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日本は「たみ」が「おほみたから」とされる天皇のシラス(知らす、Shirasu)国です。


藤原定家の日本を取り戻す

20160720 日本史検定7期

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20160729 源氏車


藤原定家は、58歳のときに後鳥羽院と政治的に対立して謹慎処分を受けました。
何があったのかというと、定家はそれ以前に鎌倉の三代将軍源実朝を和歌の弟子にして、鎌倉武士団と京の都の公家文化の融和を必死になって図っていたからです。
これは尊敬する式子内親王のご意思でもありました。

最近のある種の本には、だから「式子内親王と定家はできていた」などと書いているものがあります。
こういうことを下衆の勘繰りといいます。とんでもない話です。
式子内親王のほうが定家よりも14歳年上というだけでなく、若い頃から定家は式子内親王を心から尊敬し敬愛していたのです。

ちょっと考えたらわかろうものです。
たとえば今の時代なら佳子内親王殿下は、とてもお美しくて頭もよく、内面からの輝きをもった皇女です。
同じく才能豊かな藤原定家が、この人のためなら生命だって惜しくないと、そう思わせるだけのものをもった女性が式子内親王だったのです。

その式子内親王は、平安から鎌倉時代へと動く激動の時代の中で、多くの人の生命が奪われていることをたいへんにお悲しみになっておいででした。
政権をめぐって武士たちが戦を起こす。すると多くの死者が出る。けが人はもっとたくさん出る。
そのひとりひとりに親兄弟姉妹がいて、妻がいて、子がいるのです。
そしてまた戦のたびに、民家が焼かれ、田畑が荒らされるのです。


日本は、ずっと平和だったのです。
それも500年の長きにわたって人と人とが争ったり殺しあったりすることのない平和な時代が続いたのです。
だから朝廷から地方に派遣される国司も、武力も兵さえも持っていませんでした。
それでも国はちゃんと治まったのです。
ところが、平安末期の保元の乱以降、平治の乱、平清盛による粛清、源平合戦、源氏内部の権力抗争による戦いなど、次から次へと戦乱が起こるようになりました。

皇女である式子内親王は、そのことをたいへんにお悲しみになり、なんとか平和な世がふたたびやってくるようにと、来る日も来る日も、祈りを捧げ続け、ついにはお体をお壊しになられてしまわました。
そして、そんなときに、平和への願を込めた百首の和歌を詠み、奉納なさいました。
その中の一首の歌を藤原定家に手渡しました。

その歌が、百人一首の89番に掲載されています。

 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば
 忍ぶることの弱りもぞする

昔は、肉体と魂(玉)は緒でつながっていると考えられていました。
ですから「玉の緒が絶える」というのは、「肉体が死んで魂と肉体を結んでいる緒が切れる」ということを意味します。
すでに重い病気となって死を覚悟された式子内親王は、
「私の命なんかどうなっても構わない。
 もう、耐え忍ぶ気持ちさえも弱くなってしまいました」
と詠んだ歌を定家に手渡したのです。

だから不倫だ、恋愛だと騒ぐのは、聞いて呆れます。
藤原定家は、式子内親王よりもはるかに年下とはいえ、朝廷の要職にある有能な政治家であり、当代一の歌人です。
お体の具合を悪くされながらも、それでもなお世の中の平穏を願い続けられた式子内親王です。
でも世の中は音を立てて崩れていく。
人が人と殺しあう。それが毎日続くのです。
なんとか平和な日々に戻ってきてほしい。けれどその気持も、もう弱ってしまいそうです。
私は近く死んでしまうことでしょう、と、このように詠んでいるわけです。

和歌は「察する文化」です。
歌の詠み手の思いを、読み手は察する。
そして藤原定家は、政治家であり、高級官僚であり、そして当代一の歌人であった人です。
その藤原定家に、式子内親王がこの歌を託したというのは、藤原定家ならば、歌に込めた思いを必ずわかってくれると式子内親王は信じたからであろうとは、容易に察することができます。

式子内親王は、定家に何を託したのでしょうか。
答えは「世の平和を取り戻すこと」以外にありません。
そしてそのことを武人ではない、歌人である定家に託したということは、殺し合いを続ける鎌倉武士達にも、殺さない文化、殺し合いになる前に、互いに察して事態を解決する文化を、是非とも復活させてほしいという願いが込められているという意味です。

日頃から尊敬してやまない皇女からのメッセージです。
そんなメッセージをいただいたら、みなさんならどうされるでしょうか。
藤原定家は、どうしたのでしょうか。

彼は考えに考え、思い切って鎌倉の三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)を、自分の和歌の弟子にしたのです。
そして和歌を通じて実朝に、五百年続いた天皇とおおみたからの平和で安定した世が、どのように形成され、発展し、その結果どのような文化が我が国に根付いたのか、そこに通底する真実とは何かを、徹底して実朝に仕込むのです。

源実朝は、頭の良い青年です。
ものすごい吸収力を発揮して、定家の教えをどんどん吸収して行きました。
鎌倉では「こんどの三代将軍は、貴族ボケして歌ばかり詠んでいる腰抜けだ」などと悪しざまに言う人もいました。
けれどそのように、
「一方的に批判したり、対立的に物事を考えること」自体が敵対を生み、殺し合いを呼び、世の中を乱すのです。

藤原定家にしても、源実朝にしても、いまさら貴族の世が戻ってくるとは思っていません。
武力をもった武士団という強力な政治勢力がすでに誕生しているのです。
問題は、その武士団という武闘勢力の力を、いかに平和的な勢力に変えていくかにあります。
武を抑えるために、ただやみくもに武を用いたら、争いはかえって大きくなるのです。
その典型が源平合戦です。

武を抑えるためには、武を抑える思想を定着させていかなければなりません。
十七条憲法には、第十六条に「古之良典(古の良典を用いよ)」とあります。混迷する時代を乗り切るためには、古典にその知恵を求める。歴史は繰り返すものだからです。

定家は、和歌を通じて、実朝に察する文化を、そして十七条憲法にある精神を伝えて行きました。
実朝はそれによく答えました。
「これでようやく、世の平穏を取り戻すことができる。」
そう定家が確信できるようになった矢先、その実朝が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮で刺殺されてしまうのです。
1219年、定家57歳のときのことです。

定家のショックはいかばかりだったことでしょう。
最後の頼みの蜘蛛の糸が切れてしまったのです。
この頃、後鳥羽院は「もはや鎌倉政権との武力衝突やむ無し」として、さかんに過激発言を繰り返されていました。
このままでは後鳥羽院の要請に応じて地方の武士団が挙兵し、世は再び戦乱の世になってしまいます。

「それでも戦うべきだ」と後鳥羽院はおっしゃいました。
けれど定家は、
「それは違います。
 短慮を起こさず、
 どこまでも平和の道を築いていくことこそ院のお勤めです」と主張しています。

そもそも定家は、後鳥羽院によって引き立てられ、出世した政治家です。
つまり後鳥羽院には、たいへんな恩義があったのです。
だからこそ定家は真剣に後鳥羽院をとめました。

後鳥羽院は激怒しました。
「お前の顔など見たくない。
 二度とオレの前に顔を出すな。
 歌会にも今後一切の出入りを禁止する!」

この時点で藤原定家は、政界の実務から引退し、歌人として歌の指導などをして生きています。
それが歌会にさえ出入り禁止というのです。
つまり後鳥羽院のこのお言葉は、定家に死ねと言っているようなものです。

定家は謹慎処分となりました。
都を追い出され、小倉山に蟄居(ちっきょ)の身となりました。

翌年、後鳥羽院は鎌倉幕府倒幕のため挙兵をしました。
これが「承久の乱」です。
けれどその乱は、事前に鎌倉方の察知するところとなりました。
後鳥羽院は捕縛されて隠岐に流されてしまいました。
一緒に挙兵した者たちは、逮捕され首を刎ねられました。

朝廷から反鎌倉派の貴族たちが一掃されました。
そうなるとわずか1年前、後鳥羽院と激しく対立して、中央政界を追われた藤原定家は、今度は中央政界と鎌倉をつなぐ政界の実力者として脚光を浴びることになります。
しかし定家は後鳥羽院を慕っていました。
だから政界に戻ることを定家は望みませんでした。

彼はむしろ、飛鳥、奈良、平安と続いた大和文化を、源氏物語、土佐日記など、様々な作品の書写や評釈を通じて、日本の文化そのものを拡散し、日本の持つ文化性そのものを時代が取り戻せるよう、必死の努力を続ける道を選びました。
それはかつて伊耶那岐神が伊耶那美神から
「汝の国の人草を一日に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ」と言われたときに、
「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ」と答えた、あの対話と同じです。

毎日千人を殺すというのです。これはたいへんな事態です。
けれど伊耶那岐神は、だから戦うとか、だから対決するといった道は選びませんでした。
もちろん恭順もしないし、敗北もしません。
攻撃か防御かという二者択一ではなく、まったく異なる第三の道として、千五百の産屋を建てるという道を選んでいます。

鎌倉に新たにできた新しい政権に対し、これと対立したり、これに恭順したりするのではなく、むしろ共に産屋を建てる、つまり、ともに平和な時代を建設する。
そのために必要なことは、天皇あっての民であるという自覚を取り戻すことです。

このあたりの定家の行動は注目に値するものです。
なぜなら定家は、世に平和と安定をもたらすために政治に頼れば、政治は衝突する利害の調整ですから、どうしてもそこに対立の芽が育つとしているのです。
そうではなく対立する相手も交えて共に平和な国家の再興を図るためには、日本の古くからある歴史伝統文化そのものを取り戻していくことにあると考え、行動しています。

ですから定家は、世の中から政界への復帰を切望されながらも、後鳥羽院失脚後に喜々として政界に復帰するのではなく、取り戻すべき日本の文化そのものの回復を図るための努力を選択しました。
そしてそのまま謹慎蟄居先である小倉山の山荘に篭り、文化の伝承者としての道を選ぶのです。

それから11年。
71歳になった藤原定家は、後堀河天皇から新たな歌集の編纂を命ぜられました。
そしてまる三年をかけて『新勅撰和歌集』をまとめあげました。
その『新勅撰和歌集』の中から、さらに抜き出した百首の歌を、宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めで小倉山荘の障子に貼ったのが1235年の5月27日のことです。
このことからいまでも毎年5月27日は百人一首の日とされています。

翌年(1236年)、75歳になった定家は、『新勅撰和歌集』、そして『百人秀歌』をもとに、彼の晩年最後の仕事として、後世に遺すべき総決算の歌集として、『小倉百人一首』の選考を開始しました。
世の中が、平安から鎌倉へと激動し、明察功過などどこへやら、短慮と短慮が対立し衝突して、すぐに武力衝突になる。
人の生命が奪われ、世が乱れ、悲惨な殺人事件が頻発する。
女性たちが安心して生きられた時代はどこへやら、武器をつきつけられて着衣を奪われ、強姦され、他人の子を孕ませられたり、あるいは殺される。
毎日のように、悲惨なニュースがもたらされる。
そんな世の中がなぜ生まれるのかといえば、人々が共有すべき価値観が狂い、日本人が日本人としての文化性を失っているからです。

「ならば」
その日本人の文化の根源を、どうやって世間に知らしめ、定着させていくのか。
どうやって日本を取り戻すべきなのか。
そのために何が必要なのか。

理論や理屈を説くだけではダメです。
頭でわかっても行動が伴わないからです。
理屈では人は動きません。
行動だけでもだめです。
過激な行動に走れば、結果として正しいはずの行動そのものが既得権益勢力によって潰されます。
理論もだめ、理屈もだめ、行動もだめ。
では世の中を変えるにはどのようにしたら良いのでしょうか。

定家は歌人です。
だからその志を歌に託す道を選びました。
和歌には感動があります。
古今の和歌を使い、それを効果的に配置することで、和歌を順に読み解いて言ったら、誰もが感動の中に日本の根幹を知る。
そういう歌集を創ろうと思い立つのです。

それは勅撰和歌集のような長大なものではなく、そうだ、百首くらいがちょうどよい。
百人の歌人から一首ずつ、百首の歌で、大和の文化を全部語り尽くしてはどうだろうか。
しかしせっかく作った歌集が、歴史の中に埋没してしまってはなんにもならない。
それに五百年続いた平和な日本が、いまこうして音を立てて崩れた今、その日本が、再びもとの美しい姿を取り戻すには、いったいどのくらいの歳月がかかるかわからない。
もしかすると五百年千年とかかるかもしれない。
であれば、千年の間に、歌の意味さえも失われてしまったとしても、歌だけは生き残る。
そういう歌集にしたらどうか。
歌には言霊がある。
その言霊の美しさだけは生き残る。
そしていつの日か、きっとその歌の意味を理解する者が現れるに違いない。
それがいつのことかはわからない。
けれど、その日まで、歌集が生き残ってくれなければならない。
そのためには途中でどんなに歌が貶められたとしても、あるいは言葉が失われてしまったとしても、それでも音の美しさだけで口承され、人々に愛され続けるだけの歌を、選ばなければならない。

定家は、それまで自分が学んだ全ての知識と情熱を傾け、晩年最後の仕事として、百人一首の編纂を開始しました。
たった百首の歌を選び、配置するのに、まる4年の歳月がかかりました。

1241年、藤原定家は、79歳で永眠しました。
そして定家が晩年の全情熱を傾けた百人一首は、小倉山荘に残った彼の遺産とともに、彼の遺族たちによってまとめられ、桐の箱に大切に入れられ、藤原家の蔵にしまわれました。
百人一首は、こうして藤原定家の死とともに、完全に倉庫に眠ってしまうのです。

その百人一首が、あらためて世に出てきたのは、なんと定家の死後230年経ったあとの時代のことでした。
応仁の乱が終わった戦国中期です。
この時代、世の中の価値観は混乱していました。

細川家といえば当時は大大名の家柄です。
その細川のお殿様のところの家人たちが、貴族である西園寺家を襲い、西園寺家の娘さんの着ている衣装を下着まで剥いで持ち帰ってしまうという事件までありました。
貴族たちの荘園は、武士団によって片端から強奪されました。
そのために貴族たちの生活は困窮を極めました。
荘園を奪った武士達は、また別な武士達に殺されました。
そんなことが日常的に繰り返された時代となっていました。

どうしてこのような混乱が起きたのか。
理由は、三代将軍足利義満にあります。
義満は、明国と交易を開始し、明国皇帝から日本国王の宣旨を受けました。
「国非二君(国に二君なし)」とは聖徳太子の十七条憲法の第12条にある言葉です。
義満は、それを破り、国に天皇と、支那王朝から柵封を受けた日本国王の二君を形成してしまったのです。
このことが世の中の秩序の根幹を失わせました。
力さえあれば、なんでもありが許容されるという文化を、将軍家自体が築いてしまったのです。

日明貿易は、巨大な富を足利将軍家にもたらしました。
けれど同時に、支那、朝鮮から大量な人が日本にやってくる結果をもたらしました。
やってくるのは、良い人、偉い人ばかりではありません。
当時の日本は、秩序が乱れ、人が人と殺し合い、奪い合うたいへんな状況にありましたが、それでも支那、朝鮮からみれば、日本はきわめて治安の良い安定した国だったのです。
なぜなら、彼らの国では、支配層がただやみくもに、被支配層の人々から、財も女も食い物も衣類も、それどころか生命まで、まるで虫けら同然に殺し、奪っていくのがあたりまえの日常だったからです。
だから田畑さえ育たない。
それどころか、村落共同体も育たない。
武器をもった軍隊がやってきたら、村人たちはただ逃げるか殺されるかしか選択肢がないからです。
田畑どころではないのです。
彼の国では軍隊と暴徒とヤクザは同じものです。

そんな支那朝鮮からみたら、日本はまるで極楽浄土です。
上に述べた西園寺家にしても、なぜ細川家の家人に襲われたかといえば、西園寺家はなんら武装していないからです。
ガードマンさえいない。
だから簡単に襲うことができる。
そして襲った側も、綺麗どころの娘さんを丸裸にして着衣まで奪って逃走したけれど、娘さんを強姦していないのです。
目的は美しい衣類を奪うことにあり、強姦は恐れ多かったのでしょう。

そんな日本に、ひもじくなれば人の肉でも平気で食らうという異人たちが大挙してやってきたわけです。
治安が乱れ、毎日のように、少年が殺害されたり、マンションのエレベーター前で主婦が(子供の見ている前で)殺害されたりという、とんでもない事件が相次いで起こるようになります。
いまから500年前のことです。

そんな時代にあって、さしもの藤原家も困窮を極め、先祖の遺産を処分することになりました。
そして連歌師の飯尾宗祗(いいおそうぎ)に、藤原定家の遺産箱の処分を委託しました。
箱の中をあらためた飯尾宗祇は、そこで百人一首を発見しました。

飯尾宗祇は連歌師です。
歌の専門家であり、察する文化の継承者です。
「藤原定家は、『新勅撰和歌集』を編纂していながら、なぜ、あえて『百人一首』を編纂したのだろうか。」この疑問が、すべての答えの手がかりとなりました。
勘の鋭い飯尾宗祇は、瞬く間に『百人一首』が持つ歌の深み、そして藤原定家の「日本を取り戻したい」という強い情熱を見抜きました。
そして彼の主催する連歌会のメンバーを中心にして、百人一首のいわば「研究会」を彼の仲間たちと発足させました。

それは、毎日が驚きの連続でした。
900年前の大化の改新からはじまる日本の大きな改革。
それを成し遂げた天智天皇の偉大さ。
これを完成させた持統天皇の凄味。
天皇として自ら政治権力を揮うのではなく、むしろ権威というお立場となって、民衆を大御宝(おおみたから)とし、自らは農作業やお洗濯をして、民とまったく同じように労働される天皇の御姿。
平安中期には、安全で安心な社会が確立され、数多くの女流歌人たちがのびのびと人生を謳歌しています。
その平安な時代が音を立てて崩れ去ろうとしたとき、どんな気持ちで人々が時代を取り戻そう、時代を支えようと努力したのか。

それは神秘の扉を開けて冒険するような、まるでトレジャー・ハンターのようなたいへんな刺激に満ちたものでした。
こうして飯尾宗祗と仲間たちは、大名や豪商などを招いた連歌会の席や、あるいは勉強会を通じて、この感動と興奮を周囲に伝えていきました。

そして飯尾宗祗が晩年になったとき、宗祇はこの『百人一首』の全てを、当時、日本における古典の第一人者であった三条西実隆(さんじょうにしのさねたか)に、伝授しました。
三条西実隆は、全国の有力大名や実力者たちから、源氏物語の書写などを頼まれていた、当代一の学者です。
印刷技術などなかった時代です。
本は全部、書写です。そして一流の学者の書写した、たとえば三条西実隆が書写した源氏物語は、いまのお金なら、1冊200万円ほどもする高価なものでした。

そしてこの写本は、使者によって注文先の豪商や大名、その奥方たちに届けられました。
これは、ただ届けるだけでは済みません。
せっかく大学者の門人が届けてくれるのです。
当然、ただ届けるだけではなく、その内容についての講義が行われます。
このような席で、使者となった弟子たちは、同時に百人一首の伝播を行いました。
百人一首は、こうして全国の社会の上層部に広がり、それもただ広がっただけでなく、その内容の凄みの「語り」とともに伝播したのです。

この動きは、戦国大名の奥方たちに、まず強い影響を与えました。
さらにその奥方たちの影響で、戦国大名たちや豪商たちの動きが変わりました。
彼らはただ自分の領地を得たり、自分が富むことだけを考えるのではなく、民衆のために積極的に天子様(天皇)を仰ぎ、その天皇のもとでこそ、国内の平和を実現できることを学んでいったのです。

そしてこのことは、そのまま、どの大名が京の都に登って、新たな日本の政権になるかを、時代の最大の関心事にまで高めてしていきました。
こうして今川義元が、京に上ろうとして桶狭間で討たれ、信長が天下布武を宣言し、秀吉が関白太政大臣となって政権を担い、日本が再び統一されていきます。

その頃、百人一首評釈を、細川幽斎(藤孝)が書いています。
その評釈は、昨今の百人一首の解説本とは、内容がまるで異なります。
まさに細川幽斎は、藤原定家、飯尾宗祗、三条西実隆と続く、百人一首の本来の意味を、しっかりと学び、伝承した人であったわけです。
その細川幽斎の子が、細川忠興で、その妻が明智光秀の娘の細川ガラシャ夫人です。
その細川ガラシャ夫人の辞世の句が、有名な次の歌です。

 散りぬべき時知りてこそ世の中の
 花も花なれ 人も人なれ

戦国大名たちは、その中期までは、まるで文化性を失った武力だけに傾倒した存在でした。
ところが戦国時代の後期になりますと、彼らは突然変異でもしたかのように、急に文化的になり、関が原くらいの時代になると、女性たちも武将の妻として、たいへんに教養にあふれ、気丈さをみせる女性たちへと変化しています。
日本が、大和人(やまとびと)としての文化を取り戻したからです。
そして一度、文化の香りを取り戻した日本は、そのまま一気に江戸270年の太平の世を築いています。

後鳥羽院は「平和のために戦う」とおっしゃいました。
定家は「平和を願うなら人々の心を変えなければダメだ」と言いました。
二人は激しく対立しました。
結果は、後鳥羽院は破れ、定家の願いもすぐには叶えられませんでした。
そして定家の願いが叶ったのは、なんと定家の死後374年経った1615年の大阪夏の陣以降のことでした。

定家の志が、なぜすぐには叶わなかったのか。
これには明確な理由があります。
元寇です。
神々は、定家の時代から、すでに元寇を予見し、日本の武士達に戦う術と、厳しい訓練を与えていたのです。

次の大きな戦いは、欧米列強との植民地支配との戦いでした。
これはウシハク世界を相手にする壮大な戦いです。
そして日本は、国土を焼土にしながらも、結果として世界からウシハク植民を一掃しました。

しかし、世界には、ウシハク植民地になっていなければ、世界中で害毒をふりまく、悪辣な種族もいます。
形は人でも、中身はケダモノという人たちがいるわけです。
そのようなケダモノが、植民地支配されるというタガ、あるいは他国の王による絶対的支配と隷属といタガが外れることで、いまはっきりと見えてくるようになりました。

このことについては、また機会をあらためて書きたいとおもいます。




20151208 倭塾・動画配信サービス2


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コメント
日本人とは
日本人の多くが、WGIPやそれを利用した大陸半島の反日連中により、自分たちが何者であるかわからなくなっているのが現状と思います。まさに魂の「民族浄化」をされてきたのがこの70年と思います。
日本の歴史にふれ、先人たちの心にふれることがそれを打開する一番の鍵であると私はここ数年で確信してきました。日本人の民俗風習、歴史、心、そういったものを学べば学ぶだけ、反日連中が叫ぶ誤った日本人像に違和感が生じてくる。
ねず先生もまた、藤原定家と同じく第三の方法で日本を取り戻そうとしているお方なのだと思います。
知人の反日思想に騙されている人でも、歴史の話で日本人のすごかった話を聞くと、そもそもが日本人なので「へえー」と素直に感心するのです。そうやっていつしか、自分が反日に騙されていることに気付いてくれることを祈っている今日この頃です。
2016/08/05(金) 07:24 | URL | #tnsv/9RI[ 編集]
No title
ねず先生、お疲れ様です。

いつの時代でも国が荒れ果ててしまうのは本当に辛いことです。
日本の本来のあるべき姿を見失ってしまい、殺し合いが当たり前になってしまったときは、悲しみで胸が一杯になってしまったことでしょう。
一度失ってしまったものを取り戻すのは極めて困難なことです。
それでも、再び平和で戦のない世を取り戻す為に昔の日本人は努力していきました。
我が国は現在、長らく日本人の心を忘れてしまっておりましたが、今まさに目覚めつつあります。戦後は反日勢力が必死に日本人の心を破壊しようとしましたが、長い歴史で育まれた心を完全に破壊することなど不可能だったのです。
日本は本来の姿でないときでも、支那朝鮮などの外国と比べれば平和なのは面白いですね(^∀^)

2016/08/05(金) 00:58 | URL | ゆき #-[ 編集]
No title
こんにちは。
日本の歴史をみてみると・・権力所が栄枯盛衰で倒れても、それを凌駕する
天皇という権威が存在し、次にのし上がってくる権力所を認定するという二
重構造。権威所だから幼い天皇もいらした。お陰で国が続き、この国の文化
は維持保存されてきたし、外来文化も良いとこどりで保存し更に発展。正倉
院には日本だけでなく滅びた国の文物も1000年以上保存され、各地の祭
りにも外来の名残があり、国中が博物館みたいなもの。そして天皇親政の機
運のある時期は国の世情が乱れ歴史が揺れてますね。



2016/08/04(木) 22:13 | URL | くすのきのこ #-[ 編集]
深い教養と厚い見識と高い志と・・・。
人間だれもが不完全ゆえ問題(根拠)を抱え、従ってそのヲヲヤケの優先順位(重要度)を図ってみ~んなで解決(和)しようとするワケで、であればこそ甲に乙に真剣な議論が白熱化して当然ですが、決議されたら甲乙相身互い遺恨なく協力し合ってこそ大御心に副う大御宝の始末ですよネ?。ところで護憲改憲にぎやかですが、シラスをお教えいただいてからは皇室典範(祭祀皇統)と国能典範(親任統治/いわゆる憲法)の上位にシラス(憲法[人が決めたキマリ]と言うより憲鎹[天勅のコトワリ[硬性]/軽輩造語])があって、シラス国づくりに八紘一宇(シラスの国家群)を見据えた親任総覧をイメージしているからか、国患を為すモノには「これが目に入らぬか?生殺与奪の根っ子の根っ子ぞ!」とシラスの印籠(承詔必謹)を掲げてもイイと思うんですけど寡聞にして存じません。そして今、道らす(しらす)国づくりを知らない国づくりをみ~んなで改めよう!と呟いています。「自由人権民主平等云々」はウシハクに対する日本の建て前であって本音本願は使命資格役割のシラス国づくり。某獣蛮血脈でもなければ国の内外はウシハクをも克服してきっとこの三文字を理解したくなるハズ!と鎌倉の古事を拝読してまだ生っ齧りのシラスにそんなノ~天気がよぎりました。
2016/08/04(木) 12:21 | URL | 陸井夏樹 #kmQ4xb0A[ 編集]
No title
今日のお話は大変重みのある内容でした。
有難うございました。
この夏休みに子どもたちに語ってきかせてあげるのにちょうどよいので、そうしてあげようと思います。
2016/08/04(木) 09:58 | URL | 一寸坊主 #-[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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最短で3週間程度の余裕をもって、以下のアドレスからメールでお申し込みください。テーマは、ご自由に設定いただいて結構です。講演時間は90分が基準ですが、会場のご都合に合わせます。
E-mail nezu3344@gmail.com

過去の講演テーマです。
君が代と日本人
大国主神話とシラス国
和歌と日本の誇り
歴史から見た慰安婦問題
領土と主権のお話
和と結いの国、日本
日本人にとっての戦いとは
武士道と忠義
日本人と食のお話
建国の理念と日本の文化
世界に誇る縄文文化
百人一首と日本人 etc....
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台灣民政府
台湾民政府
サンフランシスコ講和条約で、日本は台湾に関して処分権は連合国に提供しましたが、領土の割譲は行っていません。条約以降、連合国も日本も台湾の処分先を決めていません。つまり台湾はいまも日本であり、台湾にいる1500万人の戦前からいる台湾人は、日本国籍を有する日本人です。私は台湾民政府を支持します。
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日中戦争-戦争を望んだ中国 望まなかった日本


江戸の自治制


幻の黄金時代


ドキュメント自衛隊と東日本大震災

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コメントをくださる皆様へ
基本的にご意見は尊重し、削除も最低限にとどめますが、コメントは互いに尊敬と互譲の心をもってお願いします。汚い言葉遣いや他の人を揶揄するようなコメント、並びに他人への誹謗中傷にあたるコメントは、削除しますのであしからず。
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コメントをくださる皆様へのお願い
いつもたくさんのコメントをいただき、ありがとうございます。
ほんとうに皆様のコメントが、とっても嬉しく、かつありがたく拝読させていただいています。

議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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■満州国臨時政府■
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