舩坂弘さんの戦い - ねずさんのひとりごと

舩坂弘さんの戦い

2016年01月23日07:56  日本人の心 写真あり

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20160123 貴船神社


舩坂弘(ふなさかひろし)さんは、戦後、渋谷で小さな書店を開き、そこから出発して渋谷に全フロアが書店という「書店ビル」を日本で初めて開かれた方です。
すでにお亡くなりになっていますが、渋谷がいまも若者たちが安心して集える街でいられるのも、実はその舩坂さんの貢献があったからといわれています。

その舩坂さんは戦時中、パラオのアンガウル島に軍曹として赴任しました。
この島は、ペリュリュー島の隣にある小さな島で、そこで舩坂さんは、わずか千二百名の仲間たちとともに、約二万二千名の米陸軍第八十一歩兵師団を迎え討ちました。

米軍の第八十一歩兵師団というのは、「山猫部隊(ワイルドキャッツ)」と異名を持っているハワイで特別上陸訓練を受けた米軍選りすぐりの強固な軍団です。
兵だけではありません。米軍はこの小さな島と、隣のペリュリュー島を攻略するために、マーク・A・ミッチャー中将率いる米軍第三十八機動部隊、通称「快速空母群」を派遣しています。
航空母艦十一隻、戦艦二隻、巡洋艦十数隻、駆逐艦三十五隻という大部隊です。

そのような大軍を前に、アンガウルの日本軍は、島を一ヶ月以上も持ちこたえて、最後、玉砕しました。
大怪我のために偶然に生残った舩坂さんは、敵に一矢報いようと米軍の本部にたったひとりで突貫攻撃をしかけ、そこで銃弾を受けて意識を失ったところを、助けられています。

このときの模様を、舩坂さんは「英霊の絶叫」(光文社)という本に著わしています。
この本には三島由紀夫が序次を寄せていて、実際の戦闘体験者の書いた本として、史料的価値もたいへんに高い本です。

舩坂弘さん(後列左)と三島由紀夫(前列左)
舩坂弘さんと三島由紀夫さん


舩坂さんは昭和19(1944)年4月27日に、この島に着任しました。
上陸早々から、敵グラマン機動隊の空襲を受けたそうです。
友軍の機影は一度も見られない。
この時期、すでに日本は制空権を失っていたのです。

上陸早々から、島の守備隊は「水際撃滅作戦」のために、島の海岸線に広範囲に障害物を設置し、沿岸に鉄条網を張り、さらに鉄条網の内側に石垣を組み、そのまた内側に深い戦車壕をめぐらし、そのまた内側に各小隊や分隊の陣地を二重、三重にめぐらせるという作業にかかりました。

炎暑のもと、昼夜の別なく重い石を運び、砂と汗にまみれて炎熱下の作業を行いました。
このときの様子は、強制重労働に従事する土方や人夫に等しかったといいます。
あまりに苛酷な作業に、病人さえも続出で、体力自慢の舩坂さんですら、毎日が拷問を受けているように感じたというくらいです。

水は雨水だけです。
雨水を釜に貯めるのですが、見ればボウフラが湧いています。
そのまま手を入れれば、ボウフラに咬まれます。
だから、淵をトントンと叩くのだそうです。
すると、ボウフラが、一瞬、水に沈みます。
そこですかさず、上澄みの水を汲むのだそうです。

食料は備蓄していたけれど、万一のためにと節食していました。
食事は、飯盒(はんごう)で炊いたご飯が1合、みそ汁、おかず一品。
一日二食だけです。
「早く敵が上陸しねえもんかねえ。もう俺は一刻でも早く敵の弾に当たって死にたいよ」
そんな愚痴が、とってもぜいたくにさえ思える日々だったそうです。

毎日の壕掘り仕事のために、みんな掌が血に染まり、指も筋肉疲労で固まって動かなくなり、熱病にうなされたそうです。
それでも壕を掘り続けました。
暑さと過労が度を越すと、絞りきった雑巾と同じで、体からは汗が一滴も出なくなるのだそうです。

そんな過酷な仕事の中、気持ちの支えになっていたのは、「日本には肉親がいる。家族の暮らしている本土に米軍を絶対に近付けちゃならない。この島を敵に渡してはならない」という一点だったそうです。
こうして、「このくれえ頑丈にしときゃ、敵さんも一人も上陸で決めえ」と、誰もが思えるほど頑丈な島の水際守備設備ができあがりました。

昭和19年9月6日、敵船団が洋上に並びました。
一斉に島に向かって艦砲射撃が行われました。
空からはB-24や艦載機が、さかんに爆弾を投下し、銃撃を浴びせてきました。
7日には、洋上に敵潜水艦まで出没し、いよいよ事態の切迫を告げました。
8日には艦載機による空爆がいよいよ激しくなりました。
12日以降は、艦砲射撃の量は一日に千数百発という数に達しました。

おかげで、せっかく苦心して造った水際陣地は、ひとたまりもなく破壊されてしまいました。
「食うや食わずで造った陣地も二日で水の泡かい」
舩坂さんたちの落胆はひとかたでなかったといいます。

でも、これで終わりではないのです。
14日になると、米軍は舟艇約十隻に分乗して東海岸を偵察にやってきました。
そして島の形が変わるまで爆撃と艦砲射撃が繰り返され、快速空母が去ると今度はウイリアム・H・ブランディ少将率いる「アンガウル攻撃群」の戦艦三隻、巡洋艦四隻、駆逐艦四隻が、それまでに輪をかけた艦砲射撃をはじめました。

9月17日午前5時30分、黎明をついて熾烈な艦砲射撃とともに米軍の上陸がはじまりました。
この時点で日本側は、連日の艦砲射撃と空爆のために、敵の状況を正確に把握するための監視哨も破壊されてしまっていました。
情報を迅速に伝えるための通信網も、島のいたるところでずたずたに切断されていました。

米軍の上陸を発見したのは、巴岬(ともえみさき)にいた沼尾守備隊でした。
すぐに大隊本部に「伝書鳩」で「敵上陸地点は西港なり」と急を報じました。
靖国神社に行きますと、軍犬、軍馬と並んで、軍鳩の慰霊塔が立っています。
鳩も国を守るために大活躍したのです。
最近総理を勤めた鳩とは比べ物にならないくらいです。

米軍は、アンガウル島に、砲兵6個大隊、中戦車1個大隊を含む2万2千名の兵を一気に上陸させました。
敵の空爆に焼かれ、音を立てて迫る戦車群に追われ、空腹と睡魔に冒された守備隊の前に、いよいよ敵部隊が現れたのです。

「前方三百メートル、敵部隊発見!」
そのとき舩坂弘さんが見た敵兵の第一線は、ほとんどが黒人だったそうです。
その黒人たちの後ろに、白人が点々と混じっていたそうです。

敵の顔というのは、意外と近くに見えるものなのだそうです。
「榴弾筒(りゅうだんつつ)発射用意!撃てー!」
かたまってゆっくりゆっくり迫りくる米軍の中央付近に狙いを定めて、撃って撃って撃ちまくりました。

至近距離からの砲撃です。
当たる、当たる。
このとき舩坂さんは、擲弾筒や臼砲で米兵を200人以上やっつけています。
面白いように米兵は炸裂音とともにふっとび、不意の攻撃に驚いた敵は、たちまち後ろを見せて煙のように背後のジャングルの中に這いこんでしまいます。

あまりにもあっけなく敵が引き下がったので、どうしたのかと思っていると、急に沖合から轟音が舞いこんできました。
無線連絡を受けた敵艦隊が、一斉にナパーム弾、砲弾を撃ち込んできたのです。

砲弾はところかまわず炸裂しました。
舩坂弘さんが伏せている前後左右に、岩石を砕き、黒い煙と白い土埃を吹き上げて破片が飛び交いました。
撃ち返したくても、目を開くことさえできません。
敵の巨弾はスコールのように重なって降り注ぎました。
砲弾を避けるために姿勢を変えたり、立ち上がろうとした者は、すべて血に染まって倒れたそうです。
だから舩坂さんは、部下に「動くな、動いてはいかん!」と叫びました。
けれど自分の声が自分の耳にすら届かない。

砲弾が止んで周囲を見渡した舩坂弘さんは、アッと叫んだまま、驚愕のあまり気を失いそうになったそうです。
そこは地上の様相ではなかったのです。
数メートル間隔で深くうがたれた弾着の跡がぽっかりと大きな穴をつくり、稜線はすっかり変形して見る影もありません。
無数の凸凹の上には、引き裂かれた樹木と、分隊員の腕や半身が血にまみれて転がっていました。
もはや屍体とさえいえない。人体の四分の一、あるいは二分の一の肉片に近い遺骸が黒々と横たわっていました。
先ほどまで、元気な冗談を飛ばしていた戦友たちが、青白い泥まみれの顔に、白い歯をむき出して宙をにらんで死んでいました。
もぞもぞと動いている生存者は数えるほどしかいませんでした。

一生懸命部下たちの姿を探しました。
けれど認識票さえどこかに吹っ飛んでいます。
三メートルごとに三人折り重なって斃れている者、頭部を半分削がれた者、片腕を奪われた者、内臓が半分はみ出している者など、おもわず目をそむけたくなるような光景が展開されていました。
流れる血は河をつくり、血を存分に吸ったくぼみはどす黒く変形している。
その上を走る硝煙をはらんだ炎風が、むかつくような血のにおいをふりまいている。

そこへ先ほどの黒人主力部隊がやってきました。
兵力を増強したらしく、今度は何百人という数です。
びゅうん、びゅうんと、銃弾が耳をかすめました。

その3日後、舩坂さんはひん死の重傷を負いました。
米軍の砲撃で左大腿部を割かれたのです。
味方に助けてもらおうにも、そこは敵陣のど真ん中でした。
押しつ戻しつの戦いの中、米軍の銃火の中に数時間放置された舩坂のもとに、ようやく軍医がやって来ました。

傷をみた軍医は、あまりの傷口の深さと大きさに、舩坂さんに自決用の手榴弾を手渡して去ってしまいました。
「おまえはもう死んでいる」と宣告されたようなものです。
「負けるもんかっ!」と舩坂さんは、近くにあった日章旗で足を包帯代わりに縛り、夜通し這って洞窟の陣地に帰り着きました。

着いた時には、死体が這ってきたような姿でした。
ところが舩坂さんは、並みの体力気力ではありません。
翌日には、左足を引き摺りながらでも歩けるまで回復してしまいました。

舩坂さんはその後も何度となく瀕死の重傷を負い、動くこともままならないような傷を負いました。
けれど不思議と翌日には回復したそうです。
本人は「生まれつき傷が治りやすい体質なのだ」と笑っておいでだったそうです。
けれどほとんど人造人間もどきの体力です。

舩坂さんは、栃木県西方町の農家の三男坊です。
子供のころからきかん気のガキ大将でした。
長じては剣道と銃剣道の有段者となり、また中隊一の名射手でもありました。
気迫と集中力の素晴らしい人だったのです。

舩坂さんは、絶望的な戦況にあってもなお、自身の重傷をものともせず戦い続けました。
ある日は、拳銃の3連射で3人の米兵を倒しました。
またあるときは、米兵から奪い取ったサブマシンガンで3人の米兵を一度に倒し、左足と両腕を負傷した状態で、銃剣で1人刺殺し、サブマシンガンを手にしていたもう1人に、その銃剣を投げて顎部に命中させ突き殺しています。
まさに鬼神の如き奮戦です。
そんな舩坂さんを間近に見た部隊員は、舩坂を「不死身の分隊長」、「鬼の分隊長」と形容したといいます。

しかし、食料も水もない状況での戦いです。
洞窟の中は自決の手榴弾を求める重傷者の呻き声で、生き地獄の様相でした。
舩坂さんも、敵の銃弾が腹部を貫通する重傷を負い、もはや這うことしか出来なくなってしまいました。

さらに腹部の傷が化膿していました。
そこにハエがたかって蛆(ウジ)が湧きました。
舩坂さんは、蛆に食われて死ぬくらいなら最早これまでと、ついに自決を決意したそうです。
このときの舩坂さんは死の瀬戸際です。
立って歩けない状態になっていることはもとより、極度の栄養失調と失血で、両目もほとんど見えなかったそうです。

そんな状態で、彼は遺書を書きました。
 ***
若年で死ぬのは、親孝行できず残念です。靖国に行ってご両親の大恩に報います。
国家危急存亡のときに、皇天皇土に敵を近ずけまいと奮戦したのですが、すでに満身創痍となりました。
天命を待たず、敵を目前にして戦士するのはくやしいけれど、すでに数百の敵を倒したので、自分は満足しています。
七たび生まれ変わって、国難を救わんと念願し、いま、従容として自決します。
思い残すことはありません。
  陸軍軍曹 舩坂弘

【原文】若年ニテ死スハ、考ノ道立タズ遺憾ナリ。幸イ靖国ノ御社ニ参リ、御両親ノ大恩ニ報ユ、今ヤ国家危急存亡ノ秋ニ、皇天皇土ニ敵ヲ近ズケマイト奮戦セルモ、既ニ満身創痍ナリ、天命ヲ待タズ、敵ヲ目前ニ置キ戦死スルハ、切歯扼腕ノ境地ナレド、スデニ必殺数百ノ敵ヲ斃ス、我満足ナリ。七度生レ国難ヲ救ハント念願ス。今従容ト自決ス、思ヒ残スコトナシ
 ***

自決を決意した舩坂さんは、手にした手榴弾を引き抜きました。
自爆しようとしたのです。
ところが手榴弾が爆発しません。
思いに反して手榴弾が不発だったのです。
なぜ死ねないのか、なぜ死なせて貰えないのか。
舩坂さんはこのとき、死ねないことへの絶望感を味わったといいます。

そんな最中にも、洞窟には絶えず米軍の爆撃・砲弾の音と振動がこだましています。
周囲には、傷の痛みに呻く声が満ちています。
壕内は、垢にまみれた体臭に、傷口の膿みの臭い、洞窟内の糞尿の臭気が満ちています。

まさに地獄のような壕のなかで、数時間、茫然自失の状態に陥った舩坂さんは、絶望から気を取りなおし、どうせ死ぬならその前に、せめて敵将に一矢報いようと、米軍司令部への単身での斬り込みを決意しました。

そして拳銃弾から中の火薬を取り出しました。
そして火薬を、ウジのわいた腹部の患部に詰め込みました。
傷口は貫通創です。
腹部の前からうしろ(背中)に向けて穴が空いています。

舩坂さんは、傷口に火薬を詰め終わると、そこに火をつけました。
傷口の両側から炎が噴き出しました。
このとき激痛のあまり意識を失い、半日ほど死線を彷徨したそうです。
意識を取り戻した舩坂さんは、まだ傷口が痛むなか、体に手榴弾6発をくくりつけ、拳銃1丁を持って、洞窟を這い出ました。

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当時、米軍指揮所周辺には歩兵6個大隊、戦車1個大隊、砲兵6個中隊、高射機関砲大隊など、総勢1万人が駐屯していました。
そのまっただ中を舩坂さんは、食事もとらず、数夜かけて這って米軍前哨陣地を突破しました。
指揮所周辺さえも突破しました。
そして4日かけて、米軍指揮所のテントにあと20Mの地点にまで到達しました。

舩坂さんは、米軍指揮官らが指揮所テントに集合する時に突入しようと決めました。
しばらくすると、テントにジープが続々と乗り付けてきました。
指揮官たちが集まったのです。

舩坂さんは、右手に手榴弾の安全栓を抜いて握りしめ、左手に拳銃を持ち、全力を絞り出して立ち上がりました。
それは異様な光景でした。
絶対安全なはずの米軍の本部指揮所に、突然、まるでホームレスが武装したような、しかもガリガリにやせ細っり、真っ黒に汚れた幽鬼のような日本兵が、いきなり茂みから立ち上がったのです。
あまりの異様な風体に、発見した見張りの米兵もしばし呆然として声もでなかったそうです。

実際、このときの舩坂さんは、すでに左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2箇所、頭部打撲傷、右肩捻挫、右足首脱臼、左腹部盲貫銃創など大小合わせて24箇所の重傷を負っています。
更に連日の戦闘による火傷があり、全身20箇所に砲弾の破片が食い込んでいます。
全身血まみれ、服はボロボロ。
人間に見えたら不思議なくらいだし、そもそも生きていること自体、ありえないような状態です。

米軍の動揺を尻目に、舩坂さんは司令部目掛けて渾身の力で20Mを駆けました。
そして指揮所テントに到達し、手榴弾の信管を叩こうとしました。
その瞬間、銃で首を撃たれました。

倒れた舩坂さんのまわりに集まった米兵たちは、あきらかに戦死と判断しました。
全身血まみれで首を撃たれ、大量な出血があります。生きていると思うほうがどうかしています。
駆けつけた米軍軍医も、死亡と判断し、とりあえずその日本兵の遺体を野戦病院の死体安置所に運びましだ。

後でわかったことですが、このとき軍医は手榴弾と拳銃を握りしめたまま離さない舩坂の指を一本一本解きほぐしながら、集まった米兵の観衆に向かって、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」と語っていたのだそうです。

ところが、死体置き場に3日間転がされていた舩坂さんは、なぜかそこで息を吹き返しました。
死体の山の中からむっくりと起き上った日本兵の姿を見た米兵は、あまりの恐怖に血が凍ったそうです。
そして舩坂さんに銃口を向けました。

ところがその幽鬼は、向けた銃口にゆっくりと向かってきます。
そして銃口に自分の身体を押し付けると、
「撃て! 殺せ! 早く殺せ!」とうなり声をあげて、ふたたび気を失いました。

不死身の日本兵の話は、アンガウルの米兵の間で瞬く間に話題となりました。
米軍は、舩坂さんの無謀さに恐れをなしながらも、その勇気を称え、舩坂に「勇敢なる兵士」の名を贈りました。

元アンガウル島米軍兵であったマサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラーは、戦後舩坂宛ての手紙の中で、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体の誇りとして残ることです」と、讃辞の言葉を贈っています。

さて、一命を取りとめた舩坂さんは、米軍の治療で数日で歩けるまでに回復し、となりのペリリュー島に送られました。
けれど闘志の衰えない舩坂さんは、そこに居並ぶ米軍の飛行機を見ると、
「よし!あの飛行機をすべて破壊してやる」と心に誓いました。

ペリリュー島に送られた2日目、重傷者であり監視が甘かったのを幸いに、夜陰にまぎれてこっそり収容施設を抜け出しました。
ちょうどペリリュー島の日本軍最後の拠点である大山が占領される前の日の夜のことです。

舩坂さんは、約千メートルをほふく前進し、途中にあった日本兵の遺体の弾丸入れから、小銃弾を6〜7発集めて火薬を抜きました。
そしてその火薬を導火線にすると、米軍の火薬庫に火をつけました。

火薬庫は大爆発を起こしました。
さらに別の棟へも爆発が移りました。
おかげで島の米軍火薬庫の弾薬はすべて燃え尽きてしまいました。
舩坂さんは、火薬庫の爆発を見届けると、こっそりとまた収容所に戻りました。
米軍は、犯人不明でこの事件を迷宮入りさせました。

収容3日目の夜、舩坂さんはこんどは歩哨を殺して銃を奪いました。
そして夜陰にまぎれてさらに別な歩哨の背後に忍び寄りました。
あと5メートルに迫ったとき、突然背後から「ヘーイッ!」と声がかかって、いきなりタックルをくらいました。

必死に抵抗したのですが、こちらは瀕死の重症患者、相手は元気な米兵の大男です。
舩坂さんはぐるぐる巻きにされ、収容所の柱にくくりつけられてしまいました。
米兵の大男が顔を真っ赤にして「死に損ないの気狂いめ」と英語で罵って舩坂さんに銃を向けました。
「銃殺される。これで楽になれる」
そう思って舩坂さんは、目を閉じたそうです。

ところが舩坂さんの耳に聞こえてきたのは銃声ではなく、たどたどしい日本語でした。
「神様ニマカセナサイ。
 自分デ死ヲ急グコトハ罪悪デス。
 アナタハ神ノ子デス。
 アナタ生キルコト、死ヌコト、
 神様ノ手ニ委ネラレテイマス」
日本語を話すその大男は、舩坂さんを縛り付けたままテントを出て行きました。

翌日、縄を解かれて放置された舩坂さんは、懲りずにまた飛行場炎上計画を練り始めました。
そして炊事係の朝鮮人のおっさんを煙草で釣って、マッチを手に入れました。
マッチがたまったある日、以前自分を捕まえた大男がジープに乗ってどこかへ出かけていくのが見えました。
歩哨にそれとなく聞くと、明日まで帰らないという。

今夜こそチャンス!

舩坂さんはその夜ひそかにテントを出ると、ほふく前進で有刺鉄線を越えました。
「よし、あとすこしだ。」
そう思って頭を上げたとき、そこに例の大男が立っていました。
舩坂さんは拳銃を突きつけられ、テントに戻されてしまいます。

「殺せ」という舩坂さんに、大男はこう言いました。
「アナタガ歩哨ニ私ノ日程ヲ、タズネタコト、
 私ニ連絡キマシタ。
 アナタガ何カ計画スルトシタラ今夜ト思イ、
 私ハ仕事ノ途中ダケレド、
 切リ上ゲテ帰ッテキマシタ」
そして以前同じ箇所から脱走しようとした日本兵が射殺されたことを話し、こう続けました。
「アナタハ私ガ帰ッテコナケレバ、
 即座ニ射殺サレタコトデショウ。
 私ハソレガ心配デ
 大急ギデ帰ッテキタノデス。
 無事デヨカッタデス」

さらに大男は、舩坂さんの無謀な行動を戒め、
「生きる希望を捨てるな」「死に急ぐな」と説きました。そして「アナタニハ私ノ言ウコトガワカラナイカ」と問いました。舩坂さんは、
「わからない」と意地を張りました。
けれど舩坂さんの心に、その大男の人間味あふれる言葉が心にしみました。

舩坂さんら捕虜は、ハワイへ送られることになりました。
一団を乗せた上陸用舟艇がペリリュー島を離れようとしたとき、その大男がやってきました。
「軍曹、死ンデハイケナイ。
 生キテ日本ニ帰リナサイ。
 私ハ軍曹ガ無事ニ日本ニ帰レルヨウ神ニ祈リマス」
そう言って彼は一枚の紙片を軍曹の渡してくれました。
そこには彼の名前が記されていました。
舩坂さんはその名詞をポケットに入れたのだけれど、次の収容所でMPに取り上げられてしまっています。

舩坂さんは、ペリリュー島捕虜収容所から、グアム、ハワイ、サンフランシスコ、テキサスと終戦まで収容所を転々とし、昭和21年に帰国しました。

帰国した舩坂元軍曹は、栃木の実家に帰りました。
実家では、すでに戦死したものと思われています。
アンガウル島守備隊が玉砕したのは昭和19年10月19日です。
昭和20年12月には、舩坂の実家に戦死公報が届けられていたのです。

ボロボロの軍衣で帰還した実家で、御先祖に生還の報告をしようと仏壇に合掌したら、仏壇に真新しい位牌があって、そこに「大勇南海弘院殿鉄武居士」と戒名が書かれてあったそうです。
「弘って字があるけど、これ俺のこと?」

だから実家に帰って一番初めに行ったことは、「舩坂弘之墓」と書かれた墓標を抜くことだったそうです。
けれど村の人々は、帰ってきた舩坂元軍曹が、あまりに傷だらけでボロボロであったために、これはきっと幽霊か魔物が化けたものに違いないと噂しました。
モノノケかバケモノと思われたのです。

こうなると、せっかく帰ったのに、村にもいずらい。
舩坂さんは、親戚を頼って焼け野原となった東京・渋谷駅ハチ公前にあった養父の地所で、わずか一坪ばかりの土地を借り、書店を開きました。
後年、この書店が、日本で初めて建物を全て使用した「本のデパート・大盛堂書店」に発展しています。

舩坂さんは、書店経営の傍ら、
「英霊の絶叫・玉砕島アンガウル戦記」
「血風 二百三高地」
「ペリリュー島 玉砕戦」
「サクラ サクラ ペリリュー島洞窟戦」
「硫黄島‐ああ!栗林兵団」
「殉国の炎」
「聖書と刀‐太平洋の友情」
「関ノ孫六・三島由紀夫その死の秘密」などの本を著わしました。

剣道を通じて親交があった三島由紀夫には、自慢の愛刀、関の孫六を贈っています。
この関の孫六は、のちに三島割腹自殺の際の介錯に用いられています。

また、ペリュリューで世話になった大男にも何とか連絡を取りたいと考え、米軍関係者になんと110通もの手紙を出しています。
そしてようやく、Crenshaw伍長を見つけ出し、二人は生涯の友となっています。

舩坂さんは、他にもアンガウル島に鎮魂のための慰霊碑を建立し、以後、戦記を書いてはその印税を投じて、ペリリュー、ガドブス、コロール、グアム等の島々にも、次々と慰霊碑を建立した。
書店経営の忙しさの中で、アンガウル島での遺骨収骨と慰霊の旅を毎年欠かさず行われていました。

さらに他遺族を募っての慰霊団の引率、パラオ諸島原住民に対する援助、パラオと日本間の交流開発などを精力的に行いました。
舩坂さんが築いたアンガウルの慰霊碑慰文は、次のように記されています。
*****
尊い平和の礎のため、
勇敢に戦った守備隊将兵の冥福を祈り、
永久に其の功績を伝承し、
感謝と敬仰の誠を此処に捧げます。
******

まさに映画のジョン・ランボー顔負けの戦いをした舩坂弘軍曹。
そして戦後は一転して亡くなられた仲間たちのために生涯をささげられた舩坂弘氏。
日本には、こういう男がいたのです。

なぜ、舩坂さんは、ここまでして戦い、また戦後も亡くなられた戦友たちのために尽くされ、そしてまた渋谷で大きな書店を経営し、そしてさらに渋谷の街の健全化にも精力的に取り組むことができたのでしょうか。

アンガウルでの戦いのとき、すでに重傷を負い、指揮系統まで完全に崩れていた中で、舩坂さんは、自分の傷口を火薬で焼いてまで戦いに出ました。
何のためでしょうか。

諸外国の兵隊さんは、たとえば南京城の攻防戦の際に、いち早く便衣に着替えて南京から逃げ出した唐生智のたとえをもちだすまでもなく、あるいは尼港事件や通州事件のときの支那人たちを持ち出すまでもなく、自分たちが圧倒的に強い状態にあるときには、相手に対してありとあらゆる暴行を加え、残虐をしつくしますけれど、いったんヤバイとなったら、一目散に逃げ出します。

ところが、ここでご紹介した舩坂さんは、アンガウルにおいて、一介の軍曹でしかありません。軍隊の序列からしたら、決して高くはない階級です。
にも関わらず、すでに部下まで失っていながら、舩坂さんは戦い続けました。
捕虜になってまで、重体の体をひきずって、米軍の火薬庫を大爆発までさせています。
なぜでしょうか。

そしてこのことは、実は、何も舩坂さんに限ったことではなくて、当時の日本の兵隊さんたちひとりひとりに、というより、全員にみられたことです。

このことを考えるに、ひとつの参照としてナポレオンの軍隊があります。
ナポレオンの軍隊は、ヨーロッパにおいて、めちゃくちゃ強い軍隊でした。
またたく間にヨーロッパ全土を席巻しています。
なぜナポレオンが強かったかというと、彼の軍隊はひとりひとりの兵士が、フランスを愛するという気持ちで戦ったからです。

それまでのヨーロッパの王様たちの戦いは、王の私有財産のための戦いです。
そして戦いに赴く兵たちは、これまた王の私有財産である傭兵です。
これは、とことん戦って兵が死んだり怪我をしたら、その分、王の財産が減ってしまうということを意味します。
ですから、戦いは、適当なところで打ち切り、負けたら私有財産である領地の一部を相手国にくれてやって、撤収してました。とことん戦って全滅したら、財産が減るからです。
これは兵からみても、ただカネで雇われているだけのいわばサラリーマンですから、何も戦だからといって命まで投げ出す必要はない。適当に戦って、やばそうなら、さっさと逃げる。これが生き残りの知恵です。

ところがナポレオンの軍隊は違いました。
フランスを愛するという思いを共通させ、誰もがフランスのために戦いました。
ですから、どこまでも戦う。ひとりひとりの兵士が、たとえ大けがをしてでも戦う。命の限り戦う。
だから強かったのです。

兵が強いから、ナポレオンはヨーロッパを席巻しました。
このことに、ヨーロッパの王たちは驚愕しました。
そして生まれたのが、立憲君主制です。
つまり、王も国法にもとづく法的存在であり、国民や兵士と等しく国を愛する者としたわけです。
そうした変化が西欧で起きたのが、19世紀の出来事です。

ところが日本では、7世紀には、天皇は人として国や民衆を私物化して支配する(これをウシハクといいます)君主ではなく、国や民衆の生活を守るための政治をする人を任命し、自身は政治権力を揮わないという存在となりました。
これがシラスと統治であり、日本の形です。
つまり、天皇は私的に国や人を支配する君主ではなく、国や人を統(す)めるための法的存在となり、政治権力を揮わない政治権力よりも、より上位の存在としたわけです。

そして民衆は、その天皇の民と規定されました。
こうすることで、政治権力者にとって、民衆も国も、天皇からの預かりものという形が生まれました。
そしてそうなることによって、政治権力者も、一般の民衆も同じ「人」という対等感が、日本に根付きました。

ですから今でも、総理大臣も警察署長も、権力を誇示し民衆を支配する存在などと、日本人は誰も思っていません。
仕事による役割の違いはあっても、人としては対等。それが日本人の意識です。
そしてこれこそ、究極の民主主義といえるものです。

私たちの若き日の父祖たちは、そのことを誰もが知っていました。
そしてそのことのもつ意味と、幸せを知っていました。
だからこそ、そういう日本を守るために、そして弾圧や支配によって苦しむ東亜の人々を救うためにと立ち上がり、戦いました。
ですから、戦いは、国の戦いではなく、ひとりひとりの兵士たちにとって、自分の戦いであり、みんなのための戦いでした。
日本人は、家族だったのです。
だからこそ、どんなに苦しくても命の限り戦い抜いてくれたし、それが信じられないほどの日本兵の強靭さとなっていたのです。

当時、フランクリン・ルーズベルトは次のように演説しました。
「日本人の頭蓋骨には欠陥があり、死ぬことに苦痛を覚えない特殊な人種である」
これまたとんでもない発言ですが、これは、当時のアメリカの学者が唱えた説でもあります。
いまでは、痛覚を感じる神経は白人の方が少ないことが医学的に実証されているそうですので、このルーズベルトの演説は実にとんでもない説とわかるのですが、アメリカの大統領をして、そうとしか思えなくさせるほど、日本人の勇敢さは、人類史上まれと言って良いほどのものであったのです。

そしてその勇敢さがどこからきているのかといえば、繰り返しになりますが、日本人がみんな家族であり、その家族を守おうとする限りない愛によってもたらされていたということを、私たちは、しっかりと思い返す必要があると思います。
そのおかげで、戦後の私たちの平和と繁栄と、そして命があります。
そのことのありがたさに、あらためて思いをはせたいと思うのです。



※この記事は2009年11月28日の記事をリニューアルしたものです。

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