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大空の武士・檜貝嚢治大佐の物語

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20170116 檜貝嚢治


高峰三枝子(たかみねみえこ)といえば、往年の大女優として有名です。その高峰三枝子が片思いで愛し続けたパイロットがいます。
名前を檜貝嚢治(ひがいじょうじ)といいます。
旧日本海軍のパイロットで、最終階級は大佐です。

檜貝大佐は、明治39(1906)年、千葉県佐倉市(当時は佐倉町)の出身です。
父も海軍大佐で、三男三女の二男坊として生まれています。
檜貝大佐は、昭和十八(1943)年一月二十九日、レンネル島沖海戦で散華されました。
報に接した佐倉町では、盛大な町葬が行われました。
それほど、彼の名声は天下にとどろいていたのです。

檜貝大佐は、佐倉中学(現、佐倉市立佐倉中学校)を卒業したあと、海軍兵学校へ進み、そこから霞ヶ浦航空隊に配属になっています。
ある日、この航空隊に映画監督が撮影のためにやってきました。
監督は檜貝大佐をひと目見て、おもわず「軍人を辞めて 俳優にならないか」と勧めてしまったそうです。
それくらい檜貝大佐はかっこよかったのです。

写真でみると、たしかにいまでも映画俳優としてハリウッドでも立派に通用しそうです。
このときの撮影がご縁で、松竹の名女優高峰三枝子が、檜貝大佐に一目惚れしてしまうのです。
そして高峰三枝子は、なんと自分の方から、是非にと交際を求めたそうです。

二人は何度かお茶や食事をともにし、大佐の部下達も「こりゃあ二人は結婚するぞ」なんて、本気で信じていたのですが、檜貝大佐は、
「結婚すると軍人としてファイトがなくなる」と、あっさりと彼女をフってしまいます。
当時の大佐の頭の中は、女性のことより、とにもかくにも
「いかにして操縦技量を向上させるか」
だけでいっぱいになっていたのです。

それでも高峰三枝子さんは、ずっと片想いだったそうです。
高峰三枝子さんは、檜貝大佐の死を知った後、ある実業家と結婚するのですが、その夫は、彼女が亡き檜貝大佐を慕い続けていたことをよく理解してくれていたそうです。

天はときに、ひとりの人物に二物も三物も与えることがあります。
海軍兵学校出の秀才で、しかも運動神経抜群、見目もよくて背も高い。
しかもひとつのことに打ち込む男性の姿ほど、凛々しく立派な姿はないものです。
でもやっぱり、薄命なんですね。

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戦後の日本では、軍人を否定する人たちがたくさんいます。
けれど当時の職業軍人というのは、飛びぬけて成績優秀で身体頑健、性格良好でなければなれなかったのです。
よく徴兵と言いますが、徴兵されるのは、基本、徴兵検査で甲種合格した若者だけです。
20〜30人に一人くらいしか、甲種合格なんてできないです。

そしてその甲種合格者の中から、幹部候補生が生まれました。
これまたものすごい倍率で、幹部候補になれたというだけで、もう優性遺伝の塊であることが完全に立証されたと同じことでもあったのです。

とりわけパイロットになるというのは、これまた超のつく難関で、もとより成績優秀でなければテストに合格しませんが、だからといってガリ勉で視力を落としたら、それでもう不合格確定です。
猛勉強をしながら、健康で、運動神経抜群、視力も良好で身体頑健、性格は明朗快活で明確な国家観を持つ若者という基準の、ひとつでも欠けたらパイロットにはなれなかったのです。
たぶん、遺伝子的にみたら、当時の陸海軍のパイロットというのは、日本人として最高で最上級の遺伝子を持ったとびっきりの若者であったということになります。
そのなかにあっても、檜貝嚢治大佐は群を抜く存在だったのです。

海軍兵学校時代の檜貝大佐は、機械や建築の設計図面が得意だったそうです。
彼は兵学校時代に休暇を利用して学校の庭に水道管をひいたり、鶏小屋をつくったりしているのですが、毎回、緻密な図面をひいています。
これがおそろしく正確で緻密で、出来ばえは専門家すら驚嘆するほどだったそうです。
それでいて、負けん気は人一倍強く、とにかく意志の強さといったら、海軍の中でも評判です。

昭和五年の春、親友と三人で足柄山に登山したとき、三人は村人が危険だというのを押し切って一晩夜通しで山越えに挑戦しました。
そしてようやく足柄山頂にたどり着きます。
ところが山を降りる頃になって日が暮れてしまい、あたり一面、真っ暗闇になってしまいました。

山中ですから、街灯なんてありません。
あたりは一寸先も見えない真っ暗闇となりました。
しかもまだ雪が残っています。
寒さと疲労が襲います。
眠ったら死んでしまう。
三人は力一杯互いの顔を頭を殴り合いながら、下山を続けました。

ところが、どこをどう間違えたのか、道が行き止まりになってしまったのです。
友人二人は「引き返えそうぜ」というけれど、しばらく考えていた檜貝大佐は、いきなり短剣、雨衣、靴などを十メートルほど下の滝壷の横の平地に投げ落としてしまいます。
そして滝の横の苔のむした急な崖を一人で下りはじめました。

真っ暗闇です。落ちたら命はありません。
檜貝大佐は慎重に少しずつ降りて、やがて下まで降り立ちました。
他の二人も檜貝大佐がした通りをまねました。
ようやく下に降りた三人は、その川沿いに進むことで村まで帰りつきました。
友人たちは檜貝大佐の豪胆さに、すっかり感心したといいます。

兵学校時代の檜貝大佐は、一度も大声を出したり、鉄拳を振るったりしたこともなかったそうです。
どちらかというと、おとなしいタイプでした。
ところが、いざというときになると、その決断の早さと勇気に、誰も敵わなかったそうです。

兵学校を卒業したあとの逸話もあります。
遠洋航海している途中に、自分のお小遣いを節約して、弟たちに腕時計を買ってあげたりしのだそうです。
檜貝大佐は、そういう細やかな気遣いのできる人でもありました。

檜貝大佐が、まだ中尉だった頃の凍えるような「真冬」のことです。
ある基地で幹部の会合があって、いよいよ帰る段になりました。
ところが艀(はしけ)のスクリューに海草が巻きついて船が動かない。
それを見た檜貝大佐は、いきなり服を脱ぎ、冷たい海に飛び込んで、手で海草を取り除いたそうです。

ちなみに、艀(はしけ)のメンテナンスは、檜貝大佐ら航空兵の仕事ではありません。
命じて誰かにやらせることもできたかもしれない。
けれどみんなの窮状(きゅうじょう)みたとき、檜貝大佐は、これを黙って見過ごさず、自ら率先して海中に飛び込んだのです。

もっとも、昨今よりはるかに気温の低かった昔の真冬の冷たい海です。
おかげで檜貝大佐はこのあと長期にわたって風邪で寝込んでしまったそうです。
それで同期のみんなは、「檜貝も人の子だったのだ」とあらためて気づいたそうです。
それほどまでに檜貝大佐は、群を抜く存在だったのです。

それにしても、そこにやらなければいけないことがあったら、たとえ我が身を犠牲にしてでも「即」実行する。
男ならかくありたいと思います。

昭和10(1935)年、26歳になった檜貝大佐は、霞ヶ浦航空隊の操縦教官に就任します。
この時期の大佐は、休日返上で二、三か月も隊にこもりきり、飛行機の操縦をち密に研究し抜いていたそうです。
冒頭に述べた高峰三枝子との恋物語も、ちょうどこの頃のことで、檜貝大佐(当時は中尉)にとっては、飛行機が面白くて仕方がなかったようです。

それでもたまには、航空隊の仲間たちと、ときに気晴らしに芸者遊びに行くことはあったそうです。
檜貝大佐は、容姿端正。しかも海軍でとびきり優秀なパイロットです。
悔しいけれど彼の周りには、自然と芸者が集まります。
彼がこないと、芸者たちは、
「あら、檜貝さんはどうしたの」
と不満顔を見せる。
おかげでモテようと狙った仲間たちの戦意は、あっさりと粉砕されてしまいました。

この頃の大佐は、親戚からの縁談も断っています。
お相手は、才色兼備の令嬢だったそうですが、飛行機に打ちこむ檜貝大佐は、女性に関わる暇はないと、にべもなかったそうです。

昭和12(1937)年、檜貝大佐は大湊(おおみなと)の航空隊で、彼の生涯の戦友(とも)となる「中攻」に出あいます。
「中攻」はご存知の通り、陸上基地から発着し、敵の陸上基地や軍事施設に爆弾を投下したり、艦船に対して魚雷を放つ、当時の花形攻撃機です。
皇紀紀元の年数にあわせて、昭和二年(皇紀二五九六年) に実用化した機種が「九六式」で、昭和十六年(皇紀二六一〇年)のそれが「一式」です。当時この飛行機は、まさに世界最高の爆撃機でした。

檜貝大佐のいた大湊基地というのは、本土最北端の航空基地です。
檜貝大佐は、ここで雪上飛行や霧中飛行を含む、ありとあらゆる特殊飛行を研究しています。
当時の飛行技術というのは、個人の職人芸的な伎倆で飛んでいたことは、みなさんご存知の通りです。
まだ飛行のときの諸計器類も未発達な時代です。

戦後の学者や評論家等がよく
「戦時中の日本軍は機械化を怠り、
 近代装備の敷設をせず、
 時代遅れの装備しかしなかった」
などと言うけれど、それは違います。

なるほど昨今のようにコンピューターが発達した時代からみたら古臭い装備に見えるかもしれません。
けれどたとえば当時搭載されていた最新鋭のレーダーでさえ、まだ捕捉距離は10キロメートル程度です。
中攻なら一分で飛ぶ距離です。
視力の良い人間の肉眼の方が、はるかに遠くの敵を素早く捕捉できたのです。
そういう時代の技術面での発展段階を無視して、やみくもに技量頼みの日本のやり方が古いとかカビ臭いというのは、間違いだと思います。

昭和12年5月、大湊基地で、北海道根室沖での霧中飛行訓練が行われました。
どういう訓練かというと、自分が搭乗している飛行機の翼端さえ見えない濃霧の中で、当時まだまだ未発達だった自機の旋回計や横滑計、コンパスや無線装置だけを頼りにして、離着陸や霧中飛行を行うというものです。
たとえてみれば「窓をすべて黒布で覆った自動車で、メーターだけを頼りに運転して、目的地まで行く」ようなものです。
危険極まりない。
しかもそれを空でやるのです。

檜貝大佐は、これまた見事にやってのけてしまいます。
こうなるともう天才としか言いようがなく、彼の名声は天下にこだまします。

この年の七月、盧溝橋事件に端を発し、日華事変がはじまります。
檜貝大佐は、翌昭和13年から、鹿屋航空隊の中攻隊勤務となります。
いよいよ実戦です。

この頃の中攻隊は、数カ月大陸作戦に従事し、帰れば艦隊で戦闘訓練をすることを繰り返していました。
檜貝大佐も数十回、中支戦線での爆撃行を行っています。
そして都度、輝かしい戦果をあげました。

中攻隊に檜貝あり。
その名は全軍に知れ渡ります。

ちなみに当時の日本軍の心意気は、武士集団です。
支那戦線においても、卑怯な振舞をもっとも忌み嫌っていました。
檜貝大佐の中攻は、敵の猛烈な対空砲火をかいくぐって、まさにピンポイントで、敵の銃器を破壊しています。
一発の爆弾も無駄にしないのです。

歯向かう敵は倒す。
けれど、敵が武器を捨てて逃げるなら、武器だけを爆破し、敵を実質的に無力化する。
これが武士道の化身である日本軍の考え方でしたし、檜貝大佐の空爆でした。

対する支那国民党軍は、米英から高性能の対空砲を譲り受けています。
これをすさまじい勢いでめちゃくちゃに撃つ。
俗にいう「弾幕を貼る」というものです。
撃って、撃って、撃ちまくる。
その猛烈な対空砲火を、檜貝大佐の操縦する中攻は、ものの見事にかいくぐり、低空で飛来したかと思うと、友軍の見ている前で敵の重砲を一発でしとめます。
無駄撃ちなんてありません。
完全なピンポイント爆撃で、破壊炎上させる。

見ている日本軍の兵士達は、まさに拍手喝さいだったそうです。
だから檜貝大佐の空爆は、戦闘というより、最早、芸術だとさえ言われています。

いまのように、赤外線誘導ミサイルなんてシロモノなんてない時代です。
上空からの投下のタイミングだけで正確な爆撃を行ったのです。
これは、とてつもないことです。
敵味方の銃弾が飛び交う激戦の最中です。

そこに後方から味方の爆撃機が飛来する。
敵は猛烈な対空砲火を浴びせる。
その砲火をかいくぐった中攻から、なにやら黒い物体がひとつ、ポンと投下される。
それが敵の重砲に、吸い込まれるように命中し、
それまで激しく撃っていた敵の砲火が嘘のように鳴りやむのです。
絵にかいたような見事な技量です。
匠の技です。

実は、檜貝大佐の空爆に限らず、日本軍の戦闘は、この手の話が非常に多いです。
豊富な物資にモノをいわせて、無茶苦茶に撃ちまくる支那や米英軍と異なり、激戦の最中ですら、機関砲の弾を
「いま何発撃って、残りが何発あるか」
など逐一報告が求められたのが日本の軍隊です。
滅茶苦茶なめくら撃ちなどしたら、あとで上層部から大目玉をくらったのです。

ですから特に値段の張る高性能爆弾や、大砲などは、ことごとくピンポイントで正確無比な砲撃をしています。
少ない砲弾で、限りない武勲を立てているのも、まさに帝国陸海軍の特徴です。
そしてこのことは、戦時国際法として、民間人や民間施設への無差別攻撃を禁じたハーグ陸戦条約遵守の精神にも通じています。

当時、檜貝大佐は、上官からも部下からも、「檜貝さん」と「さん付け」で呼ばれています。
穏やかな物腰だが、 ひとたび機上の人となると沈着、勇敢に戦う。
しかも、眉目秀麗で温和。
階級名で呼ぶことが習わしだった軍隊において、「さん付け」で呼ばれるのは、たいへんめずらしいことです。
なぜ、技術抜群で、しかも温和で謙虚な彼が「~さん」と呼ばれたのか。
当時を知る人のお話では、誰より檜貝大佐は「檜貝さん」と呼ぶのがふさわしかったといいます。
みんながそのように思えたということです。

その檜貝大佐が、昭和14年9月、危うく命を落としかねない大怪我をしました。
なにがあったのかというと、檜貝大佐らの中攻隊の鹿屋空が、木更津空とともに支那の漢口に進出したときなのですが、この漢口飛行場は滑走路が舗装されていません。
場所は黄砂の土地のど真ん中です。
飛行機が一機飛び立つと砂塵が舞い上がる。
何も見えなくなる。
二機目は当分飛び立てないくらい、ホコリと風がひどかったのです。

ある日の夕方のこと、指揮官機に乗った檜貝大佐が、予定の離陸点に向けて、薄闇と砂塵の中を地上滑走したのです。
二番機がこれに続きました。
ところが、このとき、急に風向きが百八十度変わってしまったのです。

地上官制官は、離陸機の方向を変えるよう各機に命じました。
しかし、滑走路にあった十八磯には、爆音、砂塵、それに夕闇という悪条件が重なって指令が聞こえない。
先に滑り出した檜貝機は、所定の離陸点で後続を待っています。
ところが後続機は方向変更の指令を知らず、一面の砂塵の中で、一番機が出発したものと思って、檜貝機と真逆の方向からエンジン全開で離陸を開始したのです。

滑走し出した後続機は、檜貝機の2~3百メートル手前で、ようやく檜貝機の航空灯を視認しました。
しかし機体は燃料も爆弾も満載しています。
すでに方向転換する距離もない。

あわや衝突!というときに、後続機のパイロットは、全力で操縦桿を引いて、機体を浮かせます。
しかし、爆弾と燃料を満載した飛行機は、そうそう簡単には飛びあがらない。
ようやく檜貝機のすぐ手前で車輪が地面を離れたけれど、その車輪は檜貝機の風防ガラスの上部をかすり、車輪とプロペラが檜貝の一番機の機首付近を撫でて、もんどりうって転倒しました。
機体は大音響とともに火炎に包まれました。

幸い、転倒した機のパイロットは、無事に救出されました。
けれど、一番機の操縦桿を握っていた檜貝大佐は、かぶっていた飛行帽が、てっぺんがベロリと剥ぎとられ、手指と足首を骨折しています。
もう少し機が低かったら檜貝大佐は即死していました。
彼はただちに漢口海軍第一病院に運ばれました。

縁というのは、不思議なものです。
この事故で大佐が軍病院に入院中のことです。
事件から二週間後のことなのですが、
四川省所在の支那空軍が、ソ連製の双発爆撃機九機を連ねて、漢口の日本側航空基地上空に来襲したのです。

支那空軍は、滅茶苦茶に大量の爆弾を投下する。
けれど、支那空軍の空爆は、ことごとく飛行場の外の水田に落下してしまいます。
要するにまるで目標に当たらなかったのです。

ところが、です。
そのめちゃくちゃに落として行った爆弾の中のたった一発だけが、偶然、戦闘指揮所付近に落ちて炸裂したのです。
この炸裂で、塚原二四三司令官が両腕を失う重傷を負ったほか、二名が即死、一名が重傷、一名が重傷のち死亡しました。

その場所は、普段なら檜貝大佐が詰めているところです。
そして爆弾の落下地点は、まさに檜貝大佐の部屋でした。
もしそこに檜貝大佐が入院中でなく、そこにいたら、誰がどう考えても檜貝大佐は即死していました。
五体はバラバラになり、遺体さえ残らなかったかもしれない。
この爆撃で、檜貝大佐は命拾いしたのは、たまたま入院中だったからです。

最近とみに思うのですが、人は「生きている」のではなくて、「生かされている」ものだと思います。
だから、何かの使命があったら、そうそう簡単に人は死なない。
逆に死ぬときも、何か意味があって死ぬ。
その意味で、この事故でお亡くなりになったり大怪我をされた方には申し訳ないのだけれど、同時にまだ檜貝大佐には、この時点で何かの天命があったのではないか。
そんな気がします。

ちなみに、このときの支那軍の空爆の仕方と、檜貝大佐らが行っていた日本軍の空爆の違いは、その他の戦闘でもまったく同様です。
日本軍は、敵の砲火をかいくぐりながら、低空で侵入してピンポイントで、敵の重機を討ちました。
これに対し支那軍は(米軍もだけれど)、高高度で侵入して、対空砲火弾の届かない上空から、無差別に大量な爆撃投下を行う。
要するに下手な鉄砲数撃ちゃ当たる戦法と、たとえ危険であってもできるだけ敵の人名を奪わず、必要最低限でもっとも効果的な攻撃を行うという戦法の違いです。
旧日本軍は、戦場という過酷な場においても、常に正々堂々だったのです。

さて、昭和15年10月10日、紀元2600年の記念大式典が行われました。
陛下もご臨席賜る特別観艦式も開催されます。
檜貝大佐は、このとき大尉でした。
彼は、総指揮官小澤治三郎少将が搭乗する九六式陸攻に乗り組み、操縦桿を握りました。
檜貝機は、530機の大編隊の先頭を飛びました。
その大編隊で東京湾上空を舞う姿を陛下にご覧いただくという、パイロットとしての最高の栄誉を担ったのです。

昭和16年11月、真珠湾攻撃を前に、少佐に昇進した檜貝大佐は、飛行隊長として、ふたたび霞ヶ浦航空隊に転属となりました。
そこで結婚しました。彼はこのとき35歳でした。

お相手の女性は、岡部通陸軍少将の長女の麗子さん19歳です。
ちなみに山本五十六の奥さんの礼子さんの妹が岡部通夫人です。
ですから、麗子さんは山本五十六元帥の姪子さんとなります。
山本五十六長官は、この結婚にたいそう喜んだそうで、会う人毎に、
「檜貝は自分の姪には過ぎた男だ」と、ニコニコしながら自慢していたそうです。
わかる気がします。

けれど、檜貝大佐の新婚生活は、わずか11ヶ月で終わってしまいました。
昭和17年12月、檜貝大佐は、七〇一空の飛行長となり、中攻36機をひきいてラバウルのブナカナウ飛行場に進出したのです。

よく軍人は戦争好きだと言う人がいます。
断固として申し上げるけれど、それはまったくの嘘です。デタラメです。
実は、軍人ほど平和を求める人たちはいない。世界中どこでもそうです。
そして日本では、その傾向が特に強かったのです。

だってそうでしょう。
戦えば必ず死人が出るのです。
それは自分かもしれない。
軍人だって愛する家族がいるのです。
生きて、ふたたび家族に会いたい。愛する人に逢いたい。
その気持ちは、人として誰もが同じです。
だから、死に最も近いところにいる軍人こそ、まさに平和を望み、平和を愛し、平和を大事にする。
そのためだからこそ厳しい訓練にも耐えるのです。

檜貝大佐も、愛する妻を内地に残してラバウルに進出されました。
その心や、推して知るべしです。
誰だって愛する妻と別々に暮らしたくなどありません。

大佐が進出したラバウル航空隊は、このときガダルカナル島撤退という大課題を抱えていました。
檜貝大佐は、支那事変当初から髪はオールバックにしていたのだけれど、ラバウルに進出したとき、頭を三分刈りのくりくり坊主にしています。
秘めた決意があったからだといわれています。
愛する人との永遠の別れと、自らの死を、彼はこのとき覚悟していたのです。

ラバウルで、田舎の老いた母が彼の身を気づかって送ってくれた手作りの梅肉エキスを食べている坊主頭の彼の姿は、とても神妙だったそうです。
わかる気がします。

昭和18年1月29日早朝、哨戒機が敵の大艦隊をレンネル島東方で発見しました。
このときの米艦隊の陣容は、重巡三隻、軽巡三隻、軽空母二隻、 駆逐艦八隻です。
飛行隊長の巌谷二男大尉が出撃準備をしていると、そこに檜貝大佐が来たそうです。
「隊長、今日の攻撃はぼくにやらせてください」
檜貝大佐は、いつもの丁寧な口調です。

巌谷隊長は、テニアンで充分夜間照明雷撃の訓練を積んでこられた方です。
張り切っていた厳谷隊長は、
「いや、今日はぜひ私にやらせて下さい」
と断りました。けれどこのとき檜貝大佐は、いつにない強い調子で、
「何としても私にやらせて下さい」
と食い下がったそうです。
これは彼にしてはたいへんめずらしいことです。

言い合いが何度かつづいて、あまりに熱心に檜貝大佐が言うので、巌谷は一歩ゆずり、
「では私は、照明隊として行きましょう」
ということにした。ところがこのとき、ひどいデング熱で弱っていた山田豊司令が、
「飛行長と飛行隊長が二人一緒に出ては困る」
と言い出します。
結局、巌谷隊長が折れて出撃を断念し、檜貝大佐が出撃することになりました。

このとき、檜貝大佐は司令に挨拶したあと巌谷隊長に向かい、
「隊長、あとを願います」
と、日頃の柔和な顔に、真剣な表情をみせて言ったそうです。巌谷は、檜貝の目をじっと見つめ、
「ご成功を祈ります」
と答えた。これが二人の今生の最後の別れとなります。

午後1時10分、18機の九六式陸攻と六機の照明隊をまとめて、檜貝大佐はラバウル基地を飛び立ちました。
先に目標海域に到着した七〇五空の一式中攻が、敵艦隊を発見して攻撃を行います。
照明弾をあげ、敵艦隊への奇襲攻撃を開始したのです。

そして第一陣が燃料と爆弾の底をついて去った一時間後、檜貝大佐の部隊が、現場に到着します。
物量にものを言わせた猛烈な敵の防御砲火をかいくぐり、檜貝の指揮官磯は、主翼に赤と緑の翼端灯を点じて先頭をきって突っ込みます。
照明弾に照らされた敵艦は、米国の誇る重巡洋艦シカゴです。
総排水量九千三百トン、乗員六百二十一名の大巡洋艦です。

檜貝大佐が雷撃しようとした、その一瞬、敵のはげしい砲火に一瞬目がくらみます。
檜貝大佐は、敵艦の姿を見失い、もちまえの几帳面さで、機の体制を立て直しにかかる。
雷撃をやりなおそうとしたのです。

雨のような猛烈な対空砲火の中の転身です。
機の高度は低い。
敵弾がすぐそばで炸裂する中で、
檜貝大佐は慎重に機の体勢を立てなおします。
そして魚雷を二発、発射します。

魚雷が、敵艦めがけて、突き進みます。
その直後、檜貝機が、被弾しました。
機体は黒煙をあげました。

燃料タンクをやられたのです。
最早、帰還は望めません。

17時45分、檜貝大佐は、機体をシカゴの正面から甲板すれすれに突入しました。
そして飛び散ったガソリンで、甲板を炎上させました。
さらに艦橋で急上昇すると、シカゴの後方上甲板に機体を激突させました。
見事な特攻攻撃でした。

檜貝大佐が機体もろとも散華された直後です。
大佐が放った魚雷が二本、
シカゴの右舷に命中しました。
シカゴは、前、後甲板とも火の海です。

そして魚雷が命中した右舷からはドクドクと浸水しました。
航行不能となったシカゴは、総員に退艦命令を出されました。

ちなみに重巡洋艦というのは、そうそう簡単には沈む船ではありません。
シカゴは、乗員大挙後、重巡洋艦ルイビルに曳航され、戦地を離れようとします。
それを翌日、ラバウル基地を飛び立った七五一航空隊がこれを発見します。
シカゴに、四本の魚雷を命中させ、沈没させています。

檜貝嚢治大佐は、大空の武士として、壮絶に散華されました。
檜貝大佐の死を聞いた軍令部のある参謀は、
「少佐を失ったことは、戦艦『陸奥』が沈んだよりももっと痛手だ」
と嘆いたそうです。

檜貝大佐を失ったことにより、帝国海軍は、その戦闘力を失っただけでなく、優秀な後進の指導能力をも失ってしまったのです。
損失ははかり知れないものがありました。
あまりのことに、檜貝大佐は、戦死されたことすら、しばらく秘匿されていたくらいです。

檜貝大佐の死が公開されたのは、大佐が散華されて一年四カ月後の、昭和19年5月29日のことでした。
彼の死は全軍に告知されました。そして檜貝嚢治少佐は、二階級特進して大佐に任ぜられました。
そして彼の葬儀は昭和20年3月、故郷の佐倉町で町葬として行われました。

檜貝大佐の妻の麗子さんは、夫の死の二カ月後に、長男の登さんを出産しました。
麗子さんは、戦火が激しくなる中、赤ん坊を連れて実家の宇都宮に戻り、縫製の仕事をしていたそうです。
ところが、この実家も空襲で焼かれてしまいます。

戦後、麗子さんは、登を夫の実家に一時あずけて、東京の服装学院に通って洋裁の技術を身につけ、卒業後、洋裁の資格を活かしながら、女手ひとつで登さんを育てられています。
奥様の麗子さんには、おつらいこともいっぱいあったろうと思います。
しかし彼女の心には、いつも亡き夫の檜貝嚢治さんが生きていたといいます。
つらいときも、悲しいときも、彼女は夫と心の中で対話したのだそうです。
そして勇気をもらったそうです。

お子さんの登さんは、やはり龍の子です。
優秀な若者として育ち、早大を卒業後、原子力会社に勤務されます。
人から人へ、世代から世代へ。
私たちの日本の歴史は、過去も現在も未来も、ずっとつながっています。

お読みいただき、ありがとうございました。


※この記事は2010年7月のリニューアルです。

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No title
佐倉中学(現、佐倉市立佐倉中学校)を卒業‥とありますが、佐倉市立佐倉中学校は1947年開校です。(旧制)千葉縣立佐倉中學校は、わが母校である現、千葉県立佐倉高等学校であると思われます。
2017/01/18(水) 13:04 | URL | ペンギンアイス #-[ 編集]
果たして暴言か
20日からアメリカ大統領がトランプ氏に代わります。彼の過激な言葉で世界が揺れています。一言発言すれば翌日の株価に影響します。これ程影響力の大きな大統領が過去にいたでしょうか。

彼の発言は「アメリカ第一」です。この発言と行動を批判するメディアに対してトランプ氏も負けていません。

彼の登場で一番動揺しているのは中国です。中台1国に縛られる必要はないと大胆な発言までしています。

ピーター・ナヴァロ氏はアメリカのカリフォルニア大学の教授です。彼の著書「米中もし戦わば」で中国の脅威がいかに大きいかが書かれています。

今の世界情勢と米中の軍事力をを分析し、アメリカの現状の立場と中国に対してとるべき対応を述べています。

軍事衝突を避けるためには「力による抑止」以外にはないと述べ、中国にこれ以上の軍拡をさせないためには中国の経済成長を抑えるべきだとも言っています。

その手段の一つが「アメリカ第一」的な手段です。安い賃金や税の優遇などでアメリカの製造業を潰して中国に本拠地を移したグローバル企業が中国の軍拡に貢献してきたと非難しています。

中国との軋轢は避けられません。「米中もし戦わば」を読むと、トランプ氏の言動が「暴言」とも言えなくなります。

これからのアメリカがどうのように変わるか。楽しみです。
日本にとっては「吉」のような気がします。
2017/01/16(月) 15:50 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
No title
すでに犯罪だから
http://ttensan.exblog.jp/23779698/
2017/01/16(月) 08:08 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

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