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万世橋と軍神広瀬武夫中佐

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■書 名:ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人!
■ISBN-13: 978-4434184727

■著 者:小名木善行、出版社:彩雲出版

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震災前の中央線万世橋駅
万世橋駅


いま、東京駅からJR中央線に乗ると、停車駅は、東京→神田→お茶ノ水→四谷→新宿です。
ところが実は昭和の初めごろまで、神田駅とお茶ノ水駅との間には、「国鉄・万世橋駅」という駅がありました。

もともと江戸時代には、神田界隈は武家屋敷街です。
それが明治にはいり、あたりに洋服生地を扱う問屋街が形成されました。

昔は服地は、各地の小売店さんの店子さんたちや、行商の小売りの商人さんたちが、問屋街に買付にきました。
買い付けて仕入れた着物は、昔は宅配のトラックなんてありませんから、店子さんたちが背負子(しょいこ)でおぶったのです。

その背負子(しょいこ)のことを、連雀(れんじゃく)といいます。
木でできた箱などに、肩に当たる部分を広く編んで作った縄や布でショルダーベルトと肩パットにして、背中におぶって運んだわけです。

背負子
(手前の人の背負っているのが連雀です)


いまでも、古い城下町などには、連雀町とか連尺町とかいう町名が残っていたりしますが、そこにはかつて、問屋街があり、そこには背負子(しょいこ)を背負った行商人さんたちなどが、軒を連ねる問屋さんに次々と飛び込んで、商品を仕入れ、それを背負子に入れて背負い、また次のお店へと移っていったりしていたわけです。

その様子が、まるでスズメが、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら、地上に落ちている餌をついばむ姿に似ているということで、そのあたり一帯は、連雀町と呼ばれました。
連雀(れんじゃく)は、連尺(れんじゃく)とも書きますが、そういう往時の姿が、まるで目に浮かぶような楽しい町名が、昨今では次々に「何々市中央一丁目」のように、無機質な名前に変えられています。
とても残念なことと思います。


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明治の維新が起こり、江戸は、東京と名前が変わりました。
江戸時代に武家屋敷街であった万世橋界隈は、明治にはいってから、武家がなくなり、廃藩置県が行われて藩がなくなり、江戸にあった諸藩の藩邸も、参勤交代がなくなって不要になり、武家屋敷は取り壊されて、そこに新たに商店街が進出してきました。
そして、万世橋界隈は、衣類の問屋街に生まれ変わり、連雀町と呼ばれる町に生まれ変わったわけです。

人が集まるところには、自然とサービス業も進出してきます。
そこには飲食店もたくさんできました。
そして落語や講談や浪曲などが行われる寄席もできました。
その寄席は、後年には映像を映し出して、弁士が音声の代わりをつとめる無声映画館に変化しました。
そのあたりは今、「神田食味街」となっています。

さて、明治も中頃になってきますと、立川~新宿間に「甲武鉄道」という私鉄が開業しました。
その「甲武鉄道」が利便性を求めて新宿から次第に伸び、明治45(1912)年には、始発駅が神田界隈まで伸びてきました。
こうして開業したのが、万世橋駅です。

ところがこの万世橋駅、大正12(1923)年の関東大震災で、駅舎が消失してしまいました。
その後簡素な駅舎が再建されたのですが、神田駅や秋葉原駅が近くに出来たことで、乗降客が減少し、昭和18(1943)年には、中央線が神田駅、そして東京駅に接続になることで、万世橋駅は廃止となり、駅舎も取り壊されました。

取り壊した万是橋駅の資材は、戦時中の物資不足もあって、京浜東北線の新子安駅に流用されたのですが、この万世橋駅の駅舎の基礎は、レンガ作りの立派な建物で、その駅の駅舎は、実はいまでも万世橋に残っています。
昨年9月には、この駅が、JR東日本の商業施設「マーチエキュート神田万世橋」として、旧駅舎の階段などをそのままに、地上2階の商業施設としてオープンしています。

私はまだ行ったことはないのですが、かつての駅のホームが展望カフェデッキになったとやらで、窓越しに行きかう中央線の上り・下りの電車が間近に見られるのだとか。
そのうち機会があったら、是非、そこでお茶でもしてみたいと思います。

さて、実は、この万世橋駅、往年の駅前広場には、戦前には軍神・広瀬武夫中佐と、杉野孫七曹長の立派な銅像(明治43(1910)年建立)がおかれていました。

万世橋駅前の広瀬中佐と杉野兵曹長の銅像
(実に立派な銅像が建っていたことがわかります)
広瀬中佐の銅像


広瀬中佐は、軍神と呼ばれた日露戦争の英雄です。
どこの国でも、軍の英雄は、国をあげて讃えていますが、日本では、戦後にGHQの指示によって、全部撤去されました。
かつての軍人の銅像で残ったのは、実は、大山巌陸軍大将だけです。
なぜ大山巌元帥の銅像が残ったかというと、自身も陸軍士官である連合軍最高司令官のマッカーサーが、個人的に大山巌元帥をたいへん尊敬していたからなのだそうです。
残していただいたことは、たいへんありがたいことですが、他の銅像が全部取り壊しや撤去になったことは、やはりたいへん残念なことに思います。

万世橋駅が商業施設として復活したのなら、せっかくですから広瀬中佐と杉野曹長の銅像も、いつの日か、かならず復活していただきたいものだと思います。

軍神・広瀬中佐は、日露戦争の旅順港閉塞作戦における閉塞船福井丸の艦長だった方です。
彼は、撤退時に行方不明となった部下杉野孫七上等兵曹(戦死後兵曹長に昇進)を助けようとして、ひとり船内を捜索し、頭部にロシア軍砲弾の直撃を受けて戦死されました。
そして明治以降、初の「軍神」となられました。

広瀬武夫中佐
広瀬武夫中佐


広瀬武夫(廣瀬武夫)中佐は、慶応4(1868)年生まれの岡藩(大分県竹田市)藩の出身です。
岡藩というのは、織田信長と豊臣秀吉に仕えた中川清秀の家系です。
関ヶ原で徳川方につき、以降、一度の転封もなく、廃藩置県まで、この地で存続しました。

広瀬武夫は、幼少時に母親が亡くなったため、お婆ちゃんに育てられたそうです。
明治にはいり、西南戦争で家が焼失したため、一家は飛騨の高山へ引っ越しました。

小学校を卒業した広瀬中佐は、地元で小学校の教師などをしていたのですが、猛勉強して、明治18(1885)年には、17歳で海軍兵学校に入学しています。

広瀬中佐の海軍兵学校入学時の成績は19番だったそうです。
卒業時の成績は80人中64番ということですから、決して成績の良い方ではなかったようです。
そのかわり彼は、柔道を講道館に学び、有段者紅白戦では、五人をいっきに勝ちぬくという実力を身につけています。

海軍兵学校時代の広瀬中佐に逸話があります。
彼は大運動会のマラソンのとき、左足が骨膜炎で、左足切断を宣告されるまで至りながら、見事完走しているのです。
まさにド根性です。

卒業して海軍に入隊した広瀬中佐は、見習い士官になりました。
その訓練の途中、中佐を含む50名程度の海軍見習い士官が、駿河(静岡県)の清水港に上陸しました。
そこで彼らは、侠客・清水次郎長親分を訪ねています。

やってきた一同をジロリと見渡した次郎長親分は、
「見たところ、男らしい男は一匹もいねぇなあ」と、一同をけしかけました。
このあたりが、親分の意地の悪いところです。
そうやってけしかけて、男を探そうとする。

そうと知った広瀬は、前に出て、
「おうおう、そう言うなら、一つ手並みを見せてやる。びっくりするな!」と、いきなりゲンコツで、自分の鳩尾(みぞおち)を5~60発、立て続けに殴り出したのです。

これには次郎長も感心し「なるほど、お前さんは男らしい」と、互いに胸襟を開いて談話をしたという逸話が残されています。

広瀬中佐は、明治27(1894)年、26歳で日清戦争に従軍しています。
武功あって、翌年には大尉に昇進する。

このとき、清国から捕獲した軍艦「鎮遠」の移送を担当しました。
広瀬中佐は、艦内清掃で「清掃というものは一番汚いところからやるものだ」と言って、先頭切って便所掃除からはじめたそうです。

なにせ清国の船の便所です。
相当汚かったであろうことは容易に想像できます。
普通なら、ちょっと近寄りたくない場所です。
しかも当時は、いまのようなトイレ用洗剤なんて便利なものはありません。
水と雑巾でこびり着いた汚れを落とします。

それでも落ちない汚れは、普通は竹べらなどを使います。
ところがこのとき、艦内に竹べらがありませんでした。
広瀬中佐は、ためらう部下たちを尻目に、汚れを爪で擦り落としはじめました。
そうやって彼は、部下に模範を示したのです。

トイレというところは、汚れる場所だからこそ、率先してきれいにする。
栴檀は双葉より芳しといいますが、広瀬中佐は、若くして模範といえる人であったのだと思います。

明治30(1897)年、広瀬中佐は、ロシアに駐在武官として赴任しました。
明治33(1900)年には、少佐に昇進します。

明治24(1901)年1月のことです。
武官としてロシアのサンクト・ペテルブルクに滞在していた広瀬中佐は、かねてより親しくしていたロシアの海軍少将ウラジミール・コヴァレフスキー氏の晩さん会に招待されました。

そこには大男のロシアの将校たちが大勢集まっていました。
そんな中で広瀬中佐は、少将から「日本の武道の達人」と紹介されました。
「ならやってみせてみろ」というのが、西洋式です。
腕自慢のロシア将校が広瀬に挑もうとしました。

広瀬中佐は平然と「日本の柔術というものは、そんなものではありません。私がこれから柔術の説明をいたしますから、まず椅子におかけ下さい」と、大男の右手をとりました。
当時のロシア人の平均身長は、190cmくらいです。
広瀬中佐は、日本人としては大柄な方で、170cmくらいです。

広瀬中佐は、大男が腰を下ろそうとした瞬間、「エイッ!」とばかり、大男を投げ飛ばしました。
それは一本背負いだったのか、はたまた大外刈りだったのか。
詳細は伝わっていませんが、見事な投げ技だったようです。
床に腰をぶつけた大男は、腰をさすりながら、おどけて「日本の柔術コワイコワイ」と言ったそうです。
これに部屋中が湧きました。

相手の虚をつくその機転、自分よりはるかに体の大きな男を投げつける武勇、そして相手を投げ飛ばしながらも、相手が頭部に怪我をしないよう、きちんと養生するやさしさ。
一同は、「ヒロセ君に乾杯!」と、歓声をあげました。

この事件がきっかとなって、広瀬中佐はぺテスブルグで、ロシア軍の参謀本部の将校たち相手に柔道を教えはじめました。
世の中というのはおもしろいもので、このことがきっかけとなって、ロシア内に柔道が普及しました。
そして日本とロシアとの国交がなくなったあとも柔道は残り、後にロシアがソ連となったあと、これが軍隊用格闘技「コンバット・サンボ」という名前の格闘技に発展します。
サンボは、いまではロシア発のオリンピック種目です。
そして勝負は「Ippon(一本)」で、決まります。

ちなみにロシアの現大統領のプーチン氏は、大の柔道好きとして知られますが、そのきっかけも、おおもとをたどれば、広瀬中佐に行き当たるわけです。

この広瀬中佐が、ロシア将校を投げ飛ばしたとき、その部屋にいたコヴァレフスキー少将の次女のアリアズナは、一部始終を目撃していました。

アリアズナという娘は、肌は抜けるように白く、目はキラキラかがやき褐色、髪は亜麻色で、とても頭が良く、優雅で気品にあふれ、しかも子供のように無邪気で快活で明るい娘であったそうです。
いまでもそうですが、ロシアの女性たちというのは、若い頃はまるで妖精のように美しいです。
まして、当時のロシア貴族の娘さんとなれば、その美しさは計り知れない。

投げ飛ばし事件のあった翌日、アリアズナは、広瀬中佐のアパートを訪ねたそうです。
もちろん貴族であり、ロシア高官の娘さんですから、たくさんの従者をしたがえての訪問です。

このとき広瀬中佐は、軍艦の断面図を開いて、熱心にメモをとっていたそうです。
そしてその図面を、アリアズナに見せながら、
「これは戦艦アサヒです」と、ロシア語で解説したそうです。
「アサヒとは、朝のぼる時の太陽のことです。朝の太陽のように清らかで、若々しく、力づよいという心をこめているのです。
私は去年4月にイギリスで完成したばかりのこの船に乗りました。おそらく世界で一番新式な一番大きな軍艦でしょう。私の国はこういう艦を6隻も持っているのですよ。」

若い広瀬中佐の嬉しそうに目を輝かせる様子が、まるで目に浮かぶようです。

アサヒ、ヤシマ、シキシマ、ハツセ、フジ、ミカサ・・・
中佐は、それぞれの艦の名前を言い、その意味をアリアズナに説明しました。

「美しい名前です。日本は美しい国だから、日本人はみな美しいものを愛しているんです!」
「どんなに堅牢な新式の大軍艦にも、われわれは日本人は、連想をかぎりなく刺激する詩のように美しいひびきをもった名前をあたえます。アサギリ、ユウギリ、ハルサメ、ムラサメ、シノノメ・・・ほらね。」
「力は強い。しかし心はやさしい。姿はうつくしい。これが我々日本人の理想像なんです!」

強くてハンサムで、エキゾチックでまじめで立派な武官で、しかも広瀬中佐は独身です。
アリアズナは中佐にすっかり恋心を抱いてしまいました。

すこし付け足しますと、使命感を持った男というのは、同性の目からみても、実にかっこいいものです。
顔立ちや人相の問題ではなく、全身から漂う真っ直ぐなオーラのようなもの自体が輝きます。
とりわけ広瀬中佐の語る言葉や行為は、すべて「祖国を愛する」という愛情から発しています。
それは信念でもあります。
そして信念を持つ男は、輝きます。

アリアズナには、セルゲイという海軍少尉の兄がいたそうです。
兄の縁故で、彼女のまわりには、貴族出身のロシア海軍の若い士官たちがいつも群がっていたそうです。
なかでもドミートリ・ミハイロフ大尉ははっきりとアリアズナに好意を示していて、彼女の心を捉えようとしていました。

ところがそのアリアズナは、貴族の御令嬢です。
厳重なしつけを受け、物腰は優雅で美しく、しかもエカテリーナ女帝がつくった貴族女学校を優秀な成績で卒業した才媛です。
そんなプライドの高いアリアズナにとって、ミハイロフらは、どうしても物足りなさを感じたのだそうです。
そこに広瀬という男らしさくて、ロマンあふれる男が舞い込んだのです。

彼女は広瀬に強い好意を寄せました。
ところが、実は、ロシア貴族が外国人、それも東洋人に恋するなどということは、本来はありえないことでもあったのです。

というのは、帝政ロシアというのは、もともとはノルウェーのバイキング族による王朝です。
ロシアというのは、もともとはスラブ族の住む土地でした。
ところがある日、そこにバイキングたちがやってきて、勝手に国をこしらえました。
要するに外来征服王朝で、それが帝政ロシアのロマノフ王朝です。

ですからロシアという国名にしても、語源となっている「Russ」は、「漕ぐ人」という意味です。
ロシアは内陸国なのに、どうして「漕ぐ人」なのかといえば、もともとはバイキング族だからです。
そのロシア王朝の王族や貴族たちは、ですから地域にいるスラブ族に対して、ものすごく選民意識が強かった人たちです。
言葉も、スラブ語ではありません。
公用語は、フランス語です。
いまのロシア語は、そのロシアなまりのフランス語に、スラブ語が混ざってできたものです。

そんな具合ですから、結婚するにしても、スラブ系の人たちとは、決して血を混ぜない。
お相手は、わざわざ同じくバイキングのフランスやノルウエーから連れて来たくらいだったのです。

それだけの選民意識の強い国柄にありながら、アリアズナが広瀬中佐に恋をしたということは、当時の日本人が、人種の垣根や、西洋貴族の選民意識を超えるだけの魅力を持った、輝く人たちだったことを意味しています。

そんなある日広瀬は、ミハイロフ大尉から、アリアズナが広瀬に好意を寄せていると知らされます。
広瀬は、びっくりする。
でも、広瀬も、次第に彼女に心を寄せていきます。
ふたりは度々逢って、いろいろな話をしました。
話だけです。
それだけで、二人の心はときめきましたが、その広瀬中佐は、あくまでアリアズナを、まるで妹をいたわるような気持ちで接していたそうです。指一本触れない。

このことは、性に対してきわめて厳格だった日本の陸海軍の伝統に基づきます。
性の処理は、遊郭などの専用施設で済ませればよく、そこが内地であれ外地であれ、現地の女性に対しては、絶対に関係を持たない。
関係すれば、たとえそれが結婚を前提としたお付き合いであったとしても、強姦罪に問われ軍法会議に処せられて本国に送還になり、故郷に帰っても、強姦魔と世間から一生嘲(あざけ)られることになる。
それが、帝国軍人というものであるというのが、明治の初めから変わらぬ日本の軍人精神です。
けれど、惹かれる気持ちは、日々つのる。

そんな広瀬中佐に、明治35(1902)年、帰国命令が出ます。
祖国日本が、ロシアを仮想敵国とみなす事態となったのです。

いよいよサンクト・ペテルブルグを出発する日、アリアズナは広瀬に小型の銀側時計を渡しました。
時計には、「A」と文字が彫ってありました。
アリアズナのA、Amor(愛)の「A」です。
時計の鎖には彼女の写真のはいったロケットもついていました。

二人は、からなず再び逢おうと誓い合いました。
しかし、その日が二人には永遠の別れとなりました。

実は、この広瀬中佐とアリアズナの恋物語は、中佐の死後も長く世に伏せられていました。
中佐の死後20年ほどたった頃、広瀬中佐と同時期にペテルブルグに駐在した加藤寛治大尉が、広瀬とアリアズナの交際を知り尽くしていて、大正13(1924)年に加藤が第二艦隊司令長官として旗艦「金剛」に座乗して大阪湾から伊勢湾にむかって航海中、同乗した大阪朝日新聞の記者大江素天に、「もう話してもいいころだろうから」といって、克明に語ったことで明らかになったものです。
広瀬中佐の恋物語は、同紙に5日間にわたって連載され、大反響となりました。

下の絵は、広瀬武夫が義理の姉である春江に、絵葉書で示した恋人アリアズナの面影です。きっとこの絵のイメージとアリアズナの面影が、どこか重なるところがあったのでしょう。美しい女性です。

アリアズナ


明治37(1904)年2月、東郷平八郎中将率いる連合艦隊は、旅順口閉塞作戦を立てました。
それは、旅順港の入口に老朽船を沈めることで、ロシアの旅順艦隊を港から出れなくしてしまおうという作戦でした。

作戦会議のとき、秋山真之(さねゆき)参謀は、
「もし敢行すれば、閉塞部隊は全員、生きて帰れません」と作戦に反対しました。
実は広瀬中佐と秋山参謀は同じ歳です。
ただ事情があって海軍兵学校では、広瀬中佐が秋山参謀より二級上にいました。

海軍軍令部諜報課員として着任した頃、二人は東京・麻布霞町で、同じ下宿に住んでいました。
その下宿の向かいの屋敷のお手伝いさんの談話が残っていて、
「広瀬さんという人は武張ったかんじだけど、話をしてみるとやさしくて近づきやすかった。秋山さんはその逆だった」そうです。

この二人が、会議で意見が対立しました。
あくまでも閉塞作戦に反対する秋山参謀、断固実施すべしとする広瀬中佐。

会議は、広瀬中佐の、「断じて行えば鬼神もこれを避くといいます。敵からの攻撃などはじめからわかっていることです。退却してもいいなどと思っていたら、なんどやっても成功などしない。」というひとことで、ついに旅順港閉塞作戦は実施と決まりました。

しかし第一回の閉塞作戦は失敗してしまう。
第二回の作戦は、明治27(1904)年3月27日に実施されました。
投入された艦は、千代丸、福井丸、弥彦丸、米山丸の四隻です。
そして「福井丸」に、広瀬中佐が艦長として搭乗しました。

実行の三日前、秋山真之が旗艦三笠から、福井丸の広瀬中佐のもとに出向きました。
秋山参謀は、友でもある広瀬に「敵の砲撃が激しくなったら、必ず引き返せ」と迫りました。
作戦はもちろん成功させたい。
しかし、友を決して死なせたくなかったからです。

旅順港閉塞戦
旅順港閉塞戦


いよいよ決行の日となりました。
3月27日未明、まずは先鋒の千代丸が、旅順湾入り口に向かいました。
ところが、近づいたところをロシアの哨戒艇に発見されてしまい、サーチライトを浴びます。
照明に照らされた千代丸に、旅順港の丘の砲台が一斉に火を噴きました。
集中砲火を受けた千代丸は、湾の入り口の南東、海岸から100メートルの地点に沈んでしまいます。
作戦失敗です。

次鋒は弥彦丸でした。
弥彦丸は、湾の入り口手前まで近づきますが、猛烈な砲火を浴び、旅順港の入り口に対して、縦に沈んでしまいます。失敗です。
続けて猛烈な砲火の中、副将の米山丸が湾の入り口に進み、弥彦丸と船尾を向かい合わせるように西向きに自沈しました。
これで港の入り口は、ようやく半分がふさがりました。
けれど、まだ閉塞は実現していません。

「なにがなんでも、湾を塞がねばならぬ」
旅順港にいるロシア太平洋艦隊の戦力は、日本海軍とほぼイーブンです。
しかし大西洋からは、世界最強のバルチック艦隊が日本に向かって近づいてきています。
もし、旅順にいるロシア太平洋艦隊とバルチック艦隊が合流したら、日本の海軍力とは雲泥の差が出てしまう。
そうなれば、日本は制海権を失い、朝鮮半島、満洲にいる日本軍は補給を失って孤立し、日本軍はせん滅させられてしまうのです。

広瀬は、最後の福井丸を駆って旅順港の入り口に向かいました。
残り半分をどうしても塞がねばならないからです。

敵のサーチライトを浴びました。
丘から砲弾が矢のように飛んできます。
福井丸は、ようやく湾の入り口に到達しました。

福井丸は、右舷を旅順港側、左舷を沖に向け、艦を横にして湾を塞ぐ体制をとります。
あとすこし、あとすこし進んで投錨し、自沈すれば、湾を塞げる。
あとすこし、あとすこしです。

ところがそのとき、猛烈に撃ちまくるロシア駆逐艦の砲弾が、福井丸の船首に命中しました。
その一撃で、福井丸の船首は、こなごなに、吹き飛ばされてしまいます。
福井丸は、船首から海に沈み始めます。

艦の操船不能。
もはやこれまで。

広瀬は、砲弾が飛んでくるのとは反対側、左舷の救命ボートをおろさせ、乗員全員を乗り移らせました。
ところが、点呼をとると、杉野孫七上等兵曹がいません。

「俺が捜すっ!」
広瀬中佐は、ひとり上甲板に戻りました。
敵の弾は、まだ次々と飛んできています。
丘に近いのです。銃弾も飛んできます。
る砲弾も飛来する。

艦は浸水し、沈没まであとわずかの時間しか残されていません。
艦の沈没の渦に巻き込まれたら、命はありません。

「杉野~!、杉野はいいるか~!!、杉野はどこだ~!!」
これまで、厳しい訓練に耐え、寝食を共にしてきた可愛い部下です。
決して死なせるわけにはいかない。無事に連れて帰りたい。
広瀬中佐は、必死に杉野兵曹をさがしましたあ。
一説によれば、彼は艦内をくまなく、三度にわたって探したといいます。

しかし杉野上等兵曹は見つかりません。
やむなく広瀬中佐は、福井丸が海にのみ込まれようとする、ぎりぎりになって、ボートに乗り移りました。

そしてボートが、六挺身ほど離れたころで、福井丸の爆薬に点火しました。
半ば沈んだ福井丸が大爆発を起こします。
海が明るくなる。

福井丸の爆発によって、救命艇が、敵の前にさらけ出されます。
そこをめがけて、敵弾が飛んで来きます。
場所は湾の入り口のすぐそばです。

広瀬中佐は、他の乗組員に、「頭を下げろ〜!」と大声で命令し、自分も頭を低くしました。
けれど、広瀬中佐は艦長です。
そしてこの作戦の指揮官でもあります。
戦況を、きちんと確認しておかなければならない。
広瀬中佐は、銃弾の中で顔をあげました。

そのときです。
広瀬中佐の頭部に敵の銃弾が命中したのです。
中佐の頭が吹き飛びました。
身体が海中に落ちました。

「艦長~~!!艦長~~!!」
日ごろから広瀬中佐を慕う乗組員は、必死の思いで艦長の姿を海に求めました。

その模様を、朝日艦長の山田彦八大佐が東郷平八郎に出した報告書には、「頭部に撃たる海中に墜落」と書かれています。また明治天皇紀には「一片の肉塊を残して海中に墜落」と書かれています。

広瀬中佐が敵弾の直撃を受けたとき、近くにいた兵のそばを、飛び散った肉片がかすめたそうです。
その痕跡がくっきりと残った兵の帽子が、靖国神社遊就館で時折展示されます。

広瀬中佐の遺体は、旅順港に流れ着きました。
遺体はロシア軍によって埋葬されました。
広瀬武夫柱、享年36歳でした。

広瀬中佐は、翌日、一階級昇進によって中佐になりました。
そして、日本初の「軍神」となりました。


さて、ここまでが「軍神・広瀬中佐」の物語です。
戦後、「軍神」という言葉は、あたかも軍国主義の象徴であり人殺しの象徴として、むしろ忌むべきものとして反日左翼主義者たちに喧伝され続けてきました。
しかし、ここまでの物語を読んで、みなさんは何をお感じになったでしょうか。
「軍神・広瀬中佐」は、戦争好きで、人殺しの象徴でしょうか。

断じて違います。

部下をかわいがり、身の危険を顧みず、最後の最後まで自らの命を犠牲にして部下の姿を追い求めた。
そういう広瀬中佐の、日ごろからの人としてのやさしさ、ぬくもり、思いやり、勇気が、多くの人々に、愛され、尊敬されたのです。
だからこそ、広瀬中佐は「軍神」とされたのです。

歴史は、後世に生きる私たちが「学ぶ」ためにあります。
日ごろから正々堂々と清々しく生き、危険や苦難に際しても部下への気遣いを忘れない。
そういうことを「学ぶ」ことこそが、歴史を学ぶ意義でもあります。
なぜなら歴史はアイデンティティを育成するものだからです。

「軍神」という言葉を軍国主義と決めつける、そういう「対立と闘争観」では、そこに何の「学び」もありません。
日本の心は、どこまでも「和と結(ゆ)い」にあります。
戦前、広瀬中佐が日本人の誇りであり「神」であるとされ、広瀬中佐の歌が文部省唱歌に採用なったのも、部下の命をこそ第一に考える帝国軍人の姿をそこに投影しているからです。
そういうことを知り、学ぶことこそ、やれ軍国主義だ、人殺しだとゴタクを並べるよりも、はるかに大切なことだと、私は思います。

世界の国々は、自国の武人たちのことを誇らしく顕彰しています。
「自由の国」アメリカでも、アラモの砦を守った人たちのことを歌に、映画にして伝えていいます。
硫黄島で戦った兵士たちも、銅像にして讃えています。

その硫黄島は、アメリカ領ではありません。
直接に自国を守るのではなくても、外国との戦いに勇んだ軍人が誇りなのです。

国防だけではありません。
永世中立国スイスは、フランスのルイ王朝を守って戦い死んだスイス傭兵たちの武勲と節操をライオン像に託して残しています。
戦って生きても、その戦いで死んでも、その栄誉は語り継ぐのが世界の国々の常識なのです。

日本だけがそれを止めました。
その結果、子どもたちは自分の国を誇ることを知らず、その子どもたちが長じて、国軍の長であることを知らず世界に恥をさらす政治家に育ちました。

そのようなことで良いのでしょうか。
日本を取り戻す。
それは、日本人が日本人としての価値観と誇りを取り戻す事でもあると思います。

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コメント
No title
たぁちゃん さん、読んでください。

アドミラル・トーゴー
http://11874.jugem.jp/?eid=1894
2014/02/24(月) 22:46 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
好漢たち
大好きな広瀬武夫を取り上げて頂きありがとうございます。 
三十年ほど前に雑誌・近代柔道で連載してた広瀬や内田良平のロシアでの武勇伝むさぼり読んでた頃を思い出しました。
まさに漢の中の漢!!
これぞアッパレ日本男児!!

まぁ広瀬の詳細はブログ・Forth!の「ヒストリ広瀬武夫」に譲るとして・・
在京時代には自転車で近代建築散策とかしてたんで、万世橋の辺りもよく通りましたが、いつの間にやらリニューアルされてたんですな。
雰囲気変わってなきゃいいんぢゃが(・・;)  

そりゃそーと、次郎長も次郎長のカミさんも広瀬が大のお気に入りで、広瀬がやって来ると家の中が一気に明るくなったなんて話もありましたっけ。
天真爛漫、強くて優しい、勇敢で快活で男気に溢れ、はるか上の人にも平気で物言い、部下や子供、女性や外国人にもやたらと慕われる。
上からも下からも偉い人からもヤクザからも男からも女からも動物からも愛され慕われた広瀬武夫こそ男の理想。 
あっそうそう、明治の大横綱・常陸山とは義兄弟の契りを結ぶ程の仲でしたが、その常陸山がようやく横綱昇進してその晴れ姿を写真に撮って広瀬が居る戦地・旅順へ送ったのに、
届く直前に広瀬が散華したとの報を聞いて、あの豪傑常陸が男泣きに泣いたって話もありました。
その後常陸山は大陸巡業の際に、巡業終えて帰りの船に乗る直前になって突如計画に無かった旅順行きを勝手に決めて、広瀬が散った彼の地まで行って奉納土俵入りを行った事がありましたが、
その時本来乗るはずだった帰りの船が沈没して乗客皆亡くなってしまったので、日本では「常陸はじめ力士団全員失ってしまった。大相撲の歴史も終わってしまった」と嘆いてたのに、
常陸山の気まぐれのお陰で全員無事だった逸話などはもう七生報国・広瀬のご加護としか思えん。 
ついでに言うと、広瀬が散華した翌年に行われた日本海海戦の勝利日は広瀬の誕生日(5/27) 
その日はその後海軍記念日となって、終戦まで国民挙げてのお祝い日だったけど、それは自動的に広瀬の誕生をも毎年国民挙げて祝ってた事になる訳で・・
なんかもう日本が危機になる度に降りて来て加護する存在なんだなと思ってます♪  
七生報国の言葉に偽り無し!! 

・・それにしても莫逆の友同士だった広瀬にしても常陸山にしても次郎長にしても、水滸伝の好漢に居ても何ら違和感無い顔ぶれww(^o^;
←我々戦後の日本人じゃそうはなりませんわな。


※いや広瀬の事は「ヒストリ広瀬武夫」に譲るとか言っときながら結構長々と広瀬話を書いちゃいました(汗)
これも惚れてるが故なんでお目こぼしをば(;^_^A
2014/02/24(月) 21:27 | URL | 魔除けに牛島辰熊 #-[ 編集]
帝国海軍の英雄
いつも楽しく勉強させていただいています。

私は大学時代の卒業論文で秋山真之を題材
で提出しました。
秋山真之とも非常に交友の深い人物であったと覚えています。

日本人としての責任の強さ、上司としての責任の強さが明に表れてる人物だと思います。
帝国海軍の軍艦に来観した清国海軍の士官はその清掃が行き届いた状態に驚き、自国艦のだらしなさを知られたくないため日本士官の来観を拒んだという事をあったそうです。

その様な立派な先人、軍神達をなんとかして陥れようとする特亜三国、日本の左翼、日本名で日本を批判する在日には怒りを覚えます。
昨日の桃太郎もそうですが、日本の伝統史観をぶち壊そうとする日教組、在日に染められてしまったNHKなど日本には問題が山積みな状態なのに憂国の士である総理や田母神閣下をなんとかして足を引っ張ろうとする輩にも怒りを覚えます。

今回のオリンピックでも不可解な点数でメダルを獲得したヤオヨナなどに文句も言わず、自分の実力不足ですと言った浅田真央選手、日本人として誇りに思いますと言った羽生結弦選手に対しては涙が出ました。

先日行きたくもないのに会社の出張で韓国に行き、そこで韓国人の方と話す機会がありました。
そこでも総理の悪口、日本は軍国主義に走っているなど訳の分からないことを言っておられましたので、あなた方の国は国家を挙げて反日をしているし、我が国の竹島を不法に侵略し、漁民を殺したではないか?
ナショナリズムとゆぅならあなた方の国の方がよっぽと右翼の固まりだ!と言いました。
そぉ言い放った韓国人にはホテルまでつけられて非常に恐い思いをしましたが、ここで引き下がると日本人全体が舐められる!日本の若者が舐められると思い言ってやりました。

ねづさん、日本の若者もまだまだ捨てたものではありませんよ。僕の友達も日本人としての自覚や誇りに目覚めてきています。嬉しい限りです。

今こそ天皇陛下・皇室を中心に日本人が一致団結して頑張る時ですね。これからも楽しみに見させていただきます。
2014/02/24(月) 18:22 | URL | たぁちゃん #-[ 編集]
No title
2014/02/24(月) 17:45 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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2014/02/24(月) 16:35 | | #[ 編集]
知る事≠理解する事≠完全・完善
皆さんは説教を経験した事は在りますか。私は目を覚ます前も覚ました後も経験が有ります。した側、された側、両方です。基本的に、説教をされるという事は、未熟だからだと思いますが、それが絶対ではないと思います。未熟な側が説教をしてしまう場合も有るかと思います。説教とは価値観からくる行為だからです。

例えば、現在の日本で例えてみれば、良く大人?は、世の中そういうものなんだから文句を言わずに言う事を聞いていれば良い、と言います。若ければ若いほど、これに対して、ふざけるな、と思う筈です。なぜなら歪んだ価値観がまだ付いていないからです。これを未熟として片付けているのが現状です。未熟なのは自称大人?に他ありません。

これについて考えてみれば、正しいのは説教されている方です。大人?は、世の中そういうものだから~と既に諦めてしまっています。その後に、そういうものなんだけど、今は正しくないんだ、だから今は我慢して、もっと世の中が良くなるように一緒に頑張ろう、こういう風に説けば相手も納得する筈です。

そういう説明をせずに、納得させようとすれば、当然反発は出ます。昔で言えば、奴隷に対し、お前は奴隷なんだから文句言わずに言う事を聞け、と言っているのと同じです。お前は奴隷なんだ~だから今は我慢してくれ、それを改善する為に一緒に頑張ろう、と言えば、奴隷は納得する筈です。少なくとも、それを言ってくれた人と一緒に頑張れる筈ですし、場合によっては自分自身で考え始め、その間違った制度を正す努力を始める筈です。

広瀬武夫中佐のお話からも、それは学べる筈です。ただ単に、これが正しいのだから、その通りにしろと言われても、常に深く考えている様な人でもない限り、それが正しい事なのだと理解できない筈です。大概は反発します。汚いから嫌だとか、面倒だとか、そう思うはずです。ですが言葉と同時に行動も伴えば、理解できなくとも、私も見習おうと成る筈です。それでも反発する者には罰を与えるべきです。でなければ秩序は保てません。

では説教を行う者は完全・完善なのか、と考えれば、そんな事は無い筈です。上に挙げた例の様に、自分で深く考え理解できない者を納得させる為には必要ですが、正しい事を、知る事と、理解する事は、同じ様で同じでは在りません。

知る事とは、それが正しいのだろうと思う事であり、自分で考えて理解した訳では有りません。あくまでも人に言われて、正しいのだろうと思っただけです。このままでは、その時正しいのだろうと思った経験よりも、自分に対して都合の良い経験をした場合、そちらを選んでしまう可能性が大いに有ります。悪意はここに付け込んで来ます。

理解する事とは、それが正しいのか正しくないのか、自分自身で深く考えた結果であり、それが絶対的に正しいとしない事が理解するという事です。

例えば、核技術は人類には手に余るものです。今だ未熟な人類は発見しない方が良かったと私は思います。多くの方はこういう認識だと思います。これはこれで良いと思いますが、これはまだ考えている途中であり、結論付けるべき価値観ではない筈です。

既に現時点では、核技術は発見されています。原発で有効利用されてもいますが、核兵器としても利用されています。そしてどちらも既に悪用されています。原発はテロの標的にされ、核兵器は共産国家にも行き渡っています。この現実を見ずに、原発反対、核兵器反対は、悪用している側にとっては思う壺です。

一度発見されてしまったからには、それに対して責任を持たねば成りません。誰が発見しても同じです。軍部からの昭和天皇陛下への提案は皆様ご存知かと思います。それに対する昭和天皇陛下の御回答も御存知かと思います。ですが、これはあくまでも当時の状況下における判断であり、今現在も尚、続いている判断ではないという事ではないでしょうか。昭和天皇陛下の判断はあくまでも、当時の核技術の現状を踏まえた上で、米国を信じたからのもので有る様に私は思います。

すでに核兵器が蔓延している現状で、そしてそれを悪用されている状態で、それに対抗する手段を放棄する事は、神道の道にも、武道の道にも反するのではないでしょうか。反する反しない以前に、これを考えずに放棄すれば、相手は核をちらつかせてやりたい放題、こちらは対抗手段がなければされるがままです。

現時点での対抗手段に核所持以外の選択肢が在るならば別ですが、なければ核所持は必然です。もし各技術以外で何か在るのならば、今すぐにでも実用可能でもない限りは、選択肢には入りません。あくまでも核所持をした上で、それに移行するのが当たり前です。もちろん、対抗手段が物だけもないかとは思います。それは外野の我々では中々解り辛い部分かと思います。が、ここに述べたような事ぐらいは各々が理解しておくべき事だと私は思います。

知る事と、理解する事は違います。決め付けや思い込みは、これを理解しないから起ります。

また理解する事は、それを完全に行う事では在りません。つまりは完善では在りません。あくまでも、それを理解した上で、なるべくそれを行えるよう、努力する事が理解するという事です。

キレイ事を言うな、とか、世の中そんなに甘くない、とか、こういう事を言っている人は、そういった事を理解していないからであり、ただ単に誰かが言っていたからとか、そういうこ情報を目にしただけで、ただ単に知っているだけに過ぎません。知っているだけだから、無理だと決め付けて、キレイ事、とか、世の中そんなに甘くない、などと思い込んでしまうのです。

右中左に関係なく、これをまずは知るべきだと思います。そして自分自身で深く考える事が、いかに重要であるかを理解しない限り、現状の日本が少し立ち直ったとしても、遅かれ早かれ、同じ様な状況を招くという事を、各々が理解しておく必要が在るかと思います。

この先、世界がどのような展開になったとしても、これらを理解しなければ、歴史は繰り返すだけです。

科学技術が発展した現在においては、歴史は繰り返すが、ミクロからマクロになる可能性も在るかと思います。最悪は歴史は繰り返さなくなる可能性も在るかと思います。現状の日本を見たら、そんな事は起る訳がないと思うのが妥当です。ですが、いつ何が起るかなど、誰にも解りません。そうなってからでは手遅れだという事を理解しておくべきだと思います。

ここでひとつ例外を、いつ何が起るか、を言い当てる事を予言とされています。しかし何かを予言し、それを起こす事は可能です。今自分が知る情報で処理できなければ、誰かが何かを用いて行った何かを、これは予言以外に在り得ない、と決め付けたり思い込むのも無理からぬ事ですが、これも常に深く考えていないからに他ありません。

「もしかしたら」を回避するには、常に深く考え、最善を見据え、最良を行く他ありません。それを理解しなければ悪意に利用され歴史を繰り返す事は、我国の歴史からも世界の歴史からも学べます。そして各々が理解に至るよう努力しなくては、理想の世など成らない事も少し考えれば解ります。

最良の道とは完全・完善でなくとも構いません。あくまで最善を理解し、それが出来る様に努力するだけでも良いのです。真面目一本でいける人はその道を、それが難しい人はちょっと不真面目でもその道を見据えておけば、その道を行く必要を迫られた時に戻る事ができます。

私の置かれた状況では、これぐらいしか解りませんが、正しい判断をする必要最低限必要な心構え、つまりは入り口に立てれば、各々の立場での最良の道は必ず見えるかと思います。

2014/02/24(月) 16:02 | URL | 愛国日本!反日撲滅! #-[ 編集]
No title
広瀬中佐は息子の学校の出身者であり、確かに「軍神」と紹介されています。ねずさんの今日の記事を読んで、「軍神」の本当の意味がわかりました。
軍の立派な人というくらいの理解でした(恥)
戦争は嫌ですが、かつての日本人は本当にこのような立派な人が先頭に立って、私たちを守ってきてくれたのかという思いを新たにしました。
広瀬中佐と杉野曹長の銅像、復活させて欲しいです。
2014/02/24(月) 12:52 | URL | じゅ #-[ 編集]
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2014/02/24(月) 08:40 | | #[ 編集]
地名の話で気になることがありますが
最近、交通機関の案内表示板の多国語
表示や外国人向けに観光案内板を作る
とかいう話が増えていますが、これは
外資75%の住友3Mに仕事を増やすための
誘導だったりしないでしょうか?
都知事が自転車交通環境を整備する
と発言しましたが、交通標識も住友3Mの
商売になりますし、今後道州制になると
また道路の行先案内板が多数更新されて
しまうのでしょう。市町村合併での
行先案内板の作り直しは、無駄そのもので
旧地名の方が詳細な場所で良かったはずです。
この先、マスコミで財政難を騒いで、
また事業仕分けみたいなことをさせて
日本の優良資産をはき出させて、
あやしい外資が権利を自分たちのものに
するようなことが繰り返されてしまう
のではないかと心配です。
2014/02/24(月) 08:32 | URL | 梅の香 #c7vBw6UQ[ 編集]
No title
今日もねずさんのひとりごとは、圧巻ですね。 拡散させていただきます。

46年も前、高校生の頃、万世橋には都電で何度か行ったことがあります。 今度行ってみよう。 そうだ、3月3日、会社を早退して憲政記念館に行ってみよう、その時に。 その時に、ねずさんを直に、身近で観たいし。

その高校生当時、「軍神」などと聞いて、軍人を笑い者扱いしていたように思う。 愚かな日本が、軍人を美化しようと。
とんでもないですね。 強いだけでなく、部下を助けようとした、その優しさに日本中の人が心を打たれたんですね。 軍神として崇めたのは、だから、その素直な心の表れだったんですね。

トイレ掃除から率先してやるなんて、凄いです。
敵兵まで魅了して、敵の女性まで虜にして、凄過ぎる。

田母神俊雄元航空幕僚長が言ってました、「部下を戦場になど行かせたくない。 かわいい部下を死なせたいものか。でもその時は覚悟をしている。」
軍人とはそういうことを思っているものかと、驚きもし、感動したのを憶えています。

ところで、話が変わり、この場をお借りして、ねずさんにお願いがあります。

数日前ねずさんからの「緊急大拡散」の案内で、中山成彬先生が「慰安婦問題に関する河野談話の見直しを求める署名の依頼」をされていることを知りました。 
また中山先生のホームページでも拝見、また他の方のブログ等でも掲載されています。

早速私も署名してお送りするだけでなく、友人、知人にも依頼します。
50万人くらい集めたいですね。

そこで、提案なのですが、「ホームページに入力」のような形も出来ないでしょうか? それを中山先生にお願いできないでしょうか?

紙ですと、多くの人数を集めるのは容易ではないと思います。 関心の高い人ばかりですと、容易でしょうが。 正直なところ、私の知人等は、それほど高い関心を持っていない者が多いです。
 
でもそういう人も誘わないと多くは集まらないと思います。
直に会って依頼するのは、時間的にもそう容易ではありません。
Faxを持ってない人は多いでしょうし、切手を貼り、ポストへ行って投函までするだろうか、疑問です。
入力なら、少しでも関心を持ってくれたら、すると思います。
その辺の説得はする積りです。

昨年12月に署名活動のあった、「つくる会」や「テキサスおじさんのホワイトハウスへの依頼」はホームページへの入力で、短期間に5万人や10万人が集まりました。

ホームページの方がおそらく集め易いのでと思います、私の周囲では。 
おそらくそういう人が少なくないのではと思います。

私はFaxは持っていませんので、これから出社したら、中山成彬事務所へFaxで依頼をします。

勝手なお願いですが、宜しくお願い申し上げます。
2014/02/24(月) 07:55 | URL | 寺島 孝 #-[ 編集]
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2014/02/24(月) 07:40 | | #[ 編集]
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2014/02/24(月) 07:34 | | #[ 編集]
No title
菅義偉官房長官(65)は21日の記者会見で、従軍慰安婦問題をめぐり旧日本軍の関与を認めた河野洋平官房長官談話の根拠となった元慰安婦による証言内容を検証する意向を示した。

河野談話を発表した1993年当時、首相官邸の事務方トップとして関与した
石原信雄元官房副長官(87)が20日の衆院予算委員会に参考人として出席し、元慰安婦の証言に基づき作成したが、裏付け調査はしなかったと明らかにしていた。

また、菅氏は米カリフォルニア州グレンデール市の日系人住民らが市に対し、
旧日本軍の従軍慰安婦問題を象徴する少女像の撤去を求め提訴したことに理解を示した。

「史実を世界に発信する会」の茂木弘道事務局長はこう指摘する。

「慰安婦に関する最も重要な事実を記載してあるものとしては『アメリカの公文書』が存在する。当時ビルマのミートキナを制圧した米軍が捕らえた韓国人慰安婦20人に尋問した記録をまとめたもの。

証拠価値が高いのは、直接の尋問記録であり、また別に訴訟のためではないから、変な誘導尋問をしているわけではなく、客観性がかなり高い」

その「序」に「慰安婦は売春婦、もしくはプロのキャンプ・フォロワーにすぎない」と、いわば結論が書かれているという。

「ヨーロッパでは、軍について商売するため売春婦がついていったようだが、
それを『プロフェッショナル・キャンプ・フォロワー』と呼んでいる。

公文書にも『戦場の売春婦』と書いているわけである。それだけではない。
慰安婦の生活状況がかなり詳しく書かれている」(茂木氏)

生活状況の一部として、その稼ぎが記されている。
平均して総計1500円稼ぎ、そのうちの半分はマスター(前借りをした売春宿の主人)に払うので、750円稼いでいると書かれているという。

「当時の日本軍の上等兵の月給は10円ほど。兵士の75倍の高給を稼いでいたのが、韓国人慰安婦だった。兵士の75倍稼ぐのが本当に『奴隷』なのでしょうか」と茂木氏。

日本がこのような情報発信をしない限り、米国で慰安婦像と決議案が増え続けるだろう。

http://www.tokyo-sports.co.jp/nonsec/social/237461/

2014/02/24(月) 07:10 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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2014/02/24(月) 06:47 | | #[ 編集]
No title
かつて自民党総務会で、野中広務が、「創氏改名は朝鮮人が望んだ」と発言した麻生太郎を吊るし上げたことがある。でも当時はまだ奥野誠亮がいて、「野中くん、きみは若いから知らないかもしれないが、麻生君が言うことは100%正解だよ。朝鮮名のままだと商売がやりにくかった。そういう訴えが多かったので、創氏改名に踏み切った。判子をついたのは内務官僚、この私なんだ」と言ったら、野中はそこで中座して出ていってしまった。

横で聞いていた野呂田芳成が、「いや、奥野先生、今日はホントにいい話を聞かせていただきました」と。
2014/02/24(月) 06:30 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

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