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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


沖縄戦で米軍を苦しめた参謀・・・八原博通大佐

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八原博通大佐
八原博通大佐


先日「ひとりでも闘う」という、小野田少尉についての記事を書いたとき、きくりんさんから次のコメントをいただきました。

~~~~~~~~~~~~
旧帝国軍人のお話を伺うと、畑で出会ったアゲハチョウを思い出します。

人参の葉に着くアゲハの幼虫を引きはがしていた時、親のアゲハチョウが私に幾度もぶつかってきたのです。

かなうはずもないのに命がけで子供を守ろうとする親の思いに、涙が出ました。
~~~~~~~~~~~~

我が子を守るためなら、アゲハチョウでさえ、身を犠牲にしてでも闘う。
まして人であれば、我が同朋を守るためなら命を捧げる。


これは、人としてのいわば本能ではなかろうかと思います。
そういう心を失った者は、もはや人の皮をかぶった獣以下、ひいては昆虫以下なのではないかとさえ思います。

最近、沖縄が支那に奪われようとしています。
そのことについては、「尖閣問題と琉球共和国」の記事にも書かせていただいたので、詳細は省きます。

その沖縄に関連することで、今日は八原博通(やはらひろみち)陸軍大佐のことを書いてみようと思います。

大東亜戦争における沖縄戦といえば、昭和20(1945)年3月26日から6月23日にかけて行われた大規模な戦闘です。

日本の守備隊11万6400名に対し、米軍が投じた兵力は54万8000人。

日本の5倍の戦力に加えて、米軍の使用した銃弾の数は270万発、砲弾が6万発、手榴弾39万発、機関銃弾3000万発です。
(ちなみに先日、中共政府が、支那国内に旧日本軍の砲弾が200万発埋まっていると主張しており、日本にその砲弾の撤去を求めているというお話を書きましたが、あの沖縄戦で米軍が雨あられのように降らせた砲弾ですら、6万発なのです。もし当時日本が200万発もの砲弾を持っていたなら、日本は戦争に楽勝していた!)

まさに圧倒的な火力の前に散華された日本の将兵は9万4000名、民間人も同じく9万4000名がお亡くなりになりました。

沖縄戦については、当時、米軍の従軍記者の戦況報道に、次のような一文があります。

~~~~~~~~~~~
現在少将ホッジ麾下の第24兵団の進撃速度は一日2百メートルにとどまり、7日頃からは、日夜日本軍重砲兵の猛射を浴びて苦戦の連続だ。

8日朝、アメリカ軍は要地赤色高地に向かって、戦車5台を先頭に突入、地雷原を突破前進したが、日本軍は焼夷弾をもって戦車を攻撃、さらに銃剣をきらめかせて突撃を開始した。

この戦闘の結果、アメリカ軍は戦車3両を喪失、同高地を放棄しなければならなかった。

牧港と東海岸の和宇慶を結ぶ線には日本軍の一連の陣地がある。
欧州戦の体験者はこれを評して、巧緻かつ構想豊かであると同時にこれまで見たいかなる陣地よりも見事に組織されていると慨嘆した。
~~~~~~~~~~~~

なにやら一方的に日本側守備隊がやりこめられたかのような印象操作がされている沖縄戦ですが、沖縄の守備隊は、実に巧妙かつ勇敢に、圧倒的な火力を持つ米軍と闘ったのです。

そのため、日本軍の頑強な抵抗に直面した米軍は、4月いっぱいかけても、わずか、2、3キロしか前進できなかった。

そして日本の軍人さんたちが、あまりに近距離での激戦を挑むことで、米軍では沖縄戦全体で2万6000人もの兵士が、戦闘神経症にかかって戦列を離れています。
それが、事実なのです。

さらに地上での激戦のために、米海軍の機動部隊は、上陸軍の補給と支援、およびその補給艦隊の援護のために、沖縄近海に密集して長く留まらざるを得ず、そこには相次ぐ特攻隊による攻撃が加えられています。

4月1日から6月22日まで、82日続いた沖縄戦に、本土からは約1900機の特攻機が出撃し、米軍の軍艦34隻を沈没させ、空母、戦艦368隻に重大な損傷を与えた。

そのため、沖縄攻略戦の総指揮官であったニミッツ提督は、地上軍指揮官バックナー陸軍中将に、

「海軍は一日に1.5隻の割合で艦船を失っている。
5日以内に第一線が動き始めなければ、貴官の更迭を求める」と、
極めて異例の厳しい申し入れをしたことが記録されています。

特攻攻撃が、最近の「学者もどき」が語るように、意味のない「犬死」だったとするなら、このニミッツの言葉は、いったいどのように解釈したら良いのでしょうか。

そして、ニミッツに言われた側・・・つまり、そのバックナー陸軍中将も、沖縄摩文仁(まぶに)高地での戦闘の最中、日本軍の砲弾を受けて亡くなっています。
このバックナー陸軍中将の最後については、ああ、やはり日本人なのだなあと思わせる、ものすごい物語がありますが、それについては、また別項で述べたいと思います。

摩文仁高地というのは、沖縄戦の日本軍最高司令部があったところです。
そしてここでの戦いは、もはや軍としての体をなしていないほどに、痛めつけられた日本守備隊が、最後の抵抗戦をしていたところです。
そこで、敵将を倒しているのです。

米国の軍史上で、司令官クラスの戦死者は、このバックナー中将が初めてのできごとです。
全米世論は騒然となった。

米陸軍戦史は、沖縄戦について、次のように記しています。

~~~~~~~~~~~~~
沖縄における日本軍は、まことに優秀な計画と善謀をもって、わが進攻に立ち向かった。
~~~~~~~~~~~~~

戦うこと、護ることを最初から放棄したような「へたれ」の学者もどきや、反日左翼主義者に、沖縄の日本軍を非難などしてもらいたくないです。
そして、彼ら学者もどき、反日左翼主義者などの偽装平和主義者は、自分たちが日本を乗っ取れば、逆に一気に武力にものを言わせた、軍国主義化を進めるのです。
実際、中共をみてください。
軍事費は、日本の3倍です。

沖縄戦において、日本守備隊は、実に勇敢に戦ったのです。
そしてこの沖縄における防御戦の作戦指揮をとったのが、今日、ご紹介する八原博通第三二軍高級参謀です。

八原博通大佐は、鳥取県米子市で、明治35(1902)年、町役場の公務員の子として生まれています。

彼は、地元の米子中学校(現米子東高校)を卒業したあと、大正12(1923)年、陸軍士官学校を卒業し、最年少で陸軍大学校に入校。
昭和4(1929)年に優等(五位)で卒業し、恩賜の軍刀を拝領しています。

そしてその年に陸軍省に入省した八原は、昭和8(1933)年から昭和10年まで、約2年、米国陸軍の隊附士官として米国に駐在しています。

いわば陸軍きっての米国通だったわけです。

そして大東亜戦争がはじまると、第十五軍参謀としてビルマ攻略作戦を担当し、大勝利を飾った後、昭和19(1944)年3月、沖縄防衛を担う第三二軍の作戦担当の高級参謀に就任しています。

そして彼は、第三二軍の司令官であった牛島満中将を補佐し、米軍の来襲に備えて、沖縄県民の本土への疎開と、軍による沖縄持久戦を提案します。

米国通の八原は、沖縄の珊瑚に囲まれた地形や、そこここにある洞窟を利用し、最初から長期持久戦を行うことによって、米軍に長く大量の出血を強いることで、必ずや米国内に厭戦気分が起き、和平上、日本の立場を有利にできると考え、これを第三二軍の方針とします。

ところが、沖縄戦の前に沖縄県知事だった泉守紀は、これを承認しない。
沖縄県民の本土への疎開を拒否するのです。

当時、沖縄の空に度々来襲する敵爆撃機の空爆に恐怖した泉知事は、沖縄県民の命を盾にして、自分だけが沖縄県知事の任を解かれ、本土に復帰できるよう工作をしていたのです。
当時の県知事は、いまのような各地での公選制ではなく、中央からの派遣です。

自分が本土に逃げたいだけの平和主義者泉守紀は、軍の方針にことごとく盾つき、ついには沖縄県民の疎開すら拒否してしまったのです。
(このお話は≪沖縄の二人の知事、泉守紀と島田叡 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-809.html≫に詳述させていただきました)

しかも、大本営は敵情判断の中で、米軍は沖縄より先に台湾への侵攻を図ると考え、第三二軍から、主力の一個師団を台湾に引き抜いてしまいます。

かくなるうえは、残る兵力と、逆に民間人の協力をもって、沖縄を守るしかない。
本来は、戦場に訓練されていない民間人がいたら、軍の行動には足手まといなのです。

しかし、疎開できないならできないで、逆に協力をお願いするしかない。
これは当然の、自然な判断ですし、当時、沖縄の人々は、むしろ積極的にこれに呼応しています。

あたりまえです。
誰だって、いざとなったら女房子供を守りたい。
そのためにできる協力は惜しまない。

八原参謀は、島民の老幼婦女子のうち8万人を本土に避難させた後、島に残った民間人を戦闘地から外れた島北部に疎開させたうえで、青壮年男子2万人を動員して、島内での陣地構築を進めます。
これが、珊瑚を利用した、地下壕になります。

昭和20(1945)年4月1日、米軍の上陸部隊が沖縄本島中部の渡久地海岸に来襲します。

戦艦10、巡洋艦9、駆逐艦23、砲艦117という、気の遠くなるような大艦隊です。

そしてその日のうちに、艦砲弾4万5千発、ロケット弾3万3千発、迫撃砲弾2万2千発という、史上かつてない猛砲撃を加えます。

艦砲弾というのは、ひとことで言ったらドラム缶を縦に三本積み上げたくらいの、どでかい爆弾です。
そんなものを、雨あられのように、沖縄本土に降らせたわけです。

事前の猛爆撃のあと、午前8時には千数百隻の上陸用舟艇が海岸に殺到しました。
幅、わずか11キロの海岸に、4個師団(約6万人ほど)もの大兵力が一度に上陸したのです。
これだけの大がかりな上陸作戦は、さすがの米軍でも初めての経験です。

通常なら、ここで上陸をしようとする米軍と、日本の守備隊との間で、猛烈な戦闘が行われます。
硫黄島では上陸直後に日本軍の猛砲撃を浴びて、米軍は大損害を被っている。
その記憶も新しい状況下での上陸作戦だったのです。

ところが、日本軍は何の抵抗もしない。
しーんと静まり帰っています。
弾の一発も飛んで来ない。

米軍は、「これはエイプリル・フールではないか」と、逆に疑ったそうです。
無血上陸を果たした米軍の将兵は、「沖縄の日本軍最高司令官は偉大なる戦術家か、そうでなければ、大馬鹿者である」と語り合った。

沖縄戦の作戦を立てたのは、八原大佐です。
彼は、地味だけれど、確実に成功する戦術を重視する戦術家です。

米軍をよく知る八原大佐は、沖縄に進攻する米軍の膨大な火力と、真正面からぶつかっても勝ち目がないことをよく知っていた。

兵力の違い、火力の違いから、いずれ日本軍は米軍に敗れる。
そのことも彼はよくわかっていた。

だから、勝つためには、少々かっこは悪いかもしれないが、穴に籠り、とにもかくにも持久戦を戦い続ける、米軍に多大な戦傷を負わせ続ける、そういう作戦を立てたのです。

そうすることで米国内世論は、必ず厭戦に動く。
米国をよく知る八原大佐ならではの作戦です。
硫黄島の栗林中将も、同じく米国派遣経験を持ち、同じ戦法をとっています。

沖縄本島は、南半分は分厚いサンゴの岩盤に覆われています。
そこには、たくさんの天然洞窟がある。
そこに地下壕陣地を作り、米軍に抵抗する。
正面衝突はしない。
あくまで持久戦(ゲリラ戦と言った方がわかりやすいかもしれない)に徹する。

それが八原大佐が建てた作戦です。

八原大佐の読みは的中します。
米軍の火力にものをいわせた猛爆にも、ぶ厚いサンゴの岩盤は、びくともしません。
沖縄守備隊の兵力は、この時点で完璧に温存されたのです。

そして上陸した米軍が、徐々に洞窟に近づくと、洞窟内から機関銃や小銃を抱えた兵が、稜線や斜面に築かれた陣地に行き、そこから的確な射撃を加える。
その後ろからは、迫撃砲や臼砲で敵兵に集中砲火を浴びせる。

米軍は、日本兵からの銃撃を前にして次々と斃され、やむなく無線で海上の戦艦や航空部隊に応援を頼み、日本側の陣地に対して艦砲射撃や空爆を加えます。

ところが、その頃には、日本兵はとっくにひきあげている。
米軍は、無人となった場所に猛爆を加えるだけで、日本側に何の損傷も与えられない。
そしてふたたび進撃を開始すると、どこからともなく日本兵が現われて、米兵に対しピンポイントで銃撃を加える。

みるみるうちに米軍側に死傷者が続出します。
とにかく日本兵の銃撃は良く当たる。
しかも、驚くほど近くからの銃撃です。

戦闘というと、なんだか数時間からときにまる一日中、銃撃合戦が繰り広げられるようなイメージを持つ人が多いです。
しかし実際の個々の戦闘は、数分から十数分で終わる。
接近戦で1時間も撃ち合いが続くようなことは、近代戦ではまずありません。

銃弾の音がすれば、米兵が一瞬にしてバタバタと倒れる。
そして米兵が反撃に出る頃には、そこには日本兵は、もういない。

ちなみに、日本軍の装備は、三八式歩兵銃です。
軍における銃というのは、その国の軍に対する考え方をよく現します。

三八式歩兵銃は、古い銃で、軽機銃のような連射はできません。
しかし命中率が高く、殺傷力が高い。
弾が当たると、相手は確実に、あっという間に苦しまずに死にます。
武士の情けです。一発で相手を苦しまずに逝かせる。
これが三八式歩兵銃です。

これに対し、米軍が採用したM銃は、連射、速射ができます。
いちいち弾を込める必要がないから、相当有利です。
しかも、弾の貫通性が高いので、相手は大怪我をするだけで、一発では死にません。

少々コワイ話ですが、軍においては、味方が死んでくれた方が、負担が少ないのです。
なぜかというと、弾が当たって、大怪我をして、生きていたら、なんとかして助けなきゃなんない。
助けるためには、味方の兵が何人かで、怪我をしたものを後方に送ります。
その分、戦力が落ちるのです。

敵を苦しめ、戦力を削ぐことを目的とした銃と、苦しませずに確実に逝かせる銃。
どちらを採用するかは、その国の軍の考え方によるのです。

沖縄守備隊は、この、連射はできないけど、確実に逝かせる歩兵銃で、果敢に戦います。

おかげで、米軍の上陸から一週間、戦いはまるで幽霊との戦いであるかのように、米軍側に死傷者が続出し、日本側の損耗はほとんどない、という状況が続いた。

ところが、そうした八原参謀の作戦に転機が、むしろ内部から訪れます。

大本営から、軍司令部に、米軍の上陸を許したことを咎める電報がはいり、一方で豪傑肌の長勇中将からは、壕陣地を打って出て積極的な反撃に出るべし、との強硬な意見が出されたのです。

戦いは勝っている。
まさにいまがチャンスであると、長勇中将は説いた。
八原参謀の作戦は、腰ぬけ作戦であるとまで言われた。

八原参謀は、持久戦のためには兵力の温存が不可欠と、これに猛反対するけれど、最後は、肩書きがモノを言います。

4月12日、長勇中将の命令で、3個大隊による米軍への夜襲が決行されます。

ところが、この日出撃した3個大隊の前に立ちはだかったのは、米軍の猛砲撃で変わってしまった地形と、寸断された道路です。
しかもあたりは真っ暗闇。
自分たちが、どこにいるのかさえわからりません。

そうこうしているうちに、目標にすらたどり着いていないうちに、米軍の打ちあげた照明弾によって、急襲隊は発見されてしまいます。
そして密集していた急襲隊は、米軍の集中砲撃を浴びた。

結果、1個大隊が全滅。
2個大隊も大損害を受けてしまいます。

人命が失われただけではありません。

持参したなけなしの火力は粉砕され、発見された味方の将兵の救助のために、後方からのめくら撃ちの砲撃を集中させざるを得ず、この撤退戦で、砲兵部隊の弾薬は大半を使い果たしてしまったのです。

しかも、撤収後には、約2000名の負傷兵の面倒を見なければならないという苦境までも背負い込むはめになってしまった。

やむなく防衛隊は、嘉数高地、首里城へと、撤退を余儀なくされます。
そこでの攻防戦でも、日本の将兵はよく善戦したけれど、隠れている森の中からいきなり銃弾が飛んでくるというゲリラ戦でなく、互いに姿を晒した状況での戦いです。

そうなれば豊富な火力と圧倒的な兵力に加えて、艦砲射撃や、空爆、強力な戦車隊を持つ米軍の方が有利なのは自明の理です。

5月4~5日になると、日本側は普天間付近までの戦線回復を図るため、地上では、温存していた残余の砲兵隊に砲撃を開始させ、第24師団と戦車第27連隊などを繰り出します。

また海上からは、船舶工兵隊と海上挺進隊を海上から迂回させて逆上陸を試みる。

しかし、この反撃戦も大打撃を受けて失敗。
火砲や戦車の大半が破壊され、第32軍の戦死者は、この戦いで約7000名に及んでしまいます。

一度の元気のよい総攻撃が、結果として無理の連鎖を生み、戦いの趨勢を一気に不利なものへと追い込んでしまったのです。

やむなく日本軍は、5月30日、雨天を利用して摩文仁高地に撤退する。

6月6日、海軍部隊司令官の大田実少将が、海軍次官宛に有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ、県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」という有名な訣別電報を打ちます。

そして6月13日、豊見城の海軍司令部壕内で自決する。

八重瀬岳方面の独立混成旅団も、6月14日までに、ほぼ全滅してしまいます。

そして6月17日には、残存戦力の大半を失った第32軍は、組織的抵抗がほぼ不能の状態になってしまいます。

その第32軍の最後の模様が、八原大佐が戦後書いた「沖縄決戦―高級参謀の手記 (1972年)」という本に詳しく掲載されています。

~~~~~~~~~~~~~~~~
6月22日の夜が明けてまもなく、摩文仁の部落に猛烈な期間銃声が起こり、三時間ばかり続くと、はたと止んだ。

松井小隊が全滅したのだ。

さらば松井少尉よ!

戦車の走る音が、手にとるごとく聞こえ、戦車砲がわが洞窟に集中砲火を浴びせてくる。

最後を待つのみのここ洞窟内の軍司令部はがらんとしている。

佐藤主計大佐は、参謀長のもとに話に行き、変わって衛兵長の秋永注意が私の話し相手になる。

正午やや前、参謀部出口で、轟然数発の爆声が起こり、爆煙と土砂が身辺に吹き込んできた。
出口の近くにいた数名が、どっと私の方に退る。

「それ! 黄燐弾だと、皆、防毒マスクを装着する。

私は、きたな!と思ったので、
「秋永注意! ここは大丈夫だ。中央の山頂出口を固めろ!」と叫ぶ。

声に応じて秋永は駆け出した。

私が随感手記を便所付近に落としたのを探しにいった勝由が、息せ切って引き返し、報告した。

「ただ今、敵に山頂を占領されました。
敵の場くらいが垂坑道から洞窟内に落下して爆発、参謀長室のあたりには死傷者がいっぱい転がっています」

秋永中尉が駆け出してから、まだ十分も経たぬのに、もうやられたか。
垂坑道から敵に侵入されたのでは、一大事だ。

まず、参謀長、軍司令官がいちばん危ない。
そして参謀部と副官部が遮断され、参謀部の者は進退きわまる。

私は蛍電灯を手にして、敵を警戒しつつ、垂坑道上り口に歩み寄った。
爆煙が立ちこめ、惨として声を発する者なく、あたり一帯、なま臭い。

蛍電灯の弱い光で点検すると、上り口の付近に十数名の将兵が折り重なって倒れている。

頂上からさらに攻撃を加えられそうな気がするので、十分周囲の状況を確かめたあと、意を決して死体を乗り越え、参謀長室に突進する。
まだ絶命していないのか、私に踏まれた兵士が痛い!と叫んだ。

参謀長室は、無残に吹き飛ばされていた。

長将軍は憮然として、隣の牛島将軍の寝台に腰掛けておられる。

避退した将兵は、両将軍を囲んで総立ちになり、まだ衝撃から立ち直れぬ様子である。

蒼白な顔をした中本嬢が、薄暗いすみっこで、ひとりきちんと腰かけ、両の拳を堅く握りしめ、泣けてくるのをじっと押さえるかにしているのがいじらしい。

皆の話を総合すると、秋永中尉は、山頂に達するや、ただちに数名の部下衛兵とともに、手りゅう弾戦をまじえてことごとく倒れ、第二陣を承って駆け上がった池田少尉以下十数名は、山頂に達するに先立ち、死傷して転落し、さらに手持ちの手りゅう弾が爆発して、損害を大きくしたようだ。

医務室を覗くと、負傷兵にまじって二人の女性が寝棚に横たわっている。
身体も顔もひどくむくみ、誰やら見当がつかぬ。

賀数軍医中尉が、黙々と小刀で腕を切開し、動脈をひっぱりだしている。
青酸カリの注射でもするのであろう。

傍の者に聞くと、与儀、崎山の両嬢ではないかという。
嗚呼、花のかんばせ今いずこ、と嘆いてやりたい。

私が女性の参謀部出入りを厳禁したために、狭くて居場所のない彼女らは、よく垂坑道の登り口にたたずんでいた。
そして犠牲になったのかと思うと、自責の念に耐えない。
(※与儀、崎山の両嬢は、女子学徒隊の一員)

ついに山頂は敵のものとなった。

敵はいつ、垂坑道から侵入するやもしれぬ。

唯一の残された副官部出口は、敵に海上から制せられており、さらに山頂の敵から手の届くところとなった。

容易に自決の日を示されなかった両将軍も、わがことすでに終われりと観ぜられたものか、今夜司令部将兵をもって山頂を奪還し、23日黎明、摩文仁部落方面に玉砕突撃を敢行、牛島中将、長参謀長は、山頂において自決するに決せられた。

山頂奪還の攻撃部署は、責任者の葛野中佐に委し、私はふたたび死体を踏み越えて自席に帰った。

夕刻やや過ぎて、司令部衛兵のひとりが泥にまみれてやってきた。

彼は対戦車肉薄攻撃隊の一員として、いま、敵戦車を待ち伏せして、いま、摩文仁高地束麓で、敵戦車を待ち伏せして、その二両を爆破したが、戦友は皆死傷したという。

一生懸命にその詳細を報告する彼の態度がいじらしく、私も心から耳を傾けた。

数国の後、軍司令官が自決するというこのとき、自己の任務に身体ごとぶつけた兵士の報告を聞く私は、えもいえぬやるせない気持ちである。

彼の言によれば、参謀部出口を閉塞してくれた通信所長は、電信連隊本部に引き揚げる途中、戦死したそうだ。

確報ではないが、混成旅団、軍砲兵隊の両司令部は、昨夜、総員斬り込みをしたという。
第62師団司令部は、依然頑張っているだろうか。もとより知る由もない。

最後の夕飯は、暗い洞窟のそこここでいつもと変わりなくひそやかにはじまっている。

泥水で煮た、握り飯ひとつ。
飲み水は、すでに一滴もない。

地上、地下十数メートルを隔てて、手りゅう弾を投じあい、戦友相次いで斃れ、つい先刻まで談笑していた将兵が、冷たい骸(むくろ)となって横たわり、そして自らの死も数時間の後に迫っているというのに、なんという鎮静した雰囲気であろう。

泣く者もいなければ、笑う者もない。

思うに、皆の共通した願いは、この息詰まる暗黒の洞窟内から、一刻も早く駆け出して、広々とした自由な大地に立って、思うさま最後の呼吸をしてみたいことではないか?

23日午前3時頃、軍司令官の命なりと呼びに来た。
服装をただして出かける。

牛島将軍は、略綬をつけて服装を整え、膝を組んでおられる。
長性分は、キングオブキングスのひょうたん型の壺を前にして、すでに一杯傾けておられる。
周囲の顔触れは昨夜と変わりない。

私は両将軍に敬礼したが、いまや言うべき言葉はない。

私を前にして、両将軍の間には、次のような会話が続けられた。

参謀長「閣下は(昨夜)よく休まれましたね。(自決の)時間が切迫するのに、一向、起きられる様子がないので、実は私も、「もじもじしていました」

司令官「貴官がいびき声、雷の如くやらかすので、なかなか寝つかれなかったからだよ」

参謀長「切腹の順序はどうしましょう。私がお先に失礼して、あの世のご案内をいたしましょうか」

司令官「吾輩が先だよ」

参謀長「閣下は極楽行き。私は地獄行き。お先に失礼しても、ご案内はできませんね」

参謀長は、
「西郷隆盛が城山で自決する直前、碁を打ちながら、別府晋介に向かい、『晋介どん! よか時に合図をしてくれ』と言ったそうだが、俺はキングオブキングスでも飲みながら時を待つかな」と笑われた。

周囲の者は、西郷隆盛と聞いて、一斉に牛島中将を注視する。
将軍は平素、部下から西郷さんと呼ばれていたからである。

両将軍は、二、三、辞世ともなんともつかぬ和歌や、詩をもって応酬された。
私は、はっきりと聞きとることができなかった。

しかし、沖縄を奪取された日本は、帯を解かれされた女と同じもんだと、だじゃれを言われたのを記憶する。

後日知った正確な辞世は、次の通りであった。

【牛島中将】

 秋待たで
 枯れ行く島の青草も
 御国の春に よみがえらなむ

 矢弾つき
 天地もそめて 散るとても
 天駆けりつつ 御国護らむ 

【長将軍】

 醜敵締帯南西地
 飛機満空艦圧海
 敢闘九旬一夢裡
 万骨枯尽走天外

いよいよ時間も迫るので、洞窟に残った者が、皆一列になって、次々に将軍に最後の挨拶をする。

平素正しいと思ったら、参謀相手でも殴り合いをしたきかん気の大野少佐が、一点の邪気のない神のような涼しい顔で走り寄って、大本営宛、最後の電報を打ち終わった旨、報告した。

最後までよく将兵と苦難をともにした平敷屋その他の女性も挨拶をする。

参謀長の当番娘が、
「閣下のご焼香もすまさないで洞窟を出て行くのは誠に申し訳ありません」と述べたとき、長将軍は微かに苦笑された。

彼女たちは、他の残存の将兵とともに、夜の明けきらぬうちに、断崖の道を降りて、海岸の洞窟に行くことになっていた。

参謀長当番の中塚は、俺はもう要らぬからと、貴重な水のはいった水筒を、女たちに与えた。

軍司令は静かに寝棚から降り立たれ、参謀長は、軍衣を脱して、それに従われ、経理部長もまた後に続く。

ロウソクの灯りを戦闘に、粛々と行列は出口に向かう。
心も足も重い。

洞窟の外に出れば、月、いまだ南海に没せず、浮雲の流れ早く、彼我の銃砲声死して天地静寂、暁斬り脚麓より静かに谷々を埋めて這いあがり、万象感激に震えるかの如くである。

洞窟出口から約十歩のあたり、軍司令官は、断崖に面して死の座に着かれ、参謀長、経理部長、またその左側に位置を占め、介錯役坂口大尉がその後方に、私はさらに彼の左後方に立つ。

残存の将兵は、出口に起立して、大なる瞬間を待つ。

やや前かがみに首を伸ばして座した参謀長の白いワイシャツの背に、

義勇奉公
忠則尽命

と墨痕淋漓自筆で大書されたのが、暁暗にもはっきりと読める。

私を振りかえられた長将軍は、世にも美しい神々しい顔で、静かに、
「八原! 後学のために、予の最後を見よ!」と言われた。

剣道五段の坂口が、つと長刀を振りかぶったが、なぜか力なくためらって、
「まだ暗くて、手元がきまりません。しばらく猶予を願います」と言った。

しかし、明るくなれば、海上の敵艦から砲撃される。

海岸洞窟に降りるはずの将兵が動揺をしはじめた。
ついに彼らは、将軍の許しを得て、駆け降り始めた。

焦れる将兵に阻まれている間に、いちばん出口近くにおられた両将軍が立ちあがられる。

私は遅れじと接近しようとするが、奔流のごとく駆け出さんとする将兵十数名が停止を命じられ、出口をふさいでしまった。

ようやく彼らをかきわけ、出口に顔を出そうとする一刹那、轟然一発、銃声が起こった。

騒然たる状況に、敵艦からの砲撃かと思ったが、経理部長自決の拳銃声だったのだ。

そして今度は坂口が、両将軍着座の瞬間、手練の早業で、ちゅうちょなく、首をはねたのだ。

停止させられていた将兵は、堰を切ったように断崖の道を走り始めた。

高級副官、坂口大尉、私の三人は、出口に転がっているドラム缶に腰をおろした。
坂口は私に「やりました!」と、顔面蒼白ながら、会心の笑みを浮かべた。

三人は黙ったまま、ぐったりとなって、白々と明けゆく空を眺めていた。

~~~~~~~~~~~~~~

ちなみに、この牛島中将、長参謀長の死について、元看護婦の伊波苗子氏は、次のような証言を行っています。

~~~~~~~~~~~~~
牛島司令官は、重傷を負って数日前から痛め止めの麻薬を投与されていて、ご自身では割腹が出来ず、副官の手を借りた。

長参謀長は拳銃を持ったまま酒を飲みすぎ寝込んでしまったので、副官が引き金を引いた。
~~~~~~~~~~~~~

また、昭和32年に光文社から発行された「写真記録・太平洋戦争」では、首のない死体の写真を、牛島、長、両将軍の遺体として初公開しています。

しかし、この写真集の現場の様子、遺体の状況等については、現場にいて戦後生き残った八原大佐その他、多くの旧軍人らによって、この遺体写真は両将軍のものではないことが確認されています。

さらに、上の八原大佐の記録は、米軍の調書における料理人ナカムタテツオの証言、映画技師水島八郎の証言とも、細部まで状況が一致しており、伊波婦人や、光文社の写真誌の内容には、間違いがあると断言できるものとなっています。

ナカムタテツオの証言は、以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~
午前3時40分、牛島、長両将軍は、勲章付き、通常礼装着に身支度し、副官と全ての参謀本部将校を従え、静かに洞窟を抜け、狭い岩棚に出た。

料理人ナカムタは、洞窟入口近くの台所に屈み、奇怪な儀式を見た。

両将軍は、低い声で寸時語り合い、それから岩棚に敷かれた厚い座布団に死を表す白布がかけられた。

牛島将軍は、長将軍を左に、儀式の通り座し、海に向かった。
天皇のいる皇居の方向、北を向くだけの広さがなかったのである。

部下がうやうやしく上着のボタンを外し、腹部を出した。

副冠坂口大尉が、刃先を半分白布で巻いた短刀を手にし、背後に立った。
副官が短刀を牛島に渡すと、牛島は短刀を両手に持った。

短刀が腹部を刺すや否や、副官(坂口)の刀がざっくり牛島の首を斬り、首の骨を分断した。
牛島将軍は、白布に倒れ込み、死んだ。

長将軍も同様に果てた。
~~~~~~~~~~~~~

もうひとつ、濱川昌也(はまかわまさなり)軍曹が著わした本に「私の沖縄戦記」という本があります。

この本の中にも、やはり第32軍の最後の模様が出てきます。

くどいようですが、牛島、長、両将軍の最後について、長将軍は当日酔っぱらって自分で自決の銃の引き金を引くこともできず、傍にいた士官に撃ってもらったなど、さいごの最後まで勇敢に戦った32軍を貶めるような発言をする者がいる。

本稿は、八原高級参謀の記事なのだけれど、その八原参謀の記述も、ナカムタテツオの証言も、水島八郎の証言も、そして濱川軍曹の証言も、細部までみんな一致している。

すくなくとも現場にいた人の証言というものは、貴重な第一級の史料であるし、それらを無視して単に想像で命をかけた戦いの模様を、ねじまげるなどということは、あってはならないことだとボクは思います。

そして濱川軍曹の記述からは、八原高級参謀の手記とはまた違った角度からの第32軍の最後をみてとることができます。

すこし紹介します。

~~~~~~~~~~~~
そのうち轟々たる地響きが聞こえ、前方のゆるやかな勾配になった裾野の方から米軍が攻撃してきた。

その砲撃のすさまじさに、壕から出ることができない。

「こうなったら、敵を至近距離まで寄せつけて白兵戦をするしかない」と毛利兵長が呟く。

「戦車だっ!」大弥上等兵が叫ぶ。

見ると前方から三台の戦車が進撃してきた。
先ほどから聞こえてきた轟々たる地響きは米軍の戦車だったのである。

私は眼を疑った。
摩文仁に山は、峨々(がが=がが. 険しくそびえ立っているさま)たる剣山で、たとえ連日の猛爆撃で破壊されたとはいえ勾配は急である。

「この山に敵戦車が登ってこようとは!」
米軍の機械化された装備を知らない我々にとっては、これは全くの驚きであった。

進撃してきた米軍の戦車は、いったん我々の前方百メートルの地点で停止し、陣容を整え、歩兵を伴って再び前進を開始してきた。

それとは別に、右前方数十メートルの地点に、数十人の米兵を発見した大弥上等兵は、
「司令殿! 敵が右前方に!」」と絶叫し、
「すぐ射撃開始を!」と、私の命令を求めてきた。

私は「いや待て! 今撃つと垂直坑道口が敵に知られて反撃をくらい、洞窟内の兵が全滅する。しばらく待て、様子を見る」と拒否したが、興奮したのか命令を聞かない。
そのまま重機の引き金に当てていた指をひいた。

ダ・ダ・ダ・ダと重機は火を吹いたが、一連射(三十発)もしないうちに、ドカンと米軍戦車の砲撃を食らい、大音響とともに洞窟の一部が崩れ、私は一瞬眼がくらみ気を失った。

はっと我にかえってあたりを見回すと、毛利兵長と大弥上等兵が血だるまになって倒れている。

弾薬手の佐々木一等兵は、すでに虫の息だ。

私自身は、どうやら身体は無事のようだが、全身に黄燐弾を浴びたらしく、上着に黄燐弾がしみ込み、燐光を放って、服はじわじわと燃え広がっていく。

“たいへんなことになった。一刻も早くこの非常事態を報告せねば”と私は岩永軍曹と持ち場を交代して、転げ落ちるように垂坑道をかけ降りた。

状況報告を聞いた高級副官は、垂坑道口に将校がひとりもいないことを知って、そばにいた衛兵長秋永中尉を殴りかからんばかりに怒鳴りつけ、
「すぐ垂坑道に登って指揮をとれ!」と命じた。

私は燐光を放ちながら燃え広がる上着をかなぐり捨て、ふたたび垂坑道口へと二、三段登りかけた途端、垂坑道は、またも戦車の直撃を受け、ふたたび大音響とともに崩れ落ち、ごろごろと上から転げ落ちてくる負傷兵や死体に、私は押しつぶされてしまった。

時に、6月21日正午ごろである。
かくして摩文仁陸山頂は、米軍によって馬乗り制圧された。

硝煙たちこめる洞窟内に閉じ込められた将兵は、なすすべもなく、ただ右往左往するのみである。

荒涼殺伐とした空気が洞窟内に満ち、どの将兵の顔にも「ああ!これで今日限りの命となった」と絶望と恐怖の色があふれていた。

あまりにも早い米軍の進撃に混乱していた首脳陣も、そのうち落ち着きを取り戻し、対応策を講じ始め、先ず、頂上に馬乗りをしている米軍から、陣地を奪取するための切り込み隊を編成した。

しかし切り込み隊は、斜面をよじ登るも、丘陵に達しないうちに次々と殺られていく。
それで白昼の攻撃は無駄だと判断し、夜を待つことになった。

米軍に頭上を占領された我々には、洞窟内でじっとしている以外、手の打ちようがない状態となった。

秋風落漠として、声を発する者もなく、ただ産卵している戦友の骸(なきがら)を前にして、諦めて瞑目するほかはない。

そのうち、静寂さに耐えかねたように、小川伍長が私に話しかけてきた。

小川伍長は東京都の出身で、宮古島駐屯の豊部隊から、連絡を持って軍司令部に出張してきた下士官だが、原隊に復帰する術もなく、そのまま軍司令部付きとなり、衛兵要員の一員となった人である。

「今日は21日。官庁の給料日で、ひと月のなかで一番楽しみな日だ。それが最悪の日となるとは!」

続いて気を紛らすかのように、渋谷区役所に勤めていたころ、道元坂上の百軒店で飲み明かした話をしたり、ポケットから一枚の写真を取り出し、
「これは私の母上の写真だ。父上を早く亡くした後、女でひとつで私を一人前に育ててくれた。
しかし私は、その母上に何ら報いることなく、期待を裏切って親不孝の数々をしてきた。
それが今になって悔やまれる」と、食い入るように写真を見つめ、ボロボロと涙を流していた。

通夜のように、静寂なうちにあちこちでひそひそと私語が交わされている中に、長参謀長が、隣の軍司令官に声をかけていた。

「なあー閣下、沖縄の住民は、実によくやってくれた。
日本国のどこが戦場になっても、これほど住民が軍に協力はしてくれなかっただろう。
伊平屋島に“天の岩戸”があるとのことだが、この沖縄こそ、まさに高天原の国だ。この大和の国の発症に地で生涯を閉じるとは、実に幸せだ」

これに対し、牛島司令官は、静かに「ウン、ウン」と相槌をうっていた。

そうこうしているうちに、夜になった。

ふたたび山頂奪回のための切り込み隊が編成されることになり、全将兵は“座して死ぬよりは華々しく突撃して最後を飾らん”とばかりに、競って志願し、その中から選ばれた屈強な兵から、第一隊、第二隊、第三隊と編成されていった。

出口は海岸側に向かっている開口部のみである。
幸いにして、この開口部は、入り組んだ岩陰にあり、敵から発見されにくい場所にあった。

その開口部から、第一隊、第二隊、第三隊と切り込み隊が斜面をよじ登り、夜の闇の中に吸い込まれるように進撃していく。

見送る者誰一人として、口をきく者はなく、固唾をのんでその成功を祈った。

夜襲に出かけた切り込み隊が山頂に達したと思われる頃、激しい銃声がおこり、しばらく続いたが、そのうち、ピタッと止んでしまった。

しかし突撃を敢行した切り込み隊からは、ついに山頂奪回に成功したとの報告はなかった。


山頂奪回の望みが断たれたあと、残された将兵は、突撃組と脱出組、自決組にわけられ、さらに突撃組が出陣するのを見送りながら、牛島軍司令官と長参謀長は、自決することと決まった。

その最後の晩さん会で時を過ごし、時刻は6月21日午前0時を回るが、根性の別れに話はつきない。

月はまだ西の空に輝いているが、東の空がほのかに白みを増してきた頃、軍司令官は正装に略綬を杯用し、参謀長は南無阿弥陀仏と筆で自筆した襦袢を着て、薩摩下駄をからころと響かせながら、洞窟の出口に設けられた切腹の座に向かった。

洞窟内に残った将兵は、起立して頭を垂れて両将軍を見送る。

介錯役は、剣道五段の坂口大尉が務めたが、右手を負傷していたため、牛島軍司令官の介錯のとき、ちょっと手元がくるったようだ。

軍司令官は、あらかじめ青酸カリの注射をされていたようである。

長参謀長の切腹は見事なもので、古式にのっとった作法を全うしている。

“大将の首級は敵手に渡さず”・・・敵手に渡ることを最大の恥辱とする日本古来の武将の習慣により、両将軍の首級は、当番兵の高橋兵長と、軍属の魚住豊明によって白木の箱に納められ、洞窟外の何処かに運び去られた。

後日この二人も米軍の捕虜となり、ために、両将軍の首級のありかも米軍の知るところとなって、6月26日頃、米軍の手によって発掘されたとのことである。

時に、昭和20年6月22日午前4時30分ごろである。

すべての沖縄戦記では、軍司令官の最後を6月23日としているが、これは誤りである。
21日正午ごろ、馬乗りされて山頂を米兵に占拠されている下で、最高司令官や参謀長が、のんのんと生きながらえているはずがない。
~~~~~~~~~~~~

その場に居合わせた者にしか書くことのできない、当時の状況が、まるで目に浮かぶかのようです。

さて、濱川軍曹らとともに、壕を脱出した八原大佐は、戦訓伝達のため民間人になりすまして移動中、7月15日、武運つたなく米軍に捕まって捕虜となりました。

凄惨な最期を遂げられた沖縄守備隊第32軍は、こうして壊滅します。

しかし若い八原高級参謀の立てた作戦が、すくなくとも緒戦において、米軍をてこずらせたこと、および、もし持久戦を旨とする八原戦略が貫徹されていれば、もしかすると沖縄は終戦時まで持ちこたえ、ために米軍の死傷者が膨大な数に上り、米国は早々に終戦を迫られることになった可能性は、否定できない事実です。

軍は、間違いなく、頭脳で動きます。
血気で動くものではない。

いま日本は、反日政権、親共政権によって、もはや亡国崩壊寸前の状況にあります。

しかし、戦いは、怒りや血気だけでは、闘えない。
そこには、頭脳がいる。

ともあれ、沖縄戦でお亡くなりになられた多くの方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

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アメリカからみた【沖縄 シュガーローフの戦い(Sugarloaf)】第二次世界大戦


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君が代すわろうず活動報告(2016nc)φ( ̄▽ ̄)b
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君が代すわろうず活動報告φ( ̄▽ ̄)b
「君が代すわろうず」の活動してきたでぇ∠(・ω・)ピッ
第98回全国高校野球選手権大会
於:阪神甲子園球場
2016年8月21日 閉会式 [49段28]の席 v( ̄▽ ̄)v
チェックチェックゥ♪ヽ(´ー`)ノ
君も「君が代すわろうず」に入らへんか?(笑) o(^▽^)○
日の丸の不掲揚や君が代の不起立と不斉唱を貫いとる愛国者の諸君!
おきばんなはれo(^-^)o
「君が代すわろうず」活動停止条件
(1)日本国憲法からの天皇に関する全ての条文の削除。
(2)日の丸の掲揚および君が代の起立斉唱を義務づける全ての法令および行政規則の廃止。
m9(゚∀゚)Идиот!> номенклату́ра
נומנקלטורה עמלק
Ceterum autem censeo, Nomenklaturam esse delendam.
2016/08/23(火) 19:22 | URL | 春九千 #sX3PeL8.[ 編集]
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2016/08/23(火) 17:53 | URL | 春九千 #sX3PeL8.[ 編集]
日本州
pdf版(*^ヮ゚)σ:http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7659/sjp/statements/sjp20160815a.pdf
日本州
^^^^^^
日本をアメリカの州にしてはどうか?

http://mainichi.jp/articles/20160506/k00/00e/030/121000c
>トランプ氏:「米軍駐留費、全額負担を」…共和指名確定 - 毎日新聞

>米軍駐留費全額負担
このような事態に対応する方策として次の手段が考えられます。

日本をアメリカの州にする

本方策の方針は以下の通りとなります。

日本をアメリカの州にする。
 これにより、日本における米軍の駐留をアメリカの自国内という位置づけにする。
  これにより、「米軍が駐留する同盟国」というトランプの主張の前提を打ち消す。
   これにより、「米軍駐留費全額負担」の回避を原因とする、日本に駐留する米軍の撤退という事態を回避する。

加 盟

これが本方策のコンセプトです。

第三次世界大戦は既に始まっていると考えて行動しましょう。

pdf版(*^ヮ゚)σ:http://www.geocities.co.jp/WallStreet/7659/sjp/statements/sjp20160815a.pdf

m9(゚∀゚)Идиот!> номенклату́ра
נומנקלטורה עמלק
Ceterum autem censeo, Nomenklaturam esse delendam.
2016/08/15(月) 09:27 | URL | 春九千 #sX3PeL8.[ 編集]
君が代すわろうず活動報告φ( ̄▽ ̄)b2016夏開会式
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(2)日の丸の掲揚および君が代の起立斉唱を義務づける全ての法令および行政規則の廃止。
次回活動予定ρ( ̄▽ ̄)b
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2016/08/09(火) 23:39 | URL | 春九千 #sX3PeL8.[ 編集]
沖縄の島守
身内に旧軍関係者が多いこともあり、かれこれ30年余り中学生ぐらいから色々軍事図書・戦記を好んで読んできましたが、最近「沖縄の島守-内務官僚かく戦えり」という本を読んで、八原大佐に対する考え方が少し変わりました。その上で貴ブログを拝読し、気になる点があったのでコメントさせていただきます。第九師団引き抜き後の持久作戦を攻勢に転じさせられたのは、長参謀長の意向であり、それにより戦力の大部分を失ったのは八原大佐の作戦構想に起因するものではないのは確かです。ただ、彼が主導した首里放棄・喜屋武半島への撤退による持久戦継続作戦は評価できないと思料します。これは、「寸地の残る限り最後まで後退善闘せよ」という大本営の方針を墨守したものですが、必勝を信じ軍に全面的に協力してきた島田沖縄県知事の目にも「制空制海権もなく組織的戦闘力の大半を失ったこの期に及んで、首里で手を挙げるのも、南端水際で手を挙げるのも同じ」と映った状況を直視した上で、軍を信じ軍が首里にあったからこそ南に避難した30万人ともいわれた沖縄県民を救うためにも、首里決戦で戦闘を終結させるべきではなかったでしょうか。理由は違いますが、第62師団の上野参謀長からも首里放棄反対意見が出されていました。島田県知事からも再々住民保護の見地から首里放棄撤回の強い申し入れがあったにも拘わらず、それに耳を貸さず、南部への撤退による持久戦継続を主導した八原大佐には失望を感じぜずにはいられません。参謀は意思決定者ではないので、最終責任は牛島軍司令官にありますが、お孫の牛島貞満氏も同様の指摘をされています。首里放棄後の沖縄県民(必勝を信じ涙ぐましい協力を惜しまなかった)の多大な犠牲(特に罪のない人生これからという青少年・子供・幼児)を考えた時、作戦立案責任者として、かつ自分自身6人の子供の親であった八原大佐の責任観念の在り方にも疑義を呈せざるをえません。島田知事・荒木警察部長は、非戦闘者ながら、行政官として責任観念の発露から最後軍と運命を共にしました。 八原大佐を無批判的に評価する最近の傾向に一石を投じたいと思います。

2013/04/13(土) 13:54 | URL | 放而不逸 #GK0MYjlk[ 編集]
No title
 私の祖父のまた従兄弟が沖縄戦全般を指揮した牛島満であります。沖縄に渡る前、三重県津市に疎開していた私の祖母の留守宅に最後の挨拶にみえたそうです。
 戦後、シベリア抑留から帰国した祖父は、内地に帰還したら頼りにしようと思っていた満さん(我が家ではこの様に呼んでいる)が戦死していたとの報告を聞いて愕然としたそうです。祖母はショックを与えるといけないというのでシベリア捕虜への軍事郵便にも満さん戦死の事は書いていませんでした。(このときの軍事郵便は一通を除きすべて祖父の手元に渡っており、引き揚げにあたって持って帰ってきたが、満さん戦死の事は何も書かれていませんでした)
 また八原参謀には戦後、軍事評論家として活躍した祖父の従兄弟が面談して沖縄線の一部始終を防衛庁の資料として文書に残しております。八原参謀は戦陣訓にある「死して虜囚の辱めを受けず」の原則に反し、民間人に偽装してまでも沖縄戦の後、生還しています(第32軍幹部ただ一人の生き残り)が、戦闘指揮方針を巡っての確執をよほど後世に伝えたかったのでしょう。執念を感じさせる話です。
2012/01/23(月) 12:24 | URL | 遠藤 #eYj5zAx6[ 編集]
沖縄の方も安全操業を求めて起ち上がっています。
「日本会議 国民運動関連情報」
平成22年10月18日(月)通巻第383号

先週16日(土)、沖縄県宜野湾市で、尖閣諸島問題の県民集会を日本会議沖縄県本部が中心となって呼びかけ開催いたしました。
2週間程度の準備期間で、中心部の那覇市の郊外である宜野湾市という時間的にも場所的にもハードルが高い状況にも拘らず、700人の参加者がありました。
地元ではテレビ、新聞などで大きく取り上げられましたが、全国紙での扱いは小さく、生活を圧迫されている沖縄漁民の危機意識との温度差が顕著となった格好です。
取り急ぎ、報道記事を中心にご報告まで。
行事の詳しいレポートは日本会議のHPで。
詳しくはこちら→ http://www.nipponkaigi.org/activity/archives/1519
2010/10/18(月) 21:53 | URL | たちあがる沖縄 #-[ 編集]
No title
とても読み応えのある記事ですね。



暁月の(あかつきの)

見ゆる寸刻  惜しまれど

心は北面  八千代に続けと
2010/10/17(日) 22:08 | URL | #-[ 編集]
今日も平常運転
今夜のNHKスペシャルは、またもや反米番組です。
普天間基地移設問題が宙ぶらりんの最中、NHKの目的は
見え見えですね(笑)

米軍叩きと第二次大戦時の日本軍叩き番組はやっても、
中国政府によるチベット人虐殺ネタやウイグル人虐殺ネタ
はスルーするNHK。
チベット人やウイグル人は武器すら持てず、中国政府を批判
するデモしたら投獄され虐殺されるのに。

2010年10月17日(日) 午後9時00分~9時49分 総合
貧者の兵器とロボット兵器
~自爆将軍ハッカーニの戦争~

アフガニスタンで続く泥沼の戦い。武装集団は「貧者の兵器」
と呼ばれる旧式の銃や爆弾で戦い、アメリカは「ロボット兵器」
で攻撃する。知られざるいびつな戦場の姿を描く。
2010/10/17(日) 21:47 | URL | 燕子花 #JalddpaA[ 編集]
ブログ毎回楽しみに読ませて頂いております。
ブログ毎回楽しみに読ませて頂いております。今後も頑張って下さいね(*^_^*)

私のサイトも応援して下さい☆

http://www.a-souzokuzei.com
2010/10/17(日) 19:15 | URL | ブログ毎回楽しみに読ませて頂いております。 #/6EGMedk[ 編集]
合板張りの特攻艇隊2
【先の記事の補足です】『米海軍の弾薬輸送艦「マラソン」六八七三トンが昭和二十年五月二七日、伊四七潜の回天の攻撃により撃破されたとする戦史書が幾つかある。
米国務省ほか一部の公式文書にも「人間魚雷による」と記載されている。しかし同艦は、その日はサンフランシスコ港内で停泊中であった。
大損傷を被った時期を五月と記したのは誤りで、七月の二二日である。
しかも場所は沖縄本島東岸の「バックナー」湾、即ち中城湾の入口に近い防潜網の内側であった。
「マラソン」は前日の二一日入港して投錨し、日付が変わった深夜の〇一三〇、突如として艦底で水中爆発が起こった。
艦の前部が大破、船倉に浸水して艦首が沈み、右に傾斜した。
同湾内に在泊していた救難曳船、戦艦、巡洋艦などから消防隊多数が来援して消火、排水につとめたので、
弾薬輸送艦にとって最悪の事態である引火爆発、或いは沈没する危機から、同艦にとっては幸運にも脱出することができた。
当時、晴天であり、空襲警報もなく、上空を飛行した航空機もなかったことから、艦長は「人間魚雷の攻撃による」と判断して戦闘詳報を撞出したが、
いずれにせよ伊四七潜ほかの潜水艦が、沖縄本島まで接近して回天または魚雷で攻撃した事実はない。
日本海軍の一式陸攻が四月十一日の夜間、中城湾に機雷(三式二号航空機雷)を投下しているので、
錨泊中の「マラソン」がたまたま同時刻の上げ潮に乗って艦体が動き、機雷の信管を作動させたものと推察される。
米海軍の輸送艦「カリーナ」満載排水量一一五六五トンが二十年五月三日、沖縄付近で損傷を被った。
一部の歴史家は伊四七潜の回天による戦果に数えているが、これは詳細資料から水上特攻艇の攻撃であったと判断される。
また、二十年四月二十七日、輸送船「カナダ・ビクトリー」が沖縄本島西岸で沈没した。
これも回天の戦果と記述する戦史書が多いのであるが、事実は神風特攻によるものである。
それに近い水域で同日、輸送船「ポーズマン・ビクトリー」も損傷を受けた。船長は「人間魚雷による」と報告し、公文書にもその様に記録されている。
事実はこれも回天ではなく、水上特攻艇[陸軍海上挺進隊の丸レ]の命中であった。
2010/10/17(日) 14:02 | URL | 愛国志民 #-[ 編集]
一般人が出来ること
<拡散推奨>
手っ取り早く中国人の暴走を防ぐ方法を見つけました。
ご参考にして頂ければ幸いです。
http://ameblo.jp/japangard/entry-10675525769.html
2010/10/17(日) 10:21 | URL | #-[ 編集]
No title
<拡散推奨>
新潟で中国大使館が建てられようとしています。
明らかに有事の時の軍事拠点にするつもりでしょう。
皆で抗議の声を上げましょう!
http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-2926.html#comment_list

http://2nnlove.blog114.fc2.com/blog-entry-3011.html#comment_list
2010/10/17(日) 10:16 | URL | #-[ 編集]
合板張りの特攻艇隊
 よく水上特攻隊[震洋・丸レ]無力だったと知ったかぶりの輩が、いい加減なことを書いていますが、
英国の戦史研究家リチャード・オネール著『特別攻撃隊』によれば、
「沖縄における特攻艇部隊の戦闘は、長くかつ苦しい沖縄戦の一部であったが、
特攻艇はある程度の成功をおさめたものと言えよう。それは沖縄防衛軍の士気を高め、
また特攻による抗戦で、長い間連合軍の戦意を喪失させる最も確実な貢献をしたからである」と述べております。
事実、連日の激しい砲爆撃の下、また主要出撃基地であった慶良間群島が最初に占領されるという蹉跌がありながらも、
海軍の震洋は、4月4日未明に中城湾にて、市川及び鈴木の両二等兵曹が搭乗して
米軍の大型歩兵揚陸艇LCI-42号[387トン]を撃沈しております。
最近出されている本にはこの事は一切無視されており、載る事はありませんが米海軍の記録による間違いない事実です。
さらにまた、陸軍海上挺進隊の戦果はずっと多く、
3月28日に設網艦テレビンスが軽微な損傷を受けたのを皮切りに、同日LCI(L)-588号が損傷。
30日に中型揚陸艦LSM-12号[520トン]が攻撃を受け4日後に沈没。
4月9日、駆逐艦チャールズ・J・バジャーが停泊中爆雷攻撃で機関室が浸水、使用不能に陥り、
戦時標準型輸送艦スターに軽微な損傷、中型揚陸艦LSM-89が損傷、駆逐艦ポーターフィールドが友軍の流れ弾丸により損傷。
15日、機雷掃海艇LCS-331号が大破。
27日、駆逐艦ハッチンズが左舷のエンジンとスクリュー軸を破損し18名が負傷し使用不能。
29日、ロケット砲撃艇LCS(R)-37号が大破して破棄。
大型輸送船に横付けされていたトラック等を搭載した上陸用舟艇LCVP数隻が沈没又は損傷。
5月4日、中城湾にて輸送船カリーナ大破。といった着実な戦果を挙げておりました。
こうした一連の水上特攻により米海軍は極度の緊張とストレスに悩まされ
「水上に浮かぶタバコの吸い殻よりも大きな物体に対しては、射撃しても差し支えなし」との指示がなされました。
例えとしては不適当かも知れませんが、
爆装漁船が日本の艦船に奇襲体当たり攻撃を掛けてきたらどうなるかと思うとゾッとします。
2010/10/17(日) 09:24 | URL | 愛国志民 #-[ 編集]
No title
「台湾はどうなる! 台湾防衛をなんとする!」

八原大佐の綿密に仕上げた沖縄防衛作戦も、大本営の横槍で第九師団が台湾に抽出されてしまいました。作戦は最初からやり直しです。

大佐は幼年学校出身でなかったこともあって、軍内では異色の存在でした。

戦艦一隻をつぶせば陸軍何個師団できる、陸軍一個師団で重巡洋艦何隻か、などと議論しているときにニューヨークタイムズを読んでいたと聞いています。  経済力が戦力を左右すると発言しても、相手にされなかった。

映画「沖縄決戦」では丹波哲郎の長勇と仲代達也の八原博通の確執がよく描かれていましたね。突撃をせず大佐の作戦通り持久戦に徹していれば、結果は変わっていたでしょう。

硫黄島の栗林中将の戦いぶりは、大本営と32軍に伝わっていなかったのでしょうか。


2010/10/17(日) 06:46 | URL | あ太郎 #eSGkAR1I[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

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