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日本は「たみ」が「おほみたから」とされる天皇のシラス(知らす、Shirasu)国です。


満身創痍となりながらも戦い続けた重巡洋艦「熊野」

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重巡洋艦「熊野」
20151107 重巡洋艦「熊野」


苦労して苦労して、それでもまだ苦難が襲いかかる。
それでも立ち上がる。
それが重巡洋艦「熊野」でした。

重巡洋艦「熊野」は、ミッドウエーや、レイテ沖海戦を闘い、仲間の艦が、みんな沈んでしまった中で、満身創痍となって生き残りました。
そんな「熊野」に、敵は容赦なく襲ってきたのです。
しまいに艦首まで吹き飛ばされました。
それでも「熊野」は、戦い続けました。

「熊野」はもともと、軽巡洋艦として造られた船です。
小柄でした。
小柄で、ちっちゃいけれど、打たれても打たれても、立ち上がりました。

2700年前、神武天皇とともにナガスネヒコの一団と「撃ちてしやまん」と勇敢に戦ったのは熊野の子らでした。
その名を受け継いた重巡「熊野」は、まさに戦う子そのものだったのです。



もともと、「熊野」は、最上型の4番艦として川崎重工の神戸造船所で建造されました。
艦名の由来は、紀伊半島にある熊野川に因んだといわれています。
最上型の巡洋艦というのは、もともとは軽巡洋艦枠です。
出来上がってから、重巡洋艦になったという経緯を持っています。

ご承知の通り、明治38(1905)年、日本は、日露戦争の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を破りました。
このロシア艦隊は、世界最強と唄われる英国艦隊に匹敵する唯一の大艦隊でした。
それが、アジアの小国、日本の艦隊に、いともあっさりと全滅させられてしまったのだから大変です。

世界が、「海を征する者は、世界を征する」とされた時代です。
日本の勝利は、世界に激震を走らせました。

いちばん危機感を持ったのは、英国でした。
この時代、英国が支配していた地域は、地球上の地面の3割(27%)です。
その支配力の源泉が、強大な海軍力です。
それが東洋の小国に破られる危険があるとなれば、危機感を持つのがあたりまえです。

戦後の左翼系歴史書などによると、ロシアにアジア南下の意図はなく、すでにこの時代には、力による支配の歴史は終わりを告げていたのに、日本だけが一方的にアジア侵略を目的として大国ロシアに挑んだなどと、バカなことを書いているものがあります。

その解釈に従えば、大正11(1922)年のワシントン軍縮会議による、英米日仏伊の主力艦保有比を、5:5:3:1.67:1.67の制限も、平和のための良心的軍縮だったということになります。
とんでもない話です。

英ソ仏米は、「黄色い猿」を支配していたのです。
その一角が、「黄色い猿」によって、倒されたのです。
倒されるということは、植民地の権益を失うということです。
現実に財産がなくなるのです。
そのことに彼らが危機感を持たなかったと解釈する方が、どうかしています。

この時代、欧米列強が支配していた地表は、英国に次いでソ連が16%、仏が9%、米が6.7%です。
英ソ仏米のわずか4カ国で、地球上の地面のなんと58.7%が支配されていたのです。
その割合は、江戸時代から大東亜戦争の終結時まで、ずっと同じです。

現実には、日露戦争が終わった翌年、危機感を持った英国が、まず、革命的巨大戦艦「ドレッドノート」を就航させています。
この船は蒸気タービン搭載した大型戦艦で、速度、砲の数、威力、装甲、どれをとっても当時のの世界最強戦艦です。
英国はこの船で、英国海軍に匹敵するバルチック艦隊を破った日本海軍よりも、海軍力で一歩抜きんでようとしたのです。

明治35年には、日本と英国は同盟国となっていますし、その意味では、英国と日本は敵でなく味方同士です。
けれども、たとえ味方同士であっても、侮れない実力を身につけておく。
これが世界の常識です。

とかく日本人的感覚では、同盟して仲良しになったのなら、もう軍事は考える必要はないなんて甘いことを考えがちです。
けれど、硬軟両方を使い分けるのが外交です。
常に強者の地位を保持することで、自国の安全と権益を守るということこそが国家外交の基本です。
そこに甘さなどないのです。

一方、この時代の新興国家であるアメリカからみると、本来植民地支配というのは、他国の住民を働かせ、その富を自国のものとして国家の繁栄を図るというものなのだけれど、なるほど面積ではそれなりの植民地を持つとはいっても、そのほとんどは太平洋の島々とフィリピンです。いずれも島しょです。

そして、まだ植民地と支配地の確定していない支那の北側にある満州地方は、もともと一年の半分が凍土となる荒地にすぎなかったものが、日本の進出依頼、荒地をどんどん緑豊かな農地に代えています。
もし、アメリカが支那の大地を支配するならば、そこで生産される食料は、米国民が生涯遊んでいても食べていけるだけの膨大なものになります。

その米国の支那支配にあたって、もっとも邪魔な勢力が、人種の平等と民族協和を高らかに歌い上げる日本だったのです。
米国からしてみれば、日本の軍事力を削ぎ、日英同盟を解消させれば、いよいよ支那の支配が可能になるのです。

こうして開催されたのが、先に述べたワシントン軍縮会議です。
これによって大戦艦の保有率では、日本を抑え込むことができました。

そこで大喜びで日英同盟を破棄させ、新たに英米同盟を締結するのですが、そうしたら日本は、巨大戦艦ではなく、小型の巡洋艦を数造りだしたのです。
限られた予算の中で、国を守るために必死に知恵を絞った者が日本にはいた、というわけです。

日清日露の戦いを子細に検討すると、大艦もさりながら、実は日本の海戦では、小型艦が実に重要な働きをしていることがわかります。
小が大を討つというのが、まさに日本軍の、これは陸軍も同じですが、お家芸です。

これではたまらんと、米国主導で開催されたのが昭和5(1930)年のロンドン軍縮会議です。
この軍縮会議には、米、英、日、仏、伊の五大海軍国が参加しています。
そこで決議された条約の内容をみると、
「日本の補助艦全体の保有率を、対米比を、6.975とすること」などという記述となっています。
つまり、この会議におけるターゲットは、あきらかに日本だったのです。
この会議を裏で仕切っているのは誰かも、この一文で一目瞭然です。

日本海軍は、政府が勝手に決めてきたこの条約に対処するため、まだ余裕のあった軽巡洋艦の枠を利用して、翌、昭和6(1931)年、ロンドン条約でいう15cm砲搭載の軽巡洋艦4隻の建造を決めています。
これが、最上型巡洋艦です。
今日のお題の「熊野」は、その4番艦にあたります。
そしてこの年10月には「最上」、12月には「三隈」の2隻が起工されています。

昭和10(1935)年7月、8月に、この二隻は相次いで竣工しました。
この最上型巡洋艦は、小粒だけれど、重巡洋艦に匹敵する艦載装備が施されました。

まず、20センチ主砲搭載の重巡洋艦に対し、15センチ砲の数で対抗しています。
しかもこの砲、いつでも20センチ砲に取り換えれるように工夫されていました。
つまり、いつでも軽巡から、重巡に変更できるようにしてあったのです。

加えて、対空火力が、とてつもなく強い。
まるで高射砲要塞のような仕様になりました。
すでに対空戦の時代になると、日本は予期していたのです。
また防御面では、甲板や舷側の装甲がぶ厚くて、少々の魚雷や砲撃では沈められないよう工夫されました。

走行性能はとみると、エンジン出力はなんと、あの戦艦大和と同じ15万2000馬力です。超破格です。
この強力エンジンで、しかも艦が小さいから、速力はなんと37ノットです。
まるで海のフェラーリです。

さらに被害時の不燃化が徹底して図られていて、普通の戦艦なら木を使うところも、ぜんぶ鋼板が使われました。
しかもご丁寧に、木目調にしてある。
さらに毒ガス被害も想定して、ガス対策のための洗浄室まで設けられました。

軽巡洋艦と侮るなかれ。
中身は、大型戦艦に匹敵する、当時としては最先端の性能を持つ船として、就航したのです。

そして、洋上の訓練航海に出ました。
このとき編成されたのが、第四艦隊です。
そこで、事件が起こりました。

訓練中に台風がきたのです。
中心付近の最低気圧は、960ミリバール。
訓練海域では風速36メートルの暴風が記録され、高さ20メートルの高波が艦隊を襲ったのです。

この台風の影響で第四艦隊は、参加艦艇41隻のうち、19隻が損傷してしまいます。
とりわけ吹雪型駆逐艦2隻は、波によって艦橋から前の艦首部分が、まるごと切断されて波に持ってかれてしまった。

「最上」、「三隈」も甚大な被害を被ります。
強度上の問題で外板に亀裂や凹凸ができ、船体が歪んで一部の砲塔が旋回困難になってしまったのです。

日本近海での台風との遭遇ですらこれです。
実際に遠洋に出れば、波はもっと高く、風も雨もケタ違いです。
そうしたあらゆる災害に耐えれなければ、軍艦といえません。

この事故は「第四艦隊事件」と呼ばれ、日本海軍は、このときの被害を受けて、海軍艦艇全部に、補強工事施を施します。
「最上」「三隈」は、そのために重量が重くなり、最高速度は37ノットから、35ノットに低下しています。

こうした一連の事故や改装を経て、昭和12(1937)年、最上級軽巡洋艦の三番艦「鈴谷」、四番艦「熊野」が、完成します。

そして「鈴谷」と「熊野」は、昭和13(1938)年に、艦隊に編入され、昭和14(1939)年には、当初主砲として搭載されていた15.5センチ砲を、晴れて20センチ砲に換装し、軽巡洋艦から、重巡洋艦へと成長しました。

昭和16年12月、大東亜戦争が開戦すると、「熊野」は、マレー上陸作戦、アンダマンやビルマの攻略戦、バタビア沖海戦などに参加し、次々と大きな戦果をあげていきます。
そして昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起こる。

この海戦で、「熊野」兄弟の長女にあたる「最上」は中破、二女の「三隈」は沈没しています。
闘いの最中、「熊野」も米艦載機の攻撃で大被害を受け、混乱の中で「最上」と衝突事故まで起こしてしまうのですが、それでも「熊野」は沈むどころか、ますます強靭に敵への砲撃を加えました。
あまりの「熊野」の強靭さと火力に、むしろ米軍の側に「驚いた」と記録されているくらいです。

不思議なことに「熊野」は、開戦当初から、数々の海戦に参加するのだけれど、敵の空襲でそれなりの被害を受けながらも、沈むような状況に追い込まれたことがまるでありません。
これはもう、幸運としかいいようがない、ということで、戦争半ばからは、「熊野」が旗艦となり、「鈴谷」「利根」「筑摩」の3艦を率いて、第七戦隊となります。

そして、昭和19(1944)年10月、運命のレイテ沖海戦に第七戦隊は、栗田艦隊旗下で参戦します。

10月24日、栗田艦隊旗艦の戦艦「武蔵」は、米艦載機の猛攻撃を受けて、航行不能に陥ってしまいます。
戦艦5、重巡10、軽巡2、駆逐艦15の威容を誇った栗田艦隊は、旗艦の武蔵が大破し、重巡の「麻耶」「愛宕」が潜水艦の魚雷で沈み、「高雄」も雷撃で大破、「朝霜」「長波」「妙高」も、中破して帰投していきます。

ところがこれだけの激しい戦いの中、なんと「熊野」以下4艦で構成する第七戦隊は、まるで無傷だったのです。
悠々と敵を倒し、さらに翌25日早朝にはサンベルナルジノ海峡を突破します。

そして夜が明けた午前6時44分、艦隊は艦載機を満載した米機動部隊を発見します。
これまで敵航空機にさんざんやられっぱなしだった艦隊は、喜び勇み、7時3分、敵艦隊に向けて主砲を発射します。

このときの敵艦隊は、米海軍の護衛空母部隊です。
兵力は空母6、艦隊駆逐艦3、護衛駆逐艦4です。

「熊野」は、猛然と最大出力で米空母に向けて一直線に詰め寄りました。
すると敵艦隊は、空母を守れとばかり、煙幕を張り、「熊野」が空母を目視できないようにしてしまいます。

目標が視認出来なくなった「熊野」は、さらに速度を上げました。

そのとき、煙幕の中から米駆逐艦の「ジョンストン」が、「熊野」の真横に飛び出してきました。
体を張って、「熊野」の突撃を阻止し、空母を護ろうとしたのです。
要するに、米艦隊がそこまで追いつめられたのです。

日本艦隊は、もちろん「熊野」一艦ではありませんが、煙幕から飛び出すということは、自身が敵前に身を晒すことになる、きわめて危険な行動です。
「ジョンストン」は我が身を晒しながら、突進する「熊野」に向けて、5門の主砲を全開にして砲撃を加え、さらに5連装発射菅2基から10本もの魚雷を一気に発射して、「熊野」を倒そうとしました。

距離、約9000メートルです。
もはや、敵空母は目の前です。

「熊野」は、これまでの幸運を信じ、「ジョンストン」の発射した主砲や魚雷に目もくれずに、空母に向かって突進しました。

7時25分、「熊野」は左舷から突進してくる3本の魚雷を補足し、やむをえず回避行動をとり、2本をかわします。けれど、最後の1本が、「熊野」の左舷側から、艦首一番砲塔横に命中しました。
大音響とともに、「熊野」は艦首の錨孔から前を吹き飛ばされてしまいます。

「熊野」は、双方の砲声響くど真ん中で、艦首から浸水が始まり、停船を余儀なくされます。
そして砲弾が渦巻き、米空母から次々と敵航空機が発艦してくる中を、必死で、吹き飛んだ艦首の修繕を行います。
そしてどうにか、時速20キロで航行できるところまで、回復させます。

この間、煙幕から飛び出して「熊野」を叩いた「ジョンストン」に向けて、「榛名」が報復の主砲を撃ち込みます。

なにせ敵の姿が見えているのです。
日頃の訓練の賜物です。
「榛名」の主砲弾は、全弾が「ジョンストン」に命中。
さらに第十戦隊の「雪風」などが砲撃を加え、レイテの海に沈めてしまいます。

一方、艦首を吹き飛ばされた「熊野」は、これ以上の戦闘の継続ができません。
やむをえず「熊野」は、米軍の空母艦載機が、空を舞うレイテ近海を、12ノットという超ノロノロ運転で、単艦、修理のためにマニラへと後退します。

ところが、単艦で帰投する途中、おそらく上空から見る「熊野」は、艦首が吹き飛ばされていて艦様が変わっていたので見分けがつかなかったのでしょう。「熊野」はなんと日本軍の飛行隊に襲われてしまいます。
最初は水上爆撃機「瑞雲」3機です。
続いて艦上攻撃機「天山」1機が飛来し、爆弾を投下してきた。

幸い、命中弾はありませんでした。
「熊野」の乗員たちは、友軍機の錬度が落ちていること、彼らの練度が、敵味方の区別すら満足に出来なくなっていることを痛感します。

17時15分、ノロノロ走行を続ける「熊野」に向けて、米軍の爆撃機35機が、襲ってきます。
「熊野」は単艦です。航空隊の護衛もない。
しかも満身創痍です。

それでも「熊野」は、猛然と対空砲火を開始し、敵艦載機から投下された爆弾をすべて回避し、そして撃墜こそできなかったものの、敵爆撃機を全部追い払ってしまいます。
すごいものです。

翌朝8時過ぎ、再び、米艦載機が襲ってきました。
戦雷爆合わせて30機の編隊です。

「熊野」は猛然と高射砲で対抗したのだけれど、うち3機が朝日を背負って目くらましで「熊野」に突進し、爆弾を投下しました。
なんとか一機目の爆撃は回避したのだけれど、2番機の3発が艦橋と煙突に命中、「熊野」は25ミリ機銃群が全滅し、艦橋左舷の高射砲、高角測距儀、水上電探室が壊滅してしまいます。

そして破壊された煙突の鋼鈑が、横の高角砲に垂れ下がり、高角砲も使用不能になってしまう。
この戦いで、乗員40名が戦死します。
それでも「熊野」の乗員たちは、粘りに粘り、ついに敵戦雷爆を打ち払います。
しかし、煙突をやられた「熊野」は、ついに航行不能に陥ってしまう。

その「熊野」を、1時間後、さらに15機の米軍雷撃機が襲います。
「熊野」は、すでに航行不能に陥っているのです。
人で行ったら、重傷を負って瀕死の状態です。

それでも残った砲の全てを使いきり、砲弾を米艦載機の鼻先に集中させました。
そうすることで、敵機が雷撃行動をとることへの阻止を図ったのです。
高速で空を飛ぶ敵航空機が、まさに雷撃しようとする瞬間を狙って、その鼻先に砲弾を集中させるのです。

こうして「熊野」は、15機の編隊の攻撃を、全部かわしてしまいます。
そして一発の命中弾も受けずに敵機を追い払う。
まさに練達の砲兵ならではの応戦です。

戦いの最中にも、乗員の一部は、艦の復旧作業をしています。
そして、10時過ぎ、「熊野」は、かろうじて航行できるようになります。

速度は時速18キロくらいです。
その速度で「熊野」は、必死でコロン湾に向かいます。
15時、やはりレイテから後退してきた重巡「足柄」と駆逐艦「霞」がようやく「熊野」と合流します。

16時05分、コロン湾に入港。
油槽船「日栄丸」から燃料補給を受け、やはり撤退してきた重巡「那智」、駆逐艦「沖波」とも合流しました。
そして敵に見つからないように、夜間に出航し、他の船とともに、10月28日午前6時にマニラ港に入港します。

ところがせっかくマニラに入港したのに、「熊野」は投錨することができません。
艦首を吹き飛ばされていて、主錨が失われていたのです。
そこで、先にマニラに入港していた特務艦「隠戸」に横付して、両艦を縄でくくり、工作部に応急修理をしてもらうことにしました。

さすがは工作部です。
わずか6日で、めちゃめちゃに破壊された艦首を成形し、煙突を破壊されて使えなくなっていたエンジンを、8基のうち、4基まで復旧させてしまいます。

連合艦隊司令部からは、「熊野は青葉とともに適当なる護衛艦を付し、または適宜の船団に加入の上内地に回航すべし」との命令が出ます。
時間があれば、完璧に修理したいところです。
けれど、このままマニラにいたら、さらなる空襲を受ける危険がある。
それに、とにかく動ける以上、同じく日本に帰還するマニラの油槽船や海上トラック船を護衛しなければなりません。
それが帝国軍人であり、巡洋艦の使命です。

3日後の11月6日午前7時、「熊野」は、同じく巡洋艦の「青葉」とともに、日本に向かって帰投する輸送船団らを守って、マニラを後にします。

船団の速度は、わずか時速15キロです。
しかも「熊野」も「青葉」も、敵に襲われたときの迎撃用の高射砲の、肝心の弾薬が残り少ない。
「熊野」に至っては、この時点で使える砲塔は、一部の主砲と、25ミリ機銃30門だけです。
その状態で、「熊野」は、13隻の輸送船の護衛の任にあたったのです。

船団は、沿岸ギリギリを北上しました。
右舷を、ギリギリ岸に近づけていれば、敵潜水艦が襲ってきても、船は沖に向いた左舷だけ注意すれば足ります。

出発から3時間経った午前10時、リンガエン湾の北側で、艦隊は、哨戒にあたっていた米潜水艦団、「ブリーム」「グイタロ」「レイトン」「レイ」の4隻に見つかります。

10時10分、米潜水艦団は、日本の輸送船団に襲いかかりました。
4隻の潜水艦が、わずか35分の間に、全艦で、輸送船団に向かって計4回の波状攻撃で魚雷を放ちました。
けれど、日本の船団は、この魚雷攻撃をいち早く察知して回避行動をとります。

最初の魚雷攻撃は、全艦が、これを回避します。
米軍の魚雷は、むなしく岸の岩に激突して爆発しました。

2度目の魚雷攻撃も、全弾、回避に成功します。
輸送船はどれも小粒で、的が小さいうえに日本人乗員の操船技術が巧みなのです。

そうと知った米軍潜水艦群は、その標的を全艦、「熊野」に向けてきました。
なにせ船団の中では、「熊野」がいちばん的が大きいのです。

まず「レイトン」が6本の魚雷を全弾、「熊野」に向けて放ちました。
「熊野」はこれを回避するために、取り舵を切り、そのため背にしていた岸から離れてしまいます。
その直後、米潜水艦の「レイ」が、「熊野」に向けて、4回目の魚雷攻撃を仕掛けます。

「熊野」は、ようやっと動いているだけのエンジンを全開にして、そのうち2本をかわします。
しかし、次いで放たれた3本目の魚雷をかわしきれなかった。
3本目の魚雷は、レイテで直撃を喰らい、応急処置で修理したばかりの艦首に再び命中します。
「熊野」は、第一砲塔から前を、吹き飛ばされてしまう。

すかさず4本目の魚雷が発射されます。
これは「熊野」の一番機械室に命中し、機械室を破壊して隔壁を吹き飛ばします。

「熊野」は、この攻撃で、エンジンルームが浸水し、完全に航行不能に陥ってしまう。
船体は、右舷に8度傾き、26名の乗員が死亡。
残りの乗員は、手作業で海水を汲みだし、もはやようやく船が浮かんでいるだけの状況となります。

これを見た米潜水艦の「レイ」は、「熊野」に止めを刺そうと、「熊野」に近づきます。
ところが、そこには、海底に大きな岩が突き出ていたのです。
「レイ」は座礁し、船体をバックさせてこれを逃れるけれど、浸水が激しく、それ以上の追撃が出来なくなります。
そして魚雷を撃ち尽くした米潜水艦たちは、その場を去っていきました。

この時点で「熊野」は、またしても航行不能です。
乗員たちの必死の作業で、なんとか浸水を喰い止めたものの、機関が動かない。

やむなく船団の中の油槽船で曳航しようとするのだけれど、浸水を含めて1万トン以上の重量となった重巡洋艦を、2200トンの油槽船でまともに曳航できるはずもありません。
折からの追い風の幸運に助けられながら、船団は、わずか時速3キロという、人が歩くより遅い速度で航行し、翌7日15時に、サンタクルーズ港に入港します。

サンタクルーズ港というのは、小さな漁港です。
なんの港湾設備もない。
とりあえず、そこで船を停泊させ艦の修理をしようとするのですが、そこに折からの台風が襲いかかります。
やむなく「熊野」は、輸送船団を先に行かせます。

いよいよ台風がやってきました。
「熊野」は、船首を敵に吹き飛ばされています。
ですから錨がないのです。

しかたがないので、錨口にロープを結んで岸につないで錨代わりにしたのだけれど、やってきた暴風雨に、ロープが切られ、船が湾内を流され始めます。
そのまま岸辺に激突したら、一巻の終わりです。
乗員たちは、艦に積んであった約3トンのホーズパイプを海底に垂らします。
これがかろうじて、海底にひっかかり、ようやく艦が流されずにすみました。
またしても「熊野」は生き残ったのです。

台風が去ったあとの11月12日、救難艇「慶州丸」が到着します。
「慶州丸」は、マニラから、第103工作部隊を乗せてきてくれたのです。
そこで乗員全員で力を合わせて、艦の復旧作業を始めます。

9日後、努力の甲斐あって、ようやくエンジンの一部が回復。
艦は、時速10キロほどで航行できるようになります。
けれど、あちこちで蒸気漏れを起こしています。
これでは、たちまち真水が不足してしまう。

そこで乗員たちは、なんと手作業のバケツリレーで真水500トンを艦内に運び込みます。
500トンです。
よくやったものです。

しかも、ろくな設備もない艦内で、船の修繕中や、水を運び込んでいる最中に、どこからともなく米軍機が現れて、空襲を仕掛けてくるのです。
その空襲の都度、乗員の戦死者が続出します。
やむなく敵を追い払うために高射砲を撃つのだけれど、そのためにただでさえ不足気味の弾薬が、急速に欠乏してしまう。

11月22日、マニラから補給船がやってきます。
「熊野」は、高射砲機銃弾4500発と応急資材、糧食、軽油等の補給を受けます。
4500発とはいっても、30門の高射砲で割ったら、一門わずか150発です。

速射したら1分で、なくなってしまう。

25日、マニラから海防艦「八十島」が応援にきてくれます。
そこで、「熊野」は、負傷者を「八十島」に移乗させ、マニラの病院に搬送してもらうことにした。
けれど「八十島」は、出発直後に撃沈され、負傷者も、海に沈んでしまいます。

「八十島」を撃沈させた敵機は、続けて湾内にいる「熊野」に集中攻撃をしかけてきます。
迎え討つ「熊野」には、弾がありません。

「熊野」は、敵機めがけて、一発必中で弾を撃ちます。
連射したら、弾が持たないのです。
狙い定めて、一撃必殺。
あまりに正確な「熊野」の迎撃に、米軍機は、全機、離反してその場を去っていく。

残りの弾薬3000発です。
砲門1門あたり、残り、わずか80発しかありません。

数時間後、再び敵機が来襲します。
これは米空母「タイコンデロガ」の搭載機で、SB2Cという、米海軍の主力爆撃機です
しかも20機以上の大群です。

場所は狭い湾内です。
しかも「熊野」は、エンジン出力を全開にしても、時速10キロしか速度を出せない状態です。
そんな「熊野」に、海上の艦船爆撃を専門とする米軍のSB2Cの爆弾や魚雷が、次々と命中します。

まず、艦橋後部に1発が命中。
そして艦橋後部に、連続して2本の魚雷が命中。
一番砲塔横と飛行甲板横にも、1本ずつの魚雷が命中。
爆弾が二番砲塔に命中。
その他、数十発の砲弾を浴びて、ついに「熊野」は、左舷に傾き、そのまま転覆してしまう。
このとき、艦長以下400名も、一緒に海に沈みます。

昭和19(1944)年11月25日15時30分のことです。

沈没時、船を逃れて岸まで泳いでたどり着いた生存者は639名でした。
けれど、その大部分は陸戦隊としてフィリピンに残り、そのうち494名がフィリピンの山野で散華されています。

「熊野」の戦死者は、累計989柱。
乗員の9割に達しています。

~~~~~~~~~~

昭和43(1968)年のことです。
観光中のダイバーが、サンタクルーズで、海底に沈んだ「熊野」を発見します。

そして船内から、ご遺骨約50柱を海底から持ち帰っています。

~~~~~~~~~~

重巡洋艦「熊野」のお話をさせていただきました。

「熊野」の最後については、当時中尉として艦に搭乗していた左近允尚敏さんの回顧録が、ネットで公開されています。
http://www5f.biglobe.ne.jp/~ma480/senki-1-kumanonosaigo-sakonjyou.html

ご興味のある方は、ご一読されるとよいと思います。

どんなにつらくても、苦しくても、泣きたくなるほど悔しくても、周りに誰もいなくなっても、最後の最後まであきらめず、未来を信じて戦い抜くのが、日本人です。

重巡洋艦「熊野」は沈んでしまいました。
けれど、ボクたちは、「熊野」を忘れない。

そして、何があっても最後まであきらめずに戦い続けた「熊野」の心は、ボクたち日本人の心に、未来永劫、永遠に生き続けるのだと、思います。


※この記事は2011年5月の記事のリニューアルです。

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>戦艦 重巡洋艦




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コメント
満身創痍
どんな残忍な兵器を使ってでも東洋の野蛮な猿を
成敗することがアメリカの当時の正義であったとすれば、
日本側の正義は人種平等の社会を目指して欧米列強を相手に戦う、
有色に生まれてきたことをむしろ神の恵みと信じて、
力尽きてもなお立ち上がり、助かる見込みが無くても諦めず戦う、
守りたい多くの国民がいたから、アジアの未来を信じて、
帝国軍人はこれだけ過酷な状況の中で驚異的な頑張りができたんだと思います。
いまある日本の平和もアジア諸国の独立も先人たちが戦ってくれたおかげです。
2015/11/08(日) 19:01 | URL | 日本の未来を信じて #-[ 編集]
南京事件の事実
南京事件が「あったのか」「なかったのか」の議論の前に事実はどうであったかを知ることが大事だと思います。

事実
1.南京事件の証拠と言われるラーベの日記を読みましたが、虐殺を直接目撃したことはなかった。

2.南京事件があったと言われる12月13日以降の海外の報道で南京虐殺報道はなかった。

3.毛沢東、周恩来、蒋介石(300回に及ぶ外国記者会見を行っている)は一度も南京事件に触れていない。当時の中国国内の報道でもなかった。

3.南京の安全区に逃れていた市民約20万人が年明けには25万人に増えており、ラーベ氏から日本軍の食糧支援を感謝されている。

4.東京裁判での証拠は証言証拠だけで客観的な証拠はなかった。マギー牧師の記録フィルムがあると言ったが提出はなかった。

5.戦後作られた南京大虐○記念館に掲載された証拠写真は143枚だったが、新しく作りかえられた記念館では3000枚になっている。

6.東中野教授が前記143枚の写真の検証を行った結果、全て捏造であることが明らかになった。

7.1938年1月に中国国民党の国際連盟代表の顧維均が2万人虐殺を訴えたが連盟は取り上げていない。

8.当時100名を超える朝日新聞、毎日新聞記者が南京で取材していたが事件の報道はなかった。朝日と毎日新聞は真実を知っているはずだ。

等々数多くありますが、「一見は百聞にしかず」。下記の記録フィルムを見て下さい。

https://www.youtube.com/watch?feature=player_embedded&v=JIK85r9bCVE




2015/11/08(日) 13:17 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
血湧き肉踊る
今日もありがとうございます。

戦いは好みませんが、天晴れ、凄いなど思いワクワクして読み進めてしまいました。

先人の精神力に頭が下がります。そのDNAは受け継がれているはず。目覚めよう日本人‼️ですね。
2015/11/08(日) 12:51 | URL | えっちゃん #-[ 編集]
英米同盟
> そこで大喜びで日英同盟を破棄させ、新たに英米同盟を締結するのですが、

英米が同盟といえる関係になるのは第2次世界大戦勃発後のチャーチル内閣のときです。ワシントン会議のずっと後です。

このわずか20年ほど前、米国は米西戦争を起こして老大国スペインの海外領土を根こそぎ奪いました。第1次世界大戦で疲弊していた英国は次に死肉漁りの餌食になるのは自分ではないかと、警戒していたのです(といっても英国自身、このときオスマン帝国の旧領をフランスと分け合っている最中ですが)。

第1次世界大戦前、英国は米国を圧倒する大海軍国でしたが、大戦が終わってみると米国は大債権国になっており、大戦前にドイツと行ったような建艦競争を米国に仕掛けられたら(実際、ダニエルズ・プランがあった)対応できない状態でした。海軍力が英米イーブンで制限されるなら御の字だったのです。

それでも日英同盟があれば16:10で対米優位を保持できたが、米国が気付かないはずもなく、米国にとってアジア進出の障害である日英同盟はこの会議のメインターゲットであり、莫大な対米戦債を抱えた英国は米国の圧力に屈するしかなかったのでした。

こんなことをされて即座に英米同盟に舵を切るほど、ジョンブル魂もロイヤルネイビーの誇りも安くなかったろうと思います。そもそも英国人は伝統的に米国人が好きとは言えないですし。


2015/11/08(日) 12:33 | URL | BIG7 #-[ 編集]
素晴らしい記事をありがとうございます。
祖父の弟が乗員で戦死しているのですが、誇らしい気持ちで読ませていただきました。
乗員の遺族に配られたらしい「軍艦熊野」という分厚い本が応接間の目立つ場所に今も置いてあります。
きっと祖父も弟を誇りに思い続けているのだと思います。
2015/11/08(日) 10:07 | URL | #-[ 編集]
これぞ大和魂!
まことに感動的な話を有難うございました。
不屈の精神。こういう大事なものを、今の日本人特に若者は忘れています。
子供たちに、是非教えたいものです。
2015/11/08(日) 09:12 | URL | 花田良春 #-[ 編集]
No title
いつも勉強させて頂いております。
さて、最後の「左近允尚敏さんの回顧録」へのリンクですが、
クリックしても飛べません。
リンク先が無くなってしまったのか、
アドレスにミスがあるのかは分かりませんが、
御調査頂ければ幸いです。
2015/11/08(日) 07:57 | URL | #-[ 編集]
No title
曾祖父が南京攻略戦に関わっていたので調べていたところ、こちらのサイトにあたりました。
先月、下記の動画が放送されたようで混乱したのですが、たくさんの人がいたわけですから武器を取り上げて釈放した部隊もあれば無抵抗の捕虜を射殺した部隊もいたということなのかなと思いました。
http://www.at-douga.com/?p=14681

防衛研究所などのサイトから当時の師団の資料で閲覧できる部分もあるのですが曾祖父は南京城には入っていない部隊みたいで結局ははっきりしませんでした。
資料が抜け落ちている部分もですが何があったか知りたいです。
何もなかったという人もいるし、あったという人もいて日記もでている
20万や30万は嘘だけど、無抵抗の捕虜を殺した悲劇はあったということなんでしょうか。NNNで放送されたことを知らなかったのですが、先月放送されたばかりだったので気になりました。
2015/11/08(日) 07:36 | URL | 名無し #-[ 編集]
No title
http://conservative.jugem.jp/?eid=534世界遺産「南京大虐殺」と我らの罪状
2015/11/08(日) 06:50 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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