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敷嶌のやまと心の道とへば朝日にてらす山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


海の上のラピュタ

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天空の城ラピュタ
天空の城ラピュタ


天空の城ラピュタといえば、おなじみの宮崎アニメです。

昭和61(1986)年8月に公開されて大人気となりました。

この映画に登場する天空の城ラピュタは、空に浮かぶ要塞都市で、いまは廃墟となっています。
もちろん空想上の都市です。

そのラピュタが日本にあって、しかも海に浮かんでいる、といったら驚かれますでしょうか。

その都市の名は、通称を軍艦島といいます。
正式な名は、端島(はしま)です。

端島は、長崎県長崎市にある島です。
かつて海底炭鉱で栄え、島の人口密度は83600人/km2と世界一。

まだ木造住宅ばかりだった大正時代に、日本で最初の高層マンションが建設され、建物の屋上には、庭園と幼稚園、島の端には同じく高層住宅式の小学校や、近代的体育館などが整備されていました。

そしてその外観が、日本海軍の戦艦「土佐」に似ていることから、通称「軍艦島」と呼ばれています。

軍艦島(みるからに軍艦です)
軍艦島01


島の大きさは、南北に約480メートル、東西に約160メートルのほぼ長方形のような形で、島の面積は、わずか6.3ヘクタール。
島を一周したときの海岸線の全長が約1200メートルといいますから、都会なら1ブロック程度の広さです。

その小さな島に、最盛期には、なんと5,267人の人が暮らしていました。

島には、ビルの屋上を利用した緑化庭園や幼稚園、鉄筋コンクリート7階建ての小中学校、スーパー、映画館、料理屋、飲食店、娯楽場、病院などがありました。

なかでも大正5年に建築された鉄筋コンクリートの高層集合住宅は、まだ日本の建築物が木造だった時代に登場した、日本初の高級高層マンションとして、日本の近代建築史上特筆に値する重要な文化的遺構です。

なぜ、この島にこれだけの人が暮らしていたかというと、実はここに海底炭鉱があったのです。

かつて石炭といえば、国家の資源エネルギーの中心をなしていました。
石炭産業は国家の柱とさえいわれた。

しかし、資源エネルギーの中心が石炭から石油に代わり、昭和49(1974)年に炭鉱は閉山。

端島は無人島となります。

そして、いまは誰もいない廃墟となっている。

軍艦島02


廃坑になったかつての石炭鉱山は、日本中、いろいろなところにあります。

しかし端島が、他の鉱山と決定的に違うのは、そこにある住居跡が、昭和49(1974)年4月20日で、時間がぴったりと止まっているという点です。

島には、当時の生活の様子が、そのまま残されている。

人々は、いつかは島に帰ってくる日も来るだろうと、部屋も家財もそのままにこの島を後にした。
そして、島はそのまま36年間、放置された。

軍艦島03


建物は、長い時間の経過とともに風化し、窓は破れ、木造の住居は崩れ、家財や什器は錆びて崩壊した。

廃校の崩れた鍵盤
軍艦島04



戦後の日本を考えてみるとき、いつも思うことなのですが、私たちの戦後は、いったいなんだったのだろうか、ということです。

日本は、先の大戦でまさに焼け野原になりました。
艦砲射撃で家は焼も財産も、みんな焼かれてしまった。

しかし、何もかも失った日本は、戦後またたく間に復興を遂げ、昭和31(1956)年には、東海道本線が全線電化となり、昭和37(1962)年には首都高羽田線が開通、昭和39年には東京降りんピンクが開催され、東海道新幹線が開通しています。

いや考えてみると、戦前はたった13年で、満洲のなにもなかった大地に、日本は忽然と東洋のパリと謳われるほどの超近代都市を誕生させています。

さらに昭和40年代、50年代と日本はまさに高度成長を遂げ、終戦の頃には世界の最貧国状態だったのが、昭和の終わりごろにはなんと世界第二位の経済大国にまでなってしまった。

すごいことです。

しかし、よくよく考えてみると、そうした社会の復興や成長、あるいは新しい未来社会の構築や経済の高度成長を担ったのは、戦前の教育を受けてきた人たちではなかったか。

たしかに働いたのは、わたしたち戦後生まれの世代も同じです。
しかし、それは社会の、いわば下っ端として働いていたのであって、社会の構造を変革し、日本の復興を責任もって実現してきたのは、間違いなく戦前の教育を受けてきた人たちだった。

そして、そういう戦前の教育を受けてきた世代が完全に引退し、戦後教育を受けてきた私たちの世代になって、最初にやったのが、バブル経済です。

バブル経済というのは、簡単にいってしまえば、すでに蓄積された富の投機です。
あたりまえのことです。元手がなければバブルは起きない。

そしてあっという間に、バブルを崩壊させ、あれから20年。

いまだに日本経済は、先の見通しも立たず、経済は失速。新たな国家の建設の矛先さえみえず、いまや、購買力平価でみたひとりあたりのGDPは、IMFの試算で世界第24位です。
香港やオーストリア、カナダ、デンマーク、フィンランドなどよりはるかに劣り、台湾とほとんど変わらないところまで落ち込んでいる。

戦争が終わってボクらは生まれた。
戦争を知らずにボクらは育った。
大人になって歩き始める、
平和の歌を口ずさみながら。

これは、フォークソングの「戦争を知らない子どもたち」の歌詞だけれど、なるほどその通り「平和の歌を口ずさみながら」、結果、われわれ戦後世代というものは、戦前世代、戦中世代が築いてくれた富と社会に、結果として、ただ甘え、安住し、わがままを言っていただけなのではないのか。

わたしたちが小学生の頃、未来はバラ色だった。

大人になったら何になる?

先生の質問に、子どもたちは目を輝かせて、「○○になりたぁ~~い」とやったものです。

手塚治虫の描く21世紀の未来社会は、まさに夢の未来都市そのものだった。

しかし、現実に、わたしたちが社会の中心となって築いた平成の世の中は、いったどうなのか。

人々の所得は下がり、安売り店に殺到し、政治も家庭も未来などまるで考えず、自分だけの贅沢といまある、もはや残りカスのようになった富の配分をめぐってあい争うだけのなさけない社会になりさがっている。

その結果は、どうなるのか。

上に示した軍艦島の廃墟は、もしかすると、このまま進んだ先の、日本の大都市の姿そのものなのかもしれないのです。

日本は、子や孫を可愛がり、子や孫の未来を、大人たちが大切に守り育む社会だったのです。

そういう大人たちだから、子供たちは大人たちの言うことを聞いたし、大人たちも責任をもって子どもたちの未来を守った。
そのためには、命すら捧げた。

そうやって、守り育んでいただいた日本を、われわれの世代は、いったいどうしたのだろうか。

いまのままで、ほんとうに子どもたちの未来を守ることができるのだろうか。

このままでは日本は廃墟となってしまうのではないだろうか。

私たちは、いま、とても大切な歴史の転換点に差し掛かっているのではないでしょうか。
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Hashima (Gunkanjima), Japan 2002 part 1

ライト兄弟より早く飛行機を飛ばした日本人・・・二宮忠八

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二宮忠八
二宮忠八



4月29日は昭和の日。この日は昭和天皇のお誕生日であります。

ちなみに明治天皇のお誕生日が11月3日。
明治天皇が10月31日。
今上天皇が12月23日です。


そして4月29日は「飛行機の日」でもあります。

飛行機といえば、ライト兄弟が有名ですが、ライト兄弟が人類初の有人飛行を実現したのは、明治36(1903)年12月17日です。4月ではありません。

ではなぜ4月29日が飛行機の日なのか。
今日は、このことを書いてみたいと思います。


ちなみに、ライト兄弟が、ノースカロライナ州のキティホークにあるキルデビルヒルズで、12馬力のエンジンを搭載した「ライトフライヤー号」で、飛ばした飛行機は、最初のフライトが、わずか12秒です。

4度目の飛行で、59秒、260メートルの飛行が行われた。

下の写真は、そのときの実写版で、飛行機を操縦しているのが弟のオーヴィル、横にいるのが兄のウィルバーです。

ライト兄弟
ライト兄弟


ところが実は、ライト兄弟よりも12年も前に、飛行機を飛ばしていた人がいるのです。

日本人です。
二宮忠八(にのみやちゅうはち)という人です。

その二宮忠八が、香川県の丸亀練兵場で、わずか10メートルではあるけれど、日本初のプロペラ飛行実験を成功させたのが、明治24(1891)年4月29日、つまり4月29日なのです。

ちなみに、二宮忠八は、翌日には、なんと36メートルの飛行に成功しています。

その飛行機は有人ではありません。
模型と言った方がいいかもしれない。
しかし、これが人類初の動力飛行実験の成功であったことは、疑いのない事実です。


二宮忠八は、慶応2(1866)年の生まれですから、このとき25歳の青年です。

もともと忠八は、伊予国宇和郡(現:愛媛県八幡浜市矢野町)の生まれの方です。
かなり富裕な家の生まれだったそうです。

しかし、父親が事業で失敗し、さらに二人の兄が遊女に狂って家計が傾いたところに、父親が急死してしまう。

残された家族を養うため、忠八は、なんと12歳で、一家を支えるために、町の雑貨店に奉公に出ています。

忠八は、無類の凧(たこ)好きだったそうです。

いろいろな凧(たこ)を考案し、工夫した忠八の凧は、とてもよく飛んだ。
この凧は「忠八凧」と呼ばれて、たいそう人気を博したそうです。


明治20(1887)年になると、忠八は21歳で徴兵されます。
そして、丸亀歩兵第12連隊に入隊します。

入隊2年後のことです。

野外演習の帰り道、木陰で昼食をとっていると、霧の中からカラスが飛んできた。
残飯の米粒を求めてやってきたのです。

よく見かける光景といえば、光景です。

カラスは、翼を広げ、羽ばたかずに、すべるように舞い降りてくる。
そして飛び立つときには、何度か大きく羽をあおると、谷底からの上昇気流でサァ~と舞い上がる。

この様子を見た忠八は、天啓を得ます。

向かい風を翼で受け止めたら、空気抵抗で空を飛ぶことができる!

固定翼による飛行原理の発見です。

そして一年後、ついに「カラス型飛行器」を完成させます。

カラス型模型飛行器
カラス型模型飛行器


明治24(1891)年4月29日の夕方、丸亀練兵場の広場で、忠八は、自作のカラス型飛行器の飛行実験を行ないます。

練兵場の仲間たちがみんな見に来た。

この頃、忠八は、練兵場にある精神科の軍病院に勤務していました。
その忠八が、飛行機の動力源に選んだのが、なんと医療用聴診器のゴム管です。

そのゴム管につながった4枚羽根のプロペラが回転する。
風が起き、飛行機が舞いあがるという仕組みです。

凧は、糸を人が引っ張って空に浮かべます。
しかし動力飛行機は、自分の力で、空に舞います。


忠八が、プロペラを回して、ゴムを巻きます。

いっぱいに巻いたところで、カラス型飛行機は、そっと地面に置かれる。

まだ誰も飛んだことのない有人飛行に向けて、忠八の夢いっぱいに乗せた飛行機が、いよいよ練兵場の地面に置かれます。

忠八が手を離す。

プロペラが勢いよく回転し、多くの人が見守る中を、カラス型飛行器は、約3メートル助走します。

そして、フワリと空に舞い上がった。

ぐ~んと高度を上げた飛行機は、10メートルほど飛んで、草むらに着地します。


成功です。

な~んだ。ただのゴム飛行機じゃないかと侮るなかれ!
人類を宇宙に飛ばすロケットだって、最初の一号機は、ロケット花火程度の小さなモノからの出発です。

見守る人も忠八も、飛行機が自走して空に舞ったことに大喜びします。
忠八は、何度も飛行器を飛ばし、翌日には飛距離を30メートルに伸ばした。


自信をつけた忠八は、いよいよ有人飛行機の設計に着手します。

いろいろ研究した。
有人飛行の研究のために、忠八は、鳥類の体型を詳細に調べるだけでなく、鳥や昆虫、トビウオから、天女や天狗などにいたるまで、およそ「空を飛ぶもの」ならなんでも調べた。

そして、鳥の体型にヒントを得た「カラス型」では人間の体重を支えきれないことを知ります。

どうしたらいいのか。

忠八は、昆虫の飛行を研究し、4枚羽根の飛行機を完成させます。
明治26(1893)年のことです。

この飛行機は、「玉虫型飛行器」と名付けられます。


「玉虫型飛行器」は、はじめから人が乗れることを前提に設計されています。
ライト兄弟の実験成功よりも10年も前のことです。

ただし、翼幅は2メートルです。
有人飛行を前提にしながらも、この飛行機は、実機の縮小模型として作られた。

飛んでくれれば、まさに、世界初の実用機となるはずの飛行機です。

さらにこの飛行機は、人間が搭乗することを前提に、空中で飛行機の向きを上下左右など自在に操れる工夫がしてあります。

玉虫型飛行器
玉虫型飛行器


いよいよ、飛行実験がはじまります。

動力は、強力なガソリンエンジンを搭載して、といいたいところですが、なにせ当時としてはまことに高価なガソリンエンジンを買うだけの資金がありません。

そこで、機体をゴムヒモだけで飛ばせる最大サイズで作り、烏型と同じ4枚羽の推進式プロペラを機尾で回転させます。

そして、「玉虫型飛行器」は、
実験で、10メートルを飛行します。


大成功です。

残る問題は、動力源です。

いかんせん、ゴム紐エンジンでは、人が乗るわけにいきません。

しかし、まだ電気すら通っていない明治の中頃のことです。
ガソリンエンジンなんてものは、あまりに高価で、庶民が個人で買うことはできない。

石炭を焚く蒸気機関では、重すぎて飛行機になりません。

忠八は、飛行機は、絶対に戦場で役に立つ!と考えます。

だから軍で、この研究を引き取ってくれないか。

忠八は、「飛行器」の有効性とその開発計画について、必死でレポートにまとめ、有人の「玉虫型飛行器」の開発を、上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申します。

個人では資金がないのです。
このままでは実機を作れない。
軍が研究を採用してくれれば、発動機を入手することも可能です。

しかし、なんど足を運んでも、長岡大佐の返事は「戦時中である」。大島旅団長も乗り気でない。

二宮の趣味や夢物語に、軍予算をまわすわけには行かなかったのです。


あと一歩。あとすこしで有人飛行機が完成するのです。
発動機さえあれば。エンジンさえ買うことができれば。


忠八は、必死に考えます。

そして、軍の協力が得れないならば、自分でお金を作って飛行機を完成させるほかない、と考えます。

忠八は、軍を退役し、大日本製薬に入社します。
必死で働いた。

頑張ればその分、給金があがるのです。
だから本気で働いた。

忠八は、みるみる成績を挙げ、ついに明治39(1906)年には、愛媛の支社長にまで出世します。

支社長になった忠八は、すこし時間に余裕が生まれます。
そして、それまで、一生懸命蓄えたお金も、ようやくある程度の金額になります。

明治40(1907)年、忠八は、精米器のための二馬力のガソリンエンジンを購入すると、再び飛行機の研究を再開した。

ところが、せっかく購入したエンジンなのだけれど、さすがにニ馬力では、人間を乗せて飛ばすだけの推力が生まれない。力不足なのです。

しかし、当時、徐々に入荷しつつあったオートバイ用のガソリンエンジンは、まだ高く、忠八の手は届かない。

いろいろ考えた忠八は、ガソリンエンジンの部品を少しずつ買い集め、エンジンそのものを自作しようと考えます。

すこしずつ器材を買い揃えはじめた。

不思議なことに、このとき忠八が自作しようとしたエンジンは、12馬力エンジンです。
実は、ライト兄弟の「フライヤー1号」も、12馬力エンジンです。

そのライト兄弟ですが、いまでこそ、世界初の有人飛行として有名になっていますが、明治36(1903)年12月17日のライト兄弟の有人飛行というのは、アメリカ本国内ですら、当時はまるで報道されていなかったのです。

ライト兄弟自身が、アイディアの盗用を恐れてなかなか公開飛行を行わなかったこともありますが、地上すれすれに僅かの距離を飛んだということが、この時代には、まだ、すこし「大型の凧上げをやった」だけ、くらいにしか一般には認識されなかった。

ようやくライト兄弟による有人飛行成功が広く世間に広まったのは、明治40年頃だといわれています。
日本でも、初めて報じられたのは、雑誌「科学世界」の明治40(1907)年11月号です。

おそらく、忠八が、ライト兄弟のことを知ったのも、このときではなかったかと思われます。


これはショックです。

一説によると、このとき忠八は、それまで蓄えていた飛行機自作のための機材をめちゃめちゃに壊したという話もあります。

実際に壊したかどうかは別として、忠八にとって、このことがとてもつらく、悔しかったであろうことは、容易に想像できることです。
人生をかけてやってきたことの、すべてを失ったという感情にさえなったかもしれない。

結局、忠八は、このときのショックから、飛行器の開発を取りやめてしまいます。
そして薬の製造の仕事にうちこみ、明治42(1909)年には、マルニを創業します。


ところでこのとき忠八が製作しようとした飛行機は、長い間重量が重過ぎて完成しても飛べないだろうとされてきました。

平成3年10月、有志によって、忠八の当時の設計図通りに、実機が作られます。

なんと、この飛行機は、見事、故郷の八幡浜市の空を舞った。


大正8(1919)年といいますから、このとき忠八は、53歳。

明治から大正にかけての日本人の平均寿命は、44~45歳くらいだといいますから、いまの感覚でいったら、60歳くらいの社長さんという感じかもしれない。

二宮忠八は、たまたま同じ愛媛出身の白川義則陸軍中将(当時)と懇談する機会に恵まれます。

このとき、ふとしたはずみに、忘れようとして忘れられない、若き日の陸軍時代の飛行機製造の話で会話が盛り上がります。

この白川義則という人、後年、陸軍航空局長を務め、最終階級は、陸軍大将になるお方です。後に関東軍司令官、上海派遣軍司令官、陸軍大臣を歴任した人物でもある。
タダモノではありません。

忠八の言葉に関心を抱いた白川義則は、実際にその上申があったかをすぐに確認させるとともに、忠八の上申内容が技術的に正しいかどうか、専門家に検証を命じます。

すると、見事、正しい。

なんと、日本はライト兄弟よりはるか以前に、動力飛行機による飛行実験を成功させていたのです。

白川は、陸軍その他に働きかけ、大正11(1922)年に忠八を表彰します。
さらにその後も数々の表彰を忠八に授けるよう、運動してくれた。

おかげで忠八は、大正14(1925)年には、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶一対を授与され、
大正15(1926)年5月には、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を賜い、
昭和2(1927)年には、勲六等に叙勲され、
さらに忠八の物語は、昭和12年度から、国定教科書に掲載されます。

このことを知った長岡外史大佐(かつて忠八の上申を却下した大佐)は、わざわざ忠八のもとを訪れ、謝罪している。

ちなみに、このときの長岡大佐の謝罪は、上から強制されたものではありません。
もうとっくに軍を退役したおじいちゃんです。
いまさら命令もない。

彼は、自らの不明を恥じ、自らの意思で忠八に頭を下げに来た。
これは、実に素晴らしい、男らしい振舞だと思います。

誰だって、自分を正当化したがる。
失敗を他人やご時世の「せい」にしたがる。
そうやって、自らの責任から逃れようとする。

しかし長岡大佐は、自らの非を認めた。
自分に厳しいから、他人に対して頭を下げることができるのです。
往々にして、他人に罪をなすりつけたがるタイプの人は、自分に甘い。

長岡大佐は、実に立派な人であったと思います。


飛行機は、その後、瞬く間に世界に普及します。

ただし、初期の頃の飛行機です。
事故も多かった。

満足な滑走路も、飛行管制塔もない時代です。
エンジン性能も、いまどきのエンジンのように安定したものではない。

そのため、飛行機事故で、多くの人が命を失っいました。

忠八は、ずっと持っていたのです。
飛行機を作るために貯めたお金、懸賞でいただいたお金をです。

彼は、自らの青春の夢をかけた飛行機で、多くの人命が失われたことに、深い悲しみを覚えます。

そして、飛行機事故の防止と犠牲者の冥福を祈るために、私財を投じて、京都の八幡市に「飛行神社」を設立し、自ら神主になった。

そこで生涯、航空の安全と、航空殉難者の慰霊に一生をそそぎます。

忠八は、昭和11(1936)年、70歳で逝去されます。

飛行神社
飛行神社


二宮忠八は、ライト兄弟のような有人飛行機を飛ばすには至っていません。

しかし、ライト兄弟が成功する14年も前に飛行原理に着想しました。

二宮忠八が飛行機の開発にいそしんだ時代は、まだ日本に電気はありません。
動力もままならなかった。

そんな中で、世界初の有人飛行という夢に向けて研究に没頭した忠八は、近年「日本の航空機の父」、「飛行機の真の発明者」と称されるようになってきています。

ちなみに、日本語の飛行器(機)というのも、二宮忠八の造語だとか。

それに飛行機に対する愛情だけでなく、飛行機を通じて亡くなられた方々の慰霊のために、私財をなげうって神社を設立したというのも、実に立派です。


それにしても、ライト兄弟よりもずっと前に、日本で飛行機が実際に研究され、作られていたんだって、なんだか感動です。

そしてこのお話は、戦前の教科書にはちゃんと載ってたんですね。

どうして教科書から消してしまったのだろう。
こういう話って、絶対、学校で教えるべきだと思います。


それと、天の神々が、二宮忠八ではなく、最終的にライト兄弟に世界初の有人飛行の手柄を譲ったこと。

それについて、こんな話を聞きました。

発明や発見というのは、その人一代限りの名誉でしかなんだよ。
人類は、飛行機の発明で、これまでとまったく違った世界の扉を開いた。
このことは、たいへん意義深いことであると同時に、人類は、未来永劫、飛行機による殉難者を抱えることになる。

その慰霊ができるのは、日本人である二宮忠八しかいない。

だから神々は、忠八の手柄を、ライト兄弟に譲ったのさ。

もしかしたら、それがほんとうなのかもしれませんね^^

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明治時代の玉虫型飛行器 再現RC機
(ほんとうに良く飛んでます)



Made in Occupied Japan

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サンフランシスコ条約の調印
サンフランシスコ条約


昭和27(1952)年4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効しました。

この条約の発効で、日本と米国をはじめとする連合国諸国との戦争状態は終結したとされています。

ちなみに国際法上は、この条約の発効で、はじめて日本と連合国との間の戦争状態が終結したものとされています。

昭和20(1945)年8月14日や、玉音放送のあった同年8月15日(終戦記念日)、あるいは降伏文書に署名した昭和20(1945)年9月2日以降も、法律上は「戦争状態」であったものとして扱われています。

このことは、サンフランシスコ平和条約の条文を見ればあきらかです。

~~~~~~~~~~~~
第一章 平和
第一条【戦争状態の終了、日本国の主権承認】
(a) 日本国と各連合国間との戦争状態は、第二十三条の定めるところによりこの条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日に終了する。
(b) 連合国は、日本国及びその領水に対する日本国民の完全な主権を承認する。
~~~~~~~~~~~~

つまり、「日本国と各連合国間との戦争状態」が、終結するのは、「この条約が日本国と当該連合国との間に効力を生ずる日」であり、それが昭和27(1952)年4月28日なのです。

では終戦の日(昭和20年8月15日)はどういう日かというと、実は、「単に戦闘を停止した日」ということになります。


そして日本は、独立国としての主権を、連合国によって奪われました。

これはどういうことかというと、日本は、日本国を失ったわけです。

つまり、正確に言うと、戦闘を停止した昭和20年8月15日という日から、昭和27年4月28日のサンフランシスコ条約発効の日まで、日本は「日本」という国ではなかった。

では、その間の日本は、なんだったのかというと、
当時の国名は

─────────
「連合国統治領日本」
─────────

です。

ですから、その頃の日本からの輸出品は、Made in Japan ではありません。

──────────
Made in Occupied Japan
(占領された日本製)
──────────

となっています。

国旗も、日の丸ではなく三色旗です。

連合国統治領日本の国旗
連合国統治領日本の国旗


占領統治下にあった日本というのは、「国」ではありません。

占領統治下にあって、国家主権がないのですから、国家ですらない。
極端にいえば、そこは日本人がいる「場所」でしかありません。

要するに、日本の歴史上はじめて、日本が日本でなくなった時期、それが占領統治下の6年8カ月です。

そしてその6年8カ月の間に、戦前の様々な文化や伝統が破壊され、これを受け継ぐ学者や政治家、財界人が公職を追放され、日本の教育の柱であった教育勅語が廃止され、日本精神の要であった軍人勅諭も廃止。

そして日本における最高法規という名前の、邦訳「日本国憲法」が公布、施行されます。

ちなみに「日本国憲法」と銘打たれたこの法律が公布されたのが、昭和21(1946)年11月3日、施行されたのが、昭和22(1947)年5月3日です。

あきらかなのはこの時期、日本国はありません。

ですから、日本国憲法の原題は、「THE CONSTITUTION OF JAPAN」ですが、ここでいう「JAPAN」は、主権を持った「日本国」を指すのではなく、「連合国が統治していた日本」を指します。

また、「日本国憲法」の第一条は、

第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく。

と邦訳されていますが、この原文は次の通りです。

Article 1.

The Emperor shall be the symbol of the State and of the unity of the people, deriving his position from the will of the people with whom resides sovereign power.

直訳すれば、「天皇は地域のシンボルであり、その地域の人々の象徴であり、その地位は人々の総意に基づく」となる。

つまり、日本国の象徴などとはどこにも書かれていないわけで、「日本と言われる占領地に住む人々の総意によって、天皇は存在しています」と書かれています。


さらにいえば、日本国憲法前文は、日本語では、

~~~~~~~~~~~~~~~~
再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。
~~~~~~~~~~~~~~~~
と書かれています。

これが日本国憲法は、国民主権(主権在民)を定めた憲法である、といわれる原因です。
ちなみに「主権」に関する記述は、日本国憲法では、この前文と第一条にしか存在しません。

ところが、この文を、原典である英文で読むと、なにやら別なことが書いてあります。

~~~~~~~~~~~~
sovereign power resides with the people
~~~~~~~~~~~~

とされている。

これを学校では「主権在民」と教えるけれど、良く見てください。
国民とは書いてない。「people」と書いている。

意訳すれば、「最高のパワーは、人々とともにある」です。

もっといえば「主権の力は、人々とともにある」です。

“sovereign power=最高権力=主権”は、“with the people”で、「人々とともにある」のです。
そしてこの英文が書かれたとき、連合国統治領日本の最高権力者は、GHQです。

つまり、この英文は「GHQが持つ力は、日本に住む人々とともにある」と言っているわけで、すべての権力(=主権)を日本国民が有するとは言っていない。

長々と書いていますが、要するに世界を植民地化し、支配しようとする欧米列強の大連合国軍に対し、黄色人種の日本が、真っ正面から正々堂々と戦いを挑んだのが大東亜戦争であり、占領統治は、なによりもまずそういう日本の「牙を抜く」ために行われたわけです。

当然、占領統治のための最高法規の内容は、強く主体性を持った日本を解体するための基本法規とならざるをえない。

それが、現「日本国憲法」なのです。


したがって、サンフランシスコ条約発効の時点で、日本は世界から主権の回復、すなわち独立国としての承認を得たわけだから、本来、この時点で、自主憲法を定めるのが筋だったのです。


たとえば、サンフランシスコ条約では、日本の軍備について、次のように定めています。

~~~~~~~~~~~~

第五条【集団保障、自衛権】
(a) 日本は、国際連合憲章第二条に掲げる義務、特に次の義務を受諾する。
(i) その国際紛争を、平和的手段によつて国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決すること。
(ii) その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使は、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎むこと。
(iii) 国際連合が憲章に従つてとるいかなる行動についても国際連合にあらゆる援助を与え、且つ、国際連合が防止行動または強制行動をとるいかなる国に対しても援助の供与を慎むこと。

~~~~~~~~~~~~

つまり、この条約には、憲法九条にいう、「戦争放棄」などはどこにも書いてありません。

まず、できるだけ平和的解決を図りなさい、と規程したうえで、国際連合が武力行使を図る場合は、これに「あらゆる援助」を与えよ、と規程しています。

「あらゆる」というのは、当然「あらゆる」であって、そこには軍事行動の義務も伴います。

つまり、たとえばソマリア沖の対海賊警備活動のために国連が派兵を決定したならば、集団的自衛権のために、日本は当然軍事力を供与しなければならない。

つまり、戦闘行為も戦争も辞さず、という行動が求められているわけです。

この内容は、「占領統治下日本の憲法(THE CONSTITUTION OF JAPAN)」第九条と矛盾します。

このことは、ひらたくいえば、サンフランシスコ条約発効時点で、連合国が日本の占領統治をするにあたって定めた「占領統治下日本の憲法」は、その役目を終えたということになります。

逆の言い方をするならば、国連決議に基づく派兵に、憲法九条を盾にとって反対するということは、日本国の主権を望まず、占領統治下の方が良い、とする人たちである、ということができます。


それはいったいどういう人たちかというと、日本が占領統治を受けた6年8カ月の間に、巨大な利権を手にした人たち。

すなわち、反日左翼であり、無政府主義者であり、GHQが初期の頃に手先として利用としようとしてあらゆる利権を供与した在日半島人たち、ということになります。


4月27日の読売新聞の朝刊一面に、堺屋太一さんの未来予測の小話が載りました。

堺屋さんによると、10年後には日本経済は完全に沈没し、ひとりあたりGDPは、中共や韓国にさえ抜かれ、日本人国内には就業の機会すらなく、円は極端に価値が下がり、多くの日本人の若者たちは、支那に出稼ぎに行くようになるというのです。

読売の朝刊です。
表現は、若者たちが働き口を求めて中国に渡るという、やさしい表現になっていますが、このことは、かつてのジャパユキさんたちの逆バージョンで、多くの日本人女性たちが海外に働きに出る、ということも示しています。
その働きの中には、売春もあるかもしれない。

要するに、日本解体、日本無力化のための憲法を、すでにサンフランシスコ条約発効の時点で、大幅に修正する、もしくは破棄しなければならなかったのに、これを怠ったことによる、ツケが、ここに来て、急速に浮上してきている、ということなのではないかと思います。

東西冷戦の間は、それでも良かったのです。

米国にとっての最大の脅威が旧ソ連であり、日本は、その位置関係から、まさに米国にとっての不沈空母の立ち位置にいた。

しかし、東西冷戦が終わり、新たな世界の脅威が、イデオロギーの対立から、すでに枯渇の見え始めた中東油田に変わる、新たな「油田確保」に変化してきています。

そして日本には、東シナ海だけで、世界第2位の油田に匹敵する大油田が埋蔵されていることがわかり、さらに、日本海沿岸、北海道から樺太にかけて、そして東京湾にも大型天然ガス田と油田が眠っていることがわかってきた。

加えて、日本は、世界最大級のウランの埋蔵国でもある。

なんの資源もない国と思っていたら、なんのことはない。日本は世界の資源大国だった。

まさにいま、中共は、世界中のエネルギーの獲得に躍起になっています。

当然、日本を支配したいと考える。

米国も、オイル資本にとって、日本は垂涎の的です。

こうした中で、我が国が、我が国の独立を護り、日本の繁栄と世界の人類の福祉のために本当に寄与しようとするなら、日本はいまこそ、国家としての独立を果たすべきときにきているといえます。

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花を手向けた日本人

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B-29
B29


B29といえば、空の要塞です。
高度1万メートルの上空を、100機から500機の大編隊でやってくる。

そして地上に焼夷弾の雨を降らせます。

当時の日本の家屋は木造です。

その木造の家屋が密集している大都会に、焼夷弾が降ってくるとどうなるか。

しかも、焼夷弾は空中で四分五裂し、バラバラになって地上に落下する。
それが家々に突き刺さり発火する。

非戦闘員への無差別攻撃は、明らかな国際法違反です。

にもかかわらず、日本はそうやって約559千人の死傷者を出しています。

B29の正式名称は、ボーイングB29スーパーフォートレス(Superfortress)といいます。
日本語に訳したら、「超空の要塞」となります。

なにやらアニメの宇宙戦隊ものか、ゲームに出てくる空飛ぶ要塞みたいな名前ですが、実際、B29は、プロペラ4発の大型爆撃機で、全長30メートル、全幅43メートル。
2200馬力のエンジンを4機積み、最大速力は最大速力581㎞/h。

20㎜の機銃1門と、12.7㎜の機銃を12門備え付け、全方位からの完璧な迎撃態勢をひいた、まさに空飛ぶ要塞そのものだったのです。

アメリカは、このB29を製造し、最初、この大編隊をイギリスに搬送します。

偶然これを見つけたドイツ空軍は、びっくり仰天し、慌てて迎撃用のジェット戦闘機の開発を急がせた。

それが「Ta183」です。
Ta183
Ta-183


このTa183は、結局完成には至らなかったのだけれど、その技術は戦後米国に引き渡され、以降のジェット戦闘機の時代を築きます。

もっとも、英国に集結したB29は、ヨーロッパ戦線には投入されてはいません。

どういうことかというと、実は、この前年である昭和18(1943)年8月に、ケベックで、米国ルーズベルト大統領と、チャーチル英首相が首脳会談をひらき、中国への支援続行と、ビルマ方面での作戦、対日無差別絨毯爆撃の実行などを決めていたのです。

つまり、アメリカは、一方でB29の開発をしながら、B29を用いた無差別絨毯爆撃は、対日用に限定して実施する、と当初から決めていた。

要するに、同じ白人同志の戦いには、こうした明白な国際条約違反の行為は、後の後のためにも行わず、あくまでその利用先は、「黄色い猿」に対してのみ行う、としていたわけです。

ついでに結論から言うと、対日戦線で猛威をふるったB29は、その後、朝鮮戦争でソ連が登場させたミグ戦闘機にさんざんやられ、ついに引退を余儀なくされています。

ミグは、ジェット戦闘機です。
なにせ最大速度は、B29の倍。
実用高度は15000メートルと、これまたB29よりも高く、まるで歯が立たなかった。

話を戻します。

対日用に開発され、いったん英国に集結したB29は、昭和19(1944)年6月には、中国内陸部の成都にはいります。

そして準備を整え、いよいよ昭和19年8月20日、日本本土空爆のために約100機の大編隊で飛び立ちます。


謎の大編隊迫る。

済州島の上空約8千メートルを航行中だったB29の編隊は、済州島にあった日本陸軍電波探知所によって発見されます。

電波探知所は、緊急無電で、本土防衛制空部隊に報告する。

報告を受けた陸軍飛行第4戦隊は、直ちに「隼」「屠龍」「疾風」「飛燕」等の新鋭戦闘機に分乗し、曽根、芦屋、雁ノ巣、板付、大刀洗の各陸軍飛行基地から迎撃のためにスクランブル発進します。

そして北九州上空で、双方の戦隊が出あいます。

B-29は、上下左右といわず、飛行中に全方位からの攻撃に迎撃できる性能をもった空の要塞です。

そのB29が、100機の砲門を全開にして弾幕をはる。

その弾幕をかいくぐり、速度が遅く、装備はほとんど紙でできているのと同じ、日本の戦闘機がB29に果敢に突撃します。

そしてたちまち13機のB29を撃墜させてしまう。

このときの模様を、当時中学一年生だった北九州の齋藤茂夫が手記に書いてられます。

~~~~~~~~~~~~~

8月20日は日曜日で、特別な動員命令も下されず、学校は休みであった。

私は午前中は大豆畠の草取り等の農作業に精を出し、午後からは近所の友達の加藤清さんや古川喜一さん等と、直ぐ近くの城瀬の海岸に泳ぎにいった。

そして魚を釣ったり、さざえ、あわび、トコブシ、うに、みな等を採った。
当日は日本晴れで、波も静かで絶好の磯日和であった。

当日何時もの様に磯をしていると、軽い爆音が聞こえたので見上げると、約8千メートルの上空を真っ白い飛行機雲をたなびかせながら、3機又は4機編隊で、東南東に飛行するB29を目撃した。

もちろん北九州方面爆撃の侵入であることは直ぐ解った。
非常に悔しいがいかんともなしがたく、出来ることはぐっと睨みつけるだけであった。

そしてまたしても無差別爆撃で、無辜(むこ)の乳幼児や婦女子等の非戦闘員が、沢山虐殺されるのかと思うと、非常に強い憤りを憶えずにはいられなかった。

私はその時、しばらく泳ぐのを忘れて、飛行するB29の編隊を見上げていた。

それはB29の描き出す真っ白な飛行機雲が、真っ青な空に鮮明に際立ち、とても美しかったので見惚れていたのである。

その後、私は再び磯を続けた。

暫くして南の空から激しくキーンと云う爆音や、ダダッという銃撃音が聞こえてきた。

見上げると多くのB29が、編隊を乱して北に向かって飛んで来た。

更の良く見ると、豆粒の様な我が戦闘機群が、逃走するB29を縦横無尽に攻撃していた。

壮絶なる空中戦闘が展開されているのである。

私達は機銃掃射を避けるべく、慌てて付近の岩陰に避難して、更に繰り広げられる空中戦闘を、手に汗を握りながら見上げていた。

空中戦闘が始まった頃、加唐島上空辺りで、我が戦闘機1機が黒煙を吐き、高度を下げながら、南の方向に飛行するのが見られた。

空中戦闘で不覚にも被弾したのである。
私は此の戦闘機が無事帰投する事を祈らずには居られなかった。

やがて朦々たる黒煙に包まれて火達磨になったB29が接近して来た。

良く見ると、隼戦闘機が上に成り下に成りして、執拗に攻撃を加えている。

B29は高度をグングン下げながら、初山村の当田海岸に接近した時、数個の落下傘が開いた。

火達磨のB29は更に飛び続け、久喜の西側の小山の端陰に隠れ、私の視界から消えた。

1分~2分の後、初山村方面から大きな爆発音が聞こえ、同時に黒煙が中天高く立ち上るのが、城瀬の海岸からも明確に見えた。

私は小躍りして、手を叩き歓喜を上げて喜んだ。

純粋培養の皇国小国民である私は、不逞にも皇土を犯したり窺おうとした、憎き奴等の当然の末路であると思った。

生田伍長機の「隼」は、初山上空を2~3周して、B29撃墜を確認して南方向に飛翔帰投した。

私は、鬼神をも哭かしめる生田伍長の阿修羅の如き奮戦に、最高の賛辞を送るとともに、飛び去る生田機を、涙に潤む目で見送っていた。

9月に入り、中学は2学期が始まった。何日か後の或る日、学校帰りに初山村の墜落現場を見学に行った。

現場は墜落してから日数を経過していたので、残骸等は大方片付けられていた。

何か戦利品は無いかと付近を探したら、弾丸の欠片と焼け焦げた英文の書類片を発見したので、拾って持ち帰った。

~~~~~~~~~~~

たまに聞かれる話なのだけれど、次のようなことを言う人がいます。

B29の編隊が日本の上空にやってくる。

日本の戦闘機が迎撃に向かうのだけれど、日本の戦闘機の最高高度は、せいぜい6千メートル。高度が全然届かないし、速力が違いすぎて、追いつくこともできない。

加えて、B29は、飛行機の周囲360度に死角のない完全武装だったから、迎撃に向かった日本の飛行機は、見る間に上空から撃墜されて、まるで歯が立たなかった。。。

ところが史実を調べてみると、B-29の総生産数は3,971機です。

そのうち512機が撃墜され(一説によれば714機が損失)ている。
そしてのべ2707機が損傷し、乗員の戦死者は2982名にのぼっています。

圧倒的な性能差がありながら、これは、実によくやった、といえるのではないでしょうか。

いってみれば、チェ・ホンマンのような巨人で完全武装した100大男の軍団に、数名の中学生の剣道部が襲いかかって迎撃するようなものです。

倒しただけでも立派なものと言わざるを得ません。


この日の戦いで、上の目撃談に出てくる生田憲生伍長の操縦していた飛行機は、「隼(はやぶさ)」です。

そうです。あの加藤隼戦闘隊の「隼」です。

「隼」は、全幅約10メートル、全長約9メートル、最大速度515Km/hの飛行機です。


隼


この日、生田伍長は、僚機とともに福岡上空で索敵中に、約5千メートルの高度で逃走するB29を捕捉しています。

空中戦の要諦は、敵機より高位に昇り、急降下で優速を保ち、背後から奇襲攻撃を加えるというものです。

生田機は高度約5千5百米の上空で、B29の後方上空に舞い上がり、急降下してB29の背後から機体に12.7ミリ機関砲を叩き込んだ。

そして更に反転し、今度はB29の真っ正面から、銃撃を浴びせます。
B29は、炎上し、高度を下げながらも、なおも飛行を続ける。

生田機は、逃走するB29を確実に撃墜すべく、壱岐上空まで追撃して更に弾丸を発動機に叩き込みます。

そのとき、猛火に包まれたB29から敵の飛行士7名が、落下傘で脱出した。

そして機体は初山村・梅津新田の山中に墜落し、爆発炎上します。

生田伍長は、初山村上空を2周して撃墜を確認した後、母基地に凱旋帰投している。


降下した敵兵のうち2名は死亡だったそうです。
そして5名が、憲兵隊に捕獲され、壱岐要塞司令部の営倉に連行され、翌日福岡の油山捕虜収容所に護送されている。

この5名は、この日のすこし前に、北九州各都市を無差別に爆撃して、数百名の住民を虐殺した兵です。

当時、米軍の中では、日本軍に捕虜になったときには、大人しくしていれば、危害を加えられる心配はない、という指導がなされていたといいます。

なるほど、一部には、名古屋の岡田資(おかだたすく)事件のように、捕獲した米兵を斬首している事件もありますが、これは戦後のBC級裁判ですら、米軍側が「名古屋空襲は無差別爆撃であり国際法違法である」との見解を導き出ています。

つまり、「一般市民を無慈悲に殺傷しようとした無差別爆撃の搭乗員は、ハーグ条約違反の政争犯罪人であり、捕虜とはいえない」のです。

東京大空襲による死者
東京大空襲による死者


北九州で逮捕された米兵5名のその後については、てもと資料がないので、どうなったのかはよくわかりませんが、ただ、ひとつ、このときに墜落したB29の乗組員のうち、亡くなられた2名の米兵は、日本軍と地元住民とで、現場付近で丁重に埋葬され、十字架を立てて野辺の草花が供えられています。

これは壱岐要塞司令官であった陸軍少将、千々波幸次将軍(陸士26期・陸大38期)が、副官に命じて埋葬させたもので、戦後の昭和20年末、埋葬された米兵の遺骨は、進駐軍が掘り出して米国に持ち帰っています。

その時進駐軍の上官は、日本軍が丁重に葬った正義と温情に対して、感謝の念を伝えています。

絶対に勝ち目のない空戦で、それでもなお、命がけで戦った日本人。

そして撃墜し亡くなられた米兵に対しても、きちんと埋葬し、野辺の花を手向けた日本人。

すくなくとも、そういう日本人の心は、これから先、日本が日本である限り、ずっとずっと大事にしていきたいものだと思うのですが、みなさんいかがでしょうか。

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東京大空襲



緊急拡散:この窮地は、インターネットユーザーにしか日本を救えない

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真の保守だけが日本を救う


4月28日(水)午後6時から、新宿駅西口で平沼新党「たちあがれ日本」の街頭演説会が予定されています。

ねずきちも、行きます。

以下は、水間条項からの転載です。

~~~~~~~~~~~~

緊急拡散【この窮地は、インターネットユーザーにしか日本を救えない!】
http://blog.goo.ne.jp/mizumajyoukou/e/3ba1c8c2f23bc3ba34b5a18d7a51b7a9

●中国『日本解体第二工作書』では、自民党が最終的に解体されるとき、少数政党でバラバラにされていました。

今回の政局では、中国がかなり動いています。今日(25日)の基地反対沖縄県民集会も、共産党と社民党だけでは力不足で、必ずや背後に中国がいます。


また、中国の艦船が10隻で沖縄県民の目の前を示威航行しても、県民から安全保障の議論が、一切起きないことが不思議でした。

その答えが基地反対沖縄県民集会だった。これに中国が関与しているからこそ、示威行動が可能だったと解釈すると、すべてスッキリ見えてきます。

中国は、どのような手を使ってでも民主党政権を維持するため、中国の軍門に堕ちた自民党の総理経験者など、ありとあらゆるパイプを総動員しているのが判ります。


『たちあがれ日本』の政策綱領から3月に「靖国神社」の文言が消えた陰に、中曽根康弘と渡邊恒雄の存在が見え隠れします。

ここから先は、小生と行動を共にしてくれていた方々にしか、理解して貰えないと思っております。
新党『たちあがれ日本』をスクープしたのは読売新聞だったことで、ナベツネが深く関与していることは明らかです。そのナベツネの刎頸の友が中曽根です。中曽根は、靖国神社公式参拝を中止した張本人です。その中曽根の秘書だったのが与謝野馨で、この政局で、重要な役割を果たしているのが園田博之衆議院議員です。

園田議員は、1978年10月23日に発効した「日中平和友好条約」に署名した園田直外務大臣の息子です。そして、今回の「たちあがれ日本」を、今や中国の手に堕ちた、似非保守雑誌『文藝春秋』に共同寄稿していたのも園田博之議員でした。また、今回の動きを強く牽制できない、ハニートラップ谷垣自民党総裁にも中国からの圧力を感じます。


中国共産党政府は、最初に井戸を掘ってくれたものに対して、刑事被告人(田中角栄)でも大事にすることは周知の事実です。

今回、『真の保守だけが日本を救う』の出版に合わせて、新党『改新』が発足する寸前で潰された陰に、国際的謀略が見えてきます。

しかし、平沼赳夫先生がそれに気付けば、ギリギリで巻き返しも可能です。

それには、『真の保守だけが日本を救う』を、読了した感想を平沼赳夫先生(東京事務所FAX:03-3502-5084)かメールで届けることなのです。靖国神社の文言が政策綱領に入っていない「真の保守」などあり得ないとか、中山成彬先生と田母神俊雄氏が参加しない新党など「具のない味噌汁」みたいなものだとか、覚醒されているインターネットユーザーの皆様方の思いを真摯に届けてください。


そして、『たちあがれ日本』の後見人であられる石原東京都知事にも、中山成彬先生と田母神俊雄氏の参加を石原知事(秘書室FAX:03-5388-1204)からも呼びかけてもらって戴ければ、中国の圧力を吹き飛ばして「山」も動きます。

因みに、『たちあがれ日本』は、今月28日午後から選挙事務所開きの記者会見の後、午後6時から新宿駅西口で街頭演説が予定されています。そこに、中山成彬先生と田母神俊雄氏も一緒に「たちあがれ」とのブラカードを持って駆けつけましょう。

宜しくお願いいたします。

~~~~~~~~~~~~

水間さんの文中に出てくる中国『日本解体第二工作書』というのは、中央学院大学の西内雅教授(故人)が昭和47年にアジア諸国を歴訪した際、偶然、入手した秘密文書です。

全文は國民新聞HPで見ることができます。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kokumin-shinbun/S47/4708/470801china.html

内容は中国共産党が革命工作員に指示した陰謀で、当時から現在に至る迄、中国の対日謀略は秘密文書の通りに続いているとみられています。

この文書はごく一部のメディアで政治的問題として取り上げられる程度で、学術的に問題とされることはほとんどありません。

その日本解放第二期工作要領に、自民党についての以下の記載があります。


「自民党を解体し、多数の小党に分裂せしめる。」
「(自民党は)多数の小党に分裂する如く工作を進めねばならない」

不思議なことに、まったくぶれることのない一貫した保守政治家である平沼赳夫氏が新党「たちあがれ日本」を旗揚げしたとき、メディアは、一様に「爺さまたちの家出」といった扱いをし、さらに「なにをしようとしているのかさっぱり見えない政党」であると報道し、要するにとるにたらない渦にすぎないといった印象を植え付けようとしました。

これに対し、在日であることが噂される舛添新党の結成については、まるで「時流に乗り遅れるな」とばかりのはしゃぎようです。

そしてどうやら舛添氏の離党の真意は、反民主・護国救国新党と称しながら、その実、外国人参政権に賛成し、移民受け入れに賛成し、自民党を分断し、究極的には小沢氏と同調して、参院選で民主が大敗したときの民主との連立を狙うのが本意であるといわれています。

その一方で「たちあがれ日本」は、いろいろなところから中山成彬氏、田母神氏を「入れるな」という圧力がかかっているとか。

逆にいえば、いま、政界工作を急ピッチで進めている中共にとって、もっとも恐ろしいのは、平沼、中山、田母神三氏ががっちりと手を握り、真の護国救国政党として旗揚げすること。

いわば、陸・海・空の将軍が、一致団結して護国のために立ちあがることです。

逆に、もっとも中共が歓迎するのが、各個撃破。
保守を分断し、護国の志士達を振り回し、部隊を分断して補給も断ち、孤立させて撃破する。
疑心暗鬼を誘い、仲たがいを誘い、分断を促進し、自滅させる。

一方で、反日組織には巨額の資金を与え、ゆるぎない大同団結を実現する。

日本は、まさにいまこの術中にはまりそうな情況に至っています。

どうやら中共による工作は、保守の中にも進んでいて、平沼赳夫氏らと、中山成彬氏、田母神俊雄氏らとの離間工作が、目下進行中なのだそうです。

軍隊でいえば、平沼氏、中山氏、田母神氏は、保守の将軍級の人物です。

青年将校や、われわれ兵が活躍するには、まずは将軍が結束し団結してくれなければなりません。

日本は、中共のものではないのです。

日本を護るために、4月28日は新宿西口へ集合し、三氏の合体を訴えよう!!

≪平沼赳夫氏オフィシャルホームページの御意見箱≫
http://www.hiranuma.org/new/debate.html

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【ニュース Pick Up】「舛添新党」「たちあがれ日本」に関して[桜H22/4/22]

子ども手当、韓国人男性が554人分申請

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2004年7月26日に法輪功の真相資料を貼ったため捕まり、悪名高いハルビン長林子労働教養所に監禁されていた法輪功学習者・常永福さん(44歳男性)
常永福さん

http://dongtaiwang.com/dmirror/http/www.minghui.jp/2007/03/07/mh081587.html

毎日新聞のニュースから。

~~~~~~~~~~~~~

<子ども手当>韓国人男性が554人分申請 孤児と養子縁組
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100424-00000007-mai-pol
4月24日2時31分配信 毎日新聞

兵庫県尼崎市に住む50歳代とみられる韓国人男性が、養子縁組したという554人分の子ども手当約8600万円(年間)の申請をするため、同市の窓口を訪れていたことが分かった。

市から照会を受けた厚生労働省は「支給対象にならない」と判断し、市は受け付けなかった。

インターネット上では大量の子ども手当を申請した例が書き込まれているが、いずれも架空とみられ、同省が数百人単位の一斉申請を確認したのは初めて。

尼崎市こども家庭支援課の担当者によると、男性は22日昼前に窓口を訪れた。
妻の母国・タイにある修道院と孤児院の子どもと養子縁組をしていると説明し、タイ政府が発行したという証明書を持参した。

証明書は十数ページに及び、子どもの名前や出生地、生年月日などが1人につき1行ずつ書かれていた。
担当者が「養子はどの子ですか」と聞くと「全員です」と答え、男女で計554人と説明したという。

男性には実子が1人いる。
子ども手当は月額1人につき1万3000円(10年度)で、計555人分が認められれば、年間8658万円の手当が支給されるが、厚労省子ども手当管理室は「支給はあり得ない」と言う。

今回のようなケースについては、国会審議で野党から問題点として指摘されていた。

手当の支給要件は

(1)親など養育者が日本国内に居住している
(2)子どもを保護・監督し、生活費などを賄っている

の2点だけ。

母国に子どもを残してきた外国人にも支給されるうえ、人数制限もなく、機械的な線引きが難しいためだ。

こうした盲点を突かれ、ネット上では「100人を養子縁組しても手当はもらえる」といった書き込みや批判が絶えない。

同省は今月6日、ホームページに「50人の孤児と養子縁組をした外国人には支給しない」と記したものの、根拠は「社会通念」とあいまいだ。

何人以上なら不支給という明確な基準はなく、同様の申請が各地で続発しかねない状況となっている。

尼崎市の男性は、子どもへの送金証明や面会を裏付けるパスポートのコピーなど外国人に求められる書類をそろえており、事前に調べてきた様子がうかがえた。市の担当者は「可能ならもらおうという意欲を感じた」と話している。

~~~~~~~~~~~~~

正直、なにをいまさらという感想と、天下の毎日新聞ともあろう大新聞社が、この問題について、「この程度の反応?」という感想、加えてミンス・マンセーの毎日新聞にしては、いまさらながら、よく取り上げたものだ、というのが正直な思いです。

要するに子ども手当に「国籍条件がない」というのが、この問題の最大の焦点であり、仮に国籍条件をつけたとしても、他の法案によって簡単に日本国籍がとれるのでは、この問題は解決できないこと、さらには、日本の未来を担う子どもを育成するのにあたり、そもそも子ども手当なるものが必要なのかという本質的な問題、さらには国家予算に多大な負担をかけるこの「手当」の財源の問題等々、子ども手当は、まさに「問題山積み」法であると断じざるを得ない。

そして最も怖いのは、衆院300議席中、90議席が在日朝鮮人であるといわれる売国政権のもとで開始された子ども手当が実際に支給開始となり、本件問題のように、年間8658万円と支那人や朝鮮人などのように、捏造史観をもって、そもそも日本人=悪と決め付けて育った連中が、大挙して日本にやってきて、子ども手当の支給を受けるようになったときのことです。

子ども手当は、まずは本件記事に記載されているような問題からスタートされることになるでしょう。
そして行政が、これら明らかな不当請求に対しこれを拒否したとき、2つの可能性が考えられる。

ひとつは、不当請求者たちが請求訴訟を起こすこと。
法律で定まった条件に適合するのに、支給されないとなると、裁判が「法に基づいて」行われるものである以上、行政側が明らかに敗訴になります。

仮に、年間8000万円の支給を受けようとする外国人が、仮に全国で10万人現れたら、国は不正請求の外国人に対する支給分だけで、年間8兆円の国家予算の支出を余儀なくされます。

しかし、個々の支給請求が適法なものであれば、国はこれを支給しなければならず、それによって予算執行が不能になり、国が債務超過に陥って国家破産を余儀なくされたとしても、そのことは裁判には関係がないのです。
裁判所は、法に基づいて裁くだけであり、その法律が不適法ないし不条理であるとするならば、その変更は、すべて立法府である国会の採決に委ねられるからです。

もうひとつの可能性は、議員の3分の1が在日外国人というおかしな政党が中心となって、日本破壊を狙う特ア国と結託し、あえて日本が国家破産の道を進むように舵を切る、というケースです。

この場合、地方レベルで子ども手当支給に疑義がはさまれても、国は国家滅亡のための道を一直線に進む。

メリットはあるのです。

日本は世界最大の債権国です。
日本がつぶれれば、諸外国の借金は、うまくすればチャラになる。

それだけでなく、支那は、日本を併呑することで、東シナ海の海底資源を、まるごと接取できる。

日本がなくなったとき、もとから日本にいる日本人が、いまと同様の普通の暮らしができると思ったら大間違いです。

若い女性が深夜にひとりで安心して夜道を歩けるような国は、世界広しといえども日本しかない。年寄りが財布に何万円も入れて、買い物に行っても、滅多に襲われることがないような国も日本だけです。
満員電車に安心して乗れるのも日本だけ。
歩行者が道路を横断しようとするときに、車がちゃんと停まってくれるのも日本だけです。

世界は、カネか武器を持てば、ありとあらゆる不条理がまかりとおるというのが世界です。

子ども手当は、子供に安心して暮らせる未来を約束するものではない。
子供たちの未来の生活を根底から破壊する法律であることを日本人は知るべきです。


そしてさらなる問題は、いまの売国政権が倒れてちゃんとした政権が誕生し、この子ども手当を廃止することになったときです。

それまで不正受給を受けていた在日外国人たちは、それこそ大騒ぎをする。
支那人たちが騒ぎだすとき、どういうことが起きるか。
長野五輪どころの話ではないです。

都内に1万人以上の外国人が集い、奇声をあげ、大騒ぎをする。
チリの大地震で、暴動が起きている様子は、メディアでさんざん報道されていますが、ああいう調子で日本国内で在日外国人たちがあばれたらどうなるか。

実例はあるのです。

関東大震災のとき、約14万人の人が死にました。
しかし、自身による直接の被害で亡くなられた方は、1万人以下であるとすらいわれています。
残りの13万人はなぜ死んだか。
震災の混乱に乗じて、特定国の在日外国人たちが町中に火を付けてまわり、商店や銀行を襲って略奪の限りを尽くした。

関東大震災991

関東大震災992


≪参考≫関東大震災の記録
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-742.html

これが現実なのです。
自分さえよければ、日本人の命など蚊ほどにも思わない人たちが、この世には存在する。
現に、大東亜戦争が終わったとき、大陸から復員する人々が、朝鮮半島や支那でどのような目に遭ったか。

≪参考≫通化事件に学ぶ国を失うことの過酷
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-758.html

これは過ぎた昔の話ではありません。
いまでも、ウイグルやチベットで、同様の略奪や暴行が平然と行われている。
これが「現実」なのです。

ついでにいうと、支那に汚染された国がどうなるか。

地元人には就労の機会さえなく、たとえあっても建設現場労働であり、その多くは粗末な食べ物が支給されるだけで無給。

女性は「民族浄化」と称して、日常的に拉致され、漢民族の子を妊娠させられる。(要するに日常的恒常的に強姦される)。
そして「計画生育」の名の下に、数百万人の胎児が強制中絶させられる。

これは何世紀も昔の話などではなく、いま、現実にウイグル地区で起こっている現実です

≪参考≫「日本は唯一の被爆国」に隠された嘘
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-456.html

子ども手当の恐怖に気がついた人
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【子ども手当】日本人逆差別、密かに進められる移民促進政策[桜H22/3/15]

単騎シベリア横断・・・福島安正

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福島安正
福島安正


だいぶ以前のことになりますが、2008年12月9日の記事で、学者の著書の「引用」について書かせていただいたことがあります。

田母神俊雄元航空幕僚長の論文問題による辞任があった頃のことです。

上久保誠人なる学者が、「田母神論文には<引用先>があきらかでないから、論そのものに値打ちがない」などと書いていたのです。

すこし引用します。

<引用↓>~~~~~~~~~

自衛隊元空幕長・田母神氏の書いた文章が世の中を騒がせていたが、今回この文章について初めて書いてみたい。
しかし、その主張の内容の是非、及び文民統制の問題は取り上げない。

それらは、既に様々な識者が論じ尽くしているからではあるが、それ以上に、そもそも論じる価値がないからだ。

田母神氏の文章には、彼の主張の根拠・理由となる参考資料・文献が一切明示されていない。
つまり、田母神氏の主張は単なる思い付きだということだ。
少なくとも、学問の世界ではそう看做される。

たとえ、田母神氏が長年に渡って歴史を深く学んでいたとしても、それが文章上に示されていなければ意味がない。

田母神氏が私のゼミの学生で、この文章をレポートとして提出してきたら、私の採点は「不可」である。

この文章は、大学の「レポート」にすらならない、ただの「作文」なのだ。
私はこの連載など、参考資料・文献を明示しない評論として書いた文章を「論文」とは呼ばない。

それは研究者としての最低限の矜持である。田母神氏の文章を「論文」と呼ぶのは、我々研究者に対して失礼である。

http://diamond.jp/articles/-/738

<↑引用終わり>~~~~~~~~~

非常に不愉快な文章で、このときも反論を書かせていただいたのだけれど、「文章に主張の根拠・理由となる参考資料・文献が明示されていない」ならば、それは「論文」ではない、と一蹴しています。

机上の空論ばかり言う学者の言いそうなことです。

いっけんもっともそうな論説ですが、これには非常に大きなトリックがある。

実は先日、GHQによって焚書にあった書籍を収集している方のところに行ったのです。

そこには六千冊近い、焚書がきちんと分類されて置いてあります。

一度ご覧になったらわかるのですが、高い次元の道義心と、志、国家を護るという強い信念をもって、現場に直接行き、自分の目で見、体で体感し、そこで生活してはじめてわかる真実の記述がそこにあふれています。

要するに「まともな本」なのです。

そういう本がGHQによって焼かれ、本の著者は公職追放に遭い、あとに残ったのは娯楽本と、GHQに媚を売る売国学者です。

彼らは、GHQの7年間の統治の時代に、自分たちに敵対する勢力を放逐し、社会的地位を得、その一部は政界に進出しています。

その彼ら売国学者たちは、論文に「参考資料や文献」を引用先として明示することを課します。


しかし考えてみてください。

まともな本が焼かれ、ろくでもない売国屋たちの本しか日本国内に残っていない状況で、引用を義務付けたら何が起こるか。

彼らはそういう、いわば壮大な罠を仕掛け、その罠が現代にまで残っている。


一方に朝日新聞の記者の話があります。

朝日の記者は、高給をとっているけれど、めったに現場に出ることはありません。

現場の取材は、もっぱら外注先か、入社したての新人だけの仕事です。

では、どうやって記事を書いているかというと、学者のやり方と同じです。

下請けや新人記者によって持ちこまれた記事から、自分たちの都合のよい部分だけを取り出し、「頭の中で」事実を再構成し、報道する。

そこに「現場」はありません。


焚書にあった本は、そのどれもが、実体験に基づく現場を書いた本です。

古代から伝わる伝統的で高次な道義心のもとで、現場に行き、生の状況を眼で見、体で味わい、正確にその事実を記しています。


そこに下手な小細工や誤魔化しはありません。
なぜなら、その現場には、日本の将兵が実際にいる。
あるいはそのときにはいなくても、後日、日本の将兵たちがそこに行く。

嘘など書いたら、あとでばれてたいへんなことになる。


そして著者たちは、「どこそこにこう書いてあった」などという卑怯な「逃げ」は打ちません。
自分と先祖、子孫の名誉をかけて、正鵠を射た著作を残している。


福島安正という人物がいます。
明治時代の日本の陸軍軍人です。

彼は、日露戦争の前に、ロシアがシベリア鉄道の工事に着手するという情報を得て、単独で冬のシベリアの横断を行い、これを成功させます。明治25~26年(1892~1893)にかけてのことです。

それは、世界初の快挙でした。
全世界が驚嘆した。

厳寒のシベリア横断は、世界初だったからです。

もっとも福島安正自身は、秘密調査のつもりだったので、全世界からの喝采がかえって迷惑だったようですが、彼は、このとき取材した内容を、細かく記録し、後にその内容が出版に至っています。

単騎遠征録/福島安正閲、西村天囚編金川書店(明27.6)


この本は、ベルリンからウラジオストクまで1年4ヶ月をかけて単騎で横断し、シベリア鉄道の建設状況を視察した模様を記した本です。

シベリア鉄道が完成すれば、ロシアは必ず太平洋側で南下政策をとる。
そんなことは、すこし考えれば誰でもわかることです。

では、実際に鉄道を通そうとする地域は、どういうところなのか。
鉄道を通して、途中で食料の供給はできるのか。
兵の補給はできるのか。
資源はあるのか。
人々のロシアに対する思いはどのようなものなのか。
治安の情況はどうなのか。

シベリア鉄道は、完成までに10年を要する大事業です。
完成すれば、ロシアは兵を極東に送り込むことは間違いない。

そうなれば、満洲から樺太、朝鮮半島を経由して、日本は必ず国家存亡の重大な危機に直面する。

その前に、我が国の安全を守るためには、詳細な調査が必要である。

福島安正は、その問題意識から、実地検分調査を行おうと思い立ちます。

しかし、複数で行けば、スパイ行為とされてしまう。
ロシアに逮捕されてしまいます。

だから福島は、陸軍に暇をもらい、一頭の馬にまたがって、ひとりでヨーロッパから冬のシベリアを横断したのです。


福島安正については、国際派日本人養成講座で伊勢雅臣さんが詳しく紹介していますので、その文を紹介します。

~~~~~~~~~~~~

福島安正は嘉永(1852)年、長野・松本藩士の家に生まれ、大学南校(後の東大)を経て、明治7(1874)年、英語力を買われて陸軍省に採用された。

西南戦争では長崎に集結した列強の艦隊の動向を探り、異国の乗組員と酒を酌み交わしながら、特にどこかの国が西郷軍を支援する事はないだろう、という貴重な情報を官軍の征討参軍・山県有朋にもたらした。ここから安正は情報将校としての道を歩み出した。

明治12(1879)年、安正は約5ヶ月の北支、内蒙古の探索に出発した。

天津では苦力(クーリー、出稼ぎ労働者)に化けて、中国語をマスターし、北京では漢方薬売りに扮して紫禁城内に出入りし、清国の政情や軍備状況を調べた。
帰国後、64巻にわたる『隣邦兵備略』をまとめて、山県を感動させた。

その後、朝鮮をめぐって日本と清国の間の緊張が高まると、明治15(1882)年からは、北京の日本公使館付武官として、情報収集を続けた。

その結果、得られた結論をこうだった。

清国の宮廷は宦官の巣窟となり、役人は腐敗して民衆を搾取し、軍備もさして強力ではない。
欧州では清国を「眠れる獅子」などと警戒しているが、いまや獅子ではなく豚であり、眠りは醒めることはあるまい、と。


こうして完成したのが65巻におよぶ『清国兵制類集』で、これが10年後に、総理・伊藤博文が対清開戦を決意した時に大いに役立った。


2年余りの滞在で、清国の調査を終えた安正は東京に戻り、今度は東洋を侵略しつつある西洋列強の調査に取りかかった。

手始めはビルマとインドであった。
英国軍が激戦の果てに占領したばかりのビルマの首都ラングーンは砲撃で破壊されており、
「イギリスの奴、ここでもひどいことをしていやがる」と安正は悲憤を感じた。

いずれ白人の帝国主義は日本にも及ぶだろう。

その時こそ、日本人が東洋の盟主として、有色人種のために戦わなければならないのだ、その為の偵察旅行だぞ、と安正は決意を新たにした。

約半年の偵察旅行の結果、安正は次のような結論を得た。


英国を初めとする欧州列強の東洋蚕食(さんしょく)は、すでに相当エスカレートしており、このままでは中国もインド(のように植民地)化される恐れがある。

そうなれば次にくるのは我が国に対する圧力である。

そしてロシアは中央アジア侵略の手を、アフガニスタンに伸ばして、英国と衝突しかかっているが、この方面で英国が譲歩するとは思えない(大事なインドを護るため)ので、次にくるのは満洲、朝鮮を経て太平洋に出て、不凍港を入手しようとい
う算段しかありますまい。


安正はその後のロシアの動きを正確に予測していたのである。


この報告も含めて、参謀本部では国防の重要性を訴える献言書を明治天皇に提出した所、天皇も同感で、明治20年3月には「海防に関する詔書」が下され、特に建艦費として宮廷費の1割以上を下賜された。

これをきっかけに海軍の増強が進んだ。


安正の情報がなければ、日本海海戦での大勝利もあり得なかったかもしれない。


明治20(1887)年3月、安正はドイツ公使館付武官としてベルリン駐在を命ぜられた。この頃には安正の情報将校としての実績は揺るぎないものになっていた。

ベルリン駐在の目的の一つにユーラシア大陸横断計画の下準備があった。

翌1888年、安正はロシアが東洋進出のためにシベリア鉄道建設を企画しつつある、という情報を得た。

この鉄道の軍事的な意味は明らかだった。

今までのロシアは欧州の兵力を極東に運ぶ効率的な手段を持っていなかった。

海路では非常な時間と費用がかかり、また列強の領海を通過せねばならないので、英国
などから干渉される恐れがあった。

しかし、自国の大陸内を鉄道で運ぶなら、誰も口出しできない。

極東侵略のための兵力も物資も、効率的に送り込むことができるのである。


1891(明治24)年1月、安正はユーラシア大陸横断の計画を立て、参謀本部に旅行申請を提出した。ちょうどこの月に、ロシア政府はシベリア鉄道の建設を正式に宣言した。


それから間もなく、ロシア政府から日本政府に、ウラジオストクにおけるシベリア鉄道起工式に皇太子ニコライを派遣するので、その序でに日本を訪問させたい、という通報があった。

このニコライは大津で警護の巡査に斬りつけられて負傷し、一時は日露開戦かと、日本中をおののかせる事件が起きた。

大津事件である。

≪参考≫
大津事件
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-754.html

参謀本部からの計画認可がおりたのは、この後であった。

このニコライは3年後にロシア皇帝となって日清戦争後の三国干渉を主導し、日露戦争敗北後のポーツマス会議では「一握りの土地も一ルーブルの金も日本に与えてはならない」
と指示して、日本を窮地に追い込んだ。

そして明石大佐が莫大な資金で援助した革命派によって殺害され、最後のロシア皇帝となってしまう。
日本との因縁浅からぬ人物であった。


こうして1893(明治26)年の紀元節にベルリンを出発した安正は、3日目に旧ポーランド領に入る。かつての強国ポーランドは18世紀にドイツ(プロイセン)、ロシア、オーストリアに分割されていた。

淋しき里に出たれば、
ここは何処と尋ねしに、
聞くも哀れや、その昔、
亡ぼされたるポーランド

明治時代の歌人・落合直文の作であるが、「福島少佐のシベリア横断の歌」として愛唱された。

国を失ったポーランドへの同情が、後にシベリアに流刑となったポーランド人革命家たち
の孤児765名を救出する大きな動機となったのかもしれない。

≪参考≫
大和心とポーランド孤児
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-523.html

ワルシャワを経て、2月の後半はリトワニア、ラトビア、エストニアのバルト3国を通過する。

かつては独立国として繁栄していたが、今はロシア領となっていた。
今も弾圧に耐えながら、地下で独立運動が続けられている。

安正は、日露間に戦端が開かれたら、これらの独立革命家を支援、扇動して、帝政ロシアを西から攪乱する手もあるな、と考えた。

後に明石元二郎大佐が、この戦略を実行して大きな成果を上げる。


3月24日、安正はロシアの首都ペテルブルクに入った。

42日間で1850キロ、日本で言えば鹿児島-仙台間を走破したのである。

ロシア側は安正の動きをつかんでいたと見えて、市の南門の10キロ手前で騎兵将校が出迎え、騎兵学校の貴賓室に案内され、賓客として扱われた。

広大な大陸に育ったロシア人ですら、ユーラシア大陸の単騎横断などという大行軍を成し遂げた騎兵はいない。

その勇壮なる企てに、彼らは感激したのである。

安正はここで半月ほど過ごして、情報収集にあたった。

ロシア陸軍の総兵力、編成が明らかになった。それは日本の14倍という規模であった。
さすがにロシア陸軍の華とされる騎兵隊は、軍紀粛正で訓練に熱心な精鋭ぞろいであった。

日露戦争では、この騎兵に苦しめられることになる。

しかし、歩兵や砲兵の練度はムラがあり、ロシア王朝の頽廃に影響されてか、軍紀も弛緩し、皇帝への忠誠心にも疑問があった。


3月30日、安正は皇帝アレクサンドル3世への拝謁を仰せつかった。

皇帝は安正のユーラシア横断に非常な興味を抱いていた。

「少佐は何語を話すのか?」とまず聞かれたが、「ドイツ語でもフランス語でも、英語、ロシア語でも、陛下のお宜しい方で結構でございます」と答えた。

そこでフランス語の会話となったが、安正が中国語も出来ると知ると、皇帝は驚いて、
語学談義に花が咲いた。


4月9日、ペテルブルクを出発し、720キロを16日間で走破して、4月23日にモスクワ着。モスクワではシベリア鉄道に関する情報を集めた。

東西両端から建設工事を始め、現在の未完成の線路は約7千キロ。

今まで工事スピードは年間700キロなので、あと10年、1904年には完成するだろうと安正は予測した。


実際の開通は、安正の予測通り、1904年、日露戦争開戦の年であった。

5月6日、モスクワを出発し、7月9日、ウラル山脈の頂上に到達、かねて聞いていた「頂上の碑」を発見した。

高さ3メートルほどの石碑に、「西はヨーロッパ、東はアジア」とロシア語で記されていた。

安正は空に向かって大声で叫んだ。

思えば欧州に勤務すること5年有半。この間、夢にも見た懐かしい故郷の空、これからがアジアの空だぞ。

ここからがいよいよシベリアである。

帝政ロシアはシベリア開発のために多くの労働力を必要とし、犯罪者や政治犯を多い
ときには年間2百万人も送り込んでいた。

貧しいシベリアではコレラが流行しており、安正が通過する町々では広場に死体の山が築かれ、「死の町」のような静かさに覆われていた。


安正は夏の間に一気にシベリアを横断し、9月24日、日本人として初めてアルタイ山脈を越えて、外蒙に入った。

かつて草原を支配した蒙古民族も、今は清国の支配下にあるが、眠れるが如き清国政府はかかる辺境には無関心で、国防の配慮も乏しい。

帝政ロシアの経済的、軍事的影響が強まっていた。


東進するロシアは、必ずこの外蒙を手中に収めるであろう、と安正は考えた。(実際に20年後の辛亥革命で清朝が崩壊すると、ロシアは外蒙を勢力下に収めている。) その次は満洲、朝鮮、そして我が日本である。

寒さの厳しい高原を、馬の背にゆられながら、安正は祖国の行方を案じていた。


約2ヶ月かかって外蒙を横断すると、安正は再び北上してロシア領に入り、バイカル湖畔にたどり着いた。

シベリア鉄道の工事が、まだここまでは達していなかった事が確認できた。


1893(明治26)年の元旦を、安正はバイカル湖畔から東へ110キロの町で迎えた。

零下30度の寒さで風邪を引き、ホテルで3日間の寝正月を決め込んだ。


2月11日の紀元節。

ベルリンを出発してちょうど1年が経過した。

安正は今までの旅が無事であった事を神に感謝した。

しかし、この日、安正は馬から氷上に転落し、頭部に深い傷を負った。

5日間、農家で療養した後、また東に向かい、3月20日、氷結しているアムール河を渡って、満洲に入った。


4月18日、吉林の手前で、この地方の風土病にかかり、18日間も田舎の宿で昏睡状態が続いた。祖国まであと千キロあまりのところまで来たのに、こんな満洲の田舎で果てるのか、と無念に思った。

しかし、なんとか元気を回復し、5月7日にようやく出発。


6月1日、満洲と朝鮮を隔てる険しい山を越えると、安正は思わず、声を上げた。

「おう、海が見えるぞ!」 前方遠くに見える青い海、日本海である。安正の両眼から涙が滴り落ちた。

祖国、、、あの青い海の向こうに祖国があり、皇居のある東京もあるのだ、、、陛下、臣安正は今、祖国を望む地点まで帰ってきましたぞ。


そこからは再びロシア領に入り、6月12日、安正はついにウラジオストクに到着した。

ちょうど1年4ヶ月で1万4千キロを踏破し、見事に任務を遂行したのである。


大勢の日本人が万歳で出迎えた。到着の知らせは国内外に伝わり、世界中の新聞が世紀の壮挙と大きく報道した。


安正はウラジオストクから3頭の愛馬とともに、東京丸で日本に向かった。

6月29日午後、横浜港に着くと、児玉源太郎陸軍次官や家族が出迎えていた。

さらに安正を驚かせたのは、明治天皇から差し遣わされた侍従が「天皇陛下より賜る」といって、暖かいねぎらいの言葉とともに勲三等旭日重光章を授与した事だった。


7月7日には皇居で明治天皇に御陪食を賜った。

乗馬を好まれる陛下は、安正が3頭の馬を東京まで連れ帰った事を聞かれると、「それはよいことをした。安正はまことの騎兵将校じゃ」と喜ばれた。

明治天皇のご沙汰で、3頭の馬は上野動物園で余生を送ることとなった。


この11年後に日露戦争が始まった。

安正は児玉源太郎・総参謀長のもとで、情報収集・背後工作を続けた。

日露戦争は薄氷を踏むような勝利だっただけに、安正のもたらした情報がなければ、戦局はどう転んだか分からない。


~~~~~~~~~~~~

ボクは、引用がいいとか悪いとか言っているのではありません。

引用だけでなく、生の実体験と、それを形にする祖国を思う信念と高い道義心、それらが揃ったときに、学問は光彩を放つものなのではないかと思うのです。

国を思う志士が書いた論文に対し、いっかいいの小僧が机上の空論を振りかざして、「論文の体をなしていない」などというのは、それは傲慢であり、傲慢は、学問の世界でもっとも忌むべきことではないのか、と疑問に思うのです。


売国左翼というのは、いわゆる「階級闘争主義者」です。

自分以外のすべてを敵とみなし、闘争を図ろうとする。
人を責め、批判することが正義と勘違いしている。

しかし、どんなときも、自らの手を汚してでも、国家(ここでいう国家とは、わたしたちひとりひとりです)を護るというつよい信念をもった人が、書いたものの方が、文章の形式の如何を問わず、「中味のある文」であると、いいきることができるのだと思います。

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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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