識者らが碑文などを検証した結果、決して「軍国主義賛美」の施設でないことが判明。

また問題となった日章旗にしても、これは台湾総督が義勇隊に贈ったものの複製で、「隊旗」
であった。

原住民側は撤去処分と原状回復を求める訴訟を提起した。

2007年12月、台湾高等行政法院は訴えを却下したけれど、2009年年3月24日、最高行政法院での差し戻し審で処分撤回の判決が下った。
つまり、高砂義勇隊側が裁判に勝利した。

そして県も、原住民と和解し、記念碑をそのままに、公園を原住民(タイヤル族)の文化をテーマにした観光スポットとして整備することを約束した(2009年8月に竣工予定)。

日ごろ政府に従順な住民の心を軽視し、なめてかかった中国人政治勢力の敗北です。

しかし、現時点で、県はいまだに、撤去された付属の歌碑などを返還していない。

県は早くから「返還する」とは言っているけれど、傲慢にも「お前たちが受け取りに来い」という。

現地のマカイ・リムイ氏たちは、
「県が不法にも持ち去ったのだ。それに従っては、我々の立場がなくなる」として、あくまでも原状回復を求める・・・つまり、県側にもと通りにさせるため、「また訴える」といいます。

台湾では、国民党が政権をとったため、「さらに態度が大きくなった」(マカイ氏)と言う中国人勢力に対し、かつて南方戦線で雄雄しく戦った高砂兵士の子孫たちの、民族の誇りをかけた戦いは、いまなお続行中なのです。


以前にも書きましたが、戦争というものは、宣戦布告から終戦宣言までの一定期間だけのもではありません。
■関連記事:終戦の詔勅、開戦の詔勅
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-569.html

だいたい世界史の中で、義理がたく宣戦布告と終戦宣言を行ってきたのは、日本くらいなもので、たとえばアメリカのイラク戦争、ベトナム戦争参戦、朝鮮戦争参戦にしたところで、宣戦布告などされていない。

シナにいたっては、トルキスタンの占領や、満州の占領(満州は国家だったにもかかわらず)、宣戦布告もなにもなしでいつのまにか中国共産党が支配下においている。

上に書いた台湾のできごとは、いまだに、大和民族の「和をもって貴しとなす」ための戦争は、続いているということです。そして、台湾の高砂義勇隊のみなさんは、いまだに、戦いを続けています。

戦争というものは、国家間のアイデンティティの戦いでもあります。

そしてその結果は、両国の国民に、繁栄をもたらすこともあれば、衰退や滅亡をもたらすこともある。

シナによる征服は、滅亡と衰退と歪みを招き、日本による和合は、相互の発展と進歩と平和をもたらす。

戦後60年を経由して、高砂族のみなさんは、いまだに闘っているのです。


私たち大和の民の戦いは、いまだ終わっていないのかもしれません。


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高砂義勇伝 PART1
この動画は必見です。前半と後半、どちらもお見逃しなく。


高砂義勇伝 PART2
後半です。泣かされます。

10年で約9兆円@@;

1000円なら10年で9兆円の税収増
(livedoorニュース)

厚生労働省の研究班(主任研究者・高橋裕子奈良女子大教授)が、

たばこが1箱1000円になった場合、

税収が今後10年で約9兆円の増加が見込めるとの試算を発表したそうです!

インターネットで、2万人以上の喫煙者に意識調査をして、現在の1箱300円が1000円になると96%が禁煙を目指すという予想による試算ということですから、けっこう当たりなのかも^^

愛煙家で、1日2~3箱を吸ってしまうねずきちとしては、

たばこの1000円はたしかにイタイ・・・~(>_<。)ゝ

ただ、昨今の嫌煙運動で、肩身の狭い思いをしている愛煙家としては、

1000円たばこが、新たなステータスシンボルとして、堂々と市民権を得てもらったほうがいいかも・・・

なぁ~んてね (; ̄ー ̄A アセアセ・・・

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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サンフランシスコ講和条約で、日本は台湾に関して処分権は連合国に提供しましたが、領土の割譲は行っていません。条約以降、連合国も日本も台湾の処分先を決めていません。つまり台湾はいまも日本であり、台湾にいる1500万人の戦前からいる台湾人は、日本国籍を有する日本人です。私は台湾民政府を支持します。
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