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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


黄海海戦と武人伊東祐亨の物語

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■13/9/15誇りある日本の会ご主催の「従軍慰安婦の嘘?」「南京大虐殺の嘘?」の私の講演を碧庵さんが撮影してくださいました。
下のURLから動画をご覧いただくことができます。

No.1 http://youtu.be/6mrRZ3Ymn2E
No.2 http://youtu.be/6sEegcHVVvA
No.3 http://youtu.be/TKkv8wSbdAA
No.4 http://youtu.be/K7HyYqdIsmk
No.5 http://youtu.be/FcxVnxqa5Pg

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伊東祐亨(いとうゆうこう)
伊東祐亨


最近ではかつての「聯合艦隊」のことを、「連合艦隊」と書くのが通例となっていますが、実はこの二つは意味が違います。
連合の「連」は、単に車が道に連なっているありさまをあらわす字です。
けれど「聯合」の「聯」は、糸が複雑に絡み合っている姿をあらわします。

つまり各船舶が、互いに有機的に結合して祖国防衛にあたる。だから「聯合」です。
ただ船が一列に並んでいるのとは、意味が違うのです。
その聯合艦隊は、日本海軍の総力を結集した大艦隊です。
ですから特に、天皇に直属する連合艦隊司令長官がこれを統括しました。

その聯合艦隊の、初代司令長官に就任したのが、今日お話しする、薩摩出身の伊東祐亨(いとうゆうこう)です。
伊東祐亨は、天保14(1843)年、鹿児島城下清水馬場町生まれの薩摩隼人です。
実に魅力的な、日本男児です。



少年時代には、「飯、焦がし(めしこがし)」というあだ名で呼ばれたそうです。
これは伊東が町を歩くと、付近の若い女性たちが伊藤に見惚れ、ついつい炊いている最中の飯を焦がしてしまう、というところからきたのだそうです。

伊東祐亨はそれだけ「イイ男」だったわけですが、おもしろいのは、この時代にモテた薩摩男児というのは、いい顔をしているだとか、背が高いだとか、そういう、昨今の韓流俳優や在日タレントたちのような「外見」だけの色男では、絶対にモテなかったし、女性たちに相手にされなかったのだそうです。

学問ができ、腕も立ち、思いやりがあって、内面から発する凛とした清々しさがある。
それでいて決して高ピーにならず、常に謙虚であり、しかも堂々としている。
そういう男でなければ、「飯焦がし」とは呼ばれなかったと聞きました。
現代日本とはだいぶ様子が違うかもしれません。

さて、少年時代に和漢の書籍に通じ、書も極めた伊東は、薩摩藩の開成所に学ぶようになりました。
この学校、黒船来航で刺激を受けた薩摩藩が、英語学校として薩摩に築いた学校で、藩内からとびきりの英才が集められた学校です。
そのとびきりの英才のひとりが、若き日の伊東祐亨だったわけです。

文久3(1863)年、伊東が20歳のとき、薩摩藩を震撼させた薩英戦争が起こりました。
実はこのとき、藩公、島津久光の発案で、大山巌、西郷従道、伊東祐亨、樺山資紀、黒田清隆、仁礼景範らが選ばれ、敵、英国艦に乗り込んで、これを奪いとろうという決死隊が組織されています。

これがまたおもしろいのですが、なんとスイカ売りに化けて小舟で敵・英国艦に近づき、敵が油断したところを軍艦に乗り込んで奪取する、という計略だったそうなのです。
で、なぜ伊東が選ばれたかというと、彼は英語ができる。
相手が英国人なので、スイカ売りの口上も、英語でなきゃならんだろう、というわけです。

伊東らは、予定通り小船にスイカや野菜や鶏を満載して敵艦に近付きました。
そして英語で遠くから「スイカはいらんかね~」とやったわけです。
ところが、一般の庶民が、この時代に「英語」でスイカ売りなど、するわけがありません。
不審に思った英国艦に、ぎゃくに集中砲火を浴びせられ、あわてて逃げかえっています。

いまにして思えばかなり無茶な作戦ですが、とにかくなんとしてもあの強力な大英帝国戦艦を奪取してしまおう、という豪胆さは、すごいものです。

ところがこのときの体験が、実はその後の伊東の人生に大きな影響を与えています。

当時の日本がもっていた大砲は、オリンピック競技の砲丸投げの弾のような鉄の塊りを、大砲の「先っちょ」から詰めて、ズドンと撃つという、250年も前の戦国時代のままのものでした。

ところが英国艦隊の砲は、火薬も玉も、後ろから詰めてズドンと放つ様式です。
しかも放たれた砲弾は炸裂弾(火薬が仕込んであって爆発する弾)です。
そんな大砲が船にたくさん積んであって、ズドン、ズドンと撃ってくる。
砲弾が着弾したところで、大爆発が起こるわけです。
しかも船は、見たこともないような、鉄でできた巨大戦艦です。

彼我の戦力の違いを間近に見た伊東は、よしっ!それならワイが戦艦造って操舵しちゃる!と決意したわけです。
そして彼は、幕府の海軍操練所の生徒に応募しました。

この幕府の海軍操練所というのは、勝海舟が神戸に開いたものです。
坂本竜馬が塾頭でした。
竜馬は、船の操艦と万国公法を教えてくれました。
勝海舟は、「国」という概念を教えてくれました。

竜馬は、この海軍操練所の塾頭だった時代に、すでに万国公法(国際法)に通じていたことがわかります。
後年、竜馬は海援隊を組織し、海援隊が初めて入手した船で大阪に向かう途中、瀬戸内海で紀州藩の船と衝突した。
紀州藩の船の方が、圧倒的に大型です。
幕末とはいえ、幕府の権威はまだまだ存分に存在していた時代です。
紀州藩といえば、徳川御三家の名門、竜馬は一介の浪人者にすぎません。

けれど竜馬は、まさに万国公法を盾にとり、紀州藩と正面からやりあう。
交渉は暗礁に乗り上げ、途中で交渉役を土佐藩の岩崎弥太郎に代わってもらったけれど、これによって、一介の浪人者が、紀州藩から巨額の賠償金をふんだくる、という前代未聞の出来事が起きています。
要するに、法が権威に勝利したわけです。
≪詳細は「岩崎弥太郎と竜馬伝」≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1001.html

一方、勝海舟は、徳川幕府の直参旗本でありながら、すでに徳川幕藩体制という枠組みを一歩出て「日本国」という概念を明確に持った人であったことから、伊東に「藩ではなく、日本国こそが「公」であり、幕府や藩は「私」なのだ」と説きました。
これが後年の伊東の基本的な思考となっています。
後年、西南戦争が起きた時、伊東は西郷を心から慕いながらも、日本国海軍に残留しました。
伊東は「私」より「公」を優先する決断をしたのです。

明治元(1868)年に、海軍局に所属となった伊東は、明治4(1871)年には28歳の若さで「第一丁卯」の艦長に就任し、「春日」「扶桑」「浪速」などの艦長を歴任し、最も豊富な艦長経験者として、海軍内で圧倒的な存在感を示すようになりました。
そして明治27(1894)年、51歳になっていた伊東は、日本と支那(清国)との関係が冷え込む中で、初代連合艦隊司令長官に就任したわけです。

ちなみに日清戦争では、開戦前の同年7月25日に、豊島沖海戦が起きています。
このとき、先に挑発し、大砲を撃ってきたのは清国軍艦でした。
巨大戦艦を誇る清国海軍は、小船の日本海軍を馬鹿にし、砲撃を加えてきたのです。
ところが日本海軍は、これを徹底的に打ち破ってしまいました。
これが日本海軍が、対外戦ではじめて勝利した海戦です。

そして8月1日、明治大帝から宣戦布告の詔勅が発せられました。
6日後、連合艦隊が組成されます。

ここで大事なポイントは、日本が宣戦布告したから日清戦争になったわけではない、という点です。
清国側から攻撃を受けて、日本はやむなく豊島沖海戦を戦いました。
そして事実上の戦争状態になったということで、なるほど宣戦布告をしていますが、それでも戦闘行為をすぐにするのではなくて、あくまで話し合いによる解決の糸口を探し続けていたのです。

けれど、日本を軽く見る清国は、何度も何度も日本に対して挑発行為を繰り返しました。
そしてやむなく、清国の主力艦隊である北洋艦隊と、連合艦隊が、ついに衝突に到ったのが9月16日だったわけです。
要するに、宣戦布告から事実上の戦闘にいたるまでに、一ヶ月半もかかっているのです。
日本が国として、いかに戦争を回避しようと努力していたかがわかります。

このときの清国北洋艦隊は、戦艦2、巡洋艦10を含む合計16隻の大艦隊でした。
対する日本海軍連合艦隊は、巡洋艦からなる10隻です。
イメージからすれば、16台の大型トラックと砂利トラの軍団に、たった10台の軽自動車と原付バイクで挑むようなものです。

互いに敵の存在を知った両艦隊は、戦闘隊形をとります。
北洋艦隊は、横一直線に並んだ鶴翼の陣です。
対する日本海軍は単縦陣です。
ちょっとイメージしてみると、滑走路のような広いところで、横一列に並んだ16台の大型トラックに、5台の軽自動車と5台のバイクが縦一列で大決戦を挑んだようなものです。

当時の軍艦というのは、後年の軍艦と異なり、砲が舷側(船の横)についています。
つまり、北洋艦隊は、片側の全砲門を開いて、日本海軍を待ち受けたわけです。
そして最終的には、数の少ない日本艦隊を取り囲み、最強の砲火である十字砲火を浴びせようとしたわけです。

これに対して、伊東が指揮する連合艦隊は、まさに薩摩示現流そのものです。
敵に向かって一直線に突き進み、一刀のもとに敵を斬る。

12時50分。
横陣をとる北洋艦隊の旗艦「定遠」の30.5cm砲が火をふきました。
両軍の距離は、このとき6千メートルです。

「定遠」は、鋼鉄で装甲した巨大戦艦です。
所持する砲もバカでかい。
バカでかいから、弾を遠くまで飛ばすことができ、しかも当たれば敵艦に大きな損傷を与えます。

これに対し、日本海軍の艦は小型艦で、持っている砲も小型です。
速射は利くけれど、弾は近くまで行かなければ届かない。

一直線に単縦陣で距離を詰める日本艦隊。
これを、近づく前に沈めようと、巨大な砲を全艦から打ちまくる清国・北洋艦隊。

日本艦隊の船は、小型です。
大型の敵弾が当たり、全艦被弾します。
それでも日本艦隊は、一直線に並んだまま、どんどん距離を詰めていく。
そして距離が詰まったところで、小型砲を速射します。

北洋艦隊は、連合艦隊の6倍以上被弾し、「超勇」「致遠」「経遠」など5隻が沈没、6隻が中大破、2隻が座礁して動けなくなりました。
日本側は、旗艦「松島」など4隻が中破しただけで、沈没、大破、座礁ともなし。

こうして黄海海戦は、日本艦隊の圧倒的大勝利に終わりました。

連合艦隊旗艦「松島」
連合艦隊旗艦松島


この戦闘の最中のことです。

伊東の乗る旗艦「松島」は、戦い早々に左舷に砲弾が命中しました。
一瞬にして28人が絶命、68人が負傷してしまったのです。

伊東は即座に艦橋から現場に向かいました。
そこに重傷を負って瀕死の状態の水兵が、全身の力をふりしぼって、伊東長官の足元に這い寄ってきました。
そして伊東に手を差しのばし、
「長官、ご無事でありましたか」と言った。

伊東は、血まみれになったその手をしっかり握り、
「伊東はこの通り大丈夫じゃ、安心せよ」と彼の心配に答えました。
そしてその場で足を2度、3度と踏み鳴らしました。

水兵は「長官がご無事なら戦いは勝ちです。万歳!!」と言いながら、伊東の腕の中で息絶えました。
伊東は目を潤ませながら、その手をしばらく離すことができなかった。

激戦の最中です。
その激戦の最中に、連合艦隊司令長官が、被弾して多くのけが人が出たその現場に、直接自分の足で、検分に出かけているのです。
そういう伊東の、末端の部下を案じる姿勢、それに答えようと、死力を振り絞って司令長官を気遣う水兵。
水兵は、自分が瀕死の重傷を負っているのに、伊東の身を案じているのです。

日頃から伊東が、どのように部下と接していたのかが、わかろうというものです。

たとえば、いまどきの学校で、何か大きな事故や災害があったときに、死を前にした生徒や教師が、「校長さえご無事なら本校は安泰です、万歳!」と叫んで息絶えるでしょうか。
あるいは、会社が不慮の災難に襲われた時、「社長さえ(部長さえ)ご無事なら、我が社は安泰です!」と叫んで息絶えるでしょうか。
そうでないなら、私たちは、教育や会社組織のあり方を、もしかしたら抜本的に考え直さなければならないところまできているといえるかもしれません。

日本はもともと「家族国家」です。
日本国民みんなが、ひとつ屋根の下で暮らし、生きる家族となろうとした国です。
そして、様々な国内の組織もまた、それぞれが家族でした。
当時の伊東連合艦隊司令長官のもとに一致団結した日本海軍は、まさに日本海軍という名の大家族だったのです。
だから「長官さえご無事なら」という言葉は、そのまま「オヤジさえ無事なら、一家は安泰なんだ!万歳!万歳!」という声でもあるのです。

たとえは悪いけれど、昔はヤクザの世界でも「○○一家」と名乗ったものです。
ヤクザの世界は世間の縮図といいますが、そのくらいかつての日本人にとって、自分の所属する軍も組織も商店も学校も、すべては家族そのものだったのです。

それは、伊東の側から見れば、何千人いようが、部下の水兵たちは、ひとりひとりが伊東の家族であり、子供たちでもあった、ということです。
だからこそ、伊東は「松島」が被弾したとき、いの一番に被弾した部下たちのもとに飛んだのだし、伊東の姿を見つけた水兵も、全身血まみれになりながらも、伊東の傍まで寄ってきています。

そして家族を守るために、家族の一員として戦うのだから、他にも敵弾で腹部が裂けて内臓がはみ出す重傷を負いながらも、戦い続けるからと、治療室に運ばれるのを拒否して息絶えた兵士や、紅蓮の炎で全身黒こげになりながらも、消火につとめ、鎮火を見て、息絶えた兵士など、伊東の腕の中で息絶えた兵士同様、彼らのひとりひとりが、持ち場持ち場で、必死になって戦っています。
日本は、もともとは、そういう国だったし、いまも人々の心の奥底にある感情は、まったく変わっていません。

ところが清国北洋艦隊の状況はというと、上司は部下を命令によって「支配」し、部下は上司に「支配」されている関係です。

黄海海戦で、北洋艦隊の艦隊責任者である丁汝昌(ていじょしょ)提督は、座乗する旗艦「定遠」に200発近い命中弾を受け、甲板は穴だらけとなり、提督自身も顔や手足に大火傷を負い、左足も負傷しました。
海戦の最中には、一直線に並んでぐんぐん近づいてくる日本・連合艦隊に、水兵だけでなく、一部の艦長までが怖じ気づいて、敵前逃亡を図る始末となっています。

生き残った船は、なんとか本拠地である威海衛(中国山東半島北東部)に逃げこんだけれど、港の入口は、すでに日本艦隊に囲まれていました。
丁汝昌提督は、港の入口をふさぐ日本海軍に挑み、脱出作戦を展開しようとするのだけれど、これに応じようとする艦さえ、いない。
なぜかというと、水兵たちが逆切れして、艦長らを剣で脅しあげ、出港させないように仕向けていたのです。

伊東は、丁汝昌に、見事な達筆で、降伏をすすめる文書を送ります。
もともと開戦前に二人は2度ほど会っていて、これは万国共通なのだけれど、どうも海の男たちというのは、平素は、すぐに打ち解ける。

伊東は、老朽化した清国を立て直さんとするとき、必ずや清国は、丁提督を必要とするから、しばらく日本に亡命して、その時まで待ってはどうか。亡命に関しては、日本武士の名誉心に誓って、これを請け合う、と手紙にしたためた。

丁汝昌提督も海の男です。
書信を読んで深く感動する。

そして書信を受けた十数日後、ついに降伏を決意し、丁汝昌提督は、自らの祖国よりも、伊東を信頼する返信をしています。
そこには、「兵士と人民を許して、彼らをその郷里に帰らせてもらいたい」と書いてある。

伊東はその条件を受け入れる旨の書簡を書いたあと、使者にこう質問しました。
「丁閣下にはお変わりありませんか」
そして、体調のすぐれない丁を慰めるため、ブドウ酒とシャンペン、それと干し柿を贈りました。

丁汝昌は、伊東の変わらぬ友情に涙し、
「もはや思い残すことはない」と言って、北京の方向を拝し、毒をあおって自決したのです。

丁提督は、きっと嬉しかったのだろうと思います。
なぜ嬉しかったか。
彼は、清国海軍の中にあっても、ただの駒でした。
彼の部下たちも、ただの駒でした。
駒は駒であって、人間ではありません。ただの道具です。
そういう道具であることが、ある意味、あたりまえとなっていた提督を、伊東は人として遇したのです。

「人として扱ってもらえる」
実は、人として生まれた人間にとって、こんなあたりまえのことがあたりまえでなくなっているのが、実は、支那などにおける上下社会というものです。

けれど、伊東の応対に、丁提督は、駒や道具としての自分ではなく、人としての自分になることができました。
だから彼は、死を選んだのです。
「士は己を知る者の為に死す」という言葉がある。
史記の刺客伝に出てくる言葉です。

伊東も、丁提督の姿に武士を見ました。

丁を失った北洋艦隊は降伏しました。
ところが清国側は丁汝昌以下死者の遺体を、ジャンク船で送ろうとしました。

これを知った伊東は激怒しました。
たとえ敗戦の将とはいえ、国に殉じた提督の遺体をジャンク船ごときで送るとは何事か!

伊東は、没収する予定になっていた運送船「康済号」を没収リストからはずすと、これに遺体を乗せて送るよう、使者である牛将軍に伝えました。
このとき、丁提督を心から尊敬していた牛将軍は、伊東の配慮に感きわまって、その場で泣き崩れたそうです。

伊東は涙ながらに次のように述べています。
「俺が同じような立場になっていたら、お前たちはこの俺がボートで送り届けられてもよいのか。責任は俺が取る。
万一お咎めがあったときは、俺が死をもってお詫びいたすだけのことだ」

丁の遺体を乗せた「康済号」が威海衛から出港する日、連合艦隊の各艦は、半旗を掲げて、一列に整列して見送りました。
伊東は「松島」の甲板に立ち、前をすすむ「康済号」に敬礼を送りました。
その直後、「松島」からは弔砲(弔意の礼砲)がはなたれました。
戦う男たちの姿がそこにありました。

けれども、北洋艦隊敗北知らせを聞いた清国の光緒帝は、すぐに丁汝昌の財産を没収し、葬儀をも許しませんでした。

立派に戦った提督に対する、伊東が示した武士道と、清国皇帝の姿勢。
このふたつの違いは、実は、日本文化と、支那文化の根本的な違いでもあります。
そしてこの事件は、日本が世界から称賛され、日本が世界的な信用を得る出来事となっています。

日清日露との戦勝に勝ち抜いた伊東は、晩年元帥の称号を与えられました。
けれど、伊東は戦いの中で多くの部下を死なせたことを生涯気にかけていました。

伊東の歌です。

 諸共に
 たてし勲を おのれのみ
 世に誉れある
 名こそつらけれ

いかにも武人らしくストレートに心情を詠んだ歌ですが、この心こそ和の心であり、日本人の日本的心の歌といえます。
日本では、古来、人々は「おおみたから」なのです。
その「おおみたから」を預かり、その「おおみたから」である部下たちとともに戦った。
だからこそ誉れは、戦ったみんなの誉れなのだ。
そういう心というものは、上下と支配の構図しかない社会のリーダーには、決して育まれないものです。
そこに日本人の日本的精神の根幹があります。

だからこそ伊東は、戦勝の名聞名利は、明治大帝以下、みんなが力を合わせて戦った結果です。
だから、自分が世に誉れる身とされるのは、かえってつらい、と詠んだのです。

大正3(1914)年1月16日、伊東祐亨は、逝去されました。
71歳でした。

※このお話は、2011年3月に一度アップしたものを、リニューアルしてお届けしました。

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コメント
No title
昨日の半沢直樹で消化不良及び精神崩壊寸前だった自分を本日のねずブロを元気付けてくれました。やはりいくら視聴率の良いドラマでも所詮は作り話。ねずさんが紹介して下さる史実にはかないません。日本のテレビ局もこのような史実に沿ったドラマをどんどん放映すれば安定した視聴率を獲得出来るのにもったいないです。支那や朝鮮に遠慮することなく本当の史実を日本人に伝えていくべきですね。
2013/09/23(月) 10:53 | URL | 名前を与えてください #mQop/nM.[ 編集]
No title
日本の海軍では、指揮者として提督が定められると、部下として幕僚がつけられます。幕僚は作戦を組み立てると、提督以下の会議に諮り、これを審議して未完成の部分を修正し、作戦計画を完成させます。提督は、これを承認するとともに部下に実行を指示、その後は後ろに控えて見守り、成功すれば部下に対して褒め称え、万が一、失敗したときには責任を取ります。

これは、指揮者が海軍の場合には提督ですが、戦争のときには天皇陛下でした。だから、終戦後にマッカーサーと面会されたとき、我が身を捨てても国民を守ろうとされた。また、政府の責任者であった東条首相は、責任者としての行動をされました。
歴史において、失敗したときに責任者が逃げ出したり、部下にその責任を負わせることで自己の安泰を図る者がいますが、そんなとき、部下は本当に不幸だと思います。

日本は、天皇陛下を国のリーダーとすることで、リーダーの在り方が国民に示されていると思います。



在日コリアンを差別し、排斥するヘイトスピーチが繰り返されていることに抗議しようと、市民グループが主催した「差別撤廃 東京大行進」が22日、東京都新宿区であった。参加呼び掛けに応じた約2千人が「差別はやめよう。一緒に生きよう」と声を上げながら、JR新宿駅周辺をデモ行進したとのことです。

やれやれ、よくやります。
日本人は、在日コリアンを差別したり、排斥することはありません。しかし、日本にいる限りは、日本の法律に従っていただかないと困るのです。
まず、日本に不法侵入をしてはいけないでしょう。日本がポツダム宣言を受諾したとき、朝鮮人は戦勝国では無かったはずですが、なぜ戦勝国民などと詐称し(これは、はだしのゲンにも描いていました。)、暴れてはいけないでしょう。戦争中、日本が空襲に遭って街が焼かれた跡地を、勝手に侵奪をしてはいけないでしょう。
まだまだありますが、やられたことは500年忘れないと言ったのは、韓国の現大統領です。日本人も忘れていません。
もっとも、日本が朝鮮半島を併合した際、韓国を本土並みにするためインフラを整備したことや、学校を作ったことや発電所を作り、肥料工場を作り・・・・・・小学校のときに習った朝鮮半島の重工業ができているというのは、戦前の日本が作ったものばかりでした。
それに、李承晩が国際的な了解もなしに、非武装の日本に対して行った李承晩ラインは、日本と韓国に平等なことだったのかと思います。
2013/09/22(日) 23:33 | URL | ポッポ #-[ 編集]
No title
歴史を騙る詐欺師―元長崎大学長の土山秀夫
http://oncon.seesaa.net/article/375347608.html
2013/09/22(日) 20:07 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
焦る中国
尖閣問題で日中関係が冷え込み、経済にも影響が出始めた中国は焦っています。村山、鳩山元首相や親中政治家を招待して尖閣問題を動かしたい中国は左翼だけではなく右翼団体にも手を伸ばしています。尖閣問題で「領土問題がある」と日本が認めない限り膠着状態が続きます。

今度は財界首脳が中国を訪問します。政治家は人質になりませんが財界は中国に進出しているので人質になります。財界首脳は中国で利益を上げられると期待しているかも知れません。が、財界に働きかけて安倍政権に圧力をかけるつもりです。中国で経済活動を続けたければ安倍政権に圧力をかけろと。財界首脳はどうするのでしょうか。

政治リスクがある以上企業は利益を失うだけではなく、資産まで取り上げられる危険性があります。財界の首脳は中国民事訴訟法231条、国防動員法の危険性があることを知っているのでしょうか。訴訟が起こされれば、財界首脳は日本に帰国できなくなります。企業の中国進出は「人質」になる覚悟で行く必要があります。
2013/09/22(日) 18:46 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
更新ありがとうございます。
伊藤元帥は、武士道を弁えた真の武人ですね。 敗将に辱しめを受けさせないのは、日本の古来の作法です。 ところで小沢さん、今の安部政権に抵抗できる集団を作ることがわたしの使命と言われているが、日本人は誰も貴方に期待なんかしていませんよ。 集団で中国詣りはするは、 東北の被災地に放射線を怖れて一度も訪問しないわ、何も良いとこがないです。 さっさと引退するのが世のためになります。
2013/09/22(日) 15:54 | URL | ひろし #-[ 編集]
blog
韓国の歴史教科書を読んでからである。日本人は冷酷非情な「悪魔」として描かれていた。近代日本は朝鮮に対して「殺戮と収奪のみ」をしたことにされていた


2013年9月22日 日曜日

◆なぜ韓国は歴史を書き換えたのか――その動機と背景を考える(後半) 山田高明

韓国の本当の不幸の始まりとなった李承晩時代
さて、話を本筋に戻そう。


http://blog.goo.ne.jp/2005tora
2013/09/22(日) 13:41 | URL | the end #WpG08Q2.[ 編集]
敵であってもその節目は相手を讃え、敬う精神は正に武士道です。
2673年の誇りある日本の歴史に感謝します。
2013/09/22(日) 09:37 | URL | #-[ 編集]
No title
2013/09/22(日) 08:07 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
No title
韓国・朝鮮人が認められない歴史的事実一覧(集計)


 
米作が九州から朝鮮半島に伝わったこと
唐辛子が日本から朝鮮に伝わったこと
半島南部の先住民が日本人(倭人)であること
新羅の建国時の宰相が日本人(倭人)であり、王家の二つが倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人説があること
百済、新羅が大和朝廷に対し従属的地位にあったこと
大和朝廷による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)
半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)
常に属国として歩んできた歴史
姓が中国文化の影響を受け、みずから改名し、中国語氏名であること
秀吉の朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)
朝鮮半島の国王が、中国の地方長官の地位でしかなかったこと
清朝から、李氏朝鮮が琉球よりも格下に扱われていたこと
李氏朝鮮の前の高麗では、元の命令で、王妃が代々モンゴル人であり、モンゴル人の母親から生まれた息子しか国王になれなかったこと
朝鮮半島の国が、歴史上一度も、単独では戦争に勝ったことがないこと
朝鮮民族が雑多な民族の集まりであること
ハングルで表記できない発音がいくつもあること
チマチョゴリが、胸を露出して着る衣装だったこと
朝鮮半島に唐辛子が広まったのは、塩が手に入らないから、塩の代わりの調味料だったこと
李氏朝鮮の時代に、木を丸くする技術がなくて、二輪車がなかったこと
秀吉が朝鮮に出兵した時に、秀吉側について明と戦った朝鮮人がたくさんいたこと
馬に乗って戦っている倭寇がいて、日本人じゃない倭寇がいたこと
王仁博士の出身地に、王仁博士の一族の末裔も王という姓の人もいないこと
竹島は、過去に一度も朝鮮半島の国のものになったことがないこと
テーブルで焼き肉を焼く料理法は日本から韓国に伝わったこと
文盲だった朝鮮人にハングルを教えさせてハングルを広めたのは日本人であること
高麗の時代には、済州島は元の直轄地であって、済州島が元の領土であったこと
朝鮮戦争前はむろん、朝鮮戦争後もずっと、韓国人は白米を常食にできなかったこと
朝鮮半島の国は中国の国に朝貢するにも朝貢する文物がないので女性を献上していたこと
李氏朝鮮の外国からの莫大な借金を、日本が代わりに払ってやったこと
李氏朝鮮(大韓帝国)の李王家の帰国を韓国は拒否して李氏朝鮮と韓国は別の国であるので、今の韓国人に韓国併合のことを言及できないこと
2000年近い朝鮮半島の歴史の中で、朝鮮半島を統一した独立国家としての歴史は、936年から963年までの高麗の27年間と、1895年から1910年までの李氏朝鮮(1897年から大韓帝国と改称)の15年間しかないこと
朝鮮という国名にしたのは明だが、他国に自国の国号を決めてもらった世界にただ一つの国であること
百済と新羅の時代に朝鮮半島に住んでいた倭人が文明人として朝鮮民族から尊敬されていたこと
百済と新羅から帰化した人からの朝鮮語の伝搬が見られないことから、帰化人とは朝鮮半島に住んでいた倭人であったこと(帰化人を渡来人というのは誤り。文字通り帰ってきた人達)
昔から今まで朝鮮半島が日本列島よりも文化文明が進んでいたことが一度もないこと
済州島には朝鮮民族とは別の言語・風習を持っていた、朝鮮とは別の民族が住んでいたにもかかわらず、済州島を併合してしまったこと
1948年に、済州島の民族を大虐殺したこと
済州島の民族の言語とアイヌ語に共通な語があって、済州島には日本列島と同じ民族が住んでいたことたこと
元寇の兵の大半は高麗人(朝鮮民族)であったこと
民族が到達しやすくても脱出しにくいのが半島だが、そもそも朝鮮半島には倭人が住んでいて、倭人が住んでいた朝鮮半島に後から別の民族がやってきて、それが朝鮮民族になったと考えられること
民族は敵性民族がいなければ暖かい所に移動するので、朝鮮半島の朝鮮民族は北のほうから南下してきたと考えられること
朝鮮民族が南下してきたといっても単一の民族としてではなくて、満洲民族・モンゴル民族、漢民族、北方のツングース等が南下して朝鮮民族になったと考えられること
韓国では中国を親の国、韓国を兄の国、日本を弟の国だと教えているが、そういう発想自体が韓国の属国思想であること(日本は独立国だったので、そういう発想はない)
韓国を兄の国だなんてとんでもないと日本人は思っていること
宦官制度が新羅の時代から1894年の甲午改革で廃止されるまであって、去勢された男子の宦官がいたこと
朝鮮民族は漢民族・満洲民族・モンゴル民族に従属していて格下の民族とされていたこと
清朝の冊封体制の中で李氏朝鮮の地位は低く、朝鮮使臣のみが丸首の衣であり、朝鮮使臣のみが籠に乗ることを禁じられていたこと
昔の李氏朝鮮の大極旗には清国属国旗と記されていること
遣隋使、遣唐使、日明貿易の時代にも朝鮮を通さずに日本は交易していること
李氏朝鮮の時代も、水田の灌漑施設がなかったこと
1000年にわたる売春立国であること
遣隋使、遣唐使、日明貿易はあったが、遣高麗使、遣朝使のような朝鮮半島との貿易はなかったこと
朝鮮半島発祥と言えるのはキムチしかないこと(米作、唐辛子、焼き肉など、日本から朝鮮半島に伝わったものは多い)
キムチの食材の唐辛子ですら日本から朝鮮半島に伝わったものであること
高麗の青磁は中国の殷が起源、李氏朝鮮の白磁は中国の北斉が起源であり、どちらも朝鮮半島の発祥の文物ではないこと
日本の歴史は事実・真実のままで世界に誇れる立派な歴史であること(歴史を偽造する韓国に配慮して日本の教科書を記述することなどとんでもないことである)
韓国の教科書には「〇〇を日本に教えてあげた」という記述が山のようにあるが、そのすべてが偽造・ねつ造であること(韓国は、日本発祥のものでさえ教えてあげたと記述する傲岸不遜な国。教えたも問題だが、教えてあげたという表記は無礼千万)
朝鮮半島発祥の文物で日本に影響を与えたものは一つもないこと(朝鮮民族がいなくても日本の文化文明は発展していた)
朝鮮半島に存在しないDNAの稲が日本だけにあること(稲作は中国雲南省あたりから海路で九州に伝わったから)
新羅も百済も倭国のことを文化大国として敬仰していたこと(朝鮮半島初の統一国家である新羅の基礎づくりを指導したのは日本列島から渡ってきた日本人(倭種)だった。「第四代新羅王の解脱(タレ)は、倭の東北一千里にある多婆那国の生れ」(三国史記新羅本記)、多婆那(タバナ)国は、丹波、あるいは但馬と考えられている)
倭国は九州北部と朝鮮半島にまたがっていたこと(鉄資源を採取するための拠点が朝鮮半島南部にあり、そこから南が倭国と認識されていた。「韓は帯方郡(魏の直轄地・現ソウル付近)の南にあり、東西は海、南は倭と接す」「倭に至るには(海岸に沿って水行し韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し)その北岸、狗邪韓国に至る。(そこから)はじめて海を渡ること千余里、対馬国に至る・・」(魏志「韓伝」および「倭人伝」)
倭は朝鮮半島南部の拠点を通じて、1世紀ごろには中国大陸と直接交流していた。
戦前の朝鮮史研究では、新羅4代王が日本列島の出身者である事など常識であったこと
新羅16代の王のうち半数が日本人であること(半島古史研究で基本資料とされる『三国史記4』(東洋文庫、1988年)に全文間違いの訳注がある。倭種は4代目のみとされている。訳注を書いたのは韓国人の鄭早苗)
新羅と百済の同時代の『唐書』に、「新羅も百済も倭国を大国として敬仰している。それは倭国には優れた品々が多いためで、常に使節が倭国に赴いている」との記述があること
日本の皇室が世界で一番古い家系であること
青森県の大平山元遺跡が「世界最古」の遺跡であること
日本の神道のような信仰は世界中にあったが、今は日本にしか残っていないこと
日本の前方後円墳は3世紀に出現したが、朝鮮南部の栄山江から発見された前方後円墳は5~6世紀のものであること
百済では1世紀になって初めて稲を作るべしとの王令が出たこと
日本の農業用語に朝鮮由来の言葉がないこと(朝鮮から伝来してないから)
日本書紀が書かれたのは8世紀だが、朝鮮の三国遺事が書かれたのは13世紀であり、日本の神話が朝鮮の神話よりも古いこと(日本の神話が朝鮮の神話を真似たというのは嘘)
2013/09/22(日) 07:46 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

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