明察功過 - ねずさんのひとりごと

明察功過

2014年09月17日07:18  日本人の心 写真あり

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松に秋草図屏風


古代、中世の貴族と聞くと、なにやら和歌ばかり詠んでいて、それが「みやび」な世界であったと、勘違いされている人たちが多いように思います。

実は全然違います。

当時の京の都のお公家さんたちというのは、いまでいう政治家であり官僚です。官僚なら、いまでいう国家公務員の上級職です。
いまでは、国家公務員は試験によって選ばれ、また議員は選挙によって選ばれますが、それが千年前には世襲制であったというだけの違いです。

世襲制であったことに抵抗感を持つ方がおいでになるかもしれませんが、良い大学を出て試験に合格した人が必ずしも民衆のためになる政治や行政を司ることができるかといえば、それが疑問なことは、いまでは誰でも知っていることです。


政治家も官僚も、人の上に立つ人です。
そして人の上に立つ人には、常時、人々の模範としての自覚と行動が必要です。
そして最も大切なことは、人の上に立つ人というのは、いざというとき、たいへんなストレスが加わったときにどのような行動をするかです。

良いときは、誰もがニコニコして良い人なのです。
けれどそこに何らかのストレスが加わったとき、家柄というか出自というか、そういう面は自然と出てしまうものです。遺伝の働きというのでしょうか。
ですから昔は、学校の成績だけでなく、どういう家で育った人なのか、先祖にはどういう人がいたのかなどが問題視されました。

試験によって人の上に立つことと、世襲であることと、どちらが優れているかは、実は、なんともいえないことです。
少なくとも試験や選挙によって政治家や議員を選ぶという制度は、できてまだ百年そこそこです。
そしてその間に日本は度重なる戦争の惨禍を招いています。
戦後の高度成長期において政治家や官僚たちは、むしろ不要といってもよいくらいの存在であったことは、ホンダの創業者の本田宗一郎氏がよく語っていました。昔の日本は世襲制ですが、奈良平安の世なら五百年、江戸時代なら二百七十年もの間、安定し、犯罪のない社会が築かれています。

ちなみに試験というならば、中国では高級官僚採択試験として、古くから超難関とされる科挙の試験がありました。
ではその中国が古来から平和で安定した社会を構築できかといえば、それは疑問です。
また、三番歌の柿本人麻呂のように、出自は必ずしも高級貴族の家とは縁遠くても、学問によって重用され、百人一首でも二柱の天皇の次に歌が配置されているような人もいます。
日本の中世社会は、世襲制ではありますけれど、広く庶民にもその門戸は開かれていたのです。

そういう中世の貴族たちが、昨今ではなにやら朝から晩まで和歌ばかりを詠んでいた暇人で、男女仲にふしだらでだらしない愛欲におぼれ、庶民からカネを巻き上げて贅沢ばかりをしていたとんでもない貴人(奇人)たちであるかのような情報操作がなされています。
実に怪しからん、とんでもない印象操作です。

まず和歌です。
なるほど彼らは和歌をとっても大切にし、度々、歌会なども催していましたが、これには理由があります。

百人一首で、一番古い歌人は天智天皇ですが、その天智天皇の御在位は六六八年から六七二年までです。
それに先立つ約七十年前に、聖徳太子が十七条憲法をあらわしています。
その十七条憲法の第十一条に「明察功過」という言葉があることを、先日解説させていただきました。

「明察功過」は、「功過(こうか)をあきらかに察しよ」と読みます。
「功過」とは、功績と過ちのことです。それを結果が出てからシノゴノ言うのではなくて、結果が出る前に「察しよ」というのです。

このことは現代社会の政治や行政や司法とは、真逆の姿勢です。
現代では、何事も結果主義で、成功も失敗も、結果が出てから評価するというのが「あたりまえ」の常識になっています。
あらかじめ「察する」のではなくて、起きた結果だけを「評価する」という現代の社会姿勢は、実はとっても無責任な姿勢です。
なぜなら既に結果が出ている以上、結果責任は施政者ではなく、当事者が負担することになるからです。
一方「察する」という社会姿勢は、自体を未然に把握しなければならないという意味で、その責任は人の上に立つ側がすべてを負担することになります。施政者に厳しいのです。

たとえば嫌がらせやイジメなどの被害を受けて警察に相談に行きます。
すると、実際に怪我をしたり死者が出てからでないと警察は動けないという。
けれど、実はこれでは遅いのです。

けが人や死者が出たら下手人を逮捕するのはあたりまえです。
そして下手人を処罰する。当然です。怪我をさせたり殺したりしたのです。なぜ下手人が処罰されるかといえば、暴力事件や殺人事件を犯したからです。つまり犯人です。ですから悪いのは犯人だという。

けれど社会の姿勢としては、これは実は犯人に対する責任転嫁でしかないのです。
火事になったら火を消すのがあたりまえですが、そもそも火災という不幸が出ないように予防することは、もっと大事です。
同様に、暴力事件や殺人事件が起こらないよう、日頃から注意を怠らず、そういう事件が起こりそうな気配を察知して、あらかじめ対処する。そして暴力事件や殺人事件事態が発生しない世の中を築く。そこのことほうが、よっぽど大事なことです。
同様に、良いことをしたから褒めるのではなく、良いことができる可能性があるという段階で褒める。

これらの場合、褒める側、あるいは逮捕・問責する側に逆に結果責任が生じます。
学校のイジメ問題なら、イジメが起きてから、「たいへんだ、たいへんだ」といって騒ぐのは愚の骨頂です。
挙げ句の果てが、「イジメた奴は誰だ」とばかり、学校内で犯人探しをはじめる。
そんなことをすれば生徒間にも、PTAと教師の間にも疑心暗鬼が起こり、生徒の絆もPTAと教師の関係も、ズタズタに引き裂かれてしまいます。
なぜそうなるかといえば、責任を「イジメた生徒に転嫁している」からです。

では本来はどうあるべきでしょう。
そもそもイジメが起こらない校風を作る、イジメが起きそうなら、その徴候を察して、先に生徒たちと話し合い、イジメの発生を未然に防ぐ。
親や生徒たちだけでなく、社会が一番望んでいるのは、そういうことなのではないでしょうか。
そして、こうした「先んじて手を打つこと」、「察する」ことを大切にしようとする社会姿勢の場合、その責任は、誰が負担するのでしょう。
学校であり、教師たちであり、親たちなのではないでしょうか。

「察する」という社会姿勢は、それだけ施政者に厳しいのです。
厳しいですが、国をあげてこうした取り組みがなされれば、当然のことですが、民の安寧は守られます。

実は、古代の日本において犯罪がほとんどなかったこと、あるいは江戸日本において、犯罪がほとんど発生しなかったのは、こうして事前に犯罪の発生そのものを抑止する、犯罪が発生しそうなその情況をあらかじめ察して、事前に手を打つということが、現実に行われ、それが定着していたからです。
これが十七条憲法十一条の「明察功過」です。

話が少し脱せんしますが、江戸の享保年間といえば、徳川将軍吉宗の時代です。
その享保の二十年間、江戸の小伝馬町の牢屋に収監された犯罪者の数は、二〇年で、ゼロ人です。誰ひとり逮捕される人がいなかったのです。
それは役人がさぼっていたとか、そういうことではなくて、犯罪の発生を未然に防ぐという体制が、完全に定着していたからこそ実現できたことだったし、犯罪が起これば、それは担当している同心の責任であり、その上司の与力の責任になるから、彼らは必死になって犯罪抑止につとめたのです。

最近ではどうでしょう。
警察は犯罪が発生してからしか動かず、その一方で、かつての日本社会では考えもつかなかった、殺人、暴力、強姦が多発していますし、学校では多くの学校でイジメ問題が、まるで解決されません。
あたりまえです。基本が間違っているのです。
起きてから評価しているだけだからです。

では昔の日本ではどうだったかというと、起きないように事前にあらゆる努力を払ってきていたのです。
そしてそれこそが、政治家や官僚たち、あるいは教師たちなど、人の上に立つ人たちの責任だったのです。
そしてその原因の糸をずっとたぐっていくと、聖徳太子の十七条憲法の「明察功過」に行き当たります。

このような様々な事象を事前に察知してあらかじめ手を打つという仕組みは、時代が荒れた平安末期の時代には完全に定着していたことです。
だからこそ、古代の日本では、平安末期まで約600年にわたる平安が保たれたのだし、江戸時代においても、犯罪の発生そのものがなかったのです。

平安末期になりますと、保元の乱以降、武力衝突が目立つようになり、源平合戦が起こり、鎌倉幕府が起こるという、血なまぐさい戦(いくさ)が頻発するようになりますが、いずれの場合も、実際に反乱が起きたから対処するというのではなくて、反乱が起きそうだ、あるいはその気配があるという時点で、兵を挙げて逮捕者を出しています。
要するに、あくまでも争いが起きないように、事前に手を打つということが、施政者におけるもっとも重要な役割という認識がそれらの根底にあるわけです。

そして事態が起こらないように、あるいは良い方向に向かうように事前に手を打つためには、あらかじめ、わずかな徴候から、事態を「察する」という社会姿勢、社会文化が、その大前提になります。
そして「察する」ためには、施政者の側、人の上に立つ側に、それだけの「察する能力」が必要になります。

ですからそのために貴族たちは、和歌を詠み、また読むことで「察する」能力を極限まで磨き上げ、また相互にそれを啓発するために、頻繁に歌会を催していたのです。
なぜなら和歌というのは、上の句と下の句がありますが、その上下の句の文字上に書いてあることは、詠み手の真実、詠み手が伝えたい心ではありません。
いわば上の句と下の句は、ベクトルのようなもので、本当に言いたいことは別にある。
それを、上の句と下の句から、「察する」という文化であり、技術であり、芸術だからです。

そういう「察する」技術を、彼らは歌会を頻繁に催して自分の「察する能力」を磨き、また部下たちの「察する」能力を判断し、人事を決めたりしていました。
それは、どこまでも「明察功過」がその根底にあるからです。
ですから彼らは、単にお楽しみとして和歌をやっていたわけではなく、どこまでも政治のため、民のため、国のために、忙しい政務の合間に時間をつくって、和歌をやっていたのです。

ところが昨今の教育現場では、その事の前後を逆転させて、「政治や行政を放ったらかしにして歌会ばかりを開いていたのだ」と生徒に教えるし、またドラマや映画、あるいは小説などにおいても、お公家さんといえば、「まろこそはぁ〜」と、仕事もしないで歌ばかり詠んでいたまるで遊び人のように描かれます。実にとんでもないことです。それは日本の文化に対する冒涜であり、日本文化への破壊行為です。

彼らは、もちろん楽しみのため、という側面もあったでしょうが、政治や行政を司る者として、その能力を生涯にわたって高めようとし、その能力を最大限に活用して、政治や行政を行っていたのです。
能書きばかりで仕事もせず、大物を装って気取るだけで民のために何もして来なかったというのは、斜め上にある国の貴族たちです。
わたしたちの国の統治者たちであった貴族たちとは、まるで異なる存在です。
混同しないでいてもらいたいと思います。

奈良、平安の昔には犯罪がほとんどなかったというのも、犯罪が起こらないように、民間の事情をよく察して、常に先手をとって犯罪を抑止してきたからこそ、何百年もの間、大事が起こらずにこれたということができます。
政務をほったらかして歌ばかり詠んでいたのでは決してなくて、あくまで政務を行うために、和歌を通じて、相互にその能力を磨いていたのです。

また同時に和歌は、歌会などを通じて、昨今のビジネスマンのゴルフの付き合いのような人間関係構築のための場にもなっていました。
そういう人間関係構築という意味では、体力と技術のゴルフよりも、察する心そのものを養う歌会の方が、もしかしたら、政治家や高級官僚のたしなみとしては、はるかに優れていたといえるかもしれません。

ところが戦後の日本の政治や行政は、和歌を失いました。
そしていまは、「結果しか見ない」という世の中になっています。

「察する文化」では、察した側、つまり人の上に立つ側に責任の全部が生じます。
「結果で評価する文化」では、下の者が全責任を負います。
果たして、民衆にとって、あるいは人類にとってと言っても良いのですが、果たしてどちらが幸せといえるのか、是非みなさんで議論してみていただきたいテーマであると思います。


次に平安貴族たちの男女の仲についてです。
これまた、平安貴族の女性たちといえば、なにやら「なよなよ」として十二単の袖を涙で濡らしながら「ヨヨ」とばかり泣き崩れ、毎日夜這してくる複数の男に体をまかせる、ただの性の道具のような存在として描かれることが多いようです。
これまで、斜め上の国の人にとっては、理想かもしれませんが、日本ではまったく違います。
なるほど通い婚社会であったことは事実ですけれど、貴族の男性が貴族の女性のもとに通うためには、前もって家人をつかって相手の女性に歌を送り、その女性だけでなく、場合によってはその親御さんたちまでも、その歌を見てもらい、「この人なら」となってはじめて、通うことができたのです。
だいたい、そもそもが大家族所帯なのです。しかも大勢の家人たちもいるのです。内緒で通うなんてことは、土台無理な話です。

そしてねず本の第二巻で小野小町や清少納言のことなどを紹介させていただきましたが、彼女たちは、ものすごくのびのびと、そして活き活きとして暮らしています。
だいたい、こうした中世において、女王でもない女性たちの名前がちゃんと残っているということ自体、西洋や東洋の自称大国や、事大主義の半島人の国には、ないことです。
それをいうと、「そうはいっても、小町とか清少納言とか、本名がわかりませんよ」などと聞いたようなことを言う人がたまにいますが、男でも女でも、貴人、つまり目上の人は、本名を名乗らない、というのがしきたりでした。

浅野内匠頭の本名は長矩(ながのり)ですが、内匠頭が生きていた時代に、彼のことを長矩君、などと呼んだ人は、おそらくいません。いても親くらいなものです。
大切なものは隠す。
それを晒すのは、下の者ということです。
ですから小町や少納言と呼ばれたのは、彼女たちが貴人だからであったのです。
そしてその彼女たちは、実に溌剌と生きています。
百人一首に出て来る赤染衛門なんて、女友達のために、高官の男性に対して、まるでタメ口で、「あんた、グレてやるわよ」と堂々と脅しています。
ぜんぜんナヨナヨなんてしていないのです。
千年前も千年後も、日本女性は日本女性です。いまも昔も変わりません。


もうひとつ、これが三つ目になりますが、学校の教科者によっては、貴族たちは毎日贅沢三昧な食事をし、民は粟ばかり食べていたかのような記述がなされているものがあります。
常識で考えろといいたくなります。
豪華絢爛に、テーブル一杯にごちそうを並べても、人間の胃袋の大きさは、貧乏人もお金持ちも変わりません。食べる量は同じなのです。
むしろ、上に立つ者から贅沢を禁じ、みんなが食べていけれる社会を築き上げてきたのが、日本社会です。

そもそも富とは何でしょうか。
いまでは、マネーゲームと称して、実体経済以上にマネーだけがネット上を飛び交う時代になっていますが、大昔は、ひらたくいえば、富というのは、食べ物のことです。もっといったらお米のことです。

最近の在日系企業では、社長の年収が数百億円で、一般社員一日16時間労働で、ようやく12〜3万円くらいの手取り給料という会社が多いようですが、もとからある日本企業では、一般社員と社長の給料は、上場会社でもせいぜい10倍止まりです。
胃袋の大きさなんてかわらないのです。
だから、みんなが飢えないようにするためには、みんなにお米(富)が行き渡るようにする。そのために貴族からまず贅沢をしないで生きる。
それが大昔からの日本の姿です。
それでいて、いちばんたいへんなことを、上に立つ人が率先して行う。
だからみんな付いて行ったのだし、上下の信頼も生まれたのです。
そして信頼があったから、貴族への反乱もおきなかったのです。

そしてこうしたことの背景にあったのが、聖徳太子の十七条憲法にいう「明察功過」なのです。




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