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敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらす山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


斬っても突いても死なない男・・・鈴木貫太郎

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鈴木貫太郎


鈴木貫太郎といえば、第42代内閣総理大臣です。
終戦処理内閣といわれた鈴木貫太郎ですが、この人物の半生は、江戸から明治・大正・昭和の歴史そのものといっていい。また人物が、実にすごい。奥様までものすごい。

海軍出身なのですが、戦に立てば獅子奮迅。平時にあっても鬼貫と呼ばれ、老いては陛下からたいへんな信頼を受け、若手青年将校からは君側の奸といわれ、ご遺体からは2・26事件の弾丸が出てきた。とにかくたいへんな人生です。

鈴木貫太郎内閣が成立したのは、昭和20(1945)年4月7日です。まさに大東亜戦争の末期です。
内閣が総辞職したのが、同年8月17日、終戦の翌々日です。
鈴木貫太郎内閣は、大東亜戦争の終結を一手に引き受け、そして解散した内閣でした。

戦はシンガリというのが、いちばん難しい。勝ち戦のときは、みんなが盛り上がるけれど、負け戦をどう戦いぬくかは、はるかに困難をともないます。その大任を拝したのが、海軍鈴木貫太郎です。

昭和20(1945)年4月、戦況悪化の責任をとって総辞職した小磯國昭総理の後継として、重臣会議で、鈴木貫太郎は次の内閣総理大臣に指名されます。

重臣会議の結果を聞いて陛下は、鈴木貫太郎を呼んだ。
そして総理として組閣するように命じます。

このときのやりとりを、侍立した侍従長藤田尚徳が聞いています。
あくまで辞退の言葉を繰り返す鈴木に対して、陛下はこう云われた。

「鈴木の心境はよくわかる。
 しかし、この重大なときにあたって、
 もうほかに人はいない。
 頼むから、どうか曲げて承知してもらいたい」

おそらく日本の憲政史上、陛下から“頼む”と言われた人物は、鈴木貫太郎だけです。

貫太郎は武人です。日頃の口癖も、「軍人は政治に関わるべきではない」だった。
「自分には政治的手腕はない」とも言っていた。

しかし陛下から直接“頼む”と言われてはそれ以上、辞退はでません。

そして陛下の母、皇太后節子(貞明皇后)様も、その場で陛下より30歳以上年上の鈴木に対して
「どうか陛下の親代わりになって」と語ったともいいます。

ちなみに国会議員以外から内閣総理大臣に就任したのは、鈴木貫太郎が最後です。

こうして内閣総理大臣を拝命した鈴木貫太郎は、4月7日組閣を行います。

4月12日、米国ルーズベルト前大統領死去。
貫太郎は、この報道に接すると、短波放送で次のメッセージを送った。

「私は深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります」

同じ頃、ナチス・ドイツのヒトラーも敗北寸前だったのだけれど、彼は対照的にルーズベルトを罵った。
アメリカに亡命していたドイツ人作家トーマス・マンは、英国BBCで
「ドイツ国民よ、東洋の騎士道を見よ」と題して声明を発表し、鈴木の武士道精神を称賛しています。

話がすこし前にさかのぼりますが、貫太郎が枢密院議長をしていた1943年のことです。

会議の席で嶋田繁太郎海軍大臣が山本五十六の戦死を貫太郎に報告しました。

驚いた貫太郎が「それは一体いつのことだ」と問うと、
嶋田は「海軍の機密事項ですのでお答えできません」と官僚的な答え方をした。

このとき貫太郎は、齢75歳。老境に達し、日頃静かで温厚とみえた貫太郎が、怒髪天を抜く勢いで腹の底から嶋田を怒鳴りつけた。

「俺は帝国の海軍大将だ!
その答弁は何であるか!」

周囲にいた者はいまだ「鬼貫」が健在であることを思い知らされたといいます。
貫太郎は骨の髄まで武人であったのです。

そして罵ったヒットラーは、この月の月末に自殺する。
貫太郎は、尚も和平の道を探し抜きます。

しかし閣内には断固戦闘を継続すべしの声も多い。
6月8日の重臣会議で、貫太郎は若槻禮次郎の質問に答えて、こう述べています。

「理外の理ということもある。
 徹底抗戦で利かなければ死あるのみだ」
 そう言って、彼は机を叩いた。

同席した東條英機は満足してうなずいたといいます。
ところが近衛文麿が微笑していた。
貫太郎の腹の中は決まっていたのです。

・・・内大臣に会いに行くと、皇族をはじめ、自分たちの間では和平より道はもうないといふ事に決まって居るから、此事、お含み置きくださいといふ話。
若槻さんは首相はどうなのですかと訊くと、勿論、和平説ですといふ内大臣の返事で、初めて近衛さんの微笑の謎が解けたといふ・・・(志賀直哉「鈴木貫太郎」)

6月23日、米軍沖縄を占領。

天皇の終戦への明らかな意志は、貫太郎の勇気をふるい立たせます。
貫太郎は、近衛文麿をソ連に特使を送るこを決めます。

しかし7月17日、、トルーマン、チャーチル、スターリンの連合国三巨頭がべルリン郊外のポツダムに参集した。

この席のもとに、原爆実験成功の知らせがポツダムにいたトルーマンのもとに届きます。
トルーマンは、日本を早期に降伏させるためにソ連の参戦を促す必要がなくなった。
7月26日、こうしてソ連抜きで、「ポツダム宣言」が発せられます。

貫太郎は、いまだ対日宣戦に参加していないソ連を仲裁者に立てて、和平の道を探ろうとします。

ポツタム宣言は、まちがいなく終戦の糸口になる。
あとは、その宣言の内容を少しでも緩和させるために、なんとかしてソ連に仲裁を依頼しようというわけです。

貫太郎は、近衛特使の訪ソを待って日本の態度を決定しょうとした。
そうであれば、「宣言」に対するステートメントは、この時点ですぐには発表できない。

7月27日、鈴木は、日米が戦うことの無意味さを説いた新聞談話を発表します。
米国が無条件降伏を主張する限り、日本は戦いを継続するしかない。
わが国民の信念は七生尽忠です。
わが国体を離れてわが国民は存在しないのです。
敵の揚言する無条件降伏なるものは、わが一億国民の死ということです。
われわれは一に戦うのみである」

鈴木のメッセージを読んだ、米国心理作戦課のザカリアス大佐は部下にこう言っといいます。

「鈴木は戦争のことを語っているが、かれが実は平和のことを考えているということをこの演説は明瞭に示している。

鈴木は、もうわれわれの無条件降伏要求に条件をつける材料のないことを覚悟している。

それでいて、なお降伏を受け入れることを鈴木がためらっているのは、将来の天皇の位置が不明だからだ」

貫太郎の「(ポツタム宣言を)ただ黙殺するだけである」という説明について、日本の新聞は、ポツタム宣言の全文を掲載したうえで、
「首相、ポツタム宣言黙殺」
「笑止、対日降伏條件」
「笑止!米英蒋共同宣言、自惚れを撃破せん、聖戰飽くまで完遂」
「白昼夢 錯覚を露呈」
などと報道します。

その新聞記事を、日本の国家代表通信社である同盟通信社が
「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳し、
ロイターとAP通信では
「reject(拒否)」と誤訳して報道した。

日頃貫太郎ら各寮と接する機会の多い新聞記者たちは、貫太郎が和平の道を探っていることを承知していた。承知していて、彼らは軽はずみな報道をします。

結果、米国は「日本断固戦闘継続」との見方をすることになる。
終戦を急ぐアメリカは、ついに8月6日、広島に原爆を投下し、8月9日には長崎に原爆を投下した。直後にソ連軍が参戦。

原爆投下は、ある意味、日本のメディアの軽はずみな報道が原因となったといえるかもしれません。

この時点のソ連の参戦は、日ソ中立条約を一方的に破って侵攻したものです。
なんと120万の大軍を満州、樺太、千島に侵攻させた。

彼らは国境を越えたばかりではなく、略奪、暴行その他したい放題の事をしたのです。
千島は先日の占守島の守備部隊の健闘で、なんとか難をのがれたけれど、満州、樺太では、8月15日をすぎても略奪・暴行が継続しています。

長崎原爆投下、ソ連参戦が行われた日の夜、貫太郎は緊急閣議を召集します。

その席で、貫太郎はポツダム宣言受諾を取り決めます。

そして日本は8月14日の御前会議で、正式に宣言受諾を決定した。

8月15日早朝、貫太郎は、東京・小石川の私邸を襲撃されます。
貫太郎夫妻は警護官の手によって、私邸を脱出し難を逃れたけれど、直後、私邸は焼き払われてしまう。

貫太郎は、8月17日、内閣を総辞職します。
彼は主戦論渦巻く当時の内閣、国会、世論にひとり相対し、終戦へと日本を導いた。

生粋の軍人でありながら時代の要求により首相となって、わずか4か月の在任の期間で、必死に日本を支え、戦争終結という大業をなし遂げた。

精根を使い果たした貫太郎は、こののちほんの少ししか生きなかった。
見事な引き際であった。
昭和23年4月17日、貫太郎は「永遠の平和」の一語を残し、享年82歳で逝去されました。

遺灰の中からは、彼が2・26事件のときに受けた弾丸が出てきたそうです。

その2・26事件のときのエピソードをお話します。

貫太郎は、日清・日露に従軍し、数々の大功を立てたのち、大正12(1923)年には大将に進級し、連合艦隊長官、軍令部長などの重責を歴任します。

大功あった貫太郎ですが、彼は昭和4(1929)年1月から侍従長に任命されてしまいます。
侍従長というのは、それまで貫太郎が在職していた海軍の軍令部長より宮中席次で30位くらいランクが下の役職なのだそうです。

貫太郎にしてみれば、薩摩藩出身が優遇される当時の海軍内で、旧幕臣であるがゆえの降格です。
そういう意味でははなはだおもしろくない人事なのです。
しかし彼は、「格下になるのが嫌で天皇に仕える名誉ある職を断った、と人々に思われたくない」と、侍従長の職を素直に引き受け、昭和天皇から篤い信頼を得るようになります。

陛下のお傍にいる。このことが原因で、貫太郎は若手青年将校らから、「君側の奸」といわれるようになります。彼は命を狙われるようになった。

昭和11(1936)年2月26日、2・26事件が起こります。

近衛、第一両師団に属する若手青年将校たちが暴発して、首相官邸はじめ重臣たちの官邸や私邸を襲撃した。

この日、貫太郎は、たか夫人と一緒に駐日アメリカ大使ジョセフ・グルーの招待で夕食会に出席した後、11時過ぎに麹町三番町の官邸に帰宅し、就寝していた。

午前5時。
鈴木の官邸に、安藤輝三大尉が指揮する麻布歩兵第三連隊の兵204名が来襲する。

第三連隊兵士らは、私邸に侵入し、貫太郎夫妻を寝室で発見します。

布団から起き上がった貫太郎夫妻に、下士官が兵士に発砲を命令する。

貫太郎は、左脚付根に3発、左胸、左頭部に各1発の銃弾を撃ち込まれ、その場で昏倒した。

夫人のたかは、眉ひとつ動かさず、その場に正坐していた。

血の海になった八畳間に安藤大尉が到着。

下士官のひとりが、
「中隊長殿、とどめを」と安藤に促した。

安藤が軍刀を抜くと、貫太郎の横で正坐していたたか夫人が、
「それだけはやめてください!」と凛と言い放った。

軍刀をかざした安藤大尉の腕が止まります。
するとたか夫人は静かにこう言った。

「老人です。とどめは止めてください。
 どうしても必要というなら、
 わたくしが致します」

安藤はうなずくと、軍刀を納め、

「鈴木貫太郎閣下に敬礼する。
 全員、気をつけ!
 捧げ銃(つつ)!」

そして安藤はたかの前に進むと、夫人に、

「まことにお気の毒なことをいたしました。
 われわれは閣下に対しては何の恨みもありません。
 国家改造のためにやむを得ずこうした行動を
 とったのであります」と静かに語り、
「自分は後に自決をする覚悟であります」

と述べて、兵士を引き連れて官邸を引き上げます。

反乱軍が去った後、鈴木は気がつき、自分で布団から起き上がると、
なにやら間のびした声で、

「もう賊は逃げたかい」と尋ねたそうです。

しかしその口からは、言葉を発するたびに血が噴き出す。

たかは傷口に応急の止血処置をすると、すぐに宮内大臣湯浅倉平に電話をかけた。
湯浅は医師の手配をして駆けつけてきます。

鈴木の意識はまだはっきりしており、湯浅に
「私は大丈夫です。ご安心下さるよう、お上(昭和天皇のこと)に申し上げてください」と言った。けれど、声を出すたびに傷口から血が溢れ出る。

ようやく医師が現場に到着。
ところが鈴木のあまりの大量の出血に、急いでいた医師は、血ですべって転んでしまった。

医師やたか夫人らとともに、貫太郎は日本医科大学に運ばれます。
しかし、手当の甲斐なく、やがて貫太郎は意識を喪失、心臓も停止した。

直ちに医師たちによる甦生術が施されたけれど、貫太郎は息を吹き返さない。

医師があきらめかけます。

そのとき枕元にいたたか夫人が、
「あなた! 起きなさいっ!」と叫んだ。

人間、死に際したとき、最後に失われるのが聴覚だそうです。
この声が、貫太郎に聞こえたのでしょう。
貫太郎は奇跡的に息を吹き返します。
いつの時代も、旦那にとっては、かあちゃんのひとことがこわい(笑)。

貫太郎が一命をとりとめたのは、胸部の弾丸が心臓をわずかに外れたことと、頭部に入った弾丸が貫通して耳の後ろから出ていたことなどが幸いしたというのだけれど、やはり夫人が勇気ある機転で“とどめを制した”ことが、最大の要因といわれています。

このたか夫人という方は、明治38年から大正4年まで皇孫御用掛として、幼少時の迪宮(昭和天皇)、秩父宮、高松宮の養育に当たっていた方です。

昭和天皇は、侍従長・総理時代の鈴木に、
「たかは、どうしておる」
「たかのことは、母のように思っている」と、語ったと言います。
すごい女性だったのですね。

それにしても、たか夫人は、まさに武人の妻というにふさわしい女性であったと思います。

貫太郎を襲った安藤大尉は、その後逮捕され、処刑されますが、彼は自ら手に掛けようとした鈴木貫太郎について、「あの人は西郷隆盛のような人で懐が大きい」と述べたと言います。彼は貫太郎の人物の大きさを認めていた。

そして貫太郎も、安藤大尉の処刑を聞くと、
「安藤輝三大尉は、首魁の立場にいたから止むを得ずああいうことになってしまったのだろう。惜しい若者を死なせてしまったと思う」と記者に答えています。
貫太郎も、若くて純粋な安藤大尉を武人として好感を持っていた。

鈴木貫太郎は、慶応3(1868)年1月18日の生まれです。つまり江戸時代に生まれた方です。
そして江戸から、明治・大正・昭和と激動の時代を生きた。

若き日の貫太郎の生きざまは、まさに痛快であり、爽快であり、男の人生そのものでした。

彼は、大阪府堺市中区伏尾のご出身ですが、本籍地は千葉県野田市の関宿藩です。
貫太郎の父親は関宿藩の家老職であった鈴木由哲で、鈴木家というのは、三河の渥美郡の出、代々徳川直参旗本の家柄です。

貫太郎は、どうも子供のころからやんちゃだったようで、3歳のとき、おもてで遊んでいるときに、暴走してきた馬に蹴られた。家族全員が貫太郎の死を覚悟したそうです。
しかしなぜか彼は助かった。

ものごころつくころには、父親の仕事の都合で前橋市に転居するのだけれど、そこでは冬に魚釣りをしていて、何を血迷ったか、氷った川面に乗っかって、川に落ちて、あやうく死にかけた。普通、湖でも川でも、氷った川に落ちたら、死にます。それでも貫太郎は、なぜか助かった。

明治20(1887)年に、海軍兵学校卒すると、翌、明治21年にはいきなり日清戦争が勃発。
貫太郎は、任官したての海軍大尉として、50トンのトイレもない小さな水雷艇の艇長に任官されます。

彼は、その小舟を操って、威海衛という敵の艦隊が駐留する港に、僚艦とともに夜遅くに潜入。
なんと、敵主力戦艦に50M~100Mの距離まで近づいて、決死の電撃戦を敢行し、敵戦艦を沈めてしまいます。

これが清国の海軍力を奪い、日清戦争を早期に終結させるきっかとなった。
貫太郎は大戦果をあげています。

彼は意気揚々と帰還するだけれど、乗っている船は、小さな和舟に毛の生えた程度の水雷艇です。
彼は、帰還の途中に、夜の海に落ちてしまう。

まだ行燈くらいしか、灯りのない時代です。
いまみたいに、サーチライトなんて気の利いたものはありません。
この時代、夜の海に落ちたら、まず助かる見込みはない。

ところが、なぜか貫太郎は奇跡的に助かってしまいます。奇跡としかいいようがない。
貫太郎には天命があったのかもしれません。

続く日露戦争では、貫太郎は中佐として軍艦春日の副長、そこから駆逐隊司令に転じます。

彼は、日清戦争での自身の体験から、駆逐艦による高速近距離射法(肉薄強襲)を実現しようと、部下を猛訓練します。
あまりの猛特訓に、このときついたあだ名が「鬼貫」。よほど厳しい訓練を施したのでしょう。

ちなみにこの時代の魚雷というのは、100Mの距離で発射して、敵艦にあたれば幸運、というシロモノです。
100Mといえば、敵艦の主砲どころか機関砲や、ライフルの弾すら飛んでくる距離です。

その敵の猛攻をかいくぐって、敵艦に、眼と鼻の先まで近づき、魚雷を発射する。
近づくルート、そのルートに乗るための波の避け方、艦の速力の調整、発射のタイミングの取り方、魚雷の整備、敵の砲弾で損傷した自船の応急措置、戦闘途中で怪我をした水兵の手当。なにせ小型艦です。ひとりひとりの兵士に与えられる任務は細かく、しかも敵弾とどく危険の中で、いっさいを効率的に処理しなくてはならない。

「鬼貫」の訓練は、熾烈を極めた。

訓練の効果は、日露戦争の日本海海戦で、如何なく発揮されます。
「鬼貫」の駆逐艦は、なんと海戦で、ロシア戦艦3隻、巡洋艦2隻を撃沈させてしまった。

おかげで貫太郎は、戦いのあとに連合艦隊の秋山真之参謀から、
「オイ、鬼貫、1隻くらいは他の艦隊の手柄にしてやってくれよ」と言われたそうです。
それくらい彼の船の活躍はすさまじかった。

鈴木貫太郎の人生を概観したとき、思うことが2つあります。

彼の前半生は、海軍軍人としての武人ですが、軍人としてではなく、それ以前にも彼は何度も死にかけている。そして、226事件では、実際に心停止までしている。
それでも彼は生き、80歳になって、大東亜戦争に幕を引くという最大限の胆力と集中力を必要とする仕事を、見事にやってのけた。
彼はもしかすると、そもそも日本の終戦処理という使命を帯びて、この世に生を受けたのではないか。

もうひとつは、彼は80歳という高齢で、陛下から全幅の信頼を帯びて日本の終戦処理をした。

いま、保守に目覚めている多くの方は、40代、50代、60代、70代だったりするけれど、貫太郎からしてみれば、みんな“子供”です。彼よりずっと年下だ。
人間、丹力があれば、年齢など関係ないのではないか?

いま、真正保守に覚醒する人が、陸続と現われています。
ひとりひとりは年齢も世代も様々です。
しかし、日本を護りたい、日本の心を伝えたいという、明確な意思があれば、実年齢に関係なく、ひとりひとりが青雲の志を抱く若き青年といえるのではないか。

ついに反日者たちが日本の政権を盗ったというこの未曾有の国難に際し、覚醒し、行動しようとする人は、全員が、青春であり、青年たちである。ねずきちはそんなふうに思うのです。

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戦争が、いいことか悪いことかといえば、それは悪いことに決まっています。

誰にだって幸せになる権利はある。みんなが幸せにいきれる社会ならそれに越したことはないです。

では、なぜ起こるのか?
なぜ戦争がなくならないのか?

「軍隊があるから戦争するんだ。だから軍隊がなければいいんだ」という人たちがいます。
なるほどそうかもしれません。

では日本が単独で武装を放棄しただけで、戦争はなくなるでしょうか?
武器があるから戦争が起こるのではなく、戦争があるから武器があるのではないでしょうか。

その戦争は、多くの場合、資源と利権をめぐる争いです。
戦前は、東南アジアに石油・石炭の豊富な資源があった。
だから東亜が火種となっていた。

戦後は、その火種が中東に移った。

戦争放棄を謳う憲法九条は平和憲章だといわれます。
素晴らしい理想憲法だと主張する人がいます。
しかし、その素晴らしい憲法を作ったアメリカは、まったく戦争を放棄していない。
世界中で戦っています。これが現実です。

フセインがイランに毒ガスを発射したときアメリカはフセインを支援していました。
フセインがクルド人に毒ガスを浴びせたときも、アメリカは黙っていた。
フセインが秘密警察を使って市民を殺したときも黙っていた。
もちろん日本の政府も黙っていました。
日本のサヨクも黙っていた。
誰も非難声明を出していなかった。

アメリカは国連決議に従わないからと、フセイン=イラクに侵攻した。
その一方で、アメリカは国連決議に従わないイスラエルを援助しています。

シナは世界中に地雷を売り歩いています。

その地雷がアフガニスタンの山中に大量に埋められ、地雷に守られた裏山で、タリバンが世界の8割のアヘンを生産している。そして売ったお金でまたシナから地雷を買っている。

地雷を撤去に行っていた日本の自衛隊を、日本の岡田外相以下、民主党政権は撤収させるそうです。日本の自衛隊の地雷処理部隊は、世界最高の能力を持ちます。
そして自衛隊員が命がけで撤去した地雷原に、再びシナから大量の地雷が購入され、それがアフガンの大地に埋められる。

地域のアフガン人たちが被害にあう。

日本の自衛隊が撤収することで、シナの地雷の売上が上がり、地元住民の被害が出る。

それが私たち日本人の願う平和支援、人道支援なのでしょうか?

シナは、チベットを侵略し、120万人のチベット人を虐殺しました。
今日も国境を越えるチベット難民を狙撃しています。
そのシナが、日本が人口が全部で20万人しかいなかった南京で、30万人を虐殺したと事実無根の言いがかりをつけ、日本は悪い国だと主張しています。
なんのために?
そういえば、日本がカネを出すからです。
すくなくとも、その主張は恒久平和を願ってのものとはいえないのではないようです。

ロシアのプーチンはチェチェン人を弾圧し、イラクはクルド人を弾圧した。殺戮した。
フランスはイラクに兵器を売ることで、石油の優先権を持ち、武器の売掛金を心配して戦争に反対した。全部、背景には資源をめぐる利権がある。

シナのウイグル人虐殺が問題になっています。
実はウイグル族の住む新疆には、中東に並ぶ大油田地帯が発見されています。
だからそこに漢人が大量に進出した。そして彼らはウイグル族を追い払い、あるいは隷属化して利権を独占しようとした。
これにウイグル族は抵抗します。当然です。住むところを追われ、私有財産を奪われ、女子供を虐殺され、収奪され、殺害される。
漢人たちは、これを弾圧した。

シナでは、共産主義成立以来1億の人類が殺されてきたといわれています。

そして今も中共では殺戮が行なわれ、チベット、南モンゴル、 東トルキスタン(新疆ウィグル自治区)では、ナチスドイツ以上の民族浄化(民族の種を途絶えさせる)が行なわれている。

以下は、以前引用した、櫻井よしこさんの記事からの引用です。
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中国共産党が用いた弾圧の口実は「内モンゴル人民革命党」である。
彼らは同革命党を反中国、反社会主義の総本山で、メンバーは修正主義者で反毛沢東思想の輩だと決めつけ、粛清した。
1966年7月2日、小平もモンゴル人の指導者、ウラーンフを呼びつけ、厳しく批判した。

反毛沢東、反社会主義の輩を「えぐり出して粛清する」運動は、「挖粛(ワーソ)」と呼ばれた。
『実録』によると、挖粛によって、内モンゴル人民革命党員とされたのは34万6,653人、当時の内モンゴル自治区のモンゴル人の人口140万人弱の約4分の1に相当する。

うち1万6,222人が殺害され、烈しい拷問による障害が残ったのは8万7,188人だったという。

しかし、『実録』におさめられた右の数字は、1980年に中国の最高検察院特別検察庁、つまり、中国政府当局が発表したデータで、少な目に見積られている可能性がある。実際の犠牲者はこれよりはるかに多いと、モンゴル人たちは訴える。

中国共産党はまず、ウラーンフの例でわかるようにモンゴル人の指導者と知識人たちを狙った。
文字を読める人は殆ど生き残れなかったと言われるほどの粛清が行われた。

50種類以上の拷問が考案され、実行された。

たとえば、真赤に焼いた棍棒で内臓が見えるまで腹部を焼き、穴をあける。
牛皮の鞭に鉄線をつけて殴る。
傷口に塩を塗り込み、熱湯をかける。
太い鉄線を頭部に巻いて、頭部が破裂するまでペンチで締め上げる。
真赤に焼いた鉄のショベルを、縛りあげた人の頭部に押しつけ焼き殺す。

『実録』には悪夢にうなされそうな具体例が詰まっている。

女性や子どもへの拷問、殺戮の事例も限りがない。
中国共産党の所業はまさに悪魔の仕業である。
http://yoshiko-sakurai.jp/index.php/2008/06/19/%E3%80%8C%E2%80%9C%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E4%BA%BA%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8E%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%89-%E5%AE%9F%E9%8C%B2%E2%80%9D%E3%80%8D/
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日本は平和な国です。

しかし火種はあるのです。
まず、尖閣諸島領域のガス資源も中東に並ぶ埋蔵量が報告されている。
シナは、日本との掘掘停止の約束を平然と無視して、採掘を開始しています。

いいじゃないか。シナに発掘してもらい、日本はそれを買えばよいという人がいます。
日本は、手を上げて降伏すれば、平和でいられるというのです。
ほんとうにそうでしょうか。
シナは日本から奪った領海で、勝手に盗掘をした石油や天然ガスを、高い値段で日本に売り付ける。日本人は高額な買い物をさせられ、日本の富がシナに流出する。
それだけで終わるのでしょうか。

大東亜戦争が終結したとき、毛沢東は日本が築いた満州の工業地帯を摂取し、こう言いました。
「もし、我々が全ての根拠地を失ったとしても、東北(満州)さえあれば、それだけで中国革命の基礎を建設する事が可能である」

当時はまだ、満州地帯の埋蔵資源は確認されていません。
その代り、そこには日本が築いた大重工業地帯がありました。
彼らは清王朝の後継である満州国さえも滅ぼし、国ごとその重工業地帯を支配した。

思い出してください。
金日成が、北朝鮮で、どこの何を占領したか。
彼は朝鮮労働党を組織すると、イの一番に日本が築いた北朝鮮の工業地帯を占領した。
そうすることで半島の富を一手に握った。
その富で、ソ連からT型戦車を買った。
武器がそろった金日成は、南朝鮮に侵攻した。

日本は、資源のない国です。
加工工業で国の経済を成り立たせている。

日本は郵貯を民営化しました。
日本人が明治依頼必死で貯蓄してきた富が、国営から民営に移された途端、巨額な郵貯資産をめぐって世界中の原材料が一斉に値上げになりました。

日本の郵貯が大金庫を解放したのです。
打出の小槌が振られた。

日本にモノを売っているすべての国は、日本向けの輸出品目の値段を釣り上げた。
当然です。どこの国でも、資源はいずれ枯渇する。
そうなるまえに、できる限りの富を得ようとする。当然です。

それは、みんなが円を欲しがったということでもあります。
だから円が高くなった。これも当然の流れです。

では、日本の郵貯の金庫がカラになったら、どうなるのでしょうか。

考えてみてください。日本は内需の国です。
日本の国債も、日本国内ですべて買われる。
日本の民間部門には、大量のカネが眠っている。

それをふんだくるには、どうするか?

簡単なことです。
日本の政府を叩き壊して、日本の民間部門の財を傀儡政権の管理下に置けばよい。
そこに漢人を大量に送りこみ、企業や政府の要職につける。
働き者の日本人を奴隷化し、働かせ、稼がせて、得た利益はそっくり漢人が吸収する。

ある程度それが定着したら軍隊を送りこみ、完全に日本を支配下に置く。

漢人が個々に日本からカネをふんだくるのではなく、政府が日本からまるごと富を奪い取る。

日本の富というのは、形而上学的は国家の富というような架空の存在ではありません。
私たち国民ひとりひとりの、貯蓄であり、財産であり、生活そのものです。

我々日本人は、日本の富が奪われ、日本人の生活が破壊され、日本人の女子供が殺されていくのを黙って見ていればいいのでしょうか?
600万人余りが殺害されたユダヤ人のように無抵抗でいればいいのでしょうか?

スイスは中立国ですが、国民皆兵の徴兵制です。
隣国が攻めて来たならば、国民全員と戦わなければならない。
だから、どの国も、スイスを攻めても何の得にもならない。だから中立国でいられる。

誰だって戦争はイヤです。誰だって死ぬのもイヤです。
しかし、何もしないで殺されたり奴隷のように扱われるのはもっとイヤです。

戦争は、武器をドンパチするだけが戦争ではありません。

富をめぐる争いのすべてが戦争です。

国会で、一時、「埋蔵金」という言葉が流行りました。
世界から見たら、日本という国は「埋蔵金」そのものかもしれません。
その「埋蔵金」をめぐる争いは、すでにはじまっている。

私たちの先人たちは、先の大戦でたいへんな苦労をしてきました。

だからもう二度と、ああいう悲惨なめにあいたくないと、戦後、みんなが努力してきた。
その努力の結果を、横から奪われる。国家を蹂躙され、人々の生活が破壊される。

そんな事態は誰だって避けたいです。

避けたいなら、備えなければならない。
絶対に負けないように備えなければならない。
二度と悲劇を繰り返したくないら、備えなければならない。

日本は平和を愛する国です。
そして誰もが努力をすれば、一定の成果を営める豊かな国でもあります。

その日本への支配工作が、もう始まっている。日本にシナの傀儡政権がついに誕生した。
政治主導といえば、なんかだもっともらしいけれど、それは一部の政治家の恣意で、国民が意のままに操られる社会という意味でもあります。

官僚主導というと、なんだか悪の巣窟のように言われるけれど、官僚というのは、組織です。組織には力学があり、ひとつの意見は、必ず多くの人に叩かれる。
叩かれるから、正確なものになるし、四方に気を配る完成度の高い行政ができる。

天使は、ときに悪鬼の形相で敵と戦うことがある。
悪魔は、常に天使を装ってやってくる。

戦いというものは、ドンパチやるだけが戦いではありません。

素晴らしい日本を取り戻すために、日本の先人達の素晴らしい功績を語り継ぐことも、ボクは大きな戦いだと思っています。

シナが来ようが、アメリカが来ようが、ここは日本です。
日本には日本人がいる。

ボクたちは、ボクたちにできることからはじめる。
できることは、ほんのちょっぴりかもしれないけれど、そのちょっぴりが一億人いたら、一億倍になる。一億倍になったちょっぴりは、もうちょっぴりじゃありません。

日本を守れ!それがボクたちの思いです。
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東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)における中国共産党の弾圧


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保守は法案を提起行動せよ・・・02

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外国人犯罪


一昨日、靖国参拝法案について書きました。

昨日は、日本の心をつたえる会の提案する法案の全体像の概要を書きました。

今日はその中で、「生活安全法案」について書かせていただきたいと思います。

昔の日本では、家に鍵をかけるという習慣がありませんでした。
鍵などかけなくても、泥棒に入られる心配などなかったし、強姦魔に襲われる心配もなかった。

昔の日本では、お金を借りるとき、最近のキャッシングカードの約款のように、細かな文字でぎっしり書かれた契約書面などなかった。

一、金三両也右借入致候
支払期日 文化二年十一月末日
右期日に返済なきときは、人前で嗤われても構わず候

要するに、支払期日に支払いをしなかったら、人前で笑われても致し方ない、と書いてある。
それだけで、人々は期日にきちんと支払いを済ませたし、約束も守った。

いまはどうでしょう。
笑われたくらいで借りた金を返さなくてよいくらいなら、払わねえという人の方が、むしろ増えているのかもしれない。

要するに日本人にとっての約束が約束でなくなってきている。

家のドアなど、二重に鍵をかけるのが、むしろ普通。

ねずきちが子供の頃は、小学校の授業が終わったら、クラスのみんなで校庭で走り回って遊ぶのがあたりまえだった。

登下校も、普通にひとりで通ったし、ねずきちよりもうすこし古い世代になると、学校まで数キロの道を、ひとりで通った女学生なんてのも、ごくあたりまえだったし、ましてそういう子供を襲おうなんて不埒なヤカラなんて、そもそも存在しなかった。
そもそも子供たちというのは、社会の宝物という意識が、不文律として日本社会の中に厳然と存在した。

いまでも、日本は、夜中の六本木界隈を若い女性が一人で歩いていても、安全な国というイメージはあるけれど、実際にはかなり危なくなってきているのも事実かもしれません。

いまは、小学生なら集団登下校するのがあたりまえ。
放課後の校庭は、不審者がきたら困るから、門を閉ざし、子どもたちにも遊ばせなくなりました。

すこし前には、小学校の正門前に同校の男の子の生首が置かれていたなんていう事件もあった。

犯人は逮捕されても、警察官や刑事、あるいは裁判官の前で、ひれふし罪を悔いるどころか、最近の押尾学報道のように、逮捕され、法廷に引き出されてもまるで反省の色がない。

先日、女性をバラバラにして殺害した犯人などは、裁判官の前で「彼女を性奴隷にしたかった」などと、法廷で平然とうそぶいた。

かつての日本では考えられないような事態が、いま日本で起っています。

そして、幼女や女性に対する暴行がらみの凌辱殺害事件や、福岡一家惨殺事件のような凶悪事件の多くが、マスコミには日本人として日本人名で報道されるけれど、顔つきや、態度がどうも怪しい。で、ネットで調べてみると、案の定、犯人は日本人でない日本在住者だったりする。

刑務所に収監されている凶悪犯たちの多くが、外国人です。

そもそも日本国籍を有しない凶悪犯を、日本の税金で、飯を食わせ、たとえそれが刑務所であるにせよ、どうして日本の刑務所で養ってあげなくちゃならないのか、考えてみるとはなはだ疑問です。

しかも在住外国人である彼らは、服役が終われば、通名を変えて、また普通の日本人のような顔をして、市中に出てくる。

日本に住む日本人なら、他に隔離する場所がないのだから、日本の刑務所に入れるのもわかります。しかし外国人なら、そもそも国外に追放すべきなのではないか?
刑務所の食費だってタダじゃないんです。国民の税金から払われる。
さっさと本国にお帰りいただけばよいものを、わざわざご丁寧に何年も何年も、日本で三食運動つきで、養ってあげている。
ここまできたら、おひとよしを通り越して、もはや滑稽ですらある。
彼ら外国人に言わせると、日本の刑務所は本国の自宅よりも、はるかに住み心地がいいのだそうです。

また、日本に住み、産まれたときから日本の永住権を持つ者であったとしても、そもそも彼らの学校で、日本の法律への遵守を学ばせず、他国の法を守れと教えられて育ってきた者まで、どうして日本人として、扱わなくてはならないのか?
本名が別にあり、日本で犯罪を犯した者を、どうして日本人として日本名で報道しなければならないのでしょうか。

日本人というのは、単に、血が代々日本人であるというだけでなく、日本の文化、伝統、歴史を守る意思のある者が日本人なのではないかと、ねずきちは思っています。

いいかえれば、日本に住み、日本語を話し、日本語で読み書きし、日本の歴史と文化と伝統を守る意思のあるものが、日本人です。

であるとするならば、日本に住み、日本語を話し、日本語で読み書きする者であっても、日本の歴史と文化と伝統を守る意思のさらさらない売国反日者は、もはや日本人ではない。
日本に観光や短期滞在以外で、いてもらう必要すらない。

ねずきちは思うのです。このままであと、10年か20年したら、まちがいなく日本の父兄は、我が子の学校の送り迎えを、車でしなければならなくなるのではないかと。
それだけ危険な国になるということは、すなわち日本国民の安全が脅かされる時代になるということです。

日本は法治国家です。
そしてそれ以前に、道義国家でもあります。

その日本に、日本の法を解せず、日本の道義を理解しない者が増えるなら、日本の治安は、それだけ脅かされる。日本の普通の市民の生活の安全が脅かされる。

ならば、国民の生活の安全を守るため、それに必要な法律をちゃんと作るべきです。

すべての日本国在住者は国籍の如何を問わず日本国法を遵守せよ、とは、あたりまえのことです。

これを読んでいるあなたが、仮にアメリカで暮らすことになったとします。
あなたはアメリカの法律を学んだことがなく、むつかしい英文の法典など読んだことすらありません。ですから、あなたは、なにか問題が起こったとき、日本人として日本の常識で、その問題をとらえることになります。

しかし、日本の常識というのは、世界60億人の中の1億人の常識でしかない。

その常識は、アメリカ人の持つ常識とはまるで違うものかもしれない。

そしてあなたが、アメリカにいて、アメリカ人の常識である法を破れば、とうぜんあなたは日本に強制送還される。あたりまえのことです。世界中、どこだってそうです。

ならば日本も、日本に住む者には、ちゃんと法の遵守を義務付ける。当然のことです。

そしてもし、日本国籍を有しない者で短期滞在を含めて日本に在住する者が不法行為を行ったならば、不法行為者本人ならびにその3親等以内の親族全員を国外に追放すべきです。
当然です。身内間で、相互牽制していただくのです。あたりまえのことです。

5人家族の中の誰かが法を犯したら、一家揃って母国にお帰りいただく。
それが嫌なら、家族に法を犯す者を出さないよう、注意しあって、まじめに日本で暮らせばよいのです。

日本の文化、伝統、法を守り、普通の市民として一生懸命働く人たちなら、我々は歓迎します。

しかし日本に来るなり、泥棒をして荒稼ぎして、母国との為替の相場の違いで、大金持ちになって祖国で暮らそうなどという不埒なヤカラまで、日本は歓迎する必要などさらさらないし、そういう人間を日本に住まわせてあげる必要もない。あたりまえのことです。

あたりまえだけど、昨今、それがあたりまえになっていない。

ならば法律で、きちんと決めるべきです。

犯罪被疑者の通名や芸名での報道もおかしなはなしです。

どこぞの国では、「海外で犯罪を犯したら日本人になりすませ」などと平気でテレビなどでも煽っている。
アメリカでは、日本人になりすまして売春をしたり、凶悪犯罪を犯したりする人たちが現に存在します。

そして日本で、どんなに悪いこと、たとえば強姦致傷死体遺棄や、麻薬売買、麻薬吸引などをしても、通名で報道される。おかしなはなしです。

実名があきらかになるということは、犯罪を思いとどまらせる効果のあるものであると、ねずきちは思います。

犯罪報道をする際は、かならず通名や芸名だけでなく、本名をもって報道すべきです。あたりまえのことです。

さらに世界では、どこの国でも、仮にその国に帰化していたとしても、犯罪を犯せば、~系~人と報道されます。
帰化し日本名を名乗る者であっても、帰化した経歴を持つ者は、何々国系帰化人であることの明示を義務付ける。これも当然のことだと思います。


昨今、日本発で、日本人を故意に貶める報道・・・毎日新聞WAIWAI事件のようなものが、頻繁に行われています。そのために、海外に在住する日本人が、日本人とはそういう民族であるという妙な先入観を持たれ、実際に暴行傷害やいやがらせなどを受けるという事件が頻発しています。

海外に住む日本人の安全を図るためにも、国内で日本や日本人を故意に貶める報道を行った者、ならびにそれを行った報道機関も同罪として処罰する。これも国家として当然の措置だと思います。

そうであるならば、私たち日本国民は、力を合わせて国民の生活の安全を守るための法律(略称:生活安全法)の創設を国政に要求する必要があるのではないかと、ねずきちは思っています。

なぜなら、日本国民が日本国民として、安全に安心して暮らせる社会の実現というのは、国家の責務であるからです。

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在日外国人の犯罪


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保守は法案を提起せよ・・・01

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さくら02


27日の請願に参加された皆様、お疲れ様でした。
また、参加できなかった皆様も、思いは同じ。日本を守ろうとする心は同じです。
ありがとうございました。

日心会も、15時の時点で30名、憲政会館で合流された方が6名、また残念ながら現地で合流できなかった方が3名、都合39名の参加となりました。

15時に集合できた30名の方々とは、帝国ホテル17階のラウンジに行き、今後の日心会の活動方向についての会合を持たせていただきました。

その席で合議した結果を、本日ご報告させていただきます。

詳細は以下に述べますが、最大の課題は、これからの日本の心をつたえる会の「法案提起活動」です。

どういうことかというと、日本は法治国家です。

であるとするならば、私たち保守も、日本の国を守るため、日本の歴史と伝統と文化を守るため、そしてなにより、私たちと、わたしたちの子や孫の未来の日本の生活の安全と安心を守るため、必要な法案を提起していく必要がある、と私たちは考えます。

もちろんこれまで通りの反対運動も必要です。

しかし反対運動というもは、それ自体が、すでに受身です。

攻撃こそ最大の防御です。

私たちは、むしろ積極的に、この国の歴史と伝統と文化を守るために必要な法案を提起し、その法案を成立させるために必要な行動をしていくのです。

それこそが法治国家日本における保守の在り方であると私たちは考えます。

法案を成立させるということは、もちろん日心会単独でできるとう趣旨のものではありません。

成立させるためには、全国の保守団体、保守系政治家等に働きかけ、連携しそれを国民運動にまで高めていかなければならない。

そしてそのための接着剤の役割を、日本の心をつたえる会として担って行こうというのが、本日の日本の心をつたえる会の決議です。

そのために私たち日本の心をつたえる会は、竜馬の船中八策に倣い、日心会八策を提言します。

以下、その内容について述べます。

会員の方も、そうでない方も、是非、ご一読をお願いします。

~~~~~~~~~~~~~

Ⅰ 日本の心をつたえる会の活動方向

1. 日本の心をつたえる会は、すべての国、すべての地域に、それぞれ固有の歴史と伝統と文化があることを尊重します。同時に私たちは、私たちの生まれた日本を愛し、日本の歴史・伝統・文化を未来へと伝える役割を担います。

2. 日本の心をつたえる会は、日本の歴史・文化・伝統の精神に則り、わが国に正しい歴史認識を甦生させ、道義と志操に基づく国家の建設に寄与します。そのために私たちは地域に密着し、草の根的徳育の推進活動を展開して行きます。

3. 日本の心をつたえる会は、流動する政局に左右されず、日本国を護るために必要な法案を提起し、同時に被占領憲法の廃棄と大日本帝国憲法の精神に基づく新憲法の樹立を求める市民運動を実施します。

Ⅱ 日本の心をつたえる会の八つの活動
日本の心をつたえる会は、わが国伝統である相互信頼主義の精神に基づき、以下の八策をその活動の基軸とします。


(草の根徳育推進活動)
(1) 日本の良い話及び歴史の真実の普及・伝承
(2) 道義と志操に基づく国家の建設への寄与
(3) 日本国先祖並びに英霊への感謝

(歴史・伝統・文化活動)
(4) 国旗国歌皇室尊崇
(5) 有形無形伝統文化の保護育成
(6) 海外メディア等への情報発信

(政治活動)
(7) 新憲法樹立
(8) 各種法案の提案と実現


Ⅲ 日本の心をつたえる会の活動の内容

1 出版活動
 ① 日本の歴史・伝統・文化を後世に伝える文化活動
 ② 反日用語集
 ③ 日本の心をつたえる100のお話
 ④ 会報
 ⑤ 大人のための童話集
 ⑥ その他日本の心をつたえる関連書籍等の出版

2 講演会・旅行等開催
 ① 著名人、有識者による講演会の開催
 ② 視察旅行の企画・実施
 ③ 遺骨収集旅行の企画・実施

 真正保守議員(元議員を含む)、他の保守系会派と共同開催を実施することで、保守の大同団結と選挙の応援を行います。

3 地域活動
 ① 童謡・唱歌・わらべ歌などの斉唱といわれ
 ② 昔の遊び紹介
 ③ 民話・童話・戦記等の読み聞かせ
 ④ 日心会への寄付のお願い
 ⑤ その他文化活動の実施

4 WEB活動
 ① 代表者ブログ「ねずきちのひとりごと」
 ② 日本の心をつたえる会ホームページの充実
 ③ WEB会員(無料)による宣伝活動
 ④ 英語版日本の心の情報発信
 ⑤ その他関連する事項

5 各種法案提起活動

・国旗並びに国歌斉唱を通じて相互感謝の心を育成する法律
国、都道府県、市町村の各行政機関並びに裁判所、教育機関における国旗の日中の常時掲揚を義務付けします。
その他公共機関における国民の祝祭日における国旗掲揚を義務付けます。
学校における、入学式、卒業式、始業式、終業式、運動会、文化祭、音楽会、学芸会等、全校生徒が一同に会する集会ならびにこれに準じる催し、ならびに公共機関における式典等に際しては、国旗の檀上掲示ならびに国歌斉唱を義務付けします。
日本の国旗を切り刻む等、毀損行為を行った者には、刑事罰ならびに行政上の処分を行います。

・教育勅語の普及等に関する法律
すべての教育機関に教育勅語の掲示とそれに関する教育の実施を義務化します。

・道徳教育推進法
未成年者に対する道徳教育の推進を義務化します。

・性モラルの促進に関する法律
学校等教育現場における過度な性教育を規制します。

・戦没者遺骨収拾法
国家的意思として、全戦没者の遺骨収集を国費で行います。

・靖国参拝法
国務大臣、最高裁判事、衆参両院議長、両院に議席ある政党党首の靖国神社参拝を義務化します。

・政府広報チャンネル法
公共放送として政府の専用チャンネルを設け、公共電波並びにインターネットでの配信を行います。

・パチンコ等民間ギャンブルの規制に関する法律
パチンコ・スロット等に関する換金を目的とした景品の発行と景品両替行為を全面的に禁止します。
また一般の市中における換金型賭博行為を禁止し、賭博行為は公営の租界地を設け、その地以外での開業を一切禁じます。

・食品等の加工並びに原材料の安全を確保する法律
国内で販売される食品について、その原材料ならびに加工国についての表示を義務付けます。

・国民生活の安全を確保する法律(国民生活安全法)

① 日本国法の遵守
すべての日本国在住者は国籍の如何を問わず日本国法の遵守を義務付けます。

② 親族による相互牽制
日本国籍を有しない者で短期滞在を含めて日本に在住する者が不法行為を行ったときは、不法行為者本人ならびにその3親等以内の親族全員を国外に追放します。

③ 通名報道の禁止並びに帰化前国籍の明示
犯罪被疑者の通名・芸名等の仮名による報道を禁止します。必要に応じてその両方の併記を義務付けます。帰化し日本名を名乗る者であっても、帰化した経歴を持つ者は、何々国系帰化人であることの明示を義務付けます。

④ 反日侮日的報道等の禁止
海外在住の日本人の安全を図るため、国内で日本や日本人を故意に貶める報道を行った者を処罰します。これを行った報道機関も同罪とします。

⑤ 諜報活動の禁止
日本国内での他国の諜報活動を禁止します。疑いのある外国人は即時逮捕拘留し、本人ならびに3親等以内の親族全員を国外に追放します。またそのために公安機関の整備拡張を行います。

・政治的いやがらせ行為の禁止等に関する法律
政治家、マスコミ等に対し、終日白紙のFAXや無言電話を繰り返す等の行為を禁止します。

・売春防止法改正
売春防止法を改正し、公営特定租界地以外での売春行為の一切を禁止します。
公営租界地での売春においては、徹底した衛生管理を行います。

・その他


Ⅳ 日本の心をつたえる会の日の設置
毎月24日を「2・4(ニッシンカイ)の日」と名づけ、集中したWEB拡散活動を行うとともに、全国各地で地域集会を実施します。

Ⅴ 罰則
日心会を名乗り金銭問題、他団体と紛議、会員同士の誹謗中傷等、日心会の活動の妨げになる行為をする者は、副会長以上の合議により会を除名します。

(参考)保守の結束について

真正保守政権を実現するためには、いままで同様、左翼反日への反対運動、保守思想運動も大事です。
日本の心をつたえる会は、これまでの保守活動に加えて、新たに具体的な法案を出し、むしろ建設的な意見として新しい時代を築くという行動を採ります。
とりわけその中心核となるのが、生活安全法案です。
日本人の庶民の生活の安全を守れ!
ネガティブキャンペーンから、ポジティブな提案活動へ。日本の心をつたえる会は、新たな保守の行動を提案します。

以上
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靖国参拝法

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花嫁人形
靖国神社の花嫁人形


上の写真の人形は、靖国神社遊就館に展示されているものです。

84歳になったお母様が、沖縄で戦死された、当時23歳の息子さんにあてた手紙とともに奉納されたものなのだそうです。

可憐で、美しい人形でした。

妻も娶らず逝ってしまった息子さんに、「せめて、人形でもいい、お前に花嫁を…」と奉納されたお母様のお気持ち。

それまで、なんとか涙を見せずに館内を回ってきたねずきちは、これをみたとき、それまでこらえたいた涙が、もう止まらなくなってしまいました。


人形の後ろに手紙が添えられていました。


---------------------------
武一よ貴男は本当に偉かった。

23才の若さで家を出て征く時「今度逢う時は靖国神社へ来てください」と雄々しく笑って征った貴男だった。

どんなにきびしい苦しい戦いであっただろうか。
沖縄の激戦で逝ってしまった貴男。

年老いたこの母には今も23才のままの貴男の面影しかありません。

日本男子と産まれ、妻も娶らずに逝ってしまった貴男を想うと涙新たに胸がつまります。

今日ここに日本一美しい花嫁の桜子さんを貴男に捧げます。

私も84才になりましたので、元気で居りましたら又逢いに来ますよ。

どうか、安らかに眠ってください。

有りがとう。
----------------------------

人形は、ほかにも5体展示されていました。

それぞれに手紙が添えられている。ねずきちは、もう眼が曇ってしまって読めませんでした。

だけど、どのお人形さんも、とっても美しかったです。

可憐で、清楚で、優雅で、どれもみんな気立てのよい、暖かな家庭を作ってくれそうな花嫁さんでした。

靖国の花嫁人形


靖国に祀られる英霊
246万6,532柱

そのひとつひとつの御柱に、ひとつひとつの人生があり、親や兄弟がいて、物語があります。

日本は、靖国を、もっと大切にしなければならないと、ねずきちは思いました。

陸軍伍長小塩久夫命
----------------------
望み叶ってあの靖国のみ柱に赴けますならば
誇り高く咲きにほふ九段の桜の下で
お母さんの訪れをまっています。

 昭和19年12月23日
 比島北サンフェルナンドにて戦死
----------------------

10月19日、自民党の谷垣禎一総裁が、石原伸晃幹事長代理を連れ立って靖国神社を参拝されたそうです。

22日、韓国では、軍を動員して緊急配備体制を引いたそうです。

竹島に勝手に駐屯している韓国警備隊も戦闘態勢に入り、韓国空軍は、竹島上空にF15戦闘機を急派したという。

理由は、日本の国会議員が靖国を参拝したからなのだそうです。

彼らに言わせると、日本の国会議員が靖国を参拝するのは、韓国に対する戦争挑発行為であり、宣戦布告なのだそうです。

ねずきちは思います。

韓国が、彼らの税金で、勝手にF15を飛ばそうが、軍に非常招集をかけようが、緊急配備をひこうが、彼ら勝手です。

しかしそんな余計なことに税金の無駄遣いをするくらいなら、1997年に韓国経済がデフォルトしそうになったとき、日本が貸したカネを先に返せ。

谷垣総裁は、記者の「鳩山総理は国立の無宗教の追悼施設に前向きな発言をしているが」という質問に答えてこうおっしゃられたそうです。

「戦争に従軍される方々は『自分たちは戦死したら靖国に祀られるんだ』と思って、実際に亡くなられたのです。やっぱりそういう重みというのはあると思います」

これに対し現鳩山総理は、就任前から次のように話しています。

「民主党政権は『村山談話』の精神を尊重する。
 私が首相になったら靖国神社には参拝しない。
 閣僚にも自粛を求める」

これはいったいどういうことでしょうか。
鳩山総理にとっては、靖国に祀られる英霊は、国家の敵なのでしょうか。
彼はいったいどこの国の総理なのでしょうか。

ねずきちは、韓国やシナが何を言おうが、日本は堂々と英霊への感謝を捧げ、約束の地である靖国への参拝を行えばよいと考えます。

なにも特アの被害妄想につきあい、英霊たちへの感謝を遠慮し、参拝を遠慮する必要などどこにもないのです。

特アが文句を言ってきたなら、それに対し、堂々と日本の立場を述べれば良いのです。それが外務省の役目であり、内閣の役割です。あたりまえのことです。

それができず、眼だけでなく、腰まで定まらずにふらふらしているのなら、日本は堂々と「靖国参拝法」を作るべきです。

そして、ときの内閣総理大臣、国務大臣、衆参両院議長、両院に議席を持つ政党党首、最高裁判事は、全員、8月15日に、靖国神社を参拝しなければならないことを、法律で義務付ける。

参拝を拒否した者は、その日をもって、それぞれの役職を解任。

総理、国務大臣であれば、即日解雇。
衆参両院議長ならびに政党党首であれば、即日議員資格をはく奪。
最高裁判事であれば、判事職を放逐する、と法で定めるべきだと思います。

憲法で保証された信教の自由を述べる人がいるかもしれない。靖国は宗旨が違うからという方です。

しかし「靖国で会おう」というのは、日本国と亡くなられた英霊たちとの約束です。

日本国家を代表する、立法、行政、司法を代表する者が英霊への感謝と慰霊を行うのは、当然のことです。これは死者との約束です。絶対に反故にしてはならない。

民間レベルでは、宗旨の違いで、靖国参拝ができない方々もいることでしょう。

しかしそれならそれで、日本国で宗教団体として税制の優遇を受けているすべての宗教法人は、8月15日、戦没者慰霊祭を行うべきです。当然のことです。

やらないなら、宗教法人としての資格をはく奪する。あたりまえのことです。
日本国に背を向ける宗教団体に、宗教法人としての税制優遇を与えなければならない理由などどこにもない。

ねずきちは、9月に、日本の心をつたえる会という会を立ち上げました。

この会は、基本、草の根徳育推進団体です。

しかし同時に、日本の心をつたえる会は、すべての保守に対し、これまでの法案反対運動だけでなく、日本の歴史、伝統、文化、道義を守るため、そしてなにより国民の生活の安心と安全を守るための各種法案の成立を求める活動を行います。

日本の心をつたえる会の会員数は、発足1か月少々で、現在約1000人です。

そしていまいる全会員が、会員の獲得、会員の拡大を図ることで、日本の心をつたえる会の会員数は、数年後には数十万人規模の会派に成長します。

そして日本の心をつたえる会の戦いは、これから先、20年、30年、40年、50年と続く戦いです。

日本は、道義と志操を取り戻すのです。

いまを生きる人、亡くなられた人、そして未来を生きる日本人の、ひとつひとつの命を無駄にしないためにです。
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【東アジア共同体】「脱靖国」図る民主


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韓国建国の英雄

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朝鮮戦争
朝鮮戦争01


昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
宣戦布告はありません。
いきなりの侵攻です。
30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境しました。
昭和28(1953)年7月27日の停戦まで続いたこの朝鮮戦争で、韓国軍約42万人、民間人106万人が命を失い、1千万人が一家離散の悲劇にあいました。

なぜこのような戦争が起こったのでしょうか。
そこですこし時間を遡ってみます。

開戦の5年前といえば、昭和20(1945)年です。
この年の8月15日に大東亜戦争が終わり、9月2日には、戦艦ミズーリ号艦上で連合国に対する降伏文書(ポツダム宣言)への調印が行われました。
そして9月6日には朝鮮半島で、呂運亨(ヨ・ウニョン)率いる朝鮮建国準備委員会による、半島統一国家としての「朝鮮人民共和国」が樹立されています。

ところがその翌日、米軍が半島に上陸しました。
そして米占領軍は、9月11日には、半島に軍政をひくことを宣言し、「朝鮮人民共和国」の建国を否認しました。
統一朝鮮「朝鮮人民共和国」としての独立は、わずか5日で崩壊してしてしまったのです。

ちなみに、この9月6日から11日という日にちはとても重要です。
というのは、この頃すでに北緯38度線以北には、ソ連軍が進駐をはじめていたのです。
そういう状況下において、米軍が、日本占領からやや日をおいて朝鮮半島に上陸したということは、
1 朝鮮半島は日本であったけれど、半島単独では米軍に抵抗できる力はない。
 (つまり国家としての力がない)
2 一方でソ連の南侵があったから、韓国への進駐時期を早めた。
という2つの側面があったということだからです。

そして南侵してきたソ連軍は、10月までには、朝鮮北部を占領し、「各地で自発的に生まれた」とソ連が主張する、人民委員会を管理下に置いて、事実上の朝鮮統治を開始していました。

同じ頃、シナでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
それまで、支那共産党軍である八路軍に対して圧倒的優位にあった蒋介石が敗退をはじめたのは、米英が、国民党への軍事支援を打ち切ったからです。
日本との戦争が終わったので、蒋介石は「用済み」となったのです。
国際政治というのは、冷たいものです。

支援物資の補給を断たれた国民党、ソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東の八路軍(中国共産党)、となれば、勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党は、支那各地で八路軍に追われて後退し、支那はソ連の影響を受けた共産主義化が目前となっていたのです。

そしてソ連は、朝鮮半島内部でも同じことをしていました。
金日成(キム・イルソン)率いる共産パルチザンに、旧日本軍の装備を次々と与えたのです。
これにより、南満州で国民党の残存勢力を駆逐したことで手柄をたてた金日成は、朝鮮北部へと侵攻し、昭21(1946)年2月8日には「朝鮮臨時人民委員会」を設立し、日本が築いた半島北部の財産である重工業地帯を強襲して強奪しました。
これはとても重要なことで、彼はこれによって、朝鮮半島の富を完全に奪うことに成功したのです。
そして彼が奪った施設と富は、ことごとく日本によって戦前に築かれたものでした。

半島北部での共産国家設立の動きに対し、日本統治時代にアメリカに亡命して独立運動を繰り広げてきた朝鮮人李承晩(イ・スンマン)は、朝鮮半島での反共産勢力による早期の国家設立をアメリカに迫りました。
李承晩は、後の韓国初代大統領です。
そして李承晩は、昭和22(1947)年6月には、韓国の前身となる「南朝鮮過渡政府」の設立を宣言しました。

この「南朝鮮過渡政府」という名前に、李承晩の性格が良くあらわれています。
朝鮮半島は、南北の境なく、日本の統治のもとにあったのです。
そして冒頭に申上げたように、大東亜戦争終結後、朝鮮半島には、朝鮮人による統一政府ができあがりました。
この政府は、米軍によって否認されてしまうのですが、その原因となったのが李承晩です。

というのは、統一朝鮮ができたとき、実は北の金日成も、この式典に参列していたのです。
ところがこれに目を付けた李承晩は、共産党員が一緒にいるようなことでは、国家としての成立はむつかしいと、強硬に主張し、米国政府の了解を取り付けて、統一朝鮮建国を阻害したわけです。
そしてこのことの狙いは、あくまで朝鮮半島は、ひとつの朝鮮として、共産党のいない国家建設を目指すというものでした。

けれど「共産党がいたら国家の建設は出来ない」というのは、あきらかな詭弁です。
現に、日本は、共産党がいまもあります(迷惑な存在ではありますが)。
要するに、権力亡者である李承晩は、あくまで統一朝鮮の建国にこだわりながら、一方でその統一朝鮮に自分と対立軸になりそうな金日成がいるということを警戒したわけです。

ところがその李承晩が、韓国建国に先立って築いた政府が「南朝鮮過渡政府」です。
ここでは「南」とあえてこだわっています。
すでにこの段階では、北を奪われた以上、自分は南で独立国の王になるという考えでいたことを、この名称は明確に物語っています。
つまり、李承晩にとっては、朝鮮民族が統一国家を建設することよりも、自分の権力の及ぶ範囲が明確であることを望んだ、ということです。

さて米国は、共産主義者との対立が深まる朝鮮半島について、南北の話し合いの場をもとうと、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起しました。

ところがこれに危機感を募らせたのが北の金日成です。
危機感を抱いた金日成が、そこで何をしたかというと、ソ連に根回しをして、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設したのです。
そして、同じ月の26日には、北緯38度線以北を「朝鮮民主人民共和国」とすると一方的に宣言してしまいます。

これは朝鮮半島にとっては、政治もさりながら、経済にとって実に重大なことでした。
というのは、当時の国際社会の富の源泉は重工業であり、その重工業地帯を金日成は手中におさめていた。
一方で、南朝鮮は、小規模な農業と漁業があるくらいで、ひとことでいえば、貧乏です。
つまり金日成にとっては、貧乏な半島南部などいらない、というわけです。

ここのところを、すこし解説を加えます。
日本統治前の朝鮮半島は、半島全部が極貧状態でした。
そこで日本は、気候条件の良い南朝鮮では農業を充実させて豊かな食の実現を図りました。
そして気象条件の厳しい(寒い)北部では、重工業地帯を形成して、朝鮮族に富をもたらそうとしたわけです。
つまり朝鮮半島を、南の食と、北の工業の二本立てとすることで、豊かな恵みのある地域を目指そうとしたわけです。
そして、金日成は、その朝鮮半島から、まず富を奪った、というわけです。

米国は、金日成の行動を激しく非難しました。
勝手なことは許さん!というわけです。

これに対して金日成が打った手だてが、いまにしてみれば、笑えます。
なんと彼は、南半部への送電を全面的に停止したのです。
当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていたわけです。
その送電がなくなれば、南朝鮮は真っ暗闇です。
民衆の不安感は増大し、米国に対する非難も高まります。

さらに金日成は、手を打ちます。
半島南端の済州島で、南朝鮮労働党という共産主義グループに、停電に呼応して武装蜂起させたのです。
主張は「自分たちも北の共産党に入りたぁい」です。

これに対して、南の長である李承晩が打った手は、歴史に残る蛮行でした。
彼は、武器を持たず暴徒化していた済州島民8万人を、南朝鮮労働党員であるかないかを問わず、そこにいたというだけで、虐殺してしまったのです。
(昭和23(1948)年済州島四・三事件)。

当然、これに対して非難の声が出ます。
その非難を跳ね返すために、李承晩は、同年8月15日、「大韓民国」の成立を宣言したのです。
金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言しました。

つまり、後先考えない李承晩の韓国建国によって、ついに朝鮮半島は、同じ朝鮮族の、38度線をめぐる南北の政党同士の政権争いから、北と南の国どおしの争いに紛争が拡大したのです。
そしてこれによって、北緯38度線は単なる国内境界線ではなく、「国境」となってしまったのです。

こうした国内政権抗争劇を、国家規模の戦争にまで拡大した朝鮮族の李承晩に対し、米国は昭和25(1950)年1月12日、米国トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官によって、次のような発言による牽制を行いました。

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米国が責任をもつ防衛ラインは、フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
それ以外の地域は責任をもたない。
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おわかりになりますでしょうか。
米国が責任を持つ範囲に、朝鮮半島がはいっていないのです。

朝鮮半島には、当時、米軍が駐留していました。
にもかかわらず米国が朝鮮半島を含まないと発言した意図は、2つあります。
ひとつは、米国の国防政策において太平洋の制海権は絶対に渡さないというものです。
もうひとつは、李承晩の暴走を抑え込もうという意図です。

実は李承晩は、没落した朝鮮両班の出身です。
たまたま近所に出来た教会で、米国人牧師から洗礼を受けた李承晩は、両班という身分も相俟って、李王朝によって、米国に留学させてもらえるという栄誉に預かりました。
ですから彼の頭の中には、自分は両班という特権階級の人間であるという選民意識と、李氏朝鮮時代への強烈な復古意識があります。
ですから当然の流れとして、彼は成人して、日本統治反対運動に身を投じることとなり、ついに上海で「統一韓国臨時政府樹立」なども行っていました。
もっとも、この臨時政府の大統領に就任した李承晩は、勝手に交易の約束などをして、臨時政府からも追い出されてしまいます。
そして、間の悪いことに、日本の憲兵隊に逮捕までされてしまう。

日本の憲兵は、いつまでも李氏朝鮮を恋しがる李承晩を、なんとか改心させようと、いろいろと努力したようです。
そしてある日、彼を平手で一発打ちました。
これが決定打になりました。
李承晩は、生涯をかけて、反日思想に凝り固まったのです。
なぜかというと、「俺様の頬を打った」からです。

実際には、これが他の国であれば、政治思想犯として、李承晩は何の取り調べもなく、また改心させようなどという説得さえもなく、強制収容施設に入れられ、苛酷な労働を課されるか、身の毛ものよだつ拷問を加えられた上、一族郎党、全員皆殺しにされるのがオチです。
実際、李承晩は、自分が権力をとったあと、親日派と目される人々に片端から、そのような仕打ちをしています。

北と南に別れた韓国と北朝鮮は、それぞれが我が国こそ朝鮮半島の正規の政府であると主張しました。
実際には、李承晩は、韓国建国前の臨時国家の名称が「南朝鮮過渡政府」であることにも明らかなように、南朝鮮だけにしか政治的影響力が及ばない状況にあったわけです。

もう戦争は終わったのです。
いまさら誰も戦争などやりたくない。
ですから、李承晩はそれでおとなしくしてれいば、良かったのです。

ところが彼は、北に対して、次々と敵対行動をとります。
ということは、南北で戦争が起きてしまう。

米国政府は、李承晩にいい加減、手を焼きます。
やむをえず米国は、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしました。
要するに、韓国軍に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。

ところがこのことは、北の金日成に、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味しました。
金日成は、昭和25(1950)年3月、ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。
スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。

スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものだったのです。

同年5月、金日成はシナの毛沢東を訪ねました。
そして「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けます。


こうして、昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境しました。
宣戦布告はありません。いきなりの侵攻です。
ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張していますが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定しています。

このとき、38度線の警護にあたっていた韓国軍は、一部の部隊が警戒態勢をとっていただけの状況でした。
ただでさえ少ない韓国軍兵士は、6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
しかもソウルで前日に、陸軍庁舎落成式の宴席があったため、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていません。
大統領である李承晩への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してからのものでした。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にして、次々押し出してきました。
各所で韓国軍は総崩れとなり潰走します。

朝鮮戦争の攻防
朝鮮戦争03


初戦の猛攻での大勝利。
金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落とし、5回目の光復節をソウルでむかえると宣言します。
北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がりました。

開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しています。
住民に多くの犠牲を出しながら、韓国政府は、首都をソウル南方の水原に移しました。

このソウル陥落の際、李承晩は漢江にかかる橋を爆破しています。
それは北朝鮮軍の侵攻を遅らせるためという名目でした。
けれど、このときまだ漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残されていたのです。
孤立した韓国軍兵士とソウル市民やそこにいた婦女子たちがどのような目にあったのか、想像するだに恐ろしいことです。

水原に落ちのびた韓国軍は、士気も下がり、韓国軍兵士と負傷者がひしめいていて、全滅が現実のものと感じられる状況でした。
そこにマッカーサーが、東京から視察にやってきました。
マッカーサーは米軍の派兵を韓国軍に約したけれど、その日のうちに東京に帰ってしまっています。
気持ちはわかる気がします。

東京に帰ったマッカーサーは、米国政府に在日米軍2個師団(約3万人)を投入するように要求しました。
しかし戦争の再発をおそれたトルーマン大統領は、米軍参戦を許可しません。
そりゃそうです。第二次世界大戦は終わったのです。
いまさら、なんでまた米国が戦争しなきゃならないのか。

それでも食い下がるマッカーサーに、トルーマンは、ようやく1個師団だけ、派兵を許可しました。
これはマッカーサーの政治力の賜物です。

そしてマッカーサーは、日本に駐留していた第24師団第21連隊第1大隊を基幹とする師団を水原市に派遣しました。
米軍部隊は、水原南方の烏山の高地に陣取って北朝鮮軍を待ち受けたのです。


そこへ、北朝鮮の第4師団が、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭に迫ってきました。
ソ連製の兵器を使う北朝鮮兵と、米軍の戦いです。

ただし、このとき派遣された米第24師団というのは、名誉ある師団でしたが、中味は大東亜戦争での経験を持たない、新たな徴用兵たちでした。
旧日本軍との戦闘経験を持つ精鋭は、戦いに疲れ、すでに本国に帰還していたのです。

北朝鮮軍を視認した米軍は、バズーカなどで攻撃を加えました。
しかし相手は、ソ連の誇る新鋭T-34/85戦車です。
バズーカごとできは、まったく歯が立ちません。
北朝鮮軍の戦車と歩兵は、各所で米軍を突破し、米軍は総崩れとなって大敗します。

米陸軍の大部隊が、一瞬で大敗したのです。
驚いたマッカーサーは、米精鋭部隊の派遣を本国に要請しました。
けれど、戦争に倦んだ米国世論は、これを許さない。
トルーマン大統領は、できたばかりの国連安保理に諮り、第二次大戦戦勝国諸国での多国籍軍を編成し、これを朝鮮半島に送り込むことを決意します。
しかし、混成多国籍軍というのは、明確な指揮命令系統を欠きます。
しかも戦争準備さえも不足している。
国連軍も各所で敗退してしまったのです。

李承晩は、水原も捨て、南へ南へと、逃げ続ました。
このとき敗走する李承晩は、自国を守れず潰走しながら、武器を持たない韓国保導連盟員や共産党関係者の政治犯など20万人以上を虐殺しています。

一方で北朝鮮は、忠北清州や全羅北道金堤で、大韓青年団員、区長、警察官、地主やその家族などの民間人数十万人を「右翼活動の経歴がある」などと難癖をつけて大量に虐殺しました。
朝鮮人同士で、武器を持たない市民を虐殺しあっていたのです。
そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、祖国を捨てて大挙して日本に逃げてきました。
これが、いま日本にいる在日韓国人たちです。

こうして李承晩は、ついに朝鮮半島最南端の釜山まで追い詰められてしまいました。

釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦でした。
ここを追い落とされたら、あとはもう海の中です。
韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひいていました。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されてきていました。
しかし、兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめ、戦いに参戦しない。
戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ、というのです。

このとき、歴史はひとつの奇跡を生みます。
韓国軍の救世主となる、金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われたのです。

金錫源は、漢城出身の生粋の朝鮮人です。
けれど幼いころからたいへんに優秀で、日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、朝鮮人としては初、また生存している佐官では異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

釜山にまで韓国および多国籍軍が追いつめられるまで、残念ながら戦いのプロである金錫源将軍には、なんのチャンスも与えられませんでした。
日本の陸軍士官学校を卒業し、生粋の日本人であった金錫源将軍を李承晩は嫌悪し、彼に監視をつけ、一切の行動を取らせないようにしていたのです。

ところが、釜山まで追いつめられた。
もうここを追われたら、逃げるところさえない。
そこまで追いつめられたとき、はじめて、金錫源将軍に、なんとかしてほしいと依頼がきたのです。

彼はこのとき、国連軍の総司令官がマッカーサーを嗤って、次のように述べています。

日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
よろしい。
日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、
存分にみせつけてやりましょう。


彼はそういって軍刀の柄をたたきました。

金錫源は、元日本兵だった経験を持つ1個師団だけを率いました。
そして粛々と釜山東部の守備に就かせました。

そこに北朝鮮軍がやってきました。
最後の決戦なのです。
北は大軍です。
北朝鮮軍は金錫源将軍率いる師団を静かに包囲しました。

金錫源将軍の師団は完全に孤立してしまいます。

その状態で、8月15日深夜、金錫源将軍は、なぜかこっそりと米軍本部に使いを出しました。
そして一部の兵力を夜のうちに海岸線方面に移動させました。

翌朝、双方の戦いが始まりました。

金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちました。
そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫びました。
大将が、先頭に立って指揮をとる。
それは、朝鮮戦争始まって以来、ついぞ見られることのなかった姿でした。
朝鮮人の兵隊たちからみて、その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だと思えました。
そして兵の士気は、著しく高まりました。

金錫源将軍たちが、孤立した丘で奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っていまする。
金錫源将軍の率いる師団に、援軍はありません。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦います。
しかも、多勢に無勢、兵力、火力とも10倍以上の違いがあります。

金錫源将軍側の陣の敗色が濃くなった頃、彼は頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中しました。
そこから北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけました。
そして、にわかに突撃を命じました。

相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。
その猛烈な戦いぶりに、北朝鮮軍はあわてて後退します。

敵殲滅の好機到来です。
金錫源軍の士気はいやがおうにもあがります。

ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じてしまいます。
深夜です。
日付はすでに16日になっています。

北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、反撃に転じました。
そして金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきました。
それは実は、金錫源将軍の読み通りの展開でした。

北朝鮮の機甲軍団は、韓国軍を追って進路を東に転じ、岬をまわって海岸線に出てきました。
その出たところに、あらかじめ金錫源将軍から連絡を受けていた米艦艇が、やにわに姿を現したのです。
そして北朝鮮軍めがけて、一斉に艦砲射撃をあびせた。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびきました。
無数の砲弾が、まる裸の北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎました。
米国誇る太平洋艦隊の主砲です。
陸上では、バズーカ砲さえ歯がたたないT型戦車といえども、戦艦の巨砲の前にはひとたまりもありません。

それを待っていた金錫源将軍の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始しました。
艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴きました。
北朝鮮の戦車を粉砕し、兵を空中に飛ばしました。

ほんのわずかな間の出来事でした。
北朝鮮軍は一瞬の後に壊滅し、兵たちがバラバラになって敗走をはじめます。
ところがその潰走ルートには、金錫源があらかじめ忍ばせた伏兵がいました。
そして潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせました。

「草木皆ナ兵ト化ス」

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能になりました。
そして北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり、休息と再編を余儀なくされてしまいます。それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなった。各部隊の孤立化がはじまったのです。

8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退を開始ます。ここにも元日本兵が数多くいました。

このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされる。戦線の崩壊もまぬかれない。
釜山が陥落すれば、もはや韓国はおしまいです。

そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけました。
そして散らばっていた兵を集合させて座らせました。
白善燁師団長も日本陸軍将校の出です。
1939年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、41年に卒業して満州国軍に任官し、43年には間島特設隊に配属され戦っています。

実はこのとき、白善燁師団長は、このときマラリアを患い、高熱を発していました。
けれど集まった西側守備隊の兵士たちに
「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」
とねぎらいの言葉をかけ、
「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」と静かに語りました。

そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言いました。
「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!
 もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」

そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。
兵たちは驚きました。
いきなり前線に、高熱の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。
「師団長に続け~~!」
鬼人と化した韓国軍は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいました。
そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせました。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走しています。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、9月28日には、ソウル奪回を果たしました。

勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧します。

北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。
米韓多国籍軍は、シナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。

米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となった。

そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

以上が朝鮮戦争の概略です。

戦いには「勢い」と「転機」があります。

北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を、その窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し、数々の武功を立てた元日本兵でした。

上に登場した金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」と部下を叱咤激励したといいます。
韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中、
「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でした。
昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝されました。
靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られているのです。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。
=======
自分の息子は戦死した。
それは軍人として本望である。
本人も満足しているであろう。
=======

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もありません。
逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆したそうです。

韓国人が日本統治時代の歴史を肯定的に評価した「親日派のための弁明」という本があります。金完燮(キムワンソプ)という人が書いた本です。
金完燮さんは、この本のために、韓国内で問題視され、本は青少年有害図書に指定され、金完燮は逮捕されました。

彼はこう書いています。
=======
まず日本社会が一日も早く米国と周辺国により強要された自虐史観と植民史観から抜け出す必要がある。
過ぎた歴史に対する反省はどの国家でも必要なことだが、日本は、過去史に対する反省があまりにも行き過ぎている。
日本では過去の歴史に対する正当性を理解しようという動きがより強化されねばならず、これを通じて歴史に対する主体性回復がなされなければならない。
=======

どこの国にも、その国の民族の歴史と伝統と文化があります。
それをそれぞれ尊重するのが、正しいあり方だと思います。
戦前の日本は、大東亜共栄圏を構想しました。
それは東亜の各国がそれぞれの国の歴史と伝統と文化を、尊重し、育み、独立して、互いに共存共栄するという構想でした。
大東亜共栄圏構想は、日本一国が繁栄すればよいという、偏狭なナショナリズムではありません。
みんなが良くなる。みんなが繁栄する。
そのために互いに協力する。
これは、友愛などと言葉だけの美言で、日本の歴史・伝統・文化を否定する思想とは、まったく逆のものです。
そういう日本の正しい歴史を、わたしたちは取り戻す必要があります。

ちなみに、この朝鮮戦争のとき、日本にボートピープルとなって逃げてきた朝鮮人を、当時の日本は、まだ戦争の傷跡の癒えない焼け野原の中で、助けました。
それが戦後60年を経て、いまや日本国内に200万人の半島出身者が居住する。
どんなに派手なネズミ算をしても、245人が60年で200万人に増えることはありません。

要するに、朝鮮戦争のときに、日本に逃げてきた朝鮮人の子孫が、いまの在日コリアンです。
そして彼らは、日本は悪い国だと言う。

日本が戦前に徴用した朝鮮人は多数いましたが、戦後、日本は国費をもってそれら朝鮮人を本国に帰還させています。
どうしても帰りたくないと、日本に残った朝鮮人は、正式に記録に残っていますが、わずか245人です。もうしわけないが、戦前日本にいた朝鮮人と、いま日本にいる在日朝鮮人は、異なります。

韓国の初代大統領李承晩は、戦時中に半島の独立運動を謀ったかどで憲兵に逮捕され、暴行を受けた経験を持ちます。そのため彼は極端に日本を嫌悪しました。
しかし彼は、韓国内で自国民を大量虐殺している人物でもあります。
そして北の金日成の南進を招き、釜山界隈まで追い詰められ、半島の自由民主主義勢力を、壊滅の危機まで追い込んでいます。

皮肉なことに、李承晩率いる韓国を、最後の最後で北朝鮮の支配から救ったのは、彼が最も嫌悪した旧日本軍の帝国軍人でした。

終戦後64年。
朝鮮戦争停戦後56年。

日本も韓国も、そして在日コリアンの方々も、もういちどこれまでの歴史観を一度「リセット」し、本当の歴史、真実の歴史を、あらためて見直してみるべき時にきていると私は思います。


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北海道を守りぬいた男たち・・・占守島-2

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池田末男士魂戦車隊隊長
池田末男


池田末男さんという方がいます。愛知県豊橋市出身の方です。

彼は戦前“戦車隊の神様”と呼ばれ、戦車学校教官当時には「キ戦車隊教練規定」という教程を編纂、そして陸軍戦車学校校長に就任します。

その陸軍戦車学校に、福田定一という生徒が入学しています。
後の小説家、司馬遼太郎です。

司馬遼太郎は、昭和の軍人に対して批判的な小説家としても知られますが、その司馬遼太郎が、池田末男さんに対してだけは、非常に好意的だった。

池田末男さんは、戦車学校校長職を辞した後、戦車第十一連隊長となります。

十一連隊は、十一を文字って別名「士魂部隊」と呼ばれました。

士魂部隊は精鋭と謳われる部隊でもありました。そして士魂部隊は、占守島(しゅむしゅとう)に転進を命じられます。

池田連隊長は豪放磊落かつ温和な性格の人で、占守島でも、部下の信望をよく集めていたそうです。

こんなエピソードがあります。

占守島は、夏場でも気温が15度を上回ることなく、濃霧に覆われ、冬場には零下30度。雪は電信柱が埋まるほど積もり、そして年間を通じて風速30Mの暴風が吹き荒れる。

そういう身を切る寒さの占守島において、彼は、絶対に自分の下着を部下に洗わせなかった。
全部、自分で洗濯していたそうです。

申し訳なさそうにしている当番兵に、池田さんはこう言ったそうです。

「お前はオレに仕えているのか? 国に仕えてるんだろう?」

学校では、「昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日本との日ソ中立条約を破棄して、満州に攻め込み、その後、日本はポツダム宣言を受け入れて、8月15日に終戦となった」と教えます。

しかし、そのあとに激戦が行われた地があった。それが占守島です。このことは昨日の記事で書きました。

8月17日、重要書類を全部焼いて、翌18日には戦車を全部海に沈めることが決まった士魂部隊は、第十一連隊本部で残念会を開き、連隊長の池田末男氏を囲んで、主な将校が10人ほど集まり酒盛りをしたそうです。

池田連隊長は、連隊長は酒を飲むときは無礼講が好きで、いつもなら豪放磊落な酒盛りになるところが、当日はしんみりとした雰囲気だったそうです。

そして若い木下弥一郎少尉に、
「木下、15日以降、俺は廃人になった。お前たち若いものは国へ帰って新しい国民を教育しろよ」などと話し、少ない酒を酌み交わした。

酒の席も解散になり、みんなが就寝した深夜、日付が変わって18日となった午前1時のことです。
突然対岸のカムチャッカ半島側から長距離砲弾が島に撃ち込まれ、占守島北端の国端岬一帯に、多数の上陸用舟艇が接近してきます。そして数千の兵力が強襲上陸してきた。

武装解除を求める使節団なら、このような深夜の上陸はしない。

東浜海岸・竹田浜に展開していた部隊は第3中隊の2個小隊(約80名)だけです。
彼らは突然包囲され、攻撃を受け、激戦となります。

この時点で、まだ敵の国籍は不明です。
いまでいったら、これまでまったく戦闘実績がなく、終戦がきてなお平安だった土地に、いきなり正体不明の謎の軍団が砲撃を加え、土地を占領して攻撃を加えてきたのです。
しかも夏場の濃霧です。10M先も見えない。
その見えない先から、砲弾や銃弾が飛んでくる。

謎の軍団が上陸した国端岬にいた速応少尉は、岬の洞窟にあった野戦砲二門で、謎の軍団が上陸した竹田浜を側面から射撃します。

霧で見えない。しかし、このとき来襲した謎の軍団は、駆逐艦2隻、6千トン級の輸送船4隻、兵力13,000千人の大部隊でした。

こういうときに日頃の訓練がものをいいます。
速応少尉は、霧で見えない敵に向かって、人馬殺傷用の榴弾をこめてメクラ撃ちにし、敵船合せて13隻を撃沈、戦死者2千人、海を漂流した者3千人の損害を与えた。

これに対し謎の軍団は、対岸のカムチャッカ半島突端のロバトカ岬から砲撃をしてきます。

このままでは速応隊が全滅する。
長距離砲撃を知った四嶺山の坂口第2砲兵隊長は、直ちに15センチ加農砲2門で、これに応射します。そしてわずか20分で敵を沈黙させてしまった。

上陸部隊を迎え撃った歩兵大隊は、謎の軍団の艦艇を14隻以上撃沈・擱座。
戦車揚陸艇ほか多数の上陸用舟艇を破壊。
さらに敵指揮官坐乗の舟艇も撃沈し、謎の軍団を無統制状態に陥らせます。

それでも敵は13,000名を擁する大軍です。

日本側の正面の歩兵大隊は、わずか600名。
敵は多数の死傷者を出しながらも、陸続と後続部隊を上陸させ、内陸部に侵攻を開始した。

当初、報告を聞いた師団参謀は、国籍不明といっても米軍だと思ったそうです。
後に相手がソ連とわかった時はびっくりしたという。
参謀は、軍使が来たのが手違いで戦闘に発展したのかとも考えた。
しかし時間が時間です。
加えて何千人という兵力です。
さらに、ロパトカ岬から支援射撃もやっている。
こんな軍使の到来などあるわけはない。

午前2時10分、第91師団長は決断します。
「師団全力をもって、敵を殲滅せよ」

全軍直ちに戦闘配置。
戦車1個連隊と歩兵1個大隊、工兵一個中隊は、先遣隊として竹田浜に急行。
占守島南端の第73旅団は、北の要点・大観台に司令部を進出させ、戦闘に参加せよ。
隣りの幌筵島の第74旅団も占守島に渡って敵を攻撃せよ。
師団司令部も占守島に移動せよ。

第5方面軍司令官樋口季一郎中将は、同時に濃霧の隙間をついて陸海軍混成の航空部隊8機をソ連艦艇への攻撃のため飛び立たせた。
「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」

士魂部隊にも、司令が下ります。
「戦車隊前進せよ」

池田連隊長は直ちに各中隊長、小隊長を集め、真っ先に準備の出来た車に飛び乗って走り出した。
「天与の好機逸すべからず。各隊長は部下の結集を待つことなく、準備のできたものから予に続くべし!」

このとき戦車連隊は、武装解除中でした。
すぐには出撃できない状態にあった。
それでも総員必死で武装を取り付け、直ちに出撃します。

濃霧の中、途中の位置で集結した全戦車部隊隊員に、池田連隊長は訓示します。

諸士、ついに起つときが来た。
諸士はこの危機に当たり、決然と起ったあの白虎隊たらんと欲するか。
もしくは赤穂浪士の如く此の場は隠忍自重し、後日に再起を期するか。
白虎隊たらんとする者は手を挙げよ。

このとき不思議なことが起こりました。
濃霧が突然、さっと薄れていったのです。
そして、全員が見た。

霧でおぼろにしか見えなかった隊員たちが、全員が挙手していたのです。
士魂部隊は全員、白虎隊となることを選択した。

若い木下弥一郎少尉も、池田連隊長のそばにいました。
しかし、定員オーバーで戦車の中に入れない。
池田連隊長は、戦車を止めて、木下弥一郎少尉に下車を命じます。
「木下、お前は旅団司令部の杉野さんのところへ連絡将校として行っておれ」

戦車学校校長であったときから、ずっと接してきた弥一郎は、連隊長とにわかに離れがたく、ぐずぐずしていた。
池田連隊長は、「早く行け!」と怒鳴ります。
そして走り出した戦車から上半身を露呈した池田連隊長は、振り返って弥一郎に言いました。

「木下、お前は助かれよ。命を捨てるなよ」
これが、弥一郎が見た末男の最後の姿でした。

午前5時、国端崎から14キロ手前の天神山で士魂部隊は小休止しします。ここで遅れていた一部も合流した。

池田連隊長は、白鉢巻で戦車上に立ち上がります。
そして大声で訓示した。
「上陸軍を一人残さず、海に叩き落とすまで奮闘せよ」

午前5時30分、連隊は前進を再開し、島の北端に近い大観台を過ぎた。

午前6時20分、連隊は歩兵大隊の指揮所が置かれた四嶺山南麓台地に進出。
そこには、既にソ連軍約200人の1個中隊が山を越えていた。

末男はこれを突破して四嶺山頂に進出する決心をします。
 
午前6時50分、攻撃を開始。士魂戦車隊は、速射砲で敵を撃破しつつ南斜面を駆け上がり、7時30分、山頂に到達した。

山頂から見下ろすと、敵歩兵の大軍がそこにいます。
池田連隊長は、師団、旅団の両司令部に打電します。

連隊はこれより敵中に突撃せんとす。
祖国の弥栄と平和を祈る。

7時50分、池田連隊長は、戦車からハダカの上体を晒したまま、身を乗り出して日章旗を打ち振り、攻撃前進を命じた。

士魂連隊の攻撃隊形は、左から第4中隊、第3中隊、第1中隊、連隊本部、第6中隊、第2中隊の順の展開だった。そして約40両の戦車が、連隊長の統一指揮のもと、敵中に突入します。
それは、さながら運用教範の実演の如く見事な隊形だったといいます。
さすがは戦車隊の神様。さすがは士魂部隊。

士魂部隊は、南斜面より上ってくるソ連兵の群れに突撃する。

視界約20Mの濃霧です。
戦車というものは死角が多い。濃霧は戦車に不利をもたらします。

本来なら、戦車は歩兵と協力して初めて実力を発揮できるものです。しかし急な出動で協力できる歩兵はいない。

8時30分。いったんは混乱し、潰走しかけたソ連兵は、前線の指揮をとっていたアルチューシン大佐の指揮で、約100挺の13㎜対戦車ライフルと、4門の45㎜対戦車砲を士魂部隊正面に結集させ、激しく反撃します。
装甲の薄い日本の戦車は、貫通弾をもろに受け、次々沈黙していきます。
 
濃霧の中で出会い頭に敵弾を受け、友軍の戦車が炎上する。

それでも士魂部隊は前進します。
キャタピラで、備砲で、敵兵を叩き続けた。
やがて四嶺山南東の高射砲が応撃し、南麓から駆け付けてきた歩兵大隊も軽戦車を先頭に攻撃を開始します。

士魂部隊の獅子奮迅の戦いで、ソ連軍は遺棄死体100以上を残して竹田浜方面に撤退します。

士魂部隊の損傷は、戦車27両が大破。
そして池田連隊長以下、96名が戦死。

士魂部隊の突撃のとき、敵は稜線いっぱい展開し、連隊長の指揮する戦車隊を見て自動小銃をめちゃくちゃに撃ってきた。砲塔に雨あられと弾がはねて、顔を出していれないくらいだったといいます。

そんな中で、池田連隊長は突撃した。
連隊長は、戦車からハダカの上半身を露出したままです。鉄カブトもかぶっていない。彼は、日の丸の手ぬぐいで鉢巻をしただけの姿で、1M×80cmぐらいの大きな日章旗を振って戦車の上から「前進!前進!」と突撃の合図をしながら戦い続けた。

その姿は、いやでも敵の目につく。

連隊長車にいた指揮班長の丹生少佐が撃たれた。
池田連隊長はその死体を落としてはならぬと、にわかに縄を出して丹生少佐の死体を自分の戦車の砲塔に自分で縛りつけた。

そして今度はその砲塔の上に全身を露出させてまたがり、例の日章旗を振り振り、なおも全軍に前進を命じた。

戦車のウイーク・ポイントは横腹です。
ここは鋼板が薄く、そこを狙って撃たれ、だいぶやられた。

池田連隊長車も、突撃を命じて30分ぐらい、敵をさんざん踏みにじったあと、対戦車銃を横腹に受け、それで中に積んであった弾薬が誘爆し擱坐、炎上した。

池田連隊長の乗車した戦車は、炎上したのちもしばらく前進していたと言われています。
まるで、死しても前進を止めない連隊長の魂が乗り移ったかのようだったそうです。

8月21日、現地の日ソ両軍間で停戦交渉が成立。
同日午後、堤師団長とソ連軍司令官グネチコ少将が会同して降伏文書の正式調印が行われた。
そして、ソ連軍の監視の下で武装解除が行われた。

守備隊将兵は悔しがっていたと伝わっています。
「なぜ勝った方が、負けた連中に武装解除されるのか」

占守島守備隊の活躍は、昨日の記事にも書きましたが、このわずか一週間の活躍で、日本は北海道を日本のままに置いておくことができた。

当時のソ連政府機関紙“イズベスチャ”は「占守島の戦いは、大陸におけるどの戦闘よりはるかに損害は甚大であった。8月19日はソ連人民の悲しみの日であり、喪の日である」と述べている。
またソ連側司令官は後に「甚大な犠牲に見合わない全く無駄な作戦だった」と回顧録を残している。

もし占守島守備隊が、何の抵抗もせずソ連の蹂躙にまかせるままでいたら、昨日も書いたように、日魯漁業の女子工員400名は、ソ連兵に蹂躙されるままになっていたろうし、ソ連側が述べているように、占守島が一日で陥落していれば、ソ連はそのまま北海道に攻め入り、戦後日本は、半島と同様、北日本と、南日本に分断されていた。

逆に、もし、占守島守備隊が第5方面軍の停戦命令を受けなければ、上陸ソ連軍は殲滅されていたろうし、その後のソ連軍による千島列島(北方領土)の接収すらなかったかもしれない。

大功ある、第91師団、そして勇敢な士魂部隊の将兵は、この戦いの後、ソ連に日本本土に帰還させると騙されて、シベリアに強制連行されています。そして連行の途中で多くが殺され、またシベリアで多くの人々が非業の死を遂げた。
 
この占守島守備隊について、戦後左翼は教科書に一切載せないだけでなく、この戦い自体を「無駄な戦い」、「戦死者は犬死に」と一蹴しています。
それが同じ日本人の言う言葉なのか。ねずきちにはそういう人たちの感性がまったく理解できないし、むしろ怒りに震えます。

占守島には、いまも当時の日本兵の戦車や遺骨、遺品が眠ったままになっています。

戦後60年以上経過したいま、日本は、あらためて勇敢に散って行かれた英霊たちへの感謝を捧げるとともに、散って行かれた彼らに恥じない日本の建設を考えなければならないときにきているのではないでしょうか。

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サムライ魂 ~占守島の士魂部隊~ 1/6


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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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