ダショー西岡と日本人 - ねずさんのひとりごと

ダショー西岡と日本人

2015年07月19日07:58  日本人の心 写真あり

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ブータンの少女と民族衣装
ブータンの民族衣装


日清食品が世界初のインスタントラーメンである「チキンラーメン」を発売したしたのが昭和33(1958)年のことですが、この年、大阪府立大学農学部に、ある依頼が寄せられました。
それは、
「日本に農業専門家を派遣してほしい」というものでした。

派遣先はブータン王国です。
ブータンは、インドと中共にはさまれた仏教国です。
国民総生産にかわる国民総幸福量(GNH)という概念や、さまざまな環境政策、伝統文化保持のための民族衣装着用の強制など、非常に特色のある国でもあります。

【CGS ねずさん】
第17話 曲解される百人一首 〜恋の歌ではありません!


ブータン王国
ブータン王国


国旗のデザインが、これまた難しい。
ブータンの国旗
ブータン国旗


四本の足全部に如意宝珠を持った龍の絵柄ですが、じっとこの絵を見ていると、なんだかこの龍の姿が日本列島に見えてきます。
それもそのはず。ブータン人のDNAは、日本人とそっくりのものなのです。

さて、依頼を受けた阪大農学部の中尾佐助助教授には、派遣するに足る人物が、すぐにピンと浮かびました。
ブータン王国という古い因習と伝統の仏教国家で、農業指導をするためには、ブータンの人々の生活の中に溶けこみ、「あの人のいうことなら間違いない」という人としての信頼を勝ち得ないといけません。
「それなら彼しかいない!」
それが、当時、同学部の学生であった西岡京治(にしおかきょうじ)さん(当時25歳)でした。

西岡さんは、性格が穏やかで謙虚、友誼に篤く誠実で努力家です。
ブータンでの農業指導には、根気と忍耐が要求されるであろう。
それができるのは、彼しかいない。

中尾助教授は、すぐに西岡京治に相談をもちかけたそうです。
話を聞いた西岡さんは、同じ年にネパール学術探検隊に参加し、ヒマラヤの自然の美しさと、そこに住む人々の貧しさを見て、自分が彼らの生活をよくすることに少しでも貢献できたら・・・という思いを得ていたところでしたので、まさに二つ返事でブータン行きを承諾しました。

昭和39(1964)年2月、海外技術協力事業団(現・国際協力事業団)から、正式な派遣決定の通知が届きました。
西岡さんは、新妻の里子さんを伴って、その年の4月、ブータンに飛びました。
到着した西岡さんは、さっそく開発庁農業局の事務所に出向きました。

農業局は、局長も職員もすべてインド政府から派遣されたインド人でした。
彼らは、自分たちこそがブータンの農業事情を一番知っているのだと、後からやってきた西岡さんをとりあいません。
成果があがろうがあがるまいが、インド政府から給料がもらえるのです。
あとからやってきた日本人が成果をあげたら、彼らの生活が破られてしまう。
まあ、ありがちな話です。

農業局の冷たい態度に、西岡さんは、心が折れそうになりました。
けれど、ここで負ければ、何のために自分が派遣されてきたのかわかりません。
彼は、めげそうになる心を振り絞りながら農業局に働きかけて、ようやく農業試験場内のわずか60坪ほどの土地を提供してもらいました。
そこはひどく水はけの悪い土地で、あきらかに多彩な野菜の栽培が難しい所でした。

栽培場所が決まると、ブータン農業局は、西岡に3人の少年を実習生につけてきました。
12~3歳のまだほんの少年です。
それは局からの露骨な嫌がらせであったのかもしれません。
そして、そうと気がつけば、普通なら怒るかあきらめるかして日本に帰ってしまいます。
まさに、それが狙いです。

西岡さんも、そうであろうということには気が付きました。
けれど彼は、笑顔で少年たちと接すると、そんな子供達と一緒に日本から持ち込んだ大根の栽培を開始しました。
子供達に、畑の耕し方から種の蒔き方、土のかけ方、ひとつひとつを丁寧に実演してみせながら、子供達と一緒に大根を育てました。

大根は、昼夜の寒暖差が大きいほど、よく育ちます。
ブータンは寒暖の差の激しいところです。
三ヶ月後、大根が育ちました。
畑から大根を抜いてみると、それはいままで見たこともないような、おおきな大根に育っていました。
このとき、抜いた大根を抱えて見せた子供たちの笑顔が、たまらなく美しかった。
その笑顔は、西岡さんにとっても、忘れられない笑顔になったといいます。

翌年、西岡さんの大根の栽培の成功を喜んだブータン政府は、試験場を水はけのよい高台に移してくれました。
今度はなんと、広さも3倍です。
噂を聞いて、ブータンの知事や国会議員たちも、西岡さんの試験農場に視察にやって来ました。

そして国会議員のひとりの提案で、西岡さんはブータンの国会議事堂前で、試験場で栽培した野菜を展示させてもらいました。
大評判でした。
なにせ、見たこともないような肥えた、おいしくてみずみずしい野菜たちなのです。
噂が噂を呼び、ついには国王陛下から、もっと広い農場用地を提供するという申出をいただくことになりました。
西岡さんは、このときの模様を「ブータンに来て、これほど嬉しいことはなかった」と語っています。
このとき作られた農場が、バロ農場です。
そしてこのバロ農場が、その後のブータンの農業近代化を一気に加速することになります。

昭和39(1971)年、西岡さんは、ブータンにきてはじめて、農業試験場ではなく「村で」、それも「米作り」に挑戦することになりました。
問題は、現地の田植えの方法でした。
日本では田植えというと、縦と横を一定の等間隔で植える(これを並木植えといいます)があたりまえです。
ところが当時のブータンは、勝手気ままな植え方をしていたのです。
これですと手押しの除草機が使えません。
苗の苗との間の風通しも悪くなるので、生育にも悪影響が出てしまいます。
要するに、適当にやっていても、稲の栽培ができたのです。

西岡さんは、村人たちに何度も並木植えにしませんか、と相談を持ちかけました。
けれど村の人達は「ワシら、昔からこうやってきた」と、とりあってくれません。

ここが大事なところなのですけれど、西岡さんは、政府の命令だとか、農業局の指示によるものだとか、そのような強制を一切、村人たちにしていないことです。
根気強く、粘り強く、話し合って説得しています。

説得をするのに際して、よく言われる方法といえば「アメとムチ」です。
言葉を変えて言えば「収賄と強制」です。
それが説得することだと信じられている国や民族もあるようです。

けれど、それは日本式ではありません。
西岡さんは、ただただ誠実に何度も足を運んで、誠意をもって説得をし続けたのです。
そして説得というのは、古今東西、話の内容以上に、その人の誠実さがものを言います。

ようやく「やってみよう!」といってくれる農家が現れてくれました。
けれど、そうなればなったで、もし並木植えで収穫量が上がらなければ、西岡さんの信頼は一気に失われてしまいます。
このときの西岡さんは、まるで祈るような気持ちで稲の生育を見守ったそうです。

結果は・・・・。

並木植えの田は、従来型の雑多な植え方の田と比べて、なんと40%もの増産となりました。
村人達は、驚き、喜びました。
そしてなんとブータンでは、数年のうちに約半数が、いまでは王国の8割の田が、西岡さんが持ち込んだ並木植え栽培になっています。

昭和51(1976)年、西岡さんは、国王の命によって、シェムガン県の開発に従事することになりました。
この地は、貧しいブータンの中でも最貧地区・・・というより極貧地区といえるところでした。
焼畑農業が営まれているのですが、収量が減ると、人々は別な土地に移動するという生活でした。
西岡さんは、ここに10人のスタッフとともに乗り込みました。

いきなりよそ者がやってきたのです。
村人たちは、西岡さんの言うことに、誰も耳を貸しません。
このときの西岡さんの村人たちとの話し合いは、なんと800回に及びました。
西岡さんは、それでも根気強く村人たちを説得していきました。

西岡さんの考え方にあるのは「身の丈にあった開発」です。
いたずらに巨額の開発費用をかけて、たとえば木でできた吊り橋をコンクリート製の近代的橋に掛け替えるのではなく、耐久性のすぐれたワイヤーロープを使って、吊り橋を直す。
あるいは水田に水を引くに際しても、重機を用いるのではなくて、竹などを利用しました。

重機で開発すれば簡単です。
けれど、それでは、開発の応援に入った人達の成果にはなっても、村にそのインフラが残りません。
どこまでも村人たちが、自分たちで用意できる範囲で、開発をする。

実はこうした方法は、終戦までの支那で実際に行われていた日本の農業指導のやり方でもありました。
支那人達は、農業をしても、収穫物は親方に搾り取られてしまいます。
ですから安心して土地を開墾したり耕したりすることもできない。
日本は、戦前戦中、大陸で多くの土地を開墾しましたが、そのために治安をしっかりと維持することと、いまでいう耕うん機のようなエンジンのついた農機具は極力使わず、できるだけ現地の道具で工夫して農業の振興や土地の開墾をしてます。

西岡さんは、そうした戦前戦中の日本人と同様、どこまでも現地で調達できる道具にこだわりながら、17本の壊れかけて危険だった吊り橋を掛け替え、360本もの水路を完成させました。
このとき村人たちと一緒に作った道路は、なんと300kmにも達したといいます。
そのすべてが、人力です。

こうした工事を通じて村人たちの信頼を得た西岡さんは、ようやく村人たちと共同でシェムガン県に水田を造りました。
その規模、なんと60ヘクタールです。
西岡さんがやって来る前までの水田が1~2ヘクタールであったことを考えれば、なんと50倍の成長です。

これにより極貧地区だったシェムガン県は、またたく間に生活が安定しただけでなく、またまくまに豊かな村に生まれ変わりました。
子どもたちが喜ぶ学校もできました。
診療所もできました。
そして村人たちは、ようやく定住する生活を手に入れることができるようになったのです。

西岡さんたちが村を去る日のことです。
見送りに集まった村人たちから、
「はじめに西岡さんが言ってくれた通りになったよ」という言葉がでました。
西岡さんにとって、なにより嬉しい言葉でした。
村人たちは、涙を流しながら西岡さんたち一行を見送ってくれました。

ダショー・西岡
ダショー西岡


昭和55(1980)年、西岡さんは、長年のブータンでの農業貢献が評価されて、ブータン国王から「ダショー」の称号を授与されました。
「ダショー」というのは、ブータン語で「最高に優れた人」という意味です。

ブータンでは、この位は、最高裁の判事クラスしかもらえない称号で、ブータンで最も栄誉ある顕彰です。
このとき西岡さんは47歳。
ブータンに来てから16年の歳月が経っていました。
そしてその後も西岡さんは、まる12年ブータンにとどまり、農業指導を続けました。

そして平成4(1992)年3月21日、子供の教育のために日本に帰国していた奥さんの里子さんのもとに、ブータンから一本の国際電話がはいりました。
電話の声は、
「ダショー・ニシオカが亡くなりました・・・」と告げました。
そして突然の訃報に動転する奥さんに、担当官は「葬式はどのようになさいますか」と聞いてきました。

奥さんはとっさに、
「バロでお願いします。ブータン式の葬式でお願いします」と答えたそうです。
ブータンに賭けた夫の思いをいちばん理解している妻でした。
ブータンで28年間です。
夫である西岡さんは、ブータン人になりきってブータンのために生き、ブータンのために死んだのです。
奥さんはこのとき、「夫は、きっとそう願っているに違いない」と確信したそうです。

ダショー西岡の葬儀は、奥さんと娘さんの到着を待って、その月の26日に行われました。
葬儀委員長は、ブータンの農業大臣が勤めました。
葬儀は「国葬」でした。
僧侶の読経が山々にこだましました。

そしてこの葬儀に、西岡さんを慕う5千人もの人々が、ブータン全土から集まってくれました。
ブータンは、国をあげて西岡さんに感謝の心を捧げてくれたのです。

なぜブータンで西岡さんがそこまで尊敬を得るに至ったか。
もちろん、国王の信任が厚かったこともあるでしょう。
ダショーという地位にある偉い人であったこともあるでしょう。
農業指導で結果を出したこともあったでしょう。

けれど、一番大きな理由は、西岡さんが、
 どんなに辛くても、
 どんなに面倒でも、
 どんなに中傷されても、
 どんなに腹立たしくても、

 それでもどこまでも誠実に話し合い、
 みんなに理解してもらうように努め、
 決して天狗にならずに、
 どこまでも謙虚に、
 どこまでもみんなのために働き続けたからに他なりません。

そしてこれこそが、民衆を「おおみたから」とし、民衆こそ天皇の一番の宝としてきたシラス国の、古来変わらぬやり方なのです。



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