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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


オススメ動画。麻生さんを応援しよう!

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tamagoさんからご紹介いただいた動画です。

どれも秀逸です。

麻生さんの動画は、いちばん下にあります。


1 すべての日本人に告ぐ

チャップリンの映画「独裁者」の映像をモチーフにして、語りを入れています。

この演説、このままでいいから、誰かやってくれないかと思うくらいです^^b



すまない。都議選の結果に、私も落ち込んでいる。
しかし本音をいえば、政党など関係なく、日本を愛する人に当選してもらいたいだけだ。

できることならば、外国人とも仲良くしたい。
日本が平和と豊かさの波を世界に広げられる奇跡の国だと信じてる。

しかし一方、破壊や略奪、詐欺を生業とする国々が、日本の政治や教育、マスコミに浸透している。
日本のために働く首相を、偽りの捏造報道でバッシングし、独裁国家に魂を売る議員の不祥事は隠ぺいしている。

今後も日本人の血税が搾取され、心なき人に使われることを国民は知らない。

寄生虫どもは歴史をねつ造し、日本をゆすったカネで軍隊を組織し、善良な人々を大虐殺している。

いまこの瞬間にも、チベットやウイグルでは、罪なき人々が拷問され、殺されている。

しかし日本人は、彼らを見捨てない。

世界各地で横暴をふるう世界最大の人権蹂躙国家は、やがて滅びゆくだろう。

現在、虐げられている人々には、自由が訪れるだろう。

日本人よ、悔しくないのか?

悪意を持ったゴキブリがメディアを独占し、国民を破滅の方向へと扇動している。

奴らを信じてはいけない。

君たちは機械か?

自分で考えるんだ!

君らは家畜でもない。日本人なんだ!

弱者をおもいやり、侵略とは命がけで戦う。

それが日本人だ。

日本人よ、眼を覚ますんだ!

君らの祖先は、勝ち目のない戦争で、愛する家族や国のため、自分より強い敵に向かっていった。

日本人には、技術を発展させ、相手をおもいやり、世界中の人々を幸せにする力がある。

それが、失われようとしている。

立ちあがるのだ。

醜い寄生虫と手を結ぶのではなく、世界中で苦しむ人々に救いの手を差し延べよう。

奴らは、見栄えのいい選挙公約を並べる。

しかし、それは嘘だ。

公約を果たすどころか、君らを奴隷にするだろう。

奴らの正体に気づくのだ。

そして真実を伝えよう!

君がやらなくて、他の誰がやるんだ?

君たちひとりひとりには、子供たちに美しい日本を残す義務があるはずだ。

日本人よ、寄生虫どもに屈するな。

みんなで立ち上がろう!


2 勇愛で故人献金の言い訳が通用するか?

最近の鳩ポッポは、まるで鉄仮面のようなデスマスク表情が出ているけれど、あれは、本音や良心をおおい隠して、嘘いつわりを語る人に特有の症状です。

その嘘偽りの鉄仮面をはがして、本音を語らせるとどうなるか、という動画です。

これも見ごたえあります^^b

スカッとするかも(笑)




3 いま日本で起っていること

日本で起っていること。真実の現代日本の姿です。




4 国民が知らない民主党政権で治安崩壊 !?

民主党が政権をとるとどうなるかというお話です。
朝鮮半島と日本がトンネルで結ばれ、わが国の法に従わず、殺人、レイプをなんとも思わない、それどころか、日本人を殺すこと、犯すことこそ正義と信じる民族が大量に日本にやってくる。
結果は、誰の目にもあきらかです。




5 ランボー松原 ~ 怒りの鳩山!?

実際に民主党が政権をとり、日本の治安が悪化したあと、ランボーのような男が現われて・・というストーリーです。
いま、日本国内で行われていることは、情報による戦争なのです。




6 麻生太郎の心あたたまる話

麻生総理がいつも胸つけているブルーバッジ。
これは北に拉致された人々の救出を願う人たちが付けているバッチです。




7 2分で分かる麻生内閣の実績

逆風のなかで、短期間にこれだけの実績をあげた総理というものもめずらしいのではにでしょうか。
麻生総理が叩かれるのはなぜかって?
当然なのです。これだけの成果をあげている。
反日勢力には、だから麻生総理が怖くて仕方ないのです。



日本を反日勢力から守れ!と思う方
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さいしょはたったひとりからでも

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吉田松陰の留魂録
吉田松陰 留魂録


今回の選挙で、自民の苦戦、民主の好調が日々喧伝されています。

特アにおもねり、日本を外国に売り渡すことで自らの安寧を図ろうとする民主党の売国ぶりに気がついた多くの真正保守の方々は、この事態に、身をよじるような苦しみと悲しみを抱いています。

そうした思いのたけの一部を、昨日、英雄さんがコメント欄で吐露してくださいましたが、おそらく、同様につらく苦しい思いを抱えておいでの方は多いのではないかと思います。

でも、戦いは、まだはじまったばかりです。

ちょっとサヨク系に譲歩したり、ちょっとODAをゴマ化して代議士がそこからのキックバックの恩恵に浸ったり、反日思想や、追軍売春婦を巧妙に従軍慰安婦と言葉を変えてみたり、ありもしない南京問題をでっちあげてみたり・・・・

多くの日本人が、道義心や、愛国心、互いに信頼する心といった、日本社会では空気のようにごくあたりまえだったことを、いつの間にか忘れ、失い、ようやくいまになって、これはヤバイぞ、と気が付きだした。

そしてハタと気がついてみると、売国屋が堂々と「政権交代」などとのたまう世の中になっている。

なんでこうなちゃったんだろう。
どうしたらいいんだろう。

でもね、政界というのは、ある意味、日本社会の縮図です。

そして多くの議員が、カネにまみれ、カネにすがり、誇りや心を失い、鉄面皮のような・・・ってか、最近の鳩ポッポの顔、見るたびに、妖怪ぬらりひょんの顔に見える・・・表情のない顔になっている。

ああいう顔は、嘘をつく人間特有の顔に見えます。

一方で、政界の中には、これまでにない、真正右翼と呼ばれる人たちが登場しはじめた。

かつては口にすることさえはばかられた日本の核武装や、教育勅語の復活などを唱える人も出始めた。

そこで今日は、吉田松陰が、処刑前に江戸・小伝馬町牢屋敷の中で書き上げられた「留魂録」をご紹介します。

「留魂録」は、吉田松陰が、高杉晋作、久坂玄瑞以下、全ての門下生達に向けて書かれた魂の遺書です。

松陰の死後、「留魂録」は松陰の意思を継ぐ同志達のバイブルとなり、長州藩志士達の倒幕への大きな原動力となった。

日本が、よくない方向に向かおうとしているときに、たったひとりで立ち上がった松陰の遺志が、不動の江戸幕府を倒し、明治という国家を築いた。

これを司馬遼太郎は「日本の夜明け」だと呼びました。

大東亜戦争のあと沈んだ太陽は、いま再び、旭日となって地上を、世界を照らそうとしているのかもしれません。

そう考えると、これからの日本にのぼる太陽は、単に、いち日本の経済的成功だけでなく、それらを踏まえて、世界を照らす叡智の光なのかもしれません。

皆既日食は、古いものが廃れ、新しいものに生まれ変わる前兆だともいいいます。

そのことを指して、自民がたおれ、民主の時代になる前兆だなんてことを言っている人がいましたが、それは違う。

皆既日食というものが、全地球的なものだとしたら、倒れる古いものというのは、共産主義思想に端を発する階級闘争主義であり、大陸型植民収奪主義なのではないか。

そしてこれからの時代を開くのは、人類がはじめて経験する相互信頼社会なのではないか。

日本のはたすべき役割は、とてつもなく大きい。

八紘一宇の太陽、再び・・・とねずきちは思うのです。

これは、長い長い戦いです。

最初はたったひとりから。

でも、それが多くの人々の幸せへの道である以上、必ず、大きなうねりとなって世界を照らすことになるのではないかと、思うのです。

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留魂録 吉田松陰

身はたとひ
武蔵の野辺に朽ちぬとも
留め置かまし 大和魂


一、今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからです。

農事で言うと、春に種をまき、夏に苗を植え、秋に刈り取り、冬にそれを貯蔵する。
秋、冬になると農民たちはその年の労働による収穫を喜び、酒をつくり、甘酒をつくって、村々に歓声が満ち溢れます。

この収穫期を迎えて、その年の労働が終わったのを悲しむ者がいるというのを、自分は聞いた事がありません。

私はいま、三十歳で生を終わろうとしています。

未だ一つも事を成し遂げることなく、このままで死ぬというのは、これまでの働きによって育てた穀物が花を咲かせず、実をつけなかったことに似ているから、惜しむべきことなのかもしれません。

しかし、私自身について考えれば、やはり花咲き実りを迎えたときなのだろうと思います。

なぜなら、人の寿命には定まりがないからです。
農事が四季を巡って営まれるようなものではないのです。

人間にもそれに相応しい春夏秋冬があるといえます。

十歳で死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。

二十歳には自ずから二十歳の四季が、三十歳には自ずから三十歳の四季が、五十、百歳にも自ずから四季があります。

十歳をもって短いというのは、夏蝉を長生の霊木にしようと願うことにしかなりません。

百歳をもって長いというのは、霊椿を蝉にしようとするような事で、いずれも天寿に達することにはならないのです。

私は三十歳です。

四季はすでに備わっており、花を咲かせ、実をつけているはずです。

それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは私にはわかりません。

しかしもし、同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、それを受け継いでやろうという人がいるなら、それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、収穫のあった年に恥じないことになるでしょう。

同志諸君、このことをよく考えてみてくださいね。

【原文】
一、今日死ヲ決スルノ安心ハ四時ノ順環ニ於テ得ル所アリ
蓋シ彼禾稼ヲ見ルニ春種シ夏苗シ秋苅冬蔵ス秋冬ニ至レハ
人皆其歳功ノ成ルヲ悦ヒ酒ヲ造リ醴ヲ為リ村野歓声アリ
未タ曾テ西成ニ臨テ歳功ノ終ルヲ哀シムモノヲ聞カズ
吾行年三十一
事成ルコトナクシテ死シテ禾稼ノ未タ秀テス実ラサルニ似タルハ惜シムヘキニ似タリ
然トモ義卿ノ身ヲ以テ云ヘハ是亦秀実ノ時ナリ何ソ必シモ哀マン
何トナレハ人事ハ定リナシ禾稼ノ必ス四時ヲ経ル如キニ非ス
十歳ニシテ死スル者ハ十歳中自ラ四時アリ
二十ハ自ラ二十ノ四時アリ
三十ハ自ラ三十ノ四時アリ
五十 百ハ自ラ五十 百ノ四時アリ
十歳ヲ以テ短トスルハ惠蛄ヲシテ霊椿タラシメント欲スルナリ
百歳ヲ以テ長シトスルハ霊椿ヲシテ惠蛄タラシメント欲スルナリ
斉シク命ニ達セストス義卿三十四時已備亦秀亦実其秕タルト其粟タルト吾カ知ル所ニ非ス若シ同志ノ士其微衷ヲ憐ミ継紹ノ人アラハ
乃チ後来ノ種子未タ絶エス自ラ禾稼ノ有年ニ恥サルナリ
同志其是ヲ考思セヨ

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こうして吉田松陰は、首をはねられ、亡くなります。

しかし、松陰が抱いた憂国の志は、明治の志士に引き継がれ、明治維新を成し遂げ、日本の独立を守り、アジア諸国の植民地からの独立を実現させ、いま、アジアの国々のおおいなる発展を実現させました。

さいしょは、たったひとりから。

そしていまは、眼ざめた個々の人々が、まだまだバラバラな状態なのかもしれません。

でもね、正しいことは、どんなに弾圧を加えようが、かならず火種が燃え続ける。

そして必ず人々の幸せのための大いなる力となる。

ねずきちにはそんなふうに思えるのです。

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人と異なることを恐れるな

和服を変態に与えるな!

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日頃の記事内容とは全然関係ないことなのですが、

一昨日、グリーンまめさんから、毎日変態記事の駄目押しだ、と、次のブログ記事をご紹介いただきました。

転載します。

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和服をバカにするデザイナー

<和服を守る会さんより>二階堂様、突然のメールしかも初めてのメールですが。。常々サイト見させていただいてます。今日はどうしても、どうしてもお願いしたいことがあります。日本女性の為にお願いします。屈辱的な、こんな屈辱を許す事はできません。
 
報道プログ
http://www.jiji.com/jc/d2?p=uni00101&d=003event&j4
http://www.jiji.com/jc/movie?p=uni001-movie01&s=001
デザーナーのプログ(代表よりとその前が炎上中です。)
http://blog.livedoor.jp/yoshiyuki_tokyo/archives/51593188.html?1248474329
日本代表のこのプログ(16日が衣装についてで炎上してます。)
http://miyasakaemiri.com/blog/

ミスユニバース


この衣装でミスユニバース世界大会に日本代表が。。。国辱的行為です。

どうかどうかこの衣装を着るのを止めさせてください。方法がわかりません。8月1日から世界大会が始まるそうです。日本代表は既に出国してます。どうかお願いです。こんな衣装で世界大会に日本代表なんて、本人も可哀想だけど、日本女性を日本の和服を汚す行為を止めさせてください。お願いします。本当にお願いします。
 
(コメント)
なんだこりゃ!まるで売春婦じゃないですか。なんか日本文化を破壊しようとする医師があるデザイナーなんですかね。ロクでもないモノばかりが日本代表になりますね。一体どうなってるんでしょう。極端な自由なんてない方がいいのかもしれません。
 それにしても、和服の団体とかはこれを黙って見てる気ですかね。売れりゃぁいいとか?こんな売春婦ルック売れないよ。羽田孜の省エネルックよりだいぶひどいモン。

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これだけなら、ねずきちも、もしかしたら、「尖鋭的かつ挑戦的デザインなのだから、まあ、それもいいじゃないか」と思ったかもしれません。

しかしね、大事なことは、このデザイン以前に、毎日新聞が10年間にわたり、日本人女性を性的にバカにした英文記事を、世界に向けて発信し続けていた。

昨年公開されたハリウッド映画「BABEL」では、刑事やその他から追及されるとすぐにハダカになってカラダを見せるという意味不明の行動をとる日本の女子高生が、盗みだした猟銃が、世界をめぐりめぐって南米で罪のない人を殺す、という筋書きだった。

性のモラルの崩壊した、まるで売春婦のような日本女性の軽薄な行動が、世界の人々を苦しみの底に沈めるというメッセージのある映画だった。

そして実際、海外で生活をする日本人女性が、毎日新聞が報道した性的玩具とあたまから決めつけられるという被害が、世界中で起っている。

そうした時代背景と、ミス・ユニバース日本代表のこうしたコスチュームによるメッセージが、世界にもたらすものは何か。

それを考えたら、仮にも「日本代表」を謳う女性に、このようなふしだらな服装は絶対にさせるべきでないと、ねずきちは思うのです。

こんなものは、国辱ものです!

■関連記事:毎日新聞社が行ったWAIWAIの変態記事について
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-179.html

■この変態記事を10年間推進してきた男が、民主党の次期衆院選候補に!
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-530.html

■関連記事:過激すぎるミスユニバース日本代表の衣装に、抗議、批判、非難
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/entertainers/090728/tnr0907281357010-n1.htm

こういうデザインをする売国屋を許すな!と思う方
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ミス・ユニバース宮坂絵美里の衣装

マッカーサーが称賛した武士道の人

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陸軍大将 今村均氏
今村均陸軍大将


武士道というのは、日本精神と置き換えてもいいものだというのが、ねずきちの持論です。

1950年、一艘の船が横浜港を出港しました。

その船に乗ったある人物を称えて、マッカーサーは、

「日本に来て以来、はじめて真の武士道に触れた思いだ」と述べた。

その人物とは、今村均陸軍大将です。

当時彼はオーストラリアの戦犯裁判で禁固10年の判決を受けていた。

俘虜虐待の最高責任者という意味だった。

もちろん今村の刑は真っ赤な濡れ衣です。

日本の軍人により、インド人、中国人、インドネシア人への虐待が問題にされた。

特に問題になったのが、日本軍で平常行われていたビンタ(平手打ち)だった。

日本の兵隊が、理由もなくビンタをすることはない。

鉄拳制裁でもない。
ビンタというのは、打たれる側は、痛いが、怪我をすることはないです。
そしてビンタは、打つ側も、痛い。

ビンタは、体罰ではあるけれど、打つ側も痛みを感じて打つ。心で泣いて打つ。
日本の軍人は、ビンタとは、そういうものと考えられていた。

しかし、戦勝気分に浮かれる豪・中は、これを復讐裁判の好材料にした。
自らの非を棚にあげ、ビンタを打った日本の将兵69名を逮捕。戦争裁判に狩り出し、死刑を宣告しようとした。
戦争裁判は、裁判の名を借りた一種の復讐劇でしかなかった。

ラバウルの第八方面司令官(ラバウルの最高司令官)だった今村は、オーストラリア軍司令部に何度も足を運び、次のように主張した。

「インド人、中国人などは、そもそも戦争俘虜ではない。日本軍が雇った外国人労働者であり、彼らへの虐待があったにせよ、それを一般俘虜と同列に連合軍が裁くのは不当である。それでもどうしても裁くのであれば、監督指導の位置にいた最高司令官の自分を責めるべきであって、個々の将兵を裁くべきでない。」

そしてついにオーストラリア軍が根負けして、今村は捕虜収容所に入所した。

今村は、
「戦争裁判は戦闘であり、作戦である。これは勝たなければならない」
と述べたといいます。

そして、「ひとりでも多く救う」という目標に向かって、思い付く限りの手を打って戦った。

今村は、方面軍最高司令官であり、オーストラリア軍は、はなから死刑にすることを前提に、裁判をすすめようとした。

しかし、オランダ軍は、ついに今村を死刑にすることができなかった。

今村の軍政時代を知るインドネシア人が次々に証言台に立ち、有罪の不当性を訴えたからです。

結局今村は、懲役10年の刑となった。

逸話があります。

今村が死刑にされると思ったインドネシアの独立運動家・スカルノ(後の大統領)が、密かに今村の収容所を訪れ、脱出を勧めたのだそうです。

スカルノは今村の軍政下で色々と親切にしてもらった恩義に報いようとした。

ところが、今村はきっぱりと断った。

戦犯の中には冤罪で死刑判決を受けた者もいるから、その将である自分だけが一人逃げるわけにはいかない、というのが理由だったといいます。

では、その今村の現地での統治がどのようなものであったのか。

それも記録に明らかとなっています。

今村は、昭和17年(1947年)、ジャワ島統治の最高司令官として赴任します。

彼が第一にしたのは、民心の安定だった。

それは、今村司令官の発した「布告第1号」に見ることができます。

1 日本人とインドネシア人は同祖同族である
2 日本軍はインドネシアとの共存共栄を目的とする
3 同一家族・同胞主義に則って、軍政を実施する

当時、植民地の住民にとって「共存共栄」等と言う言葉はとても信じられないものだった。

植民地支配を受ければ、人口の9割が死ぬ。
人々に私有財産は認められず、男は苦役に狩り出され、女は貞操を奪われる。
それが被植民地の常識だった。
なぜなら、欧米列強にとっての植民地とは、「支配者」と「被支配者」の関係でしかなかったからです。

ところが今村日本軍は開口一番、「共存共栄」を唱えた。
住民は驚いた。
しかし、今村司令官の布告は終戦まで、決して破られる事はなかった。

更にジャワの軍政府の施政も住民の支持を得た。
例えば、

a. 農業改良指導
b. 小学校の建設と、児童教育の奨励
c. 新聞「インドネシア・ラヤ」の発刊
d. 英・蘭語の廃止と、公用語としてのインドネシア語採用
e. 5人以上の集会の自由
f. 多方面でのインドネシア人登用
g. インドネシア民族運動の容認
h. インドネシア人の政治参与を容認
i. 軍政府の下に「中央参議院」を設置
j. 各州・特別市に「参議会」を設置
k. ジャワ島全域に、住民による青年団・警防団を組織
l. 「インドネシア祖国義勇軍」(PETA)の前身を創設

どう見ても、ジャワ(インドネシア)独立への「ステップ」です。

そして現実、ジャワの日本軍政時代にインドネシア独立の段取りは全て整えられた。

さらに、オランダ軍によって流刑とされていたインドネシア独立運動の指導者であるスカルノやハッタら、政治犯を解放した。

さらに彼らに資金や物資を援助し、諮詢会の設立や現地民の官吏登用等独立を支援する一方で、オーストラリア軍が破壊した石油精製施設を復旧し、石油価格をオランダ統治時代の半額とした。
また略奪等を厳禁として治安の維持に努めた。

こうした国際法の遵守、人心収攬という今村の統治は、すべて天皇の許可を得た統治要綱にもとづくものであったといいます。


戦争が進むにつれて、日本では衣料が不足して配給制となり、日本政府はジャワで生産される白木綿の大量輸入を申し入れてきた。

このとき、今村はかたくなに要求を拒んでいます。
白木綿を取り上げたら現地人の日常生活を圧迫し、死者を白木綿で包んで埋葬するという彼らの宗教心まで傷つけると考えたからだといいます。

軍の一部から批判を浴びたけれど、実情を視察に来た政府高官の児玉秀雄らは、
「原住民は全く日本人に親しみをよせ、オランダ人は敵対を断念している」
「治安状況、産業の復旧、軍需物資の調達において、ジャワの成果がずばぬけて良い」
などと報告し、むしろ今村の軍政を賞賛した。

実際、今村の軍政を視察するためにジャワに来た軍務局長・武藤章中将がバタビア(現在のジャカルタ)に来た時に次のような報告をしています。

「来て見れば、白人の老夫婦は夕方の公園を散歩している。
若いアベックはカフェーのテーブルで囁いている。
バタビアの中心街は銀座の比ではない。
獄舎の将校たちにレクリエーションの時間が与えられ、
囚房の深夜にも電燈の火が煌々と流れている」

今村の統治は、占領を感じさせない穏やかなものだったのです。

視察した武藤はこれを不適当と考え、中央の意向に沿って、今村に軍政改変を迫ったといいます。今村の統治は「優柔不断、威厳欠如」ではないかというのです。

しかし、数日間武藤と激論を交わした今村は、

「天皇の御允裁(許可)を得た改変なら服するが、陸軍省の感覚だけで変更を命じるなら、免職されるまで服従しない。
これが自分の信念である。
しばらく実績を見て改めて命令を待とう」

と頑として言い張った。

今村のジャワ統治は1年にも満たなかったけれど、いまむらの統治手法はその後も引き継がれ、戦後のインドネシアの独立運動の基礎を築きます。

尚、現在でも今村将軍はインドネシアの教科書にも掲載されているそうです。


戦争の配色が濃くなった頃、今村はラバウルの陸軍最高司令官として赴任します。

米軍はソロモン諸島を次々と攻略。すでに太平洋の島々はほとんど米軍の手に落ちた。

当然日本軍の南方主力基地であるラバウルも標的となった。

しかし、米軍による海上封鎖によって、補給が長く続かないことを懸念した今村は、島内に大量の田畑を作る様に全軍に指導した。

自らも一緒になって鍬や鋤を遣い、田畑を耕した。そして、完全な自給自足体制を築きあげた。
また米軍の空襲、上陸に備えるため強固なる地下要塞も建設した。

そのあまりの堅固さにマッカーサー以下米軍司令部も攻略を諦めたといいます。

そして、迂回進撃し、補給路を断ったのち、日本軍を餓死させる作戦を採用した(飛び石作戦)。

しかし今村率いるラバウルの日本軍は、この時点で、本土からの補給無しでも十分生存可能な食料を備蓄していたので、今村はじめ陸軍将兵10万は、本当に孤立し、なんの補給もなかったにも関わらず、終戦まで悠々と自活生活を続けることができた。

そして戦犯として処刑された一部の者を除き、ほぼ全員が、生きて祖国に帰りつくことができた。

漫画家の水木しげる氏は、兵役でラバウルにいたときに視察に来た今村から言葉をかけられたことがあるそうです。
その時の印象について水木しげる氏は、

「私の会った人の中で一番温かさを感じる人だった」と書いている。
(水木しげる「カランコロン漂泊記」小学館文庫)


一方、軍人としての今村は、すさまじい闘将でもあった。
1940(昭和15)年2月に一段落したシナ・南寧作戦では、今村は第5師団を率いて、戦死1500名、負傷3000名という大きな損害を出しながらも、50日間も南寧を守りとおしている。

敵の蒋介石軍の兵力は、第5師団の約25倍から30倍というとほうもないものであった。

その卓越した指揮は陸大の教材にも取り上げられていたたといいます。

また今村が指揮した帝国陸軍ジャワ派遣軍第16軍2個師団総勢55,000人は、ジャワ攻略戦において、真正面から敵前上陸を敢行し、2倍の兵力を擁していたオランダ軍(蘭印連合軍)を、上陸後、僅か9日にして降伏させた。

ちなみに、大東亜戦争は、日本が米英に宣戦布告してはじめた戦争ということになっているけれど、ことオランダに関しては、逆にオランダから日本に宣戦布告しています。これ、史実です。


さて、戦後の今村に話を戻します。

今村を収容したラバウルのオランダ軍の捕虜収容所は、1950年(昭和25年)1月 閉鎖となります。今村は、残りの刑期を東京の巣鴨拘置所で過ごすことになった。

1949年(昭和24年)彼は帰国します。

ところが彼は、ここでも自分をマヌス島に移せと運動する。
マヌス島にはラバウルで刑を言い渡された部下がまだ収容されていたからです。

いまだに環境の悪い南方で服役をしている元部下たちの事を考えると、自分だけ東京にいることはできない、というのです。

そして彼は帰国後すぐに、自ら多数の日本軍将兵が収容されているマヌス島刑務所への入所を希望する。
妻を通してマッカーサーに直訴したといいます。

報告を受けたGHQ司令官のマッカーサーは、後に

「私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役する為、マヌス島行きを希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触れた思いだった。
私はすぐに許可するよう命じた」と述べています。


マヌサ島に到着した今村を、戦犯服役者たちは大歓声で迎えたといいます。

彼らは今村を囲んで、その夜、明け方まで語り明かしたといいます。

今村に手紙を書いた畠山某氏は、「この日の嬉しさは生涯忘れられない」と語っている。


刑期満了で日本に帰国した今村は、東京の自宅の一隅に建てた小屋(謹慎室)に自らを幽閉した。

戦争の責任を反省し、軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、回想録を出版し、その印税はすべて戦死者や戦犯刑死者の遺族の為に使ったといいます。

また援助を求めてきた元部下に対して今村は出来る限りの援助をしたという。

それは戦時中、死地に赴かせる命令を部下に発せざるを得なかったことに対する贖罪の意識からの行動であったといわれる。

その行動につけこんで元部下を騙って無心をする人間もいたが、それに対しても今村は騙されているとわかっていても敢えて拒否はしなかったそうです。


今村均陸軍大将の生活は、戦前戦後ともに、非常に質素なものだったといいます。
そして彼は、将としての責任をまっとうした。

闘いにあっては、まさに鬼神となり、平治にあっては、仁徳のある統治者であった。

いまの世の中では、経済的な成功し、贅沢な暮しをすることだけが、なにやら人生の成功のようにされています。

けれど、武人として、多くの民を救い、立派に責任を全うして生きるという人生が、かつてこの日本に厳然として存在した。

そういう武士道という名の日本精神を、まさに体現した人が、この日本に、ほんの少し前まで、ちゃんと生きていた。

そのことを、現代に生きる私たちはもういちど、深く噛みしめてみなければならないのではないかと、ねずきちは思うのです。

今村均元陸軍大将 1968年10月4日死去 享年82歳。


今村均氏の生きざまに何かを感じた方
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ラバウル小唄

道義と志操の美質を取り戻せ

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英文で書かれた日本文化論として有名なのは、新渡戸稲造著「武士道」、内村鑑三著「代表的日本人」などなのですが、もうひとつ、忘れてならないのが、

杉本鉞子(すぎもと えつこ)著
「武士の娘」
 ちくま文庫

武士の娘


「武士の娘」は、1925年にアメリカ・ニューヨークで
“A Daughter of the Samurai”
の書名で出版されました。

当時、この本を読むと日本のことがわかるといわれ、全米で大ベストセラーになり、後に欧米8か国で出版されています。

著者の杉本鉞子は、明治6年、代々長岡藩で家老職を務めた稲垣家に生まれました。

長岡藩は幕末から維新にかけて、幕府側に立ち、官軍と戦った藩で、長岡藩の武家たちは時代の激動を強烈に体験していたといえます。

著者である杉本鉞子氏がものごころつく頃には、長岡は落ち着きを取り戻していたろうけれど、長岡は江戸から遠かったので、近代化の波は届いていなかった。

そして家老の娘である杉本鉞子は、厳格な武士道の教育を受けて育ちます。


ちなみに、鉞子の「鉞(えつ)」は“まさかり”という意味です。

女性でありながら、“まさかり”と名付けられた鉞子には、強い精神を持った武家の娘として育ってほしいという親の願いが込められていたのだとか。

なにやら最近の教育現場では、封建社会の女性は、身分も地位も低かったかのような印象操作が行われているようですが、この名前をみただけでも、いかに女性が日本で社会的に“強い”存在であったかが知れようというものです。


鉞子への教育は、6歳から始まったそうです。
完全に武家としての教育が行われた。

その内容は、もっぱら儒教の古典の素読(声を出して読む)だった。

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当時、女の子が漢籍を学ぶということは、ごく稀れなことでありましたので、私が勉強したものは男の子むきのものばかりでした。

最初に学んだものは四書-即ち大学、中庸、論語、孟子でした。(p.31)
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学習中は、畳の上に正坐。手と口を動かす以外は、微動すら許されない。

鉞子が、いちどだけ、ほんのすこし体を傾けたことがあったといいます。

それをみた師匠は、驚き、次のように言ったという。

「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。
お部屋に引き取ってお考えになられた方がよいと思います。」

鉞子は、「恥ずかしさのあまり、私の小さな胸はつぶれるばかりでした」と書いています。

おそらくいまなら、微動どころか授業中に私語する、さわぐがあたりまえ。
それを教師がとがめると、子どもは言うことを聞くどころが、なぜ叱られたかすらまるでわからない。挙句の果てが親が出てきて、「どうしてウチの子ばかり叱るんですかっ!」

教師と生徒が“階級闘争社会”に汚染された現代教育。

これに対し、鉞子の時代には、教師(師匠)と生徒の間には、相互の信頼関係があった。

彼女は、師匠の叱責に、「恥ずかしさ」を感じた。

なぜ恥ずかしさを感じたかといえば、それは師匠の要求に答えられない自分を恥じたから。
そして自分を制御できなかったことにも、恥じたから。

そしてなにより、師匠が、自分を鍛えるために「教え」を説いてくれているということを、幼い彼女自身が、ちゃんとわきまえていたから、なのではないかと思う。


こうして制御の精神を身につけて育った彼女たち武家の娘には、穏やかな中にも、自然と威厳が備わっていたといいます。

当時、武士と庶民では挨拶の仕方から、歩き方まで違った。

だから風呂屋で裸になっても、どの階級に属するのか、一目でわかったといいます。


そんな彼女が12歳になると、親族会議によって縁談が決まります。

婚約者は、アメリカに渡米している兄の友人。
そこで鉞子は、東京で英語を勉強し、24歳で渡米する。

米国の女性について、彼女がとても驚いたと書いていることがあります。

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婦人が自由で優勢な、このアメリカで、威厳も教養もあり、一家の主婦であり、母である婦人が、夫に金銭をねだったり、恥しい立場にまで身を置くということは、信じられそうもないことであります。

私がこちらへ参ります頃は、日本はまだ大方、古い習慣に従って、女は一度嫁しますと、夫にはもちろん、家族全体の幸福に責任を持つように教育されておりました。

夫は家族の頭であり、妻は家の主婦として、自ら判断して一家の支出を司っていました。

家の諸がかりや、食物、子供の衣服、教育費を賄い、又、社交や、慈善事業のための支出を受持ち、自分の衣類は、夫の地位に適わせるよう心がけておりました。(p.216)
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日本の武士夫婦は、夫が外回りをし、妻が家計を切り盛りしていた。

収入を妻が管理する。これは現代日本とまるで同じです。

ところが米国では、財布の紐は男性が管理しており、妻はわずかのお金も自由にできない。

女性の社会的地位向上だとか、女性差別の撤廃だとか、ジェンダーフリーだとか、米国発の女性人権論議がさかんだけれど、日本では、昔から、男女がきちんと役割分担をしていた。

そして男が外で働き、妻が家計のすべてを預かった。

男は、自分が外で働いて稼いだカネを全額、女房に渡す。全幅の信頼です。

そして女房は、その信頼に応えて、家計をやりくりする。

互いに強固な信頼関係がなせる技です。

夫婦の間でも、親子の間でも、師弟の間でも、上下関係でも、すべてにおいて、信頼を第一とした。

一番たいせつなことは、仕組みや社会構造や法的ルールではなく、互いの信頼関係にこそある、ということを、昔の日本人は、普通に行っていた。

いつのころからか、そうした社会的相互信頼の原則が崩れ、すべての関係が、階級闘争の場となった。

恋人同士は、えっちはするけれど、デートの他の時間は、互いにそっぽを向いて、それぞれがそれぞれの携帯で、ゲームやメールに興じている・・・って、なんじゃそりゃぁ!@@;

男性は女性を支配しょうとし、女性はその支配に抵抗するために男性を批判する?
で、批判されたくないから、相互にコミュニケーションなどとらない?

たがいに口も利かない。
で、携帯をいじくっている。

それが個人主義? それが正しい男女交際の姿?

ええかげんにせいっ!
こんな世の中に誰がしたっ!(笑)

でも、そういうのって、ねずきちには、最低にしか思えないのです。

男性と女性の関係も、階級闘争。
夫と妻の関係も、階級闘争。
親子の関係も、階級闘争。
教師と生徒の関係も、階級闘争。
上司と部下の関係も、階級闘争。
そして、
政治と報道の関係も、階級闘争。

互いに相手を非難し、批判し、とどまるところを知らない。
メディアに至っては、批判することが正義だと勘違いしている。

そして教育の現場では、人として何がただしいのか、という人間が生きる上で必要な正義や、忠義、道徳をまるで教えない。

最近の中年(30代、40代)は、若く見えるといいます。

それは栄養状態が良くなったからだと、簡単に説明されている。

だけど、ねずきちは思うのです。
ほんとうにそうなのだろうか?

もしかしたら、それって、日本人が、人として生きる上に必要な、道義や堅固な志操、国体護持に精華する気質、日本人としての美質を失った結果なのじゃないか?

人として社会人として自然に備わる威厳が失われているだけなのではないか?

こんなことで、日本は、そして日本人は、ほんとうに良いのか?

そんなことを思うのです。


話が脱線しました。

杉本鉞子は、明治という時代背景の中で、代々続いた武家の伝統と教養を学び、結婚し、渡米し、子を産み育て、帰国し、また渡米する。

後年彼女は米国コロンビア大学の講師を勤め、彼女が住んだシンシナティの人々は、彼女亡きあとも、彼女を「グレート・レディ」として敬愛したといいます。

そうした著者の人生経験の中から、紹介された「武家の娘」は、静かで品位を失わない文章と、志操の高さ、謙譲と忍耐の精神と毅然とした姿勢が描かれ、現在に至るも世界で大絶賛されている。

いまでも日本に来る欧米の留学生の多くは、来日前に福澤諭吉の「福翁自伝」と、この「武家の娘」を必読の書としているといいます。


興味を持たれた方は、是非ご一読を^^♪


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新渡戸稲造 『武士道』 要約

櫻井よしこ氏も絶賛した「武士」のお話

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武士


とてもよいお話を見つけましたので、ご紹介します。
国際派日本人養成講座で伊勢雅臣さんが書かれた文です。
http://www.melma.com/backnumber_115_4517792/

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フランスの日本文化研究者モーリス・パンゲは、著書『自死の日本史』で、次のように述べている。

「日本の特権階級であった武士は、他の階級によって倒されたのではありません。
外国の圧力の前に、みずから革命を推進し、そのためみずからを消滅させるという犠牲を払っ
たのです。

革命といっても、それはある階級が他の階級を倒すという、普通の意味の革命ではありません。武士たちの望みは、日本という国の力をよびさますことだったので
す。」

この一文を引用しながら『新編新しい歴史教科書』(『日本人の歴史教書』[1]に全編収録)は、次のように述べている。

「明治維新によって身分制度は廃止され、四民平等の社会が実現した。
職業選択の自由がおおやけに認められ、自由に経済活動ができるようになった。
武士の特権は廃絶され、武士身分そのものが消滅した。

明治維新は、ヨーロッパの革命、とくにフランス革命のように、市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命ではなかった。
武士身分を廃止したのは、ほかならぬ武士身分の人々によって構成されていた明治新政府だった。」

従来の歴史書では、たとえば、

「わが明治維新も、この(JOG注:フランス)革命の遠隔作用のもとになしとげられたと言える。しかし、この偉大な革命の真価が日本人に理解されるまでには、長い年月が必要であった。」

などと述べているように、進んだ西洋を遅れた日本が追随していく、という西洋崇拝型の歴史観だった。

しかし、同じく階級を廃止して、国民国家を創ったと言っても、

「市民が暴力で貴族の権力を打倒した革命」と、

武士階級が、

「みずから革命を推進し、そのためみずからを消滅させた」

のとでは、本質的に異なる。

その違いが、フランス革命での犠牲者2百万人と明治維新での2~3万人との差に表れている。

従来の西洋崇拝史観から脱却して、日本文明の特長をも踏まえた、まさに『新しい歴史教科書』ならではの視点である。

モーリス・パンゲの引用の後はこう結ばれている。

「明治維新は、公のために働くことを自己の使命と考えていた武士たちによって実現した改革だった。」

国民国家の形成は、多くの国に見られる現象だが、特権階級が自らを消滅させて、それを成し遂げたという例は、我が国以外の例を知らない。

そしてそれを成し遂げたのが、武士たちの

「公のために働く」

という使命感だった。

これを武士道と呼んで良いだろう。この武士道が近世以降の日本文明を支えた大きな柱なのである。

階級として武士と百姓・町人を分ける身分制度は、秀吉の「刀狩り令」を一つの源とする。

誰でもが武装していた戦国の世に、秀吉は「刀狩り令」を発して、農民から刀や弓、槍、鉄
砲などの武器を没収した。

これによって農民を耕作に専念させ、平和な社会秩序を作ろうとしたのである。

秀吉の刀狩りは、戦乱を抑える効果をもたらしたが、徳川幕府はその方針を受け継ぎ、武士と百姓・町人を区別する身分制度を定めて、平和で安定した社会をつくり出した。

武士は統治をになう身分として名字・帯刀などの名誉をもつとともに、治安を維持する義務を負い、行政事務にも従事した。

こうした統治の費用を負担し、武士を経済的に養ったのが、生産・加工・流通にかかわる百姓と町人だった。

このように異なる身分の者どうしが依存しあいながら、戦乱のない江戸時代の安定した社会を支えていた。
ただし、武士と百姓・町人を分ける身分制度は、かならずしも厳格で固定されたものではなかった。

階級制度というと、搾取し、搾取される階級対立をすぐに連想してしまうのは、マルクス主義の遺した先入観だろう。

武士は治安を維持する役割として名字帯刀を許され、農民や町人の治めた税を俸禄として生計を立てる。

これは今日の自衛官や警察官が国防と治安維持のために武装を許され、国家公務員として俸給を得るのと同じである。

武士が搾取階級でなかったことは、江戸時代の経済発展に追随できなかった大名以下、ほとんどの武家が商人から借金に頼ってなんとか家計を維持していた事実からも、窺うことができる。

フランス革命当時の貴族や、現代中国の共産党幹部のような本物の搾取階級であれば、好きなだけ農民や商人から富を収奪できるから、借金に悩む必要などないのである。

武士を統治階級とする江戸幕府の制度は、250年もの長い平和の時代をもたらした。

これ自体が世界史の一つの奇跡と言える。

この平和により、経済が大いに発展し、ついには金銭万能という思潮が広まった「花の元禄」時代に、衝撃を与えたのが、赤穂事件であった。

主君への忠義を晴らすために、自らの命を捨てた武士たちの行動は、昔ながらの武士道を思い出させた。

この事件は『忠臣蔵』として、歌舞伎などの題材となり、今日にいたるまで日本人に武士道を思い起こさせる物語となっている。

武士道には、勇気、惻隠(なさけ)、克己(自制)、名誉、質素、正直などさまざまな徳目が含まれるが、その最大の特徴は“忠義”の観念である。

この点を『新しい歴史教科書』はこう説いている。

“忠義”とは主君に対してまごころをもって仕えることである。

忠義は強制されたものではなく自発的なものでなければならず、時には主君のために命を捨てる覚悟が必要だった。

しかし、忠義とは主君個人のためだけでなく、主君をふくむお家の安泰のために尽くすことだったから、たとえ主君の命令でも、間違っていると思ったときは、どこまでも間違いを正そうとするのが忠義の道であるとされた・・・

のちになって幕末に日本が外国の圧力にさらされたとき、武士がもっていた忠義の観念は藩の枠を超えて日本を守るという責任の意識と共通する面もあった。

このような、公のために働くという理念が新しい時代を用意したともいえる。

18世紀の末頃から、日本の周辺に欧米諸国の船が出没するようになった。

たとえば、寛政4(1792)年にロシア使節ラックスマンがやってきて通商を求めたが、幕府が拒絶すると、樺太や択捉(エトロフ)島にある日本の拠点を襲撃したので、ロシアに対する警戒感が高まった。

また、清が英国からのアヘン輸入を禁止すると、英国は1840年に軍艦を派遣して戦争をしかけ、清を屈服させて、半ば植民地同然に扱うようになった。この情報は日本にもたらされて、大きな衝撃を与えた。

外からの圧力のから国を守るために、武士たちの忠義の対象も、藩から国家全体へと拡大していった。これが尊皇攘夷運動となっていく。

地方分権的な幕藩体制を改めて、皇室を中心とした強力な統一国家を作り、欧米勢力の侵略を打ち払おう、というものである。

ペリーが来航し開国を要求してから、わずか15年後に徳川幕府は滅亡した。

朝鮮の李朝は、欧米列強が押し寄せてきてからも44年続いたし、清朝は72年もたおれなかった。

これらに比較すると、日本の徳川幕府は、非常に短い期間で薩摩藩や長州藩などの勢力によってたおされたことになる。

これはどうしてなのだろうか。

李朝や清朝では、試験制度によって全国の優秀な人材が中央に集められた。皇帝や国王が強大な力を持つ反面、地方の対抗勢力は弱かった。

これに対し日本では、各地の藩で多くの人材が養成された。これはのちに幕府をたおす強
い原動力となった。

また、日本には、皇室という制度があり、全国の武士は、究極的には天皇に仕える立場だった。皇室には政治の実権はなかったが、権威の象徴であり続けた。

そのため、列強の圧力が高まると幕府の権威はおとろえたが、幕府にかわって、あらためて皇室を日本の統合の中心とすることで、政権の移動がスムーズに行われた。

各地に「忠義」の観念を持つ武士たちがいたからこそ、幕藩体制から近代統一国家への大転換が一挙に進んだのである。

新政府はスタートしたものの、いまだ実態は諸藩の連合体であり、実質的な統一が急務であった。

1871(明治4)年、大久保利通ら新政府の指導者たちは、全国の藩を一挙に廃止する改革についてひそかに相談を始めた。

そして、薩摩・長州・土佐の3藩から集められた天皇直属の約1万の御親兵を背景に、7月、東京に滞在していた元藩主たちを皇居(もとの江戸城)に集め、天皇の名において廃藩置県の布告をいい渡した。

廃藩置県は、分権的な制度である藩を廃止し、中央集権制のもとでの地方組織である県を置くことであり、藩に残されていた軍事と徴税の権限も新政府のものとなった。

新政府は藩の反乱を恐れていたが、予想に反して、大きな混乱は起こらなかった。

藩を廃止することは、武士たちが失業する事を意味していた。
その俸禄も、しばらく新政府が肩代わりして給付した後に、廃止された。

次の段階は、武士階級そのものを否定し、農民や町人と同じ「国民」にする事だった。

いっぽう政府は、四民平等をかかげ、人々を平等な権利と義務をもった国民にまとめあげていった。まず、従来の身分制度を廃止し、藩主と公家を華族、武士を士族、百姓や町民を平民とした。そして平民も名字をつけることを許し、すべての人の職業選択、結婚、居住、旅行の自由を保障した。

明治政府は、武士階級をなくし、その国防の役割を全国民が担うようにした。

1873(明治6)年には徴兵令が公布された。
20歳に達した男子は、士族・平民の区別なく、すべて兵役に服することになった。
徴兵令は、西洋の制度を取り入れて、四民平等の考えにもとづく国民軍をつくる改革だった。

江戸時代までは、武器を帯びて戦うのは武士に限られていたが、これは武士の名誉であり、特権でもあった。

国民に平等な義務を課す徴兵制は、士族からは特権を奪うものとして反発を買い、平民からは一家の労働力を提供する負担が苦痛であるとして、初期のころはいろいろな不安を生んだ。

武士の俸禄をなくしても大きな混乱は起こらなかったが、公のために戦う「特権」を奪われることは、反発を招いた、という点に、当時の武士たちの誇りを見ることができる。

階級としての武士は消滅したが、その武士道は国民全体に広がった。

日露戦争はまさに国民全体が、自らの国を守るために立ち上がった戦いであった。

このような国民国家の建設に中心的な役割を果たした一人が伊藤博文である。

幕末の長州藩で、武士よりも身分の低い足軽の子として育ったが、吉田松陰の松下村塾で学んだ。

・・・生前の彼が語った言葉に、次のようなものがある。

「酒を飲んで遊んでいるときでも、私の頭から終始、国家の2字がはなれたことはない。

私は子孫のことや家のことを考えたことがない。

いついかなる場合でも、国家のことばかりだ」

伊藤の活躍を支えたのは、まさにこの「国を思う心」だった。

この「国を思う心」こそ、武士道の「忠義」である。

こうしてひたすらに「国を思う」武士たちが、西洋諸国の圧力を前に、国内体制の一挙変革を図り、近代国民国家を建設して、国の独立を守った。

これが明治維新の本質であることを、『新しい歴史教科書』は明確に描き出している。

この歴史教科書を全文収録した『日本人の歴史教科書』に櫻井よしこ氏は『日本文明の支柱としての武士道』という一文を寄せ、こう説いている。

「幻ででもあるかのように、信じがたくも美しく純粋な価値観であった武士道を、数百年にわたって作り上げ、守ってきたのが私たちの国だ。

この貴重な歴史の支柱を現代に蘇らせることが、唯一、日本の真の再生を促す力となるで
あろう。」

冒頭のモーリス・パンゲ氏の「武士たちの望みは、日本という国の力をよびさますことだったのです」という言葉にを紹介したが、その武士道が、現代においても「日本の真の再生を促す力となる」というのである。

歴史を学ぶとは、こういう力を蘇らせることであろう。

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まったくもって、ねずきちは同感なのであります。

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日本の台湾統治の真実

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ニューヨーク・タイムスの記事
(1904年9月25日)
ニューヨークタイムスの記事


以下は、ブログ「台湾は日本の生命線!」の記事からの抜粋です。
もとネタは、1904年(明治37年)9月24日付ロンドン・タイムスです。
同文の記事は、翌9月25日付けのニューヨークタイムスにも掲載されました。
それが上の写真です。

1904年といえば、日清戦争の勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目の年です。
この年の2月には日露戦争が勃発しています。

日本による統治がいかに素晴らしかったか。
また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。

おそらく、現代のイラクや、アフガン、ソマリア、あるいは南米のコロンビア、ペルーなどにおいても、当時の日本式統治をおこなったのなら、瞬く間に彼の国の貧困は改善され、治安も回復し、多くの人々が安心して暮らせる国家となっていくのではないか。
そんなことさえも感じさせる記事となっています。

(訳は、ねず流で一部校正しています)

<引用↓>-------------------------

精訳「日本人が変えた未開の島―台湾」
~他国家が征服できなかった民族と共に
 数年間で成し遂げた驚異の数々~
 ☆他の植民地主義国家への教訓☆

1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙は、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載する。

どんな事業においても、成功するためには“生来の能力”と“綿密な対応”そして“経験”の三要素が必要である。
植民地経営も例外ではない。
ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗した。
ドイツの不成功の原因として、ふつうに考えられるのは、如何なる事業でも最初の試みは通常、失敗しやすいということである。
その意味で、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深い。

なぜなら、特に、正確にはいわゆる最初の日本の植民地である台湾島には、過去、他の国々が克服できないようにみえた植民地化上の困難があったからである。

日本統治前の台湾島は、シナやその他様々な国からの無法者がずっと好んで跋扈しており、また野蛮さ、無法者の人口比率がかなり高い為に、数度も侵略されながらも植民地化されたことはなかった。
(註:清朝は、台湾は鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女、とまで蔑んだ)

スペインやオランダは台湾の植民地化を試みたが、絶望の内に断念している。
シナは島を事実上の荒れ地に放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうが、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはなかった。


未開原住民の懐柔・開化

そこで、1894~1895年の日清戦争の終結後に、日本が台湾を要求した際、シナは日本への台湾割譲を喜ばないまでも快くそれに応た。
李鴻章は、「日本はその内に“この島はとんでもない悪い買い物であった”と気付くであろう」と、皮肉っぽく論評している。
(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)

日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態だった。
奥地は、野蛮な原住民によって支配されていた。
海岸部は、難破船を分捕り、そして島に辿り着いた船員を殺害した無法者や盗賊の集団によって支配されていた。
台湾がシナ領であった間、このような外国船船員に対する殺戮攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じている。

1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれた。
シナ統治時代の台湾島管轄者である武官や官僚は、その地位を追われることを恐て、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者(日本)に対する反乱を扇動した。
日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだ1901年末まで、台湾島は常に不安定で混乱した状態が続いた。


法令施行に於ける寛容さ

台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受してきたのは、ようやくこの2~3年である。
しかし、台湾島の様相・・・以前は未開の民であった原住民の心持ちは既に全く変わった。
台湾の人々は、日本法政の息吹を理解し、それを賞賛し始めている。

日本が顕著な成功を収めている政策は次のようなものがある。
日本は、可能な限り住民の伝統的風俗(先入観)に敬意を表し、文明の路を強要するよりは寧ろ穏やかに指導することを心がけた。

例えば、武装山賊の不意の襲撃や火災、洪水、その他自然災害から住民を守るべく古来シナが創設した“平和兵団” (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な“成文法”を導入した。
(註:この組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えた)

そしてこれらの“成文法”は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用している。  


阿片常用者の治療(漸禁策)

阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪なのだけれど、原住民は阿片常用癖を認められてきている限りにおいて阿片消費を罰せられないものとした。
しかし日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法にのっとって、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも阿片吸引の許容にも、阿片の抑制にも利用した。
公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみそれを確保できる。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者へ分け与え、そして警察は、最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視した。
同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えた。
医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に指摘しなければならないし、教師は皆、阿片常用者の不法性及びそれがもたらすモラル低下作用を子供達に警告しなければならないとした。

同島の人口は現在ざっと300万人。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者であった。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていた。
17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いはない。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になったことは、大きな変化である。

財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましくない。
なぜなら、国家にとってこれが意味するものは、一面で深刻な収入減、反面で阿片吸飲者の管理・監視のための経費増であるからである。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。
尚、1905年、台湾には纏足婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明した。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなった。
公正な政府の下で自由を謳歌する。

次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされた。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできた。
それは、澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する、極めて質の悪い水が主な原因であった。
そこで日本人は、浄水の供給を始めた。

台湾で掘られた井戸の総数は不明だが、総人口の10分の1が住む台北地域だけでも800以上の井戸が堀り抜かれた。
(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

日本が整備した台北水源地一帯
1903年着工~1905年完工
台北水源地



素晴らしい学校制度の開始

教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点である。
日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入した。
60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する一方、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっている。

しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではない。
というのは、与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからである。
そこで、日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立している。

台湾での医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する“極東で唯一の学校”であるという重要な特徴がある。
学校は台北に存在し、現時点で約150名の学生が有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいる。

台湾総督府医学校
台湾総督府医学校


日本語学校には二つの役割がある。

その目的は原住民の間に日本語を広めることだけれど、同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで、彼らが奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもある。

(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。
これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。
日本語の役割は、
 ① 共通語を持つことと、
 ② 近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段
として不可欠であった。
つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であった。
総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)

個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよる。
そこで、日本は、新植民地の繁栄増進をも、その目的としている。


鉄道網の構築

日本が台湾の割譲を受けた際に道路は存在しなかったが、変な話ながら、粗末な建造且つ貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道が存在した。
鉄道運賃や貨物運送はほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけの列車運航だった。
日本は、台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めた。
米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されている。

日本政府は同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しているが、これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような大金である。

明治橋
明治橋


日本人が台湾でその存在を見た鉄道は既に完全に建造され、直され、さらに新竹-高尾間の新線建設が、両方のターミナルから同時に全力投球で始まっている。

1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、
37の駅が建造され、
210輌の貨車及び客車、
機関車20輌が導入された。 

この期間に、運送旅客数は4倍に、そして輸送貨物量は10倍に伸びた。
加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設された。
更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される。

台北停車場
台北停車場


郵便、電信、電話も、既に導入され、大きな成功を収めている。
1896年から1902年の間に、一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、
1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、
336,207件の国内為替を発行した。

電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び、1,350マイルの電話線が敷設され、
1902年には3,690,228件の通話が行われた。

台北に置かれた郵便ポストと集配人
(なつかしい赤ポストです)
台北に置かれた郵便ポストと集配人


日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できない形で続行されていた。
実り豊かな土地の耕作法は、科学的なものはおろか、伝統的・絶対的なものでさえ知られていなかった。
原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存していた。
台湾の農民は米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものだった。

日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びている。
同じ期間のお茶の生産量は5倍となり、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せている。

農業実験場 1903年創設
農業実験場


(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。
「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌したのである。)

広大な森林の利用も不十分だった。
原住民は不経済で、例えば楠(くすのき)から樟脳を取り出す際に得られた樟脳油は、地元の精製者は廃物として取り扱っていた。

日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は、
1897年の 1,534,596斤から、
1903年には3,588,814斤へと着実に増え、
樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びた。

鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれなかった。
忍耐強い指導と穏やかな主張により、日本人はあらゆる産業において改良手法の導入に成功している。
農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げている。


銀行・通貨制度

台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになった。
その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され、より重要な中心部に民間銀行の事務所も開設された。

台湾銀行台北総行
台湾銀行台北総行


郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めている。

預金者数は
1896年の5,847人から、
1902年には41,145人に。

預金額は1806年の228,487円から、
1902年には763,575円に増大した。

台湾通貨も改革を必要とした。
台湾は、ずっとシナと全く同じく為替の媒体が、硬貨ではなく金塊の国であった。
扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引であれ殆ど不可能であった。
今では、日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっている。

日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込んだ。

粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいる。
疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取るであろう。

この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりで達成された経済発展は、大変に著しい。

住民の繁栄の増大は、基本的に政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が、
1896年の 2,711,822円から
1903年の12,738,587円へと、ほぼ10倍に拡大していることから、見て取れる。

主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、
1898年の 747,850円から
1902年には1,952,220円へと、4年でほぼ3倍にも伸びた。

しかも、一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するために、不当な圧政が行われたことは、これまでにいちどもない。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然である。

1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、
1903年には3,082,404人に増加している。

<↑引用おわり>-------------------

昨日の記事でご紹介した昭和天皇の大東亜戦争開戦の詔勅に、

「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである」
という一文がありました。
上のニューヨーク・タイムスの記事は、その陛下のお言葉通りの統治が、台湾で行われたことを如実に物語っています。

実は、満州も同じでした。
満州においても、日本は最大限の貢献と努力をし、崩壊した清王朝の治世の近代化と社会的インフラの整備を行った。
朝鮮半島も同じ。
パラオも同じ。
インドネシアも同じ。
日本が統治したそれぞれの外地は、みな等しく、社会的インフラが整備され、社会資本と社会制度が整い、教育が充実し、瞬く間に近代化し、農産物等の生産高も飛躍的に伸びています。

英国はインドをはじめ、世界各国を統治したけれど、その国の民衆は貧しいままに置かれていた。
アメリカは、フィリピンを戦後もずっと統治したけれど、現地の人々はずっとずっと貧しいままだった。
五族共和とか、八紘一宇とかいうと、いまどきの人は、右翼だの軍国主義的発想だのというけれど、ぜんぜん違う。
まさに、万国共栄を、読んで字のごとく図ろうとしたのが日本です。

世界の歴史をひもといて、他国に行き、他国を統治して、これほどまでにその国の発展に寄与した国家が、歴史上、日本のほかにありますか?
戦前の日本の軍人さんも、軍族も、民間人も、みんなこういう理想のもとに働いたから、理想があったから、そして実績があったから、それを正しいと信じたし、命がけで戦うこともできた。

このブログで、なんども書いているけれど、戦前の日本の軍人さんや軍族、民間人すらも、命を捨ててまで戦うことができたのは、なにも、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからでも、上官の命令があったからでもない。

階級闘争主義者の人は、命令すれば人は動くものだとなにか勘違いしているけれど、それは断じて違う。
ひとりひとりが、誰かのために、互いの信頼を勝ち得るために、そして信頼を守り抜くために戦った。
そのことを、日本は末代までもずっとずっと語り継がなければならない、守り抜かなければならないと、ねずきちは思うのです。

7月22日、皆既日食がありました。
皆既日食は、古いものが新しいものに生まれ変わる節目にあたるのだそうです。
それを日本国内の政権交代などに結びつける人がいたけれど、それは違う。
なぜなら、皆既日食は地球規模のものだからです。決して日本だけのものじゃない。

そして、ボクは、その皆既日食を、共産主義によってもたらされた階級闘争主義や、契約至上主義といった、これまで世界でもてはやされてきた価値観が崩壊し、新たに“相互信頼主義”という日本人にとっては古くて新しい概念が、世界を覆い、世界に安定と繁栄をもたらす節目であると思っています。

そしてもうひとつ。
この記事は、英国人記者が自分で取材して、ロンドンタイムスに掲載したものを、翌日にニューヨークタイムスが転載したものです。

英国人記者によって、こうした報道がなされたわけです。
そして書いてあることは、ことごとく事実です。

私の主張は、歴史は「学ぶべきもの」である、ということです。
なんのために学ぶかといえば、それは今に活かし、未来を拓くためです。
その視点からみたとき、この記事は、日本が素晴らしい台湾統治をしたということだけでなく、こうした広報活動を、むしろ日本は世界にむけて、大金をはたいででも、ガンガンやるべきではなかったろうか、ということです。
そしてそのことは、欧米の植民地政策に対する、ものすごく大きな警鐘になったろうと思うのです。

というのは、ひとことで「列強の植民地政策」といいますが、その受益者となっているのは、欧米列強諸国の中にいるほんのひとにぎりの植民地支配をしている「◯◯家」でしかありません。
他の多くの一般市民(庶民)にとっては、何のメリットもないどころか、命の危険さえも生むものでしかなかったのです。

もととも植民地支配を行った者たちは、白人であっても、もともとは「ならず者」の一団です。
そのならず者が、植民地支配といえば聞こえはいいですが、国ごと強盗することで、私財を肥やし、そこで産まれた豊富な財力で欧米貴族社会に食い込み、贅沢三昧な暮らしをしていたのです。
そしてその贅沢は、あくまで一部の、もと強盗でいま貴族と呼ばれるようになった者たちだけの冨であり、一般の庶民の生活は、極貧に等しいものだったというのが実情です。

そしてそれが19世紀の終わり頃から20世紀初頭にかけては、市民革命のうねりのなかで、市民の票が社会の構造を変えて行くという流れになっていた時代に変化していました。

そういう背景のもとで、実は、植民地経営は、ただの収奪ではなく、真にその国の社会や人々の暮らしを良くするものだ、あるいは、そういことが現実にできるのだ、ということを、もし、当時の日本が積極的に海外向けに広報し、宣伝していたら、世界の民意は、また別なものになった可能性は否定できないと思うのです。

ところが現実は違いました。
蒋介石や、張学良などの支那で一定の利権を図る者たちが、民衆の幸せのためではなく、欧米の植民地利権者たちと同様、自己の利権のために反日プロパガンタの捏造宣伝を、それこそ世界に向けてガンガン宣伝していたわけです。
そして、一部の大金持ちたちの利権保持のために、一般の市民が徴用され、戦争によって命を奪われていました。

日本は逆に、民衆の利益、民衆の生活を守るために軍を編成し、戦っていました。
それが真実なら、日本はそのことを大々的に世界に向けて広報し、宣伝すべきであったろうと思うのです。

日本は、ずっと控えめでした。
それは日本人の美徳でもあります。
けれど、それだけでは、人々は眼を覚まさないのです。
目を覚ますには、目覚まし時計が必要なのです。

目覚まし時計だって、買って来なければ手に入りません。
その結果、寝坊して、気がついたら他国の利権者たちに包囲され、戦争をせざるをえないところまで追いつめられた。
それが戦前の日本だし、それはもしかしたら、いまの日本もまったく同じなのかもしれません。

正しいことをするとき、「男は黙って」というのは日本人の美徳です。
しかし世界の中では、「私がやりましたぁ!」と宣伝しなければ、逆に「悪いことをしている」などと、捏造までしてデタラメに白黒を反転させられてしまうのが世界の現実です。

そういう意味で、冒頭の台湾統治の紹介文は、英米の新聞に載ったよといって喜ぶことではなく、後生の我々からすれば、むしろ、この程度のことは、政府自身が総力をあげて、広報し、宣伝し、拡散し、世界をむしろ教導するくらいでなければならなかった、日本の統治の素晴らしさが、世界の常識として完全に定着するように、繰り返し日本の、それこそプロパガンタといわれるくらい、広報努力をすべきことだった、その反省材料としての新聞記事といえるのではないかと私は思います。

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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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