今日は廊坊事件があった日 - ねずさんのひとりごと

今日は廊坊事件があった日

2015年07月25日08:38  支那事変 写真あり

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20150725 廊坊駅


78年前の今日、つまり昭和12(1937)年7月25日の深夜に起きたのが「廊坊事件」です。
支那事変のきっかけのひとつになった事件です。
翌26日には「広安門事件」が起こり、29日には「通州事件」が起こりました。
ちなみに、当時、おおがかりな事件だったものが、これらで、その他、一人ないし2〜3名の日本人が襲撃され、リンチに遭って重症または死亡に至った事件は当時、無数に起きています。

最近では、「支那事変」のことを「日中戦争」と呼ぶようになりました。
まだ私などが中高生の頃は、「支那事変、日華事変」だったのですが(支那事変が正しい)、最近これを「戦争」と呼ぶようになったのは、中共政府の「日中戦争こそ、日本による支那への侵略の証であり、中共政府軍は侵略者日本と勇敢に戦った抗日の英雄であり、だから人民解放軍と呼ばれている」という大嘘のコンコンチキ歴史認識に依拠します。

日本の教科書は、近隣諸国に配慮するということになっているわけで、だから教科書が、そうしたデタラメ史観に配慮した記述になるし、そのためには中共の(韓国も同じ)言い分を丸呑みしてデタラメな<学説>を唱えるエセ学者の地位が向上するという、まことにもって不可思議な日本近現代史歴史学会になってしまっています。
おかげで、まともな真実の歴史を教えようとする大学教授の先生は、大学を追われたり、授業のコマを大幅に制限されて、年収がコンビニのパートさん以下になっていたりするわけです。

嘘吐き学者になれば、論文など発表しなくても、高収入と社会的地位が保障され、中には運転手付きの車に乗せてもらえて豪邸に住む大物学者になり、本当のことを繰り返し唱えたり論文にまとめれば、極貧生活のままかろうじて大学に残るか、転職するしかなくなった、というのが、特に平成になってから強くなってきた日本の<学会>です。
<学会>と聞くと、多くの方は宗教団体を思い浮かべるでしょうが、大学の<学会>が、まさにある意味で宗教団体になってしまっているわけです。
なんとか、大学教育の正常化を図っていく必要があると思います。



廊坊事件


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廊坊事件(ろうぼうじけん)
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昭和12(1937)年7月25日のことです。
北京の南東約50kmにある廊坊駅で、日本の軍用通信回線に故障が発生しました。
通信網の確立は、軍隊にとって生命線です。
日本軍は、修理のための通信隊修理チームに、警護のための歩兵1中隊(第20師団歩兵第77連隊第11中隊)を付けて、あらかじめ国民党側に通知をして、ちゃんと彼らの了解を取り付けたうえで約100名を現場に急行させました。

部隊が廊坊駅に着いたのが、午後4時半頃のことです。
廊坊駅には、国民党の約6千人の兵(第三八師第一三二旅、第226団)が駐屯していました。
たいへんな数です。
6千の兵がいるところに、修理兵を含むたった100名の日本兵が派遣されたのです。

この数の違いだけを見ても、日本側が支那国民党とドンパチする気など、まったく持っていなかったことがわかります。
あくまで日本の軍は、日本人の保護と、支那の平穏のために、いまでいうなら国連PKOとして派遣されていたのであって、だからこそ支那をまとめようとする国民党とは仲良くしたいと考えていたし、だからこそ6千人の武装兵がいるところに、たった100人で向かっているのです。

廊坊駅に到着した修理隊の隊長である五ノ井淀之助中尉は、国民党226団に到着を告げ、許可を得て廊坊域内にある日本の通信用電線の修理を開始しました。
あらかじめ通告してあったのだし、用件は単なる修理です。
事態はこれで何事もなく過ぎるはずです。

ところが、その修理の真っ只中である深夜午後11時10分、国民党軍が突然、修理作業中の日本軍に銃撃をしてきたのです。
小銃による単発狙撃ではありません。
軽機関銃による掃射を含むれっきとした軍事攻撃です。

普通なら、この瞬間に、双方の銃撃戦が始まることでしょう。
ところが、この攻撃を受け始めた時点で、日本側は、まったく応射をしていません。
は、応戦せずに、とりあえず弾が当たらないように身を隠せ、とだけ命令したのです。

平和のために来ているのです。
なんでここで戦わなくちゃならないのか。
「発砲禁止、銃弾に当たらないように身を隠して待機!」
これが修理隊の五ノ井隊長の命令でした。

ところがそうして、ひたすら弾を避け続ける日本軍に対し、なんと今度は、廊坊駅北方300mにある国民党の兵営から、銃弾を避けて隠れている日本軍に向かって、迫撃砲による砲火をしてきたのです。
こうなると、全員、犬死です。
五ノ井隊長は、やむを得ず「応戦開始」の命令を下すとともに、本部に応援を要請しました。
国民党による攻撃開始から、なんと50分も経過した、午前0時頃のことです。

いいですか。集団で殴ったり(小銃による攻撃)、蹴飛ばされたり(機銃による攻撃)されても、なんと50分間も、「争いたくないから」と、ただひたすらに耐え続けたのです。
ところが相手が刃物を持ち出してきた(炸裂砲弾による砲撃)ために、やむを得ず、応戦したのです。
これは、誰がどうみても正当な自衛行動であり、正当防衛です。

通報を受けた日本軍(支那駐屯軍)の本部は、事態に驚いて、すぐに第20師団に救援を命じました。
なにせ6千人の、最新鋭の装備に身を固めて、ドイツ式教練を受けた国民党軍に、わずか100名の日本軍が一方的に攻め立てられているのです。

第20師団は即時、歩兵第77連隊(約3000人)を廊坊に急行させました。
さらに26日午前2時30分には、第20師団の本体が、廊坊駅に向かいました。

けれど、悪路の走行で、距離は50kmです。
トラックを使った強行軍でも、1時間に12キロ程度しか進めないのです。
なぜなら、全員はトラックに乗れない。
それだけの数のトラックがない。
だから重い背嚢を背負って駆け足で行軍し、疲れたらトラックの荷台と交替して、今度はトラック乗車隊が駆け足するという行軍です。

「バターン死の行軍」などいうデマが戦後まかり通っていますが、こちらは同じ50キロを4日がかりです。
護送される米兵たちは、手ぶらでのんびり歩き、日本軍は猛暑の中を重装備を付けたまま、米兵100に対して1名で護送しています。
米兵たちは、途中で海水浴までして、楽しい行軍をしていたし、長い休憩時間にはポーカーを楽しんだりもしています。まさにWalking Parkです。
ところが廊坊駅への援軍のための行軍は、まさに地獄のような行軍だったわけです。

一方、廊坊駅の100名は、なんと明け方まで6000人もの国民党の大軍を相手に果敢に戦いました。
どんな戦いだったのか想像してみてください。
昼間、きつい行軍をして、やっと深夜、廊坊駅にたどり着いたのです。
そこで汗水流して通信施設の修繕をしていたら、いきなり銃撃を受け、応戦したら戦争になるからと、ひたすらガマンして応射しないでいたのです。
すると今度は迫撃砲を撃ち込まれ、やむなく応戦を開始したけれど、友軍の到着には、4〜5時間を要し、その間、ただひたすら、防戦をし続けたのです。
60人に囲まれて、殴ったり蹴られたり、刃物まで持ちだされて、しかも深夜にまる半日、ただひたすら防戦したのです。
どれだけの苦労だったか。

日本軍の司令部は、夜明けとともに、廊坊にむけて航空隊を差し向けました。
航空隊が到着すると、ほんのわずかのトラックを横倒しした空間に、通信修理隊の面々が、まるくなって必死で応戦している様子が上空から見て取れたそうです。
眼下には、まるでゾンビの大軍のように、支那兵が円状に群がっていたのです。
「こんなすさまじい状況で、友軍は戦っていたのか」
爆撃機の操縦士の胸には、こみあげるものがあったといいます。

「ざけんじゃねえ、コノヤロー!」
とパイロットは思ったことでしょう。
パイロットは、日頃の修練の業で、支那軍の迫撃砲陣地をピンポイントで爆破すると、あたりにいる支那兵たちに、ギリギリの低空飛行で、猛射を浴びせています。

もっとも当時の日本の飛行機というのは、所持している弾薬の陵が少ないので、100発も撃ったら、それで終わりです。
それでも果敢に地上すれすれまで降下して、なんとかして味方たちを助けようとしたその飛行兵の思いと行動には、目頭が熱くなります。

26日の午前8時、やっと丘の向こうに、日本軍の増援隊の姿が見えました。
するとどうでしょう。
重装備の6000の支那兵たちは、日本の応援部隊が遠くに見えると、とたんに算を乱して逃げ出したのです。

これが26日の朝の出来事で、支那兵たちが逃げた先が、通州です。
そして7月29日に起こったのが、通州事件です。

さて、この廊坊事件について、支那国民党は、当時、次のようなステートメントを発表しました。

 **
7月25日、日本兵約100名が廊坊駅に派遣され、「電話修理」と称して同駅を占拠した。
廊坊を守備していた第38師第13旅の旅長である劉振三は撤退を要求したが、日本軍はそれを拒否した。
26日午前0時に、日本軍が中国軍に発砲を行い、両軍は戦端を開いた。
明け方になり、日本軍機が中国軍に爆撃を加え、更に午前7時には天津から日本軍の増援が到着し、中国軍兵舎は壊滅した。
午前10時に中国軍は廊坊付近から撤退した。
 **

まったく、どの口から、これだけの嘘が、いけしゃあしゃあと出てくるのか、と思います。
事前にちゃんと了解をとりつけていたのに「駅を占拠した」。
駅でもちゃんと了解をとって通信施設修理を行ったのに「彼らは撤退を要求した」。
実際には午前11時10分に支那国民党軍側から発砲しているのに「午前0時に日本軍が支那に発砲した」。
さらに自分たちから迫撃砲まで撃ち込んできていたことは、口にチャックで知らん顔です。
そして最後は、「撤退した」とはおそれ入谷の鬼子母神です。

さらにいえば、6000対100という、圧倒的な戦いでありながら、日本軍を壊滅させることができず、日本の援軍が到着したら、蜘蛛の子を散らすように、逃げ出しています。
よく言えたものです。
勇気をもって戦ったのは、果たしてどちらでしょうか。

そしてその「撤退した」という支那国民党兵が、その3日後に通州で何をしたのか。
事実と虚飾をまぜこぜにして、プロパガンタをまき散らすのは、支那や共産主義者、あるいは左翼の常套手段です。客観的かつ冷静に、事態を把握すれば、どうにも言い逃れができないほど、彼らの振る舞いは不埒なものです。

ちなみに支那人は、この手の嘘を、嘘だと思っていません。
彼らにとっては、面子(メンツ)こそが大事であり、メンツを立てる事こそが正義です。
ですから嘘が正義になります。
日本の学者で、支那人は信頼できる民族とのたまう人がいますが、ものすごくやっかいでわかりにくいことですが、そういう嘘を言うことが、支那に染まった人たちにとっての正義です。
このあたりは、しっかりとわきまえないと、大怪我します。


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広安門事件(こうあんもんじけん)
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廊坊事件は26日に鎮圧されるのですが、翌日(26日)に起きたのが、「広安門事件(こうあんもんじけん)」です。

この日、北京にいた日本人居留民の保護のために、日本陸軍の支那駐屯歩兵第二連隊第二大隊(約千名)が、26台のトラックに分乗して、北京城内の日本軍の兵営に向かいました。

このときも廊坊事件同様、事前に松井特務機関長が、部隊が北京城の広安門を通過することを国民党の政務委員会に連絡し、秦徳純市長の承諾をちゃんと得ています。

すこし補足します。
本来なら日本は国際条約である北京議定書に基づいて駐屯しているのですから、支那側に通告する義務はありません。
地位は日本軍の方が上なのです。
それでも日本は、日本人の常識として「他所の国で兵を動かしているのだから」と、国民党側に配慮しています。
これは日本人の常識からすれば、あたりまえのことです。

ところが、こういう日本人の日本的な行動が、実は支那ではかえって混乱をまねきます。
というのは、支那人には、上下関係しか理解できません。
つまり、許可をする人、される人がいれば、許可をする人が「上」になります。
日本側が許可を申し出れば、あちらさんは、「日本人は我々の下アル」としか考えないのです。
そして上の者は、下の者に対して、何をしても良いというのが、彼らの文化です。

ですから本当ならば、日本軍は、高圧的に彼らを徹底弾圧していた方が、結果としては、彼らに無用な犯行を犯させなかったであろうし、広安門通過に際しても、許可など得ず、堂々と通過し、文句を言ってきたり、発砲でもされようものなら、徹底殺戮して言うことを聞かせるといった行動をとっていれば、日本は安泰だったのです。
実際、北京議定書に基いて支那に駐屯していた国は、日本を含む11カ国ですが、日本以外の諸国の軍は、すべてそのようにしています。
だから彼らは襲われなかったのです。

ところが日本人には、これができません。したいとも思いません。
どこまでも支那人を愛し、支那人たちを人として対等に扱ったのです。
だからこそ、広安門でも、事前通告までキチンとしていたのです。

無政府状態の荒廃地となっていた支那に、自国の居留民保護のために各国は軍を派遣しているのです。
ですから各国の軍は、各国の都合で動けば良く、それに対してシナ兵が文句を言って来たら(彼らの国では軍とヤクザと暴徒は同じものなのですから)、火力にものを言わせて蹴散していました。
そのために、米英などは、支那に駐留している自国民1名につき、1名の軍を派遣しています。
そして言う事を聞かなければ、徹底して攻撃できるだけの備えを常にしています。

これに対し、日本の派遣部隊は、日本人居留民6名につき、軍人が1名の割合です。
あきらかに欧米と比べて軍の派遣要員数が少ない。
これに加えて同じ有色人種に対して、常に公明正大であるべきという姿勢から、支那人たちに対して非道を働くものさえ、まったくありませんでした。

日本軍は、午後6時頃、広安門前に到着しました。
ところが、事前に告知してあったにも関わらず、彼らは城門を閉鎖したままです。
門を開けてくれないのです。

連絡の不徹底は、支那ではよくあることです。
そこで大隊顧問の桜井少佐が事情を説明して開門の交渉をし、その結果、午後7時半頃になって、やっと城門が開門されました。

ところが、日本の大隊が門を通過し始め、部隊の3分の2が通過したときに、いきなり門が閉ざされたのです。
部隊は、城門の内と外に分断されました。
その状態で、いきなり国民党軍が、手榴弾と機関銃を猛射して、日本側に猛攻撃を加えてきたのです。

敵は、城壁の上から、至近距離で攻撃してきました。
何もしないでいれば、日本側は全滅してしまいます。
たいへん危険な情況です。
撃たれた日本側兵士が、バタバタとたおれました。

やむなく日本側も応戦を開始しました。
すると国民党軍は、兵力を増強して大隊を包囲し、日本側に対して殲滅戦を挑んできたのです。

この包囲戦に対する感覚も、日本人と支那人ではまるで感覚が異なります。
これは毛沢東が、実際に日本軍の南京戦を例にとって述べていることですが、「日本軍は敵を包囲しても、敵がそこで降参すれば、まるごとその兵たちを逃がしてやっている。こんなことをしているから、何度でも敵は武装をし直して襲って来るのだ。包囲したら、たとえ敵が降参しても皆殺しにする。それが戦いというものだ。」と、それが毛沢東の考え方だったし、支那人の古来変わらぬ戦いなのです。

日本側は多数の死傷者を出しながらも、至近距離、しかも塀の上から狙って来る敵を相手に、よく持ちこたえました。
これも、情況を考えれば、本当によく持ちこたえる事ができたものだと思います。
普通なら、とっくに全滅しています。

こうして最初の発砲から約2時間が経過したとき、旅団からの日本軍救援隊が到着しました。
そして敵に対して、次の内容で一時的な停戦を呼びかけました。

1 国民党軍は、いったん離れた場所に集結する
2 日本軍のうち、城内にいる者たちは、城内公使館区域に向かう。
3 城外に残されたものは豊台の日本軍旅団に帰投する

こうして、広安門では、ようやく午後10時過ぎに停戦が整ったのです。

この戦いにおける日本軍の死傷者は19名(戦死2名)でした。
他に同行していた軍属や新聞記者も負傷しています。
そしてこのときの広安門事件の首謀者や残党たちが、28日までに集結したのが、通州駅だったわけです。

◆通州事件
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◆通州事件の体験談
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広安門事件(1937年) 中国のだまし討ち




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