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敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらす山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


会津藩の二人の女性・・・中野竹子と瓜生岩子

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会津若松城
会津若松城


慶応4(1868)年、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発します。
この年の8月20日、会津城下を目指した新政府軍は、会津藩を中心とする幕軍の裏をかいて会津藩境の母成峠(ぼなりとうげ)から侵攻し、激戦「母成峠の戦い」が行われます。

この日、幕軍は新政府軍が、表街道から来るとみて主力を配備、裏街道にあたる母成峠には、戊辰戦争の初期から転戦してきている播磨国赤穂藩出身大鳥圭介率いる伝習隊700名が守備を守ります。

そこへ板垣退助率いる新政府軍の主力部隊2000が殺到する。

峠の坂の下で行われた前哨戦では、新政府軍の銃撃の前に会津藩兵が潰走するけれど、大鳥圭介率いる戦い慣れした伝習隊と新撰組が戦いを白兵戦にもちこみ、新政府軍を敗退させます。

翌日早朝、濃霧の中を新政府軍は、本体と右翼隊にわかれて母成峠を目指します。

大鳥圭介は兵力を縦深陣地に配備し、新政府軍の本体を峠の坂道に誘い込み、白兵戦で新政府軍本体に壊滅的な打撃を与えます。

ところがそこへ、新政府軍の右翼からの攻撃部隊が銃撃を開始する。
数にまさる新政府軍本体は、この側面攻撃で勢いを巻き返します。

夕方頃にはほぼ勝敗が決し、峠は新政府軍に制圧されてしまう。

潰走した伝習隊の生き残りたちは、猪苗城(いなわしろじょう)へ撤退する。
しかし城代の高橋権大夫は、少数で小城を守るより、若松城で殿をお守りするのだと、城に火を放って若松へ向かいます。
伝習隊はこれを援け、道中に火を放って敵の進軍を遅らせます。

大鳥圭介
大鳥圭介02


そして8月23日、会津藩若松城下に、敵侵入の早鐘が鳴り響いた。

この日、中野竹子(22歳)は、妹優子(16歳)らとともに若松城に駆けつます。

しかし、すでに城門は閉ざされ、彼女たちは入城させてもらえません。
そこへ藩主松平容保公の姉、照姫様が会津坂下の法界寺においでになるとの報がもたらされます。

「照姫様をお守りしなければ!」

日ごろ鍛錬を重ねた薙刀(なぎなた)道場の娘たちです。
竹子らは、娘たちだけでその場で「娘子隊(じょうしたい)」を結成します。

すでに彼女たちは、各々の意思で、頭髪を短く切り、頭には白羽二重の鉢巻きをしています。
竹子の着物は青みがかった縮緬、妹優子は紫の縮緬です。
依田まき子は浅黄の着物、妹菊子は縦縞の入った小豆色の縮緬、岡村すま子は鼠がかった黒の着物で、それぞれが袴(はかま)を穿いていた。

そして全員、腰に大小の刀を差し、薙刀(なぎなた)を手にしていました。

娘子隊二十余名は、会津坂下の法界寺に向かいます。

ようやく寺に着いたが、照姫様はいない。

やむなく法界寺に宿泊した娘子隊一行は、翌日朝、会津坂下守備隊萱野権兵衛に「従軍したい」と申し出ます。

いくら薙刀の遣い手の女子たちとはいっても、敵(新政府軍)は銃で武装しています。
萱野権兵衛は、
「ならん!、絶対にならん!、お前たちは城へ帰れ!」と拒否した。

けれど、中野竹子らは、去ろうとしません。

「参戦のご許可がいただけないのであれば、この場で自刃します」

やむをえず萱野権兵衛は、翌日になって彼女達を衝鋒隊に配属します。

8月25日、涙橋に、新政府軍(長州藩・大垣藩兵)が殺到します。
近代装備と豊富な銃で攻撃してくる新政府軍に対し、守備隊は必死の突撃を繰り返す。

ようやく戦いは白刃を交えた白兵戦となります。
彼女たちも男たちに交じって、奮戦した。

このとき、一発の銃弾が竹子の額に命中します。

竹子が倒れる。

額の血が、草を真っ赤に染めます。

息も絶え絶えに竹子は、妹の優子を呼びます。

そして「敵に私の首級を渡してはなりませぬ」と、介錯を頼む。
16歳の優子は、とまらない涙をぬぐいながら、姉の首を打ち落とします。


優子は、姉の首を小袖に包んで坂下まで落ち延びます。
そして法界寺の住職に姉の首の葬送を頼んだ。

 武士(もののふ)の
 猛(たけ)き心に比(くら)ぶれば
 数にも入らぬ我が身ながらも

中野竹子の辞世の句です。

書いた短冊が薙刀の柄に結いつけてあったそうです。


竹子を失った一行は戦陣を離れ、その後入城を果たし、多くの女性たちとともに必死で篭城し戦いました。

中野竹子
中野竹子


娘子隊は、彼女たちが自らの意思で戦いました。

なぜ戦ったのか。

自分の住んでいる土地に、他所から軍隊が攻めてきたらです。

彼女たちは、大切なものを守るために戦った。
鳥羽伏見をはじめ、戊辰戦争で亡くなった夫や兄たちを殺した連中と、自分たちの意思で戦ったのです。

ちなみに、会津の「婦女隊」(別名:娘子隊(じょうしたい)」について、会津藩が組織的に女性まで戦わせたようにいう人がいますが、これは違います。
若い娘までハナから兵団に加えるということは、会津藩が自ら兵力不足をアピールするみたいなものです。
軍学的にもそんなバカなことはしない。あたりまえのことです。

涙橋
涙橋


戦いは市街戦に移ります。
燃え上がる炎は、城下の家々を焼きます。

城に撃ち込まれる大砲。傷つく兵士、血に染まり泣き叫ぶ子供たち。
流れ弾丸に斃(たお)れる市井の人々。怒号と砲声、うめき声と悲鳴。

会津藩の士族は、老幼・婦女子1100名。
対する新政府軍は、越後口から進んできた兵も含めて総数1万数千人です。

市街地には死体や傷を受けた武士、民間人があふれた。

その中を、敵味方の区別なく救助し看護する女性がいました。
名を、瓜生岩子(うりゅういわこ)39歳(当時)です。

彼女は両軍のおびただしい傷病兵を見て、放置しておくに忍びず、傷兵や窮民の介抱に努めます。
「敵も味方もない。怪我人は怪我人です」

その働きは新政府軍の大将板垣退助の耳にも達します。
板垣退助は岩子に会おうとするけれど、戦乱の中で、それは叶わなかった。

会津若松城の戦いは、終わったけれど、敗戦によって賊軍となった会津藩士の遺体は埋葬も許されないで、町中に放置されてしまいます。

生き残った者も、家を失い家族を失い、食べる者もなく、街はすさみきっていました。
子供たちに教育も与えられない。藩校も寺子屋も、いまはありません。
あれほど清潔で統制のとれていた会津が、いまや町は荒れ放題です。

岩子はいたたまれず、新政府の民政局に、幼年学校開設の許可を求め、新政府の民政局に日参します。せめて子供たちにキチンとした教育を受けさせたい、というのです。

毎日通った。
そして半年ほどたったある日、民政局から、ようやく幼年学校開設の許可を得ます。

岩子は、さっそく私費を投じて校舎完成させます。
そこで教師を雇い、習字、珠算などの教育をはじめた。

また学校の敷地を利用し、元藩士たちに養蚕などの技術を教え、自力更生の道を開かせます。

浅草寺の瓜生岩子
浅草寺の瓜生岩子


ところが2年後、明治4(1871)年の小学校令発布予告によって、幼年学校は閉鎖を命ぜられます。

私費を投じまでしたのに、岩子は、なにもかも失ってしまった。
でも、岩子は負けません。

翌明治5年、岩子は、荒廃と貧困に苦しんでいる会津の人たちを救うために、ひとり東京に出ます。
そして東京深川の教育養護施設の運営や、児童保護、貧者救済の実際や経営等を半年ほど学びます。

救貧事業をするといっても、岩子自身が一文無しに近い。
彼女は、帰国するときには、有り金をはたいて魚の干物を買い、その干物を行商しながら街道をくだった。

会津に帰った岩子は、喜多方の廃寺を無償で借り受け、後を絶たぬ貧窮者に手を差し延べます。

こうして岩子は、二百余名の孤児の母となり、後半生を社会運動に捧げます。
菩薩の化身とも、日本のナイチンゲールとも称讃された。

岩子は、混乱期の社会福祉運動の先駆けとして、わが国女性初の藍綬褒章受章します。
そして、明治30(1897)年、68歳で生涯を閉じます。


文中登場した大鳥圭介は、赤穂の人で、徳育を旨とする閑谷(しずたに)学校はに学び、医学と漢学を修めた人です。

中野竹子も瓜生岩子は、会津藩の「什(じゅう)」教育を受けて育った女性たちです。

「什」には誓ひ(掟)があって、子供たちは、毎日これを大声で復誦した。

~~~~~~~~~~~

一 年長者の言ふことには背いてはなりませぬ。

一 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。

一 虚言(ウソ)を言ふ事はなりませぬ。

一 卑怯な振る舞いをしてはなりませぬ。

一 弱いものをいぢめてはなりませぬ。

一 戸外でモノを食べてはなりませぬ。

一 戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ。

 「ならぬ事はならぬものです」

~~~~~~~~~~~

戊辰戦争で伝習隊を率いて、最後の最後まで転戦した大鳥圭介。

戦乱の中で、22歳の若い命を散らせた中野竹子。

会津の戦いで傷ついた兵士の介抱をし、さらに会津の教育再生と福祉に生涯を捧げた瓜生岩子。

こうした素晴らしい人格の生まれた背景には、やはり、当時の徳の高い教育があったのではないかと思います。

教育とは、高度な知識を手に入れることだけが目的のものではありません。
ましてや、テストで高得点を取ることを目的としたものでもない。そんなものは手段でしかない。

江戸時代の聖人中江藤樹は、教育の意義は、子供たちに道義を教え、心の曇りを取り、日々のおこないを正しくすることであると説いています。

最近学校では、「やってみて、ためしてみて、自分で善悪を覚えなさい」と教えるのだそうです。だから万引きも、「まずやってみて、ためしてみて、善悪を覚えなさい」・・・なのだそうです。

そして道徳教育というのは、「価値観を矯正し、思想・良心の自由を阻害するもの」であるのだから不要、と説くそうです。説いているのは日教組です。

日本は、根本から再生しなおさないとダメなのかもしれませんね。

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会津まつり_薙刀スポーツ少年団演技


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駐日大使グルーの国務省あての公電報

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駐日大使グルーの国務省あての公電報


以下は、チャンネル桜の掲示板に書かれたものが、日心会MLに転載され、紹介されたものです。

----------------------

東京裁判史観の全崩壊:真珠湾は奇襲ではなかった
以下転載回覧希望。

********************
平成22年1月9日
各位落合道夫

ソ連の崩壊で米ソから貴重な情報が公開され、戦後の反日歴史観が見直されています。
しかし最近、歴史をゆがめ日本人を外国に隷属させようとする悪だくみが見られます。

こうした状況で本情報は日本人全体にとって非常に重要と考えます。
ぜひ友人、知人に至急転送しご回覧願います。

********************

米国務省の公文書公開
「真珠湾は奇襲ではなかった」
東京近代史研究所代表 落合道夫

1.事実

米国ウィスコンシン大学の国務省外交文書図書館で戦前の駐日大使グルーの国務省あての公電が公開されている。

この中に日本の真珠湾攻撃の十ケ月前の1941年1月27日に日本軍の真珠湾攻撃計画を国務省のハル長官に報告したものがある。

その内容は、

「米大使館員が入手した情報によると日米関係が難しくなった場合、日本軍が総力をあげて真珠湾を攻撃する計画があるという。

驚くべきことであるが、東京の日本人を含む複数の外交筋からの情報なので急ぎ報告する」


というものである。

これで長年の日本近代史の大きな疑問がひとつ解けたことになる。


2.意義

(1) 反日宣伝からの解放

日本人は戦後占領軍と左翼に長く真珠湾攻撃が卑怯であるという誤った贖罪感を埋め込まれてきた。
しかしこれで解放された。
ルーズベルトは明らかに日本の反撃計画を知っていた。
その上で対日貿易封鎖をおこない過酷な対日要求ハルノートを出してきたのである。


(2) 歴史の真実

それでは日本の攻撃を挑発したルーズベルト大統領の狙いは何だったのか。
それは言われているように、欧州大戦への参戦契機づくりと満州を狙う邪魔もの日本の排除のためと考えるのが合理的であろう。
これで東京裁判史観は誤っていることがわかった。
必然的に日本に戦争責任がない新しい近代史観が必要になってきた。


(3) なぜ国務省は公開するのか

現在の米政府が戦前のルーズベルト外交の対日陰謀の重要証拠文書を公開しているのは、米国の極東政策が戦前とはガラリと変わったからである。
戦前の日米は満州を争う競争者だった。
しかし今は共通の敵を持つ同盟国である。

そこで米国は極東の要となる自由主義国家日本を再建したいと考え、そのために日本人の時代遅れの敗戦ボケからの覚醒を待っているのであろう。


3.日本人の対応

(1) 周知

左翼は真珠湾事件を日本人をだます材料に使ってきたので、この情報を隠ぺいしようとするはずである。
そこで愛国者は大至急このメールを転載回覧し、日本中にこの史実を周知していただきたい。

靖国神社や護国神社はこの情報の常時掲示をお願いしたい。


歴史教科書へ盛り込む

生徒が誤った歴史教育を受けているので、文科省はすぐに教科書の補正資料として印刷し生徒に配布すべきである。


4.本米国公文書情報へのアクセス方法は以下の通りである。

(1) グルーの電報の元のファイル

米国ウィスコンシン大学外交文書図書館
http://digicoll.library.wisc.edu/cgi-bin/FRUS/FRUS-idx?type=header&id=FRUS.FRUS193141v02&isize

(2) ここのSearchのところにGrewと入力すると、グルーの電報のリストが出てくる。
(Gは大文字)


(3) 問題電報は133ページにある。公文書番号は711.94/1935である。

以上

----------------------------

たいへん貴重な情報であると思います。

冒頭の写真(絵?)が、その問題の文書です。

以下に、英文をまるごと転載します。

711.94/1935 : Telegram
The Ambassador in Japan. (Grew) to the Secretary of State

[Paraphrase]
Tokyo January 27, 1941 一6 p.m
[Received January 27-6:38 a.m]

125. A member of the Embassy was told by my ...colleague that from many quarters, including a Japanese one, he had heard that a surprise mass attack on Pearl Harbor was planned by the Japanese military forces, in case of "trouble" between Japan and the United States ; that the attack would involve the use of all the Japanese military facilities.

My colleague said that he was prompted to pass this on because it had come to him from many sources, although the plan seemed fantastic.


東京裁判史観ともいいますが、要するに戦後われわれ日本人は、真珠湾を奇襲攻撃して米国を戦争に巻き込む愚を犯してきたのだ、というのが左翼や反日の言い分です。

そこまで完全秘密の軍事行動を日本がしたというのは、いっけんもっともらしい議論だけれども、実は、世の中はそんなに甘くない。

米国にオレンジ計画があったのと同様、およそ軍というものは、世界中どこでも「万一の事態に備えて」軍事行動を計画し、訓練を重ねます。

真珠湾攻撃もしかりで、日本は早くから奇襲攻撃のための軍事訓練をしています。当然のことです。万一の事態が起こったとき、「いやぁ、準備不足ですんません」などとどこかのお笑いのように頭をペコリと下げれば済むというものではない。

相手は強大な米国なのです。
それなりの準備は当然行う。
ことは国家の安全と人の生命に関わる重大事なのです。

今回紹介されたこの電報は、こうした日本側の動きを、当時日本大使だったグルーが、真珠湾攻撃の10か月前に、すでに情報を入手し、米国ハル国務長官に報告をしていた、というものです。

相手が具体的に「真珠湾」をターゲットとして「軍事訓練」を行っているという情報を知って、何の準備もしないなら、それはアホです。

軍隊であれば、当然、それに対して備えなければならない。

いつ攻撃をしかけてくるのか。
攻撃の規模はどのくらいか。

そして通常なら、敵の攻撃に備えるためには、どれだけの兵力が必要か、敵の攻撃を未然に防ぐためには、なにをどうしなければならないかなどを、詳細に検討する。

それが本来の軍事の最前線の姿です。

ところが、ハル国務長官ならびにルーズベルト大統領は、なぜかこの情報を握りつぶします。

そして昭和16(1941)年12月8日(日本時間)に、真珠湾攻撃は起こった。

この攻撃によって、米太平洋艦隊は、戦艦5隻沈没、駆逐艦2隻沈没、標的艦1隻沈没、戦艦3中破、巡洋艦3中破、航空機188破壊、航空機155損傷の被害を受けています。

いや、物損だけならまだ良い。真珠湾攻撃で、米国人兵士2345名が死亡し、民間人57名も犠牲になっている。

この事件をきっかけに、ルーズベルトは、真珠湾を忘れるな!を合言葉に、日本との全面戦争に踏み切ります。

しかし、この真珠湾攻撃の一週間前には、米太平洋艦隊に対し、戦闘準備命令も出されています。

つまり、ルーズベルト大統領は、日本が真珠湾を攻撃してくることを知っていた。
知っていて、真珠湾に駐屯する兵士たちになんの準備もさせなかった。

真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦ウェストバージニア
真珠湾攻撃で炎上中の米戦艦ウェストバージニア


その結果、多くの人命が失われた。
軍人として、戦いに際し、精いっぱい戦って死んで行くことは、職務であり許容できることです。しかし、戦わずして単に見殺しにされる。これほど腹立たしいことはない。

これは、大統領の米国民、ならびに米軍兵士たちに対するあきらかな背信行為です。

当時、ヨーロッパでは、すでに第二次世界大戦がはじまっていました。
米国はヨーロッパからの移民の国です。
米国民の親戚や身内が、ヨーロッパ戦線で、命を失っている。

一方、当時はまだ欧米列強による植民地支配による権益争いの時代です。
当然米国内の資本家たちは植民地の拡大を政府に要求する。
そしていまだ植民地化されていなかったのは、東亜の日本、満洲、朝鮮半島、支那の大部分です。

資源のない朝鮮半島や日本は、植民地支配の魅力に乏しいが、資源が豊富で人口も多い支那や満州は、いまだ未植民地化されている最後の地域だった。

この権益を得るためには、鼻っ柱の強い日本を叩き潰さなければならない。
そもそも日本は、人種の平等を謳い、東亜の独立をほう助している。

加えて当時、石炭に代わる新たな資源として登場した石油資本は、戦乱によって石油の販売高を増やし、未曾有の利益をあげるチャンスもあった。

ルーズベルトには、ヨーロッパ戦線への米国参戦と、対日戦争の圧力がかかります。

しかし、ルーズベルトは、戦争反対を唱えて大統領に当選した米国民主党の政治家です。
加えて対立政党である共和党は、米国参戦に徹底的に反対を唱えています。
ルーズベルトが、米国を戦争に参戦させるためには、米国民の民意が、戦争やむなし!となるよう、世論の爆発を誘導する必要があった。

だからルーズベルトは、ハル国務長官とともに、日本を開戦やむなしとなるよう、徹底して政治的に追い込みます。

ABCD包囲網を作って対日輸出制裁を加える、支那戦線において日本と敵対する支那国民党に国が2~3個作れるくらいの豊富な軍事物資や食糧を与える、日本にハルノートを突きつけて、日本の権益をすべて放棄するように迫る、日本が石油を入手できないよう、追いつめる。

ルーズベルトにしてみれば、これはリスクのない工作です。
日本が計画しているのは、あくまで真珠湾に集結する太平洋艦隊への攻撃であり、ハワイの真珠湾を攻撃した後に日本がその余勢を駆って、ロサンジェルスやサンフランシスコといった太平洋沿岸の都市までは、攻撃しない。
つまり、米本土への艦砲射撃や空爆の計画はないし、そこまでの国力は日本にはない。

それを見切った上で、日本を追い詰めた。
追い詰められた日本は、真珠湾を攻撃します。

「しめた!」とばかり、ルーズベルトは対日戦線を開始、同時にヨーロッパ戦線への参戦を決定します。

対日戦争に勝てば、米国はフィリピンだけでなく、日本および、日本が統治している朝鮮半島、満洲国、台湾を手に入れることができます。つまり植民地化できる。

ルーズベルトに参戦を迫った石油資本にしてみれば、膨大な戦費によって、石油および関連商品が爆発的に売れる。

大東亜戦争は、日本は追い詰められ、やむをえず開戦に踏み切ります。

およそ3年半にわたる戦闘で、多くの人命が失われ、国土は焼土となり、満洲、朝鮮半島、台湾、千島列島、樺太を手放すことになった。

しかしルーズベルトの目論見も、大外れします。
米国は大東亜戦争を経由して、植民地を増やすことはできなかったし、それどころか、結果的にはすべての植民地を手放すことになった。

さらに、354,523人に及ぶ戦死者を出すことになった。

もし、このときルーズベルトが、日本との同盟関係を重視し、蒋介石への援助をせず、日本とともに世界の平和と安定のために戦ったのなら、おそらく、ソ連は経済的に封鎖され、支那に共産党政権は誕生せず、東亜は、植民地ではなく、対等な交易相手国として栄え、日米の経済は発展し、戦後のコミンテルンによる破壊工作や虐殺もなく、中東の平和も保たれ、東シナ海の海底油田は、中東に替わる新たな石油資源地帯として、世界のエネルギーの安定化も実現できたのではないか。

ねずきちは、このブログで何度も書いていることだけれど、人を利用主義的に利用するということが大嫌いです。

真珠湾で犠牲になった方々も、日米が手を携えてヨーロッパ戦線での平和実現を図ろうという政治が実現していたら、まるで犠牲になる必要などなかった。

開戦のためにとはいえ、自国民を平気で犠牲にする。そういうことは、人道上、決してゆるされることではありません。

ねずきちは、過ぎた昔を責めようとは思いません。
ましていま、日米は、まさに同盟関係にあります。

ただ、日本も、米国も、東京裁判史観からそろそろ脱却して、冷静に過去の歴史を見つめなおし、日米および人類の平和のために、新しい未来を建設していく必要があるのではないかと思っています。

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真珠湾攻撃


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古くて新しい中江藤樹

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中江藤樹
中江藤樹


いまから400年くらい前の近江国(いまの滋賀県)で、実際にあったお話です。

近江国の河原市宿に馬子の又左衞門という人がいました。
馬子というのは、馬に人や荷物をのせて運ぶ仕事をする人です。

ある日又左衞門は、京都へ向かう飛脚の太郎を馬に乗せて次の宿場まで送りました。

日暮れ前にようやく帰宅して、さて馬でも洗おうかと鞍を取り外すと、なにやら財布のような袋が出てきます。
中味をあらためると、なんと200両もの大金が入っています。

驚いた又左衞門は、
「これはもしかしたら,さっきの飛脚のものかも知れない。今ごろは、あの飛脚きっと困り果てているに違いない」と思います。

又左衞門は、夕暮れの道を、飛脚の泊まっている宿まで、30キロの道のりを急いで戻りました。

一方、宿にいた飛脚の太郎は、さて、風呂でもはいろうか、その前に荷物をあらためようとしてみると、なんと大金を入れた袋がない。
必死であたりを捜したものの,どこにも見つからない。
真っ青です。
たいへんなことになった。

そこに宿の主人が「お客さん、さっきの馬子が来ていますがぁ」と声をかけてきます。
飛脚の太郎が玄関に出てみると、さきほどの馬子が、ニコニコして立っている。

馬子の又左衞門は、
「これが鞍の間に挟まっていましたよ。お忘れ物です」と、包みを差し出します。

又左右衛門が差し出したのは、必死に探していた200両の包みでした。
その場で中身を調べると、ピタリと全額揃っている。

飛脚の太郎は、「この金子は加賀藩前田家の公金です。京の屋敷へ送り届ける途中だったのです。もしもこの200両が見つからなかったなら、自分は死刑になっていました。親兄弟にまで迷惑をかけるところでした。ありがとうございます」と、涙ながらに話しました。

そして太郎は、自分の荷物から財布を取り出し、とりあえずのお礼として又左衞門に15両を差し上げようとしました。

ところが又左衞門は、それを受け取ろうとしません。
「あなたのお金を、あなたにお届けしただけです。なんでお礼などいりましょうか」と言うばかりです。

それでも太郎にしてみれば、馬子はある意味、命の恩人でさえあります。なんとかお礼をしなければ気が済みません。
そこで彼は、15両を10両に減らしました。

それでも馬子の又左衞門は受け取りません。
さらに5両,3両と減らして馬子に受け取ってもらおうとするのですが,それも受け取ろうとはしません。

困りはてた太郎の顔を見かねて、又左衞門は、
「それじゃあ、ここまで歩いてきた駄賃として200文だけ頂戴いたしましょう」と言いました。

そして200文を受け取った又左衞門は、そのお金でお酒を買ってきます。
そして宿の人たちと楽しそうに一緒にお酒を飲み交わし始めました。

お酒もなくなり,又左衞門は、ほろ酔い機嫌で帰ろうとしました。
飛脚の太郎は、感激のあまり又左衞門に聞きました。

「あなたはどのような方ですか?」

すると又左衞門は言いました。

「自分は名もない馬子に過ぎません。
ただ,自分の家の近所に小川村(現在の滋賀県安曇川町上小川)というところがあります。

その村に中江藤樹という先生がおられ、毎晩のように良いお話をしてくださり、自分も時々聞きにいくのです。

中江藤樹(なかえとうじゅ)先生は、親孝行をすること、人の物を盗んではならないこと、人を傷つけたり人に迷惑をかけたりしてはならないことなどをいつも話されます。

今日のお金も、自分の物ではないし、きっとさきほどのお客さんがお困りだろうと思ったまでのことです。」

そう言って、又左衞門は、夜もふけた街道を歩いて行きました。


中江藤樹は、近江国小川村の農家、中江吉次の長男として生まれます。
農家と言っても苗字がありますから、庄屋の家柄であったろうと思います。

藤樹は、9歳の時、米子藩主加藤家の150石取りの武士である中江徳左衛門の養子となり、米子に移り住みます。

中江藤樹が学問を始めたのは、米子に移ってからだと言われています。
1年ほどで大変難しい本も読めるようになったと言いますから、そうとう出来の良い子だったようです。

中江藤樹は、15歳で家督を相続しますが、27歳で脱藩し、故郷の小川村に戻ります。
宮仕えの武士ではなく、自らの学問を深めようと決意したからだといわれています。


小川村に戻った中江藤樹が、村で最初に知り合ったのが、馬子の又左衞門です。
良い人の周りには、自然と良い人が集まる。

藤樹は、又左衞門に、自分の刀を売ってもらいます。もう武士はやめるから、いらない、というわけです。

このときも、又左衞門は、頑として謝礼のお金を受け取らなかったのだそうです。
それどころか、是非、塾を開いて、自分たちを教えてくださいという。

夜になると、又左衞門は、さっそく馬子仲間の与六や、七兵衛を連れて藤樹の家にやってきます。

こうしてはじまったのが、中江藤樹の私塾「藤樹書院」です。
中江藤樹の私塾国の「藤樹書院」は、国の史跡に指定され、いまでも滋賀県高島市にあります。

藤樹書院
藤樹書院


塾は、慶安元(1648)年8月25日、藤樹が41歳で没するまで14年間続きます。
中江藤樹は、ここで、武士や近隣の庶民に「良知の学(良知心学)」を教え広めます。

「良知心学」という学問は、陽明学を日本風にしたものです。

「良知心学」では、人は本来美しい心(明徳)を備えていると説きます。
明徳とは、心の鏡です。学問は心の鏡を磨くためにある(致良知)。

心の鏡が曇ると、人は物事を正しくとらえることができなくなる。ゆがんだものの見方をする。
そのゆがみが、人と人との争いを引き起こす。

だから、心の鏡を常に磨き、自分が善いと信じることを断固実行せよ(知行合一)と説きます。

中江藤樹の書
中江藤樹の書


中江藤樹が私塾を経営しているころのことです。


塾のある小川村からほど近い鴨村の街道沿いに、一軒のそば屋がありました。

その主人は、藤樹先生が大変りっぱな学者だと聞きおよんで、先生に店の看板を書いてもらったら、きっと商売繁盛になると思い立ち、まっさらの板をかかえてお願いに上がりました。

先生は、ふたつ返事で承諾してくださいました。

一週間が過ぎた頃、主人が先生の屋敷をたずねると、

「まだできておりません。もう少し待ってください」との返事でした。

それからまた10日ばかりが過ぎた頃にうかがうと、そこにはみごとな字で書かれた看板ができ上がっていました。

主人はとても喜び、さっそく店の軒先に吊るしました。


ある時、大名行列があって、そば屋の近くで休息をとりました。

家来がお殿様にお茶を差し上げるためにそば屋に行くと、軒先の看板に目が止まりました。
見事な書です。
「これを殿様に献上したら、きっとお喜びなされるに違いない」
家来は、大金を主人に渡して、看板をもらいうけました。

思わぬ大金が手に入って喜んだ主人は、もう一度、先生に頼んでおなじ看板を書いてもらおうと、屋敷に行きました。

先生は、主人を座敷に上がらせ、家の奥から半櫃(はんぴつ)を運び出してふたを開けました。

すると、その中にはなんと「そば屋」の下書きが、びっしりと入っていたのです。

それを見た主人は、驚くとともに、自分のなした言行の軽率に、深く恥じ入ったといいます。


中江藤樹が亡くなって何年も経ってからのお話です。

一人の武士が、小川村の近くを通るついでに中江藤樹の墓を訪ねます。

畑を耕している農夫がいたので,その武士は農夫に道を聞きました。

農夫は自分が案内しようと言って先に立って歩いてくれました。

ところが、途中で農夫は自分の家に立ち寄って着物を着替え、羽織まで着て出てきました。

武士は心の中で、「自分を敬ってこのようにしたのだろう」と思ったそうです。

中江藤樹の墓に着いたとき、農夫は垣の戸を開けて、武士をその中に入らせ、自分は戸の外にひざまずいて拝みます。

武士は、そこで初めて、さっき農夫が着物を着替えたのは藤樹先生を敬うためであったと気が付きます。

それで深く感心して、ていねいに藤樹先生のお墓を拝んだということです。


以下は、中江藤樹の言葉です。
中江藤樹記念館HPより転載)


父母の恩徳は天よりも高く、海よりも深し。

父母からうけた過去の恵のおおきさは、とても推し量ることができません。
いずれの父母も、わが子をおおきく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものです。ただ、その苦労をあえてわが子にむかって語ろうとはしませんので、そのことが判らないのです。
藤樹先生は、そのような父母のなしてきたあらゆる苦労を「千辛万苦」と表現しています。


それ学問は心のけがれを清め、身のおこないをよくするを本実とす。

そもそも学問というのは、心のなかのけがれを清めることと、日々のおこないを正しくすることが、本来のありようなのです。
高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れません。
だが、そのような知識つめこみのために、かえって「高満の心」にふかく染まっている人が多い、と藤樹先生は説いています。


人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし。

私たちは、姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖があります。
しかし、すべての人間は、明徳という、金銀珠玉よりもなおすぐれる最高のたからを身につけて、この世に生をうけたのです。
それゆえ人間は、すべて善人ばかりで、悪人はいません。
藤樹先生は、四百年前に、このような「人間賛歌」を首唱したのです。


善をなすは耕うんのごとし。

善行というのは、あたかも汗水をながして、田畑を耕すようなものです。すぐに穀物を得ることはできませんが、かならず秋にはちゃんと実り、耕した人の口にはいるのです。その反対の悪行というのは、人間としてあるまじきおこないのことをいいます。


それ人心の病は、満より大なるはなし。

私たちにそなわっているりっぱな徳をくもらしてしまうのは、「満心」という病気が、そのいちばんの原因なのです。
どの辞典にも、慢心と書かれていますが、藤樹先生はあえて「満」という漢字をもちいました。
われこそが、というおごりたかぶる心をいいます。
この心に染まっているかぎり、人に対するあたたかい思いやりの言行などは、さらさら出てきません。
そのはてには、大事なものをうしなってしまうのです。


天下の兵乱も、また明徳のくらきよりおこれり。

先史の時代から、この地球上において、人間どうしの悲惨な戦争がたえまなく起こっています。
なぜ戦争が繰り替えされるのでしょうか。
その原因のつまるところは、明徳をくもらせていることにあると、藤樹先生は断言しています。
政治にたずさわる者の「利欲の心」と「満心」によって、明徳をくもらしてしまうのです。
それをとりのぞくには、論語や孟子などの古典をまなぶことが、だれにでもできる最上の方法なのです。


最後にひとつ、中江藤樹のお弟子さんのお話です。

さて、中江藤樹の弟子に、熊沢兄弟がいます。兄が蕃山、弟が仲愛です。

親の土地を誰がどれだけ譲り受けるかということで,ある兄弟が激しく喧嘩をしていました。
代官がけんかをやめるよう命令しても全然聞かない。

そこで、熊沢仲愛が、この兄弟を仲直りさせるよう頼まれました。

仲愛は、まずその兄弟を自分の家に呼びました。
兄弟は小さな部屋に通されます。

仲愛は自分の家来に次のように言わせました。

「主人は急な用事が出来たので、しばらくお待ちくださいませ。食事とお風呂は自由に使っても構いません」

そしてその兄弟をずっと待たせておきました。

兄弟は憎しみ合っているので、最初何も話しませんでした。

けれど,だんだんと幼い日一緒に遊んだ頃のことや両親に大切に育てられたことを思い出しました。

ついには兄弟涙を流して、お互いに自分が悪かったと謝り、おいおいと泣きました。

そこへ熊沢仲愛が部屋に入り、一言「本当に喜ばしいこと」と話すと,兄弟は仲良く家に戻ったそうです。


中江藤樹の門下生に、熊沢蕃山がいます。その弟子が大潮平八郎であり、幕末の藤田東湖、吉田松陰などに受け継がれてゆきます。

そして戦前の小・中学校の修身の教科書には「近江聖人、中江藤樹」の名前が必ず出てきましたから、藤樹の思想は、戦前までの日本には確かに受け継がれてきたものといえます。

戦前までたしかにあって、現代社会で失われたもの。
それは、中江藤樹の明徳の思想なのかもしれません。

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中江藤樹


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ふざけるな!南京大虐殺テーマの2人芝居 下諏訪で2月20日公演

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南京で閲兵する松井石根大将
南京で閲兵する松井石根大将


以下は、日心会MLで投稿があった情報です。

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南京大虐殺テーマの2人芝居 下諏訪で2月20日公演
http://www.shinshu-liveon.jp/www/topics/20178

都内の劇団「IMAGINE(イマジン)21」が2月20日午後1時半から、南京大虐殺をテーマにした劇「地獄のDECEMBER-哀(かな)しみの南京」を下諏訪町の下諏訪総合文化センターで公演する。諏訪地方の有志約30人が実行委員会をつくり、「戦争の恐ろしさをきっちり見据えよう」と来場を呼び掛けている。

劇団を主宰する渡辺義治さんと妻横井量子さんが出演する2人芝居。渡辺さんの父は旧関東軍将校として中国人を殺害したことがあり、横井さんの父も軍人を相手に商売を営んだという。劇では2人がそれぞれの父の「罪」を告白するなどして進む。

前売り一般3000円、中高生1000円、当日券はともに500円増。問い合わせは実行委チケット担当の吉村幸子さん(電話090・8087・9423)へ。

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いやなニュースを見つけてしまいました。
実行委員は共産系の人たちでしょうね。
見てしまった以上、真実を知せたいので、近場にメールしました。

ゆるゆるすぎてピントが外れていると思われましたら、ご講義(コメント)下さい。
また、ご協力いただければメールフォームをご使用下さい。
以下文章です。ご自由にお使い下さい。

~~~~~~~

「地獄のDECEMBER-哀しみの南京」上演実行委員の皆様へ。

諏訪地方有志の皆様が実行委員会となり、下諏訪総合文化センターで上記公演の運びとなったことを知り、ご意見申し上げます。
一読していただければ、幸いいたします。

南京事件に関しては、今、日中共同研究の渦中にあります。
中国の大虐殺記念館が犠牲者「30万人」と表示していても、日本の研究者の間では「数万~20万人」などの諸説あり、虐殺そのものを否定する研究者もいるのが現状です。
中国と日本の歴史認識として、もっとも意見の食い違う大きな問題ともいえます。

数で言えば、当時の南京市民は20万人、その翌月には安全区を求めて難民が25万人に増えているのです。
当時のもので、映画「ジョン・ラーベ」の主人公・安全区ラーベ委員長から日本軍への感謝状もあります。
東京裁判での証言や大虐殺記念館での写真などは次々と虚偽であると立証されています。
平成7年、南京陥落翌日から翌年にかけて南京城内外を撮影した記録フィルム「南京」(昭和13年(1938)公開)が発見されました。
そこには、日本軍の虐殺などあるはずもなく、南京攻略後の安全区で暮らす南京市民の姿が写し出されていました。

敗戦意識から負い目を感じ、事なかれ主義で、真実からも目を背けていくことは恥ずかしいことだと私は思います。
さらに、偽りの歴史により次代の子供たちに生きていく辛さを背負わせていくことに、私は心苦しいのです。

ご多忙中の折、突然のメールにて失礼いたしました。
実行委員の皆様が歴史と向き合う以上、嘘偽りのない真実に沿った活動をしていただければと思っております。
いつの日か、平成19年日本製作映画「南京の真実」の上映など、諏訪地方の皆様へ史実を伝えていただける機会を作っていただきたく存じます。

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下諏訪町総合文化センターお問い合わせフォーム
https://www.event-nagano.net/pc/inquiry/inquiry.php

下諏訪商工会議所お問い合わせフォーム
http://www.cci.shimosuwa.nagano.jp/22/000073.html

下諏訪町町長宛のメールフォームです。http://www.town.shimosuwa.nagano.jp/scripts/chouchou.asp

下諏訪町町長メールアドレス
chouchou▼town.shimosuwa.nagano.jp

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このことは、項を改めて、また別の機会に詳しく書こうと思うのですが、支那が南京で大虐殺があったと主張している南京攻城戦は、昭和12(1937)年12月4日~12月13日に行われた戦闘を指します。

この戦いは、日本軍は、松井石根(まついいわね)大将率いる陸軍中支那方面軍12万と、支那国民党軍は、最高指揮官唐生智(とうせいち)率いる、南京防衛軍、第23集団軍、ソ連空軍による合計約9万の攻城戦です。

12月4日、上海にいた松井岩根(まついいわね)大将率いる帝国陸軍中支那方面軍12万は、南京城郊外まで兵を進めます。

日本軍は、使者を送り、国民党南京守備隊に降伏勧告を行います。

なんの反応もないので、やむなく松井大将は、9日の正午に、南京城内に飛行機で和平開城勧告文のビラをまきます。

10日午後一時まで、待つけれど、城内からは、何の回答も反応もない。

南京城を囲んでから、この時点ですでに6日です。
つまり、松井大将は、6日間もの間、南京城に立て篭もる国民党に対し、和平と降伏の呼びかけを続けたのです。

にもかかわらず、なんの連絡もないから、やむなくこの日の午後から、日本軍は総攻撃を開始した。

日本国内では、松井大将が4日に南京を囲んでいるのだから、もうとっくに南京城は陥落したものだろうと考え、なんと11日、全国的な南京陥落の祝賀行事などが行われています。

実際には、南京城が陥落したのは13日です。
この日、日本軍は南京城内に入場した。

南京城入場式(馬上先頭が松井石根大将)
南京城入場式


松井大将は、南京城入場のあと、12月14日、15日、16日の3日間、南京城内の敗残兵掃討を行います。

このとき大虐殺が行われたのでは? とんでもない。
松井大将は、敗残兵掃討にあたり、次の指令を出しています。

(1) 外国権益に留意せよ。
(2) 住民に対して十分な配慮をせよ
(3) 失火放火に厳重注意せよ。
(1)~(3)を犯せば厳罰に処す。

(4) 将校の指揮する掃蕩隊でなければ認められず、下士官の指揮では認めない
(5) 無用の部隊の侵入は認めない
(6) 掃蕩を終えて帰還する時刻を定めた
(7) 捕虜は一箇所に集め、その食料は師団に請求すること
(8) 捕虜に対しては、通訳役をつけて問題を起さないようせよ

そもそも松井石根大将という人は、昭和9(1934)年4月に、勲一等旭日大綬章を受賞した軍人です。陸軍士官学校を次席で卒業し、陸軍大学は首席で卒業している。

一にも二にもとにかく軍紀にやたらと厳しいことで知られている人です。
若手将校の間では、頑固爺として、敬遠する声すらあった。
それだけ軍規に厳しい大将だったのです。

悪いけれど、国民党の敗残兵は、国民党に捕まって漢奸として斬殺されるよりかは、日本軍に捕まえてもらって、三食、医療手当付きで手厚く保護してもらったほうが、どれだけ幸せだったかしれない。

3日間の敗残兵処理のあと、松井大将は、17日、陸海軍合同で、南京城入場式を行います。


南京城入城式当日の様子
南京の避難民が、日本兵から菓子・煙草の配給を受け、喜んで日本軍万歳を叫んでいるところ。
この自然な笑顔を見てください。
南京城入城式当日の様子


そして18日には、合同慰霊祭をとり行い、敵味方ともに、戦没者の慰霊の儀を行っています。

年末の大掃除では、城内の大掃除を軍民あげて大敢行し、被災によるガラクタをきれいに片づけ、新年の松飾りを司令本部前に飾り、餅をわざわざ日本から取り寄せて、南京市民に配ったりもしている。

南京市民は、このとき市内のあちこちで爆竹を鳴らして新年のお祝いをしています。
これは南京市の治安が回復していたという何よりの証でもあります。
なぜなら爆竹の音は銃撃の音と同じです。
治安が回復していないなら、爆竹なんてとんでないという話になる。

そして入城から半月後の昭和13(1938)年元旦には、南京城内に、自治委員会を発足させ、南京市民の代表である陶錫三会長が次の宣言文の朗読をしています。

一、国民党の一党専政を廃止し、民衆を基礎とする政治を実行す

二、各種親日団体と合作し、日支提携の実を挙げ、もって東洋平和の確立を期す

三、防共政策を実行し、抗日排日思想を絶対に排除し、欧米依存の観念を矯正す

四、産業を振興し、民衆の福祉を増進す

五、広く人材を登用し、民衆自治の徹底を期す

南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読
南京自治委員会発会式における陶錫三会長の宣言朗読


この発会式では、南京市民は、総出で日の丸と五色旗を振ってお祝いをしています。
発会式の式場には、なんと3万人の参加者がつめかけている。
誰も強制なんてしていません。日本軍によって治安が回復され、街に平和が戻ったことがなにより南京市民たちにとって、うれしかったのです。


ところで、南京城にいた蒋介石たちはいったいどうしたのでしょう。

まだ戦闘が始まってすらいない、日本軍が投降を呼びかけていた12月7日の時点で、蒋介石他、支那国民党の首脳陣は、さっさと南京を脱出しています。

大将がいなくなったのです。南京では、南京市の要人や公務員たちまでも、戦闘開始前に、南京を逃げ出す市民たちにまぎれて、そくさくと南京を脱出してしまった。

南京市内には、役人もいない。警察もいない。軍を統率する幹部もいない。
南京城内は、無政府状態となります。
電話もつながらないし、電気・水道も止まってしまう。

取り残された国民党兵士たちは、大将不在で、無政府状態となっていることをよいことに、市内各所で略奪、殺人、強姦を繰り広げます。

さらに、戦闘開始から二日目(12日)に、南京城守備隊長の唐生智(とうせいち)も、兵をそっちのけで、全軍に「各隊各個に包囲を突破して、目的地に集結せよ」という命令を出して、さっさと逃げてしまった。

こうなったときの、南京市内の惨状は、推して知るべしです。

そもそも、わたしたち日本人は、軍隊といえば厳しい軍律があり、戦うために訓練され統率され、軍服をまとった兵士たちを想像します。

ところが蒋介石が率いていた国民党軍団というのは、なるほど装備だけはドイツ製の高級装備でいたけれど、わたしたちが一般に想像するような軍隊とはまるで性格が異なります。

これは、南京だけに限ったことではなく、上海をはじめ随所で各国の公使たちが、その実情をつぶさに見聞している。


まず第一に、彼らは武器を持たない同民族の一般市民に対しては、やたらに強かった。

国民党軍は「漢奸狩り(かんかんがり)」と称して、日本軍と通じている、日本軍に一定の便宜を図ったとみなした同民族人を、裁判もなしに、銃殺や斬首でいきなり殺害し、その生首を晒しものにしています。


第二に、国民党は「督戦隊」を組成していました。

「督戦隊」というのは、戦場から退却する支那兵に銃撃を加える部隊です。
国民党軍は、南京城に入り込むと、南京市民から適齢期の男性をいきなり徴用します。
さからえば漢奸であるとして、銃殺か絞首刑です。徴用に応じざるを得ない。

そして徴用兵に、自分たちが豊富に持っている銃や手榴弾などの兵器を与え、最前線で日本軍と戦わせた。

相手は、訓練された日本の正規軍です。方や素人部隊です。国民党の「督戦隊」に、後ろから銃を突きつけられているから、仕方なく撃っている一般市民にすぎない。
正規軍対一般市民です。勝敗は明らかです。

国民党の徴用兵(一般市民)は、途中で武器をほおり出して逃げようとする。
逃げようとする市民徴用兵に対し、日本軍の弾の届かない、後ろに控えている国民党の正規軍兵士(督戦隊)が、「逃げるな!」といって、容赦なく同じ支那人達を殺しまくる。

このため日本軍と交戦した中国軍の部隊が退却する際には督戦隊との衝突が何度も起きています。

第二次上海事件では、上海が外国人公使たちが数多くいたことから、その事実関係が、各国の監視のもとに、ほぼすべてが白日のもとに晒されているけれど、昭和12(1937)年10月13日午後には、次のような事件が起こっています。

この日、上海楊行鎮方面に国民党第十九師(湖南軍)が到着しました。
第十九師は、命令を受けて呉淞クリーク南方に向かいます。

そこには日本軍がいた。
慌てた第十九師は、驚いて後退します。

すると国民党正規軍(督戦隊)が、第十九師を後退させまいとして発砲。
逃げようとする第十九師と、督戦隊との間に、激しい銃撃戦が行われた。

日本軍はカヤの外です。
目の前に、支那の師団が現れたと思ったら、いきなり後退し、こんどはその後ろにいる国民党督戦隊と撃ちあいを始めた。同士討ちです。

日本軍と督戦隊に挟まれた第十九師の部隊は、必死に督戦隊を攻撃する。
督戦隊も全力で攻撃する。

これによって第十九師と、督戦隊は、双方合わせて数千名に及ぶ死傷者を出しています。

この事件が起こって、国民党は何をやったかというと、事件の八日後に国民党軍法執行総監部命令で、「督戦隊の後方に、さらに死刑の権限を持った督察官を派遣し、前線将兵の取締りを行うとの発表しています。

市民兵に戦わせるため、正規軍が、市民兵の後ろから銃を突きつけ、その正規兵が逃げないようにと、さらに正規兵を監督する督察官が、正規兵に銃を後ろから突き付けるというわけです。


第三に、国民党は「清野戦術」という戦法を行っていました。

「清野戦術」とは、退却に際して敵軍に利用させないために民家などをすべて焼き払ってしまうというものです。ついでにこのとき略奪もしていく。

これは、南京攻城戦においても、国民党兵士が南京から撤退する際に、放火、略奪、強盗、殺人、強姦の限りをつくしている事実を、ニューヨーク・タイムズのダーディン記者が目撃、報告しています。


第四に、国民党は、「便衣兵」を用いていました。

軍隊といえば、軍服を着て、武器を携行しているというのが世界の常識的スタイルです。
ところが、国民党兵士は、農民に偽装して、日本兵を背後から襲うというゲリラ戦法を多用していた。

これは国際法違反です。
軍人は、戦いに際し、常にそれとわかる服装をしなければならない。
当然です。そうでなければ、一般市民との識別がつかない。一般市民を戦いの巻き添えにしないためには、軍服の着用は当然のことだし、軍人も、厚手の軍服をまとうことで、軽微な怪我から我が身を守ることができます。

ところが国民党の「便衣兵」というのは、この国際ルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をする、という不法な「禁じ手」を多用していました。


蒋介石は、昭和51(1976)年のサンケイ新聞によると、昭和13(1938)年の蒋介石自身の日記に、

「虐殺の対象は軍隊だけでなく、一般の婦女子にも及んだ」
「こうした戦闘員・非戦闘員、老幼男女を問わない大量虐殺は2カ月に及んだ」
「犠牲者は三十万人とも四十万人ともいわれ、いまだにその実数がつかみえないほどである」

と書いているとされているけれど、その肝心の蒋介石自身は、昭和41(1966)年9月に、台湾で日本人のインタビューに答えて、次のように述べています。

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南京には大虐殺などありはしない。

何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとそのことを記録している筈です。

私も当時、大虐殺などという報告を耳にしたことはない。

松井閣下は冤罪で処刑されたのです。
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と涙ながらに語っています。

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映画 南京の真実 記録映画編(上海~南京陥落)


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日本刀と鉄砲伝来

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日本刀0009


「日本刀(Japanese Sword)」という呼称は、実は、海外製の日本語です。

もともと日本では、刀(かたな)か剣(つるぎ)と呼んでいました。
ですから、刀鍛冶(かたなかじ)はいるけれど、日本刀鍛冶(にほんとうかじ)はいません。

「日本刀」という呼称が最初に用いられたのは、北宋の詩人、欧陽修(おうようしゅう 1007年~1072年)の「日本刀歌」です。

この歌は、宋では焼かれ、散逸してしまった書物が、日本にはいまだに存在しているのは嘆かわしいことだ、という主題の漢詩です。
その詩の中に、支那の商人が宝刀と呼ばれる日本の刀を、日本まで買い付けに行くことが歌われている。

支那の北宋の時代といえば、日本では平安時代です。
そんな時代にも、日本刀は、高い評価を得ていました。

時代が下って、幕末から明治になると、日本画とともに日本刀が西洋に数多く流出します。

日本刀の「吸い込まれるような」切れ味というものは、世界中、どこにもない鋭いもので、これが西洋で大評判になります。

で、日本画が西洋の絵画と区別して「日本画」と呼ばれるようになったことに呼応して、日本刀も、「日本刀」と呼ばれるようになったのだそうです。

おもしろいことには、日本刀は西洋でしきりに研究され、その成分分析や、切れ味の分析が事細かに行われるのですが、結果として西洋人が、日本刀を作ることはありませんでした。

理由は、「鍛えて焼きを入れることができなかった」のです。

工芸品や技術品は「マネをしたらできる」ほど甘いものではありません。
さりげない部品のひとつ、鉄の鍛え方ひとつをとっても、長い年月をかけた創意工夫あります。
トヨタが最新鋭の工場設備を支那に作ったけれど、支那トヨタで作ったエンジンは、トラブル続出になっている。
機械を使ったらできる。ロボットを使えばできる、教えたら簡単にできる、そんな甘いものではないのです。


鉄を溶かすためには、1800度の高熱が必要です。
西洋では、コークスを使って鉄を溶かし、鋳型に流し込んで刀を作ります。

しかし日本の燃料は木炭です。これは最高でも1200度にしかならない。
ですから、鉄は完全には溶けません。
完全には溶けないから、鉄をたたくことによって均質にし、さらに刃の部分に焼きを入れて、そこだけ硬さを増して、薄く研いだときによく切れるようにしているのです。

これはたいへんに手間のかかる作業です。
加えて、叩きにものすごい技術がいる。ただやみくもに叩けば刀になるというものではないのです。

このたたきによって、鉄の重さがどれくらいになるかというと、なんと、3分の1です。

鉄の中の不純物を減らすため、刀鍛冶は、全体の重量が3分の1になるまで槌(つち)で刀身を叩くのです。

そして刃の部分以外に粘土を塗って火の中で焼きます。
真っ赤に焼けた刀身を、水につけます。

すると粘土のない刃の部分は硬くなり、粘土に包まれた刀全身は柔軟性のある柔らかさを持つようになります。

さて1543年、ポルトガル人を乗せた貿易船が種子島(鹿児島県)に流れ着きました。
鉄砲伝来です。

当時16歳だった島主・種子島時尭は、2丁の鉄砲を買いました。購入金額は、いまの相場に換算すると約1億円だそうです。つまり、鉄砲1丁を5000万円で買った。

なぜ2丁買ったかというと、1丁は鉄砲として使うために、もう1丁は研究するためです。

種子島時尭は、家来に命じて鉄砲作りを徹底的に研究させ、翌年には、国産の鉄砲を作ってしまいます。

ポルトガル人にしてみると、鉄砲1丁が5千万円です。
これは大儲けできる。そう思って、彼らは1億円相当の銀を得て、ポルトガルに帰ります。
そして翌年には、船に鉄砲を山盛りにして再び日本にやってきた。

鉄砲のない日本に鉄砲を売れば、大もうけできると、踏んだのです。
ところがこの鉄砲は、まるで売れなかった。

なんと日本では、その頃には、すでに改良を施した高性能の鉄砲を量産化していたのです。

同じ16世紀、南アメリカのインカ帝国にもスペイン人が鉄砲を持ってやってきました。
そして、スペイン人にやられ、数年足らずのうちにインカ帝国は滅亡し、文明の痕跡しか残っていません。

ちなみにインカは、黄金文明だったといわれています。
ものすごく金が豊富だった。いわば金ピカ文明です。

人類が誕生してから、現在にいたるまで、人類が採掘した金は、25Mプールに換算すると、ちょうど3杯分になるのだそうです。

ところが、そのうちの2杯分は、実は日本で産出している。
いまの日本は「金」がありませんが、これは明治のはじめに日本の金が銀と交換されて海外に大量に流出したせいです。

ですから言い換えると、インカ以上に金の豊富な日本は、16世紀、まさに黄金の国ジパングだった。

ところが、インカは滅亡し、日本は生き残っています。

インカはたった150人のスペイン人の銃によって滅ぼされました。

日本は、 たった2丁の鉄砲から、翌年には国産第1号の鉄砲を完成させ、翌年の後には、世界有数の改良型の高性能鉄砲保有国になってしまっていたのです。

こんなことが起こったのは、当時の世界で、日本だけです。

なぜ、そんなことができたのか。
実はそれは、日本は古くから、日本刀を製造する高度な鉄の加工技術があったからです。
当時の刀鍛冶たちは、刀を大量生産するシステムをすでに作り上げていました。
その技術集団が、こんどは鉄砲作りに取り組んだのです。


鉄砲伝来から32年後に、長篠の合戦(1575年)が行われます。武田軍と織田軍が相対した。
このとき、武田軍、織田軍とも、それぞれ武田の旗、織田の旗のほかに、両軍とも日の丸を掲げています。我こそは日本を代表する武家である、という印です。

この長篠の戦では、織田軍は、3000丁もの鉄砲を揃え、三列交代式鉄砲連射というヨーロッパですら使われたことのない戦術を用いています。

当時の鉄砲は1発撃つごとに、銃口から火薬と弾を詰め込みます。薬きょうに弾を込めて、後ろから叩くという銃弾が登場するのは、これよりもずっと後の時代です。

銃口から弾を込めるということは、最初の弾を1発を撃ったら、2発目を撃つ頃には敵の騎馬隊が到着してしまう。

そこで信長は、鉄砲隊の前に柵を作り、騎馬隊がすぐに突入できないようにしておいて、3000丁の鉄砲を3列に分けて配置した。
そして1発目を撃つと、すぐに引き下がって2列目のものが撃つ。同様に3列目のものが撃つとことによって、間をあけずに鉄砲を連射します。

信長のこの三列交代式鉄砲連射の戦法は、世界初の戦法です、
銃の本場である西洋で、この戦法が使われ出したのは、なんと1917年、第1次世界大戦の終わり頃です。なんと、信長の鉄砲隊の342年も後のことです。

さらに関ヶ原の戦い(1600年)では、なんと5万丁の鉄砲が火を噴きます。
この頃の日本は、すでに世界最大の鉄砲生産国になっていたのです。

関ヶ原当時、日本の所有する鉄砲の数は、世界中の鉄砲の数の何%をしめていたかというと、これがなんと、世界全体の5割です。

鉄砲が日本に伝わってから約60年後には、日本は世界最大の鉄砲保有国になっていたのです。

日本の技術力の高さは、今に始まったことではありません。
300年も400年も昔から、変わらず、世界一流の技術力を持ち続けているのです。
それこそが、日本の底力です。

もうひとつ付け加えます。
日本は戦国時代、それだけ大量な鉄砲や刀剣類を作っていながら、当時、それらを作るために大量の森林資源を伐採していながら、禿山(はげやま)を作っていません。

火力を得るために森林の伐採をしているのですが、同時に植林をしている。
なぜなら植林をしないと、崖くずれや洪水が起こるからです。

戦国大名たちは、そういう土木林業の育成も同時に行っています。

もちろん、日本が高温多湿であり、森林が育ちやすいという環境にあったことも事実ですが、欧米や朝鮮半島、支那等では、食事の火を得るために木を伐採し、土地の砂漠化を招いたり、禿山を作ったりしていることと比べると、なにやら天地の差があるように思えます。

当時、戦国大名の間で流行ったのが、茶道です。
茶道は、緑の中に草庵を営み、そこで、正装して、威儀を正して、酒も飲まずに、苦いお茶をすすります。

安い抹茶は、ただ苦いだけですが、高級な緑茶、これはいちど飲んだらわかりますが、まさに新緑の香り、濃厚な緑の香りがします。

つまり緑の中で草庵を営み、その中で緑(自然)への感謝の意をもって濃厚な緑のお茶をいただく。自然への感謝をする。武器を得るために伐採した森林への感謝を捧げる。
だから、正装して、威儀をただしてお茶をいただいた。
だから、茶道は礼儀の道、自然との一体の道となったといわれています。


日本刀の刀鍛冶の技術、世界最大の鉄砲保有、緑への感謝、そういったものが渾然一体となって日本の文化を築いている。

やっぱり、日本て、いいですね♪

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The Samurai Sword 1/3


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民主党の嘘つき議員・末松義規を許すな!

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いけ図々しいとはこのことです。

末松義規衆議院議員という人物は、東京第19区(小平市/国分寺市/国立市/西東京市)選出で、民主党で衆議院議員を5期勤める議員です。

その末松義規が、1月22日の日テレの「太田総理」という番組に出演し、

「民主党は、外国人参政権はずっとマニフェストに入れて来た」

とテレビで堂々と嘘をついている。

下の動画です。

■永住外国人参政権法案に金美齢さんが切れる!100122


そもそも、マニフェストに「載っていない」のに、「載っていた」と嘘までつく。
こういう人物を国会議員として選び、投票した東京第19区の有権者は、猛反省すべきです。

末松義規議員のこれまでの制作や活動は以下の通り。

1999年8月13日に公布された国旗及び国歌に関する法律の成立に反対した。

2007年12月7日、在日韓国民団系列の「民主平和統一諮問会議日本地域事務所」が主催する、第13期民主平和統一諮問会議「2007平和統一フォーラムin東京」席上で、「拉致問題で日本国民の対北朝鮮不信が高まっている」と指摘、「日本が制裁を解き、しっかりとした交流を行い国交正常化を推進するには、核問題の進展とあわせて、北朝鮮の指導者には、拉致問題で誠意ある形の絵姿を示すことが求められている」と力説している。

2008年1月、在日韓国人等に参政権を付与することを目的とする「在日韓国人をはじめとする永住外国人住民の法的地位向上を推進する議員連盟」に参加。また民主党日韓議員交流委員会の事務総長である。

2008年5月30日、在日本大韓民国民団栃木県本部(金一雄団長)と栃木韓国商工会議所(陳賢徳会長)の会合で、白眞勲(参議院議員)と共に、「住民の声を政治に反映させるのが政治家の務め。皆さんの参政権獲得の思いを、これまで以上に政治家の出身選挙区でぶつけることが獲得への近道だ」と強調している。

また、「帰化すれば選挙権を得られる」という議論にについては、「参政権と同列に扱う問題ではない」とした上で、「帰化しない者に対する新たな差別が起きる。帰化するかしないかを踏み絵にすべきではない」と一蹴しています。

ホームページ上のマニフェストで、日韓のパートナーシップを機軸とした、東アジア共同体・アジア共同体の創設を実施目標にしている

ひらたくいえば、売国奴である。

またこの選挙区に限らず、有権者は断固末松議員、並びに地元民主党議員に対し、抗議の声をあげるべきです。

ちなみに、24日、kororinさんから、このブログへのコメントに、以下の投稿をいただきました。
外国人参政権についてです。


【参考】24日にkororinさんから、当ブログのコメント欄にいただいた情報です。

~~~~~~~~~
外国人参政権付与 「民主党議員が選挙民(有権者)にどう伝えたか調査報告書」

国民の代弁者である国会議員が「外国人参政権付与」をどのように考えているかは、非常に興味のあるところである。
なぜなら民主党の小沢幹事長が韓国まで行って「付与」を約束してきたからである。
民主党議員が自分の選挙区で選挙民(有権者)に 「外国人参政権付与」をどのように訴えているのかを調査した。

【調査結果】

各議員のホームページなどで政策、活動内容等調査。
注)ホームページさえ見つからない方はアピールしなかった人に含めた。

民主党議員総数  423名

外国人参政権付与を全く記載しなかった
(選挙民に全くアピールしなかった)議員の方
 414名 (97。9% )

外国人参政権付与を記載した上で反対を表明された議員の方
   1名 (0.2 % )

外国人参政権問題で韓国の状況などを紹介された議員の方
   1名 (0.2 % )

外国人参政権付与を記載し遠慮がちに支持を訴えた議員の方
   2名 (0.5 % )

外国人参政権付与を積極的にアピールした議員の方
   5名 (1.2 % )

以上が調査結果である。

これを見て明らかになったこと。

1)民主党議員は自分の選挙民(有権者)に外国人参政権について、全くといってよい程説明していないこと。

2)民主党自身がマニュフェストからわざわざ 外したわけだから、一般民主党議員は参政権付与をPRしなくても、なんら責任を問われることはない。

3)おかしいのはマニュフェストに載せずいきなり「外国人参政権付与」、を持ち出した小沢幹事長を含めた執行部であること。

4)このマニュフェスト違反は国民(選挙民)に対する裏切り行為であり、断じて許すことはできないこと。

(以上報告完)
~~~~~~~~~~~


【末松義規議員への抗議先】

小平事務所
〒187-0011 東京都小平市鈴木町2-731
 TEL 042-386-0611
 FAX 042-386-0711

国会事務所
〒100-8982東京都千代田区永田町2-2-1 衆議院第1議員会館403号
 TEL 03-3508-7103
 FAX 03-3508-3403

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外国人参政権法案が通ったら何が起きるか


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稲むらの火・・・浜口儀兵衛

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稲むら
稲むら


昔の人って、なるほど、こういう物語を読んで成長したから立派な人になったんだ、と思えるお語があります。
パラオの中川大佐の物語を読まれた方なら、もしかすると彼も、こういう物語を学んでいたのかもしれない、って思えるかもしれません。

実は、以下にご紹介するお話は、昭和12(1937)年から、昭和22(1947)年まで、小学校5年生の国語の教科書に掲載された物語です。(読みやすくするために、現代語にすこしアレンジしています)

~~~~~~~~~~~

「稲むらの火」

この事件が起こった頃、五兵衞はかなりの老人でした。
五兵衞の家は、村での物持ちでした。長い間、村の庄屋を勤めたので、五兵衞は村の人々から尊敬されていました。

村の人たちは、いつも五兵衞を「浜口のおじいちゃん」と呼びました。
村いちばんの金持なので、「浜口の大尽(だいじん)」ともいっていました。

五兵衞はいつも小作人や貧乏漁師のためになることばかりしていました。喧嘩の仲裁から、困った時のお金の立替え、ときには貧乏人にタダ同様に売ってやりもしていました。

五兵衞の大きな草葺(くさぶき)の家は、一つの湾を見おろした小さな高台の上に建っていました。
この高台は、小さい段々の水田が浜の方へと並んでいて、三方は山に取り巻かれていました。

この土地は、海に向って、その山の腹から浜辺まで、えぐりとったようになっていて、五兵衛の家は、その中程の高台にありました。

海の方から見ると、細い、白いうねうねした道が、段々の田を左右にわけて、下の村から五兵衛の家へと登っていました。そうして下の村には、湾に沿って90ばかりの草葺と、一つの神社とが並んでいました。


それは秋のある夕方の事でした。

五兵衛は、下の村の祭りの用意を、自分の家の縁側(えんがわ)から眺めていました。
その年は非常に稲の出来がよかったので、氏神で盛んな豊年祭が行われることになったのです。

老人は、村の屋根の上にひるがえっている大幟(おおのぼり)や、竹の竿(さお)についた祭提灯(まつりちょうちん)や、神社の森影に見える飾り行燈(あんどん)や、派手な揃い(そろい)を着た若い人たちの群を見ることができました。

その時五兵衛と一緒に居たのは、小さい十歳の孫だけでした。
他の者は早くから村の方へ下りて行きましたが、少し加減の悪かった五兵衛老人は、孫と淋しく留守居をして居たのでした。


その日は秋だというのに、何となしに蒸暑い日でした。夕方になるとそよ風が出ましたが、それでも何だか重くるしい暑さが残っていました。
そんな日にはとかく地震があるものでしたが、この日も間もなく地震が来ました。その地震は、別に驚くほどのものではありませんでした。

しかしこれまで幾百度となく地震を経験している五兵衛老人には、変に思われました。
長い、のろい、ゆったりとした揺れようでした。

多分極めて遠い土地の大地震の余波のようでした。家はきしみながら、幾度か穏やかに揺れて、また元の静けさに返りました。


地震が終ると、老人の鋭い考え深い眼は、気ぜわしそうに下の村を見ました。
ちょうど、何もわからない所で、何とはなしに少し変だという感じに、思わずある一方に気が取られるように、老人には、何となく沖合の方に、ただならぬ事があるように思われたのです。

立上って海を眺めました。海は不意に暗くなって、何だか風と反対に波が動いているようでした。波は、沖へ沖へと走っていました。


たちまちのうちに、下の村でも、この妙な出来事に気が付きました。
先の地震を感じた人は一人もなかったのですが、この海の動きには、皆が確かに驚きました。
老人の眼にも、村の大勢が浪際(なみぎわ)へ浪際へと走るのが見えました。

誰もかって知らないほど、海水が引きはじめました。
これまで知られなかった肋骨(ろっこつ)のやうな畦(あぜ)のある砂の広場や、海草のからんでいる大きい岩底が、見るまにあらわれて来ました。

が、村の人々は、この意外な引潮が何を意味するのかは知らないようでした。


五兵衛自身も、こんな有様を見たのは初めてでした。
しかし、幼い時に父が話したことがふと胸に浮んで来ました。
何百年の前にあったという伝説でも彼は知っているのでした。
彼には海がどうなるのかが解ったのです。

たぶんこの時、五兵衛老人の咄嗟(とっさ)に考えたことは、下の村へ孫を使にやるにかかる時間の事であったことでしょう。山のお寺の僧に、大釣鐘(おおつりがね)を鳴らして貰(もら)うまでに要る時間のことであったことでしょう。

老人は孫に向って、大声で命じました。

「おい、忠、早く。 大急ぎだ。 松火(しょうか)をつけて来い!」
(注:松火=たいまつ)

松火は嵐の晩に使うために、海岸の村々ではどの家にもありました。
子供はすぐに持って来ました。

すると、老人はそれを掴(つか)んで、家から少し下った田に急ぎました。
そこには浜口一家の1年の労役の酬として、熟しきった稲の刈束が、堆(うずたか)く積んでありました。

老人はその近いものに火をかけました。日に乾いた藁(わら)は、吹きあげる海風にどっと燃えあがりました。
老人は、走って第二の稲の山に火をつけました。第三の山につけました。

一山、一山、たちまちに天を沖する大きな煙の渦が、幾條も幾條も合わさって空に高く渦巻きました。


孫の忠は青くなって、
「お祖父さん。お祖父さん。どうして。どうしたの。」と叫びましたが、五兵衛老人は答えようともしませんでした。

彼はただ命の瀬戸にある下の村の四百人の事ばかり考えていたのでした。

忠は突然泣きだして、家の中へ駆けこみました。祖父が気が狂ったと思ったのです。


老人は自分の家の最後の稲むらに火をつけると、その松火を投出ししました。
この炎に、山寺から鐘が鳴り初めました。
村の人々はこの鐘の響に、この煙の渦巻に浜辺から村を過ぎて、丘へ丘へと、蟻のむれのように登って来ました。


日は沈みかかっていました。
湾の皺(しわ)のある海底や、斑(まだら)に土色のある大きい砂原の広がりを、最後の夕映がぼんやりと照らしました。

波はまだ、沖へ沖へと走っていました。

実際は、老人の思ったほど長くたたないうちに、火消のための一隊が高台に着きました。

その二十人ばかりの村人は、すぐ稲むらの火を消しにかかろうとしました。
老人は手を挙げて止めました。

「うっちゃって置け。燃やして置け。大変だ。村中皆ここへ来るのだ。」


村中の人々は追々と集まりました。
若い男たちや、子供が来ました。元気な女たちや娘なども来ました。それから老人の大方も来ました。しまいには、上からの合図に、子供を背負った母親たちも来ました。

が、次第に集まった人々は、やはり何事か知らずに、ただ燃えている稲と、老人の顔とを、不思議そうに眺めて居ました。日は沈みました。


「お祖父さんは気が違ったんだ。お祖父さんが火をつけたんだ。」

孫の忠はすすり泣きながら言いました。

「火をつけたのは俺だ。だが、村じゃみんな来たか?!」

老人が厳然と言いました。

村の組合のおもだった人たちや、家の主人たちは、人々の顔を見回したり、坂を上がって来るものを数へたりして言いました。

「はい、みんな居ます。でなくても、直ぐに参ります。一体どうしたのですか?」

「来た! 見ろ!」

老人は沖の方を指さして、力一杯の声で叫びました。

「来た。どうだ、おれはきちがいか? 見ろ!」

黄昏(たそがれ)のうす明かりをすかして、一同は東の方を見ました。
そして薄暗い地平線の端に、まるで海岸のような細い長い一線を見ました。
それは見ているうちに太くなりました。線は広くなりました。

たちまちその長い暗がりは、堤防のように、そうして絶壁のやうに聳(そび)えて、鳥の飛ぶより早く進んで来ます。押しかえしの波だったのです。


「津波だ!」と人々は叫びました。

海がおそろしく盛上がって、山々をとどろかす程の重さで、電をつんざいたような、泡沫とともに海岸にぶつかったとき、何ともいえぬ重い、強い、すべての叫び声を打ち消すような響きがしました。

一時は、雲のように坂の上へ突進して来た水煙のあらしの外には、何も見えなくなりました。
人々はうろたえながら、ただおびえました。

そして再び見直した時、人々は、家々の上に荒狂って走る、白い恐ろしい海を見ました。
その海は、うなりながら土地の五臓六腑(ごぞうろっぷ)を引きちぎって退きました。

二度。三度。五度。
海は進んでは退き、又進みました。

しかしそのたびごとに、波は小さくなって、だんだん元の海へと帰って行きました。大風のあとのやうに荒れながら。


高台の上には、しばらく何の声もありませんでした。
一同は、下の村の荒廃を無言のうちに見つめていました。

投げ出された岩や、裂けて骨の出た絶壁のものすごさ。家や社がさらわれた跡には、海底からもぎ取られた海藻や砂利(じゃり)が放り出されいるむごたらしさ。

村は無い。田畑の大部分も無い。浜には家が一つも無い。
見えるのは、ただ沖の方に物狂はしく浮き沈みする藁屋根の二つ三つだけです。

死を遁(のが)れた恐ろしさと、家と財とを奪われた悲しさに、人々はただ茫然とするばかりでした。


老人が再び言いました。

「稲に火をつけたわけは、あれだ」

人々は、自分の命が救われた事に気がつきました。
思わず地面に土下座して、五兵衛の前で涙にむせびました。
老人も少し泣きまた。嬉しさから、そして無理をした身体の苦しさから。

でもそのままでは居ませんでした。

「さあ、俺の家は村の家だ。お寺もある。皆しっかりしろ!」
彼は先に立って案内しました。人々はただ叫んだり、関の声を挙げたりしました。


それから村の困難は随分続きました。
しかし村はだんだんに回復しました。それには老人の努力も大きいものでした。


村が再び立て直されたとき、人々は五兵衛に対する自分等の負債を忘れませんでしたが、その偉大な慈悲の魂に対して、何とも酬(むく)いることが出来ませんでした。

彼らは、五兵衛の魂は全く神の如きものであると思いました。
そこでその魂のために、一つの社を建てて、鳥居の上には金字で「五兵衛大明神」の額をかけました。
村中は少しもその尊さを疑うことなく、この神の前に祈りと供物を捧げました。


それについて老人がどう感じたか、私は知りません。
ただ、私の知っているのは、下の村で彼が神として祀(まつ)られているとき、彼は山の上の古い草葺屋根の中で、子供や孫たちと一緒に、前の通り人間らしく質素に住んでいたことです。

もう彼が死んでから百年以上になりますが、神社はやはり存在していて、村人の祈りは、この善良な老人の御魂(みたま)に向って、今も捧げられているといふことです。

~~~~~~~~~~~~~

この物語の原作は、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の、「A Living God(日本名「生神」)」です。

ハーンは、明治29(1896)年岩手県三陸沖で起こった明治三陸沖地震のときの津波被害(死者2万1915名)の報に接して、この作品を書いたと言われています。原作は英語です。

明治三陸沖地震は、震源地が岩手県釜石市東方沖200kmで、M8.5の巨大地震です。
宮古測候所の地震計の記録によると、揺れは、なんと5分間という長い時間続き、各地の震度は2~3程度と微弱だったそうです。
だから誰も気にかけなかったし、地震による直接的な被害はほとんどありません。

ところが、この長い揺れのあとに、巨大な大津波がやってきます。
津波による被害は、死者2万1915名、負傷者4398名、家屋流失9878戸、家屋全壊1844戸、船舶流失6930隻です。甚大な被害です。

大津波の第一波は、地震発生から約30分後です。

当時の記録によれば、津波に襲われたのは北海道から宮城県にわたる広い範囲です。
北海道の襟裳岬では4M、青森県八戸で3M、宮城県女川町で3.1Mの津波でした。

巨大津波が襲ったのは、岩手県の三陸沿岸です。
最大波高は、釜石が8.2M、宮古市が18.9M、山田町が10.5M、大船渡市で22.4Mと、軒並み10Mを超える高さです。

特に綾里湾の奥では、入り組んだ谷状の部分を津波が遡上したため、日本の本州で、観測された津波としては、最も高い、波高38.2Mの津波となりました。入江では、津波が巨大化するのです。

三陸沖地震の大津波による被害
三陸沖地震の大津波による被害


平成16(2004)年に起きたインド・スマトラ沖地震(M9.3)では、大津波によっ22万人以上の死者が出ました。
タイのプーケット島では、当時、津波がやってきたときの様子が、テレビで日本でも数多く紹介されましたが、プーケットには、地震発生の2時間半後に巨大津波が到来しています。津波の速度は、なんと時速700kmです。


巨大地震による津波は、震源地から遠く離れた所にも影響がでます。

地震自体が巨大でも、震源地から遠く離れていたら、揺れは小さく、しかもゆっくりとしていて、長時間揺れが続きます。
そして沿岸部では、潮が大きく沖に退く。

退いた潮が、時速700kmという猛スピードで一気に押し寄せる。これが津波です。

もし、長時間の揺れ、潮が沖に退くことが、巨大津波の前哨であるということを多くの人が知っていれば、スマトラ沖地震では、これだけの被害はなかったかもしれない。
そう考えると、とても残念です。


スマトラ沖地震では、平成17(2005)年1月に、大津波の被害後にジャカルタで開催された「東南アジア諸国連合緊急首脳会議」で、シンガポールのリー・シェンロン首相が、当時の小泉純一郎内閣総理大臣に「日本では小学校教科書に『稲むらの火』という話があって、子供の時から津波対策を教えているというが、ほんとうか?」と尋ねたそうです。

残念ながら小泉総理(当時)は、戦後世代でこの話を知らず、東京の文部科学省に照会したけれど、誰も知らなかったといいます。


ハーンが書いた、「A Living God」は、実話です。

舞台となったのは、安政元(1854)年の安政南海地震で、このとき、紀州藩の広村(現在の和歌山県広川町)に襲来した大津波を、事前に潮の変化で悟った浜口儀兵衛が、大量の藁(わら)の山に火をつけて、村人を安全な高台へ避難させ村人を救ったという故事を題材にしています。

この安政南海地震は、M8.4の大地震です。津波の規模も上でご紹介した明治三陸沖地震と、ほぼ同等の規模のものです。

昭和9(1934)年のことですが、当時の文部省が新しい国語と修身の教材を公募します。

このとき、事件のあった村の隣村で小学校の教師をしていた中井常蔵が、ハーンが英文で書いた「A Living God」を、やさしく日本語に翻訳・再構成して「燃ゆる稲むら」という題名で、この物語を応募します。

原文はそのまま採用となり、「稲むらの火」と題されて、昭和12(1937)から、終戦後の昭和22(1947)年まで、尋常小学校5年生用「小学国語読本巻十」と「初等科国語六」の教科書に掲載されました。皇后陛下のお言葉の通りです。


しかしこの物語は、戦後すぐ、教科書から外されてしまいます。

占領軍であるGHQは、日本人の公徳心を養う内容を記載した教科書の記述に、ことごとく内容の削除と変更を求めた。このとき「稲むらの火」も教科書から削除の対象となりました。

日本は、昭和27年4月28日のサンフランシスコ講和条約発効で、約7年に及ぶ占領から解放されて、主権(独立)を回復したことになっていますが、あれから60年経って、いまだに教育の現場にこうした素晴らしい物語が、復活していません。

日本人の被占領化、とりわけ教育現場における被占領化は、いまだに続いているのかもしれません。


ちなみに、物語で紹介されている「津波の前に潮がひく」という事象については、一部の左翼系の学者などから「物語が説くような形で津波の襲来前に海水が退くとは必ずしも限らない」などと指摘されているそうです。

しかし、小規模の津波には、なるほどそれはないかもしれないけれど、甚大な被害を及ぼす大津波については、低い震度、長時間続く揺れ、沖に退く潮、が前触れであることは実際に多いわけだし、津波対策には、早期避難がとても大切であることを考えると、地震大国といわれる日本で、子供たちにこうした事柄を教える必要が「まったくない」といえるのか、疑問が残るところです。


さて、物語に登場する五兵衞じいさんですが、実名は「浜口儀兵衛」といいます。
実際には、当時おじいさんではなく、まだ30代の学習塾長だったようです。
家も町中にありました。
また、燃やしたのも稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山(=稲むら)でした。
津波が発生したのが、12月24日で、真冬のことですから、当然といえば当然です。


浜口儀兵衛のすごいところは、津波災害に際して迅速な避難に貢献しただけでなく、被災後、再び被害が起こることを考えて、私財を投じ、村人を動かして、津波除けの大堤防築造した点にもあらわれます。

浜口儀兵衛は、大堤防構築のために、工事費を自分が私財を投じて負担すること、広村に対し、一定期間、特別に年貢の免除することを、紀州藩に願い出、許可を得ます。

そして四年近い歳月を費やして、長さ652M、高さ3M(平均海水面上約4.5M)、幅、底面17M、上面2.5M~3Mという立派な大堤防を築造しました。

彼が私財を投じて堤防を建造しようとした背景には、津波から村を守るというだけでなく、被災し、家や漁船を失って虚脱状態に陥った村人たちに職場提供するためだったと言われています。

村人たちに、自分たちの力で堤防を築くことによって、独立自主の精神を養い、勤勉努力の習慣を身につけさせた。

約4年間の工事は、延5万6736名におよぶ雇用と労働奉仕を生みだしています。

そしてこの大堤防は、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して、村からまったく被害を出さなかった。


堤防は、いまでも残っていて、毎年11月には、広村では、津波祭が行われているそうです。
祭では、土を手で土手に運こび、感恩碑の前で儀礼を行う、といものです。

また地元には、浜口儀兵衛が幕末に開いた「耐久塾」の名を受け継いで、広川町立耐久中学校、和歌山県立耐久高校が、あります。


明治36(1903)年のことです。

浜口担(になう)という青年が、ロンドンに招かれ、The Japan Society で講演を行いました。

その席上、ある若い英国人の婦人が立ち上がり、

「皆さんの中には、ラフカディオ・ハーンが書いた『生神様』と題する物語を読んだ方もおられるでしょう。
私は、それを読んで、津波から村人の命を救った浜口五兵衛という人の智恵と勇気に深い感銘を受けました。
あなたは浜口というラストネームですが、何かつながりがおありでしょうか。」

彼は、実は梧陵の息子だったのです。

思いがけず、遠いこの地で、父の名前をイギリス婦人の口から聞いた担は、激しい感動のため胸がふさがり、一言も発することができませんでした。

司会者が近づいて小声で問いただし、そしてうなづき、担に代わって言いました。

「今夜の講師、浜口担氏こそ、ハーンの物語の主人公、浜口五兵衛のご子息なのです。」

会場の人々は、拍手と歓声で応えました。
(出典:平川祐弘著『小泉八雲-西洋脱出の夢』)


いまさらのことですが、小泉氏がジャカルタの会議で質問をされたより数年前の平成11(1999)年に、皇后陛下が、宮内記者会の質問に対するご回答の中で、次のように述べられました。

~~~~~~~~~~

子供のころ教科書に、確か「稲むらの火」と題し、津波の際の避難の様子を描いた物語があり、その後長く記憶に残ったことでしたが、津波であれ、洪水であれ、平常の状態が崩れた時の自然の恐ろしさや、対処の可能性が、学校教育の中で具体的に教えられた一つの例として思い出されます。

~~~~~~~~~~

ちなみに「ツナミ(Tsunami)」 という言葉は、現在国際語化しています。

もともとハーンの物語が初出で、その後、1968年にアメリカの海洋学者Van Dorn が学術用語として使うことを提案し、国際語化したものです。

そしてスマトラ沖地震による津波が激甚な被害が世界中に報道されたことで、一気に各国の言語で一般語になっています。

もし、日本が、皇后陛下の御心を謙虚にとらえ、教育の現場でもっと早くから「稲むらの火」を復活させ、Tsunami という言葉だけでなく、津波の被害や早期避難を早くから世界に向けて呼びかけていたら、もしかしたらスマトラ沖地震などの被害者も、ずっと少なくてすんだかもしれない。

日本は、陛下や皇后のお言葉を、もっと真剣に伺うべきなのではないでしょうか。


そうそう、そういえば、鎌倉の大仏さまは、室町時代に発生した津波によってどんぶらこ、どんぶらこと、沖に流されたというのも、有名な話です。

鎌倉の大仏がご安置されている高徳院は、海岸線から直線距離で約1kmも奥まったところにあるけれど、津波はすぐ近くを流れる川を遡上して、大仏押し流したのだそうです。

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濱口梧稜(儀兵衛)「稲むらの火」


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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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口座番号 0083820
口座名義 小名木善行
【問い合わせ先】
お問い合わせはメールでお願いします。
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台灣民政府
台湾民政府
サンフランシスコ講和条約で、日本は台湾に関して処分権は連合国に提供しましたが、領土の割譲は行っていません。条約以降、連合国も日本も台湾の処分先を決めていません。つまり台湾はいまも日本であり、台湾にいる1500万人の戦前からいる台湾人は、日本国籍を有する日本人です。私は台湾民政府を支持します。
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コメントをくださる皆様へ
基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメントは、削除しますのであしからず。
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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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