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支那事変は支那が起した

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父英霊に遺児の参拝 北蓮蔵画伯 昭和14年
父英霊に遺児の参拝 北蓮蔵画伯 昭和14年


史実を世界に発信する会の茂木さんが、実に明快な論考を書かれたのでご紹介します。
タイトルは、ずばり「日中戦争は中国が起こした」です。

論文そのものは、下段に全文を掲載しますが、その解説というか、流れと要旨を、わかりやすいようにねずブロ流で、ご紹介したいと思います。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

一般的に、支那事変(日中戦争)は、盧溝橋事件が始まりとされているとされています。
けれど、これは大きな間違いです。

盧溝橋事件というのは、昭和12(1937)年7月7日の真夜中に、北京の南を流れる盧溝河に架かる橋近くで夜間演習をしていた日本軍が、突然発砲を受けた、という事件です。

このとき日本軍は、演習中でしたが、実弾を携行していません。
つまり、日本軍は「銃は持っていたけれど、弾を持っていなかった」のです。
ですから、当然、応戦はできません。
なにせ撃ち返す弾がない。

これは、たいへん危険な状況です。
時代が時代なのです。

日本軍のすぐ近くには、蒋介石率いる国民党軍がいました。
正式名称は、国民革命軍第二十九軍です。
兵力10万人の大軍です。

ところが、この国民党軍も、日本軍が発砲を受けた同時刻に銃撃を受けています。
日本軍は受けた銃撃を、国民党軍によるものと思い込んだ。
けれど、国民党軍も日本軍によって銃撃を受けたと思い込んだのです。

この発砲がひきがねになり、日本と国民党軍との間に、小紛争がおきます。
けれど、両軍とも、妙に腑に落ちない。
両軍は使者を出し、現地で事件を拡大しないように交渉し、事件発生の5日後には、日支両軍は停戦協定を結んでいます。
日本軍も国民党軍も、どちらも戦いたくなどなかったのです。

では、いったい誰が、夜陰にまぎれて両軍に発砲し、戦闘状態を招いたのか。

支那共産党の周恩来首相は、昭和24(1949)年10月1日の「中華人民共和国」成立の日に、
「あの時(盧溝橋事件の際)、我々の軍隊(共産党軍)が、日本軍・国民党軍双方に、(夜陰に乗じて)発砲し、日華両軍の相互不信を煽って停戦協定を妨害し、我々(共産党)に今日の栄光をもたらしたのだ」
と発言しています。

支那共産党の首相自らが、犯人は自分たちであったと自白しているわけです。
さらにいまも支那共産党軍の兵士向けのパンフレットには、「盧溝橋事件は我が優秀なる劉少奇同志(後の国家主席)の指示によって行われたものである」とはっきり書かれています。

加えて支那共産党は、盧溝橋事件が起きた翌日(7月8日)には、「対日全面抗戦」を呼び掛けています。
盧溝橋事件が起きる事を知っていたからできた手際良さです。

要するに盧溝橋事件は、支那共産党による「謀略」です。
つまり日本軍による侵略行為ではない、ということです。

「丸腰」で演習していた日本軍が「銃撃を受けた」と称して、自ら好きこのんで武装している10万の大軍と戦闘状態にはいる。
常識で考えても、あり得ないことです。

ところが村山富市などは、内閣総理大臣当時にこの盧溝橋を訪れ、
「盧溝橋の日本軍侵略行為の往事を反省してきた」などと寝惚けた発言をしています。
アホとしかいいようがありません。

この盧溝橋事件が11日に停戦すると、当時の近衛内閣は、この事件を「北支事変」と命名しました。
そして、戦闘の不拡大のための華北派兵を決断しています。
派兵は当然です。
現地の治安を確保しなきゃならない。

いまだって国内で暴動が起きれば、そこに警官隊や機動隊が派遣されます。
治安を保つためには、当然のことです。

ただし、当時の近衛内閣が華北に移動を命じた兵力は、すでに支那に駐屯していた兵力の移動だけです。
内地にいる軍隊の派遣まではしていません。

ところが、7月25日には、北京郊外の廊坊駅で、通信施設修理中の日本軍の少数の部隊が、やはり支那兵に襲われるという事件が起こりました(廊坊事件)。

さらに26日には、北京の広安門で、門を通過中の日本軍の大隊が、縦隊となって門を通過している最中に、突如門が閉ざされ、大隊の隊員たちを門の内外に分断された上、支那兵によって手榴弾と機関銃による猛攻撃を受けるという事件が発生します(広安門事件)。

そして廊坊、広安門で蹴散らされた支那兵たちは、7月29日までに北京郊外50キロにある通州城に終結し、日本軍が外出して手薄になった通州城内で、日本人居留民、260名をきわめて酸鼻な方法で殺害するという事件が起きています(通州事件)。

さらに8月9日には、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵を惨殺されます。
支那国民党は、ご丁寧にもひとりの支那人死刑囚に国民党軍の軍服を着せて、飛行場の門外で射殺しています。
日本側が先に発砲したように見せかけるための工作です。
支那側は、攻撃されたので反撃したとして保安隊員の死体を持ちだしてきて強弁したのですが、弾痕から日本側のものではないことが明らかとなり、その後はシカトしています。

毛沢東伝である「マオ」(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳、講談社、2005年)によれば、このとき国民党南京上海防衛隊司令であった張治中は、支那共産党の国民党への潜入スパイであったが、蒋介石に日本軍攻撃を決断させるために、こうした事件を仕組み、蒋介石に日本との開戦を強く迫ったことが記されています。

そして、こうした事件が支那各地で、7月7日以降、大小合わせてなんと61件も起こったのです。
日本側は、ここまでされてもなお、事件を穏便に処理しようとして、報復戦など挑まず、平和裏に事態を収拾しようと努力しました。
いわゆる「不拡大方針」です。

そもそも当時の支那には、統一政府もなければ警察も、国法もありません。
たとえてみれば、無政府状態に陥った日本で、革マル派やオウムなどが武装して全国あちこちで強盗や殺人、強姦などしたい放題荒し回っているという情景を思い浮かべていただけたら、わかりやすい。
そのなかでも、とりわけ勢力のおおきかったのが、蒋介石の国民党と、毛沢東の支那共産党だったわけです。

そういう無政府状態のなかにあって、各国は自国の居留民や、一般の支那人を守るために、軍隊を支那に駐屯させていました。
なかでも地理的に支那に近い日本は、多数の民間人が支那にいたこともあり、治安維持のために相応の軍隊を出さざるを得なかったのです。

ただし、当時の日本は、国内外の全兵力を合わせても、25万です。
いまの陸上自衛隊の二倍に満たない陸軍兵力しかありません。

一方、軍閥が割拠する支那では、軍閥の陸軍兵力は、なんと210万です。
これは文句なしに世界一の陸軍兵力です。
ちなみに二位がソ連で、160万です。

つまり、日本が支那に武力行使するということは、8倍以上の敵と戦うことになる、ということです。
そしてこれにソ連が参戦すれば、敵の数はなんと19倍です。

しかも当時の国民党兵は、ドイツ軍によって近代装備を支給され、ドイツ式教練を受けた精鋭部隊となっていたのです。

いまどきの左翼は、二言目には、かつての日本は軍国主義だったとか、日本が支那を侵略したのだというけれど、そもそも支那の治安を悪化させたのは支那人自身です。
ドイツ式装備と教練によってすっかり精鋭に生まれ変わり、しかも日本に8倍する世界最大の兵力をもって、日本を叩こうとして、徴発の限りを尽くしていた。

世界の戦争は、常に「軍事バランスが崩れたとき」に起こります。
つまり、どちらか一方が、強烈に「強く」なったときです。
客観的にみれば、当時のアジア情勢は、国の形を失った支那において、軍閥という国際法の適用外の無法者集団が、日本に8倍する兵力と武力を持ち、日本に対して楽勝できると日本を侮り、大陸にいた日本を徴発して起こしていたのです。

日本はあきらかに劣勢でした。
だからこそ日本は、通州事件のような乱暴狼藉に遭いながらも、我慢するしかなかったのです。
それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。

不戦を希求する日本に対し、支那国民党は8月13日には、こんどは上海において、3万の蒋介石軍が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していたわずか4200名の日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃をしかけてきたのです。(第二次上海事件)

この第二次上海事件については、8月31日付のニューヨークタイムスが、次のように報じています。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【外国人は日本を支持】

上海における軍事衝突を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは、皆、以下の点に同意するだろう。

日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。
日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営から一歩も外に出さなかったのである。

8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。

「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。
しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。
日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。
だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜

当時のニューヨークタイムスは、常に日本に対して批判的だった新聞社です。
とにかく日本について良いことは一切書かない。まるで昨今の日本のメディアみたいなものです。

ところがそのニューヨークタイムスでさえ、上海事変については「支那の一方的な攻撃によって、上海の戦いが始まった」と伝えざるをえなかったのです。

この頃、上海の共同租界には日本人が3万人余り居住し製造業、商業などに携わっていました。
そしてその居留民保護のために、日本の海軍陸戦隊2200名が上海租界の居留民保護にあたっていました。

ところが支那国民党軍が、いきなり租界の外側の非武装地帯に大量に侵入してきました。
そこで日本の海軍陸戦隊は、急遽約2千の増援部隊を集めたのです。
それが、上記記事にある、「増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかった」と書かれている「増援部隊」です。
日本は、本格的な戦闘に発展することを恐れたのです。

一方、上海租界を包囲する支那国民党軍は、ドイツ式装備を施された精鋭部隊の88師を主体とする3万の大軍です。
そして国民党軍は、兵力と火力にものをいわせて、13日から日本の海軍陸戦隊に対して攻撃を始め、14日には、航空機による爆撃を含む一斉攻撃をかけてきたのです。

こうして史実を冷静にひとつひとつ積み重ねて行けば、戦争を仕掛けてきたのが、明らかに支那側であることがあきらかです。
日本は望まない戦に引きずり込まれたにすぎません。

さらにいえば「条約に基づき駐屯している軍、および民間人に対して正規軍で一斉攻撃をかける」という行動は、国際法上は、たとえそれが自国内のことであっても「侵略行為」です。

従って、支那事変が、支那国土内で起こった事件であったとしても、これは「支那による日本への侵略戦争」である、というのが、客観的に見た支那事変開戦の真相です。

ただし、歴史において客観的に「何が真実なのか」という科学性を大事にするという精神は、これは日本人固有の精神です。

以前にも書きましたが、支那人や朝鮮族にとっては、古来、「事実」も「史実」も、実際にあったほんとうの出来事を意味しません。
彼らにとっての「事実」や「史実」は、「そうありたい、そうあってほしかった」という願望であり、勝ってしまえば、征服してしまえば、実際にあった真実など、いくらでもねつ造し、変造し、偽造できる。
すなわち、彼らにとっての「真実」は、覇者にとって、彼らにとって都合のよいことが「真実」なのであって、事実は関係ないのです。

要するに、「と、日記には書いておこう」という希望、願望が、彼らにとっての「真実」だ、ということです。
この点、客観的事実を重視する日本人とは、考え方がまるで違う。

ちなみに当時の支那では、日本に対する主戦論が圧倒的に優勢でした。
農民を除く都市の住民たちは、日本との戦争を熱望し、勝利を確信していたのです。
そりゃそうです。
兵力は8倍。軍備は世界最強。
これで勝てると思わない方がどうかしています。

このことは、当時支那で発行されていた新聞各紙を見れば一目瞭然でで、加えて支那共産党や支那の地方軍閥たちは、自分たちは蒋介石政権よりももっと抗日的であると主張することで、知識人などに主導された過激な世論を味方にしようとしていました。

実際、支那共産党は、抗日を最大の政治的な武器とし、なんと昭和6(1931)年11月の時点で、中華ソビエト共和国を名のり、翌昭和7(1932)年4月26日には、中華ソビエト共和国中央政府の名により日本に対して公式に「宣戦布告」まで発しています。

こうして戦えば必ず勝つの心意気と、入念な準備、圧倒的な兵力のもとで、支那国民党が支那本土内で日本に対する侵略行為として開戦に至ったのが、支那事変(日中戦争)です。

ところが、あにはからんや。
世界最強の近代装備に身を固め、ドイツ式教練を受けた支那軍は、戦地のことごとくで寡兵の日本軍に敗退し、支那中を追いまくられた。

そして日本が占領した地域は、昭和20年の終戦時まで、きわめて平和で治安の良いエリアとなったのです。

茂木さんの論文の全文は、↓コチラで読むことができます。
 ↓ ↓
http://www.sdh-fact.com/CL02_3/17_S1.pdf

<和訳>=======
日中戦争は中国が起こした
―日本侵略者論批判―
「史実を世界に発信する会」事務局長 茂木 弘道

はじめに
 一般的には盧溝橋事件が日中戦争の始まりとされている。事件が日中衝突の引き金の役割を果たしたことは間違いない。しかし事件そのものは小さな紛争であり、本格的な戦争の始まりとは云えないものであった。1937年8月13日、上海において蒋介石政権の正規軍3万が総動員体制の下、居留民保護のために駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して本格的な一斉攻撃開始した時が日中戦争の始まりと正式には考えるべきである。
 では、この日中本格戦争はだれが引き起こしたのか?
 1937年8月31日付のニューヨーク・タイムスは次のように報じている。
「外国人は日本を支持」
 上海における軍事衝突を回避する試みによりここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、以下の点に同意するだろう。日本は敵の挑発の下で最大限の忍耐を示した。日本軍は居留民の生命財産を多少危険にさらしても、増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかったのである。
 8月13日以前に上海で開催された会議に参加したある外国使節はこうみている。
「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図が有るかのように思えた。」
(HALLETT ABEND 上海特派員)
 ニューヨーク・タイムスは、当時全般的傾向としては日本に対して批判的で、中国に同情的な論調であった。そのニューヨーク・タイムスも中国軍の一方的な攻撃によって、上海の戦いが始まったことを伝えているのである。
 上海の共同租界には日本人が3万人余り居住し製造業、商業などに携わっていた。海軍陸戦隊2千2百が租界の居留民保護にあたっていた。中国軍が停戦協定(注1)を破って、租界の外側の非武装地帯に大量に潜入してきたことが
察知されたので、急遽約2千の増援部隊を集めたのである。上記記事の中で「増援部隊を上陸後数日の間、兵営の中から一歩も外に出さなかった」とあるのは、この約2千の陸戦隊のことである。
 8月9日、中国軍は自動車で巡察中の日本海軍陸戦隊の大山勇夫中尉と斎藤嶼蔵1等水兵を惨殺した。中国側は、攻撃されたので反撃したとして保安隊員の死体を持ちだしてきて強弁したが、弾痕から日本側のものではないことが明らかとなった。『マオ』によれば、潜入共産党員であった張治中南京上海防衛隊司令が、蒋介石に日本軍攻撃を決断させるために、仕組んだ事件であることが述べられている。(注2)
 租界を包囲する中国正規軍は精鋭部隊88師を主体に三万を超えたが、13日から攻撃を始め、14日航空機を含む一斉攻撃をかけてきたのである。この攻撃がどのように本格戦争へと展開していったのかについては改めて述べることにする。
 いずれにしても、戦争を仕掛けてきたのは、明らかに中国側であり、日本は望まない戦に引きずり込まれたというのが歴然たる事実である。条約に基づき駐屯している軍、および民間人に対して正規軍で一斉攻撃をかける、ということは国際法的にいえば、それが自国内のことであっても『侵略行為』である。従って、中国領土内で起こったとしても日中戦争は中国の侵略戦争なのである。

盧溝橋事件も中国が仕掛けた
 ニューヨーク・タイムスの記事では「7月初めに北京近郊で始まった紛争の責任が誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれない。」と書かれている。きっかけとなった衝突事件のことであるが、実はこれも明確に中国側がしかけた紛争なのである。
そのことは発砲事件の4日後の7月11日に締結された現地停戦協定(注3)に明確に書かれている。3項目からなる停戦協定の第1項目は、
________________________________________注1 1932年5月5日、第1次上海事件後に日本と中国の間で締結された。条約の実行を監視するために、両国に加えて米・英・仏・伊の3カ国から委員が加わった共同委員会が設置された。協定には、日中両軍の駐留地域が決められている。
注2 『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著、土屋京子訳、講談社、2005年)
 「張治中は蒋介石の許可なしに上海の飛行場の外で事件を仕組んだ。張治中が配置しておいた中国軍部隊が日本海軍陸戦隊の中尉と一等兵を射殺したのである。さらに、1人の中国人死刑囚が中国軍の軍服を着せられ、飛行場の門外で射殺された。日本側が先に発砲したように見せかける工作である。日本側は事件を穏便に処理したいという意向を示したが、張治中は攻撃許可を求めて蒋介石を攻め立てた。」上巻p.342 。
注3 中国第29軍副軍長秦徳純と日本軍北京特務機関長松井久太郎との間で締結された。
第29軍代表は日本軍に遺憾の意を表し、かつ責任者を処分し、将来責任 
を以って再びかくのごとき事件の惹起を防止することを声明す。
と中国側に責任があることを明記しているのである。29軍は宋哲元率いる北支を支配する約十五万の軍である。対する日本駐屯軍(注4)は、5千6百と極少数で、圧倒的な力にものを言わせて、理不尽な停戦協定を押し付けることなどとてもできない相談である。その後中国側はこれはなかったかのように言うが、とんでもない話である。第1に、文書が存在している。協定第3項目は「事件はいわゆる藍衣社、共産党、その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること事多きに鑑み、将来これが対策をなし、取り締まりを徹底す」となっていた。この具体化、すなわち細目協定つくりの作業がその後進められ、7月19日には細目協定が成立しているのである。協定破りの行為がたびたび発生した中で、ここまで具体化作業が行われた、というのが事実であり、協定の存在の否定はしようがないのである。即ち、日本軍が仕掛けたのでないばかりか、責任は全面的に中国側にあったのである。
 
中国の攻撃には必然性があった
 そもそも日本が攻撃を行う理由は全くなかった。たった5600の駐屯軍が15万の29軍に攻撃をかけるなどということが馬鹿げていることは言うまでもない。さらに言えば、日本軍の全戦力、国内、満州、朝鮮、中国に駐屯する全戦力がどのくらいかというと、およそ25万であった。これに対して中国は約210万である。うち50万はドイツ軍事顧問団の指導で装備訓練とも近代化を進めていた。さらに日本の最大の仮想敵国はソ連であるが、ソ連は160万の大戦力を有し、うちおよそ40万が極東に配備されていた。このような全体状況の中で、日本が北支で戦端を開くなどという愚かなことを行うはずもないし、そのような計画は皆無であった。
 しかし、当時の中国では日本に対する主戦論が圧倒的に優勢で、農民を除く都市の住民は日本との戦争を熱望し、勝利を確信していたのである。当時の中国で発行されていた新聞各紙を見ればその様子は一目瞭然である。『日中戦争:戦争を望んだ中国、望まなかった日本』(注5)が、この状況を詳述している。当時の主戦派には、大別して3つのグループがあった。一つは過激な知識人・________________________________________
注4 義和団事件の後1901年に清国と日本・イギリス・アメリカ・フランスなど8カ国との間に結ばれた「北京議定書」により、居留民保護のために軍の駐屯が認められていた。当時アメリカは1200、フランスは1800に対して日本は5600であったが、日本人の北京周辺の居留民の数が3万3千と多かったためである。居留民比でみると日本は6:1に対して、アメリカは2:1、フランスは1:3で、日本の方が兵力比は遥かに低かった。
注5 『日中戦争:戦争を望んだ中国、望まなかった日本』(北村稔立命館大学教授、林思雲南京大学卒業共著、PHP研究所、2008年)p.3, p.72~90)
________________________________________
学生・都市市民である。二つ目は中国共産党であり、三つ目は地方軍閥である。共産党と軍閥は知識人などに主導された過激世論を味方として、蒋介石政権に
対する立場を有利にしようという狙いもあり主戦論を唱えていた。
特に共産党は抗日を最大の政治的な武器として使っていた。1931年11月に江西省の瑞金に成立した中華ソビエト共和国は翌1932年4月26日、中央政府の名により日本に対して「宣戦布告」を発しているのである。(9月18日には念入りにも「正式に」と称する宣戦布告通電を発している。)さらに1935年8月コミンテルンの「反ファッショ人民統一戦線」指令に従い抗日救国宣言を発した。そして、1936年12月に西安事件が起こった。共産党討伐戦の督戦に出かけた蒋介石が、共産党の工作を受けた東北軍司令張学良によって拘束され、共産党との共同抗日闘争実行を迫られた。国民党の共産党対決路線が転換し、抗日ムードは一層高まってきたのである。

そして盧溝橋事件が起こった
このようにいつどこで日本攻撃事件が起ってもおかしくない状況のもと、1937年7月7日に盧溝橋事件が起ったのである。
日本軍第8中隊135名が、29軍に事前通告したうえで、盧溝橋城に近い河川敷で演習をしていた。地図(添付1)にあるように盧溝橋城(宛平県城)と中国軍のトーチカのある土手を背にして約400メートル離れた所から演習を開始しさらに400メートル先で演習を終了しようとする直前の10時40分頃に数発の銃弾が撃ち込まれた。その後土手方向から十数発の発砲があり、翌朝3時25分にも3発、5時30分4回目の銃撃があった後に初めて日本軍は反撃を開始したのである。最初の銃撃からは7時間後のことである。
11日の現地停戦協定で29軍が全面的に責任を認めているのは、したがって当然のことなのである。
さらに前述したように、停戦協定第3項は「事件はいわゆる藍衣社、共産党、その他抗日系各種団体の指導に胚胎すること多きに鑑み、将来これが対策をなし、かつ取り締まりを徹底す」となっていて、29軍首脳も、誰が実際に発砲したのか具体的にはつかんでいなかったが、どうも共産党が怪しいという事は察知していたわけである。
徹底抗日を叫び続けてきた共産党が衝突事件を起こそうとするのは、当然の
ことではあるが、実は共産党は当時深刻な窮地に立っていたのである。たしかに、西安事件により、蒋介石は共産党攻撃を中止し、共産党との協力関係をつくることを約束した。しかし、その後蒋介石は次々に厳しい条件を共産党に対して突きつけ、半年後の1937年6月頃には国共決裂の寸前となっていたのである。エドガー・スノーは述べている。
共産党の運命はふたたび蒋介石の意中にかかることとなり、--- 1937年6月には蒋介石は、--- 再度紅軍の行く手を塞ごうとしていた。--- 共産党は今一度完全降伏に出るか、包囲殲滅を蒙るか、又は北方の砂漠に退却するかを選ぶ事態になったかに見えた。(注6)
この窮地打開のために大博打を打って出たのが共産党であった。第29軍の中に大量にもぐりこませていた共産党員(注7)に隊内で反日を煽らせ、それにまぎれて発砲事件を7月7日夜10時40分に起こしたのである。

共産党が仕掛けた動かぬ証拠:78通電
共産党がこれを起こしたことは今や100%明らかである。発砲事件の翌日8日に、共産党は延安から中央委員会の名で長文の電報を蒋介石をはじめとする全国の有力者、新聞社、国民政府関係、軍隊、団体などに発信している。共産党の公式史で「78通電」として特筆されているものである。さらに同日に同種の電報を毛沢東ら軍事指導者7名の名前で蒋介石、宋哲元等に送っている。
前述したように日本軍は、8日午前5時30分に初めて反撃を開始したのである。当時の通信事情からして8日に始めて反撃があったのに8日にこの情報を手に入れて経過を含む長文の呼び掛け文を公式電報として作成し、中央委員会の承認を得て、全国に発信するなどと言うことは絶対的に不可能である。唯一可能なのは、事前に準備していた場合である。
実際に準備していたのである。その証拠が存在する。
支那派遣軍情報部北平(北京)支部長秋富重次郎大佐は「事件直後の深夜、天津の特殊情報班の通信手が、北京大学構内と思われる通信所から延安の中共軍司令部の通信所に緊急無線で呼び出しが行われているのを傍受した。「成功了」
(成功した)と3回連続反復送信していた。」(産経新聞平成6年9月8日夕刊)とのべている。その時はこれが何を意味するか分からなかったという。今では明らかである。盧溝橋での謀略が成功したことを延安に報告していたのだ。早速延安では電文つくりが行われたのだ。そして、8日の朝になり、日本軍が反
________________________________________
注6 エドガー・スノー『中共雑記』 未来社 p. 10-11
注7 29軍の副参謀長張克侠を筆頭に参謀に4名、宣伝副処長、情報処長、大隊長他大量に党員を潜り込ませていたことは、今では中国で出版されている書籍によって明らかとなっている。
王健英編『中共組織資料編』(紅旗出版社、1983),何虎生他主編『中華人民共和国職官志』(中国社会出版社、1993)。
撃を開始したのを確認してこの長文の電報を各地に大量に発信したのである。戦争を起こした犯人は中国共産党なのである。
エドガー・スノーは、6月の共産党の大苦境は、日本軍が引き起こした盧溝橋事件によって救われたと次のように述べている。
いまやまた、共産党に再度の幸運が訪れ、極めて広く豊な機会を開いてくれた。翌月日本の中国一斉侵攻という、<天祐>が起こり、彼ら(共産党:筆者注)を不安定な位置から救い出したのである。こうなれば蒋としても、再び完全剿滅作戦に出る計画を放棄するほかなかった。(注8)
自分で仕掛けておきながら、日本軍一斉侵攻という<天祐>とはよく言ったものである。すでに述べてきたように、事件を起こしたのは中国側であり、共産党である。何よりも、5千6百の兵力しかない日本軍が一斉侵攻するはずもないし、そんなことは行っていない。11日に結ばれた停戦協定であるが、中国側はあるいは軍自体により、あるいは不明者により再三にわたり協定破りを行った。さらに郎坊事件、広安門事件といった大規模な中国軍による停戦違反攻撃が起きるにいたった。事件以来一貫して不拡大方針を取ってきた日本政府は、7月27日、遂に内地3個師団派遣を決定し、28日29軍に開戦通告を発したのである。

盧溝橋事件の徹底拡大を図った共産党
 日本軍が一斉侵攻を行った事実などないのであるが、共産党はそれを望んでいたことをスノーの文章は図らずも暴露している。蒋介石が剿滅作戦を放棄せざるをえなくなったことを喜んでいるが、さらに進んで日本軍と戦わせることが彼らの本当のねらいであった。盧溝橋事件後に出されたコミンテルン指令(注9)は1項、2項で次のように言っている。
1)あくまで局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない。
2)右目的貫徹のためあらゆる手段を利用すべく、局地解決や日本への譲歩によって中国の解放を裏切る要人は抹殺してもよい。
 共産党の苦境打開という直接的な狙いの他に、盧溝橋事件の真の狙いは日中全面衝突を起こすところにあったことが、これではっきりと理解できる。共産党は抗日を叫んではいたが、自らが直接日本軍と戦うことよりも、日本軍と蒋介石軍との間の本格戦争を引き起こすことこそが、真のねらいだったのである。
________________________________________
注8 エドガー・スノー『中共雑記』(未来社) p.11
注9 コミンテルン指令(中国共産党に対する指令)(1937年7月)(興亜院政務部『コミンテルンに関する基本資料』)全5項目

これによりソ連の安全確保という目的が達成でき、そして日中両国の疲弊・共倒れをもたらすことによって、共産党の勝利を実現しようという長期的な戦略である。コミンテルンの世界戦略とそれを推進した中国共産党のこの最終目標はその後1949年に実現したことは言うまでもない。

北支事変と通州事件
 共産党のねらい通りに衝突は拡大し、南京の蒋介石政権も軍を北上させる準
備を進めた。先に述べたように日本は不拡大方針の変更を迫られ、7月27日に3個師団の派兵を決定し、28日29軍に対して開戦通告をした。少数兵力であったが、満州の関東軍、朝鮮駐屯軍の1部の支援もあり、日本軍はたちまち平津地区(北京―天津地区)を制圧した。
 ところが少数日本軍が移動したすきを突いて中国軍保安隊による日本人居留民の大虐殺事件が起こった。北京の東約12キロに通州という町があり、ここにはおよそ420名の日本人が居住していた。7月29日、日本軍守備隊が近くの南苑の攻撃に向かったため110名足らずの兵力となってしまった。町には親日的な殷汝耕の自治政府の保安隊が駐屯していたが、この状況を見て突如
矛先を少数残存部隊と一般市民に向けて襲い掛かり、大殺戮の蛮行を繰り広げたのである。実は以前から張慶余第1総隊長、張研田第2総隊長は国民党と通じていた事がその後判明している。
 多数の老幼婦女子を含む無辜の住民に対して略奪、暴行、凌辱、殺戮など残虐の限りを尽くし、殺害されたものは250名を数えた。
旭軒(飲食店)では女7,8名が皆強姦され、裸体で陰部を露出したまま射殺されており、その中4,5名は陰部を銃剣で突き刺されていた。日本人男子の死体は殆どすべてが首に縄をつけて引き回した跡があり、血糊は壁に散布し、言語に絶するものだった。(30日現場に駆けつけて救出に当たった第2連隊長萱島高証人の東京裁判における証言)
近水楼(旅館)入口で女将らしき人の死体を見た。足を入口に向け、顔だけ新聞紙がかけてあった。本人は相当抵抗したらしく、上半身も下半身も暴露し、4つ5つ銃剣で突き刺した跡があったと記憶する。陰部は刃物でえぐられたらしく、血痕が散乱していた。--- その裏の日本人の家では親子2人が惨殺されていた。子供は手の指をそろえて切断されていた。南城門近くの日本人商店では、主人らしき死体が路上に放置してあったが、胸部の骨が露出し、内臓が散乱していた。」(通州救援の第2連隊歩兵隊長代理桂鎮雄証の東京裁判における証言)
等々、まさに言語に絶する暴虐であった。

南京虐殺と通州虐殺
 この証言は南京虐殺の事を言っているのではないか、と錯覚する人がいるかもしれない。確かに、中国人がその後南京大虐殺があったと称して語る物語には、これとそっくりの話、やり方、残虐例などが頻出する。後に述べるが、南京大虐殺などというものは存在しなかったのであるが、通州大虐殺は、間違いなく実際に起ったことである。日本ではかつて起こったことのないこの種の残虐事件が、中国では確かに起こったのである。しかし、中国の歴史をたどると、この程度の残虐事件は決して珍しくはなかったことが分かる。
 北京大学出身の石平氏の著作『中国大虐殺史―中国人はなぜ人殺しが好きなのか』(注10)を読むと、古代・中世・近代さらには、共産党支配の現代においても、これをはるかに上回る虐殺事件が多発している事を知ることができる。興味深い事に、「南京大虐殺」は実際に起っていたのである。ただし、1937年ではなく、1864年、当時太平天国の首都となっていた南京に攻め入った曾国藩率いる軍によってである。曾国藩の幕僚の一人趙烈文は曾国藩の死後『能静居士日記』の中で「子供たちも殺戮の対象となり、多くの兵卒たちが子供殺しをまるで遊戯を楽しんでいるかのように殺しまくった。婦女となると、40歳以下のものは兵卒たちの淫楽の道具となるが、40歳以上の者、あるいは顔が余りにも醜い者は殆ど、手当たり次第切り捨てられてしまった」と書いている。(注11)100万人虐殺の「四川大屠殺」、「揚州屠城」、「嘉定屠城」等等名だたる大虐殺が目白押しである。『中国残虐史』は一読すべきである。
 繰り返すが、日本にはこのような虐殺事件は歴史上存在しない。日本人に全くなじみのない事を日本人の仕業であると中国人が云い募っているのが「南京事件」である。すなわち、日本軍告発のための捏造された「南京事件」は、中国で繰り返されてきた虐殺物語に似せて、また近くは通州で彼らが行った虐殺に似せて作り上げた物語なのである。だから、通州事件のあり様と余りにも似た物語になっているのである。
 なお、いわゆる「南京事件」なものが存在しなかった、存在し得なかったことの証明は後で述べることにする。

船津和平工作と大山中尉殺害事件
 日本軍は北京―天津地区とその周辺北部一帯を制圧したが、参謀本部は部隊
の進出限界を北京から南方約100キロの保定までと指令を出している。上海
________________________________________
注10 『中国大虐殺史―なぜ中国人は人殺しが好きなのか』(石平著、ビジネス社、2007年)
注11 同上 p.182
からはおよそ1000キロの地点であり、衝突事件を「北支事変」に収めようというのが日本政府の方針であった。
 通州大虐殺事件の報に日本国民は激昂した。新聞各紙には「暴支膺懲」の見出しがあふれた。中国の暴虐を許せないという世論が沸騰し、政府の断固たる
処置を求める声が高まった。
ここで付記しておくべきことが一つある。それは万宝山事件(注12)の時
には怒った朝鮮人が華僑襲撃殺害事件を起こしのであるが、日本では横浜でも神戸でも華僑襲撃事件などは起きなかったことである。憤激はしたが、報復攻撃をするようなことはなかったのである。
 しかし、不拡大方針を堅持する政府は、こうした暴虐事件、こうした激昂する世論にもかかわらず、陛下のご示唆もあり、8月1日に和平案(注13)を作成し、5日には外務・陸海軍大臣の了解を得て中国側に提案することにしたのである。この和平案はそれまでの日中間の懸案事項、特に華北での既得権をほとんど放棄しようという思い切った譲歩案であった。
 交渉の担当者には、元上海総領事で当時在華紡績同業会理事長の船津辰一郎が指名されたので、船津和平工作と呼ばれる。
 ところが、最初の会談が川越大使と高宋武亜州司長との間で行われた8月9日、大山中尉惨殺事件が起こったのである。すでに述べたとおり、これは隠れ共産党員の張治中南京上海防衛隊司令が蒋介石に日本攻撃を迫る目的で行わせたものであった。こうした和平の動きに対する妨害ということでもある。狙い通り、和平交渉は消滅してしまったのである。

中ソ不可侵条約秘密軍事協定
 蒋介石は日本との戦争準備を進めていた。ファルケンハウゼン将軍を指導者とするドイツ軍事顧問団の指導で、50個師団の装備・訓練とも近代化された中央軍の建設を進めると同時に、上海郊外にゼークト・ライン(第4代顧問団団長ゼークトから)と称せられる2万個のトーチカ群からなる堅牢な防御網を
築いて対日戦に備えていた。しかし、本格戦争の開始に対しては、蒋介石は慎
________________________________________
注12 1931年5月200人余りの朝鮮人農民が、万宝山に入植したところ、7月中国人農民400名余が中国官憲の支援の下これを襲い、日本官憲も朝鮮人保護のために出動した。この事件に憤激した朝鮮人は、ソウル、新義州、平壌などで華僑を襲撃し、109名の死者が出た。
注13 停戦交渉案 1、塘沽停戦協定、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定その他華北に存する従来の軍事協定一切を解消する。2、特定範囲の非武装地帯を設ける。3.冀東・冀察両政府を解消する。4、日本駐屯軍の兵力を事変前に戻す。国交調整案(1)支那は満州国を承認或いは黙認すること。(2)日支防共協定を締結すること。(5)日本機の自由飛行を廃止など
重であり、張治中らの主戦論にはなかなか同調しなかったが、反日論の高まり、大山中尉殺害など既成事実の積み重なりもあり、ついに開戦を決意することになる。
 蒋介石がいつその決断をしたのか、アメリカの中華民国近代史の第1人者であるイリノイ大のイーストマン教授は8月7日軍幹部を集めた会議で決定したと推定している。「蒋介石の生涯における最大にして後に最も議論を呼んだ大き
なギャンブルに打って出た」のである。(注14)
 蒋介石が大ギャンブルに打って出た大きなよりどころと考えられるのが、8
月21日に締結された中ソ不可侵条約に付属する秘密協定(注15)である。
これによると次の支援が、年内になされることになっていた。
 航空機360機、戦車200両、トラック1500台、ライフル15万丁、砲弾12万個、銃弾6千万発を年内に供給する。さらに各部門の技術者を派遣する。
この条約の交渉は早くから始まっており、秘密条項については8月の初めには固まっていたと推定される。210万の大軍を擁してはいても自力で、航空機、戦車等を作る能力のない中国にとって、このソ連からの大量の武器補給の約束は、まことに心強いものであったろう。初戦は別として、少しでも戦いが長引けば、こうした補給は絶対的に必要となる。これなしでは、蒋介石は開戦を決意できなかったろう。
逆にいえば、ソ連に戦争をさせられたようなものである。コミンテルン指令にみるように、これは全くソ連の戦略の狙い通りのことであった。日中戦争の前半はもっぱらソ連の軍事支援に頼り、後半は米英の軍事援助で戦争を続けたというのが日中戦争の実態である。戦いが長期化し泥沼の様相を呈したのは、中国大陸が広大なためではなく、これら大国の大量の軍事援助介入のためであった。いわんや日本の侵略性のためではない。

海軍陸戦隊の奮闘と陸軍2個師団の派遣
 8月13日、租界を包囲していた中国精鋭部隊3万は、4千2百の海軍陸戦隊に対して攻撃を開始した。北支の戦いが上海に飛び火したという言い方が良くされているが、これはきわめて実態と乖離した言い方である。北支で日本軍は上海から1000キロ離れた保定の線から南には進んでいない。従って、上
海に何ら脅威を与えるものではなかった。上海の戦いは、もっぱら中国の意図
________________________________________
注14 イーストマン『中日戦争期間の国民党中国』(鈴木明著『新「南京大虐殺」のまぼろし』p.155 より。)
注15 Source: The Lowdown, January 1939 issue, (New York). p.18.
で、一方的に始められたものである。ニューヨーク・タイムズの報じている通りである。15日、蒋介石は全国総動員令を発動し、大本営を設置して陸海空3軍の総司令に就任、全面戦争を仕掛けてきた。
 三万居留民を4千2百の陸戦隊で守ることは不可能なので、日本は13日陸軍2個師団の派遣を決定し、15日松井石根大将の下、上海派遣軍編成が下令された。しかし、動員を行い上海に輸送し上陸させるには少なくとも10日近くかかる。その時まで、陸戦隊は10倍近い中国精鋭軍の攻撃を持ちこたえなければならないのである。もし、破れて中国軍の租界への侵入を許せば、どのような事が起こるのか、すでに「通州」で証明済みである。第2の通州事件である。何千或いは万の単位の市民大虐殺が起こる可能性があったのである。陸軍1個師団が上海の呉淞にようやく上陸したのは23日であった。それまでの10日近く、陸戦隊は寡兵よく守りきった。驚異的な敢闘であった。かくして上海大虐殺は防ぐことができたのである。
 しかし、上陸した陸軍部隊も2万を超えるトーチカと防御陣地に拠る30万近い中国軍と死闘を繰り広げることになる。3個師団の増派によりようやく前進したものの大損害を被らざるを得なかった。最終的には死傷者4万1千余と日露戦争における旅順戦以来の大損害となったのである。11月5日第10軍が杭州湾に奇襲上陸して、中国軍の背後を断つ作戦に出ると、中国軍は一気に崩壊し、南京方面に向けて潰走したのである。
 しかし、蒋介石はドイツ大使トラウトマン仲介による和平提案を受け入れず、抗戦を続けているので、戦争終結のためには策源地の南京占領が必要ということになった。12月1日、松井中支那方面軍司令官(上海派遣軍と第10軍を合わせて中支那方面軍が編成されていた)に対して南京攻略命令が下令された。敗走する中国軍を追撃し、12月9日に南京包囲を完了し、降伏勧告を発した。

南京攻略といわゆる大虐殺
 24時間の回答期限を過ぎても返事が来ないのを確認して、日本軍は攻撃を開始した。激戦の末12日には突入の形勢となったが、防衛軍司令唐生智は、12日夜撤退指令も行わずに部下を見捨てて逃げ出してしまった。あわてて部隊も逃出し、挹江門での同志討ち(督戦隊による中国兵士の射殺)など大いに混乱があったが、13日、日本軍が入城したときには、ほとんど逃げ出していて、城内での戦闘は殆ど全くなかったのである。一部逃げ遅れの兵士などが安全地帯に逃げ込み、のちに問題の種にはなったが。
また日本軍は、全軍が入城したのではなく、各部隊の選抜された一部部隊が入城したので、城内での混乱は全くなかった。それは同時に入城した100名を超える記者・カメラマンが伝えている通りである。
それよりも入城した部隊の兵士がいぶかったのは、城内が森閑としていて人っ子一人見つからないといった状態であったことであった。これは兵士の日記などに書かれていることである。それもそのはず、南京市民はほぼ全員、国際委員会が管理する「安全区」に集まっていて、その数20万であった。安全区以外の所には市民はいなかったのである。
安全区国際委員会はその活動記録を英文で残している。1939年に国民党の外郭機関が監修し、Documents of the Nanking Safety Zone というタイトルで、上海のKelly & Walsh社が出版している。
国際委員会(委員長はドイツ人のジョン・ラーベ)はアメリカ人宣教師が中心となっていて、反日的な色彩が濃かったが、そこに記されている次の事は極めて重要である。
1) 南京の人口は、陥落時20万、その後12月中はずっと20万だったが、陥落1ヶ月後の1月14日には、25万と記録されている。大虐殺など起こりようがない絶対的なベースデータである。
2) 住民の苦情を書きとめたリストに、殺人が26件あげられている。しかし、目撃があったのはたった1件。それについては、合法的な殺人とわざわざ注が付いている。安全区はニューヨークのセントラルパークくらいの面積で、そこに20万人が集まっていた。虐殺などあれば誰かの目につかないことはあり得ない。しかし虐殺目撃はゼロである。
 いわゆる大虐殺事件がいかに捏造のものであるか、この2点だけで十分説明されている。もしどうしても、という人のために、付け加えると、台北の国民党党史館で発見された「国民党宣伝部国際宣伝処工作概要1938年~1941年4月」(注16)という「極機密」印のついた資料がある。これは国民党の内部向けの資料なので、宣伝色は薄いはずである。ここに南京戦を挟む約11カ月の間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を外国人記者を招いて行ったことが書かれている。ところが日本軍非難のためのこの記者会見でただの1度も南京で市民虐殺があったとか、捕虜の不法殺害を行ったとか言っていないのである。もし本当に大虐殺があっても何も言わなかったなどという事がありうるか。もちろんあり得ない。
 要するに、南京大虐殺とは日本が米軍に軍事占領されまとも抵抗できないときに、勝者が勝手にでっち上げて押しつけたウソ話にすぎないという事なのである。こんなウソを未だに、あったという前提でああだこうだ言っているのは、情けなくも愚かな限りである。そんな馬鹿騒ぎに止めを刺すため、「南京事件の真実を検証する会」(会長:加瀬英明、事務局長:藤岡信勝)は、胡
________________________________________
注16 『南京事件―国民党極秘文書から読み解く』(東中野修道著、草思社、2006年)
錦涛主席来日の折に添付の公開質問状を提出した。記者会見、ネットを通じて世界に発信されている。(日・中・英3ヶ国語版が「史実を世界に発信する会」のサイトに掲載されているhttp://www.sdh-fact.com/CL02_3/17_S1.pdf )当然のことながら、胡錦涛は未だこれに答えていない。答えられないからである。南京問題はこれにて一件落着なのである。

南京占領後の和平条件、日本の対中姿勢
 南京占領後の12月22日、日本政府はトラウトマン駐支大使仲介による和平の条件をあらためて決めた。次の4点を基礎条件とするものである。
1) 支那は容共・抗日満政策を放棄し、日満両国の防共政策に協力すること。
2) 所要地域に非武装地帯を設け、特殊機構を設定すること。
3) 日満支3国間に密接な経済協定を締結すること。
4) 支那は日本に賠償を行うこと。
 南京占領以前の和平条件には、4項の賠償は入っていなかったが、国民の要望を考慮して加えたようである。しかし、それでも決して過酷な和平条件とはとても言えないものである。勿論一片の領土要求、特殊な利権要求をしているわけではなく、経済協力関係を結ぼうと言っているだけである。もうひとつ共同防共を言っているが、もともと蒋介石は反共であったのだから、これも過酷ということにはならない。ただ、最大支援国のソ連と共産党にとっては絶対に許せない条件である。
 蒋介石はソ連、共産党との関係、さらに米英との関係を顧慮して決断がつかなかったのであろう。回答期限の1月12日になっても、拒絶はしなかったが引き伸ばし的な対応をするのに対し、近衛首相・広田外相など日本政府首脳は、中国側に誠意なしと断じ、陸軍参謀本部の大反対を押し切って、16日、「蒋介石政府を相手にせず」声明を発して交渉を打ち切ってしまった。近衛側近であったコミンテルン工作員尾崎秀実の影響もあったであろうが、支那けしからんという世論に迎合したポピュリズムがこの決断をもたらしたのであろう。
 その結果、長期に亘る蒋介石政権との戦争に引き込まれることになったが、これを日本の侵略戦争と呼ぶのは全く不当である。まず、盧溝橋事件は共産党が起こしたものであり、それを「あくまで局地解決を避け、日中全面衝突に導かなければならない」という方針に基づいて、拡大させたのも共産党である。そして、反日ムードの高まりの中で、日本の和平提案を拒否して上海において全面戦争を仕掛けてきたのは、蒋介石政権である。戦争は、ことごとく中国側が引き起こしたものである。その後も日本は和平を提案したが、ことごとく拒否されてしまった。その責任は主として中国側にある。その結果として戦闘は続いたのであって、それを侵略と呼ぶのはどう見ても不当である。中国領土内であっても国際法によれば不法攻撃をした方が侵略者なのである。
 最後に、「蒋介石政権相手にせず」声明を出した近衛内閣であるが、同年11月に第2次近衛声明を、12月に第3次近衛声明を出して和平を呼び掛けていることを付け加えておこう。
1) 第2次近衛声明「東亜新秩序建設」(1938年11月3日)
日満支3国提携による国際正義・共同防共・経済提携の呼び掛け 
2) 第3次近衛声明(1938年12月22日)
善隣友好・共同防共・経済提携の3原則
 出し遅れの何とかと言えば、そうかもしれない。しかし、この声明のどこに中国侵略・支配の意図があるというのだろうか。問題だったのはソ連、そして米英という強国の支援を当てにして和平を受け入れなかった蒋介石の頑迷さにこそあったのではないだろうか。この頑迷さのために、結局は、共産側にしてやられ台湾に逃げ込む羽目に陥ったのである。日中戦争は日本の侵略戦争ではなかったのである。

http://www.sdh-fact.com/CL02_3/17_S1.pdf



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コメント
個人的な見解だが、当時のアメリカの航空機輸出先が、1位…中華民国、2位…日本
日中が戦争したら一番得するのはアメリカ
アメリカが怪しいと思ってる
1軍閥に過ぎない中共がそれをやるには余りにもハイリスクだと思う
あれだけ軍事支援を受けた国民党が、外国の支援もなく、ゲリラ戦しか手段がない中共に負けたのは国民党の内部腐敗が余りにも酷く、毛沢東曰く「蒋介石は優秀な補給将校」
これでは負けるな(笑)
2015/07/14(火) 02:22 | URL | 名無し #-[ 編集]
No title
ねずさん有難うございます。感謝しています。今日中学三年の歴史授業の説明を聞いているうちに、次第に怒りがこみ上げてきました。嘘を信じている人達は、自分の身体に残虐で醜悪な日本人の血が流れていると思いこみ、意気消沈するのだろうと察します。先日、宇佐市民図書館でねずさんの著書を見つけましたので早速拝読させて頂いています。中でも相澤忠洋氏と芹沢長介氏の話は、大変感銘を受けました。他にも素晴らしい事が沢山で勇気を頂きました。未だお手に取られていない方は、是非ご覧になって頂けたらと強く願った程でした。駄文失礼しました。
2015/06/03(水) 16:28 | URL | 三毛猫 #-[ 編集]
承認待ちコメント
このコメントは管理者の承認待ちです
2015/05/06(水) 22:52 | | #[ 編集]
No title
GHQ焚書図書で西尾幹二氏が、仲小路彰氏の「太平洋侵略史」を紹介するのに
早口で説明されていました。学校で習った歴史が偽りである事を知って、古代史~から近現代史、湯蛇屋金融軍産共同商店に乗っ取られた日本の現状等を
自分なりに研究しています。真実を知る為には、インターネットに散りばめられた真実を一つずつ地道に検証して拾い集める根気がいると思いました。
簡潔な文章で有り難く拝読しました。有難うございました。
2015/01/23(金) 14:53 | URL | 名無しさん@ニュース2ch #-[ 編集]
勉強になりました
「盧溝橋謎の一発」とうちの母なんかが言っていましたが
真相が理解できました。
有難う御座います。
2013/08/21(水) 11:40 | URL | 吉見健作 #VOoYeAuk[ 編集]
お聞きしたいのですが
確かにこの事件、中共スパイの扇動の可能性も考えてみなければならないと思いますが、
この時点で中共イコール支那とするのはおかしいと思うのですが、如何ですか。

また、これが中共の仕業だと仮定して、その策略がはまってしまったのは満州事変を石原莞爾らが
昭和天皇のご意向を無視して工作したにも関わらず、中国軍のせいにしてしまったことに大きな
原因があるのではないですか。関東軍のこの行為を陸軍は陛下ご自身は望んでいないのに統帥権を
立てに正当化しましたよね。

たしかに満州だけで終わっていれば、溥儀を担ぎ出したこともありまだ、大義が通る訳ですが、
当の石原莞爾も、なんの名分も立たない中国本土への戦線拡大は反対したはずですね。元々条約で
権限があった満州地域でさえ怪しいのに(確かにこの地域の主権者が本来誰であるかは微妙な問題ですね。)
この件は侵略か侵略でないかといわれれば侵略以外の何ものでもないと思いますが如何ですか。

日本人の保護云々言いますが、それが大事なこととはいえ、外国の治安に他国の軍隊が干渉するのは
これも内政干渉以外の何物でもなく、それを謝罪するならしておけばいいんじゃないですか。
ねちねちと金を毟られるのはおかしいですけどね。金を取られているのは自民党と利権官僚がピンハネ
するためですよね。日本人の安全が守れないなら撤退すればよかっただけですね。

ちょっとずるいかもしれないですが、この時点であれば満州を固めるのが最善の策だったでしょう。
この関東軍の暴走を止められなかった大日本帝国の大きな失策だったということが結果で証明されています。

いろいろお詳しいようですし、おおまかに主張されていることは悪くないと思いますが、やはり公正な
眼というものは大事だと思います。時にはなんでこんな間違いを犯して、千何年にも及ぶ日本の国体を
危うくする失敗をしてしまったのか、考察をお書きになるのも大事なのではないですか。
2013/03/20(水) 15:02 | URL | あう #-[ 編集]
通州事件について
恥ずかしながら、このブログで初めて通州事件というものを知りました。証言の手記を途中まで読ませてもらいましたが、あまりのむごさに最後までは読めませんでした。シナ人はなぜこんなにもむごいことをできるのか。不思議でなりませんでした。日本人の発想からはそこまでの残忍さは出てきません。たとえ敵といえども、情けをかけたりするのが日本の民族性です。そして、私なりに調べた結果、一つの結論に至りました。それは、中国大陸には、孔子の時代から最近の文化大革命にいたるまで口にするのもおぞましい、人を食ういわゆる「食人文化」があるからではないか、だからあそこまで残忍になれるのではないか、ということです。食べる対象なら家畜と同様です。かける情などわくはずもありません。つい最近も中国国内で20名ほど殺害し、その肉を食べていたという男が逮捕されました。見かけはごく普通の人です。中国政府はその事件を隠そうと躍起のようですが、ネットの時代には無理のようです。人を食べる、そのやり方も代々伝わっているようです。この事実を知って相当ショックを受けましたが、たとえショッキングなことであっても、知っておかなければならないことはあります。隣国がそのような未開で野蛮な国であることを認識して、準備しておかなければ、それこそ日本は食われてしまいます。民主党の中国移民大量受け入れ政策は着々と進んでいます。竹島、尖閣問題と同じくこのことも大問題と思います。日本が心配で、コメントさせていただきました。
2012/08/08(水) 11:03 | URL | #-[ 編集]
いつも読ませてもらっています。
すべとのとは言わないが知れば知るほどムカつく三国人。靖国に眠る偉大なる英霊たちには参拝せずかんこくの戦争神社には参拝するノダ。 テレビも新聞も汚ねぇ。。そして事があるときは日の丸に体賭ける覚悟だけはもっときたいものです。日本人として。初コメント失礼しました。いつも読ませてもらっています。
2012/08/07(火) 14:56 | URL | 九州男 #-[ 編集]
福原愛「自分一人だったらとっくに諦めていた」
福原愛「自分一人だったらとっくに諦めていた」
http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2012/08/06/kiji/K20120806003847180.html

支那や朝鮮に支配された反日売国テレビ局・マスコミはけして報道し
ない日本人が感動のニュース、愛国系日本人1億2000万人の皆で
応援しよう愛ちゃんの初金星

【スポーツ・芸能の掲示板】
http://www.aixin.jp/axbbs/sgm/sgm.cgi
2012/08/06(月) 23:55 | URL | 愛信 #EBUSheBA[ 編集]
原爆の日
今日は原爆の日です。

アメリカに赴任して間もなく、アメリカ人から「原爆投下は戦争を早く終わらせる為だった」と言われて、「ふざけるな!」と叫んだ記憶が有ります。
アメリカの原爆投下をアメリカ自身に公式に謝らせる為に「アメリカ謝れ!」の声を上げる事が原爆を落とされた日本人が原爆の日にするべき事だと思います。
もう戦後ではありません、アメリカの残虐行為をいつまでも黙っているのは、原爆投下を容認している事と同じだと思います。
2012/08/06(月) 21:16 | URL | bunkataisi #-[ 編集]
大阪維新の会、塾生名簿が流出 他党から情報管理の甘さに批判
大阪維新の会、塾生名簿が流出 他党から情報管理の甘さに批判
http://www.47news.jp/CN/201208/CN2012080601002792.html

チョットまてその維新の会は「国民の生活が台無し」かも、日本人を
まだ騙せると言っている。

詳細は
【新党勝手連の掲示板】最新版
http://www.aixin.jp/axbbs/ktr/ktr.cgi
【新党勝手連タイトル一覧】最新版はこちらをクリックして下さい。
2012/08/06(月) 20:38 | URL | 愛信 #EBUSheBA[ 編集]
No title
盧溝橋事件は、帝国陸軍と国民党軍の事件でしたが、双方が戦闘をする気がなかったのに戦闘になっていて、戦後は日本が原因とされた。
村山元首相は所詮社会党です。確認することもなく、日本が悪いから始まります。(彼にとっては、謝ることが正しいのです。)

日本陸軍は小銃を持っていても、弾のない軍隊が戦闘をするはずはありません。そして、盧溝橋事件でもっとも得をするのは、中共軍です。

中国は、昔も今も謀略が好きですから、騙されないように注意が必要と言うことですね。
2012/08/06(月) 17:26 | URL | ポッポ #-[ 編集]
No title
今日、広島は原爆の日、人類が開けてはいけないパンドラの箱を開けた日です。
原爆犠牲者皆様の御冥福、お祈りします。

毎回、毎回読ませて頂いて思う事は、どの様な事柄も一つ一つ丁寧に、そして解りやすく心を持って伝えてくださっているという事です。
有り難うございます、感謝です。

いくら事実が目の前にあっても、本当の事を言っても相手に理解力が無い、理解しようとしない、自分達の言う事成す事、それが嘘、捏造でも卑怯を卑怯とも思わない、また恥を恥とも思わない、もっと言えばそれを正義と思ってるお国柄です。韓国イコールです。
そんな中にも画像のように真実を語っている勇気ある方もおられますが、氷山の一角に過ぎません。
永遠に交わる事はできないでしょう。

>世界の戦争は、常に「軍事バランスが崩れたとき」に起こります。
つまり、どちらか一方が、強烈に「強く」なったときです。
客観的にみれば、当時のアジア情勢は、国の形を失った支那において、軍閥という国際法の適用外の無法者集団が、日本に8倍する兵力と武力を持ち、日本に対して楽勝できると日本を侮り、大陸にいた日本を徴発して起こしていたのです。

日本はあきらかに劣勢でした。
だからこそ日本は、通州事件のような乱暴狼藉に遭いながらも、我慢するしかなかったのです。
それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。

時代は違え、構図は同じ、差ほど変わっていません。
歴史が教えてくれています。
今の支那は昔とは違い国家として強大な軍事力国家とし成長、しかし、その根にある支那の本質、つまり支那のDNAを日本人の私達がきちんと見ていかなければならないという事です。
その上で何が真実で何が嘘か、自分の目、耳、心で学べば分かる事です。
ならばどうすべきか?というのも必然的に分かるのではと思います。
勿論そこには日本人が先人から受け継いだアイデンティティを持って、どうすべきかという事です。

>それで軍国主義、侵略者が聞いて呆れます。
同感です、その言葉、そっくりそのまま熨斗つけてお返ししましょう。
2012/08/06(月) 16:24 | URL | 桜子 #PyZMa2bE[ 編集]
ねずさんのブログが見れなくなりました。
毎日、ねずブロ読むのを楽しみにしているのですが、今朝は

<エラーが発生しました。レスポンスが不正です。
(WJ40254E)>

という表示がされてブログが見れません。

私の携帯が故障しているのかしら。
コメントは見れます。

明日は直っているといいのですが、不思議なことがあるものですね。
2012/08/06(月) 14:32 | URL | みーたん #-[ 編集]
No title
日本では共産主義について正しく知らされておりません。
社会主義と共産主義、全然違います。
かなり乱暴な言い方をすれば、共産主義は嘘の理想を掲げた奴隷国家、
これには道徳のない過度に自由な資本主義も含まれます。
社会主義は協調と秩序を保つためのルールに基づいたコミュニティ社会、
戦前の日本の様な秩序ある民主主義で、国民の幸せの為に社会を形成します。(反論異論諸説あるとは思いますが、私の認識ですみません。詳しい方、ご教授頂けると助かります。)
息をするように嘘をつき(真っ赤な嘘!)、感情に訴え、涙を流して芝居をうち、正論を掲げ、民衆を惹きつける。
そして、権力を握れば豹変する。
左翼活動家や、なりすましの政治家たち、まぎれもなく確信犯です。
世界中で起こる大虐殺は100%彼ら共産主義者の仕業です。
安易なデモの参加や、偏った思想洗脳には注意が必要です。
2012/08/06(月) 12:55 | URL | 民主党は共産主義です #1wIl0x2Y[ 編集]
正しい歴史認識を
毎回、ねずさんの記事に考えさせられ、今の状況を見ながら今後の日本の成り行きを憂うばかりです。

なんとか、機会がある限り、このブログを知人等に紹介することで、少しずつ理解が広まってきています。

しかし、一方で、以下のサイトのように、日本の男女を分断し、韓国を持ち上げ、ありもしない慰安婦問題を持ち出しています。

ねずさんのブログのように、日本の良さを再認識してもらう活動がほとんど無報酬で行っているのに対し、以下のサイトのように、左翼知識人や左翼系弁護士が日本を貶め、女性の権利ばかりを主張する活動を展開しています。
本当に残念でなりません。

どうか、ねずさんのブログをご覧の方にも、以下のサイトがあるということを認識し、今後どうするのが良いのか共に考えていただければと切に願います。

http://wan.or.jp/

2012/08/06(月) 07:11 | URL | #MByLbG9.[ 編集]
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アメリカ人「フリーズ!」 日本人「は??」 → 射殺 から20年

1 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です:2012/10/18(木) 11:43:45.43 ID:jTE2MK4x0 ?PLT(12000) ポイント特典名古屋市の高校生・服部剛丈君が留学先のアメリカで射殺された事件から18日...
ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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