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ミッドウエー海戦に寄せて 名将山口多聞

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山口多聞中将
山口多聞中将


6月5日から7日にかけては、ミッドウエー海戦が行なわれた日です。
昭和17(1942)年のことです。

そこで今日は、ミッドウエー海戦にちなんで、この海戦でお亡くなりになった山口多聞(やまぐちたもん)中将のことを書いてみたいと思います。
山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。

是非、ご一読いただければと思います。
こういう史実を子供達が学んで育ったら、日本は変る。
そう思います。

生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子で、れっきとした武家の家柄です。
多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。

山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。
なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革したのです。
おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされます。
出雲松平藩は、徳川家の親藩でありながら、はやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。

こうした合理主義、客観主義の家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかかります。

ちなみに山口多聞は、いまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
入学時の成績は、150人中21番です。
卒業時の成績は、144名中2番です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎がいます。

旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわります。
戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されている風がありますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。
なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
すべてを見極めた上で、先任順が決められる。
人間を鍛錬し、厳しく鍛え上げるという気風があればこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。
そこに甘ったれた精神はない。

昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、これは間違いです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
人に上下の差別はあるのです。それは区別であって差蔑ではない。
俺は成績は悪いが、ケンカでは負けない!でも良いのです。
人はそうやって競争していくことで、人間は負けない心、くじけない心が養成され、強くなるのだと思う。

山口多聞は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。

そして軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向しました。

船舶や陸戦は、水平運動です。
潜水艦は、水平運動に垂直運動が加わります。
つまり、動きが上下左右の三次元行動です。
潜水艦の専門であった山口多聞にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすかったのかもしれません。

山口多聞は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
山口多聞といえば、山本五十六の秘蔵っ子、米内光政のラインとも言われていますが、山口は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしています。
ちなみに、山本五十六はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派です。
またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

もともと合理主義の家系に育った山口多聞が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは、容易に想像がつきます。

その山口多聞が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いだったそうです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。

日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%を米国から輸入していたのです。
石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分だけです。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということです。

石炭の問題もあります。
石炭の産出量は、米国は日本の約9倍です。
もっというと、戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが現実なのです。

もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなる。

しかも日本は、国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っています。
つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなる。

すでに、支那ではイクサがはじまっています。
これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させます。
国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に反対したのです。

この時期、多くの日本の陸海軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。

すこし脱線します。
文民統制(シビリアン・コントロール)という言葉があります。
武人は戦争を起こすから、武人は文人が制御すべしという議論です。

なるほど明治維新の戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。
この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
けれどこの戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いだったのです。

日本は、からくも日清戦争に勝利しました。
そしてこの戦争で、日本はロシアの南下を阻止することに成功しました。

ところが、です。
この日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、軍人ではありません。文人政治家です。

さらに軍人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげく支那を蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、支那事変に至らしめたものも、結局は幣原喜重郎内閣の「平和外交」、すなわち文人政治家です。

平和を愛する「文人統制」といえばいっけん聞こえはいいけれど、要するに「腰ぬけ平和主義者」に外交をやらせると、かえって被害が大きくなることを、歴史は証明しています。

大東亜戦争開戦時、山口多聞は海軍少尉で、第二航空戰隊司令官でした。
日米開戦が決定すると、山口は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しました。
日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならない。
それが軍人の使命です。

開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
この頃、山口は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
「丸」は、彼が太っていたからなのだそうです。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。

山口は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦はなかった。
ほんのわずかなミスも許さなかった。
当然のことです。
150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。

ある日山口は、みなに聞こえるように、
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、ありゃいったいどんな感じのものなのかね」などと本気で質問し、訓練生たちを鼻白けさせたそうです。

山口多聞は本気だったのです。
日米開戦となれば、初戦で大戦果をあげなければならないのです。
戦いを長引かせる体力は、日本にはない。

その訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。

山口が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかった。それくらい大量の重油が積載されていました。

なぜでしょう。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていたけれど、両船とも航続距離が短かった、これが第一の理由です。

平時ならなんの問題もありません。
油送船を一緒に連れていけばよいからです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。

けれど、真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。

冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
もっとも、だからこそ、途中他国の船に行き会う機会が少ないだろうということなのだし、もし敵国や第三国の船に連合艦隊が発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。

要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのであり、そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになる。

その結果、軍令部(大本営海軍部)は、当初、飛行機は他の空母に搭載し、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しています。

これを伝え聞いた山口少将は、烈火のごとく怒りました。
即座に南雲中将に面会しました。
そして山口は、南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくりました。

結果、山口の強い抗議と要望で三空母が、作戦に参加することになりました。
なぜ山口は、ここまで航空機にこだわったのか。
彼は、戦争が艦隊主義から航空戦の時代に変わったことを熟知していたのです。
ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。

理由の第二は、山口の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しているであろうことは、容易に想像がつきます。
なぜなら、「だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備した」のであり、「だからこそ日本海軍は真珠湾に向かった」ことが、それを証明しています。

真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予期せざることでした。
これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。
本来、真珠湾は、その名の通り浅い湾です。
そこに敵潜水艦は入れない。
敵の水雷艇がやってくるには、距離がありすぎる。
要するに魚雷攻撃の心配がないのです。

こうなると米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけとなります。
まだGPSによるピンポイント艦砲射撃などなかった時代です。
揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が有利なのはあたりまえです。
また日本の航空機による攻撃に対しては、大軍の戦闘機部隊を真珠湾に配備することで、十二分に対抗できたはずだったのです。

にも関わらず、日本が真珠湾攻撃で大戦果を挙げることができたのは、米軍がまったく予期しなかった航空機による魚雷攻撃という、当時の世界の常識ではありえなかった戦法を日本が行なったからです。

山口は、これを実現したのです。

さらに山口は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないと考えました。
米艦隊を完膚なきまでに叩くだけでなく、さらに真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すること。
そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができないということを、山口は主張し続けたのです。

前もって定められた軍議では、山口の徹底案は、退けられています。
けれど山口は、それでもところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。

山口多聞は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。

しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒りまくる。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない男であったそうです。

いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るというのは、むしろ男子の美徳なのではないかと私は思います。

さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。

当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせます。

時刻到来。
空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちます。

そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。
「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。

待ちに待った電報でした。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。

米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。

~~~~~~~~~~~
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
~~~~~~~~~~~

実は、山口多聞は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。

山口は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。

双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」とつぶやいたといいます。

唯物史観主義者にはまったく理解できないことかもしれないけれど、碁や将棋、あるいは武道をする方であれば、だれでもがご理解いただけると思う。
先を読む、ということです。
こうすればこうなる。ああやればこうなる。
だから未来は築けるものです。
見通せるものです。
予期できるものです。

第二次、第三次の攻撃をしないことによって、先々の戦闘がどのように変化していくのか。
それを合理的に見通せる力をもった山口が、このときどれだけ悔しく、情けない思いをしたか。

けれど、軍は命令がなければ動けません。
独断専行は、決して許されない。
このとき、南雲中将は機動部隊を無事に帰還させることを優先し、初めから第二波攻撃を考えていなかったのです。

さらに山口のあせりは募ります。
攻撃後の報告で、真珠湾に米空母がいなかったことが判明したのです。

山口は、敵空母をさらに追い詰めるよう具申しました。
けれど、南雲中将はこれも無視しました。
そして艦隊に帰還を命じたのです。

南雲中将の判断も、それはそれで正しいものです。
真珠湾を叩き、そのうえで外交交渉によってできるだけ早期に和解する。
そのためには、過度に米国を刺激するのは決して良い選択とはいえないし、万一戦闘が長引くことになったとき、すこしでも多くの艦隊余力を温存しておかなければならない。

しかし、すでにイクサは始まってしまっているのです。
中途半端な攻撃は、かえって米国民の怒りを募らせ、日米の戦闘が泥沼化する可能性が高い。
そうとわかれば、再起不能なまでに叩かなければ、日本に勝機はなく、和平の道も開けない。

このとき山口は、地団太ふんで悔しがったといいます。
歴史というものは皮肉です。
南雲中将は、水雷畑の出身で「水雷の権威」で「航空戦」にはズブの素人です。
それをいきなり航空艦隊の総帥に任じられたのは、年功序列を重んじる海軍の平時の人事の発想だったかもしれない。
航空戦にズブの素人の南雲中将が上官で、プロの山口がその指揮下に甘んじていた。

もし、山口多聞少将が真珠湾機動部隊を指揮していたら、おそらく歴史は違っていたことでしょう。
山口は、ハワイの軍事施設を徹底的に叩き、米空母艦隊を求めて決戦を遂行したことでしょう。
真珠湾攻撃で、米太平洋艦隊は、すでに戦艦を失っています。
陸上の軍事施設も、山口司令の指揮で、完膚なきまでに米軍は喪失したことでしょう。

そうなれば、米軍空母はまる裸です。
まる裸となった空母は、日本艦隊の、あるいは日本の航空機のただのマトでしかありません。
こうして米国太平洋艦隊が一夜にして壊滅し、米国がハワイという太平洋への足がかりを完全に失ったとき、はたして歴史はどのように動いたか。

そもそも戦争というものは、平時とは異なるものです。
やるからには下手な情け無用で徹底的に相手を壊滅させなければなりません。
そうしなければ、結果としてこちらがヒドイ目に遭い、多くの同胞のかけがえのない命が失われてしまうのです。
明治以降の日本の戦史を見ると、そのことをいやというほど思い知らされます。

古来、日本人は平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪う。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。

平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。

さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
海戦に先立ち、山口は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。

~~~~~~~~~~~
ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、敵機の襲来に備え、少なくとも三機動部隊を出撃させるなければならない。
~~~~~~~~~~~

しかし、山口多聞の提案はうやむやされてしまいます。
しかもアリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。

ミッドウエー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。

船は魚雷でなくては沈みません。
しかし、山口は攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
だからまず、陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張しました。

すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。

しかし、南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。

これが仇になりました。
初動対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう結果となりました。

午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。

7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。

山口は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。俺も後から行く」
すでにこの時点で、山口は死を決意していたのです。

第一次攻撃隊を発進させた山口は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
米空母をめざしたのです。
そして進撃しながら、艦隊司令部に「各損害空母には駆逐艦一を付け、主力部隊の方向 に向かわしめられたく」と要請しました。
この時点で、これは要請とというより命令です。
部下が上司に命令した。

カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。

9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
敵空母からは、猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させた。

10時30分、山口の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容します。
このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
いかに激戦であったかがわかります。

11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達します。
そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させます。

山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。

けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
つまり、米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。

12時20分、山口は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
乗員の疲労も極限に達していました。

午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきた。

このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
「敵機来襲!」と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。
しかしそこまでででした。
見張員が叫び声をあげたのが2時1分、そして2分後には4発の爆弾が、「飛龍」に続けざまに命中したのです。

最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。

このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になります。
しかしエンジンは動いている。
機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。

「飛龍」は、走りつづけます。
しかし、機関部に海水が流れ込む。
船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。

海面が静かな月光に照らされていました。
海上は、夕凪で、波ひとつない静けさです。
その洋上を、「飛龍」が漂う。

浸水がはじまり、艦が左に傾き始めます。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、飛龍の運命もこれまでと思います。総員退去の許可を求めます」と申し出ます。

山口と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降りました。
そこはまだ火の手が回っていなかったのです。

そこに、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
彼ら乗組員たちは、山口と加来を取り巻きます。

このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。
~~~~~~~~~
月のせいで、そんなに暗くなかった。
艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
山口司令官の訣別の訓示は、
「皆のお陰で、他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。敵空母二隻と巡洋艦一隻をやつけた(と、我々はそのときそう信じていた)どうもありがとう。しかし、飛龍をみて分かるとおり内地に帰還するだけの力ははすでにない。
艦長と自分は、 飛龍とともに沈んで責任をとる。
戦争はこれからだ。皆生き残って、より強い海軍を作ってもらいたい」と訓示した。
~~~~~~~~~

その場にいあわせた生存者全員が泣きました。
声はあげません。
人間、ほんんとうに辛いとき、声など出して泣かないものです。
みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロとながしていました。
みんなが泣いていました。

そしてみんなで、日本の方向を向いて、山口長官の音頭で万歳をとなえました。
「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろしました。
退艦儀式を手順どおり進ませました。

主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。

そのときです。
山口を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、「司令官!」と大きな涙声で呼んだのです。
「何か頂く物はございませんか」

山口多聞はふり向き、こんなときでもニヤリと笑い、
「これでも家族に届けてもらうか」と頭にかぶっていた黒の戦闘帽を脱きました。

伊藤中佐が受け取りました。
山口は「それをくれ」と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。

空母が沈むとき浮き上がらぬよう 、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
そうではなく、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。

日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。

戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。

~~~~~~~~~~~
ミッドウェー海戦で米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
そのため、ヨーロッパや、北アフリカでイギリスを助ける力が弱まり、(中略)イギリスは絶体絶命となり、ヒトラーがヨーロッパの勝者になった可能性が高くなったであろう。
~~~~~~~~~~~

ミッドウエー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。

戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。

いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウエーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。

ミッドウエーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
山口多聞は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。

享年49歳。

そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。


※この記事は、2010/3/23にアップした記事をもとに再編集させていただきました)


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コメント
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2014/10/14(火) 02:09 | | #[ 編集]
尊敬してやまない、山口多聞提督の記事を有難う御座いました。
山口提督ほど、時局、戦局を判断でき、優秀で、人徳のある人はいませんでした。


帝国海軍はその後に続く、苦しい戦闘に精励し続けたわけでございますが、

山口多聞様を失なった、
失うような状況にしてしまったことのすべてに、
日本国民として慚愧にたえず、

最大の過ちであったと感じます。

山口多聞提督の御霊に、
最敬礼したく存じます。
2014/06/30(月) 07:30 | URL | ひかり #Kv77x8jM[ 編集]
山本は死ぬまで派出な事ばかりするのが好き!
大東亜戦争の帝国海軍の司令長官は小澤次三郎か山口多門が適任でしたね。

年次順送り制度で山本になったのが不幸の始まりです。

南雲は魚雷屋、航空戦の指揮は取れません。

護衛艦二隻、空母四隻では兵隊を怒鳴りまくり、鎮痛剤漬けだったのも理解できます。

連合艦隊司令部、軍令部の山本五十六や永野修身等にしてみれば戦艦に傷をつけたら自分たちの出世にかかわると言う事でこの軽微な戦力で南雲にやらせたんです。

この軽微な艦隊?の後を山本をはじめ連合艦隊の主力がゴキブリの様にゾロゾロ付いて行ったのはただ単に勲章が欲しかっただけです。

戦艦がダメなら水上艇を積んだ巡洋艦をもう二隻も付けてやれば南雲も落ち着いて行動出来たかも知れません。

南雲の孫とこの話をよくします。
2012/06/07(木) 23:07 | URL | KESSELRING #-[ 編集]
No title
以下に飛龍で真珠湾から九七式艦上攻撃機で参加した
城武夫さんという方の体験がのってます
http://www.gokoku.org/topics/?p=4725
2012/06/07(木) 13:04 | URL | やはぎ #NTxoPZtU[ 編集]
偶然の一致
今日も貴重なお話をありがとうございます。
それにしても今日、山口多聞提督の話を読み、ここ数日がミッドウェー海戦の日であったということを知り(思い出させていただき)何となく偶然の一致、という言葉が浮かびました。
僕も昨日、たまたま「源田実論」(柴田武雄)を読んで、真珠湾の中途半端な攻撃もミッドウェーの惨敗も直接、一番の責任者は源田実である、と納得したところだったからです。
この本で著者は、当時名将と言われていた山本五十六、大西滝治郎、源田実を昭和44年という時期に厳しく批判しています。柴田さんは源田実と同期でこれらの人を実際に知り、多くの意見を戦わせてきた、と語っておられ、現場にいた人しか知りえない様々な証言がありました。
ぜひ、ねずさんも読んでみていただけたら、と思いました。
この本の中でも山口多聞さんは最高の提督と評されており、その点でもねずさんの評価と同じでした。
2012/06/07(木) 00:08 | URL | 剛力 #-[ 編集]
No title
山口多聞中将、最も尊敬する提督です。
歴史に「もしも」は無いと言います。
私達もいずれ過去となり先人と呼ばれるでしょう、その時「もしも」という言葉を使われずにすむ様に私達が先人から学び、祖国日本を守っていかなければいけないと思います。
真珠湾しかり、ミッドウェイしかり、今の日本人に誇りは勿論の事、そして何事に対しても「詰め」の大切さを提督は教えてくれているのだと思います。
今の日本にこのような人、本当に必要ですね。
2012/06/06(水) 19:37 | URL | 桜子 #PyZMa2bE[ 編集]
No title
応援クリックしました
初めまして熊元と申します

最近政治の勉強を初めまして
ブログを拝見させていただきました

なんか読んでいて
私の知らないことがありすぎてパニくってます

こんなことが現実に起きているかと思うと
めっちゃ恐ろしくなりました

今後も読ませて勉強させていただきます
2012/06/06(水) 15:24 | URL | スーパーネットプレイヤー熊元 #-[ 編集]
No title
 つまる所日本海海戦には秋山真之と云う天才に全てを任せた島村・加藤が居て大東亜戦争には居なかったと云う事でしょうか。
 まるで日銀白川・民主党木偶の坊が居て救世主が未だ力を発揮出来切れないで居る事でしょうか!!下野が一日でも早ければ速いほど助かるのですが

 ただ、近いとは思っていますが!!!!
2012/06/06(水) 13:52 | URL | 藪から坊 #-[ 編集]
山口中将は立派な戦闘指令官であるが
山口多聞中将は立派であったが, それが山本長官や南雲中将
も立派であったことを意味しはしない. そもそも海軍の戦略には
外交交渉の計画が反映された形跡が全くない. 南雲中将が
戦隊指令官として無能であったことは間違いないと思う.

連合艦隊の攻撃が成功した理由は米軍が日本が南方を
攻撃すると考えハワイ攻撃を予測していなかったためだろう.
これはハワイで真珠湾の情報に日本に流していたスパイで
ある吉川猛夫の著書「東の風、雨」に述べられている.
攻撃前から真珠湾には空母がいないことは日本に
知らされているが, その当の吉川氏の証言が重視されない
のは不思議なことだ. また, 真珠湾の石油タンクは
地下化されていると言うことも既に伝えられている.
地表の石油タンクを攻撃しなかったのはその理由による.

山口中将は立派な戦闘指令官であるが, それによって
連合艦隊長官や艦隊指令官の無能さやサボタージュが
あがなわれる訳ではない.

米国の巨大さを知っていた山本五十六が何で命をかけて
開戦に反対しなかったのか. 彼が日米交渉を具申したとは
うかつにしても知らない. だから, すべて兵学校の成績の
無意味さを語ると思う.

日米開戦における山本, 米内, 近衛諸氏の役割を
明らかにし, 軍の暴走と言う幻を崩し, 現在の日本に
巣食う危険な思想家達を明らかにする必要がある.

戦後は終ったと言い, 教育でも戦前は教えないが,
その隠蔽の下に戦前の革命勢力が温存されてきてしまった
ことを忘れてはならない. 日本がそれを忘れた時,
アジアは再び戦乱の中に沈むだろう.

2012/06/06(水) 13:30 | URL | ちび・むぎ・みみ・はな #-[ 編集]
No title
山口多聞少将は、積極果敢な指揮官ですね。それに、責任とは何かも、承知しておられた。
ミッドウェー作戦の失敗は聯合艦隊の責任にあり、彼にはなかったと思いますが、飛龍艦長加来大佐を道連れに自決されました。
ひどい表現ですが、ミッドウェー作戦での艦隊の編成は、観艦式のようです。
まるで敵がいないか、絶対に負けることが考えられないことを前提に、艦隊編成をしているようで、勝ち続けた聯合艦隊が浮かれているとしか思えなかったのです。しかし戦争には、勝ちも、負けもあると言うことを、考えておられる将軍がいたということで、納得しました。その意見を取り入れるか、否かは、聯合艦隊の参謀長の判断で、責任は聯合艦隊の長官だと思います。
ミッドウェーにおける損害は空母4隻を始めとして極めて大きいものですが、搭乗員の損失は飛龍以外は意外に小さいものでした。もし、山口多聞少将が生きていて、彼の作戦が取り入れられたならば、その後の戦局にも影響していただろうと思います。
2012/06/06(水) 13:22 | URL | ポッポ #-[ 編集]
No title
日本人にはなかなか知られていないことですが、
1. 当時ハワイはまだアメリカ領でなく真珠湾はハワイ王国からアメリカが咀嚼していた軍事基地でした。
2, 真珠湾攻撃後、石油備蓄基地は作戦では2次、3次攻撃で攻撃するはずでした。1次攻撃でアメリカの攻撃を不可能にしていたので、十分にそれは成功可能でした。
3. さらに真珠湾攻撃の帰りにミッドウェーも攻撃し占領するのがはじめの作戦だったので、その通りに行われていれば、ミッドウェーは十分占領可能で、ミッドウェーの敗戦もなく、もっと有利に戦えたでしょう。
4. 疑問点はなぜ英国の艦隊を沈めておきながら、中東の石油を狙わなかったのかがよくわかりません。
5, 当時、中国大陸で日本と戦っていたフライングタイガースは義勇軍とはいても、実は正規軍であったと後にアメリカ政府は正式にコメントしています。つまり当時はすでにアメリカとは戦争状態だったのです。
6. さらに日本の再軍備を妨害したのは、幣原喜重郎です。日本国憲法の9条を積極的に進めたのは、GHQと日本国内では幣原喜重郎なんです。
7. 当時も今も日本を誤った方向に国民を煽動しているのはマスコミです。とくに朝日新聞はひどいと思います。新聞再販制度、記者クラブ、株式非公開のおかげで、誤った報道をしても責任を取ることなく、のうのうと生き延びています。
2012/06/06(水) 12:29 | URL | SST #/9hBKkrU[ 編集]
No title
歴史にたらればはないというものの、やはり考えたくなってしまうお話ですね。
ほんの僅かな匙加減で、その後の展開ががらっと変わってしまうということを
忘れてはいけないなと思いました。
2012/06/06(水) 12:29 | URL | #mQop/nM.[ 編集]
No title
小学校3,4年生の頃、産経新聞でミッドウエー海戦の記事が載っていました。太平洋戦争史という題名だったと記憶しています。残念無念だと言う思いで一杯になりました。あれから57年になりますが、山口多聞閣下の最期が印象的で今も覚えております。若い頃の記憶は消えないもののようです。今は諦めの境地です。
世情混沌としておりますが、山口多聞閣下のような人物が多数世に出ることを期待しております。
2012/06/06(水) 10:49 | URL | 竹中官兵衛 #Nmd062Zc[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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