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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


タラワ、マキンの戦い

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ギルバート諸島
ギルバート諸島


昭和18(1943)年11月24日にギルバート諸島のマキン島守備隊が、25日に同じくタラワ島の守備隊が玉砕されました。

ギルバートの島々は、いまではキリバス共和国という独立国となっています。
キリバスは、赤道付近に3800kmにもわたって散らばっている33の環礁によって構成され、人が住んでいるのは、そのなかの21の島です。
総人口は約10万人で、ほとんどがミクロネシア人です。
そのミクロネシア人は、およそ2000年前にカヌーに乗ってやってきたとされています。


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カヌーといえば、古事記にもカヌーの記述があります。
「仁徳紀」のところで、そこに、
「高樹を切りて船をつくる。はなはだ捷(はや)く行く船なり。その船を号して枯野と謂う」とあります。
最近の学会では、「枯れた野原と書いてあるから、これは何の事かわからない」としているようですが、今でも八丈島では丸木舟をカルノと呼んでいます。
高い木を伐って作った船が「枯野」というのですから、普通にカヌーと読めば済む事だけのことです。

日本の古代の人たちは、縄文時代の丸木舟が発見されていますが、普通に考えればわかることだけれど、丸太の中をくりぬいただけの丸木船では、簡単に転覆してしまいます。
転覆しないためには、船本体の横に、アウトリガーと呼ばれる枝を出します。
これが双胴船で、たいへん安定しており、さらにこれに帆を張ると、遠洋の航海も可能になります。

アウトリガー船


魏志倭人伝には、倭国の領域として「海を渡りて1年」行った先にある黒歯国も倭国の領土であると書いてありますが、縄文時代から、古墳時代にかけて、おそらくは倭人たちは南洋諸島を遠く旅していたものと思われます。

ちなみにキリバスでは、魚のことを「io(イオ)」というのだそうですが、日本でも古語では「イヲ」です。
古代から、南洋諸島と日本は、なんらかのつながりがあったのであろうと思います。

さて、そのキリバスは、ギルバート諸島、フェニックス諸島、そしてライン諸島によって構成されています。
明治25(1892)年、ギルバート諸島は、隣のエリス諸島と共にイギリスの保護領となりました。
そして、ギルバート諸島は、大正5(1916)年に、英国保護領から英国植民地になっています。
保護から、単なる収奪地に変わったわけです。

このギルバート諸島を、日本は、昭和16(1941)年12月、大東亜戦争開戦とともに占領統治しました。
理由は、2つあります。
その1 米国との対戦にあたり、日本の防衛ラインはできる限り本土から遠い方が良い。
その2 ギルバートの島々の人々を英国から独立させる、その他です。

日本領土として、キリバスには、「吉里巴斯(キリパス)」の漢字が充てられました。
当初、日本がキリバスにおいた兵力は、タラワ、マキンの2か所に、それぞれ70名程度と、小規模な部隊をおきました。
そして、そこが戦場となる危険があることから、駐屯地には、島民のいないタラワ、マキン(ブタリキリ)の2つの環礁が充てられました。

ところで、一部の旧帝国陸軍贔屓(ひいき)の方の中に、大東亜戦争で日本が負けたのは、当時「海軍が太平洋に戦線を広げすぎたせいだ、東亜エリアに戦力を集中していたら、日本は戦争に勝てたのだ」という方がおいでになります。

それぞれにご意見があり、誰がどのような意見を言うのも自由ですし、それもまた一理あろうかと思います。

ただ、大切なことは、歴史をいくら批判しても、後世を生きる私たちにとって、批判や評価だけでは何のメリットもないと思います。
批判ではなく、そこから何かを学ぶこと。それが重要というのが、私の思いです。

この時代、すでに戦争は船舶から航空機の時代にはいっていました。
日本の防衛ラインが本土に近ければ、日本本土は、敵航空部隊による格好の空襲対象となります。
このことは戦争末期をみれば、あきらかなことです。
日本本土は空襲によって焼け野原になりました。

こうした本土空襲を防ぐためには、日本からできるだけ離れたところに防衛ラインをひく。
これまたあたりまえのことです。

いま、日本に米軍基地があります。
その場所は、米国本土からみれば、地球の反対側です。
なぜそんな遠いところに米国が基地を置いているのかといえば、米国の本土を護るためです。
米国政府は、米国に住む米国民が命の危険にさらされることがないように、米国から遠く離れた地球の裏側にまで前線基地を置いているのです。
日本にある米軍基地は、日本を護るためという人がいますが、それだけではなく、それは彼らにとっての都合でもあるのです。

そもそも軍隊は、なんのためにあるのかといえば、それは、戦いに勝つこともさりながら、国を、国民を護るためです。
そうであるならば、前線は本土から遠い程よい。
これまた当然のことです。

そしてそのために、かつての日本は、ギルバートという遠い遠い、南方の島にまで、その防衛ラインを広げ、構築したのです。
その島を護って玉砕し、若い命を散らせて英霊となられた方々がいる。
批判する前に、私たちはそういう方々に、まず感謝する心を持つことが、私は大事なのではないかと思っています。

さて、その前線基地が、敵国の国土により近いということは、敵国側からみれば、それは脅威といえます。
つまり、そこから敵国本土が直接狙われる危険を持つからです。
日本は、大東亜戦争開戦当初、12月8日に真珠湾を攻撃し、12月10日にはタラワ、マキンといったギルバート諸島を、それこそあっという間に占領しています。

ところが日本は、それをまったくしませんでした。
派遣した部隊も、きわめて小規模なものでした。
昭和17(1942)年8月に、マキンを占領した部隊も、日本の第62警備隊の、わずか70名です。

もし巷間言われるように、日本が対米侵略戦争をしかける意図があったというのなら、日本はそこに大部隊を派遣し、ハワイを占領し、米国太平洋岸まで攻め入って、米国太平洋艦隊基地を、まるごと占領し、米国本土を爆撃するという選択肢もあったかもしれません。
攻撃は最大の防御だからです。
護る戦いよりも、攻める戦いの方が、数段やりやすいし、勝ちやすいのです。

けれど日本はそれをしませんでした。
なぜでしょう。
答えは簡単です。
大東亜戦争は、あくまで防衛のための戦争だったからです。

これは太平洋戦線の布陣を見るだけでもあきらかです。地図を見たら素人でもわかります。
日本が敷いた絶対的防衛ラインというものは、あくまで、敵爆撃機による本土ならびに朝鮮半島、台湾、満洲、樺太といった当時の日本を守るための布陣です。

なかには支那には侵略したではないかという人もいるかもしれませんが、これも違います。
支那は、大東亜戦争よりも早くから、支那国民党政権による日本への挑発的軍事行動が行われていました。
挑発を受けて軍事行動を起こすことを「侵略」とは呼びません。
これは国家としての正当な自衛権の発動です。

さて、昭和17(1942)年8月、マキンにいた日本のわずか70名の警備隊に、米国第2海兵襲撃大隊約220名が奇襲攻撃を行いました。
日ごろからよく訓練されたマキン警備隊は、突然の奇襲攻撃によって、いきなり半数を殺されるという大損害を受けました。

普通なら、これで警備隊は壊滅です。
ところが半数になってしまった警備隊は、なんとそこからよく反撃し、翌日には、米海兵隊を撃退してしまっています。

そしてこの戦闘のあと、日本は、米軍の本格的な太平洋反撃作戦を予想して、太平洋上の防衛圏確保を目的として、ギルバート諸島守備隊を増強しました。
ただし、場所は相変わらず島民の住んでいない、タラワ環礁のペティオ島、マキン環礁のブタリキリ島だけです。
島民の犠牲を防ぐためです。

ちなみに、マキンのブタリキリ島というのは、ギルバート諸島の北端の島で、「V」の字を大きく左右に広げたような形の長細い形をしています。

マキン・ブタリキリ島
マキン・ブタリキリ島


タラワのペティオ島の方は、ブタリキリよりかなり大きいけれど、島は「L」の字を左右反転させたような形をしています。
島のいちばん幅の太い場所でも、わずか500Mの幅しかありません。

タラワ環礁
タラワ環礁


マキン環礁のには、軍人353名、軍属340名(うち朝鮮出身200名)の合計693名が派遣されました。
タラワ環礁のペティオ島には、柴崎恵次少将率いる4800名が派遣されました。

再び米軍が襲ってきました。
激戦の末、マキンでは、693名中、589名が死亡しました。
生き残ったのは、朝鮮人の軍属104名だけです。
タラワでは、4713名が死亡。朝鮮人の軍属129名だけが生き残りました。

この昭和17年という時点では、朝鮮半島はもちろん日本の領土であり、朝鮮人は日本人としての扱いになっていましたが、当時の日本軍は、彼らの中で、正規の軍人教育を受けた士官以外は、正規の軍人としては採用していません。

多くの朝鮮人は、それを不服として、血判状まで出すと言う始末でしたが、古来、日本では、「いちばんたいへんなことは、自分たちがやる」というのが日本人の日本的価値観です。
これは欧米を含む他の国々ではほとんど見かける事のない日本独自の精神といえます。
普通なら、占領地の民が、最前線に狩り出される。
けれど日本はそれを一切していません。

こうした日本軍のやり方は、日本人の伝統的な価値観に基づくものです。
日本では、太古の昔から、いちばんたいへんなことを、地位のある者が率先して行う、というのが、常識です。

これは一説によれば、神武天皇以前の、日本の天皇が「上方様(うわかたさま)」と呼ばれていた頃からの伝統だともいいます。
古代の上方様たちは、いちばんたいへんなこと、命がけでしなければならないことや、力仕事、あるいは難しい仕事など、たいへんなことを誰よりも率先して行われてきたのだそうです。
相続も、末子相続制でした。
なぜなら、たいへんなこと、むつかしいこと、つらいことを、お兄ちゃんたちが率先して行ってくれたからです。

ですから他の玉砕地でもそうですが、朝鮮人の軍属(軍に所属する作業員)たちの多くは、命を永らえています。
弾の当たる危険のあるところには、日本人が出向き、彼らは弾の当たらないところにおいて、もし日本が負けた場合には、日本の軍に使われていた労働者にすぎないと敵に言って、命を助けてもらいなさい、というのが、日本人の考え方でした。

当時、朝鮮人たちは、これを「差別」だと言いました。
自分たちも日本人として、日本を護るために戦いたいのに、日本軍は、それを認めてくれない。
だから「差別」だというのです。
などではありません。

けれど、当時、日頃勇ましい朝鮮人たちは、現実問題として戦場で役に立たない人たちでした。
というのは、軍人として採用しても、いざ敵弾が飛んで来ると、「アイゴー(哀号)」と言って銃を放り出して逃げてしまう。
日本軍は、支那の督戦隊のように、逃げる味方兵を、後ろから撃つようなことをしません。
ひとりひとりが、その責任感で、最前線で戦うのか日本人です。
逃げ出す朝鮮人を撃つくらいなら、最初から兵としては使わない。
それが当時の常識でした。

すこし添えますと、朝鮮人の全部が、そうして「アイゴー」と言って逃げ出すような人々ということではありません。
朝鮮人で特攻兵となり、勇敢に散っていった人もいますし、洪思翊陸軍中将のような立派な軍人さんたちもたくさんいます。

ただ、軍というのは集団で行動するものです。
ですから、たとえ、たった一人であっても、敵弾が飛んで来たときに「アイゴー(哀号)」と言って銃を放り出して逃げ出すような者がいれば、そういう人たちは、全体として、信用と信頼を失う。これまた、当たり前の事です。

同じ時代にあって、台湾兵やインドネシア独立義勇兵、あるいはインド国民軍など、日本人と一緒に戦った人たちがいますが、誰ひとり、戦闘中に逃げ出すような不埒な輩はいません。

現代社会においても、日本人の通名を名乗り、日本人のフリをして重大な犯罪を犯す者が朝鮮人には後を絶ちませんが、もし「差別」されたくないと思うのなら、彼らは彼ら自身のコミュニティの中で、彼ら自身が、勇敢で高潔で誰からも好かれる立派な人として、立派な民族となっていく努力が必要だと思います。
大統領から率先して、他人の悪口を言ってまわるようでは、いつまでたっても、おそらくは世界中の誰からも信頼などされません。

そもそも「思いやりの心」というのは、「相手のことを悪く」思わないことを前提として生まれる心です。
逆にいえば、「相手のことを悪く言う」ことばかりの人や民族には、相手を思いやるという心がない、といことでもあります。
世界は馬鹿ではありません。
そういうことは、みんな口にしないだけで、誰もがちゃんとわかっていることです。

タラワ島(ギルバート諸島)に今も残る日本軍の砲台
タラワ島(ギルバート諸島)に今も残る日本軍の砲台


話が脱線しました。
タラワ、マキンに話を戻します。

日本は、昭和18(1943)年2月15日、帝国海軍は、横須賀第6特別陸戦隊などをタラワ・マキンに送り、横須賀第6特別陸戦隊改編を新編成し、地上防護施設や航空施設の増強を始めまました。

特にタラワ環礁のベティオ島では、地下陣地による全島の要塞化を目指しました。
ベティオ島は、東西3,500M、南北の最大幅500Mの小島です。
タラワ守備隊の4600名は、そこに飛行場を建設し、堅固な要塞を築きました。

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陸上には鉄レールを骨組みにしたコンクリート製の地下戦闘司令所をはじめ、椰子丸太で構築した半地下式トーチカを無数に造った。
これらのトーチカは、直径20cm以上の椰子丸太を2Mの幅で2段に重ね、その中間に岩や砂をつめこんだものである。
天蓋(屋根)にも2M以上の覆土を盛り上げた。
しかも各トーチカは地下壕で連絡されていた。
直撃弾ならともかく、至近弾ぐらいでは、いかなる巨弾が落下してもビクともしない堅牢さである。
海岸線にはやはり椰子丸太で組んだ防壁をほどこし、海中にも丸太と角材を二重にしばりつけた防壁をめぐらした。
(佐藤和正『玉砕の島』)
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主戦力の佐世保第7特別陸戦隊には、軽戦車なども持っていました。
同じ年の5月には、北太平洋のアリューシャン列島のアッツ島で、山崎保代大佐以下2000名が玉砕する戦いが行われています。

昭和18年7月に、ギルバートの防衛指揮官として柴崎恵次少将が着任しました。

米軍は、この島の攻略のため、入念な調査を行いました。
そして航空偵察の結果、タラワ日本軍の兵力を4500人と正確に割り出しました。
決め手は、航空写真に写っている便所の数だったそうです。

日本軍は、一個の便所を何人で使わせるかを決めていました。
だから便所の数で、兵力が特定できたのです。

この特定があまりにも正確だったので、米軍情報部の主任参謀シャウプ中佐は「第二次世界大戦中に撮影された最上の写真」だといったそうです。(ヘンリー・ショート著『タラワ』宇都宮直賢訳)

こういう話は、日本軍の戦いによく聞きます。
日本人は、米の飯を食べるから、食事時になると炊事の煙がたつ。
それで兵隊の隠れている場所が特定できた、などという話もあります。
これに対し、欧米はパン食です。フランスパンなどは、非常に硬いパンだけれど、これはナポレオンが遠征の際の兵の食事用に考案したとされる。硬く乾燥させることで荷物を軽くし、長期間の食用に耐えられるようにする。そして食事時に煙がたたない。
要するに、日本という国は、元来、戦い人の国ではない。そもそも平和を愛する民の国なのです。

わずか4600名、しかもそのうちの約2000名が、建設労働者の朝鮮人です。

実際の兵力は、

第3特別根拠地隊本隊 902名
佐世保第7特別陸戦隊 1669名

合計2571名です。

そこに、米軍は18,300人の上陸部隊と、最新鋭の空母6隻、戦闘機や爆撃機を400機以上、重巡洋艦(1万トンクラスの軍艦)4隻、軽巡洋艦(3000トンクラスの軍艦)、駆逐艦16隻、潜水艦10隻など、計200隻にのぼる艦隊を差し向けました。
投下兵力の合計は、3万5000人です。

昭和18(1943)年11月10日、レイモンド・スプルーアンス中将率いるマキン・タラワ侵攻部隊が、ハワイの真珠湾を出発しました。

11月19日、タラワとマキンへ、同時に事前攻撃が始まりました。
3日間、休むことなく猛烈な絨毯空爆と、艦砲射撃の雨が降りました。
トーチカの位置は、あらかじめ航空写真で、建築中の様子からずっと観察してあります。
米軍の艦砲射撃は、正確に日本軍のトーチカを攻撃しました。

この間、いつ上陸用舟艇が来るか、まったく予断ができない日本側は、一刻の休みなく、猛爆に耐えに耐え、トーチカの内部にいて崩れた場所の修繕などを行い続けました。

11月21日午前3時、タラワ環礁の外側にいた米軍の輸送船から上陸第1波の125両の上陸用舟艇が、タラワ環礁の西側の水路から侵入を開始しました。

それまで、ずっとまったく反撃のそぶりを見せずに地下に潜っていた日本軍の西海岸の砲台が、ここではじめて火ぶたをきりました。

日本軍の大砲の性能は、米軍のそれと比べてはるかに劣るものです。
しかし、日本側の砲撃は、正確です。
一撃必殺。
一発ごとに確実に上陸用舟艇を打ち砕きました。
米軍上陸部隊は大損害を被り、敗退しています。

トーチカからの発砲を見た米軍は、旗艦である戦艦「メリーランド」から主砲射撃で、日本軍のトーチカをねらい撃ちました。

固く閉ざしたトーチカは、戦艦の巨大主砲による砲撃にさえも、よく耐えました。
しかし、反撃のために口を開いたトーチカは、内部を表に露出しています。
そこをめがけて、メリーランドは巨大な対戦艦向けの主砲を撃ち込んだのです。
そして一発の砲弾が、日本軍の弾薬庫に命中しました。
そのとき、島を揺り動かすほどの爆発が起こったそうです。

米軍は、全艦をあげて、島の砲陣地や機銃陣地に対して、艦砲射撃を行いました。
さらに艦載機による空爆を加えました。

日本軍守備隊は、この爆撃によって電話線が修理不可能となり、命令伝達系統が完全に麻痺してしまいました。
もはや本部命令は前線に届きません。
普通は、こうなったら、その時点で、白旗を掲げて降参です。
けれど、日本側守備隊は、ただのひとつも根を上げたりしませんでした。
守備隊は、各攻撃部隊やトーチカごとに、独立した自由意思で戦いを続けたのです。

米軍は、礁湖内に駆逐艦2隻を進出させました。
そして今度は近距離から日本軍トーチカを砲撃しました。
これに対し、日本側は、海岸砲で応戦しました。
応戦といっても、たった二発を発射しただけです。
そのうちの一発は、正確に米駆逐艦に命中し、駆逐艦を大破させました。
もう一発も、的駆逐艦に見事に命中しました。
けれど、この命中弾は、不発弾となって、敵駆逐艦上に転がってしまいました。

米軍は、その駆逐艦の掩護を受けながら、再び上陸用舟艇を海岸に差し向けました。

3個大隊の兵力を6波に分け、3分間隔で海兵隊を発進させ、その後に戦車や野砲等の重装備を積んだ舟艇群が続いきました。
各大隊への攻撃割り当て幅は、わずか海岸線上約360メートルです。

島の波打ち際から450メートル先に、サンゴ礁のリーフがあります。
海底はそこから垂直にきりたっています。
リーフから海岸線までは、浅瀬です。

リーフに、米軍の上陸用舟艇の第一波が近づいたところで、日本守備隊は砲撃を開始しました。
砲弾は正確に、敵の上陸艇を打抜きました。
さらに近づこうとする敵兵には、機銃掃射が行われました。

米軍の上陸用舟艇は、海岸にたどり着く前に命中弾を受け、なんとか海岸に辿り着いた船も、損傷が激しく、それ以上は動けなくなりました。

第4波以降の重装備部隊も続々とリーフに辿り着きました。
けれど、リーフ上の水深は60~90cmしかありません。
重い荷物は大型の船で運べないから、手作業になります。

米軍重装備隊は装備を頭上にかかげ、海岸への徒渉上陸を試みました。
しかしサンゴ環礁は、浅瀬の向こうまで広がっています。
しかも、足場は弱く脆く、ところどころに深みがあります。
米兵は、重い装備のため海に沈み、溺れ死ぬ者が続出しました。
そこへ日本軍守備隊が海岸から機銃で攻撃を加えました。
米軍は、海岸にたどりつくことすらできませんでした。

わずかに海岸にたどり着いた者は、奥行き60メートル程度の砂浜の陸地側にある、高さ1.2mの崖の側に身を潜めました。
この時点で米軍は、上陸用兵約5000人の半数を失っていました。

午前6時35分、柴崎司令は「全軍決死敢闘士気旺盛ナリ」との戦況を打電しています。
この時点では、あきらかに日本側守備隊が優勢だったのです。

上陸部隊の苦境を見た攻撃隊指揮官のデビット・シャウプ大佐は連隊予備の前線参加を命じました。
海軍に、さらなる艦砲射撃と航空支援を要請したのです。
要請に基づき、米軍は再び艦砲射撃と空爆を開始しました。
同じ頃、ジュリアン・スミス師団長は師団の予備兵力である海兵1個連隊の投入を決定しました。

この二度目の艦砲射撃で、日本側の死傷者は急増しました。
本来、大将のいる戦闘指揮所は、軍の頭脳にあたる場所です。
ここは、もっとも頑健で安全度を高くして構築します。

柴崎恵次少将(隊長)は、多発する怪我人を見て、すかさず戦闘司令所までも負傷者の治療所に提供しました。
激しい戦いのさなかにあっても、ひとりでも多くの兵士たちの命を救いたい。
またたく間に、戦闘指揮所は傷ついた兵隊さんたちで一杯になってしまいました。

午後12時、柴崎少将は、参謀や司令部要員を連れて外海側の防空壕に移りました。
そこはただの防空壕です。
攻撃力はあるけれど、その分、安全度は低い。
それでも柴崎少将は、身の危険を顧みず、自らの指揮所を傷兵に与え、自分は、戦闘指揮所を出たのです。

けれど、柴崎少将が移動した直後、その防空壕に、直撃弾が命中しました。
柴崎少将以下、先任将校、軍参謀に至る前線の指揮官全員が、爆死されました。

すでに電話線は切断されています。
前線基地同士の互いの連携は、地下通路を走る伝令だけです。
それでも隊長以下、部隊指揮官全員死亡のニュースは、すぐに全隊員に知れ渡りまました。

本来なら、軍の頭脳を失った兵隊は、ここで各トーチカごとに白旗を掲げれて降参すれば良い。そうすれば、米軍の捕虜になり、命は助かるかもしれません。
けれど、日本軍の兵士たちは、誰一人そうしませんでした。

なぜでしょう。
簡単な答えです。
タラワの前線基地を失うことは、そのまま米軍がインドネシアの本体への攻略を許すことになる。
それは、敵のが日本本土に迫る機会を与えることになる。
だから彼らはどこまでも戦うことを選択しました。
誰一人、白旗は掲げませんでした。

日本兵は、予め定められた部署によって各隊は迎撃を続行し終日敵を圧迫した。
日が暮れました。

米軍の上陸を果たした海兵隊のメンバーたちは砂浜に眠りこけていました。
無茶苦茶に陸揚げされた物資は、浜辺に山をなしていました。
この有様を見た海兵隊の指揮官達は日本軍による夜襲を恐れました。
けれど、何故か日本軍は何もしませんでした。
これは、上陸作戦に先立つ砲爆撃によって日本軍の電話通信網が切断されたためと判断されたためといわれています。
けれど同時に、激闘の末、眠りについた米兵たちをすぐに攻撃することははばかられたし、日本側の兵隊さんたちにも休息が必要だったためでもあろうかと言われています。

翌11月22日午前6時、さらに新手の米海兵隊が上陸を開始しました。
前日上陸していた海兵たちは、護岸堤防の影に隠れ、味方の上陸部隊がいまだ衰えない日本軍の砲撃に晒されるのを見ていました。

なかでも、米軍にとてつもない被害を与えたのが、島から少し離れたところに座礁していた輸送船「斉田丸」にもぐりこんだ日本軍兵士でした。

夜の間に、座礁した「斉田丸」に乗り込み、船の機関銃を上陸兵たちに乱射していたのです。
「斉田丸」からの機銃掃射は、絶大な効果をあげました。
上陸しようとする米海兵は、大損害を被り、大混乱に陥ちいりました。

これを脅威と考えた米軍は、「斉田丸」を沈黙させようとして、F6F戦闘機4機で「斉田丸」に機銃掃射を加えました。
しかし「斉田丸」は沈黙しません。

米軍は、続いて小型爆弾を抱えたF6F戦闘機を3機差し向けました。
「斉田丸」に対し1番機、2番機は至近弾を与え、3番機は直撃弾を与えました。
それでも「斉田丸」の機銃は沈黙しません。
空爆など、まるでなかったかのごとく、機銃を打ち続けていました。

米軍は、今度は12機のF6F戦闘機で「斉田丸」に次々と爆弾を投下しました。
ところが「斉田丸」に直撃弾が当たらない。
ようやく1発だけ命中したけれど、「斉田丸」の機銃は無傷です。

やむなく米軍は、工兵部隊によって決死隊を編成して「斉田丸」に近づき、船に高性能爆薬を仕掛けました。
高性能爆薬により「斉田丸」は大爆発を起こしました。
「斉田丸」の日本軍の機銃は沈黙しました。

すでに命令系統がなくなった状態で、単身で斉田丸を確保し、死ぬとわかって機銃掃射を続けた日本人。
「斉田丸」が制圧されたのが午後3時ですが、「斉田丸」は、まる半日以上、米軍の上陸を阻んみました。
たったひとりで、約6000人の上陸を阻んだのです。
それはいったい、誰だったのでしょう。
いまでは、その方のお名前すらわかりません。
けれど、その日本人の勇敢な行動は、まさに戦闘中の伝説にさえなっています。

22日夕方に、米軍は戦車を先頭に押し立てた米上陸部隊の攻勢を開始しました。
米海兵は、海岸に強力な拠点を築き、大砲や戦車が続々と陸揚げします。
その日の夜、その米軍拠点に、約300名の日本兵が突撃しました。
けれどこの攻撃は、米軍の重火器の前に、全員玉砕されています。

この時点で、日本軍の残存兵力は、約500名でした。
彼らは、島の東端に追いつめられました。

米兵たちは、猛烈な援護射撃を受けながら、火炎放射器と爆薬を用いた「溶接バーナーとコルクせんぬき」戦法で、日本軍陣地をひとつひとつ潰していきました。

火炎放射機というのは、まず壕内の酸素を奪います。
そして窒息して苦しむ兵士に生きながら火をつけ、焼き殺します。
これは、あまりにも残酷な兵器です。

翌11月23日、日本軍東地区守備隊の生き残り約350名は、飛行場の東端陣地に集結し、米軍に対し、最後の抵抗を行いました。
すでに武器弾薬の乏しくなっていた日本兵は、米兵をギリギリまで引きつけ、拳銃、手榴弾、銃剣で戦いました。
接近戦による白兵戦なら絶対に負けない。これは日本兵の自信でもありました。

ちなみに、大柄な白人に対し、小柄な日本人が白兵戦で戦って絶対の自信を持っていたことには理由があります。
戦前の日本人将兵は、みんな柔道や剣道をやっています。
剣道も柔道も、いまのスポーツ柔道、スポーツ剣道とはだいぶ違います。
あくまでも武道としての柔道、剣道です。

剣道の「体さばき」は、猛烈なスピードで変幻自在に繰り出される刀の切っ先を毛筋一本で、見切り、かわします。
よく時代劇などで、刀と刀を、チャリーンと合わせるシーンが出るけれど、あれはウソです。
最近のテレビや日本映画では、剣道を知らない在日朝鮮人が監督をやるから、ああいうウソがまかり通ってしまう。
日本刀での戦いでは、刀と刀は、絶対に合わせません。
あんなことをやったら、刀は刃こぼれして折れてしまうからです。

昔、港などで日本人と外国人が喧嘩になると、日本人はやたらと強かったそうです。
相手はボクシングのパンチを繰り出すのだけれど、これが日本人相手にはまるで当たらない。
次々とかわされてしまう。
それもそのはずです。
どんなにボクシングのパンチが早くても、木刀の切っ先のスピードには敵わない。

刀さえもかわす「体さばき」でパンチをかわし、近接したら柔道の技で投げ飛ばす。
小柄な日本人のあまりの強さに、かつて世界中の港の荒くれ男たちは、日本人を恐れました。

最近は、キックボクシングや空手が流行っているけれど、剣道の達人に敵う武道家はいなかったという話もあります。

11月23日の夜の日本軍の残存守備隊約350名の最後の突撃は、3班に分かれて行われました。
このときの模様を、日本兵の生き残りの一人、音里一等水兵は次のように書き残しています。

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この日、夜になって最後の突撃を敢行することになりました。
もう手元には手榴弾も残っていません。
重傷者に渡す自決用もないんです。

動けない者は、銃口を口にくわえ、足の親指で引き鉄を引いて死んでゆきました。
それすらできない者がいます。
足を砕かれている者ですよ。
彼らは互いににじり寄ると、手に帯剣を握りしめ、気合もろとも心臓を刺し合うのです。

心臓を突き刺したら、人間はすぐに死ぬと思っていたのですが、なかなか死なないのには驚きました。
見るに見かねて、戦友が介錯しましたけど、自決するときは心臓を選んではダメですね。
(『佐藤和正『玉砕の島』)
==========

11月25日、戦闘開始から5日目、西地区守備隊第一波突撃隊50名も同様に玉砕しました。
このとき、第二派突撃隊は、第一波突入隊の攻撃が終わるまで、防空壕に待機していました。
米軍は、その壕内に火焔放射器による攻撃をおこないました。
その防空壕でただひとり生き残り、戦後生還した人がいます。
大貫唯男氏(当時上等兵曹)です。彼は次のように書いています。

==========
私のからだには、黒焦げの死体が重くのしかかり、あたり一面にちぎれた手足が飛び散って、これまでの戦闘で見馴れたはずの私でさえも、思わず眼を掩いたくなるような惨状が現出していた。
さっきまで生死を共にしようと誓い合っていた15名の戦友はすでになく、幸運にも私だけが戦友の死体の陰にはかない命を拾ったのだ。
いくらか顔に火傷はしていたが、わたしには五体完全な自分の姿がどうしても信じられず、しばらく呆然としていた。
(「タラワ島玉砕す」『実録太平洋戦争 第三巻 アッツ玉砕からインパール作戦まで』)
==========

大貫氏は、彼と同様に生き残った7名とともにしばらく隠れるようにして3週間ほど島をさまよわれました。

==========
捕まれば殺されるものと思っていた私たちは、どうせ捕まって殺されるなら、いさぎよく自分の手で命を絶とうと、7人で一緒に首を吊ってみた。

しかし、貧弱な綱はプツリと切れて、私たちは見事に死にそこなってしまった。
いまは死のうにもピストル一つ、刃物一つないのだった。
==========

7名は、その後意識不明のまま米軍に捕まり、捕虜となりました。

結局、タラワで捕虜になった日本兵は17名です。
これとは別に、基地建設要員として赴任していた朝鮮人軍属129人も捕らえられました。
戦死4713名です。

タラワの玉砕は、アッツ島の玉砕とちがって守備隊からの連絡はありませんでした。
米軍上陸の報告を告げたあと、守備隊の無電は途切れてしまったからです。

タラワの戦いの間、アメリカ軍の来襲を知った日本軍は、救援のために以下のような作戦をおこないました。
けれど残念なことに、十分な成果を上げることが出来ませんでした。

まず聯合艦隊は、上陸のあった21日には、ポンペイ島にいた陸軍甲支隊の派遣を決め、軽巡3隻、駆逐艦2隻、輸送船2隻からなる輸送部隊と、重巡4隻、駆逐艦6隻からなる邀撃部隊を編成し出発させています。
しかし、26日、マーシャル諸島のクェゼリンまで進出したところで、タラワからの通信が22日の午前中から途絶し続けたため、25日には、玉砕と判断。支隊の派遣を中止しています。

さらに聯合艦隊は潜水艦9隻をギルバート海域に進出させ、米海軍機動部隊の攻撃及び索敵を行ない、24日には、伊175潜がマキン沖で護衛空母リスカム・ベイの撃沈に成功しています。しかし、海を覆うばかりの圧倒的敵艦船の前に、日本軍は潜水艦6隻を失っていました。

マーシャル諸島のルオットからは、海軍航空隊による決死の反撃も行いました。
この部隊は、ギルバート沖で米航空部隊と遭遇しました。
ギルバート諸島沖航空戦は、21日には、米軍の軽空母インディペンデンスを大破させています。

22日にはタラワ応援のために陸攻9機、戦闘機39機を発進させているけれど、これは天候不良で途中で引き返さざるを得ませんでした。
さらに、陸攻の魚雷を爆弾に積み替え、米軍タラワ上陸部隊への昼間攻撃をすべく発進したけれど、これも天候不良のため途中で引き返さざるを得ませんでした。

22日の夜にルオットを発進した陸攻4機は深夜、タラワ上空に到着し、米軍の上陸地点を二航過して爆弾8発を投下、米軍に戦死者1名戦傷者8名を出したけれど、誤って日本軍陣地にも着弾させている。日本軍にも被害が出たと思われるが詳細は不明です。

おなじく、11月21日から23日にかけて、マキン守備隊693名も、戦死589名を出して、玉砕しました。
104名が捕虜になりましたが、このうち日本人は意識不明で拿捕された3名のみでした。
のこりの101人は、土木作業要員であった朝鮮人軍属です。
彼らは、もともと約200名いたのだけれど、日本の将兵は、彼らを開戦と同時に、安全な弾薬庫に隔離し、戦いに参加させなかったため、彼らは生き残ったのです。

しかし米軍はその弾薬庫に手榴弾を投げこみ、自動小銃を乱射しました。
そのため朝鮮人の約半数が死亡し、生き残った101名は、戦闘早々に米軍の捕虜となっています。

わずか693名のマキン守備隊の攻撃のために、米軍が投下した兵力は6470名です。
これに艦載機、艦砲射撃が加わっていました。
絶対的兵力差は、100倍以上であったといわれています。
私たちの父祖は、そんな巨大な戦力差のある強敵にさえ、堂々と立ち向かっていたのです。

このタラワ・マキンの戦いについて、日本語で書かれたいろいろ本やサイトを読むと、日本軍=悪、米軍=善意の兵隊のような表現をしているものが多いことに驚かされます。
しかし、そういう人たちに、ひとこと申し上げたいことがあります。

それは、この両島での壮絶な戦いを通じて、「島民の被害者がひとりもいない」ということです。

そして、タラワ・マキンの戦いのあと、米国は、キリバス諸島を領有し、戦後も領有をし続けました。
そしてこの地で、英米両国は、昭和31(1956)年~昭和47(1962)年までの間、米英は、ここで核実験を繰り返し行いました。

怒った住民の決起で、昭和53(1978)年にエリス諸島が「ツバル」として、昭和54(1979)年に「キリバス」が独立しました。
その独立には、条件があります。
それは、「以後、核実験による被害弁償を請求しないこと」というものです。

タラワで亡くなられた守備隊兵士4,713柱、マキン589柱。

私たちは、同じ日本人として、彼らに心から感謝の意を表するとともに、心からのご冥福をお祈り申し上げたいと思います。

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コメント
merci!
こういう南方の島で戦われた皆さんがあったんですね
全く知りませんでした。ねずさんのブログでは本当に
たくさんの事を勉強させていただいています。
感激と感涙にむせぶこともしばしば、忘れていた
人間らしい心が取り戻される気がします。

今回の記事を読んでも、無知ということは、
何と恩知らずでだったことかと、戦争で勇敢に
戦い、亡くなられた兵隊さんたちに大変
申し訳ないことだったと後悔しきりです。
これからは、せめて英霊たちに恥ずかしくない
ような日本人になろうと努めようと思います。
ねずさん、素晴らしいブログに御礼ですね。
2013/11/22(金) 19:33 | URL | 仏巴里日より #-[ 編集]
手をお貸しください
いつもねずさんのブログ楽しく読ませてもらっています。

日本統治時代に絆を築き、国連で常に一票をいれてくれる超親日国であるパラオが、台風30号の影響で大きな被害を被っているらしいのです。

パラオの大統領の必死の求めが掲載されています。
http://relit.biz/kn21961/2611 オーストラリアの英語のサイト

パラオ大使館で、台風30号被害の義援金を受け付けていのそうです。
http://relit.biz/kn21961/4611
ねずさんのちからをお貸しください。
2013/11/22(金) 08:32 | URL | Osumihayato #-[ 編集]
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2013/11/22(金) 07:20 | | #[ 編集]
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2013/11/22(金) 07:13 | | #[ 編集]
No title
神武以前の日本の天皇は、末子相続だったことを知って、モンゴル族を思い出しました。モンゴル族も元来は末子相続で、理由は父と長男は早婚のため、年齢がそれ程離れていなかったためだと思います。

また、絶対国防圏を見ていたら、中国の第二次列島線とそれ程差のないように思います。もちろん、日本の場合には日本列島を守るための線引きですし、中国の場合、日本の領土を斟酌する必要のないことは当然ですけれど・・・・・。

大陸の中国人にせよ、韓国人にせよ、弱い敵に当たるときは、極めて残虐性のある強い兵になりますが、強い敵に当たりますと逃げます。だから、督戦部隊が必要になります。
南京城攻防戦が良い例で国民党の場合、日本軍が進撃しますと、日本軍と戦うよりも自軍の督戦部隊と戦うことを選びました。確か、督戦部隊が逃げないように、これを督戦する部隊もあったような記憶があります。

日本の兵士が強かった理由の一つには、正義の戦争だと信じていたからだと思います。正しい戦争だから、己の命を投げ出す価値があり、逃げなかったのだと思います。もちろん、特攻隊ではないのですから生存する道は、捕虜として残っていたのですが、それを選ばなかったのは民族のDNAとしか思えません。ただし、中国において捕虜になりますと、拷問の末に殺されますから、これが言葉を変えて、生きて虜囚の恥をさらすべからずになったと思います。(太平洋側でも似たようなことでしょうけれど、生皮を剥ぐことはなかったと思います。)
2013/11/21(木) 22:56 | URL | ポッポ #-[ 編集]
私の叔父もタラワで散花した一人なので、身に染みて読まさせて頂きました。叔父は、長男でありながら御国に奉公したいと、佐世保海兵団に志願入隊して海軍陸戦隊員を拝命しました。十八年に両親宛に送られてきた最後の手紙には、南方方面に出撃しますと書かれていたらしいです。妹である私の母の話しでは、タラワ玉砕後に、海軍省から自宅へ、南方方面にて戦死との公報と遺品の入った函が送られてきて、中を開いてみたら本人の遺書と軍服姿の写真、その他数点が入っていたとの事でした。本日の記事を読みながら、数年前に東京へ出かけた時に、叔父を偲び靖国神社へ参拝に行った記憶を思い出しました。
2013/11/21(木) 19:27 | URL | ひげ親父 #-[ 編集]
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2013/11/21(木) 18:46 | | #[ 編集]
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2013/11/21(木) 17:12 | | #[ 編集]
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2013/11/21(木) 17:11 | | #[ 編集]
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2013/11/21(木) 16:32 | | #[ 編集]
あくまで私見
枯野(カノorカレノ)とカヌーは元々同じだと思ってます。
記紀編纂の頃は勿論、仁徳の頃にはもう既に名前だけ残っててその語源も意味も分からなくなってたでしょうが、縄文以前から続く太平洋一帯に共通した文化圏の名残だったんじゃないかと。 
よく「かつて太平洋の真ん中に大陸でもあったんじゃねぇの?」ってな事を言い出す電波学者が居ますが、その大陸とやらが沈んだのち、チリチリバラバラに散じた種族の一系統が縄文人だったのかも・・(@゜▽゜@) 
自分としては縄文人=オーストラリアの有袋類みたいなもんで、かつてユーラシア大陸から切り離されたせいで残ってしまった古いタイプのモンゴロイド、人種の化石みたいなもんだと思ってますが、いずれせよ元をたどれば環太平洋で共通した何がしかがあったと思ってます。
「エクアドルで縄文土器が!」みたいな話もあるので、縄文人もハワイアンも古代南米人もその昔は同根の種族だったのかもしれませんな♪(そういや小錦が「ハワイ語と和語は響きが似てる」ってな事言ってたっけ)
残念ながら縄文文化衰退と共にカヌー文化も失われ、カヌー(カノ)という言葉は伝えられなくなったと思いきや、八丈島にまだ残ってたとは!!(°0°)驚
縄文以来のカヌー文化残ってるのなんて沖縄だけ(←但し沖縄の場合カルノじゃなくてサバニだが)かと思ってたξ(*с*)
・・いやはやまだまだ謎は尽きないですな(´∀`)♪
2013/11/21(木) 13:37 | URL | 魔除けに牛島辰熊 #-[ 編集]
No title
まさに「鬼畜米英!」無念に散花された偉大なる先達の皆様に感謝し、ご冥福をお祈りするとともに、我が国の売国奴どもを一掃することを誓います。
2013/11/21(木) 10:55 | URL | 団塊の世代の後輩 #-[ 編集]
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タラワ、マキンの戦い

ねずさんの ひとりごと タラワ、マキンの戦い
ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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