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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


盧溝橋事件にみる支那のデタラメ

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盧溝橋
盧溝橋事件


最近のメディアでは、よく「日中戦争」という名称が使われるようです。
しかしこれは大きな誤りであり、左翼・反日主義者のプロパガンタです。

正しくは「支那事変」または「日華事変」といいます。
「戦争」ではなく、あくまでも「事変」です。

では、「事変」とは一体何なのかと言うと、
“警察力では鎮定し得ない程度の擾乱(じょうらん:「乱れ騒ぐ事」の意)。国際間の宣戦布告ないし明確な戦争方針なき戦争”をいいます。

ちなみに明治以降日本が行った戦争は、すべてきちんとした宣戦布告と終戦の詔勅を行っています。
こんなことをしたのは、実は日本だけです。

日本が明治以降行った戦争は、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、大東亜戦争の4つだけです。
そしてそれぞれについて、日本はきちんと宣戦布告、終戦詔勅を行っている。

このことはスポーツでみるとよくわかります。
日本の武道は、すべて礼に始まり礼に終わる。リングの上でカネが鳴ったら試合開始・・・ではありません。必ず両者が出てきて礼をし、そのうえで全力を出してぶつかり合う。これが武道の精神であり武士道であり、日本精神の基本です。

では支那事変はどうだったのかというと、これはとうてい「戦争」と呼べるシロモノではない。

そもそも当時の支那は、大きくは、蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党八路軍が支配権を争って支那全土で内乱を繰り広げていた。
しかも各地に軍閥やら地方政権が乱立し、ときに応じて国民党についたり八路軍についたり、独立を主張したりの離合集散が繰り返されていた。つまり、国家の統治機構がまったく形成されていないという情況だったのです。
いいかえれば、宣戦布告をしようにも、する対象が明確でない。

支那事変は、昭和12(1937)年7月7日の「廬溝橋事件」から、昭和20年8月15日の終戦まで、8年間もの長期にわたって続いた騒乱でした。

いまの支那、つまり中国共産党は、これを日本軍国主義による「中国侵略」だと主張して、歴代の日本の政権に対して、繰り返し「過去の戦争責任」の追求と「正しい歴史認識」の強要をしてきました。おかげであらたに誕生した民主党政権では、ハナから「正しい」歴史認識をまるごと認めて友愛するなどと言い出しているようです。

しかし、支那の主張する「正しい」歴史認識というものは、実はいいがかりもはなはだしいものです。

今日はこのことを書こうと思います。

支那事変は、 廬溝橋事件にはじまる事変です。

そして盧溝橋事件で、日本に戦闘をしかけてきたのは、現在「中華人民共和国」として支那の政権を握っている支那共産党です。日本にはハナから「中国侵略」なとどいう野望も野心も意図も計画もありはしなかった。

その証拠に、「廬溝橋事件」発生後間もなく、日本軍は、事件不拡大方針を表明しています。
日本としては、これ以上、国民党軍と事を構えたくなかった。
支那との全面戦争など、誰もする気もしたくもなかった。日本にとってなんの得にもならないのです。当然のことです。

ところがこう書くと、左翼反日に凝り固まった人たちは、「いやいやそんなことはない。当時日本軍は支那に駐留していたではないか。侵略する気がないのなら、どうして駐留したのか?」などと論点のすり替えを言ってきます。これも大きな嘘です。

日本軍の支那駐留と「支那事変」とには、何ら因果関係はありません。

確かに当時、日本は支那に駐留していました。これは事実です。
日本が支那に最初に進駐したのは、「義和団事件」発生の時のことです。

明治28(1895)年、日清戦争に敗北した清国内に、義和団と称する拳法結社が現れます。
この義和団は、呪文を念じて拳法を行うと刀で斬られても肉体が傷つくことはないという、わけのわからないカルト教団で、「扶清滅洋(清国を助け、西洋を滅ぼせ)」をスローガンにして、各地の外国人や支那人キリスト教徒などを片っぱしから襲って甚大な被害を及ぼしていた。

明治33(1900)年1月22日、北京にあった列国公使団は、清国政府に対して、「義和団」の鎮圧を要求します。
いまでいったらカルト教団が外国大使館やキリスト教寺院を襲って殺人、暴行、強姦、窃盗を繰り返すので、各国の大使館か共同で政府に対してその取り締まりの要求をした、ということに等しい。

ところが清国の実質的な支配者であった西太后は、逆に義和団を支持し、4月22日、清の首都である北京市内に、義和団を招き入れようとします。
そして義和団の軍団が北京にあと8キロの地点まで迫ってきた。そして張辛店駅を襲って、火を放ち、電信設備を破壊した。

このとき北京に迫ってきた義和団は、なんと20万人以上です。
殺されても死なず、傷つかず、外国人や同じ支那人のキリスト教徒に対しては、なんでもやりたい放題することが許されると信じている20万人の暴徒集団です。

いってみれば最近の映画「バイオハザード4」で、少数の人間が立て篭もるところに、ゾンビの大軍が迫ったきたようなイメージです。

そんなものが人口が密集し、外国公使館の林立する北京市内に大挙してはいってきたら、当然市内の治安は悪化し、社会は大混乱します。

北京在住の列強外交団は、清国政府に暴徒鎮圧の要求を出します。
それと同時に、天津に停泊している各国の軍艦から、混成の海軍陸戦隊400名あまりを北京に呼び寄せた。いまでいえば多国籍軍を編成したのです。

これは当然です。当時北京には、英・米・仏・露・独・墺(オーストリア)・伊・蘭・ベルギー・スペインの10カ国と日本の公使館があった。
合計11カ国。総勢約4000名の外交団職員がいた。
放置すれば何をされるかわからない。たのみの清国政府は、むしろ義和団側の肩を持っている。
守備のために一定の兵力を割くのは、どこの国だってあたりまえの行為です。放置したら、それこそ社会問題になる。

そして、呼び寄せられた400名の多国籍軍中に、日本の将兵もいました。
北京には日本の公使館もあったのです。

ただし、日本の軍艦愛宕からきた将兵は、全部合わせて、このときわずか25名です。

20万人の義和団の暴徒に対して、たったの25名の将兵。
これが、支那がいう「正しい歴史認識」による日本軍による「侵略」です。

6月4日、北京~天津間の鉄道が、義和団によって破壊されます。
これによって北京の外交団は、脱出ルートを完全に奪われてしまう。

天津からは、すぐにイギリス東洋艦隊のシーモア提督が、2千名の第2次混成部隊を出発させたのだけれど、鉄道の修復には時間がかかります。
援軍はいつ北京にたどり着けるか、分からない状態になった。
北京にいる外交団4千名と、多国籍守備隊4百名は、完全に北京市内に孤立してしまったのです。

6月19日、清は「24時間以内に外国人全員は北京から退去せよ」と最後通告を行います。
でも、外国人皆殺しを目論む20万の義和団の大群に包囲されている状況下です。
退去なんて無理なのは、あたまから明白です。
びっくりして交渉のために出向いたドイツ公使は清軍によって殺害され(6月20日)てしまう。
そして、6月21日についに清は、北京に駐留していた11カ国の外国人に対して宣戦を布告します。

北京市内では、日本の将兵25名を含む多国籍軍400名と、義和団20万名との戦闘が繰り広げらます。

このときの模様は、「北京の55日」という古いハリウッド映画になっています。
映画の中では、チャールトン・ヘストンが主演する米軍少佐のルイスが、獅子奮迅の活躍をして見事に北京を守り抜く姿が描かれています。実話です。
いまならDVDが500円で売っているので、興味のある方は是非どうぞ。

ただし、このとき、実際にルイス少佐となって活躍したのは、日本人の柴五郎中佐でした。
コロネル・シバとして当時世界的に有名になった。
このあたりの物語は、当ブログの「義和団事件をふり返る」に詳しく書いています。

北京市内で激しい籠城戦を戦う将兵、食事の補給も断たれてしまている公使館の人々を、各国はいちにちも早く助け出さなければなりません。

国際社会は、一致団結し、連合して北京の救出に向かいます。
このために編成された救援軍は、約2万。

距離的にもっとも近かったのが日本なので、約半数は日本軍が出動することになった。

そしてようやく7月14日、北京への入口である天津を攻略を開始、ここに兵力を集積した後、8月には北京へ向けての進撃を開始した。

8月14日、連合軍は北京攻撃を行って公使館地区の救援に成功します。
西太后をはじめとする清朝首脳部は北京を捨てて逃亡し、これで義和団事件は事実上終結します。

4月22日の張辛店駅爆破から、この日まで145日。

その間の日本の将兵25名の大活躍、救援にきた日本の将兵の軍規の厳しさ、秩序の正しさに、北京市民は、

「大日本順民」(日本にしたがう市民)

という紙や布をあちこちに貼り、また手旗にして振って、日本軍を大歓迎しています。

また事件後には、北京駐在武官だった柴五郎陸軍中佐(通称コロネル・シバ)は、清国政府の要請で軍事衙門長官(列強駐留軍総司令官・連合軍の最高司令官)に就任し、北京の治安維持に尽力した。

もし、これが侵略を意図した進駐だったなら、北京市民が日本軍を歓迎したでしょうか。
清国政府が列強駐留軍総司令官に日本軍人を推挙・就任させたでしょうか。

しかし、これでも左翼反日に脳みそが固まった人たちは、「そんな昔の事ではない。日中戦争勃発直前の日本軍駐留を問題にしているのだ」というかもしれません。

残念ながら、これも的外れです。

義和団事件から盧溝橋事件前夜まで、なるほど日本は支那各地に軍を駐留させていたけれど、その駐留は支那各地に設けられていた共同租界の中だけです。

共同租界というのは、支那の開港都市で、外国人がその居留地区の行政・警察権を管理する組織及びその地域です。いってみれば、江戸日本の長崎出島のようなものです。

支那では、日本が江戸時代でまだ鎖国していた弘化2(1845)年に、清国政府承認の下でイギリスが上海に租界地を設置したのが最初です。
共同租界は、支那国内に11ヵ国27ヵ所あった。

その数ある共同租界の中の日本管理地区・・・これを「日本租界」と呼びます・・・に居留する日本人や日本企業の警護や、在留邦人保護を目的として、支那政府承認の下で、日本は必要最低限の軍隊を駐留させていた。

支那承認のもとでです。
人員数も、必要最低限です。

到底、全面戦争や侵略戦争ができるような兵力はなかった。

それをいいことに、たとえば昭和12(1937)年の通州事件などでは、婦女子を含むわずか380名の日本人のもとに(兵員は110名)、なんと3000名の支那人たちが襲いかかり、日本人を虐殺した。

虐殺現場を目撃した萱島高氏の東京裁判での証言
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旭軒(飲食店)では40から17~8歳までの女7、8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4、5名は陰部を銃剣で刺殺されていた。

商館や役所に残された日本人男子の死体はほとんどすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血潮は壁に散布し、言語に絶したものだった。
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他にも斎南事件、尼港事件等、支那人による暴虐事件は数知れず起こっている。

ちなみに世界の人類の一般的共通事項として、文化的に勝っていると思われる国の女性は、それだけでいい女とみなされる、という傾向があります。アジアで唯一列強の仲間入りを果たし、治安がよく勤勉な日本女性は、それだけで当時の支那人等に、垂涎の的だった。
日本人の女性がいるというだけで、獲物がいるとみなされた。

ついでにいうと日本人は緑茶を飲みますが、緑茶の持つ成分は美顔美白効果があることが最近確認されているそうです。特に日本人女性は肌がきれいといわれ、世界最高の美しさを持っているなどと言われた時代でもあった。ちなみに最近は緑茶を飲む習慣があまりなくなったせいか、この傾向はなくなってきているようです。

すでに清国政府は崩壊しており、当時の支那は、いまでいったらソマリアのような無政府状態になっていた。各地で内乱が続発し、治安は崩壊、とにかく武器を持っている集団になりさえすれば、ありとあらゆる暴行がまかり通る無秩序状態に陥っていた。

そこで日本は、清王朝の皇帝を、清国生誕の地である満州地方だけで民族として自立し、せめて満洲の治安だけでも回復させようとします。これも十分筋の通った話です。

そして人・モノ、カネの献身的な援助を行い、満洲国を建国する。
満洲国には鉄道を引き、街を整備し、道路を造り、橋を架け、建物を造り、農村部の復興の促進を図った。

すると広大な支那の中で、唯一、東北地方だけが瞬く間に豊かで治安の良い地方(国)になった。

支那の他の地域は、まだまだ内乱状態です。女は犯され、男は殺される。田畑は荒れ放題、仕事もない。当然、治安と生活の安全と職を求めて、多くの人々が満洲にやってくる。ついでに支那の暴徒も、その富を求めてやってくる。

おかげで満州鉄道など、年間30万件ものイタズラや損害を受けています。
なにせ線路の枕木まではがして、燃料にされてしまう。

それでも日本は、軍事的な対立を避け、あくまで警察力としての治安維持活動にのみ専念します。
このとき軍は、満鉄の職員組合の人たちから、「腰の軍刀は竹光か!」と罵声を浴びています。
軍があるのに、どうして我々がこんな惨い目にあわなくちゃならないのか、というわけです。
それでも日本は、戦争を避けようとした。

そんななかで起こったのが、昭和12(1937)年7月7日の盧溝橋事件です。

同日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍に、突然発砲を受けます。

このとき演習中だった日本軍は、なんと実弾を携行していません。つまり、銃は持っていたけれど、弾が入っていなかった。持ってすらいなかった。実弾を持たずに発砲されたため、応戦すらできなかった。つまり、非常に危険な状況に置かれた。しかも時代が時代です。街灯なんてありません。夜のクリスマス・イルミネーションなんかも当然、ない。真っ暗闇の中から、いきなり銃撃されたわけです。

すぐ近くには、蒋介石の国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍で、兵力は10万人の大軍です。

「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで武装している大軍と事を構える? あり得ないことです。ところが村山富市などは、内閣総理大臣当時にこの盧溝橋を訪れ、「盧溝橋の日本軍侵略行為の往事を反省してきた」などと寝惚けた発言をしている。アホとしかいいようがない。

日本軍が発砲を受けた同時刻、国民党軍も、銃撃を受けました。

日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだけれど、反対に、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだ。

この事件が発端となって、日本軍と国民党軍は交戦状態に突入します。
しかし、双方共、腑に落ちない点があり、現地解決・事件不拡大方針で交渉、事件発生5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。

日本軍も国民党軍も、どちらも事を荒立てたくなかったのです。

では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。

いまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。

当の周恩来首相も、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、

「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」

と明確に発言していま。支那共産党自らが自白しているのですから、これ以上の証拠はありません。

さらにいえば、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)、支那共産党は「対日全面抗戦」を呼び掛けています。「盧溝橋事件」が起きる事を知っていたからできた手際良さです。

「盧溝橋事件」は、共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない。
国民党に対して劣勢だった支那共産党が起死回生を図るために、日本と国民党を戦わせ、疲弊させて、漁夫の利、すなわり、支那全土の支配権を得ようとして演出された事件だったのです。

狙いは的中し、日本はその後、8年間もの長期にわたって、広大な支那大陸を舞台に「日中戦争」を戦わされる羽目になった。更にその後、支那共産党は、国共内戦で国民党に勝利し、支那全土の支配権を握ることになった。そうしてできたのが、中華人民共和国です。

ちなみに、シナ共産党は、日本の大東亜戦争終戦後に、なるほど国共内戦で、国民党に勝利しますが、このとき国民とは、米英による援蒋ルートによる物資の補給を断たれていた。戦争が終わったのだから、もう用済み、というわけです。

一方、支那共産党は、武装解除した日本軍から武器や弾薬、食料をせしめた旧ソ連から、豊富な物資の補給を得た。武器・弾薬の補給のあるものと、ないもの。その差は歴然です。わずか1年で支那共産党は国民党を駆逐し、なるほど国内内戦に勝利した。

しかし支那共産党がいう、いわゆる「抗日戦線の勝利」は、嘘です。彼らは日本軍と直接戦火を交えたことは一度もない。支那事変の8年間、彼ら支那共産党は、広大な支那国内を、国民党に追われ、逃げ回っていただけです。

さらにいえば、中華人民共和国を設立したあとの支那が、武力を用いた対外戦争をしかけたのは、チベットであったり、トルキスタンであったりするけれど、相手国がそれなりに武力を持った国との戦争は、ベトナムとの間で行った中越戦争だけです。そしてこの戦争では、支那は、わずか1か月で、ベトナムに敗退している。

そんな支那共産党が、ことある毎に、日本の「過去の戦争責任」だの「正しい歴史認識」と称しては、「日中戦争」によって「中国を侵略」した日本を糾弾し、「反省とお詫び」を要求しています。

しかしそれをいうのであれば、そもそも、「日中戦争」の発端となった「盧溝橋事件」によって、日本は支那国民党との戦闘を8年間もの長きにわたって繰り広げなければならない状況に追い込まれたわけです。

「正しい歴史認識」というのなら、なによりも先ず支那共産党自身が、「盧溝橋事件」で支那共産党軍がやった姑息な謀略行為を公式に謝罪すべきです。

そのおかげで、彼らのいう「日中戦争」という「不幸な過去」と両国民の多大な犠牲と疲弊を招いたのです。支那こそが、戦争責任を自己批判すべきであるとねずきちは思います。

そしてそのようなねつ造した歴史観に基づいて、支那に安易に妥協し、日本の誇りや先人たちの一切の努力を踏みにじり、ただやみくもに支那に媚び、支那に日本のカネを渡してそこからキックバックをもらって、政治資金を得ているような、穢れたヤカラを、心ある日本人は絶対に許すべきでない。

反日や売国がカネになるような、そんな日本は、もはや一刻の猶予もなく立て直しにかかるべきだと思います。

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盧溝橋事件はコミンテルンの仕業だった!


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軍人勅諭
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軍人勅諭


軍人勅諭というのは、明治15(1882)年1月4日に、明治天皇が陸海軍軍人に対して下した訓誡です。正式名称は「陸海軍軍人に賜はりたる勅諭」といいます。

江戸幕府将軍徳川慶喜の政治顧問で、後に現在の獨協大学の基礎を築いた西周(にし あまね)が起草し、、福地源一郎・井上毅・山縣有朋‎ら加筆修正した配布した「軍人訓誡」が元になっているとされています。

後に東条英機が示達した「戦陣訓」と比べると、文体にリズムがあり叙事詩のような文学性さえ感じさせる文章になっています。

この軍人勅諭は、残念なことに昭和23(1948)年6月に、衆参両院で排除・失効が決議された。

理由は簡単で、米国国防省が、日本の教育勅語・軍人勅諭を全面的に否定する方針を打ち出し、GHQがこれにならって教育勅語ならびに軍人勅諭を否定するように口頭で指示したというもの。

要するに当時の日本はGHQによる占領下にあったわけで、占領政策による日本精神破壊策の一環として、衆参両院で、廃棄が決議された。

廃棄決議の名前は、
衆議院=教育勅語等排除に関する決議
参議院=教育勅語等の失効確認に関する決議

人間でいったら、両手両足を縛られて拘束され、のど元に武器を突き付けられた状態で、廃棄を決議せよと強要されたわけで、たとえそれが議会決定であったとしても、状況からして、脅迫・強要による意思表示として法的にその廃棄は無効ではないかと思う。

日本に必要なことは、2つの勅諭に関する廃棄決議の無効取消なのではないだろうか。

ともあれ、教育勅語については、先の記事で紹介しているので、今回は軍人勅諭に関して、その内容を紹介してみたいと思う。

ちなみに軍人勅諭は非常に長文なのだけれど、陸軍では全将兵がその暗唱を義務付けられた。海軍では暗唱できなくても、意図がわかれば良いとされていたそうです。

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軍人勅諭
明治15年陸軍省達乙第2号 (1月4日)
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【緑字は口語訳です。原文の“、。”は筆者】

我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある。
昔、神武天皇躬(み)つから大伴物部の兵(つわもの)ともを率ゐ、中国(なかつくに)のまつろはぬものともを討ち平け給ひ、高御座(たかみくら)に即(つ)かせられて天下(あめのした)しろしめし給ひしより二千五百有余年を経ぬ。

我が国の軍隊は、代々天皇が統率している。
昔、神武天皇みずから大伴氏や物部氏の兵を率い、大和地方に住む服従しない者共を征伐し、天皇の位について全国の政治をつかさどるようになってから二千五百年あまりの時が経った。


此間、世の様の移り換るに随ひて兵制の沿革も亦屡(しばしば)なりき。
古は天皇躬つから軍隊を率ゐ給ふ御制(おんおきて)にて、時ありては皇后皇太子の代らせ給ふこともありつれと、大凡兵権を臣下に委ね給ふことはなかりき。

古くは天皇みずから軍隊を率いる定めがあり、時には皇后や皇太子が代わったこともあったが、およそ兵の指揮権を臣下に委ねたことはなかった。

中世(なかつよ)に至りて文武の制度皆唐国風(からくにぶり)に傚(なら)はせ給ひ、六衛府を置き左右馬寮を建て防人(さきもり)なと設けられしかは、兵制は整ひたれとも打続ける昇平に狃(な)れて、朝廷の政務も漸(ようやく)文弱に流れけれは、兵農おのつから二に分れ古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変り、遂に武士となり兵馬の権は一向(ひたすら)に其武士ともの棟梁たる者に帰し、世の乱と共に政治の大権も亦、其手に落ち凡七百年の間武家の政治とはなりぬ。

中世(鎌倉、室町時代)となって、文官や武官の制度は、シナに倣って六衛府(左近衛、右近衛、左衛門、右衛門、左兵衛、右兵衛という軍務をつかさどる六つの役所)を置くようになった。
これにより左右馬寮(左馬寮、右馬寮という軍馬をつかさどる二つの役所)を建て、防人(九州の壱岐、対馬などに配置された兵。外国の侵略に備える)などを設けたので軍隊の制度は整った。
けれど、長く平和な世の中が続いたことに慣れ、朝廷の政務(政治をおこなう上での様々な仕事)も、「武」を軽んじ「文」を重んじるように流れ、兵士と農民はおのずから二つに別れ、昔の徴兵制(徴集されて兵隊になること)はいつの間にか廃れて志願制(自分の意志で兵隊になること)に変わった。
そして制度の変化は、武士を生み出し、軍隊の指揮権はすっかりその武士の頭である将軍のものになり、世の中が乱れていくのと共に政治の権力もその手に落ち、およそ七百年の間、武家(武士)の政治がおこなわれた。


世の様の移り換りて斯なれるは、人力もて挽回(ひきかえ)すへきにあらすとはいひなから、且は我国体に戻(もと)り、且は我祖宗の御制に背き奉り浅間しき次第なりき。

世の中の有様が移り変わってこのようになったのは、人の力をもって引き返せないと言いながら、一方では我が国体(国家のあり方)に背き、一方では我が祖宗(神武天皇)の掟に背く浅ましい次第であった。

降りて弘化嘉永の頃より徳川の幕府其政(まつりごと)衰へ、剩(あまつさえ)外国の事とも起りて其侮(あなどり)をも受けぬへき勢に迫りけれは、朕か皇祖仁孝天皇皇考孝明天皇いたく宸襟(しんきん)を悩し給ひしこそ忝(かたじけな)くも又惶(かしこ)けれ。

時は流れて弘化、嘉永の頃(江戸時代末期)から、徳川幕府の政治が衰えた。
そのうえ米国をはじめとする欧米列強が通商を求めて日本を圧迫して日本人が侮辱を受けそうな事態になった。
朕(天皇の自称)の皇祖であられる仁孝天皇、皇孝(天皇の父)孝明天皇が非常に心配されたのは勿体なくもまた畏れ多いことである。


然るに朕幼(いとけな)くして天津日嗣を受けし初、征夷大将軍其政権を返上し大名小名其版籍を奉還し、年を経すして海内一統の世となり、古の制度に復しぬ。
是文武の忠臣良弼ありて朕を輔翼せる功績(いさを)なり。

さて朕は、幼くして天皇の位を継承したが、征夷大将軍(幕府の長)はその政権を返上し、大名、小名が領地と人民を返し、年月が経たないうちに日本はひとつに治まる世の中になり、昔の制度に立ち返った。
これは文官と武官との良い補佐をする忠義の臣下があって、朕を助けてくれた功績である。


歴世祖宗の專蒼生を憐み給ひし御遺沢(ゆゐたく)なりといへとも、併(しかしながら)我臣民の其心に順逆の理を弁(わきま)へ、大義の重きを知れるか故にこそあれされは、此時に於て兵制を更(あら)め我国の光を耀さんと思ひ、此十五年か程に陸海軍の制をは、今の様に建定めぬ。

これは歴代の天皇がひたすら人民を愛し、後世に残した恩恵であり、同時に我が臣民が、心に「正しいこと」と「間違っていること」の道理をわきまえ、大義(天皇の国家に対する忠義)の重さを知っていたからである。
だから、この時において軍隊の制度を改め、我が国の光りを輝かそうと思い、この十五年の間に、陸軍と海軍の制度を今のようにつくり定めることにした。


夫兵馬の大権は朕か統(す)ふる所なれは、其司(つかさ)々をこそ臣下には任すなれ。
其の大綱は朕親(みずから)之を攬り、肯て臣下に委ぬへきものにあらす。
子々孫々に至るまて篤く斯旨(このむね)を伝へ、天子は文武の大権を掌握するの義を存して再中世以降の如き失体なからんことを望むなり。

そもそも、軍隊を指揮する大きな権力は、朕が統括するところである。
様々な役目は、臣下に任せるが、そのおおもとは朕みずからこれを執り、あえて臣下に委ねるべきものではない。
代々の子孫に至るまで深くこの旨を伝え、天皇は政治と軍事の大きな権力を掌握するものである道理を後の世に残して、再び中世以降のような誤りがないように望む。


朕は汝等軍人の大元帥なるそ。
されは朕は汝等を股肱(ここう)と頼み、汝等は朕を頭首と仰きてそ其親(したしみ)は特(こと)に深かるへき。朕か国家を保護して上天(しょうてん)の恵に応し祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得さるも、汝等軍人か其職を尽すと尽さゝるとに由るそかし。
我国の稜威(みいず)振はさることあらは、汝等能く朕と其憂を共にせよ。我武維揚りて其栄を耀さは朕汝等と其誉(ほまれ)を偕にすへし。汝等皆其職を守り朕と一心(ひとちこころ)になりて力を国家の保護(ほうご)に尽さは、我国の蒼生は永く太平の福(さいはひ)を受け、我国の威烈は大に世界の光華ともなりぬへし。
朕斯も深く汝等軍人に望むなれは猶訓諭(をしえさと)すへき事こそあれいてや之を左に述へむ。

朕はお前たち軍人の総大将である。
だから朕はお前たちを手足のように信頼する臣下と頼む。
お前たちは朕を頭首と仰ぎなさい。
そうすれば、その親しみは特に深くなることであろう。

朕が国家を保護し、おてんとう様の恵みに応じて、代々の天皇の恩に報いることが出来るのも出来ないのも、お前たち軍人がその職務を尽くすか尽くさないかにかかっている。
我が国の稜威(日本国の威光)が振るわないことがあれば、お前たちはよく朕とその憂いを共にせよ。

我が国の武勇が盛んになり、その誉れが輝けば、朕はお前たちとその名誉を共にするだろう。
お前たちは皆その職務を守り、朕と一心になって、力を国家の保護に尽くせば、我が国の人民は永く平和の幸福を受け、我が国の優れた威光(人を従わせる威厳)は大いに世界の輝きともなるだろう。

朕はこのように深くお前たち軍人に望むから、そのためになお、教えさとすべきことがある。次にこれを左に述べよう。



1.軍人は忠節を尽すを本分とすへし

凡(おおよそ)生を我国に稟(う)くるもの誰かは国に報ゆるの心なかるへき。
況(ま)して軍人たらん者は、此心の固からては物の用に立ち得へしとも思はれす。
軍人にして報国の心堅固ならさるは如何程技芸に熟し学術に長するも猶偶人にひとしかるへし。
其隊伍も整ひ節制も正くとも、忠節を存せさる軍隊は事に臨みて烏合の衆に同かるへし。
抑(そもそも)国家を保護し国権を維持(ゆゐぢ)するは、兵力に在れは兵力の消長は是国運の盛衰なることを弁へ、世論に惑はす、政治に拘らす、只々一途に己か本分の忠節を守り、義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覺悟せよ。
其操を破りて不覚を取り汚名を受くるなかれ。

軍人は忠節を尽くすことを義務としなければならない。

およそ生を我が国に受けた者は、誰でも国に報いる心がなければならない。
まして軍人ともあろう者は、この心が固くなくては物の役に立つことが出来るとは思われない。

軍人でありながら国に報いる心が堅固でないのは、どれほど技や芸がうまく、学問の技術に優れていても、やはり人形に等しい。
隊列(兵隊の列)も整い、規律も正しくても、忠節を知らない軍隊は、ことに臨んだ時、烏合の衆(烏の群れのように規律も統率もない寄せ集め)と同じである。

そもそも、国家を保護し国家の権力を維持するのは兵力にあるのだから、兵力の勢いが弱くなったり強くなったりするのは、すなわち国家の運命が盛んになったり衰えたりすることとわきまえ、世論に惑わず、政治に関わらず、ただただ一途に軍人として自分の義務である忠節を守り、義(天皇の国家に対して尽くす道)は険しい山よりも重く、死はおおとりの羽よりも軽いと覚悟しなさい。

その節操を破って、思いもしない失敗を招き、汚名を受けることがあってはならない。



1.軍人は礼儀を正しくすへし

凡(おおよそ)軍人には、上元帥より下一卒に至るまて其間に官職の階級ありて統属するのみならす。同列同級とても停年に新旧あれは新任の者は旧任のものに服従すへきものそ。下級のものは上官の命を承(うけたまわは)ること実は直(ただち)に朕か命を承る義なりと心得よ。己か隷属する所にあらすとも上級の者は勿論、停年の己より旧きものに対しては総へて敬礼を尽すへし。又上級の者は下級のものに向ひ聊(いささか)も軽侮驕傲の振舞あるへからす。公務の為に威厳を主とする時は格別なれとも其外は務めて懇に取扱ひ慈愛を専一と心掛け、上下一致して王事に勤労せよ。若軍人たるものにして礼儀を紊(みだ)り上を敬はす、下を恵ますして一致の和諧(くわかい)を失ひたらむには、啻(ただ)に軍隊の蠧(と)毒たるのみかは国家の為にもゆるし難き罪人なるへし

軍人は礼儀を正しくしなければならない。

およそ軍人には、上は元帥から下は一兵卒に至るまで、その間に官職(官は職務の一般的種類、職は担当すべき職務の具体的範囲)の階級があり、その統制のもとに属している。
そして同じ地位にいる同輩であっても、兵役の年限が異なるから、新任の者は旧任の者に服従しなければならない。

下級の者が上官の命令を承ることは、実は直ちに朕が命令を承ることと心得なさい。
自分がつき従っている上官でなくても、上級の者は勿論、軍歴が自分より古い者に対しては、すべて敬い礼を尽くしなさい。

また、上級の者は、下級の者に向かって、少しも軽んじて侮ったり、驕り高ぶったりする振る舞いがあってはならない。

おおやけの務めのために威厳を保たなければならない時は特別であるけれども、そのほかは務めて親切に取り扱い、慈しみ可愛がることを第一と心がけ、上級者も下級者も一致して天皇の事業のために心と体を労して職務に励まなければならない。

もし軍人でありながら、礼儀を守らず、上級者を敬わず、下級者に情けをかけず、お互いに心を合わせて仲良くしなかったならば、単に軍隊の害悪になるばかりでなく、国家のためにも許すことが出来ない罪人であるに違いない。



1.軍人は武勇を尚(とうと)ふへし

夫(それ)武勇は我国にては古よりいとも貴へる所なれは、我国の臣民たらんもの武勇なくては叶ふまし。況して軍人は戦に臨み敵に当るの職なれは、片時も武勇を忘れてよかるへきか。さはあれ武勇には大勇あり小勇ありて同からす。血気にはやり粗暴の振舞なとせんは武勇とは謂ひ難し。軍人たらんものは常に能く義理を弁へ、能く坦力を練り思慮を殫(つく)して事を謀るへし。小敵たりとも侮らす大敵たりとも懼れす、己か武職を尽さむこそ誠の大勇にはあれされは、武勇を尚ふものは常々人に接(はじは)るには温和を第一とし諸人の愛敬を得むと心掛けよ。由なき勇を好みて猛威を振ひたらは、果は世人も忌嫌ひて豺狼(さいろう)なとの如く思ひなむ心すへきことにこそ。

軍人は武勇を重んじなければならない。

そもそも武勇は、我が国においては昔から重んじたのであるから、我が国の臣民ともあろう者は、武勇の徳を備えていなければならない。
まして軍人は、戦いに臨み敵にあたることが職務であるから、片時も武勇を忘れてはならない。

しかしそうではあるが、武勇には大勇(真の勇気)と小勇(小事にはやる、つまらない勇気)がある。これは同じではない。血気にはやり、粗暴な振る舞いなどをするのは、武勇とはいえない。
軍人ともあろう者は、いつもよく正しい道理をわきまえ、よく胆力(肝っ玉)を練り、思慮を尽くしてことをなさなければならない。

小敵であっても侮らず、大敵であっても恐れず、軍人としての自分の職務を果たすのが、誠の大勇である。

だから、武勇を重んじる者は、いつも人と交際するには、温厚であることを第一とし、世の中の人々に愛され敬われるように心掛けなさい。
理由のない勇気を好んで、威勢を振り回したならば、遂には世の中の人々が嫌がって避け、山犬や狼のように思うであろう。心すべきことである。



1.軍人は信義を重んすへし

凡(おおよそ)信義を守ること常の道にはあれとわきて、軍人は信義なくては一日も隊伍の中に交りてあらんこと難かるへし。信とは己か言(こと)を践行(ふみおこな)ひ、義とは己か分を尽すをいふなり。されは信義を尽さむと思はゝ始より其事の成し得へきか得へからさるかを審(つまびらか)に思考すへし。朧気なる事を仮初(かりそめ)に諾ひてよしなき関係を結ひ後に至りて信義を立てんとすれは進退谷(きはま)りて身の措き所に苦むことあり。悔ゆとも其詮なし始に能々事の順逆を弁へ理非を考へ其言は所詮践むへからすと知り、其義はとても守るへからすと悟りなは速に止るこそよけれ。古より或は小節の信義を立てんとて大綱の順逆を誤り或は公道の理非に践迷ひて私情の信義を守り、あたら英雄豪傑ともか禍に遭ひ、身を滅し、屍の上の汚名を後世(のちのよ)まて遺せること其例尠からぬものを深く警(いまし)めてやはあるへき。

軍人は信義を重んじなければならない。

およそ信義を守ることは一般の道徳ではある。とりわけ軍人は信義がなくては一日でも兵士の仲間の中に入っていることは難しい。

信とは自分が言ったことを実行し、義とは自分の務めを尽くすことをいう。

信義を尽くそうと思うならば、はじめよりそのことを出来るかどうか細かいところまで考えなければならない。
出来るか出来ないかはっきりしないことをうっかり承知して、つまらない関係を結び、後になって信義を立てようとすれば、途方に暮れ、身の置きどころに苦しむことがある。
悔いても手遅れである。

はじめによくよく正しいか正しくないかをわきまえ、善し悪しを考え、その約束は結局無理だと分かり、その義理はとても守れないと悟ったら、速やかに約束を思いとどまるがよい。

昔から、些細な事柄についての義理を立てようとして正しいことと正しくないことの根本を誤ったり、古今東西に通じる善し悪しの判断を間違って自分本位の感情で信義を守ったりして、惜しい英雄豪傑どもが、災難に遭い、身を滅ぼし、死んでからも汚名を後の世までのこしたことは、その例が少なくないのである。深く戒めなければならない。



1.軍人は質素を旨とすへし

凡(おおよそ)質素を旨とせされは文弱に流れ、軽薄に趨(はし)り、驕奢華靡の風を好み、遂には貪汚(たんを)に陷りて志も無下に賤しくなり、節操も武勇も其甲斐なく、世人(よのひと)に爪はしきせらるゝ迄に至りぬへし。其身生涯の不幸なりといふも中々愚なり。此風一たひ軍人の間に起りては彼の伝染病の如く蔓延し、士風も兵気も頓に衰へぬへきこと明なり。朕深く之を懼れて曩(さき)に免黜条例を施行し、略此事を誡め置きつれと猶も、其悪習の出んことを憂ひて心安からねは故(ことさら)に又之を訓ふるそかし。汝等軍人ゆめ此訓誡(をしう)を等(なおざり)にな思ひそ。

軍人は質素を第一としなければならない。

およそ質素を第一としなければ、武を軽んじ文を重んじるように流れ、軽薄になり、贅沢で派手な風を好み、遂には欲が深く意地汚くなって、こころざしもひどくいやしくなり、節操も武勇もその甲斐なく、世の人々から爪弾きされるまでになるだろう。その人にとって生涯の不幸であることはいうまでもない。

この悪い気風がひとたび軍人の間に起こったら、あの伝染病のように蔓延し、軍人らしい規律も兵士の意気も急に衰えてしまうことは明らかである。

朕は深くこれを恐れて、先に免黜条例(官職を辞めさせることについての条例)を出し、ほぼこのことを戒めて置いたけれども、なおもその悪習が出ることを心配して心が休まらないから、わざわざまたこれを戒めるのである。お前たち軍人は、けっしてこの戒めをおろそかに思ってはならない。



右の5ヶ条は軍人たらんもの暫も忽(ゆるがせ)にすへからす。
さて之を行はんには一の誠心(まごころ)こそ大切なれ。抑此5ヶ条は我軍人の精神にして一の誠心は又5ヶ条の精神なり。心誠ならされは如何なる嘉言も善行も、皆うはへの装飾(かざり)にて何の用にかは立つへき。心たに誠あれは何事も成るものそかし。
況してや此5ヶ条は天地の公道人倫の常經(じょうけい)なり。行ひ易く守り易し。汝等軍人能く朕か訓に遵(したが)ひて此道を守り行ひ、国に報ゆるの務を尽さは日本国の蒼生挙(こぞ)りて之を悦ひなん。朕一人(いちにん)の懌(よろこび)のみならんや。

右の五ヶ条は、軍人ともあろう者は、しばらくの間もおろそかにしてはならない。

これを実行するには、偽りのない心こそ大切である。
そもそも、この五ヶ条は、我が軍人の精神であって、偽りのない心はまた五ヶ条の精神である。
心に誠がなければ、どのような戒めの言葉も、よいおこないも、みな上っ面の飾りに過ぎず、何の役にも立たない。
心にさえ誠があれば、何事も成るものである。
まして、この五ヶ条は、天下おおやけの道理、人として守るべき変わらない道である。
おこないやすく守りやすい。

お前たち軍人は、よく朕の戒めに従って、この道を守りおこない、国に報いる務めを尽くせば、日本国の人民はこぞってこれを喜ぶだろう。

朕ひとりの喜びにとどまらないのである。


明治15年1月4日

御名
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もうひとつ言うと、昭和20年頃のGHQというのは、まだまだイエローは人間でなく、被植民地の家畜にすぎないという認識があった。

その家畜が、工業力を身につけ、牙を向いて欧米列強に歯向ってきた。
だから彼らは、日本の持つその精神構造を徹底的に破壊しようとした。

逆にいえば、世界中どこの国であろうとも、この軍人勅諭の精神と教育勅語の精神をしっかりと学びとれば、その国は最強になる。

いいかえれば、日本が再生するためには、まさにこの軍人勅諭と教育勅語の復活こそ欠かせないものであると、ねずきちは思っています。

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ランボーは日本人だった!・・・舩坂弘軍曹物語

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アンガウル島
アンガウル島


シルベスター・スタローンの「ランボー」といえば、2008年にも「ランボー最後の戦場」が公開された、いわずと知れた大ヒットシリーズです。
ところが映画の主役のジョン・ランボー顔負けの大活躍をした日本兵がいます。
お名前は、舩坂弘軍曹。大正9年のお生まれの方です。

昭和19年3月、23歳で除隊を目前にした舩坂氏は、宇都宮歩兵第59連隊軍曹として、パラオ・ペリュリュー島南西のアンガウル島に着任しました。
アンガウル島は、東西2.5km、南北3kmほどの小さな島です。
米軍はここを占領し、飛行場を作ろうとした。同年9月11日、米軍が来襲します。

開戦から5日間にわたり米軍は、まず空母ワスプから発進した爆撃機で島の絨毯爆撃を行った。次いで戦艦テネシーから、島の形が変わるくらいの激しい艦砲射撃をした。そして9月17日、米陸軍第81歩兵師団2万1千名が島の北東と南西の二面から海岸に上陸します。

このとき、島を守っていた守備隊の日本軍は、わずか1400名の中隊です。
小さな平たい島です。内陸部に誘い込んでの戦いはできません。日本軍は、はじめ上陸しようとする米軍を水際作戦で迎え撃ちます。
このとき舩坂軍曹は、擲弾筒および臼砲で米兵を200人以上殺傷します。しかし兵力差は15倍、装備も劣る日本側に勝ち目はありません。

水際作戦で中隊が壊滅するなか、舩坂軍曹は、筒身が真赤になるまで擲弾筒を撃ち続けた。
そうすることで米軍の足を止め、退却する中隊の隊員たちを守ります。
米軍は陸続と上陸してきます。日本軍は、大隊残存兵力を島の北西の洞窟に集結させる。ここから先はゲリラ戦です。

戦い3日目、舩坂軍曹はひん死の重傷を負います。米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。場所は敵陣のど真ん中、味方が助けようにもすぐには助けれられない。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ます。

傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、もはやこれまでと、舩坂軍曹に自決用の手榴弾を手渡して去ってしまう。
おまえはもう死んでいる、と宣告されたようなものです。「負けるもんかっ!」舩坂は近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きます。
着いた時には、死体が這ってきたような姿だったのですが、この舩坂軍曹、並みの体力気力ではありません。翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまった。

舩坂軍曹はその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負っても、不思議と翌日には回復しています。ご本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうですが、ほとんど人造人間もどきの体力です。

舩坂軍曹は、栃木県西方町の農家の三男坊で、子供のころからきかん気でガキ大将だったそうです。長じては剣道と銃剣道の有段者。また中隊随一の名射手でもあった。気迫と集中力の素晴らしい人だったようです。

舩坂軍曹は、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けます。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒した。

ある日は、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ、突き殺した。まさに鬼神の如き奮戦です。

舩坂軍曹を見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。

しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相となっていた。
舩坂自身も、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまった。

さらに腹部の傷が化膿し、ハエがたかって蛆(ウジ)が湧いた。
舩坂軍曹は、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意します。

このときの舩坂の体調は、死の瀬戸際です。立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなくなっていた。彼は遺書を書きます。

「若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
 陸軍軍曹 舩坂弘」
【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ

自決を決意した舩坂は、手にした手榴弾を引き抜きます。自爆しようとした。ところが手榴弾が爆発しない。思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂はこのとき、深い絶望感を味わったといいます。

このときも洞窟には、絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲は、傷の痛みに呻く声が満ちている。
数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂は、絶望から気を取りなおします。そして、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いんと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意します。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出すと、その火薬を腹部の患部に流し込み、火をつけた。貫通創です。腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いている。その両側から炎が噴き出します。このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。

意識を取り戻した舩坂軍曹は、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ます。

当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していた。
そのまっただ中を、舩坂は数夜這い続け、米軍前哨陣地を突破し、指揮所周辺さえも突破してしまう。そして4日目には、米軍指揮所テントにあと20Mの地点にまで到達します。

舩坂は、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入すると決めます。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきた。指揮官たちが集まったのです。

舩坂は、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出し立ち上がった。突然、茂みから姿を現した異様な風体の日本兵に、発見した米兵もしばし呆然として声もでなかった。まるで血まみれでボロボロの幽鬼にしか見えなかった。

それもそのはずです。このときの舩坂軍曹は、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負い、更に連日の戦闘による火傷、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいた。

全身血まみれ、服はボロボロ。人間に見えたら不思議なくらいです。

米軍の動揺を尻目に、舩坂は司令部目掛け渾身の力で20Mを突進します。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとした瞬間、首を撃たれて昏倒してしまう。

倒れた舩坂のまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断します。全身血まみれで首を撃たれているのです。生きていると思うほうがどうかしている。駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、舩坂を野戦病院に運んだ。

このとき軍医は、手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語ったそうです。

死体置き場に3日間転がされていた舩坂は、そこで息を吹き返します。死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍った。
そして舩坂に銃口を向けます。

その銃口にゆっくりと向かってきた舩坂は、銃口に自分の身体を押し付けた。そして「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげた。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となり、伝説と化します。
米軍は、舩坂の無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈った。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を送っている。

一命を取りとめた舩坂は、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られます。闘志の衰えない舩坂は、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見て「よし!いつかはあの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓います。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、舩坂は夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出した。ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。

舩坂は、千Mをほふく前進します。途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、彼は小銃弾を67発集め、火薬を抜きます。そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけた。火薬庫は大爆発を起こし、次々に別の棟へ爆発が移った。島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいます。米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせています。
舩坂は、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻ります。

収容3日目の夜、舩坂はこんどは歩哨を殺して銃を奪います。そして夜陰にまぎれて歩哨の背後に忍び寄った。あと5メートルというところで、背後から「ヘーイッ!」といきなりタックルをくらった。舩坂も必死に抵抗します。しかし相手は米兵の大男です。まだ怪我の治らない舩坂に勝ち目はない。

舩坂はぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられた。米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂に銃を向けます。銃殺される。これで楽になれる。そう思った舩坂は、目を閉じた。

ところが舩坂の耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語だった。
「神様ニマカセナサイ。自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。アナタハ神ノ子デス。アナタノ生キルコト、死ヌコト、神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂をそのままにしてテントを出て行った。

翌日、縄を解かれて放置された舩坂は、懲りずに飛行場炎上計画を練り始めます。そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れた。マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えた。歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそがチャンス。舩坂はその夜、秘かにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えます。
「よし、あとすこしだ。」そう思って頭を上げると、そこに例の大男が立っていた。舩坂は拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。

「殺せ」という舩坂に、大男はこう言った。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、私ニ連絡キマシタ。アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、私ハ仕事ノ途中ダケレド、切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けた。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、即座ニ射殺サレタコトデショウ。私ハソレガ心配デ大急ギデ帰ッテキタノデス。無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂の無謀な行動を戒め、「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説いた。そして「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問うた。舩坂は「わからない」と意地を張った。しかし舩坂の心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみいった。

舩坂ら捕虜は、ハワイへ送られることになった。一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、いつもの大男がやってきた。
そして「軍曹、死ンデハイケナイ。生キテ日本ニ帰リナサイ。私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡した。それには彼の名前が記されていた。
「F.V.CRENSHAW」

舩坂はその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまった。
舩坂はペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国します。

帰国したは、舩坂は栃木の実家に帰った。実家では、舩坂は戦死したものと思われていた。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日。昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれていた。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」
村の人々も、帰ってきた舩坂の傷だらけでボロボロの姿を見て、これは幽霊に違いないと噂した。しばらくのあいだは、物の怪の疑いで見られていたといいます。

そして舩坂が故郷に帰って一番初めに行ったことは「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。

戦後、舩坂は、焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前の養父の地所に、わずか一坪の書店を開きます。そしてこの書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展する。

彼は書店経営の傍ら、「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」「血風 二百三高地」「ペリリュー島 玉砕戦」「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」「硫黄島‐ああ!栗林兵団」「殉国の炎」「聖書と刀‐太平洋の友情」「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わします。

また剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っている。
関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。

また、ペリュリューで世話になった大男、CRENSHAW伍長にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。ようやく連絡がとれたCRENSHAWとは、生涯の友となった。

舩坂は、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行っています。

さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行っている。

舩坂が築いたアンガウルの慰霊碑慰文には、次のように記されています。
------------------------------
尊い平和の礎のため、勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、永久に其の功績を伝承し、感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。
------------------------------

まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
かつての日本には、こういう男がいたのです。

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小沢・鳩山議員の疑惑解明に向けて東京地検を応援しよう!

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11月26日の関西テレビ「アンカー」で、青山繁晴氏が次のようなことを語っておられたそうです。

「鳩山・小沢の疑惑について、東京地検に大きな圧力がかかっている。このままだと大したことなく終わるだろう。あとは国民の声しかない!」

鳩山首相については、ご存じのとおり、政治資金管理団体が亡くなった故人などの名前を使い、5年間で約3億円もの虚偽記載を行っている事実が判明しています。
この問題について、東京地検特捜部は、徹底解明を行い、臨時国会終了後にも、会計管理を担当していた元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針というのがもっぱらの見方です。

ところがどうやらこの立件が、民主党からの圧力で、元公設秘書に対する在宅起訴(罰金刑)になりそうだ、というのです。

本来であれば、これだけの大掛かりな事件では、事件の全容をきちんと解明するのがあたりまえです。

鳩山氏への故人献金については、一部で母親から受領した金を名義だけ帳簿に付け替えたなどという話も出ているようです。
しかし、もしそういう話があるのなら、鳩山由紀夫氏の母親に対しても強制捜査、家宅捜索が入らなければなりません。そうでなければ事件を解明したことににならないからです。

加えて、母親等親族から提供された金を虚偽記載したのだとしても、数億円もの大金です。ではいったいその親族は、どこから金を得ていたのか。そもそもの金の出所はどこなのか。
普通に常識で考えても、そこまで捜査してはじめて裁判に持ち込むのは当然のことです。

鳩山事務所や鳩山総理の自宅、母親の口座等についてまで、すべての解明のために強制捜査が入り、事件の全容が明らかとなり、裁判に持ち込まれれば、これは大事件です。世間も騒然となる。総理は辞任せざるを得ない。

ところが、朝日新聞の報道によればこれを「在宅起訴」にするという。
これはどういうことかというと、在宅起訴なら、まず逮捕されない。
元公設秘書が虚偽記載を認めている部分だけで、立件し、そのまま裁判に持ち込むということです。

これでは裁判もたいした裁判にならない。総理の責任も追及されない。せいぜい、そういうルーズな秘書を雇っていたことについて、深く反省しお詫びします程度の話で終わってしまう。

つまり、強制捜査もされないし、事件の全容解明もない。

問題は、この「在宅起訴」という方法が、反日左翼の朝日新聞の特ダネ情報であるという点です。
そして朝日は、この情報もとは民主党であると言っているという。

であるとすれば、それは民主党がそう望み、朝日がそれを記事にした、ということになります。
そんなことでこの国が、強制捜査すべき案件にすら強制捜査せず、本来公正であるべき捜査機関が政治的に偏向するような事態は、やはり防がなければならないのではないかと、思います。


一方、小沢問題については、11月19日に、共同通信が、水谷建設が2004年から2005年に、小沢一郎氏に1億円の裏金を渡していた供述があったと報道した。西松建設ではありません。こんどは水谷建設です。

しかしこの件についても、どうやらウヤムヤに終わりそうです。

日本は、現行憲法の下では、三権分立の国です。行政、司法、立法が、互いにけん制しあい、互いに襟を正して公正な政治運営をすることになっている。
そして東京地検特捜部は、相手がいかなる権力であっても、証拠と法に基づき、公正な捜査を行う機関です。

けっして、そこが「政治」によってグラつくようなことがあってはならない。

昨日、この件について、日心会のメールリングリストで、問題提起があり、多くの会員さんが、東京地検に、勇気を持って捜査を続行するよう、応援メールを送りました。

東京地検の「ご意見窓口」のアドレスを貼ります。
みなさんも、応援メールを送ってみたらいかがでしょうか。

東京地検メールフォーム
https://www.kensatsu.go.jp/kensatsumail/feedback.php?id=006

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09.11.25.青山繁晴がズバリ!3/7


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ウズベキスタンの日本人

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国立ナポイ劇場
国立ナポイ劇場


トルキスタンとか、カザフスタンとかいいますが、その「スタン」というのは、ペルシャ語で「国」という意味の言葉です。

その「スタン」という名前がつく国の中に、ウズベキスタンという国があります。

古代からシルクロードの中継地として発展したオアシス都市が栄えたところで、13世紀にはモンゴル帝国に征服されるけれど、14世紀になるとティムール王朝が興って、中央アジアから西アジアに至る広大な帝国を築き上げた歴史を持ちます。

そのウズベキスタンの首都都タシケント市に“国立ナポイ劇場”(写真)があります。
実はこの建物は、日本人が造った。

終戦後間もないころです。

シベリアに抑留された日本人65万人のうち、2万5千人が、このタシケント市内の13箇所の収容所に入れられます。

シベリア抑留者というのは、ただソ連によって強制連行され、抑留させられた、というわけではありません。

シベリアに連行された日本人は、旧満鉄の職員や技術者、関東軍の工兵たちなどです。
要するに技術者集団でもあった。

ソ連は、ヤルタ協定を一方的に破棄して対日参戦しただけでなく、満洲や朝鮮半島、樺太などを一方的に占有し、日本軍から奪った武器弾薬兵器は、シナの八路軍(中国共産党)や、北朝鮮金日成らに無料同然で売り渡し、日本人技術者たちを強制連行してソ連のインフラ整備のために無料で使役したのです。

65万人の技術者集団です。
彼らを単に抑留するだけなら、食費やら施設の維持費等で、建国したてのソ連は大赤字となります。
65万人に給料を払うなら、たとえば今の相場で月30万円の給料を出すとなれば、それだけで月に2千億円、年間2兆4千億円の費用がかかる。
それを給料無料で、ろくな食事も与えず、彼ら日本人の持つ高い技術と能力、旧満州にあった機械設備をまるごと接取して、ソ連のシベリア開発のために使役した。

道路敷設、水力発電施設の建設、鉄道施設の充実強化、森林伐採、農場経営、建物建築等々。

莫大な国費を要するそれら国内インフラの整備事業を、拉致した日本人65万人を使ってソ連全土で展開した。

ちなみにいまでもロシアに残る社会インフラで、ちゃんと稼動している施設は、ほぼ日本人抑留者が造ったか、ソ連以前の帝政ロシア時代の建造物かどちらかです。
旧ソ連時代にできたものは、あまり多くない。

要するにソ連は、人だけでなく、モノと技術を一緒にソ連に運んだのです。
そして日本人を奴隷のように使役し、モスクワの町やらイルクーツクの街並み、カザフやウズベキの街や道路、発電所、建築物等を作らせた。

使役させられた日本人たちの様子がどうであったのかは、山崎豊子の小説「不毛地帯」に詳しく紹介されています。

裸にされて並ばせられると、すぐ前に立っている者の肛門まで見えた。ろくな食事も与えられず、全員がそこまでガリガリにやせ細っていた話、モスクワでの建設工事の最中、あまりの労苦に耐えかねた日本人のひとりが、クレーンの先端まで駆け上がって「天皇陛下万歳!」と叫んで飛び降り自殺した話等々、涙をさそう逸話が数多く紹介されている。

ウズベキスタン
ウズベキスタン


ウズベキスタンのタケシント市に抑留された2万5千人の日本人達も、同じです。

運河や炭鉱などの建設や、発電所、学校などの公共施設の建築などの強制労働につかされ、過酷な気候条件と厳しい収容所生活で、栄養失調や病気、事故など813人の日本人がこの地で亡くなった。

しかし、彼らが造った道路や発電所などの施設は、いまでもウズベキスタンの重要な社会インフラとなっている。
それどころか、国立ナポイ劇場の建物などは、いまやウズベキスタンの人たちの誇りとさえなっている。

ウズベキスタンの市民たちは、劇場が建設された当時のことをよく覚えているといいます。

日本人たちが、捕虜なのにどうしてあそこまで丁寧な仕事をするのか、真面目に働くのか不思議がったといいます。

冒頭の写真のナポイ劇場は、約2年の月日をかけて昭和23(1948)年に完成したものです。
実は、その後、タシケント市では、2度、大地震が起こった。
市内の建造物は、なんと3分の2が倒壊しています。

ところが、この大地震に、ナポイ劇場はビクともしなかった。

劇場を眺めるとき、ウズベク人たちは、
「戦いに敗れても日本人は誇りを失うことなく骨身を惜しまず働いて立派な仕事を残した。素晴らしい民族だ」と今も語り継いでいる。

同じ抑留者でも、ドイツ人たちは、ロシア兵に反抗もするし、自分たちの権利を主張した。ロシア兵たちもドイツ人たちにたいしては、あるていど大目に見ていたといいます。
日本人はイエローなので、差別された。ひどい扱いを受けた。
それでも日本人たちは、威張らず、文句も言わず、黙々と作業をした。
その姿に、市内の作業現場ではタシケント市民は、ソ連と戦争をした日本人を、かえって尊敬と畏敬感を持ったといいます。

ナポイ劇場の建造は、500人の日本人抑留者が担当したそうです。
そのうち60人が、建築途中で亡くなった。
どれだけひどい環境下にあったか、その数字だけをみてもあきらかであろうと思います。

1996年、ソ連崩壊後、独立したウズベキスタンで、大統領のカリモフ氏は、壮麗なナポイ劇場に、日本人抑留者の功績を記したプレートを掲げました。

プレートには、ウズベク語、日本語、英語でこう書かれています。
「1945年から46年にかけて極東から強制移住させられた数百人の日本人がこの劇場の建設に参加し、その完成に貢献した」

ナポイ劇場正面に掲げられたプレート
ナポイ劇場正面に掲げられたプレート


1999年7月に、駐ウズベキスタン特命全権大使となった中山恭子氏は、ウズベク在任中に、いまも国民に電気を供給している水力発電所の建設を仕切った元現場監督に会ったそうです。

その元監督は、まじめに、そして懸命に汗を流していた日本兵抑留者たちの思い出を涙ながらに語ったといいます。

苛酷に働かされた工事でも、決して手抜きをせずまじめに仕上げてしまう日本人。

いまでもウズベキスタンの母たちは子供に「日本人のようになりなさい」と教えているのだそうです。

ウズベキの人たちは、当時抑留されていた日本人たちの姿を見て、
「日本人の捕虜は正々堂々としていた。
ドイツ人捕虜が待遇改善を叫んでいたのに対して、彼らは戦いに敗れても日本のサムライの精神をもっていた。
強制労働でも粛々と作業につく姿を見て、我々市民は彼らに何度か食料を運んだ」というそうです。

タケシント市にある日本人墓地は、元抑留者たちの募金活動やウズベキスタン政府の協力によって整備され、日本から送られたサクラの苗木1300本も植樹されました。

過酷な環境の中で祖国帰還を夢見ながらも、まじめに働き、ウズベキスタンのインフラを残した日本人抑留者。

彼らが造った道路や工場は今でも使用されています。

どんなときでも勤勉にまじめに生きた私たちの父祖の日本人。

戦後の日本人は、そういう父祖たちの生きた時代の日本を、あまりにも矮小化して見てはいないだろうか。

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ウズベキスタンの紹介


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小野田寛郎さんが語る韓国売春婦

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小野田寛郎さん
小野田寛郎


小野田寛郎(おのだ ひろお)さんといえば、大東亜戦争終結から29年間、フィリピン・ルバング島で帝国軍人としてすごし、帰国した方として有名です。

↓は、その小野田さんの名言です。
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「なぜ30年もの間、頑張れたのか……。
それは、生きる目的、果たすべき目的があったからです。
なにもないのに頑張れないでしょう。
その生きる目的を果たすために、死んでもいいという覚悟をするのです」

「サバイバルというのは、どんな困難な状況にあっても生きる望みを失わないこと」

「(30年もルバング島にいて)これは国のミスなんだから“失った時間を返せと賠償請求をしたらどうか”と言う人がいました。
僕はいまこうして生かさせていいただいているんです。
死んでいった仲間もいるのです。
“僕はそんなに狭い料簡はもっていないよ”と笑って済ますのですが」

「島で一番大事なのは健康です。
そして健康でいるためには頭をよく働かせなくてはダメです。
健康でないと、思考が狂い消極的になる。目標とか目的意識が希薄になるんです」

「よく島でたった一人になって、孤独感はなかったかと聞かれます。
僕は孤独なんていうことはないと思っていました。
22歳で島に入りましたが、持っている知識がそもそもいろいろな人から授かったものです。すでに大きな恩恵があって生きているのだから、決して一人で生きているわけではないのです」
-------------------------------

小野田さんが、何度も繰り返しおっしゃる言葉は、
「生きる目的」
「死んでもいい覚悟」
「一人では生きられない」です。

30年もの間、島でたった一人で闘っていた小野田さん。
その小野田さんが、
「人は一人では生きられない」
とおっしゃる。
そして「大きな恩恵があって生きているのだから、決して一人で生きているわけではない」とおっしゃる。

まるで人は木の股から生まれてきたのだ。個人主義がいいのだという現代日教組教育の、まさに対極にある思想と生き方がここにあります。

その小野田さんが、従軍慰安婦について書いている記事があります。
ご紹介します。
内容の濃い文章です。
原文をまるごとご紹介します。
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html

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私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎
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首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、多くの方々が論じているところだ。

南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。

戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。

外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、兵士による強姦と略奪・放火である。
そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。
大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。
当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。

野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。
それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。

淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。
あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。

では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場にあったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

◆漢口の「慰安所」を見学

商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが残っている様な街に住むことになった。
当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとにそれぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。

日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、そうでない者は警備上難民区に住まされていた。
難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。

私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。
ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、一瞬思い当たらず戸惑った。
しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。
映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。

私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう。
小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと早合点していた。

ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので「慰安所」の出入りが自由であった。
彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。

私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。
日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。
そこには内地人も鮮人も中国人もいた

(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。
憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。
料金は女性の出身地によって上中下がある。
また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。

半島出身者に
「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」
「精神決めてトットと上がれ ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。
内地人のある娼妓は「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。

◆どこにもいなかった「性的奴隷」

ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。
「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。

私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。
その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。
というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって一目で見分けられた。

彼女たちは実に明るく楽しそうだった。
その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影はどこにも見いだせなかった。
確かに、昔からの言葉に、「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。
明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。

先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。
騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。
私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。
またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。
日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。

これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。
私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。

当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。
三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。
貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。
私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。

一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。
ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。
「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。


サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、経理部の驚くのも無理のない話である。

以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。

私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。
これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い

次に、軍関与の暴論について証言する。

私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。
初年兵教育が終わって作戦参加、次いで幹部候補生教育、途中また作戦と、一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。

だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。
周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。

南昌には師団司令部があった。
「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。
私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。
教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。
もちろん勤務は二十四時間である。

私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。
巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。
前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。
兵舎内の不寝番でさえ同様だ。鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。
その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。
もっと無防備で不用心な姿の筈である。
その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。
それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。
性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも中国人だった。
彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。
大人数なのだから、それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。
部隊が移動する時もそうなるだろう。

私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。
今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。
これは私の部隊だけではないと思う。

もう六十年も昔のことである。
時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。
したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。

そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。

言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、何かが得られると狙っているということだ。

戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。
このことだけは確かだ。
野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。
自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、自分で自分を守るしか方法はないのだ。

軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、それから一歩も出ていない。
「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。
彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。

現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。有り余った金ではなかったのだ。

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。
買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。
根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。

「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。

こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

「正論」一月号より
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これが間違いのない真実なのです。

当時の日本の兵隊さんの給料は、月に13円から、将校クラスで25円です。
その時代に、売春婦のチョーセン人女性たちは、月にブスでも1000円、ちょっといい女なら2000円を稼いでいたといいます。

日本に最初に来日して「私は慰安婦でした」と騒いだ婆さんは、売春婦当時、当時のカネで5万円の貯金があった。いまの相場で言ったら、10億円相当の貯金があったということです。

それが婆さんになって、売春行為ができなくなっても、まだ日本にタカレルんじゃないかと恥も知らずに日本にやってきて、「ワタシ、キョウセイレンコウサレタ。ワタシフコウダッタ」と大騒ぎしてた。

そもそも「従軍慰安婦」という言葉自体が、間違いなのです。
実際には、単なる「追軍売春婦」であり、商売女でしかない。

この問題が、どういう経緯で国内外で問題視されたのかについては、以前のボクの記事「従軍慰安婦問題について考える」に詳しいので、そちらをご参照ください。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-378.html

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女性から見た慰安婦問題1/3


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天秤棒で荷物を担いで270km・・・山葉寅楠

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山葉寅楠
山葉寅楠


ヤマハといえば、いわずとしれた楽器メーカーです。
いまでは自動車のエンジンやバイク、クルーザーなども作っている。

ところで、ヤマハというのは何の略でしょう?

山葉という称号は、創業者である山葉寅楠(やまはとらくす)の名字からとったものです。
寅楠という名前は、南方熊楠(みなかたくまくす、植物学・民俗学者)や、横井小楠(よこいしょうなん、儒学者・政治家)に習い、楠木正成にならって付けられた名前なのだそうです。

ヤマハの創業時の名前は「山葉風琴製造所(やまはふうきんせいぞうじょ)」です。
「風琴(ふうきん)」というのは、オルガンのことです。
“風を送って音を出す琴”という意味でしょうか。

創業者の山葉寅楠は、嘉永4(1851)年、紀州徳川藩で生まれました。
父親は、天文暦数や土地測量・土木設計などの天文方を勤めていた人です。

山葉寅楠は、宮本武蔵のファンでもあったようです。16歳で二天一流の修行に出たそうです。

しかし明治維新で家が没落。

山葉寅楠は、二十歳のときに大阪に出て、時計や医療器具などの精密機械修理を学びます。

ところが肝心の仕事が、ない。

彼は技術者として職を求めて、全国各地を転々とします。

そんなとき山葉は、友人から静岡県浜松市で県立病院の修理工を捜しているとの知らせをもらいます。明治17(1884)年、寅楠35歳のときのことです。

その頃、明治政府の意向で小学校に随意科目として唱歌科がもうけられていたのです。
浜松尋常小学校(現・浜松市立元城小学校)でも唱歌のためのオルガンを輸入した。

オルガンはもちろん外国製です。めちゃめちゃ高価です。
そんな高価な風琴(オルガン)を、小学校が買った。このオルガンの話は、浜松だけでなく静岡県じゅうに広まり、各地から大勢の人が見学におとずれたそうです。

ところが、このオルガン、すぐに故障してしまった・・・。

修理したいのだけれど、オルガンは外国製です。部品もなければ修理工もいない。
しかも貴重品です。万一修理に失敗でもしたら、それこそとりかえしがつかない。

困った小学校は、ある日、浜松県立病院に精密機器の修理工がいるという話を聞きつけます。そして、山葉寅楠のもとに、オルガンの修理の依頼がきた。
時計や医療器具修理のできる山葉寅楠なら直せるだろうというわけです。
いまにしてみれば、かなり乱暴な話だけれど、当時のひとたちにしてみれば、まさに真剣そのものです。

山葉寅楠にとっても、そんな見たこともない貴重なオルガンを、どうやって直すのか不安でいっぱいです。

まわりの人が心配そうに見守る中、寅楠は、オルガンを点検します。そして内部のバネが二本壊れているだけだとすぐに見抜いた。
そしておもしろいことに、寅楠は、「これならバネだけでなく、オルガンそのものも俺にもつくれそうだ」と思い立ちます。

「アメリカ製のオルガンは45円もする。自分なら3円ぐらいでつくることができる!」

明治10年代の白米10キロの値段が50銭です。いまだと5000円くらいかも。てことは、感覚的にはオルガン一台4500万円のところを、30万円で作れる、と考えた、というわけです。

寅楠は決心します。
「将来オルガンは全国の小学校に設置されるだろう。これを国産化できれば国益にもなる」。

このあたりの寅楠の考え方は、非常におもしろいと思います。
オルガンの市場性に着目するだけでなく、それが「国益になる」と考えたわけです。
一介の職人さんの意識の中にも、自分の行動を「お国のために」と考えるという精神構造があった。
時は明治の始めです。

よく「お国のため、という思考は、大東亜戦争直前の軍国主義教育のたまものである」という人がいます。しかし寅楠は、江戸時代に教育を受けた人です。つまり日本人の心には、江戸の昔からお国のため、公益に尽くすという考え方があった。

さて、翌日から寅楠は、来る日も来る日もオルガンの内部を調べます。修理すべきバネだけではありません。いろいろな部分を細かく図面に書き写した。

約一ヵ月が経って、ようやく何十枚もの図面を書き終えた寅楠は、壊れたバネの修理に取りかかりった。バネそのものは、冶金術が発達していた日本では、そんなにむつかしいことではない。そして、見事にオルガンを直してしまった。

「山葉さん、すばらしい。ありがとう!」
「いいえ、校長先生。私のほうこそお礼をいいたいくらいです。おかげでオルガンを知ることができたのですから」
山葉寅楠も、内心、ニッコリです。

しかし寅楠には、オルガンをつくるための資金がありません。

あちこち尋ね歩いて、協力を求めますが、多くの人が「おまえは気でも狂ったか」というなか、5日ほどたったある日、寅楠は飾り職人である小杉屋の河合喜三郎をたずねます。そして「力を貸してほしい」と頼み込みます。

河合喜三郎は寅楠の熱意と腕にかけてみよう!と決心します。

こうして、翌日から河合の小杉屋の仕事場を借りてオルガンづくりが始まった。

とりあえず資金と場所は確保できたけれど、二人には満足な材料もなければ道具もない。
あるのは情熱だけです。

寅楠は朝4時から夜中の2時まで、ほとんど徹夜でひとつひとつ工夫しながら部品を作っていった。
そして二ヵ月かかって、やっとオルガンの第一号を完成させます。

寅楠は、真っ先に元城小学校へ運び、唱歌の先生に頼んで弾いてもらいます。

しかし「確かに形はオルガンだが、音がおかしい」と言われてしまいます。
そうです。調律がなってないのです。

しかしドレミの音階そのものが、まだ世に伝わっていない時代です。
寅楠には、なにがどうおかしいのかがさっぱりわからない。

そこで寅楠は、めげずに、今度はおなじく浜松市内にある静岡師範学校(今の静岡大学教育学部)へオルガンを持っていきます。だが、結果は同じです。音がおかしいと言われた。

音の何がどうおかしいのか。河合と寅楠にも、肝心なところがさっぱりわかりません。
どうすればいいのか。。。。

こりゃもっと偉い先生に聞いてみなきゃわからんかもしれん。

二人は、作ったオルガンを東京の音楽家に見てもらおうと話し合います。
それには、音楽取調所(現東京芸術大学)がいいだろうと話し合った。

しかし、音楽取調所で、いったい誰に会えばいいのか。
会うためには、どうすればいいのか。それすらさっぱりわからない。
電話なんてものはありません。もちろん携帯もない。104もない。
直接行ったところで、そのエライ先生が会ってくれるかどうかもわかりません。

しかし、とにかく行くしかないだろう。。。

二人は、そう結論付けると、天秤棒にオルガンをぶらさげて、浜松から東京までかついで運ぶことにした。

かつぐといっても、100kg近い重量のあるオルガンです。
まず重たい。道のりは東海道を270kmです。
雨の日は動けない。
風が吹いたらあおられる。
箱根の山越えは、ずっと坂道の難所です。
いったい何日かかったか。。。

山葉オルガン1890年
山葉オルガン1890年


ようやく音楽取調所に着いた二人は、オルガンを教授たちに見せた。

教授たちはびっくりします。
国産でオルガンをつくってしまったことにも驚いた。
そのオルガンをかついできたことにも驚いた。
そして音が外れていることにも驚いた。

音程が狂っている。音階もおかしい。これでは楽器として使えるものではない。

西洋音楽を指導していた所長の伊沢修二は、「調律が不正解なんだ。あと一歩です。君たち音楽を学習していきなさい」と言った。

伊沢所長は彼らのために、親切に宿泊所を提供し、音楽取調所で聴講生となることを許可してくれます。

寅楠は、調律、音楽理論を必死で学びます。

1ヶ月後、浜松に帰った寅楠は、先に帰っていた河合喜三郎と協力して、すぐさま2台目のオルガンの製造にとりかかります。

しかし、途中で、資金が底をついてしまいます。

河合の妻は、親戚中をかけまわって借金した。
河合の妻の衣服も、嫁入り道具の服から普段着まで、ぜんぶ質屋に入ってしまった。
残った1着は、着ている1着だけです。それを洗濯するときは、もうまる裸になるしかない。

親戚は、お前たち気でも狂ったのかと猛反対をした。

しかし、寅楠と喜三郎は「今度こそ立派なオルガンをつくるんだ!」「日本の子供たちに音楽を届けるんだ」と心に念じて努力に努力を重ねた。

そして、二ヵ月。

とうとう第二号のオルガンが完成した。

こんどは大丈夫だ。しっかりと調律もした。これならきっと認めてもらえる。

二人は、そううなづきあうと、天秤棒にオルガンをぶら下げ、ふたたび270kmの道のりを歩いて東京の音楽取調所に向かった。

天秤棒で荷物を運ぶ人
天秤棒


再び、箱根の山を越えたオルガンは、伊沢所長の前ですばらしい音色を響かせます。

「山葉さん、すばらしい! よくやりましたね。これなら外国製に負けない見事なオルガンです。これで、全国の小学校へ国産のオルガンを置くことができますよ」

やっとできた! 認められた!
寅楠と河合は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。

この時代の男は、「男が泣くのは一生に1度だ」と教わってきた世代(時代)です。
その男が、だいの大人のおやじが、うれし涙を流した。

山葉寅楠はこのオルガンを、国産第1号オルガンとして、そのまま音楽取調所寄贈してしまいます。
「伊沢所長のおかげで完成したオルガンです。どうか使ってください。」というわけです。

気前がよくてオルガンを寄贈したとかそういう話ではありません。
それだけうれしかった。だからそのうれしさをカタチにしただけのことです。

これを喜んだ伊沢所長は、二人が造ったオルガンを、「国産オルガン製造成功!」と、あちこちに語ります。いわば東京芸術大学学長のお墨付き・・・どころが学長の宣伝です。
ニュースは、口コミで広がり、次第にオルガン製造の注文も来るようになった。

注文第1号は、静岡県から5台です。
その後も政府の方針によって文部省唱歌が普及したため、オルガンの需要はうなぎ登りに増えた。

山葉寅楠と河合は、「山葉風琴製造所」の看板を掲げ、本格的にオルガンの製造にとりかかるのだけれど、わずか1年後には従業員は100名を超え、ロンドンにまで輸出するようになった。

二人の努力と周囲の善意が実を結んだのです。日本はそういう社会だった。

明治22(1889)年、山葉は、東京や大阪の楽器商社と協力して個人商店だった山葉琴風製造所を、「日本楽器製造株式会社」に改組します。
そしてこの頃から、山葉寅楠はピアノの製造、国産化を目指すようになる。

伊沢修二所長の紹介で文部省嘱託となった寅楠は、アメリカに渡り、ピアノ工場を見学し、部品を買い付けた。

帰国した寅楠は、国産ピアノ第1号をつくるべく、会社の総力をあげてピアノの製造にとりかかります。
ピアノの部品には、アメリカで買い付けたものを使用したけれど、ピアノの生命といわれるアクション(響板)だけは日本で開発したものを使用しています。

天才がいたのです。響板の製造は、河合の親戚の河合小市が造った。小市は、後に「河合楽器」を創業したひとだけれど、このとき小市、わずか11歳です。

山葉寅楠は明治33(1900)年にはアップライトピアノ、明治35年にはグランドピアノの製造にも成功します。そして山葉のピアノとオルガンは、アメリカのセントルイス万国博覧会で名誉大牌賞を受賞する。

オルガン、ピアノの量産化で山葉寅楠は「日本の楽器王」と呼ばれるようになりました。
山葉寅楠の死後、「日本楽器製造株式会社」は「ヤマハ株式会社」となり世界一の楽器製造を誇る企業へと成長した。

東海道を、天秤棒で担いで歩いて運んだ山葉寅楠と河合喜三郎。

彼ら二人の努力が、全国の小学校にオルガンを普及させ、文部省唱歌を全国に広めた。

老人ホームに行くと、ボケ老人でも、文部省唱歌をみんなで歌うと、目を輝かせて、これを歌う。歌っているおじいちゃん、おばあちゃんの顔は、そのときばかりは尋常小学校生の顔になっています。

歌は、彼らの少年少女時代の共通の思い出でもあります。

しかし最近では、学校で昔からある文部省唱歌を教えなくなったといいます。
子供たちは好きな歌を歌えば良いというのです。

しかし本当にそれで良いのでしょうか。
子供たちから唱歌を奪うということは、子供たちから彼らの未来における共通の思い出を奪うことです。その思い出は、その子の思い出であると同時に、同じ世代を共有する共通の思い出でもある。
人はひとりで生きているわけではないのです。
人と人とのかかわりの中で、みんなが生きている。

何かを一緒にやった仲間というのは、生涯の友になります。
知らないおじいさん、おばあさんどうしでも、同じ文部省唱歌を歌った思い出が共有されることは、共通の友に出会うということでもある。

逆に子供時代の歌が、ひとりひとりみんなバラバラとなると、それはなるほど個性化というものかもしれないけれど、共通の思い出を失うことにもなる。ほんとうにそれでいいのだろうか、と思うのです。

だから、ちょっとだけ、ねずきちは言ってみたいのです。
子供たちから文部省唱歌を奪う日教組教師は、全員、天秤棒でオルガンを担いで270kmを歩け!なんてね^^v

田舎の山の中の小学校にも、古いオルガンが置いてあります。
かつて、そのオルガンを必死で作った人がいて、それをその小学校まで歩いて運んだおじさんたちがいる。トラックなんてなかった時代です。みんな担いで運んだ。

そうやって子供たちに歌が届けられました。
そして同じ国の同じ国民として、みんなで共通の思い出を刻んでいった。

その先人たちの思いや努力、歴史というものを、個人主義とか個性化とかいう能書きひとつで、ぜんぶぶち壊しにするということが、本当に良いことといえるのか。ねずきちにはよくわかりません。

ただひとつ思えるのは、子供たちから共通の思い出を奪う者、世代を超えた思い出を奪う者は、もはや教育者の名に値しない。そんな気がします。

すくなくとも、そうやって造ったり、運んだりしてくれた先人たちに対する感謝の気持ちは、ぜったいに忘れてはならないことだし、伝えるべきことだと思うのです。

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仰げば尊し(唱歌)


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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