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日本は「たみ」が「おほみたから」とされる天皇のシラス(知らす、Shirasu)国です。


8月9日、長崎への原爆投下の当初の目標地点は小倉

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原爆投下前の長崎市浦上地区
原爆投下前の長崎市浦上地区


8月9日は、長崎に原爆が投下された日です。
はじめに、長崎での原爆投下によってお亡くなりになられたすべての御霊にご冥福をお祈りしたいと思います。

また8月9日はソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破棄して満州、北鮮、樺太、アリューシャンへの侵攻を開始した日でもあります。
今日は、そのなかで長崎への原爆投下について書いてみたいと思います。

長崎に原爆が投下されたのは、昭和20(1945)年8月9日、午前11時2分のことです。
当時の長崎市の人口は24万人でした。そのうちの14万9千人の長崎市民が、一瞬のうちに燃やされてしまいました。

この長崎への原爆投下についてですが、あまり知られていないことに、この日の当初の原爆の投下目標地点が福岡県小倉市(現:北九州市)であったことがあります。



この原爆投下のために米軍が飛ばせた飛行機(B−29)は6機でした。
別々に飛び立ったB−29は、硫黄島を経由して、屋久島上空で合流する予定でした。
ところがエンジンにトラブルが発生し、そのうちの2機だけが午前9時44分に、目標地点である小倉市に到達したのです。
ところがその2機のB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を、第二目標の長崎市に切り替えてしまいました。

なぜでしょうか。
ここに歴史を学ぶための重要なポイントがあります。

飛来したB−29に対し、小倉造兵廠にいた陸軍の守備隊が、果敢に高射砲で応戦したのです。
そのあまりに激しい応射に、B−29は爆弾投下目標の目視ができなくなってしまったのです。
それでもB-29は、45分かけて目標地点補足を3度やり直しています。
けれど、3度とも失敗してしまう。

そこへ陸軍の芦屋飛行場から飛行第59戦隊の五式戦闘機が、同時に海軍の築城基地から第203航空隊の零式艦上戦闘機10機が緊急発進してきました。
このためB−29は、小倉への原爆投下を断念して、目標地点を第二目標の長崎市に切り替えざるを得なくなってしまったのです。

なぜこのことが重要なポイントなのかといいますと、その理由は3つあります。

ひとつは、当初の目標地点が小倉市であったことです。
小倉市の当時の人口は30万人です。
その小倉は、長崎以上に平野部が広がっています。つまり遮蔽物がありません。
そこに原爆が投下されると、熱線による被災は、北九州の戸畑、若松、八幡、門司全域、および関門海峡を越えて対岸にある下関市までに被災が広がっていたはずなのです。
ということは、被害規模は推定で瞬間の死者だけで30万人以上となります。
その後の被爆による死者も10万人以上に至ったであろうといわれています。ぞっとします。

ふたつめは、日本側の抵抗です。
北九州の陸軍小倉守備隊が、猛然と必死の高射砲での応戦をしたのです。
このためにB-29は、原爆投下のために必要な高さに高度を下げられない。また猛烈な弾幕とそによる煙幕で目標地点を目視しようにも目標物が見えなくなりました。

基本的に日本の軍隊は、物資が不足する中でめくら撃ちのような速射はほとんどの場合しません。
それが弾幕と煙幕で、上空からの目標地点捕捉ができなくなったほどの応射をしたというのは、当時の陸軍が、どれだけ危機感を持っていたのかがわかります。
わずか3日前に広島に原爆を落されていたばかりなのです。

さらにそこへ陸海軍の戦闘機が飛来しました。
おかげでB-29は、小倉を去り、小倉から下関一帯は被爆被害に遭わずに済みました。

軍事的脅威に対して「抵抗力を持つ」ということが、いかに国を護り命を守るか。
このことは私たちは、原爆という実際の被害を受けた国の国民として、しっかりと認識すべきことだし、学校でも子供たちにしっかりと教えるべきことと思います。

みっつめは、情報戦争です。
あとに書きますが、長崎ではたいへん不幸な事態が重なり、十分な抵抗ができないまま原爆被害を受けてしまっています。
長崎への原爆投下について、戦後宣伝されたデタラメの中に、
「長崎への原爆投下は、空襲警報が鳴ったけれど、なぜか解除された。そこに原爆が落ちた」
「大本営は、B29の無線をキャッチしていたけれど、これを放置していた」というものがあります。まったくの妄言です。

どちらも、日本の無能、もしくは大本営の無能として形容され、宣伝されたものですが、残念なことにいまだに、それを真実と思い込んでいる人が多数います。
けれども、経過をみれば、その宣伝が、事実と事実を巧妙に繋ぎあわせた妄言にすぎないことが、はっきりとわかるのです。

小倉上空を離脱したB−29が長崎上空に達したのは、小倉上空で原爆投下をしようとした約1時間後の午前10時50分のことです。
この日の長崎上空は、積雲に覆われていました。
積雲は分厚い夏の雲です。
これがあると上空を飛ぶ飛行機の姿を地上から見ることができません。

B−29
B−29


つまりB−29は地上からは発見されないまま、長崎上空に達したのです。
発見されていませんから、当然、地上からの反撃もありません。
ところが同じことはB-29の側にもいえたのです。
B−29は、第二目標の長崎上空に達したことは機内での計算によってわかっているものの、原爆投下の目標地点の目視ができなかったのです。
つまり、そのままでは、原爆の投下ができない。

ところがそこに不思議なことが起こりました。
空を分厚く覆っていた積雲に、切れ目が生じ、そこから地上の様子が見えたのです。
眼下に長崎の街並が見えました。そこでB−29は「手動操作で」原爆を投下しました。

投下したのが午前11時1分です。
放物線を描いて落下した原爆は約1分後の午前11時2分に炸裂しました。
炸裂した場所は、長崎市街中心部から3kmそれたそれていました。
雲の切れ間からの手動操作による投下であったためです。

そして原爆は、長崎市松浦上地区中央にあったテニスコート上空、高度503mで炸裂しました。
長崎に投下された原爆の威力はTNT火薬換算で22,000トン(22キロトン)です。
これは、広島に投下されたウラン235型原爆の1.5倍の威力のある爆弾でした。

この炸裂によって、長崎市の浦上地区はほぼ完全に瓦礫の平原となり、一瞬で町に住む14万9千人がお亡くなりになりました。
広島よりも威力の大きな爆弾で、広島(人口20万人)よりも死傷者が少なかったのは、爆心地が市街中心部から多少それたことと、長崎市の周囲をとりまく山々が遮蔽物となったことによります。

それでも約15万にものぼる死者が出ました。
では、長崎では、なぜ空襲警報や応射が間に合わなかったのでしょうか。

硫黄島を出たB29は、午前9時すぎに大分県姫島方面から日本領空に飛来しました。
わずか3日前には、広島に原爆が落されたばかりでしたから、長崎でもB−29の飛来に、午前9時には警戒警報を鳴らして市民への警戒を呼びかけていたのです。

ところがそのB−29は、9時44分に小倉に現れました。
そのため長崎では午前10時過ぎには、警戒警報の解除を行っていたのです。
そのためいったんは防空壕に避難した長崎市民も、日常の生活に戻っていました。

ところが小倉での爆弾投下に失敗したB−29は、次の目標地点である長崎に進路を変えたのです。
この日、北九州から長崎までの空は、ぶ厚い積雲が覆っていました。
ご存知の通り、積雲は真夏の雲です。たいへん厚みがあります。
高高度を飛行するB29は積雲の上を飛んでいます。
ですから地上からその姿は見えません。
Bー29の側も、ぶ厚い雲で地上の目視ができません。

そこで乗員のひとりが航法士に、「現在地はどの辺りか」と尋ねました。
このとき、答えようとした航法士が、誤って内線用のインタホンのスイッチと無線スイッチを取り違えて返事をしてしまったのです。
このため、無線通信が外に洩れました。
よほど慌てたのでしょう。これに慌てた操縦士が運転を誤り、あやうくもう一機のB−29と空中で衝突しそうになっています。

その無線を、鹿児島沖で、作戦からはぐれて迷子になって飛行していた別なB-29がキャッチしました。
そのBー29は、突然はいってきた現在地を知らせる僚機の無線に、「チャック、いまどこにいる?」と音声無線を返しました。
これが午前10時50分頃の出来事です。

この無線通信を、日本側も傍受しました。
ほんの一瞬の無線漏洩ですが、その一瞬のやり取りで、日本側通信傍受隊は、ひとつが鹿児島沖からのもの、もうひとつが長崎方面と場所を特定しました。
そしてすぐに長崎に警戒を呼びかけたのです。

知らせを受けた長崎市は、すぐに空襲警報を鳴り響かせました。
これを聞いたら、市民はなにはさておいても防空壕へ避難することになっています。
いつもなら、これだけの対応なのですが、広島の原爆投下で甚大な被害を受けたばかりのできごとです。
軍と市は一緒になって、空襲警報だけでなく、ラジオの臨時ニュースでも長崎市民への緊急避難を呼びかけました。

ラジオからは、「長崎市民は全員退避せよ。繰り返す。長崎市民は全員退避せよ」という声が繰り返し流されたのです。そしてその臨時ニュースの声が「総退避・・・・」と言ったとき、原爆が炸裂し、ラジオの音声は無変調になりました。
それが午前11時2分の出来事です。

8月9日の長崎への原爆投下のあと、8月15日には終戦、そして8月29日には、米軍の日本上陸が開始されました。
上陸した米軍は、広島、長崎の被災地に入って調査活動を行っています。8月の末のことです。
長崎では、被災して亡くなった人たちの片付けが行われていました。

そこで、米軍の従軍カメラマンの、ジョー・オダネルが撮った一枚の写真があります。
それが下の写真です。

一枚の写真0809


この写真について、オダネルは、次のようにコメントしています。
=======
佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。
10歳くらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。
おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中にしょっています。

少年の様子はあきらかに違っていました。
重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという、強い意志が感じられました。
足は裸足です。

少年は焼き場のふちまでくると、硬い表情で、目を凝らして立ち尽くしました。
少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクをした男たちがおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。
私は、背中の幼子が、すでに死んでいることに気づきました。

男たちは幼子の手と足を持つと、ゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。
それからまばゆいほどの炎がさっと舞い上がりました。
真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です。
炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気づきました。
少年があまりにきつく噛みしめているため、唇の血は流れることなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。
背筋が凍るような光景でした。
=======

唇を噛み締め、不動の姿勢をとる少年の心に何があったのか。
そして、長崎の原爆投下までの空襲警報の流れや、当時の小倉市の陸軍基地や陸海の航空隊の奮戦。
そしてそれらを嘘とデタラメにすり替えていた戦後左翼の策謀。

私達は、そこから何を学ぶことができるのでしょうか。




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辛坊治郎 朝日新聞 慰安婦報道撤回 (14.08.05)


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コメント
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2015/08/10(月) 21:41 | | #[ 編集]
八幡空襲の影響
他の方も書かれていますが、
先祖代々、小倉在住でした。
80過ぎの叔母は今も隣の戸畑に住んでいます。
9日当日の戸畑〜小倉は、前日の八幡空襲による煙がたなびき、上空を覆っていたそうです。感覚的に「曇っていた」印象だそうです。
以前、NHKスペシャルで投下までのドキュメントを放送していた記憶があります。
2015/02/27(金) 03:33 | URL | #yT0IvIFw[ 編集]
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2014/08/10(日) 02:30 | | #[ 編集]
長崎原爆死者数について
長崎原爆の死者数の数が間違っています。
公式には 死者73,884名 負傷者74,909名です。(1945年12月)

死傷者数と上げれば同じくらいになります。

いつも勉強させて戴いております。
2014/08/09(土) 16:51 | URL | 小川茂樹 #-[ 編集]
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2014/08/09(土) 15:26 | | #[ 編集]
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2014/08/09(土) 15:24 | | #[ 編集]
No title
個別であれ集団的であれ自分の身を守る権利は自然権であると言う事に反対する人がいるのか。
集団的自衛権を憲法解釈の変更によって、認めるというのはおかしい。憲法はそれを認めていない。憲法改正してやるべきだ。と左翼はいう。今朝のNHKラジオでもそう言っていた。そうですよね。だから、憲法改正を急ぎましょう。自分を害するものから自分を護ってはいけないというような憲法はさっさと廃棄して、世界の平和に積極的に貢献できる憲法に改めるべきです。
そうしないと、あの少年いやあの先輩の唇に食い込んだ歯は、ほどけることがありません。
長崎の永井博士は、これほどの犠牲を払った日本こそ原子力を利用して国を発展させなければならないと言うようなことを、遺言されたとか。
脱原発などと愚かなことを言って、日本のエネルギー源を放棄してしまって、国の衰退を招いては、原爆でなくなった方の悔しい思いを晴らすことが出来ないのではないでしょうか。

あの時、日本が核を持っていたら、それを米本土に運ぶ手段を持っていたら、米は勿論広島長崎で核実験などしなかったとの、米国人の後日談があります。
今じっくり噛みしめるべき言ではありませんか。

2014/08/09(土) 14:49 | URL | kenkan #-[ 編集]
命運を分けた視界不良
私は北九州在住ですが、8月9日にボックスカーがファットマン投下第一目標地の小倉上空に到達した時点で、前日の八幡空襲で投下された焼夷弾により八幡製鉄所隣接の市街地が大火災になり消火活動もままならず鎮火に時間を要し、八幡空襲の火災煙が風に流されて小倉市街地上空まで覆っていてボックスカーからの視界不良で小倉投下を断念し、第二目標地の長崎へ向かったと聞いています。小倉造兵廠や師団司令部のあった小倉城付近にもし投下されたならば、隣接市の門司、戸畑、八幡まで爆風や熱線で、間違いなく長崎を上回る甚大な被害を被ったはずです。北九州市庁舎近くの小倉北区の勝山公園には、第一目標地が小倉だったのに長崎が原爆被災地となった為に、長崎被災者を弔う慰霊碑が建立されています。
2014/08/09(土) 13:51 | URL | #-[ 編集]
追記
さきほど行われた長崎の平和祈念式典、被爆者代表・城臺さんの、空襲警報解除ぉ~!のせいでやられた的発言を聞き、
丁度この記事で真相読んだばかりだったので腹立って仕方なかった。   
全体、日本軍憎し安倍政権憎しに満ち満ちたスピーチでした。←てか叩くんなら落としたアメリカ叩けよ! なんで落とされた日本叩いてんだよ! 
長崎に敵を撃退するだけの武力があれば被害受けずに済んだ事を教訓にしてれば寧ろ安倍政権支持、イヤそれでも全然物足りん位だろが!(怒)

日本潰しを正義と履き違えた連中が、卑怯にも無垢な子供や傷付いた被害者狙って洗脳してきた結果がコレですわ( ̄~ ̄;)  
しかもコチラが反論しづらいというオマケ付き(;´∩`) 
彼奴らの悪知恵にはホトホト感心しますな(怒)
2014/08/09(土) 13:43 | URL | 魔除けに牛島辰熊 #-[ 編集]
川崎 キ45改 二式複座戦闘機 屠龍
昭和20年8月9日早朝、下関市にある小月基地所属の二式複戦・屠龍 2機が関門海峡の上空を哨戒飛行していた。前日、テニアンから飛来したB-29 221機による八幡(現・北九州市八幡東・西区)空襲を許し、市街地の21%が壊滅、約2500人が死傷するという失態を演じていた。

米軍では原子爆弾は極秘とされており、焼夷弾攻撃を行う戦略爆撃隊には原子爆弾に関する作戦は知らされていなった。ただ、特定の都市に空爆を厳禁する通達が出ているだけだった。小倉市に対しても爆撃禁止の命令が出されていたが。そのすぐ隣にある八幡市に対しては出されていなかった。

八幡を襲ったB-29部隊は以前は中国・成都に基地を置いて、昭和19年に2回にわたって八幡空襲を行っており、八幡攻撃に執念を燃やしていた。過去の空襲では、いずれも屠龍の迎撃を受けており、特に2度目の空襲では野辺重夫軍曹が操縦する機体が折尾の上空でB-29への体当たり攻撃を敢行。激突の破片が後続のB-29にも当たり、計3機が墜落した。

この出来事は米国でも報道され、B-29が所属する各航空団では屠龍に警戒するよう指示が出ていた。9日、原爆を搭載し、小倉を目指していたB-29「ボックスカー」は、レーダーで屠龍を補足。「体当たりの可能性あり、投下目標を長崎に変更」とテニアンに連絡があったという。
2014/08/09(土) 13:01 | URL | ニック #-[ 編集]
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2014/08/09(土) 12:04 | | #[ 編集]
>抵抗力を持つという事が国を護り命を守る

昨日BSフジのプライムニュースで集団的自衛権の特集をやっており、防相らが国の備えについて語っていたんですが、 
「もしこう来られたらこうする」みたいな話を聞きながら、「そうなんだよなー天災にしても空襲にしても、普段からの備えがあれば被害も最小限で済むんだよなー」とか言ったら、 
隣で見ていた戦争体験者の老母が、「でもこんな事やってたら戦争になっちゃうわねぇ~」みたいな事言い出すもんだから、 
「いやいやいやゝ戦争になる確率を減らす為に、なっても被害が減る様に色々策を講じてるんであって、
例えば先の大戦時も最初のうちは反撃能力あったから本土までやられんで済んだけど、最後の方は反撃能力無くなったから北から南まで絨毯爆撃され放題で痛い目遭ったでしょうが!
国民の生命財産を守るのがこの人達の仕事であり責任があるから知恵絞ってんだよ!」  
と、つい色をなしてしまったんですが、そんな老母はNHKしか見ない人で新聞は隅から隅まで読むような人。  
なので、最近は知らぬ間にシレッとプライムニュース付けて見させる様にしてるんですが、道未だ遠し(^ω^;)   
たまに老母の様子見にやってくる姉とのお花畑会話に対して、つい口泡飛ばしながら大演説するも、熱くなればなるほど逆効果になるから塩梅が難しい←身内相手ですらコレ(*с*)ξ    

いや~潮目は完全に我々側になってきたものの、忘却洗脳の69年から取り戻すのは大変(^o^; まだまだ根気が要りますな。 o( ̄ ^  ̄ o)  


※丁度書き終えたところでサイレンが鳴ったので、長崎に向かって黙祷しました。
2014/08/09(土) 11:07 | URL | 魔除けに牛島辰熊 #-[ 編集]
私も終戦時は、10歳でした
長崎への原爆投下について、私は、これまで良く調べて勉強した訳ではありませんが、米軍が当初、投下目標を小倉にしようと飛来したが、その上空の雲が厚くて視界不良のため急きょ中止して、第二目標の長崎にしたという風に理解していました。

ところが、お話によればそうでは無かった。小倉の陸軍守備隊による果敢な高射砲応戦という日本軍の抵抗によって、その弾幕と煙幕で地上の目標物が視認できず諦めて第二目標の長崎にしたと言うことだったのですね。

日本軍の抵抗が無ければ、むざむざとやられていた訳です。もっとも現代戦で有れば、ミサイルによるピンポイント爆撃が可能ですから、わざわざ危険な敵地上空へ爆撃に行かずとも目的は達成できるでしょう。

またもうひとつ、終戦直後の日本の現状を撮影した、ジョー・オダネルの写真に写っている10歳位の少年の姿は正に衝撃的でした。私も当時10歳、その子が
生きていれば、私と同年齢の爺様でしょう。生き延びられたのかが非常に気になります。

ところで広島原爆記念碑に刻まれた言葉「過ちは二度とくりかえしませんから」の「過ち」とは、二度と負ける戦争はしないという決意を表す言葉で無ければならぬと思っています。そのためにはやられれば徹底的にやり返すだけの戦力を保持して先制攻撃をさせない抑止力を持つことが最重要だと思っています。
2014/08/09(土) 11:00 | URL | terag3 #KVPRtAI6[ 編集]
元慰安婦がアメリカ政府と面談
韓国で122名の元米軍慰安婦が韓国政府に対して賠償訴訟を起こしました。韓国政府が応じなければアメリカ政府に訴えるそうです。そんな中、アメリカでは日本軍の元従軍慰安婦碑や像が各地で設置されています。

グレンデール市では像設置1周年の記念セレモニーが行われたようです。その式典に、元韓国人慰安婦二人が参加しています。二人の名前は李玉善(イ・オクソン)(87)と姜日出(カン・イルチュル)(86)です。

彼女達はアメリカ政府に直接会って自分たちの過去を証言したそうです。アメリカ政府の目的はわかりません。彼女たちの証言を直接聞き、その信憑性を確かめたのかも知れません。オバマ大統領は弁護士です。法廷の争いで被告や原告の証言だけの証拠は認められないことを一番知っているはずです。

韓国で行われた日米韓首脳会談の際、「真実を慰安婦から聞く」ことが重要だと言っていたと思います。これからも元慰安婦の証言を聞くようです。その結果がどうなるかはわかりません。

今回面談した彼女たちの名前は河野談話時に聞き取り調査した元慰安婦の中にはありません。慰安婦問題が発生し、名乗り出た元慰安婦の登録数は当初110名でした。韓国の大学の教授や支援団体が彼女たちの証言を聞いています。その結果、信憑性があると最終的に残ったのは19名です。

19名の証言は「強制で連れて行かれた朝鮮人軍慰安婦たち 証言集Ⅰ」としてまとめられ、宮沢首相が訪韓する前の3月に韓国外務省の局長から日本の外務省課長にも渡されています。

証言集に集められた元韓国慰安婦の中で私が把握しているのは4名です。今回アメリカで面接した慰安婦の名前はその4名の中にはありません。河野談話後、韓国で登録された元慰安婦は全部で237名です。現在、ナヌムの家で生活している慰安婦は54名と聞いています。

元慰安婦の証言は時間と共に変わっています。証言内容の詳細はわかりません。が、少なくともアメリカ政府と面会した慰安婦のような証言はありませんでした。少し長くなりますが、河野談話の時に聞き取り調査した16名の慰安婦名とその証言概要を下記します。

アメリカ政府に話した内容と突き合わせていただきたいと思います。

1. 金福善:出身地、生年月日不明
  18歳のとき、8月に巡査が朝鮮人男性と来て「1年だけ工場に働きに出すとつれ出された。ラングーンの軍人慰安所で1日20人の軍人の相手をさせられた。金銭の授受はいっさいない。

2. 黄錦周:生年月日(1924年12月1日) 出身地(不明)
15歳で養女に行き、19歳のとき、養い親に白い令状がきて義姉の代わりに行った。「きつりん駅」からトラックでひどく寒い場所に連れて行かれ、軍人たちの相手をさせられた。4年目の8月に解放された。

3. 吉甲順:生年月日(1924年12月7日) 出身地(不明)
17歳の秋の頃、軍人2人に無理やり車に乗せられた。熊本の大きな家で、1日平均5人の軍人の相手をさせられた。5年間いて、爆撃らしきもので誰もいなくなり逃げた。

4. 李貴粉:生年月日(不明) 出身地(不明)
12歳のとき、巡査と韓国人通訳についていった。台湾に渡り、藤本という巡査宅で5年間家政婦をした後、山の慰安所で11カ月、その後高雄の特攻隊部署の慰安所で働いた。金は支給されなかった。

5. 白粉?:生年月日(1926年3月23日) 出身地(不明)
日本で親戚の手伝いをしていた。16歳のとき、洋服の男2人にジープに乗せられ、台湾で日本人と平壌出身の夫婦に引き渡された。客は昼が兵隊、夜は将校だった。昭和17年ごろマニラに連れていかれ、その晩から客をとらされた。部隊についていろいろなところに行かされた。
*昭和17年(1932年)はまだ支那事変も起きていません。またジープはありませんでした。

6. 呂:生年月日(1921年) 出身地(不明)
18歳のとき、巡査と軍人7~8人に連れ去られた。天津の奥地で、1日30人の軍人の相手をさせられた。2年以上そこにいて、通訳の斡旋で平壌に逃げた。

7. カン・スンヘ:生年月日(不明) 出身地(不明)
赤い腕章を巻いた日本の軍人に連行された。軍の責任者と船で南方に向かった。パラオの番号のついた部屋で1日に20~30人の相手をさせられ、やれないと言うと銃剣で殴られた。

8. 金学順:生年月日(1924年10月20日) 出身地(平壌)
養父の下でキーセン学校に通っていた。17歳の頃、平壌から北京に逃げたが、将校風の軍人に連れて行かれた。「カッカ県」などで計4ヶ月ほど慰安婦をさせられた。朝鮮人の男が脱出させてくれ、中国国内を逃げ回った。
*慰安婦時代の郵便貯金約2万円の賠償を求めて日本で訴訟を起こしていた慰安婦です。4ヶ月で2万円は難しいと思われます。

9. 石福任:生年月日(不明) 出身地(不明)
19歳のとき、軍人の運転するトラックに乗せられ、漢口からトラックで2時間の谷間にある部隊の慰安所で働かされた。その後、民間の慰安所に入りハノイなどの慰安所で働いた。民間の慰安所は6対4で報酬をもらった。

10. 尹順萬:生年月日(1921年5月30日) 出身地(不明)
1941年3月17日、韓国人と軍人が家に入って来てトラックに乗せられた。下関の紡績工場に2年間働いたが、大坂で1年半、軍人相手の慰安婦をさせられ、下関でも軍人の相手をさせられた。

11. 金郷順:生年月日(不明) 出身地(不明)
18歳のころ、町内役場の職員と日本人が来て「日本に行けば金がもらえる」といわれ、断ると怖いので行った。大坂の倉庫のような建物で1日に何人もの相手を強要された。将校に助けられ、途中経過は記憶にないが、とにかく両親の家に戻った。

12. 朴福順:生年月日(1921年10月22日) 出身地(不明)
16歳のとき、日本人軍属の家で家事手伝いをしていたが、中国方面に働きに行くと連れて行かれた。ナツメキョウ、ユダマルなどいろいろなところで7年間移動した。通常は1日15~20人の軍人の相手をさせられた。

13. 陳慶:(1923年5月10日) 出身地(不明)
馬山の日本人の家で家政婦をしていたが、15歳のとき「いいことがある」といわれ軍人についていった。台湾の岡山航空隊で昼は看護婦、夜は呼ばれた時に軍人の相手をしていたが、その後慰安婦だけをするようになった。

14. 文富全:(1924年10月21日) 出身地(ソウル)
17歳のとき、夜、家に軍人と顔見知りの巡査が侵入し、ソウル駅から100人の女性とともに汽車で南京に連れて行かれた。土日は多くの軍人、平日には将校が来た。慰安所では1銭ももらっていない。
15. 蘆清子:生年月日(不明) 出身地(不明)
1938年、17歳のころに畑仕事中に、8~9人の軍人に捕まった。「オデサン」の慰安所に入れられた。夕食後は兵士の相手をさせられた。25歳の時に逃げ出し韓国に戻った。

16. 李相玉:生年月日(1920年8月6日) 出身地(不明)
14歳のとき「工場に就職させてやると」誘われてどこかに連れて行かれた。サイパン、パラオを移動していたらしい。ヤシの木の皮で造られた慰安所で軍人の相手をさせられた。計11年間慰安所生活をした。

以上が河野元官房長官が聞いたはずの証言の一部です。アメリカ政府が聞く証言とどれだけ一致しているでしょうか。慰安所で軍人に虐待されたという証言はありません。今の元慰安婦たちは韓国政府のつくったセリフを話しているのでしょうか。アメリカ政府が「ナヌムの家」に住む54名の元慰安婦全員と面談することを望みます。

何が真実か、神様だけが知っています。彼女たちの嘘がバレれば、彼女たちは韓国政府を訴えるでしょう。「嘘の証言を強要した」と。

2014/08/09(土) 10:24 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
この写真にはいつも涙させられます。
強く凛々しい当時の日本人像が少年から伝わって来ます。
私は精神性においてこの少年の足元にも及ばないでしょう。
戦争で亡くなった全ての日本人に慎んでご冥福をお祈り致します 。
2014/08/09(土) 10:22 | URL | パパ #JalddpaA[ 編集]
No title
この写真を見るたびに、何故か涙が滲んできます。
この少年が誰なのか、お名前などは分かっているのでしょうか。
この写真を見ると、何故かいつもそう思ってしまうのです。
もし現在も生きておられるのなら、是非ともお会いしたいと強く感じるからだと思います。
2014/08/09(土) 09:59 | URL | #-[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

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