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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


子守りをする少女

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子守をする少女
子守をする少女


上の写真は、明治10年ごろに撮られた写真です。
「子守りをする少女」という標題がついていますが、撮った人が誰なのかは、ちょっとわかりません。とてもしっかりもののお嬢さんという感じがします。

次の写真は、明治半ば頃の「子供たち」という題の着色写真です。

子供たち
子供たち(明治半ば頃_着色写真)


誰もが素晴らしい笑顔でいます。

下にあるのは、明治3年の熊本城の写真です。
もちろんこの時代のものですから、舗装なんてしてありません。むき出しの地面です。
しかし、チリひとつ落ちていません。

熊本城(明治3年)
熊本城(明治3年)



いまから90年ほど前、大正6(1917)年のことです。ボストンの大富豪家ビゲローが、エドワード・モースに手紙を書きました。
そこには次のように書かれていました。
「君と僕が40年前に接した
 日本人という生き物は
 絶滅しかかっている種族なんだ。
 その大半は、
 もう完全に地上から
 姿を消してしまっているよ」

エドワード・モース(Edward Sylvester Morse)は、明治10(1878)年から明治15(1882)年にかけて、3度にわたって来日したアメリカの教授です。
日本の大塚貝塚の発見や、日本にダーウィンの進化論を伝えた人でもあります。他にも、江ノ島に東洋初の臨界実験所を設け、東京大学動物学教室の初代教授として多くの人材を育て、日本の民具や工藝品を収集し、住宅建築の研究もしています。

人力車に乗って調査旅行にまわるモース
人力車に乗って調査旅行にまわるモース


モースは、自身の体験をもとに、40年前の彼の日記や、733枚にのぼるスケッチ画から、一冊の本を著しています。
それが、「日本その日その日(JAPAN DAY BY DAY)」です。

JAPAN DAY BY DAY


40年前・・・つまり彼にとっての40年前である、明治10年ごろの日本の姿を、紀行文として著したのです。
この本の中で、モースは、次のように語っています。

明治10年頃の様子です。
すこし引用してみます。

「世界中で日本ほど、子供が親切に取扱われ、
 そして子供のために深い注意が払われる国はない。
 ニコニコしている所から判断すると、
 子供達は朝から晩まで幸福であるらしい。」

「外国人の筆者が一人残らず一致することがある。
 それは日本が子どもたちの天国だということである。」

「この国の子どもたちは
 親切に取り扱われるばかりではなく、
 他のいずれの国の子どもたちよりも
 多くの自由を持ち、
 その自由を乱用することはより少なく、
 気持ちのよい経験の、
 より多くの変化を持っている。」

「世界中で両親を敬愛し、
 老年者を尊敬すること、
 日本の子どもに如くものはない。
 汝の父と母とを敬愛せよ
 ・・・これは日本人に深くしみ込んだ特性である。」

「日本人のきれい好きなことは、
 常に外国人が口にしている。
 日本人は、家に入るのに、
 足袋以外は履いていない。
 木製の履物なり、わらの草履なりを、
 文字通り踏み外してから入る。
 最下級の子どもたちは家の前で遊ぶが、
 それにしても地面でじかに遊ぶことはせず、
 大人がむしろを敷いてやる。」

「日本その日その日」は、彼を乗せた汽船が横浜の港に着いたところからはじまります。
汽船から小舟に乗り移り、上陸するまでの僅かな間に、伝馬船の櫓の形をスケッチし、船頭たちの掛け声をメモし、みんなと近くのホテルで一夜を過ごし、その翌朝には、ホテル近くを散策し、はじめて見る下駄や草履、工事現場の様子、商店や店員たち、人力車や車夫のいでたちや走り方等々、目にするものすべてのものを観察し、これらの特徴を的確に描写しています。

東京では、相撲や歌舞伎を見たり、落語や浪曲を聴き、茶の湯に接しました。
火事を知らせる半鐘を聞いて、時刻をかまわず飛び出し、消火活動のようすを初めから終わりまで詳しく記して、スケッチしたりもしています。
旅行中は、各地の民家の屋根の形や建て方の違いを観察し、農作業の方法や農機具までも事細かに描いています。
そして彼は、日本人が日常使っている品々の素朴な美しさ、住まいの内外に見られる洗練されたセンス、自然をたくみに取り入れた日本人の生活の知恵や人々のこまやかな人情などに魅せられていきます。

明治初期にあって、大正期には消失しようとしていた美しいもの。
心の優しさ、高い道徳性、自然を生かす知恵、子供たちの笑顔、義理人情、思いやり、みんながこの国という共同体の一員だった時代の日本・・・
こうしたものは、江戸期に完成していたものということができるかもしれません。

モースが明治19年に書いた本「日本の住まいとその周辺(Japanese Homes and their Surroundings)」には、次の記述があります。

「レインをはじめ文筆家たちは
 「日本の住居にはプライバシーが欠けている」
 と述べている。
 しかし彼らは、
 プライバシーは野蛮で不作法な人々の
 間でのみ必要なことを忘れている。
 日本人はこういった野蛮な人々の
 非常に少ない国民である。
 これに対し、
 いわゆる文明化された民族、
 とりわけイギリス人やアメリカ人の社会の大半は、
 このような野蛮な人々の集まりなのである。」

考えてみると、国宝を保存した正倉院には、鍵がありません。あるのは、紙でできたお札です。
それで、泥棒がなかったのが日本です。
いっぱんの民家でも、一昔前には、家に鍵などなかったし、玄関の戸は開け放たれたままだったことは、一定の年代以上の方なら、みなさん記憶していることです。

そしてその頃は、醤油が足りなくなると、ちょいと隣りのおばちゃん家に行ってもらってきたりしていました。
向こう三軒両隣が、共同体でした。
だから各家庭で余分な備蓄は持たず、それぞれが互いに扶けあって暮らしているのが普通でした。

実は今日、近所にある神社の宮司とお話する機会があったのです。
宮司は、こんなことをおっしゃってました。

「日本という国は、
 陛下のもとに
 みんなが共同体として
 生活していたのです。」

日本は、もういちど、日本の心を取り戻すための勉強を、しなおさないといけないのかもしれませんね。
冒頭にあるような、子供たちの明るい笑顔のある日本になるために。

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在日のタブー☆朝鮮進駐軍☆


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日本軍の蛮行といわれる事件

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スマトラ島
スマトラ島


日心会MLで紹介された話からの転載です。

~~~~~~~~~~
スマトラ島南東部のパレンバン市の南西部バリサン山脈の山すそに、デビンティンギ市があります。

この市には終戦の年の日本とインドネシアの衝突事件の記念塔が立っています。
この記念日の特集としてインドネシアタイムス(英字新聞)が、1976年春次のような記事を載せました。

-------------------------
終戦の年の12月13日、テビンティンギ市で女子供を含めた数千人のインドネシア人が虐殺された。
殺したのはイギリス軍でもない。オランダ人でもない。日本軍だ。
理由もなく突然多数の戦車を先頭に立てて乱入して殺戮した。
-------------------------

この記事に対して、当時近衛師団渉外部のインドネシア係としてこの事件の収拾に当たった当時者である総山孝雄さんが、

「一部終始を詳細に知っているが、これはまったくの虚報である」ということで、反論をしていきます。

また同時のこの報道にはインドネシア側の歴史家も疑問を提示します。

独立戦争の勇士で、戦後スマトラのメダン地区独立戦老兵会の会長であり、独立戦史を研究していたニップカムリ氏です。

それで、このインドネシアタイムスで、この報道をした責任者である編集者ユヌマ氏も参加して、このデビンティンギ事件の真相を究明する作業がすすめられてきました。

その結果、その真相が次の書物に記されています。

~~~~~~~~~~
北スマトラ州戦史編集検討会編
「北スマトラにおけるインドネシア独立戦史」
~~~~~~~~~~

この本の中のB3項に、この事件の経過が詳しく述べられています。

これが大変に長い文なわけで、全文掲げるわけにはいかず、私が勝手に以下要約します。

-----------------------

インドネシアでは戦後独立を宣言し、スマトラ島でもメダンにおいて独立が宣言がされた。

しかしもともとインドネシアを植民地支配していたオランダ軍と、これを支援するイギリス軍が迫ってきた。

インドネシア共和国軍やインドネシア青年党は、それらと戦うために武器を必要としていた。

そこで降伏した日本軍の持っている武器をぜひ手に入れたいと考えていた。


こうした情勢下で、昭和20(1945)年12月13日にテビンティンギ事件が発生した。


その月のはじめ、英軍司令官の命により、中島司政長官、メダン市長、北スマトラ宗務部長、鉄道部長と薄金文化部長等、家族同伴の一行と、護衛の日本兵、あわせて40名が、列車に乗ってキサラン近くの農園に向かっいます。

テビンティンギのプシンド(都市地域武装社会主義青年党の略称)の指導者は、テビンティンギ駅でその汽車を止めて武器を奪う計画を立てます。

12月11日、到着した汽車を、武装した青年たちが包囲した。

武器を渡すように要求したが、日本の指揮官はこれを拒否する。当然です。

両社は、長い時間対峙する。

しかし日本側には、婦女子もいます。
やむなく中島長官は、15時に降伏し、15時30分すべての武器がプシンド側に引き渡された。

このときプシンドの青年たちは、日本の将校4人を人質としたのだけれど、そのうちのひとり、深尾大尉を殺してしまった。


同じ日の日の夕方、宮川中尉によって警備されていたグヌンパメラの食料倉庫が、青年たちに取り囲まれます。

彼らは見知らぬ他所者に指導されていた。

青年たちが迫ってくるので、宮川中尉はバヒランの連隊長に電話して、暴徒に対する射撃の許可を要請します。

電話で沢村少将は、
「話せば判る。われわれの兄弟であるインドネシア人を殺してはならん。話し合いで解決せよ」と答えた。

この二人の会話がまだ終わらないうちに、青年たちは電話線を切断してしまいます。

宮川中尉は部下に、武器を下に置くように命令した。

青年たちは、日本兵から武器を取り上げると、蛮刀と槍で、一斉に宮川隊に襲いかかり、宮川中尉以外の日本人をすべて殺してしまいます。
(宮川中尉は頭をたたきわられたが、瀕死の状態で倒れていたところを翌朝、農民に助けられた。)


翌、12月12日午前9時、前の日に列車阻止での指導していたアミルタアトナスティオン(テビンティンギのプシンドの長)は、ほかの指導者とともに、バラヒンの沢村少将に会いに来ます。

アミルタアトティオンは
「所有する武器全部を渡して貰いたい。さもないと2千人のインドネシアの青年たちは、このバラックを攻撃し、皆殺しにします」

沢村少将の部下中村副官は、この申し出を拒否すると、昨日のテビンティンギ駅での彼らの略奪・暴行に抗議し、その列車の深尾大尉ら40名がどうなったかを尋ねます。

アミルタアトは、もう殺してしまっているのだから答えようがない。


ここで日本軍もテビンティンギの様子を探ります。

すると、昨夜グヌンパメラの食料倉庫で、日本人16名が殺害されたている。

さらに町の日本人全てが殺されたという噂も得た。


無線は通じず、電話線も切られている。


第三大隊の妹尾孝泰少佐は、連帯本部になにか異変がおきたのではと心配し、全兵士を非常呼集して、連帯本部まで20キロを駆け抜けます。

12月13日朝、彼らは連帯本部に息を切らして到着した。


沢村少将は、自らの命令に従ったために抵抗することもできずに殺されて行った部下のことを思い、今この報復を行わないと、無限に日本人が殺戮されていくことを憂慮します。

沢村少将は、妹尾少佐に、テビンティンギのプシンドに対し、報復攻撃準備を命じ、同時に、攻撃許可を仰ぐため、師団長に無線電報を打ちます。

驚いた師団では、攻撃をやめさせるために先任参謀の室本中佐を急いで派遣する。


到着した室本中佐が現地の調査の結果は、沢村少将の報告の通りです。
そして室本中佐の報告を受け、師団は、報復攻撃を許可した。


13日午後2時、数個の小部隊を町から出る4つの出口に派遣。

歩兵1個大隊が前面に2台、背後に1台の戦車を伴って、南の方向から町の中に進撃した。
このとき大隊には大砲もあったのだけれど、一般市民が犠牲になるのを畏れて使用しなかった。

攻撃はこのように用心深く行われたが、やはり錯誤による犠牲は避けられなかった。

日本軍は果敢に攻撃し、至るところで女子供までが犠牲になった。

(・・・これは、あくまでインドネシア側の記録です。
 「至るところで女子供まで」というのは「事実ではない」と総山氏は言っています。)

整然と行われる日本軍の正規攻撃の前に、プシンドは簡単に敗北します。

しかも過激な指導をした者は、ジャワから来た煽動者(スパイ)だった。
そのことを市民から伝えられれ、自分たちが騙され、利用されただけと知ったプシンドは、一斉に町から逃げ出してしまった。


しかし、一部の青年たちがテビンティンギに戻り、日本軍から街を奪回しようと戦った。
戦いは17日まで続き、多くのインドネシア青年が亡くなった。


12月14日、日本軍渉外部の総山孝雄は、インドネシアの総督代理マハラジャソアンクポンと会い、事態の収拾を協議します。

そして、この不幸な事件で利益を得るのは、オランダのみだということで意見の一致を見た。

ふたりは、事件をすぐ終わらせるために、全党派の会合の必要であると申し合わせ、
インドネシア政府代表
諸党派の代表
日本軍の代表(総山孝雄)が、事態収拾のためにテビンティンギへ赴きます。

だが、日本軍の沢村少将は、彼の無抵抗命令を忠実に守って殺されていった部下に対してプシンドがやった残忍な処置を許せない。

インドネシアの政府代表者も、諸党派の代表も、沢村に何も言うことができません。

あきらかに非は、プシンドの青年たちにあり、沢村の主張が正当であるからです。

総山は、夜半単独で、沢村と会い説得します。

「閣下、報復しなければならい理由がある事を、私は判っています。
日本の兵士に対する殺戮を憎むことは私も閣下と同じです。

しかしながら、もし閣下がこの報復を続けて独立運動を妨げるなら、インドネシア国民はこの事件が起こった本当の理由を自国民には報道しないで、閣下が一方的に残酷な殺戮を行ったという報道を流すでありましょう。

そうなったら、彼らはいつまでもわれわれ日本人を、恨むことになります。

わが民族の悠久の大義に基づいて今後の永い友好関係のために、閣下の怒りを静めて下さい。

インドネシア青年たちがこれ以上日本人を殺さなければ、日本軍は報復を止めるという事を布告してください。

われわれは心の中ではインドネシアを愛し続けているけれど、敗戦により軍事行動を禁じられている我々は、公然と独立を助ける事はできない。

我々はインドネシアの独立を助けたいのが、必死に我慢しているのだという事を告げて下さい。

我々は、インドネシア人がこれ以上日本人を殺さない限り、インドネシア人を攻撃したり、インドネシアの独立を妨げる事は決してない事を、布告してください・・・」


総山の必死の説得に、沢村少将は、納得します。

12月17日、東スマトラ代表の命令として、トンクハファスはテビンティンギの青年党に戦闘の停止を命令した。


以上見たとおり、この事件は、インドネシア青年の度を越えた革命精神により起こったものです。

その結果、インドネシア共和国の大切な国民保安隊や青年党までも大打撃を受けた。

革命精神の性急さのために、却って革命が打撃を受けてしまった事件でもあります。

大戦に敗れ降伏した後にも、日本軍はインドネシアの独立戦争に同情していた。

にも拘わらず、インドネシアの青年の一部により残酷な方法で仲間が殺されることには、我慢はできない。しかも一方的な虐殺です。


メダンの共和国の指導者たちは、当初この事件をそれほど重大視していなかったといいます。

しかし12月18日になって、その全容が判ると、大きなショックを受けてしまった。

共和国政府は、政府の同意を求める事なく、勝手に行動した共和国の青年たちを非難しています。

また東スマトラインドネシア国営通信社は、テビンティンギの青年たちは、強盗の刑事犯であるとして、以下の声明をだしている。

「日本軍はインドネシア人の敵ではないから、事件が起ってもインドネシア人との争いの激化を望まないという事を、われわれは確信せねばならない。

この日本によって与えられた好意を勝手な行動で裏切らないように、東スマトラの全インドネシア人は肝に銘しなければならない。」



なるほど、冒頭に記したように、
「数千人のインドネシア人が、日本軍によって殺された」
「多数の戦車を先頭に立てて乱入した」

これは「事実」です。

しかし、それにはキチンとした理由があった。

そして日本軍は、その都度、きちんと中央に許可を求めて意思決定を仰いで行動している。
終戦後なお、日本軍は、軍規をきちんと守りぬいていたのです。

この事件で、日本軍が何の理由もなく、攻撃したのではないことは、現代のインドネシアが公式に認めていることです。

世界でもっとも軍規に厳しかった日本軍は、どこまでも真正直でどこまでもきちんとした武軍隊だった。

そんな軍隊は、世界中どこを探したってなかったのです。

帝国軍人をChinaやロシア兵と一緒にするな!と思った方
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未帰還兵 スマトラ 2006年1月

下にある動画は、インドネシア歩兵5連隊伍長(当時)であった高須茂男さんです。
彼は、戦後もインドネシアに残り、インドネシア独立戦争に参加した。
当時高須さんと行動を共にした日本兵は1千名ほどいた。2006年1月時点で、残留している元日本兵は、8名。高須さんは、そのなかのひとりです。
インタビューに答えて、高須さんは血を吐くような言葉で、次のように話されています。

「日本は負けたんですよ。負けた国の兵隊が通常で帰れますか。」
「私は、中隊でひとりだけ、ここに残りました。」
「自分の国が負けたら、どうしますか? 死ぬか生きるかだけでしょ?」
「インドネシアに日本がはいってきたのはなんでかといったら、東洋平和のためにはいってきたんですよ。ところが日本が負けて、私たちは何になりますか。道は死ぬだけでしょ。」
「日本がどうして負けたのかと、私たちは信じていなかった。私はそのとき18歳だった。女も知らなかった。純情だった。それだけですよ」


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関東大震災の記録

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関東大震災で焼け野原となった横浜市
関東大震災で崩壊した横浜市


日心会のMLに掲載された記事からのご紹介です。

関東大震災というのは、大正12(1923)年9月1日午前11時58分に関東地方で発生したマグニチュード7.9の巨大地震による災害です。

地震の震源地は、相模湾北西沖80kmです。

震災は、千葉県・茨城県から静岡県東部までの広い範囲に甚大な被害をもたらし、日本災害史上最大の被害が発生しました。

被害の概況は次の通りです。

死者・行方不明者 14万2800人
負傷者   10万3733人
避難人数  190万人以上
住家全壊  12万8266戸
住家半壊  12万6233戸
住家焼失  44万7128戸(全半壊後の焼失を含む)
その他   868戸

地震の発生時刻は、ちょうどお昼どきでした。
炊事の時間帯であったことから、合計136件に及ぶ複数の火災が同時発生し、これに折から能登半島付近にいた台風の余波による大風が重なったのです。

火は、火災旋風を引き起こしながら広まり、鎮火したのは2日後の午前10時頃です。
被災した市内の気温は、この間、ずっと40度を超えるものとなった。

東京市内の建造物の被害としては、凌雲閣(浅草十二階)が大破。建設中だった丸の内の内外ビルディングが崩壊。ここでは作業員300余名が一瞬で圧死しています。

また、大蔵省、文部省、内務省、外務省、警視庁など官公庁の建物や、帝国劇場、三越日本橋本店など、文化・商業施設の多くも焼失しました。

古本街で知られる神田神保町界隈や、東京帝国大学図書館なども類焼で壊滅。
多くの貴重な書籍も失われています。

震源に近かった横浜では、官公庁やグランドホテル・オリエンタルホテルなどが、石造・煉瓦作りの洋館であった事から一瞬にして倒壊しています。
内部にいたものは逃げる間もなく圧死した。

さらに火災によって外国領事館の全てが焼失しています。
工場・会社事務所も90%近くが焼失した。

千葉県房総地域では、北条町で銀行の建物が2棟、辛うじて残った以外は、郡役所・停車場等を含む全ての建物が全壊した。
測候所や旅館などが、地割れした亀裂の中に呑みこまれた。

地震以後も気象観測を続けた東京の中央気象台では、1日21時頃から異常な高温となり、翌2日未明には最高気温46.4度を観測しています。

その気象台にも大規模な火災は迫り、ついに気象台自体も、燃えてなくなった。

この結果、関東大震災では、190万人が被災、14万人余が死亡あるいは行方不明になったのです。

建物被害は、全壊が10万9千余棟、全焼が21万2千余棟です。

さらに太平洋沿岸の相模湾沿岸部と房総半島沿岸部は、高さ10m以上の津波が発生しました。

神奈川県根府川村(現、小田原市の一部)の根府川駅では、その時ちょうど通りかかっていた列車が、駅舎・ホームもろとも土石流で海中に転落した。100人以上が一瞬にして亡くなり、さらに村も山崩れによって壊滅しています。


震災発生の8日前に、加藤友三郎内閣総理大臣が急逝しています。つまりこのとき、内閣は総理不在の状況だった。

しかも時は大正時代です。
テレビはおろか、まだラジオすらなかった。

報道集団は、新聞だけです。

ところが肝心の新聞社は、東京に一局集中し、地震発生によって活字ケースが倒れて活字が散乱し、印刷機能が停止してしまう。

さらに大火によって東京日日新聞・報知新聞・都新聞を除く13社がすべて焼失しています。

最も早く復旧した東京日日新聞が9月5日付夕刊を発行するまで、報道機能も完全に麻痺したままとなった。
それまでは、かろうじて印刷機が残った新聞社の支所が、必死で号外を打ち続けています。

通信・交通も途絶。

首都圏は、完全に孤立した状態です。

このような状況のもとで、朝鮮人たちが「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」という噂が飛び交った。

時の警視総監・赤池濃は、「警察のみならず国家の全力を挙て、治安を維持」するために、内務大臣・水野錬太郎に「戒厳令の発布を建言」します。

戒厳令というのは、いっさいの法の執行を停止して、すべてを「軍の管制下におく」というものです。

これを受けて内務省警保局長後藤文夫が、各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電しています。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。

既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」

更に警視庁からも戒厳司令部宛に

「朝鮮人の中の不逞の挙について、放火その他凶暴なる行為に出る者ありて、現に淀橋・大塚等に於て検挙したる向きあり。

この際これら朝鮮人に対する取締りを厳にして警戒上違算無きを期せられたし」

つまり、関東大震災の被害の最中にあって、多くの朝鮮人達が暴徒となり、日本人の生存者を片端から襲い始めたのです。

本来、震災の直後にあっては、互いに助け合って、被災者の救助にあたったり、火災の延焼を防ぐため、みんなで力を合わせたり、あるいは怪我人を介抱し、生き残った老人、婦女、子供たちの安全を図り、みんなで協力して食料の確保や情報ルートの確保にあたらなければなりません。

多くの生き残った日本人たちが、そうして互いに助け合おうとする中で、朝鮮人達は、みんなと一体となって助け合うどころか、逆に暴徒と化し、日本人を襲い、食料を奪い、暴行を働き、あるいは人殺しをし、婦女を強姦した。

当然、混乱の中で、多くの日本人が“暴徒と化した朝鮮人”を恐れます。

若者たちを中心に、当然自然発生的な自警団も生まれた。

街の安全を確保するために、各所に関所なども設けた。

朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として追い払った。

なかには方言を話す地方出身の日本内地人や聾唖者が、こうして追い払われたというケースもあったろうことも、容易に想像できます。

これについて、方言の強い内地人(日本人)や聾唖者が「殺害された」と書いている本等もありますが、ではそのとき殺害されたのは「誰か」となると、なんの記録もない。
一般的に考えて、自警団が設けた関所では、ガギグゲゴの発音ができない者は、「ここを通るな!」とやったろうし、集団でそこを強行突破しようとする者があれば、当然、そこでもみ合いの喧嘩が起こったということは容易に想像がつきます。
しかし証拠もないのに、一方的に「殺された」と書いているものは、冷静に考えて、やはり疑問があるといえます。

ただし、日本人自警団が、攻撃は最大の防御と考えて、朝鮮人を襲ったりしたケースは、当然にあったであろうと思います。

横浜の鶴見警察では、署長の大川常吉が、保護下にある朝鮮人等300人の奪取を防ぐために、1000人の群衆と対峙し、

「朝鮮人を諸君には絶対に渡さん。
この大川を殺してから連れて行け。
そのかわり諸君らと命の続く限り戦う」と群衆を追い返したといいます。

さらに大川所長は、「毒を入れたという井戸水を持ってこい。その井戸水を飲んでみせよう」と言って一升ビンの水を飲み干している。

軍隊でも同様に、多くの朝鮮人を保護しています。

また警察は、朝鮮人・中国人などを襲撃した日本人を逮捕しています。
殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んでもいる。

しかし、そうした日本人自警団の動きより前に、昔の新聞報道を見ると地震につけこんで朝鮮人が暴虐の限りを尽くしていた事実を、まず承知する必要があると思います。

小樽新聞 大正12年9月3日号外第一
 「朝鮮人、隊をなして石油・爆弾使い放火」

小樽新聞 大正12年9月3日号外第三
 「朝鮮人、各所暴動検束数千名」

大阪朝日新聞 大正12年9月3日号外
 「朝鮮人、横浜~王子放火」

荘内新報 大正12年9月3日号外第十八報
 「朝鮮人、爆弾・放火・王子横浜で軍隊と衝突」

新愛知 大正12年9月4日号外
 「朝鮮人、屋根から屋根へ放火 婦人凌辱 略奪」 

名古屋新聞 大正12年9月4日号外第二
 「朝鮮人浦和高崎に放火検挙 爆弾所持し唯氷峠列車爆破自白」

福岡日日新聞 大正12年9月4日号外
 「朝鮮人、殺人虐殺凶悪ぶり 進行中の列車に爆弾投げつける」

小樽新聞 大正12年9月4日号外第一
 「朝鮮人、爆弾・掠奪・鮮人・銃殺」

九州日報 大正12年9月4日号外第三
 「朝鮮人捕縛 爆弾其の他押収。軍隊が治安維持に出動したため、不逞鮮人は爆弾を携帯しながら各地方へ退散、鎮圧鎮静化へ」

大阪毎日新聞 大正12年9月4日号外第二
 「朝鮮人暴挙は完全取締を遂行」

最後の大阪毎日新聞では「警視庁、不逞鮮人暴動を沈静化」するだけでなく、「不逞ではない朝鮮人」保護のため、警視庁が「取締りは完全に遂行せよ」と急告通達をした事実が報道されています。
「不逞朝鮮人ではない朝鮮人」も爆弾、毒薬を疑われたからです。

警察には、繰り返し、多数の事件通報がはいった。

政府は「不逞鮮人では無い鮮人」の保護を閣議決定し、彼らを習志野に収容します。

そして政府は、「不逞な朝鮮人については、三々五々群を為して放火を遂行、また未遂の事実があるけれど、既に軍隊の警備が完成に近づきつつあるので、国民のみなさんは、恐れないでください」とも通達している。

要するに、朝鮮人たちは、関東大震災による大災害の混乱に乗じて、日本人に対して暴動・放火・強盗、強姦、殺人など、日本人相手に好き放題の暴虐を尽くした。
このことは、大東亜戦争終結直後に復員しようとする日本人に対して彼らが何をしたかをみれば、まったく同様のことを行っているという事実を見ることができます。

またごく最近に至っても、半島に観光に行った日本人女性などの観光客に対し、強姦や暴行を働いている、あるいは、最近においても日本国内で彼ら朝鮮人が行う凶悪な暴行・強姦事件があとを絶たず、結果、刑務所に服役している凶悪犯の圧倒的多くが彼ら朝鮮人であり、朝鮮から帰化した日本人であることをみれば、よほど神経の鈍感な人でも、彼らがどういう民族であるかがわかろうというものです。

関東大震災当時、特に横浜方面から品川にかけて、朝鮮人達が、大挙して日本人に襲い掛かり、抵抗する男性を片端から残虐な方法で殺害。女性を強姦し、殺害した。

深川、墨田エリアでは、どうみても火災が起きるはずのない場所で、爆発や火災が発生してもいる。

震災の混乱に乗じた朝鮮人の暴徒に、当時の日本人たちは、やむなく自警団を作ります。
そうしなければ、危なくておちおち寝てもいられない。

不思議なことに、この朝鮮人の暴動に関して、当時日本に多数いた台湾人など、朝鮮人以外の外国人に関しては、まるっきりこの手のトラブルが起きていません。瞬間湯沸かし器のように、いきなり沸騰して日本人を襲い始めたのは、朝鮮人だけです。
このことも当時の記録にあきらかな事実です。



さて、関東大震災からやがて30年が経ち、ひとびとの記憶から朝鮮人の暴行の記憶が薄れはじめた昭和28年ごろのことです。

この関東大震災における朝鮮人暴徒事件に関して、ふたたび問題が再燃します。

関東大震災のとき、朝鮮人達がいわれなく6000人も殺された、というのです。

戦後、日本にいた朝鮮人達は、GHQによって準戦傷民族の地位を与えられました。
そして朝鮮戦争の勃発によって、大量の朝鮮人達が日本に来日した。
そこへ、戦前逮捕されていた共産主義者たちが牢屋から出てきて、日本人が関東大震災時に、朝鮮人6000人を殺害したと、いい加減なデマを流しはじめたのです。

6000人という数字すら、なんの根拠ももたない。
いきなり降ってわいたような数字です。

それをいうなら、彼ら朝鮮人によって、どれだけの日本人が殺害されたのか。
関東大震災は、震災そのものによる死亡者よりも、その後の人災によるものが20倍の被害を発生させているといいます。その20倍というものが、彼ら朝鮮人によるものだというのなら、朝鮮人による日本人被害者は、13万人ということになります。
けれど、そんな議論をすること自体が不毛でしかない。

朝鮮人たちは、自分たちこそが被害者であると言う。裏返しにいえば、日本人は、差別主義の悪逆非道者であるという。

しかし事実は、上に示したように、悲惨な大震災を奇貨として、不逞な朝鮮人達が無抵抗の日本人を相手に、略奪、暴行、強姦、殺人の限りを尽くし、甚大な被害を発生させた。

これに対する対抗措置として、自然発生的に街の自警団ができあがり、暴徒と化した朝鮮人達から普通の市民を守ろうとした。これが実際に起こった出来事です。

要するに、朝鮮人達が、ふつうに、被災した日本人とともに、互いに助け合い、被災者の救助や街の復興に普通に協力していれば、そもそも何の問題も発生していない。
このことが重要なのです。

現に、朝鮮人以外の外国人に関しては、まったくこうした暴徒問題は発生していないのです。たとえば当時、首都圏には多くの台湾人がいたけれど、台湾人が震災の際に暴徒と化したなどという話は、ただの1件も発生していない。

にも関わらず、自分たちの不逞行為は棚にあげ、あたかも朝鮮人こそ一方的な被害者であると言い出し、それも、事件の記憶が薄れ、実体験した人たちがだいぶ減ってきた昭和28年ごろ・・・事件から30年も経ってから、なんの根拠もなく6000人が「殺された」とわめく。

非常に卑しい行為です。見下げ果てた行為です。

おもしろいもので、人間というもんは、過酷な極限状態に置かれたとき、それぞれの本性というか、得意なパターンの行動をとるという習性がある。

小さな例では、たとえば同一人の泥棒は、必ず毎回同じ手口をとる。
喧嘩になったとき、大声を出す人は、必ず大声を出して怒鳴るし、黙って手を出す人は、やはり毎回モノも言わずに手を出す。泣き出す人は先に泣くし、必死に説得しようとする人は、まずしゃべる。

同様に民族的にも、極限状態に置かれた民族は、たとえば
ドイツ人は自己主張する。シベリア抑留のときも同様でした。
ロシア人は、大量殺戮する。暴飲、強姦を得意とする。
Chineseは、集団となると悪趣味な残虐行為を働く。
Koreanは、火病を起こして暴徒と化し、集団で女性が死ぬまで強姦する。

これに対し、日本人は、過酷な情況になればなるほど、我が身を犠牲にしてでも、周囲を助けようとする。旧日本軍人さんたちがそうであったし、シベリアでもその傾向は顕著です。
近くは阪神大震災や新潟の地震等でも、同様の行動パターンが行われている。
むしろ自分よりまわりの人を助けようとして、多くの人が命を落としたりしています。

教育とかそういう次元の問題ではなく、これは民族的DNAのはたらきである、としかいいようがないかもしれない。

こうした傾向は、すべての○○人に当てはまるというわけでなく、当然、個体差(個人による行動パターンの違い)はあります。

朝鮮人でも、立派な人はたくさんいるし、現に関東大震災の際でも、不逞でない朝鮮人達はいた。そうした人たちは、日本の警察や軍隊が、当時、しっかりと保護しています。全部が全部ではない。

日本人にも、おかしな奴はいる。しっかりした人もいる。

けれど、それでもなお、民族的傾向性というものは、厳然として存在する。
そしてその「傾向性」は、時を超えて、なお繰り返すのです。

次は大東亜戦争中の話です。
日本軍は、China事変が始まる以前から、軍属として多くの朝鮮人を雇用していました。

China事変勃発後からは、朝鮮人にも志願制度が敷かれ、朝鮮人が正規兵として日本軍に参加した。

その頃の話です。

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「鍼灸医の体験した日本軍の香港占領」
著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993年

九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。

頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。

彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。

当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。

最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。

ところがある日、突然5~6人の「獣兵」が現れ、麻雀をしていた4人の女優を輪姦したという。

前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。

当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。

日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。

香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。

このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。

当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

日本軍が占領下にあった香港では、アヘン販売や売春市場は朝鮮人たちが取り仕切っていた。

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時代がずっと下って、昭和40(1965)年から朝鮮人が参戦したベトナム戦争での出来事です。
このときも彼らは同じことを繰り返しています。

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「私の村は地獄になった」
ニューズウィーク日本版
2000年4月12日号

韓国軍がベトナムで行った残虐行為の被害者たちが真実を語りはじめた
ロン・モロー(バンコク支局長)

韓国軍がベトナムに派兵されていたのは1965~73年。
歴史の闇に葬り去られていた虐殺の事実に再び光が当てられたのは、勇気ある韓国人研究者、具秀ジョン(ク・スジョン)が行った調査のおかげだ。

彼女は韓国軍による大量虐殺の詳細を記録したベトナム政府の文書を発見した。

生存者の証言によると、虐殺は理由なき無差別殺人であり、多くはベトコンとの戦闘が行われていない時期の出来事だった。

グエン・フン・トアイ(46)もビンスアン村の虐殺と同じころ、アンリン郡の別の村で危うく殺されかけた。

当時13歳だったトアイは、韓国軍が家に近づいて来るのを見てすぐに逃げた。

近くの畑に隠れて見ていると、韓国兵は村の家に次々と火をつけ、母親と祖父母、弟と妹、そして近所の人々に暴行を加えたという。

韓国軍は、トアイの家族を含む11人ほどの村人に銃剣を突きつけ、防空壕に追い込んだ。

残りの12人ほどは、穴の外に立たされた。

次の瞬間、何の前ぶれもなく銃声がとどろき、手榴弾の爆発音が空気を引き裂いた。
トアイはとっさに頭を隠した。

硝煙が消えたとき、すでに韓国軍の姿はなかった。トアイは急いで家族がいた場所へ行った。

防空壕の前には、穴だらけになった血まみれの死体が並んでいた。

防空壕の中も、誰かが生きている気配はまったくなかった。

トアイは恐怖に駆られて逃げ出した。戦争が終わった後も、ここへ戻ることはできなかったという。

「みんな、村を離れたくなかった。私たちにとって、家や土地や水田はかけがえのないものだ」。トアイはそう言って泣きだした。
「でも、立ち去るのを渋った人間はみんな殺された。連中は村をめちゃくちゃに破壊してしまった」

こうした残虐行為の結果、多くの人々がベトコンの陣営に加わった。


67年、16歳のときに父親を韓国軍に殺されたブイ・タイン・チャムもその1人だ。

チャムは数人の韓国軍がアンリン郡の家に押し入る直前、裏口から脱出した。

韓国兵は70歳の年老いた父親を捕らえ、防空壕に押し込むと、すぐに手榴弾を投げ入れた。
チャムは日が暮れてから村にこっそり戻り、崩れた避難壕を掘り返したが、「肉片しか見つからなかった」という。

それから数週間、物ごいをしながらさまよったチャムは、山岳部にこもっていた共産ゲリラに加わる決意を固めた。

「父を殺した奴らに復讐したかった。韓国兵が村でやったことを見た以上、そうせずにはいられなかった」


グエン・ゴク・チャウは83歳になった今も、憎しみを忘れていない。

67年5月22日、フーイェン省ホアドン郡のミトゥアン村で農業をしていたチャウは、たまたま親戚のいる近くの村に出かけていた。

そこへ前夜、韓国軍が村を攻撃したという知らせが届いた。

大急ぎで帰ったチャウが目にしたのは、村人が井戸からバラバラになった遺体を引き揚げている光景だった。犠牲者のなかには、妊娠中の妻と4人の子供も含まれていた。

虐殺を隠れて見ていた老人の話では、韓国兵は女性や子供を井戸に落とし、助けを求める声を無視して手榴弾を投げ込んだという。

チャウは、盛り土をしただけの簡単な墓に家族の遺体を葬った。

「殺されたのは女や子供ばかりだ。共産主義者なんかであるわけがない」と、チャウは言う。「韓国人は人間じゃない。目の前に現れたら、首を切り落としてやる」

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過去の歴史を虚心に振り返ったとき、明らかな事実として、また現代を生きる私たちへの重要な教訓を教えてくれます。

つまり、歴史は繰り返す・・・からです。

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関東大震災の記録 (大正12年9月1日)


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そよ風さんの年末イベントへの参加御礼と今後の保守活動ならびに遺骨収集について

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昨日、そよ風さんの年末イベントに参加させていただきました。

短時間ですが「大東亜戦争に勝利した日本」というテーマで講演をさせていただき、また、昼食時に、映画「凛として愛」の泉水監督、東条由布子さん(東条英機のお孫さん)、ブログ「世界は腹黒い」の花うさぎさん、そよ風代表の涼風さんとの会食などもさせていただきました。

また、チャンネル桜の水島社長、在特会の桜井氏とも、膝を割ってお話させていただきました。

また、村田春樹氏、西村幸裕氏、日本を愛する市民の会の黒田氏、その他、数多くの保守会派の皆様と、親しくお話させていただく機会を得ることができ、たいへんありがたく、感謝申し上げております。

いただいた名刺だけで、厚さ1cm!

お会いした皆様方に、心から感謝申し上げますとともに、素晴らしい機会を与えてくださったそよ風の皆様方、会場の案内や書籍販売、タイムキーパー、司会、案内役等、さまざまなお仕事をこなしていただきました皆様に、心から御礼を申し上げたいと思います。

さて、日心会の皆様方、そしてこのブログに集っていただいている皆様方に、2つのことをご報告させていただきたいと思います。

昨日、会の途中で、水島社長と靖国参拝をご一緒させていただきました。

その際、保守の活動として絶対に必要な3つの基軸について、お話させていただくことができましたので、その内容をすこし、お伝えしたいと思います。

現在の日本は、まことになげかわしいことながら、保守は、すでに少数派になってしまっています。この共通認識に立ったうえで、いま保守が、本来あるべき日本を取り戻すためには、以下の3つの行動が必要というものです。

その1「行動保守」(行動的)

・・・街宣デモ、政治的反対運動、在日外国人達に対する抗議活動等を行う、行動する団体です。
簡単にいえば、これがなければ、保守は舐められる!
保守の民意を世間に伝えるには、やはり「行動」は必要です。
現在この分野で先頭に立っているのが、在特会であり、主権回復会などではなかろうかと思います。

その2「政治保守」(政治的)

・・・政治家を巻き込み、政治から保守を実現する動きです。
著名な政治家を筆頭に、保守の考える道義国家の建設に向けて寄与するとともに、外国人参政権等、左翼・反日が行う各種売国法案に対し、反対運動を行い、同時に日本精神復活のための教育の見直し等を実現していく。
これを直接または間接に支えるのが、政治保守の役割です。
現在、水間氏、チャンネル桜の水島社長等が、この矢面に立っておいでになります。

その3「情緒共感保守」(情緒的)

・・・いくら日の丸を押し立てて街宣をしても、保守系政治家が活動しようとしても、それを支える世論が味方となっていなければ、すべては水泡に帰してしまいます。
「政治保守」がある意味、日本というピラミッドを上から変えようとする動きなら、情緒共感保守の活動は、それを草の根活動での民意や世論の覚醒という動きで支える・・・つまり、保守の裾野を広げるのが、最大の役割です。

これは「理論派保守」とは異なります。理論はときに保守内部で深刻な対立を生んでしまいます。理屈は喧嘩になりやすい。
これに対して「情」は共感を生み、人を行動に駆り立てる原動力になります。

「言ってるだけ保守」とも異なります。ひとたび「憂国の情」に目覚めた人たちは、街宣に出ることもあるし、政治運動もする。その意味で従来言われる「周知型保守」とも異なります。
「批判」を目的としていないからです。
あくまでも「情」の共有を目的としている。

たいせつなことは、日本を守りたい、日本を愛するという「情」を共有することです。
そういう人たちを次々に増やしていく。

要するに、いくら行動しても、いくら政治を変えようとしても、それを支える世論が、左をむいたいたのでは、おはなしにならない。

だからこそ、世論そのものを育成していく。そのために「情」を共有する。

この活動に焦点をあてているの日本の心をつたえる会です。
他の保守系会派の方々の日心会への最大の期待はここにあり、また日心会自体の目的も、まさにここにあります。

日心会では、自分たちのことを「ゆるゆる保守」と呼んでいます。
「ゆるゆる」でいいのだと思っています。

尖鋭化したらいまの世論は受け入れない。最初からシャットアウトされてしまいます。
おだやかに、ゆるやかに活動する。

左翼・売国・反日勢力は、戦後64年かけて、日本をここまで骨抜きにし、左傾化させたのです。
それをひっくり返すのに、半年や1年ではとても無理です。時間はかかる。

しかし時間がかかっても、誰かがやらなければ、日本はますます左傾化するどころか、日本はなくなってしまう。
陛下が特アに朝貢にいくなんて姿は、絶対に許すわけにはいかない。

だからこそ、早く、大きく、保守の情を日本に取り戻さなければならない。

もちろん政治保守が街宣をすることもあるし、情緒面での拡散活動をすることもある。
行動保守が、情に訴えることもあるし、政治活動をすることもある。
情緒保守が、政治活動をすることもある。
三者は、重なり合ってそれぞれの活動をすることになるのではないかと思います。

しかし、その活動のどこに重点があるかによって、やはり会の志向性は決まってくる。

日心会は、とにもかくにも、「情」を共有し、日本の歴史・伝統・文化を守ろうとする保守派を増やします。

そして上にあげた3つの活動は、それぞれその活動なくして、日本の再生はあり得ない。そう思っています。


つぎに、遺骨収集の件です。

東条由布子さんが、長年、パラオの遺骨収集活動をご担当されています。

ここで今年、元米海兵隊の方のご協力を得て、亡くなられた帝国軍人の方が埋められた場所が、新たに発見されたそうです。
穴は2つあり、ひとつには、4~500体。もうひとつには4000体ほどのご遺体が埋められている。場所は金属探知機で、確認されたといいます。

来年は、厚生労働省の協力も得て、このご遺骨の発掘を予定されているそうです。

しかし、戦後64年を経過し、当時軍人だった方々は、すでに90歳前後のご高齢となり、後を継ぐ者たちが、なかなか育っていない。

日心会は、日心八策において、このご遺骨収集と慰霊の旅への全面的なご協力を会の指針としています。

そこで、パラオのご遺骨収集と慰霊の旅について、日心会として全面的にご協力させていただこうと思います。

詳細は、まだこれから詰めることになりますが、他の保守系会派の皆様とも一致協力して、このことを進めてまいりたいと思います。

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断固抗議!南京の歴史捏造を許すな!

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まずは、ニュース記事から・・・・

≪記事引用≫--------------------
「南京で大虐殺」認定 規模は今後の課題 日中共同研究
 asahi.com
 http://www.asahi.com/national/update/1223/TKY200912230377.html

日中両政府が進めてきた有識者による初の日中歴史共同研究の報告書の内容が明らかになった。1937年の南京大虐殺は「大規模な虐殺行為」との認識では一致したが、犠牲者数は今後の研究課題とした。一方、日本の途上国援助(ODA)が中国の発展に貢献したと評価。共同研究の日中両座長は「相互理解を促進する第一歩」と位置づけている。

報告書は「古代・中近世史」「近現代史」の2部構成で、同じテーマに関する日中双方の論文を収録している。

近現代史の「総論」によると、日中全面戦争の発端となった37年の盧溝橋事件について、日本側は事件の「偶然性」を、中国側は事件発生の「必然性と計画性」を重視。毒ガス兵器の使用や市民への無差別爆撃など、日本軍の中国での侵略の傷跡が今も残っているとの考えで一致した。

南京大虐殺については「大規模な虐殺行為であることを認めこれを討論した」と明記。ただ、規模、原因、背景などについては「深く追究する必要がある」とした。

虐殺の規模をめぐっては、中国の大虐殺記念館が「30万人」と表示。日本の研究者の間では「数万~20万人」などの諸説があり、虐殺そのものを否定する研究者もいる。日本政府は「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」としつつも、犠牲者数について「諸説あり、政府として正しい数を認定することは困難」との見解を示している。

戦後の歴史については、日中双方が、日本が新憲法のもとで平和国家として歩んだことを肯定的に評価。靖国神社参拝問題や日本の歴史教科書問題などについては、今後研究する必要があるとした。

共同研究は、小泉純一郎首相(当時)が靖国神社に参拝し、日中関係が悪化したことを踏まえ、2006年10月に安倍晋三首相(同)が中国の胡錦濤(フー・チンタオ)国家主席と合意。日中それぞれ10人の有識者による委員会が設けられ、座長は日本側が北岡伸一・東大教授、中国側が歩平・社会科学院近代史研究所長が務めた。両政府は研究を継続することで合意している。(東岡徹)

---------------------------------

ありもしない南京虐殺などについて、愚図愚図言う前に、中国政府は、現実に存在し、当時世界的に報道までされている歴史的事実の「通州事件」、「尼港事件」、「済南事件」について、日本に謝罪と賠償をすべきです。

上記記事によると、日本側の座長は北岡伸一東大教授とあるが、その北岡教授については、2007年5月号「正論」に、「日中歴史共同研究」に関する八木秀次氏と藤岡信勝氏の論文が載っています。

その中で北岡伸一教授は、

「日本は朝鮮に悪いことをした。」
「日本は拉致以上にひどいことをした。」
「拉致をこれ以上追及してはいけない。」
「中国を侵略した事実、中国人民に多大な苦痛を与えた。否定するつもりは毛頭ない。」

などなど、とんでもない売国発言をしている。

では、聞くが北岡教授は、「通州事件」、「尼港事件」、「済南事件」について、どう考えているのか。

本件について、断固、抗議すべし!です。

<抗議先>

外務省
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/china/rekishi_kk.html

〒100-6011
 東京都千代田区霞が関3-2-5 霞が関ビル11F
 財団法人 日本国際問題研究所(The Japan Institute of International Affairs)
 日中歴史共同研究 日本側事務局

 【連絡先】

 事務局長 若山 喬一
 電話:03-3503-7795
 e-mail:k.wakayama@jiia.or.jp

 事務局長補佐 畑野 勇
 電話:03-3503-7802(内線233)
 e-mail:hatano@jiia.or.jp

<抗議例>

①シナの嘘を許すべきでない。捏造史観を国際社会ルールにすべきでない。

②規模、原因、背景に未だ追究の余地があるくらいはっきりしていないのに、「大規模な虐殺はあった」というのは矛盾である。

③南京攻防戦は、軍服を脱いだ国民党軍が民間人にまぎれて逃走した。
そういうのを 掃討戦で討伐するのも虐殺になるのか疑問である。

④遺骨 ・殺害方法 の証拠があるのか?
また、そのとき共産党軍・国民党軍は何をしていたのか? 放棄したのか?見捨てたのか?

⑤そもそも虐殺の定義とは何か?
むごたらしい方法で殺すことであり、戦争含めあらゆる 争いにおける死はみんな虐殺である。何故、南京だけわざわざ大虐殺と呼ぶのか?

⑥「通州事件」、「尼港事件」、「済南事件」についての歴史認識は、どうなっているのか?


≪抗議文例-1≫

日中歴史共同研究の報告書において「南京で大虐殺」認定について一国民としてこれに抗議します。

朝日新聞によれば、南京大虐殺について「大規模な虐殺行為であることを認めこれを討論した」と明記すると報道されていました。

しかし日本の研究者の間では「数万~20万人」などの諸説があり、虐殺そのものを否定する研究者の方が、数の上でも圧倒的です。

にもかかわらず「日本政府は、多くの非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」と認定する根拠は何なのか。

歴史認識というものは、客観的「事実」に基づくべきもので、主観や思いこみによるものではないはずです。

そもそも南京事件(虐殺とされるもの)において規模、原因、背景などについては「深く追究する必要がある」としてあるのに何故「多くの非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できない」のか。

虐殺された被害者とされる人々も戦時国際法を無視した便衣兵(ゲリラ)を掃討戦で討伐したものも含まれたり、南京戦以前の日中双方多数の死傷者を出した上海戦において多くの国民党軍の負傷兵が南京に後送されそこで陣没し埋葬されているがそれらを虐殺の被害者とされている可能性がある。そのあたりの検証はされているのか?

何故、国民党も中国共産党も南京陥落時から終戦後の東京裁判に至るまで大々的に世界にそれを訴えなかったのか?

もし本当に大虐殺なるものがあったとするならば、当事アメリカやドイツなと世界中の記者もいたのに何故それを問題にしなかったのか。

蒋介石も毛沢東も南京戦終了後に大虐殺なるものに対する抗議を行っていないのは何故か?

また、南京事件といわれるものは殊更に取り上げるに、何故日本人が明白な被害者である「通州事件」「尼港事件」「済南事件」は全く研究されないのか。

そして日本の政府・外務省・有識者なる日本の代表は、何故自国のみを断罪し先人達に謂われのない罪を被せるのか。嘘を言うことが日中友好なのか?
日本人の名誉や財産を傷つけるのが友好なのか?

日本の立場で、日本と日本人の利益と名誉を守るのが日本政府と外務省の仕事ではないのか?

以上中国の言い分ばかりが目立つ今回の日中歴史共同研究報告書を受け入れに強く抗議します!


≪抗議文例ー2≫

報道で見たのですが、中国側が主張するいわいる「南京大虐殺」について、日本側の見解として、史実として認めるとの事でした。

どのような根拠(歴史的資料として価値のある証拠)を元に史実として認定するのかは、いつ、どのような発表があるのでしょうか。

評価の高い文献等には、このような虐殺と呼ばれる事件はなかったとあるのが、国際的な常識だと思います。

また、中国側の死者人数の発表が年々増加していった事は、中国側が正確な調査すらしていない事実を示すものですが、この点、どのような認識となっているのでしょうか。

お忙しいとは思いますが、お返事いただければ幸いです。

尚、史実を捻じ曲げて、日本人を貶める悲しむべき存在が日本に在住しているとの事実はご存知かと思いますが、そのような者が史実の正確な評価などできません。

有識者の中にそのような方がいた場合、どのように抗議活動をすれば良いのか、教えていただきたく思います。

史実を捻じ曲げる事は、日本人だけでなく、中国人に無用な恨みを植えつける結果となり、世界にとって不利益だと思いますが、この点についても歴史を研究する事務局の方のご意見を伺いたく思います。


~~~~~~~~~~~~~

心ある人は、断固、抗議しよう!!

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もうひとつの大東亜戦争・・・ハバロフスク事件(3)

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ハバロフスク市
ハバロフスク市


(昨日までのあらすじ)
シベリアに抑留された日本兵たちは、祖国への思いを胸に、10年間、ソ連兵の横暴に堪えた。
しかし、日に日にソ連兵の横暴はつのる。
このままでは仲間の命が危ない。
ついに769名の日本人は立ち上がった。

----------------------


2月3日、第16収容所所長が交代しました。
マルチェンコ大佐の後任に着任したナジョージン少佐は、着任当初は、いかにも温和な態度で、彼の表現を借りれば「日本人の立場に入り込んで事の解決に努力する」と言明していました。
しかし事件の原因の説明、私たちの要求の説明という段になると、用事があるといって引っ込んでしまって出て来ない。

そして何かというと
「私は新たな立場で着任した。
 従って以前のことについては
 何も知らない。
 君らの要求に対する回答は、
 今度できた新指導部の命令がくるまで
 どうにも動けない」
と言い逃れていました。
しかも、
「作業については当分言及しないことにする」
と言明したかと思うと、3日もすると、
「作業だ。作業に出れば万事解決する」
と作業強要の態度に豹変する。

1月31日に異動してきた病院長のミリニチェンコ中佐はまだマシで、従来のソ側の非をさとり、石田らの病院関係にたいする改善要求を素直に聞きいれ、彼のできる範囲内で、真剣に改善に骨折ってくれました。
日本人軍医を信頼して、その起用を計画もしてくれました。
病人食の支給にも大いに努めてくれました。
注射、投薬等も多量に施してくれました。
入院を宜告されていたが、まだ入院できないでいる約30名のために、新たな病窒拡張を計画してくれました。
病院炊事を拡大し、医務室日本人勤務員の過労を見てとり、勤務員の増加の計画もたててくれました。
病院勤務員の手当の増額についても努力してくれました。
そしてソ連人病院勤務者の態度が一変して親切になりました。

しかし、「計画」だけでした。
「計画」されたものは、まるで実施されませんでした。
一部実施されたものも2週間たらずのうちに、また、もと通りに戻ってしまいました。
ミリニチェンコ中佐の上役である、ハバロフスク地方官憲当局者が、彼の申請をことごとく却下したからです。

ミリニチェンコ中佐がソ連側の非をさとり、どんなに改善に真剣に取り組もうとしても、彼の上司の見解、決定が変更されない限り、彼一人がいくら躍起となっても、所詮、無駄骨折りになるのです。
それが政治主導の正体です。

ハバロフスクには、中国人、朝鮮人、蒙古人がかなりの数、収容されていました。
彼らの代表が、ある時、闘う日本人を訪ねて共闘を申し込んできました。
「私たちはこれまで、
 日本人は何と生気地がないのかと
 思っていました。
 日本に帰りたいばかりに、
 何でもソ連の言いなりになっている。
 それだけでなく
 ソ連に媚(こ)びたり、
 へつらったりしている。
 情けないことだと思いました。
 これがかつて、
 私たちの上に立って支配していた民族か、
 これが日本人の本性かと、
 実は軽蔑していました。
 ところがこの度の一糸乱れぬ
 見事な闘いぶりを見て、
 私達が誤っていたことに気が付きました。
 これが日本人だと思いました。
 私達も出来るだけの応援をしたい」

石田さんは、この言葉に感激しました。
そしてこれまでの自分たちが軽蔑されるのは当然だとも思いました。
ソ同盟万歳を叫び、赤旗を振って労働歌を歌い、スターリン元師に対して感謝状を書くといった、同胞のこれまでの姿を、石田さんは改めて思い返しました。

いくつもの抑留者の手記で述べられていることなのですが、戦いに敗れて、同じように強制労働に服していたドイツ人は、収容所側の不当な扱いに、毅然とした態度をとりました。
ある手記によれば、メーデーの日に、日本人が赤旗を先頭に立てて祝賀行進していると、一人のドイツ人捕虜の若者が、その赤旗を奪いとって地上に投げ、
「日本の国旗は赤旗なのか」と怒鳴ったそうです。
このドイツ人の若者は、同じようにソ連から理不尽な扱いを受けている仲間として、日本人が共通の敵であるソ連に尾を振る姿が許せなかったのです。

しかし、自分の身よりも他人を気遣う日本人には、ドイツ人達のような行動がとれない。
自分が一線を飛び越えることで、他の日本人の仲間、他の虜囚たちに迷惑をかけることを、どうしても気遣う。
自分が暴走するのは簡単です。
しかしそのことで、仲間たちみんなに迷惑がかかったら、取り返しがつかないのです。

なぜなら、ひとりひとりに、みんな祖国の家族が待っているのです。
だから、耐えたし我慢したのです。
自分がつらいときは、他人もつらい。
だから我慢する。
そうしてみんなが一緒に日本に帰る。
だから10年間、言いなりになってきたのです。

でも日本人には、内なる力があります。
その内なる力に火がついたとき、日本人は変わります。
ひとりひとりが自らの意思で闘い、命を賭けて戦うのです。

昭和31年2月が終わろうとする頃、石田さんたちの作業拒否闘争は膠着状態となっていました。
作業拒否を宣言してから2ヶ月、中央政府に対する請願文書の送付も、現地収容所に握りつぶされているのか、まるで中央政府から返答がありません。

日本人たちの団結は固く、志気も高い。
しかし何とかこの状態を打開しなければという危機感が高まります。
石田さんたちは、知恵を絞りました。

人材には事欠かきません。
元満州国や元関東軍の中枢にいた要人もいるのです。
かつて陛下の軍隊として戦った力を、今は新たな目標に向け、新たな大義のために役立てているのです。
収容所側を追い詰め、中央政府に助けを求めざるを得ない状態を作り出す手段はないか。
そして、ひとつの結論を導き出しました。
それが「断食をする」というものでした。

収容所の日本人全体が断食して倒れ、最悪死に至ることになれば、収容所は中央政府から責任を問われます。
収容所は、そういう事態を最も恐れるだろう。
それで現状のこう着状態を打開できるかもしれないと考えたのです。
こうして全員一致で断食闘争が決まりました。
密かに計画が練られ準備が進められました。

健康で生きて祖国に帰ることがこの闘争の目的です。
断食をいつまでも続け、自滅してしまったのでは元も子もありません。
ただでさえ、みんなの体力も落ちているのです。

そこでみんなが少しずつ蓄えていた日頃配られた食料の一部や、小麦粉から密かに作った乾パンなどを、貯蔵し、秘かに断食闘争に使おうということになりました。
完全な断食によって、体力を消耗し尽くし、倒れてしまったら元も子もないからです。
そして断食闘争に入った場合、相手が変化して中央政府が何らかの行動が入るまでに、およそ一週間と見通しをつけました。

闘争代表部は、断食宣言書を作り、収容所のナジョージン少佐に渡しました。
「作業拒否以来70日が経過しました。
 この間何等誠意ある対応はみられません。
 ソ連邦政府の人道主義と平和政策を
 踏みにじろうとする地方官憲の卑劣な行為に対して
 我々は強い憤激の念を禁じ得ません。
 そこで自己の生命を賭して、
 即ち絶食によって
 中央からの全権派遣を請願する以外に
 策なきに至りました。
 3月2日以降、我々は断固として
 集団絶食に入ることを宣言します」

そして断食闘争に耐えられない病弱者を除き、506名が断食に入りました。
このような多数が一致して断食行動に出ることは、収容所の歴史にも例のないことで、収容所当局は、狼狽(ろうばい)しました。
彼らは態度を豹変させ、何とか食べさせようとして、なだめたりすかせました。

しかし日本人の意志は固い。
ある者は静かに目を閉じて座し、ある者はじっと身体を横たえて動かない。
それぞれの姿からは、死の決意が伝わり、不気味な静寂は侵し(おか)難い力となりました。

収容所の提供する食料を拒否し、乾パンを一日二回、一回に二枚をお湯に浸してのどを通します。
空腹に耐えることは辛いことです。
しかし零下30度を越す酷寒の中の作業に長いこと耐え、様々な辛苦を耐えてきたことを思いました。
そうすることでみんな堪えました。

一点、これまでの苦労との違いがあります。
これまではソ連の強制に屈して奴隷のように耐える苦労でした。
しかし今度の苦労は、胸を張って仲間と心を一つにして、正義の戦いに参加しているのだという誇りがあることでした。

一週間が過ぎたころ、収容所に異質な空気が漂ってきました。
そして3月11日午前5時、気温零下35度の冷気の静寂をただならぬ物音が打ち破りました。

「敵襲!起床!」
不寝番が絶叫しました。
「ウラー、ウラー」
威嚇の声がしました。
すさまじい物音で扉が壊されました。
ソ連兵がどっとなだれ込んできました。
「ソ連邦内務次官ポチコフ中将の命令である。
 日本人は戸外に出て整列せよ!」
入り口に立った大男がロシア語で叫びました。
並んで立つ通訳がそれを日本語で繰り返しました。

日本人は動きません。
ソ連兵は、手に白樺の棍棒を持って、ぎらぎらと殺気立った目で、大男の後ろで身構えていました。
大男が手を上げてなにやら叫びました。
ソ連兵が日本人に襲いかかりました。

ベッドにしがみつく日本人。
腕ずくで引きずり出そうとするソ連兵。
飛びかう日本人とロシア人の怒号。
収容所の中は一瞬にして修羅場と化しました。

「手を出すな、抵抗するな」
誰かが日本語で叫ぶ声がしました。
この言葉が収容所の中でこだまし合うように、あちらでもこちらでも響きました。
長い間、あらゆる戦術を工夫してきたなかで、合言葉のように繰り返されたことが「暴力による抵抗をしない」ということでした。
棍棒を持ったソ連兵の、扉を壊してなだれこむ行為は、支配者がむき出しの暴力を突きつけた姿です。
その暴力に暴力で対抗しら、もっと容赦ない暴力が引き出されることは明らかです。

だから咄嗟の事態でも、
「我慢しろ、手を出すな、全てが無駄になるぞ」
という声が日本人の間にこだましたのです。

引きずり出されてゆく年輩の日本人の悲痛な声が、ソ連兵の怒鳴る声の中に消えて行きました。
柱やベッドにしがみつく日本人をひきはがすように抱きかかえ、追い立て、ソ連兵は、全ての日本人を建物の外に連れ出した。

収容所の営庭で勝者と敗者が対峙しました。
敗れた日本人の、落胆し肩を落とした姿を見下ろすソ連兵指揮官の目には、それ見たことかという冷笑が浮かんでいました。
ソ連がこのような直接行動に出ることは、作業拒否を始めたころからずっと警戒し続けていたことです。
そして断食宣言後もずっと、中央政府の代表が交渉のために現われることを期待していました。
それが予想外の展開になったのです。

「もはや命がないのか。。。」
誰もがそう思いました。

「首謀者は前に出よ!」
石田三郎さんは、ポチコフ中将の前に進み出ました。
ボチコフは、中央政府から派遣された将官でした。
威厳を示して椅子座っています。

石田さんは敬礼をして直立不動の姿勢をとりました。
そして将官の目を見詰めました。
沈黙が流れました。
一面の緊張が漂いました。

「こいつがソ連の中央政府の代表か」と、石田さんの心には、走馬灯のように、かつて満洲になだれ込んだときのソ連軍の暴虐や、混乱、逃げまどう民間人の姿、長い刑務所での労苦、収容所の様々な出来事などがよみがえりました。
悔しさ、悲しさ、怒り・・・
こみあげる感情の中で、石田さんは、気が付きました。
ポチコフ中将の態度が、これまでのソ連軍とは何か違うのです。

石田さんは、この時ひとつのことに気が付きました。
さっきソ連兵が収容所に踏み込んできたとき、彼らは白樺の棍棒を手にしていました。
銃を使っていませんでした。

石田さんは、気づきました。
そして胸を張って発言しました。
「私たちがなぜ作業拒否に出たか、
 そして私たちの要求すること。
 それは中央政府に出した
 数多くの請願書に書いた通りです。
 改めて申し上げますと・・・」

ポチコフ中将がその言葉をさえぎりました。
「それらは読んで承知している。
 あらためて説明しなくもよい。
 いずれも外交文書としての
 内容を備えている」

「しかし」とポチコフ中将は、鋭い目で石田さんを見据えました。
「お前たち日本人は、
 ロシア人は入るべからずという
 標札を立ててロシア人の立ち入りを拒んだ。
 これはソ連の領土に
 日本の租界をつくったことで許せないことである」

これは石田さんが拉致されるのを阻止しようとする青年たちが、自分たちの断固とした決意を示すために収容所の建物前に立てた立札を指しています。
石田さんにとっては、自分が厳しく処罰されることは初めから覚悟していたことです。
驚くことではありません。

石田さんが黙っていると、ポチコフ中将は、今度は静かな声で聞いてきました。
「日本人側にけが人はなかったか」
「ありませんでした」
石田さんは続けました。
「お願いがあります。
 私たちの考えと要求事項は、
 この日のために書面で準備しておきました。
 是非ご調査いただき、
 私たちの要求を聞き入れて頂きたい。
 そのために日本人は、
 死を覚悟で頑張ってきました。
 私の命はどうなっても良いです。
 けれど他の日本人は処罰しないで頂きたい」

「検討し、追って結論を出す。」
会見は終わりました。
このあと、日本人の要求事項は、事実上ほとんど受け入れられました。
病人の治療体制も改善され、中央の病院は拡大され、医師は、外部の圧力や干渉を受けずにその良心に基づいて治療を行なうことが実現されました。
第一分所を保養収容所として経営し、各分所の営内生活一般に関しては日本人の自治も認められるようになりました。
その他の、日本人に対する扱いも、従来と比べ驚くほど改善されました。

けれど石田さん中心とした闘争の指導者たちは、禁固一年の刑に処せられ、別の刑務所に移送されました。

この事件について、瀬島龍三さんは、回顧録で次のように述べています。

「この闘争が成功したのは
 国際情勢の好転にも恵まれたからであり、
 仮にこの闘争が四、五年前に起きていたなら
 惨たんたる結果に終わったかもしれない。」

このハバロフスク事件は、昭和30年12月19日に発生した事件です。
ソ連による武力弾圧は翌年の3月11日です。

その年の12月26日、興安丸が舞鶴港に入港した。
そしてこの船で、最後の日本人シベリア抑留者1025人が、日本に帰国したのです。
ハバロフスク事件の責任者石田三郎さんの姿もその中にありました。
一足先に帰国していた瀬島龍三さんは、平桟橋の上で、石田三郎さんと抱き合って、再会を喜びあったそうです。

この事件について、ロシア科学アカデミー東洋学研究所国際学術交流部長アレクセイ・キリチェンコは、その著書「シベリアのサムライたち」の中で、以下のように語っています。

「第二次世界大戦後、
 64万人に上る日本軍捕虜が
 スターリンによって
 旧ソ連領内へ不法護送され、
 共産主義建設現場で
 奴隷のように使役されたシベリア抑留問題は、
 近年ロシアでも広く知られるようになった。

 しかしロシア人は当局によって
 長くひた隠しにされた抑留問題の
 実態が明るみに出されても、
 誰一人驚きはしなかった。

 旧ソ連国民自体がスターリンによって
 あまりに多くの辛酸をなめ犠牲を払ったため、
 シベリアのラーゲリで
 6万2千人の日本人捕虜が死亡したと
 聞かされても別に驚くほどの事はなかったからだ。

 とはいえ、ロシア人が
 人間的価値観を失ったわけでは決してなく、
 民族の名誉にかけても
 日本人抑留者に対する
 歴史的公正を回復したいと考えている。

 今回ここで紹介するのは、
 私が同総局などの古文書保管所で資料を調査中、
 偶然に発見したラーゲリでの
 日本人抑留者の抵抗の記録である。

(中略)

 敵の捕虜として
 スターリン時代のラーゲリという
 地獄の生活環境に置かれながら、
 自らの理想と信念を捨てず、
 あくまで自己と祖国日本に
 忠実であり続けた人々がいた。

 彼らは、自殺、脱走、ハンストなどの形で、
 不当なスターリン体制に抵抗を試み、
 収容所当局を困惑させた。

 様々な形態の日本人捕虜の抵抗は、
 ほぼすべてのラーゲリで起きており、
 1945年秋の抑留開始から
 最後の抑留者が帰還する1956年まで続いた。

(日本人による抵抗運動のことを)
 ソ連の公文書の形で公表するのは
 今回が初めてとなる。

 半世紀近くを経て
 セピア色に変色した古文書を読みながら、
 捕虜の身でスターリン体制に
 捨て身の抵抗を挑んだ
 サムライたちのドラマは、
 日本研究者である私にも新鮮な驚きを与えた。

(中略)

 これは総じて
 黙々と労働に従事してきた日本人捕虜が
 一斉に決起した点で
 ソ連当局にも大きな衝撃を与えた。

 更にこの統一行動は十分組織化され、
 秘密裏に準備され、
 密告による情報漏れもなかった。

 当初ハバロフスク地方当局は
 威嚇や切り崩しによって
 地方レベルでの解決を図ったが、
 日本人側は断食闘争に入るなど拡大。

 事件はフルシチョフの下にも報告され、
 アリストフ党書記を団長とする
 政府対策委が組織された。

 交渉が難航する中、
 ストライキは三ヶ月続いたが、
 結局内務省軍2500人が
 ラーゲリ内に強行突入し、
 首謀者46人を逮捕、
 籠城は解除された。

 しかし兵士は突入の際
 銃を持たず、
 日本人の負傷者もほとんどなかった。

 スト解除後の交渉では、
 帰国問題を除いて
 日本人側の要望はほぼ満たされ、
 その後労働条件やソ連官憲の態度も
 大幅に改善された。

 1956年末までには
 全員の帰国が実現し、
 ソ連側は驚くほどの寛大さで対処したのである。

(中略)

 極寒、酷使、飢えという
 極限のシベリア収容所で
 ソ連当局の措置に抵抗を試みた人々の存在は
 今日では冷静に評価でき、
 日本研究者である私に
 民族としての日本人の特性を
 垣間見せてくれた。

 日本人捕虜の中には、
 浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
 天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
 食料ほしさに仲間を密告する者、
 ソ連当局の手先になって
 特権生活を営む者なども多く、
 この点も日本研究者である私にとって、
 日本人の別の側面を垣間見せてくれた。」

事件の総括は、上に示すアレクセイ・キリチェンコ教授のまとめの通りと思います。

日本人の中には、
 浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、
 天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、
 食料ほしさに仲間を密告する者、
 ソ連当局の手先になって特権生活を営む者など
もいた。
いまの日本でも同じです。

日本人の中には、日本の歴史・伝統・文化を学ぶこともせず、安易にGHQの日本解体工作を信じ、天皇を否定し、国旗や国歌を否定し、カネ目当てに他国に媚を売るような恥ずべき人もいます。

しかし、それでもなお多くの日本人は、いまでも天皇を愛し、自分より子や配偶者、部下たちの幸福を第一に考え、誰かのために、何かのために貢献できる生き方をしようと模索しています。

戦前の通州事件や、尼港事件の際、殺された多くの日本人たちは、「日本人は逃げろ~!」と叫んだといいます。
戦後の阪神大震災のときも、多くの日本人は、自分より先に、家族を助けてくれと救助隊に懇願して果てました。
そしていまなお、多くの企業戦士、多くの母親たちは、規則やきまりなど、外の力で動くのではなく、会社を守ろう、部下を守ろう、家族を守ろう、子に恥じない親になろう、父母に叱られない自分になろうという、内なる力に衝き動かされ、毎日を必死に生きています。
それは、ひとりひとりの人間として一番大切な生命をかけた戦いでもあります。

日本は法治国家だという人がいます。
たしかに、今の日本はそうかもしれない。
しかし、非常に治安が良かった江戸時代や、戦前の日本には、現代日本にあるような事細かな法律や省令、政令なんてものはありません。
そんなものがなくても、日本人ひとりひとりの中にある、道義心によって、現代社会よりもはるかに安心して暮らせる日本ができあがっていたのです。

わたしたちは、すくなくとも過去を否定するばかりでなく、現在と未来のために、過去の歴史からもっともっといろいろなことを学べるのではないかと思います。

最後にもうひとつ大切なことを書いて起きます。
私も、かつてのソ連やソ連が行った日ソ不可侵条約の破棄やその後の国際法上も違法な行為の数々、シベリア抑留や共産主義思想の強制など、ソ連に対しては限りない怒りを感じていますし、絶対に許すべきことではないと思っています。
しかし、そのことをもって、「ソ連人は」とか、あるいは「ロシア人は」とかいう一般化は、これは間違っています。
ひとりひとりを見れば、気の良いロシア人の方が圧倒的に多いのです。

ChineseやKoreanについても同じです。
異常行動を取る政府や政治は、憎むべき対象です。
しかしだからといって、それをChineseやKorean一般の問題にすり替えるのは、良くないことです。

先に結論を書いてしまえば、これらの問題は、特定個人が最高権力者となって、その個人に従うことが社会の秩序であり、それ以外の一切は排除される、という社会の仕組みそのものが人類の歴史の中で持ち続けてきた、大いなる過ちの集大成である、と思っています。

「眼の前にいる人たちを殺せ。
 殺さなければ、お前とお前の家族を皆殺しにするぞ」
と銃を突きつけられるという社会にあって、個人の持つ正義感を最大限に発揮するということは、そうそうできることではありません。
しかし、人類の歴史は、そういうことですくなくともこの何千年かの間、営まれ続けてきたわけです。

「眼の前にいる人たちを殺せ。
 殺さなければ、お前とお前の家族を皆殺しにするぞ」
と言われて、やらざるを得なかった人たちと、
「浮薄(ふはく)なマルクスレーニン主義理論を安易に信じ、天皇制打倒を先頭に立って叫ぶ者、食料ほしさに仲間を密告する者、ソ連当局の手先になって特権生活を営」んだ、シベリアの日本人と、果たして、どちらが是で、どちらが非なのでしょうか。

そのような日本人がいたから、日本人はすべて卑劣なのでしょうか。
問題は、世の中の歪みそのものにあったのではないでしょうか。



※本編は群馬県議員中村紀雄氏のHP
「今見るシベリア強制抑留の真実」を基に構成させていただきました。
この場にて感謝を申し上げます。
ありがとうございます。
http://kengi-nakamura.txt-nifty.com/diary/

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もうひとつの大東亜戦争・・・ハバロフスク事件(2)

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シベリア抑留02


(昨日までのあらすじ)
シベリアのハバロフスクに抑留された日本人は、10年間、無抵抗でソ連兵たちの横暴に耐え続けてきた。馬鹿にされても、殴られても、いっさいの敵対行動を取らず、日本に帰る日を夢見ながら、黙々と使役作業を続けた。
しかし、ソ連兵の横暴は募り、ついに病弱者まで使役に駆り出す。
このままでは、仲間たちが死んでしまう。
ついに日本人捕虜769名の戦いがはじまります。

----------------------

「このままでは皆死んでしまうぞ」
「そうだ。収容所側はこれからも、
 このような仕事の命令を繰り返すに違いない。
 そうすれば病弱の者はこの冬に殺される。
 そして現在健康な者もやられてしまう」
「では、どうするんだ?!」

収容所側にいくら懇願しても誠意のある対応は期待できません。
このまま自滅を待つのか・・・。
ひとりの班長が言いました。
「自滅するよりは闘おう。
 座して死を待つのは日本人としての恥じだ」
「そうだ。同感だ」
「しかしどのように戦うのだ」
「戦うなら、勝つ戦いをしなければならない。
 さもなければ、生きて祖国に帰ることだけを
 目的にしてこれまで耐えてきたことが水の泡になる」
「先ず作業拒否だ」等々、いろいろな意見が交わされました。

何よりも最大の目的は「全員が生きて日本に帰ること」です。
こういう戦いのときというのは、よく、いつのまにか戦いそのものが目的となってしまって、味方に何人の犠牲者が出ようが関係ないような思考に陥る人がいます。
ChinaやKoreaでは、むしろそれがあたりまえで、そもそも一部の人たちが「自分のために人を使って戦いをさせる」のです。
ですから目的は、自分だけが助かることにあるのであって、そのために味方が何人犠牲になろうが、一切おかまいなしになります。
助かりたい人が、自分のために周囲の人達を脅したり騙したりして戦わせるのです。
そうなると、サブリーダーたちは、戦いそのものが目的になります。
部下たちは、そのための駒でしかない。
そのような具合ですから、少しでも不利になれば、全体が総崩れになります。
彼らの弱さが、そこにあります。

日本人の場合、どこまでも目的が「全員が生きて日本に帰ること」であれば、これが全員にとっての課題となります。
そのためには、全員の合意の形成が何より大事になります。
ですから一部の人が、強制的に人を使役して戦わせるのではないのですから、当然、合意の形成には時間がかかります。
しかしひとたび合意が形成されれば、その目的達成のために、全員が全力をつくすことになります。
だから日本人は強いのです。

あからハバロフスクでも、その合意の形成のために、各班で話しあって、結果を踏まえて結論を出そうということになりました。
そして12月19日から、各班の結論は、作業拒否で戦うということに決まりました。

こうして全体の方針が決まりました。
しかし作業拒否だけでは、ラチがあきません。
代表を決め、固い決意のもとに全体が組織だって死を覚悟の交渉をするのです。
班長会議が一致して代表として推薦した人物は、元陸軍少佐の石田三郎さんでした。

要請を受けた石田三郎は、作業拒否を実行する班はどの班か聞きました。
班長会議の面々は
「浅原グループを除く全部だ」と答えました。

浅原というのは、シベリアの天皇といわれた民主運動のリーダー浅原正基(あさはらせいき)のことです。
この浅原正基という人物は、元日本陸軍上等兵、ハルビン特務機関員でありながら、シベリア抑留の際、イワン・コワレンコというソ連KGBの中佐と結託して、元上官などを次々に告発し、貶め、辱め、殺害に導いた男です。
すすんでソ連兵に媚(こび)を売り、日本人の同胞を辱め、売り飛ばし、自らソビエト社会主義の先鋒を勤めることで、自分だけがいい思いをしようとした裏切り者です。
だから浅原は、袴田陸奥男とともに抑留者から恐れられ、「シベリア天皇」(最高権力者という意味)と呼ばれていました。

浅原は、仲間を売ることでソ連KGBから自分だけ援助を受け、特権階級者になろうとしたのです。
けれどそれを10年続けてソ連が浅原に与えた身分は、単なる「抑留者」です。
軽薄な裏切り者、仲間を売るような卑怯者を飼っても、しょせんは信用などできないことくらい、ソ連兵だってわかるのです。

結局浅原は、ソ連兵にもKGBにも信用されず、仲間たちからも見放されてしまう。
売国者の末路というものは、こういうものです。

石田三郎さんは、作業拒否闘争の代表を引き受けました。
しかしそれは死を覚悟しなければならない大変なことです。
石田さんはみんなの前で言いました。
「この闘いでは、
 犠牲者が出ることを
 覚悟しなければなりません。
 少なくとも代表たるものには
 責任を問われる覚悟がいります。
 私には親もない、妻もない。
 ただ祖国に対する
 熱い思いと
 丈夫な身体があります。
 私に代表をやれというなら、
 命をかけてやる決意です。
 皆さん、始める以上は、
 力を合わせて、
 最後まで闘い抜きましょう」

それまでにも政治犯のソ連人や、ドイツ人その他による捕虜たちのストライキや暴動がありました。
これに対するソ連の弾圧は、すさまじいものでした。
同朋人であるソ連人が収容されている収容所でのストライキや暴動でさえも、戦車が出動し、多くの死者を出し、首謀者は必ず処刑されているのです。
日本人の捕虜たちは、全員、ソ連のこの方針を知っています。

それでも、仲間の死を座して見過ごすことができない。
仲間を死なせるわけにいかない。

こうしてハバロフスクの日本人捕虜769名の戦いが始まりました。
この収容所の人々は、ほとんどが旧制中学卒業以上の知識人です。
知的レベルが非常に高い。
女性もいました。
このような人々が心の底から結束して立ち上がった点に、ハバロフスク事件の特徴があります。

日本人捕虜たちの要求事項は次の通りです。
~~~~~~~~~~~
1 皆、健康を害しているので、帰国まで、本収容所を保養収容所として、全員を休養させること
2 病人や高齢者を作業に出さないこと
3 高齢者や婦女子を即時帰国させること
4 留守家族との通信回数を増やすこと
5 今回の事件で処罰者を出さぬこと
~~~~~~~~~~~

そして、戦術としては、

(1) 暴力は絶対に使わない
(2) 収容所側を刺激させないため「闘争」という言葉は避け、組織の名称は「交渉代表部」とし、運動自体も「請願運動」と呼ぶことにする。

石田さんは全員を前にして言いました。
「私たちの最大の目的は、
 全員が健康で祖国の土を踏むことです。
 これからのあらゆる行動は、
 このことを決して忘れることなく、
 心を一つにして
 目的達成まで頑張りぬきましょう」

長い間、奴隷のように扱われ、屈辱に耐えてきました。
日本人としての誇りどころか、人間としての尊厳や自覚さえも失いかねない服従の日々でした。
その日本人捕虜が、収容されて初めて、日本人としての誇りを感じ、人間として目覚めたのです。
石田さんの声は、とても静かなものでした。
けれどみんなの心に熱いものがこみあげました。

石田さんは有効な作戦を立てるため、また重要な問題にぶつかったとき、アドバイスを受けるための顧問団を編成しました。
顧問団には、元満州国の外交官や元関東軍の重要人物などもいました。
石田さんは、顧問団の名前はいっさい公表しませんでした。
あくまで個人的に密かに接触しました。
これらの人々に危険が及ばぬようにするためです。

顧問団の中には、元関東軍参謀瀬島龍三さんもいました。
瀬島さんは回顧録の中で次のように語っています。
「平素から私と親しかった代表の石田君は
 決起後、夜半を見計らって
 頻繁に私の寝台を訪ねてきた。
 二人はよそから見えないように
 四つん這いになって意見を交換した。」

瀬島さんは、石田さんに請願書の提出を助言しました。
中央のソ連内務大臣、プラウダの編集長、ソ連赤十字の代表などに、請願文書を送るのです。
そしてその文書は、すべて外交文書としての要件・形式を整え、ソ連の中央権力を批判することを避け、中央政府の人道主義を理解しない地方官憲が誤ったことをやっているので、それを改善してくれと請願する。

例えば、昭和31(1956)年2月10日の、ソ連邦内務大臣ドウドロワ宛の請願書では、
「世界で最も正しい人道主義を終始主唱するソ連邦に於いて」
と中央の政策を最大限誉め上げ、それにもかかわらず、当収容所は、
「労働力強化の一方策として、
 計画的に病人狩り出しという挙に出た。
 収容所側の非人道的扱いに耐えられず
 生命の擁護のため止むを得ず、
 最後の手段として作業拒否に出た」
だから
「私達の請願を聞いて欲しい」
と結んでいます。

また同年1月24日のソ連赤十字社長ミチェーレフ宛請願書でも、
「モスコー政府の人道主義は、
 いま地方官憲の手によって
 我々に対して行なわれているようなものではないことを確信し」
と表現しています。

これらは、皆、瀬島龍三さんのアドバイスによるものでした。
作戦として
「中央を持ち上げて地方をたたく。
 あくまでも外交上の筋道をキチンと通す。」

おそらく収容所側は、作業拒否に対して
「これは暴動であり、ソ連邦に対する反逆である。
 直ちに作業に出ろ」と執拗に迫ることでしょうし、中央にもそのように報告することでしょう。
そして減食罰などを適用しながら、一方で、
「直ちに作業に出れば、許してやる」
とゆさぶりをかけてくるに違いありません。
これに対抗するためには、とにもかくにもルールをきちんと守り、筋を通しきっていかなければならない。

またソ連軍が、事件の首謀者を拉致して抵抗運動の組織を壊滅させることも考えられます。
だから石田さんには、各班から護衛をつけて、夜毎に違った寝台を転々とすることなども取り決められました。

いよいよ12月19日、作業拒否による抵抗運動が開始されました。
石田さんは、正々堂々、分所長スリフキン中尉に面会を求めました。
そしてスリフキンの前で敬礼をし、直立不動の姿勢をとり、姓名を名乗り、営外作業日本人の代表たる旨を報告したうえで、
「我々は12月19日、
 本日作場出場拒否の方法をもって
 請願運動に入ります。
 この解決について、
 当ハバロフスク最高責任者と
 会見交渉したい」
と申し入れました。

分所長スリフキン中尉は
「今からでも遅くないから作業に出よ。
 問題はその後に相談しよう」
と作業を督促しました。
要するに「お前たちの言うことなど聞く耳持たない」というわけです。
しかし石田さんは断固として
「最高責任者にこの旨至急報告されたい」
と言い残しました。

その日の午前10時、石田さんは、政治部将校マーカロフ少佐の呼び出されました。
石田さんが団本部に入ってみると、マーカロフ少佐に、吉田団長、鶴賀文化部長がいました。

事態がここまできた以上、別に、団長、文化部長に室外へ出て貰う必要はありません。
かえって二人がいてくれた方が話しやすいとばかり、石田さんは、鶴賀に通訳を頼みました。

マーカロフ少佐は、元来日本人を人間扱いしない総元締です。
傲岸不遜、人を見下すことを得意とする男です。
この時も居丈高に、
「囚人の作業拒否は違法だ。
 如何なる理由があろうとも、
 囚人が作業に出ないとはけしからん。
 不服従として
 厳罰に処する」
と喰ってかかってきました。

石田さんは静かに答えました。
「日ソ間の国交回復が議せられている現在、
 またヴォロシーロフ議長が、
 日本議員団訪ソの際に言明したように、
 日本人は当然、遠からず
 帰国を約束せられている集団
 であると信じています。
 この最も光明ある時期に、
 何故かかることを断行しなければならなかったかは、
 貴官も先刻御承知のはずです。
 特に貴官の病人狩り出しは
 甚だしい非人道行為です。
 このような事態が続くとすれば、
 私たちの健康状態は・・・」

マーカロフ少佐は、日本人をバカにしていて話を受けつけません。
石田さんの話の腰を折って、
「よろしい。
 即刻作業に出ないとあれば
 昼食を支給することはできない」
と会見を打ち切りました。

石田さんは団本部から戻りました。
すると数十名の若者が、営庭の片隅で盛んに大工仕事をしていました。
何事かと近よってみると、
「ソ連兵が弾圧のため
 営内に進入してくるに違いないから、
 バリケードを作っているんだ」という。

石田さんは驚きました。
「そうか。私はウカツだつた。
 みんな同胞の生命を守るため
 本当に死を覚悟しているんだ。
 だからいま決死の抵抗を準備している。
 そうだ。
 この決意こそが必要なのだ。
 しかし、こういう手段は
 とってはいけない。
 私たちは正義と人道の上に立っている。
 これで充分なのだ。
 暴力を用いてはいけない。
 暴力を用いれば、
 敵に攻撃の口実を与えてしまう。
 ソ連各地のロシヤ人囚人の暴動と
 同一であってはならない。
 あくまで沈着冷静な、
 無抵抗の抵抗でなければならない。」

石田さんは、若者たちにこのことを説きました。
若者達は、納得してバリケードを撤去してくれました。

その日の正午前、石田さんが班長たちにマーカロフ少佐との会見の模様を報告していると、炊事係がやってきました。
「いま政治部将校から許可あるまで、
 全員に昼食を支給することまかりならぬ、
 と命令がありました」

ソ連側の圧力のはじまりです。
そしのこの圧力は、最終的に3月11日、ソ連邦内務次官中将が、自ら指揮する兵力2500名と消防自動車8両とを用いて行った大武力弾圧にまで発展しました。

作業拒否闘争が始まって間もなくのことです。
35歳以下の若者130名が、自発的に青年防衛隊なるものを結成しました。
そして石田さんのもとに、結成式をやるから出てくれと言ってきました。

石田さんが表に出ると、凍土の上に、シベリアの雪が静かに降る中で、若者たちが整列していました。
そして青年たちの代表が凛(りん)とした声で、宣誓文を読みあげました。
整列した若者たちの瞳は澄み、顔にかかる雪にも気付かないかのようです。
敗戦によって心の支えを失い、ただ屈辱に耐えてきたこれまでの姿が一変し、何者も恐れぬ気迫があたりを制していました。
彼らの胸にあるのは、自らの意思で、人としての尊厳を取り戻すために、友のために、同胞のために、正義の戦いに参加しているのだという誇りです。
「私たち青年130名は、
 日本民族の誇りに基づいて
 代表を中心に一致団結し、
 闘争の最前線で
 活躍することを誓う!」

代表が読み上げた檄文は、
 我々は石田代表と生死を共にする、
 我々は老人を敬い病人を扶ける、
 我々はすべての困難の陣頭に立つ、
 我々は日本民族の青年たるに恥じない修養に努力する、
と続きました。

石田さん答辞として次のように答えました。
「運動の目的は、
 あくまでひとり残らず
 日本に帰国することです。
 そのために暴力は
 絶対にいけません。
 諸君の任務は、
 暴力に訴えることが生じないように
 監督してくれることです。
 そして私を拉致するために
 血を見るような事態に至ったときは、
 私ひとりで出て行きます。」

すると一人の青年が、石田さんの言葉をさえぎりました。
「代表が奪われるよりは、
 私達青年は
 銃弾の前に屍をさらす覚悟です」

このとき、集った130名の青年たちの目には、必死の覚悟が浮かんでいます。
石田さんの耳には、彼らのすすり泣く声さえも聞こえました。
石田さんも泣けてきました。
これまで、如何なる拷問にも耐え、如何なる困難を前にしても泣いたことのない石田さんは、このとき青年たちの手を握って泣きました。

みんながこのように、純粋な気持で涙を流すことは祖国を離れて以来初めてのことです。
外の力で動くのではなく、内なる力に衝き動かされ、その結果、人間として一番大切な生命をかける。
こうして決死の覚悟を抱いた青年たちがどれだけ強いか。
そのことはソ連兵がいちばんよく知っています。

予想に反して長引いたハバロフスクの闘争事件で、ソ連側が軽々しく武力弾圧に踏み切ることを控えさせるために、その後、決死の青年隊の存在は大きな意味を持つことになったのです。

石田さんたちは、ソ連に連行されてから11回目の正月を、闘争の中で迎えました。
まだ打開策は見つかっていません。
闘争の行方には不安だらけです。
しかし彼らの心には、それまでの正月にはない活気があふれていました。
体はやせ細っていたけれど、収容所の日本人たちの表情は明るかった。

日本の正月の姿を少しでも実現しようとして、人々は、前日から建物の周りの雪をどけ、施設の中を、特別に清掃しました。
器用な人が門松やお飾りやしめ縄まで、代用の材料を見つけてきて工夫してつくってくれました。
各部屋には、紙に描かれた日の丸も貼られました。
懐かしい日の丸は、人々の心をうきうきさせた。

そんなお正月の準備作業に取り組む日本人の後ろ姿は、どこか、日本の家庭で家族のためにサービスするお父さんを思わせるものがあったそうです。
そしてこれこそが、自らの心に従って行動する人間の自然の姿です。

石田さんは『無抵抗の抵抗』の中で次のように語っています。
「ソ連に連行されてから、
 この正月ほど心から喜び、
 日本人としての正月を祝ったことはなかった。
 それは本来の日本人になり得たという、
 また民族の魂を回復し得たという
 喜びであった。」

元旦の早朝、日本人は建物の外に出て整列しました。
白樺の林は雪で被われ、林のかなたから昇り始めた太陽が、樹間を通して幾筋もの陽光を投げていました。
そして全員で、日本のある東南に向かって暫く頭を下げると、やがて誰ともなく歌を歌った。

 君が代は
 千代に八千代に
 さざれ石の
 巌となりて
 苔のむすまで

長い収容所の生活の中で、国歌を歌うことは初めてのことでした。
歌いながら、日本国民としての誇らしい気持ちと、家族、故郷への思いがよぎりました。
歌いながら、涙が止まらなくなりました。

「民主運動」と呼ばれる共産主義の圧政のもとでは、君が代も日の丸も反動のシンボルとして扱われました。
「民主運動」の中での祖国は、日本ではなくソ連なのです。
共産主義の元祖ソ同盟こそが理想の国であり、資本主義の支配する日本は変えねばならない。だからソ同盟こそ祖国なのだ、というのがソ連の考え方です。
その思考は、いまの中共にそっくりそのまま受け継がれていますし、日本の左翼運動もその中にあります。

収容所の日本人達は「民主教育」の理解が進んだことを認められて少しでも早く帰国したいばかりに、それに表面上同調を装ってきました。
そのような表面だけ赤化したことを、当時は、密かに赤大根と呼びました。

これを卑屈として後ろめたく思った人もいました。
自分は日本人ではなくなってしまったと自虐の念に苦しんだ人もいました。
けれど、今回の作業拒否闘争で、みんなの心に日本人としての自覚と誇りが蘇ったのです。

この湧き上がる新たな力によって、共産主義「民主運動」のリーダーで、シベリアの天皇として恐れられた浅原一派は、はじき出されました。
彼らは恐怖の存在でさえなくなりました。
そして影響力を失いました。

いじめや中傷をの被害を受けている方は、日々書き立てられることに大変なショックを受けることになります。
それで悩んでしまうことも多いものです。
しかし、上と同様、自分の中に彼らのいじめや中傷を乗り越える力が湧くと、彼らのいじめも中傷も、まったく気にならなくなります。
恐怖も辛さも、自分の心が作り出すものだからです。
自分の中の心が変わったところで、他人の心も行動も変わるはずなどないと思われるかもしれませんが、本当に自分の心が変わると、他人の心も変わってしまうのです。
世の中は本当に不思議なものです。

さて、浅原正基を中心とする「民主運動」のグループは、作業拒否闘争に加わらず、同じ収容所の中の一画で生活していました。
闘争が長びき、作業拒否組の意識が激化してゆくにつれ、闘争を行う青年たちと、浅原一派の関係は、次第に険悪なものになっていきました。

彼らを通じて収容所側に情報が漏れてゆくことが、みんなを苛立たせ、怒りをつのらせていきます。
いまもあるどこかの国のネット工作員みたいなものです。
浅原一味に対する緊迫感は、いつ爆発するかも知れない状態となりました。

ソ連兵に拉致されるや否や、祖国への誇りを失い、そくさくと「理想的」社会主義者に転向しただけでなく、かつて世話になった上官や、互いに助け合い、支えあった仲間を平気で売り、売られた多くの上官たちや仲間は、ソ連兵によって無残な殺され方をしている。
その姿を全員がみて、知っているのです。
それだけでなく、こうしてみんなでまとまって抵抗運動をしている最中に、コソコソと仲間の様子をソ連兵に告げ口をする。

血気の青年防衛隊は、このままでは闘争も失敗する、浅原グループを叩き出すべきだと代表に迫りました。
石田さんは、断固として拒否しました。
「いかなることがあっても、
 浅原グループに手を加えてはならない。
 それはソ連側に実力行使の口実を与え、
 我々の首をしめる結果になる」
そしてついに収容所側が、浅原グループを分離する方針をとるに至りました。


(明日の記事に続く・・・)

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Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

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(著書)

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