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今日は旅順要塞第一回総攻撃のあった日

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8月19日は、明治37(1904)年に、乃木大将率いる第三軍が第一回の旅順要塞総攻撃を行った日です。

この戦いについて、戦後のテレビドラマや歴史学者さんたちの論考は、その多くが「乃木大将はただやみくもに日本兵を突撃させ、屍体の山を築いた」というものです。
戦いは最終的に4ヶ月半で日本側の勝利となり、日露戦争の勝利のきっかけとなっていますが、そのように史実を書きながらも、
「しかしいくら戦争のためとはいえ、多くの日本人の兵たちをただやみくもに突撃させ、殺した罪は逃れられるものではない」などと、付記されたり描写されているものがほとんどです。

これは先日藤岡信勝先生から教わったことなのですが、こういう描き方を「Yse,But方式」というのだそうです。
肯定するしかない勇敢な行動や栄えある歴史を語っておいて、その上で「しかしながら〜」とその功績を否定するような書き方をすることで、栄誉や功績を全部台無しにしてしまう。左翼の常套手段なのだそうです。

それはともかく、では本当に、旅順要塞攻囲戦は、無駄死にや犬死といえるのか。
今日はこのことについて考えてみたいと思います。



「要塞」というのは、戦略上重要な拠点を確保するために、平時に築く恒久的な軍事建造物です。
高度な耐久性と防御力を有し、まさに難攻不落に築城することから、「陣地」と区別して「要塞」と呼ばれます。
「要塞」は、「城」とも異なります。城は行政機能を持つけれど、「要塞」には、それがないからです。
日本では、加藤清正で有名な熊本城などが難攻不落の「城」ととして有名ですが、その「城」から行政上の機能と、見た目の権威性を排除して、戦いを制することだけに特化して築城されるものが「要塞」と考えるとわかりやすいかもしれません。

築かれれる場所は戦略的要衝です。
とうぜんですが、そこは激しい戦地となります。

「セヴァストポリ要塞」という有名な要塞があります。
ここは、黒海の北側に面し、アゾフ海と分かつ、戦略上の要衝地です。
「セヴァストポリ要塞」は、安政元(1854)年から安政3(1856)年に行われた「クリミア戦争」と、昭和16(1941)年からはじまる第二次世界大戦のときと、2回にわたって大激戦が行われたところでもあります。

「クリミア戦争」は、日本でいったら幕末期にあたる頃に行われた戦争で、ヨーロッパではナポレオン後に起こった第二次世界大戦に匹敵する大戦争です。
フランス、大英帝国、オスマン帝国、サルデーニャ王国と、とロシアが戦い、戦火は、ドナウ川周辺、クリミア半島、からカムチャツカ半島にまで及んでいます。

このとき、最大の戦闘が行われたのが、実は、「セヴァストポリ要塞戦」なのです。

クリミア戦争のセヴァストポリ要塞戦
クリミア戦争のセヴァストポリ要塞戦


当時、ロシアの黒海艦隊は、セヴァストポリを根拠地としていました。

当時の戦闘艦隊は蒸気船です。海に出れば無敵の艦隊でも、港に停泊したら次に出航するまで、釜を焚いてエンジンが暖まるまでものすごく時間がかかるものでした。
また、当時の戦艦の砲には、いまの時代のようなジャイロスコープはついていません。
ですから揺れる海上からの砲撃は、たいへんに当たりにくい。
ところが陸上からの砲撃は(揺れない分)正確です。
要するに、ロシア黒海艦隊が停泊中に敵に攻め込まれたら、あっという間に艦隊が壊滅してしまうから、これを守るために、ロシアは港の背後にあるセヴァストポリの丘に、難攻不落の要塞を構築したのです。

要塞が陥落すれば、黒海艦隊が壊滅します。ですから要塞は、ものすごく堅牢に構築されました。
それだけではありません。
周辺には数千箇所のトーチカをはりめぐらしていました。
万一敵がそのトーチか群を破ったとしても、要塞内部には堀が二重にめぐらされていて、その掘には上向きの槍を連ねた落とし穴まで用意されていました(後年、ロシアがこれと同じものを旅順要塞にも作っています)。
要塞内部は、迷路が張り巡らされ、そこを通った敵兵は、壁から繰り出される銃弾で、全滅させられるようになっていました。
つまりセヴァストポリ要塞は、まさに難攻不落の要塞として築造されたのです。

安政元(1854)年10月17日、この要塞に英・仏・オスマン帝国の連合軍17万5千が襲いかかりました。要塞の守備隊は8万5千です。
背後に海を控えていることから、ロシア守備隊は、後背から補給を得、またロシア黒海艦隊も、敵に向かって艦砲射撃を繰り返しました。
これに対し、連合軍は、砲撃と歩兵突撃によって、トーチカをひとつひとつ奪い、徐々に要塞に迫りました。

戦いはほぼ1年にわたって続きました。
最終的にセヴァストポリ要塞は、安政2(1855)年9月11日に、連合軍の突撃によって陥落しました。
ロシア軍はセヴァストポリから撤退し、港を失ったロシア黒海艦隊は無力化し、連合軍が黒海の制海権を得ました。

ただし、です。
このときの要塞戦による連合軍側の死者は、12万8千名です。
守るロシア側も死者10万2千名です。
両軍合わせて、このセヴァストポリ要塞戦だけで、23万人の兵士たちが死んでいます。

ちなみに青年期の男たち23万人の死というのは、100万人の都市ひとつが壊滅したに等しい出来事です。
要塞戦というのは、それほどまでに過酷なものなのです。

※※※

セヴァストポリで起こった2回目の要塞攻防戦は、クリミア戦争の86年後の昭和16(1941)年からはじまる第二次世界大戦です。

昭和17(1942)年6月、ナチス・ドイツが、ソビエト連邦カフカス地方へ侵入するために(ブラウ作戦)、その手前にあるセヴァストポリ要塞を制圧しようとしたのです。黒海の制海権の確保、ならびに、ソ連カフカス地方への侵入路の確保のためです。

この時代、セヴァストポリを確保していたソ連は、セヴァストポリ要塞をソ連随一、世界最強の要塞として防備を厚くしていました。
そこにナチス・ドイツのクリミア半島の制圧を任されたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥率いる第11軍がやってきたのです。

エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥
エーリッヒ・フォン・マンシュタイン元帥


エーリッヒ・フォン・マンシュタイン陸軍元帥という人は、第二次世界大戦における世界の陸将の中で、最も有能な将帥の一人として知られている人です。
彼は、西方電撃戦の立案者でもあり、クリミア半島とレニングラード攻撃を指揮し、スターリングラード攻防戦後に優位に立ったソ連軍の攻勢を食い止め、第三次ハリコフ攻防戦でハリコフを陥落させている元帥でもあります。

彼はヒトラーに対してもはっきりと意見を開陳する数少ない将軍といわれた人です。
その名将ぶりは戦時中のアメリカでも知られ、タイム誌でも醜悪な顔に描かれることなく、常に毅然とした顔で表紙を飾っていました。そして「我らの最も恐るべき敵」と評されています。
その、世界の陸将中、最も優秀とされるマンシュタイン元帥が、ナチス・ドイツの精鋭である第11軍を率いて、セヴァストポリ要塞を囲んだのです。

すこし脱線しますが、敵を「醜悪でひ弱で唾棄すべき存在」として描くのは、ひじょうに下等な情報工作です。
なぜなら敵が「醜悪でひ弱で唾棄すべき存在」であるとするなら、その敵と戦って亡くなった戦士たち、同胞たちは、そのひ弱で唾棄すべき存在よりも「劣っている」というに等しいからです。
戦場では、敵も死にますが、味方にも死傷者が出ます。
その敵を「醜悪でひ弱で唾棄すべき存在」とするなら、その亡くなった味方の兵士たちは、もっとひ弱で唾棄すべき存在よりも劣った者ということになってしまうのです。
亡くなられた兵士たちや、そのご遺族たちの名誉を考えれば、敵は強大で強く勇敢な者たちであり、そういう敵と戦ったからこそ、栄誉ある、そして名誉ある勇敢な戦士の死ということになるのです。

さて、マンシュタイン元帥は、昭和16(1941)年9月24日からわずか3日で、大激戦の末、クリミア半島東部のケルチ半島、南部のヤルタを制圧しました。そしてセヴァストポリ要塞を包囲しました。
包囲を受けたソ連軍は、セヴァストポリの防衛のため、黒海艦隊から海軍陸戦隊をケルチ半島に上陸させました。ソ連の上陸部隊は、クリミア半島東端のケルチにいたドイツ歩兵師団を包囲し、これに対して猛攻撃を加えたのです。

そのままでは、ドイツのケルチ歩兵師団は全滅してしまいます。
それはセヴァストポリ要塞を包囲しているドイツ軍が退路を断たれることを意味します。
ドイツ・マンシュタイン元帥は、セヴァストポリの包囲を解いて反撃に出ました。
これが「トラッペンヤクト作戦」です。
ソ連軍は、両側を海に挟まれた細長い地形を利用して何重もの防衛線をひいてこれを阻止し、この戦いはなんと8か月もの長きにわたって続きました。

トラッペンヤクトの戦いは、両軍に甚大な被害をもたらしましたが、最後にはドイツ11軍の勝利となりました。それでもこの戦いは通常の陸戦であり、セヴァストポリ要塞戦の、ただの前哨戦でしかなかったのです。

ドイツ11軍は、昭和17(1947)年6月7日、ふたたびセヴァストポリを包囲しました。
ところがソ連は、トラッペンヤクトの戦いの間に、セヴァストポリ要塞に多数の巨大砲塔を取り付けていました。この砲塔は、戦艦の主砲を陸上に設置したものです。
地下に旋回装置・弾薬庫・自動装填装置・兵員の居住区が設けられており、しかも周囲にはトーチカ群が設けられていした。

砲弾の威力は、要するに艦砲射撃そのものです。
人間の背丈より高い巨大な炸裂弾を、ナチスの陸戦隊のもとに降らせます。陸上からの砲撃ですから、狙いは正確です。
離れて包囲すれば巨大砲弾にやられ、近づいて爆破しようとすれば、群がるトーチカ群からの機銃攻撃によって、射殺される。

マンシュタイン元帥は、近隣から新旧・大小問わず1300門もの大砲をかき集め、猛砲撃を加えました。
さらにドイツ本国から80cm列車砲の「グスタフ」を持ち込みました。
グスタフは、鉄道のレールの上に設置された80cm40口径の大砲です。
最大射程47km、弾薬は榴弾に徹甲榴弾をも使用しています。

巨大列車砲は旋回できないという問題があったけれど、マンシュタインは、鉄道のレールそのものをゆるやかにカーブさせることで、射角を確保しました。
こうして、「戦艦から取り外した主砲を陸上に備え付けた巨大砲塔」対「列車砲グスタフ」との戦いがはじまりました。

巨大砲弾が飛び交う砲撃船で、砲塔の移動が可能なドイツ列車砲が、次第に威力を発揮しました。
マンシュタイン元帥は、グスタフ砲で開けた突破口から、短射程の砲を突入させてトーチカを破壊、そこに歩兵を突入させるという方法で、しらみつぶしにひとつひとつの敵陣地を撃破していきました。
さらにロケット砲によるトーチカ攻撃、さらには急降下爆撃機による空襲も加え、周辺のソ連巨大砲塔軍に戦いを挑みました。

この攻撃はまる5日間続きました。
これによってドイツ軍は、セヴァストポリ要塞北面のソ連軍陣地を全て破壊してしまったのです。
そしていよいよセヴァストポリ要塞に迫りました。
戦うこと2週間、セヴァストポリ要塞は陥落します。

さて、この第二次セヴァストポリ要塞での兵の損耗は、どのくらいだったでしょう。
この要塞戦にドイツが投入した兵力は35万人です。
そして戦死者は10万人以上です。
35万人を投入して、兵の三分の一が死亡したのです。
要塞戦というものは、それほどまでに過酷なものなのです。


もうひとつ、忘れてはならない要塞戦をご紹介します。
フランスの「ベルダンの戦い」です。

この戦いは、第一次世界大戦の最中の大正5(1916)年2月21日に始まる戦いです。
そして「ベルダンの戦い」では、両軍合わせて70万人以上の死傷者が出ています。

戦ったのは、ナチスになる以前のドイツ帝国軍とフランス軍です。
ドイツ帝国の参謀総長エーリッヒ・フォン・ファルケンハインの発案により目標をパリへと続く街道にあるヴェルダンと定め、この地の攻略をドイツ帝国の皇太子ウルヘルムが担当したのです。

大正5(1916)年2月21日、ドイツ軍は重砲808門、野砲300門でベルダン要塞に猛烈な砲撃を開始しました。
午前7時から始まったこの砲撃は、午後4時まで、まる10時間続きました。蟻の這い出る隙もないほどの絨毯砲撃です。

そして正面から歩兵が突撃を開始しました。
通常、歩兵部隊の突撃は、敵前100メートルの位地から行うのですが、ウルヘルム皇太子は、これを500メートルの位地から敢行しました。

さらにドイツ軍は、横方向からも蚕食的な攻撃を行いました。
この壮絶な攻撃によって、ドイツ軍はたった1日でフランス軍3拠点を奪取し、さらに翌日には隣接する両翼の2拠点を奪取、4日目には第2陣地を突破し、さらに翌日には隣接する数拠点を占領しています。そして第3陣地の一部であるドォーモン堡塁も占領しました。

初戦の敗退に危機感を抱いたフランス軍は、22日、第2線師団を招いて逐次第1線師団と交代させ、新鋭部隊でドイツ軍に対抗しました。
さらにベテランのペタン将軍を招いて戦意を向上させ、徹底抗戦を図ります。
両軍はミューズ川をはさんで、執拗な争奪戦を行い、特にヴォー堡塁および死人の丘では、惨烈極まりない戦いが展開されました。

6月7日になって、ついにドイツ軍はヴォー堡塁を占領しました。
ところが今度は、フランスの応援にはいった英国軍がドイツ軍の背後をうかがいます。
8月にはいると、フランス軍が反転攻勢に出て、10月24日と12月15日の総攻撃で、フランスは、ドォーモン堡塁とヴォー堡塁などの失地を回復しました。

このベルダンの戦いにおける死者は、フランス軍が36万2,000人、ドイツ軍が33万6,000人です。
両軍合わせて、69万8千人が戦死したのです。

近代戦における要塞戦というものは、かくもすさまじい戦いになるものなのです。

乃木希典大将
乃木希典大将


そして、ソ連のスターリンが、上にご紹介した「セヴァストポリ要塞」を「6つ合わせたほどの堅牢な要塞」と評したのが、日露戦争の際の旅順要塞でした。
旅順要塞攻防戦におけるロシア側兵力は、6万3千です。
そして日本軍は、明治37(1904)年8月19日~明治38(1905)年1月1日まで、要塞戦としては異例の、わずか4ヶ月半の攻防の結果、旅順要塞を陥落させました。
この戦いにおける日本側の死者は、1万5千名です。

不思議なことがあるのです。

第一次世界大戦におけるセヴァストポリ要塞戦は、10か月におよぶ攻囲戦で、要塞を攻める側のドイツは12万8千名の死者を出したのです。

その「セヴァストポリの要塞」の敗戦を経験したロシアが、今度は絶対に落ちないようにと、セヴァストポリの6倍の堅牢さを誇って建造したのが「旅順要塞」は、4ヶ月半の戦いで、しかも日本軍の死亡者は、1万5,400名です。セヴァストポリの十分の一です。

第一次世界大戦のセヴァストポリの戦いと、旅順攻防戦の両方から様々な事実を学んだ後に行われた、第二次世界大戦におけるセヴァストポリ要塞攻防戦では、攻める側のナチスドイツの死亡者は10万人以上、しかも10か月の長期戦です。
第一次対戦のフランスのベルダン要塞攻防戦では、両軍合わせて死者70万人です。
繰り返しますが、旅順要塞攻防戦における日本側死者は、1万5千名です。

旅順要塞攻防戦だけをみれば、日本軍は多くの将兵を失うたいへんな戦いを挑んだし、兵の損耗はたいへんな数にのぼるものです。
お亡くなりになられた兵隊さんたちのご遺族は、さぞかし悲しい思いをされたことと思います。心から哀悼の意を表したいと思います。

けれどこれだけは言いたいのです。
しかし、世界の要塞戦の中では、これだけ堅牢無比な戦略要塞を攻めながら、わずか4カ月半で、しかも、他の要塞戦からみたら、わずか十分の一、二十四分の一の兵の損耗で「旅順要塞」を陥落させた日本の兵隊さんたち、そしてこの指揮をとられた乃木大将の采配の見事さは、冷静に、客観的にみて、「よくぞ、これだけの損耗で、要塞を陥落させてくれた」と、私たち生残った後世の日本人は、手を合わせて感謝すべきといえるほど、世界の戦史上、ありえないほどの大戦果だったのです。

それだけに、戦いに臨んでの兵隊さんたちの戦いが、どれほどまでにすさまじいものであったか。
どれほどまでに苦しく、辛い戦いをしてくださっていたのか。
そのことに謙虚な気持ちで思いを馳せるとき、わたしたちには、いままで見えなかった何かが見えてくるように思います。

乃木大将は、自らの子を二人、この戦争でなくされています。
そして乃木大将は、戦後、なくなられた兵、ひとりひとりのために、弔問の旅をされました。
いまこれをお読みの皆様のご自宅に近い氏神様のおわす神社には「忠魂碑」と書かれた、大きな石盤が建てられていようかと思います。うちの近所の神社にもあります。

こんどお時間がありましたら、是非その石碑の裏側をご覧になってください。
日露戦争でお亡くなりになられた、地元の兵隊さん、おひとりおひとりのお名前がそこに刻まれています。
そしてこれが建てられたとき、地元では盛大な慰霊祭が執り行われ、乃木大将もそのほとんどに参加されているのです。

当時の日本軍の給料は、将軍と兵卒で、わずか2倍程度の給料格差しかありません。
乃木大将は、そのわずかな給料の中から、弔問のための費用をねん出されたといいます。
だから奥さんの静子婦人は、そこらの女中さんのようなみすぼらしい服をいつも着ておいでだったといいます。
ある日、名古屋だったと思いますが、乃木大将の着替えの衣服を持って東京から静子夫人がひとりでやって来られたそうです。
そのとき、乃木大将の宿舎となった旅館では、大将に会いにきたという女性が、あまりにみずぼらしい姿だったために、旅館で追い払われたという有名な逸話があります。

金や給料よりも、もっともっと大切なものを大事にされるお方だったからこそ、兵たちはこの大将のもとなら、ついていける。この大将のモトなら俺は死ねる。そう思って戦ったのです。そして乃木大将は、それだけの尊敬を、みんなから集めうる大将だったのです。
そうでなければ、旅順要塞は落ちていません。

ロシアの当時の文書には、「満洲を制圧後、朝鮮半島を占領し、そのうえで日本を従えて太平洋に打って出る」とはっきりと書かれています。
お亡くなりになられた1万5千の兵隊さんたちは、帰ってきませんが、けれど彼らが命を犠牲にしてまで勇敢に戦ってくれたからこそ、いまの私たちがいる。このことは事実です。

そして、もし、日本がロシアの目論み通りに制圧されていたのなら、その後の大東亜戦争は起こらなかったことでしょう。
けれど、日本は21世紀となったいまでも、おそらくロシアの植民地であり、日本人は奴隷となっていたことでしょう。
そして東亜諸国も、アフリカも、21世紀のいまなお独立国なんてまったくなくて、どこも貧窮のどん底の、植民地奴隷となっていたことでしょう。

時折、アフリカの飢餓のニュースが流れます。
手足を骨ばかりに痩せこけた子供たちの姿が、写真などで紹介されます。
あれが、日本であり、日本人となっていた可能性が大なのです。

壮絶な戦いを制した乃木大将は、敵の将軍ステッセルにも最大の敬意を表し、さらには捕虜にして日本に連れ帰ったロシア兵に最大の配慮をしています。
このとき、捕虜として日本に連れて来られたロシア兵たちが、自分たちの収容されている宿舎には、常に煌々と電気が灯っていたのに、周辺の町には、灯りがなく、いつも真っ暗。

不思議に思ったロシア兵が聞いたそうです。
「どうして周囲の町は真っ暗なのですか?」
収容所の兵が答えました。
「これが普通の状態です」
「われわれは貧しいのです。しかし、陛下を思う気持ちは、誰にも負けません」

それを聞いたロシア兵は、日本の強さの原因は、まさにここにあると思ったとそうです。
そうした時代の心を、わたしたち現代に生きる日本人は、もういちど考え直してみる必要があると思うのです。

※この記事は2010年3月の記事をリニューアルしたものです。




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コメント
坂の上の雲
NHKドラマ「坂の上の雲」でも、残念ながら確かに乃木大将は有能ではない、旅順攻略で犠牲を出し過ぎたという印象しか受けませんでした。
2014/08/21(木) 22:47 | URL | 善造 #-[ 編集]
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2014/08/20(水) 02:52 | | #[ 編集]
少年の頃に、父親から詩吟教室へ連れられて、漢詩の意味も解らずに親父と一緒に吟詠していましたが、最初に教わって今でも覚えているのが、乃木希典大将作の「金洲城外立斜陽」でした。二百三高地の激戦後に、息子達も含め多数の部下の犠牲者を出してやっと攻略した指揮官としての、乃木将軍の心中を察する作品です。今なお詠い続けられるこの作品は、日本人の心に染みて乃木将軍の人格を知る上で代表的な詩だと思います。
2014/08/19(火) 22:10 | URL | ひげ親父 #-[ 編集]
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2014/08/19(火) 20:56 | | #[ 編集]
No title
乃木神社に参拝した際、宝物殿も見学したことがあります。
その中で本来双眼鏡であるはずなのに、改造して片方しかない『単眼鏡』が置いてありました。乃木大将は幼少期の事故で左眼の視力をほとんど失っていたにも拘らず、周囲には一切話されなかったという噺を思い出しました。
2014/08/19(火) 18:59 | URL | h #cJ8rOc6M[ 編集]
No title
旅順要塞戦の兵力は、ロシア軍が63,000人で日本軍が51,000人(第1階層攻撃時)。最終的な被害は、ロシア軍が戦死16,000人で戦傷30,000人で日本軍は戦死15,000人で戦傷44,000人。
攻撃側の兵力の方が、守備側よりも少ないことに驚きます。
また、セヴァストポリのことは知らないのですが、旅順の場合は要塞の後方に市街地があり、そこには司令官の妻を始めとする文民が居住していました。通常ならば、戦争が始まる前に文民は、戦地から引き揚げさせると考えるのです。これを残していた理由は一つで、ロシア軍は日本軍に負けるはずがないと思っていたのでしょう。
ロシアの皇帝は、日本との戦争を決めるのはロシア皇帝であると言っていましたし、戦争に負けることも頭になかったのですから、そんなものです。

日本にとって、戦死15,000人は大変な損害です。日露戦争全体の日本の戦死者55,000人、病死27,000人、戦傷153,000人から見ても、大きい比重を占めています。

しかし、これが倍の損害であっても、旅順の要塞は堕とさなければ、その後に勝利できなかったと思います。もっとも倍の損害であった場合、後の会戦のときには兵力不足で勝利を勝ち取ることが、できなかったかも知れません。

日本が危なかったとばかり述べていますが、本当に良く勝利を勝ち取ることができたと思います。
日露戦争全体が日本の国力を考えた場合、限界ぎりぎりというか良く戦争を始めたと思いますし、それでも戦争をしなければならない状態に追い込まれていたのでしょう。
ご先祖様は、凄かったと思います。
2014/08/19(火) 17:54 | URL | ポッポ #-[ 編集]
小坪議員の応援をよろしくお願いいたします♪
ねずさん、毎日のねずブロ更新ありがとうございます。

さて、赤旗新聞の問題点を取り上げてらっしゃる小坪議員からの援軍要請です。

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/1960883/1969016/95748244


是非、皆様の応援クリックを
よろしくお願いいたしますm(__)m
2014/08/19(火) 17:44 | URL | ラベンダー #MMIYU.WA[ 編集]
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このコメントは管理者の承認待ちです
2014/08/19(火) 13:19 | | #[ 編集]
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2014/08/19(火) 12:29 | | #[ 編集]
乃木大将の素晴らしさに感動しました
今日の物語は私の胸に感動をもって響きました。それは私の曽祖父が兄弟で日露戦争に従軍して長男は怪我がもとで野戦病院で亡くなりましたが、次男は乃木大将のお世話係りという名誉を受けて無事に帰国して我が家の家督を継ぎました。その後その功で金鵄勲章の栄を賜りましたが。幼少時祖父の膝にのりながら乃木大将の話を聞いてすごい大将がいたんだと子供ながらに思っていました。
ちょうど日露戦争から100年となった年に曽祖父の100年祭を行うことができました。以来、何かに守られていると感じるこのごろです。
2014/08/19(火) 12:23 | URL | 草莽の民 #-[ 編集]
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2014/08/19(火) 12:05 | | #[ 編集]
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2014/08/19(火) 09:02 | | #[ 編集]
乃木大将と東郷元帥は、今なお日本にとって、また世界においても尊敬されている
名将です。司馬遥太郎なども乃木大将を愚将の様に書いているのは、甚だしく失礼だと想います。 乃木大将とこの人の為なら死んでも良いと想って必死に戦って下さった軍人の方達がおられたからこそ、今の日本があり私達があるのだと決して忘れてはならない事です。 ありがとうございます。
2014/08/19(火) 07:55 | URL | ケイシ #-[ 編集]
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2014/08/19(火) 07:25 | | #[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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台灣民政府
台湾民政府
サンフランシスコ講和条約で、日本は台湾に関して処分権は連合国に提供しましたが、領土の割譲は行っていません。条約以降、連合国も日本も台湾の処分先を決めていません。つまり台湾はいまも日本であり、台湾にいる1500万人の戦前からいる台湾人は、日本国籍を有する日本人です。私は台湾民政府を支持します。
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コメントをくださる皆様へ
基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメントは、削除しますのであしからず。
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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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