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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


対馬丸事件とは

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20170317 対馬丸
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)


昨日沖縄戦に関する記事を掲載しましたが、この沖縄戦に関連して、どうしても続けて書いておかなければならないことがあります。
「対馬丸事件」です。

沖縄に「対馬丸記念館」という施設があります。
ホームページは、以下の通りです。
http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html</u>">http://www.tsushimamaru.or.jp/index.html
この対馬丸記念館で、ある女性が実際に体験されたお話です。

彼女が一人で見学していたときのことです。
館の関係者らしき初老男性ガイドが、5~6人ほどの男性客を案内しながら入ってきました。
展示パネルを指さしながら対馬丸の悲劇を説明していました。

「沖縄からの疎開のための学童を乗せた輸送船の対馬丸は、22時10分に魚雷攻撃を受けました。
大爆発を起こした対馬丸は、22時23分頃沈没し、子供たちは海に投げ出されました。
皆は救助を求めましたが、対馬丸を護衛するはずの2隻の護衛艦は、黙ってそのまま行ってしまいました。」

ガイドは、ここで言葉を切りました。
そして、その言葉がじわり、と浸透するように、わざと沈黙しました。

客の一人ひとりが、小さな声で言いました。
「えっ!見殺しにしたの? ひどいね~」

ガイドはこの言葉を確認すると、
満足したかのように
「では次の展示に行きましょう」と移動しようとしました。

傍で聞いていた彼女は、おもわず声をあげました。

「ちょっと待ってください!
護衛の艦は、助けたくても助けられない状況だったんじゃないですか?
あなたの説明は言葉が足りません。
対馬丸は一隻ではなかったはずです。
ほかに2隻、護衛すべき船があったことを、説明に入れるべきです!」

ガイドは、ギョッとした顔をしました。
客の一人が
「そうだったの?
それなら、二次被害の可能性もあるね」

彼女は続けて言いました。


20161026 倭塾バナー



「護衛の駆逐艦は、700隻以上もの疎開船、輸送船を沖縄から長崎まで送り続けました。
唯一、沈められたのが対馬丸です。
それ以外の船は命を懸けて護衛しました。
ガイドさん、あなたは、あたかも『海軍が見捨てた』、という印象の説明をされましたが、本来、責めるべきは魚雷を撃った潜水艦なのではありませんか?」

ガイドはギロっと彼女を睨んだそうです。
けれど、彼女は、そのガイドの眼を見返します。

ガイドは反論できません。
そのうち、客が、
「そりゃそうだ。敵はアメリカだしな」
「残った2隻だけでも守らないとな」

彼女は続けて、事件の9か月前に、二次被害によって生存者の救助にあたるために停止していた護衛艦が襲撃を受けて、せっかく救助した被災者とともに爆死した事件があったことを話しました。
ガイドは、バツが悪くなったのか、そそくさと一行を次の展示に移動させていってしまった。

けれど彼女は、すくなくとも、客の2人が正常な反応をしてくれたことに、少しホッとしたといいます。
この件と同様に、沖縄、広島、長崎などにある資料館、記念館等では、毎日、このような意図的に事実をねじ曲げ、いかにも日本が粗暴な振る舞いをしたかのごとき印象操作を行うガイドが横行しています。
真っ白な見学者に向けて、意図的に歪曲した情報操作、印象操作が行われているのです。

彼女は、そうした場にいあわせると、都度、たったひとりの戦いを挑んでいるそうです。
そうして、見学者の中のひとりでもいいから、ガイドの反日偏向した説明に疑問を持ち、見学者が、実際はどうだったのか自分で調べてくれたり、その場で気付いてくれたりするように、反論しておいでなのだそうです。

彼女は言います。
「私は戦争体験者、戦闘体験者の父祖達の名誉のためにも、歪曲ガイドの説明に出くわしたら、その場で言い、修正し続けます。
サイレントマジョリティはもうサイレントではいけない!」

対馬丸記念館のホームページをみると、対馬丸のそのときの情況を、(多少舌足らずなところはあるものの)、ある程度きちんと説明しています。
輸送船「対馬丸」には、1,788名が乗っていましたが、370名が漂流後、救助や漂着によって九死に一生を得ました。
生き残りの人たちがいるのです。
ですからさしもの左翼も公式HPまでは、過度なデタラメは書けなかったのでしょう。

さて、せっかく対馬丸事件が出ましたので、事件の概要をみてみたいと思います。

対馬丸事件は、沖縄戦がはじまる7ヶ月前に起こった事件です。
その一ヶ月前の昭和19年7月には、サイパンが陥落しています。

サイパン島には、戦いが始まった当初、島に約2万人の在留邦人がいました。
けれど戦闘終了後、最終的に米軍が収容した日本人民間人は10,424人です。
約半数の邦人が戦いの渦中に命を落とされた。

これはたいへんな事態です。
なにせ、邦人が1万人近くも亡くなったのです。
空襲や艦砲射撃でやられた人もいました。
銃撃を受けて亡くなられた方もいました。
有名なバンザイクリフで飛び降り、自決された方もいました。

東条内閣は、サイパン陥落の報に接すると、即座に緊急閣議を開きました。
そして東条英機首相以下、閣僚たちは全員、サイパンの悲劇をくり返さないようにと誓い、さらに米軍の動向から、次には「沖縄に戦火が及ぶ公算大」と判断します。
そしてその日のうちに、沖縄本島、宮古、石垣、奄美、徳之島の五島からの、本土及び台湾への大規模疎開の実施を決定しました。

決定は、ただちに、その日のうちに、沖縄県に通達されました。
内容は、「60歳以上と15歳未満の老幼婦女子と学童を優先させ、本土へ8万、台湾へ2万、合計10万を即時疎開させること」というものです。

当時の沖縄県民は、周辺の島々を加えて約59万人です。
そのうち即時疎開者10万、そして開戦までに、さらにできるだけ多くの県民を疎開させることとを示達したのです。

実は、このことは、軍としてもたいへんにありがたい措置です。
なぜなら、戦う軍にとって、民間人の残留は、まことに負担が大きいからです。

民間人は、規律と統制のとれた軍人ではありません。
軍人は、命令一下整然と行動をとりますが、民間人は行動が散漫で遅滞しがちです。
加えて逃げ遅れた者がいれば、軍はそのための捜索隊を危険を冒して出さなければならない。
戦傷者が出れば、そのぶん、余分な人手をとられます。
つまり、軍の機動力と戦力の両方が損なわれてしまうのです。

こう書くと、「何のために戦っているのだ。民間人の保護のためじゃないのか」とお叱りの声が聞こえて来そうです。
けれど、そこが「戦場」になれば、敵の砲弾が飛んで来るのです。

それだけじゃありません。
沖縄は、数々の離島で構成された島です。
周辺の島々に住民がいれば、日本側の守備隊は、それぞれの島の防衛のために、ただでさえ少ない兵力を、余計に割かなければならなくなる。

戦いは、戦力が集中した方が有利なのは、古来、戦場の常識です。
離島に戦力が分散し、また本島の民間人保護に戦力を取られたら、それだけでも、戦いは非常に不利なものになってしまう。
まして、高齢者や婦女子は、戦いの場にいたら危険なだけです。

まだあります。
食料です。
当時の沖縄は、年間に消費される米の3分の2を、県外からの移入に頼っていたのです。
沖縄で戦闘が始まり、海上輸送が途絶したら、県民への食糧補給が困難になる。
ですから一日もはやく沖縄県民を集団疎開させることは、沖縄を守る守備隊にとっては、まさに喫緊の課題だったのです。

だからこそ、東条内閣は、とにもかくにも、一刻も早く、沖縄県民を、本土や台湾に疎開させようとしました。

けれど、疎開をする側の民間人からしてみれば、その時点では、まだ敵弾が飛んできているわけではありません。
いつもと変わらぬ青空が広がっている、いつもと変わらぬ日常がそこにあるだけです。
郷土への執着もある。
見知らぬ土地への疎開に対する不安もある。
手荷物のこともある。

女房がウチからいなくなったら、明日からの飯はいったい誰が炊くのか。
疎開先で、子供たちの学校はどうなる?
疎開先での食事の面倒は誰がみるのか?
体の具合の悪い年寄りの面倒は誰がみるのだろう?
かかりつけの医者があるけれど、疎開先に医者はいるのか?
飼っている牛や犬や猫をどうするのかも、民間人にしてみればたいへん大きな問題です。

現実に疎開ということになれば、それぞれの家庭ごとにいろいろな問題があるのです。
集団疎開なんてしないで済めば、それにこしたことはないし、沖縄が戦場にならないなら、それがいちばんいい。
誰だってそう思います。

見上げる空は、今日も青い。
見渡す海は、今日も青く広く輝いています。
その海原を埋め尽くすほどの米軍艦船が、巨大な主砲から嵐のように艦砲射撃を加えてくるなんてことを、その時点で、どうして想像できましょう。
沖縄戦が起こるのは、それからまだ8カ月も先のことなのです。

この瞬間は、あくまで、「もし、敵軍が来たら、こうなる」という仮定の話でしかありません。
来ないかもしれない。
昨日と変わらぬ日常を送る一般の人たちにとって、昨日と変わらぬ今日があり、今日と変わらない明日があるだけです。

ひとくちに疎開といっても、ですから、そうそう簡単なことではないのです。
国が事前に疎開をさせようと思う時は、だから住民にきちんと事情を説明し、理解を得ながら、疎開誘導を円滑に進めなければならないし、そのためには沖縄県の行政の協力と働きが不可欠です。

ところが、当時の沖縄県知事であった泉守紀(いずみしゅき)は、疎開に真っ向から反対したのです。
「沖縄県が戦場とならないために努力するのが軍の仕事である」などと、わかったようなことを言い出しました。
そして県が疎開行動に協力するのを拒んだのです。

風雲急を告げているときです。
すぐそこまで敵が迫っている。
愚図愚図しているヒマはない。

「沖縄県が戦場とならないために」もちろん最大限の努力はする。
けれど、戦闘はこちらが望んで起こすものではないのです。
こちらの事情に関わりなく、相手が相手の都合で、攻めて来る。

沖縄に日本軍がいなければ、攻めて来ないなどということもありません。
当時の航空機は、日米とも、まだ燃費が悪いのです。
米軍が日本本土を攻略するためには、そのための攻撃拠点となる基地が必要です。
だからこそ、サイパンに次いで沖縄の占領は不可避なのです。

ならばサッサと降参したらいい、という人もいるかもしれません。
これも違います。
降参すれば、米軍は悠々と沖縄を占領し、そこから日本本土を攻撃する。
数多の命が失われてしまうのです。
ですから、理屈はともかく、兎にも角にも、疎開は実施しなければならない。

ところが沖縄県の泉県知事は、昭和18(1943)年の赴任当初から、いわく付きの人物でした。
着任早々から、やれ「沖縄は遅れている」だの「だから沖縄はダメだ」などと、県の職員たちを見下し、こき下ろし、県庁職員たちの反感を買っています。

さらに昭和19(1944)年3月に、沖縄防衛のために陸軍第三十二軍が着任すると、そこでも軍の幹部と揉めました。
なにを揉めたかというと、軍が駐屯すると、そこに民間施設の「慰安所」ができます。
その民間の慰安所(売春施設)の設置を、拒んだのです。
理由は、「皇土の中にそのような施設は望ましくない」というものです。
けれど、当時、赤線が世の中の常識だった時代です。
沖縄にも遊郭はあった。
つまり、現実に施設はあったのです。
それを、軍の兵隊さんたちのための民間施設の建設を拒んだ。

ひとついえることは、このての、いっけんもっともらしい理屈をいう人間に、ろくな奴はいない、ということです。
なぜなら、人間には本能があり、その本能の欲求を否定する者というのは、必ず「自分だけは別」と、特別扱いされることを当然と思っているからです。

たしかに「売春宿はよくない」といえばそれまでです。
言っていることは、ご説、ごもっともかもしれない。
けれど、明日をも知れない命である兵隊さんたちにとって、性の捌け口は必要なものです。

このことは、女性の方にはちょっとわかりにくいかもしれません。
けれど、男というものは、私くらいの年齢になるともはや現役引退になるけれど、若い適齢期の男性にとっては、ほっておいても精子が溜まるのです。
毎朝、起き抜けには、倅が相手を求めて怒張するのです。
これは、人類普遍の男の生理です。

溜まれば、排出しなければならない。
溜まって来たときというのは、たとえてみれば下痢して大が漏れそうになって切羽詰まったときのようなものです。
放出しなければ、頭に血が昇る。

とりわけ戦地においては、明日をも知れない命です。
そうなると、これまた人類普遍の真理で、なんとかして自分の遺伝子を後世に残そうとする本能が働きます。
若い男性なら、女性に対して渇望的になるのです。

一方、女性の場合は、明日をも知れない命となると、逆に平和と安全を強く求めるようになるといわれています。
なぜなら胎内に子を宿した状態で、戦火を迎えたら、安心して子を産めないからです。
これまた女性の本能です。

戦いの前に、子を残すために女性の胎内に放出して子孫を残そうとする本能がはたらく男性と、これを受け止めて安全なところで子を産みたいという本能が働く女性。
そして男性は、そんな女性たちを守るために、死地に赴く。
女性たちの安全と安心を確保するためです。

そういう意味では、人もホ乳動物のうちです。
ですから下痢してどうにもならない状態の男性たちに、無理に性を禁じれば、それこそ町は野糞だらけになってしまう。
そういう意味で、昨今の日本の情況には、大きな間違いがあるといえようかと思います。
たとえは悪いかもしれませんが、どんな綺麗な家でもトイレは必要なのです。

ちなみに、いまでも自衛隊の駐屯地がありながら左翼系の県知事がいる都道府県では、いわゆるピンク産業について、非常に厳しく規制的です。
自衛官のみなさんは、それでもじっと我慢して日々の厳しい訓練にいそしんでいますが、これは男性に一方的に無理を強いるものであり、生物学的には、決して正しい選択ではない、ということを、ひとこと申上げたいと思います。

対馬丸事件の後のことになりますが、慰安所設置をめぐって、これに反発した泉守紀県知事は、昭和19(1944)年10月10日の那覇大空襲のとき、逃げまどう市民や県庁職員をほったらかして、自分だけさっさと防空壕に隠れてしまっています。
職員すらほったらかしにしました。
自分だけ逃げた。

さらに空爆が終わると、民間の被害現場さえもほったらかして、こっそり那覇市を脱け出し、沖縄本島中部の普天間に公用車を使って自分だけ逃げてしまいました。
そして普天間で、自分ひとりだけの「県庁本部」を名乗っています。
もちろん県の職員達は、那覇の県庁にほったらかしです。

さらに昭和20(1945)年1月、沖縄戦の2ヶ月前の、敵上陸がもはや眼の前に迫ってきているときには、泉知事は、自ら上京して沖縄からさっさと去ってしまっています。
大蔵省幹部であった実兄に頼み、自分だけが沖縄から転任できるよう、工作を依頼していたのです。

泉知事が着任してからの在任帰還は、約一年半(約500日)ですが、そのうちの三分の一近い175日間もの間、彼は沖縄県を留守にしました。
どこに行っていたのかと言うと、東京との調整と称して、風雲急を告げる沖縄をほったらかしに、ずっと中央で転勤のための根回しをしていたのです。
それも沖縄県の歳費を使って。

要するに泉知事は、沖縄が危ないということを沖縄の民衆の誰よりも早い段階で知り、自分だけが転勤で、いちはやく沖縄から逃げ出そうと、そればかりを考えていたわけです。
そしてそのために、県知事という立場を利用して、内閣や軍の指示にさえ竿をさし、反発し、邪魔だてしたのです。
もっと簡単にいえば、「沖縄県民の安全を人質にすることで」自分だけが戦地からうまく逃げ出す算段をしていた。
最低です。

こんな体たらくの県知事であっても、県の職員のなかには、ちゃんと危機意識を持つ人もいてくれました。
たとえば沖縄県の警察部長であった荒井退造氏なども、そのひとりです。

荒井退造県警部長も、本土からの赴任組です。
彼は、昭和18年7月、42歳で沖縄県警察部長として沖縄に赴任しました。
そして赴任からちょうど一年後に、東条内閣からの疎開指令を受けたのです。

形ばかりのつもりだったのかもしれないけれど、泉知事は、荒井退造を、県民疎開の責任者に任じました。
荒井退造は、すぐに県下の全警察署に指示して、説明会や家庭訪問を実施させました。
県民一人ひとりに疎開の必要性を説いてまわらせたのです。

それはたいへんな作業でした。
沖縄県の全警察官が、一件、一件のお宅に訪問して、事情を説明し、疎開へと誘導するのです。

「おやじさん、7月7日には、サイパンが陥落したんですよ。
3万1000名の守備隊は玉砕、1万2000名の在留邦人も運命を共にしたんです。
沖縄で同じことがおこったらどうするか。
ここは、つらくても一時的に疎開するのが一番良い。
みなさんが疎開することで、沖縄守備隊も精いっぱいのご奉公ができるんです」

けれど、県民の反応はイマイチだったそうです。
警察官の言う理屈はわかるのです。
けれど、先祖伝来の土地からはそうそう簡単には離れられるものではありません。

やむをえず退造は、県の職員や警官の家族を先に疎開船に乗せることを企図しました。
本来は、順序が逆です。民が先、官が後です。それはわかっている。
けれど、まず、役人や警官の家族が動き出したとなれば、県民たちだって安閑としてはいられなくなるのではないか。
それに、老人や妻子を本土に疎開させた暁には、残った職員たちだって後顧の憂いなく奉公ができる。

昭和19(1944)年7月21日、疎開船第1号が那覇の港を出発しました。
船は輸送船「天草丸」です。
県庁職員や警官らの家族752人を乗せて那覇港を出発しました。

このとき、沖縄県警察部輸送課長だった隈崎俊武警視(当時42歳)の妻と5男2女もその中にいました。
当時6歳だった四男の勝也さんは、当時の状況を鮮明に覚えていて、それを手記に書きのこしています。

~~~~~~
追い立てられるような、慌ただしい旅立ちだったと子供心に記憶しています。
その日、一張羅を着せられ、まだ新しい帽子をかぶり、ランドセルを背負い、新品の革靴姿でした。
母は乳飲み子と3歳の妹をつれ、兄や姉は持てるだけの荷物を持って、那覇港に行きました。
埠頭(ふとう)は乗船する家族連れ見送りの人たちで一杯でした。
父も見送りに来ていました。
~~~~~~

見送る夫、見送られる妻。
これが永遠の別れになるかもしれない。
去来した思いはいかばかりだったでしょう。

今度また稿をあらためて書きますが、沖縄戦に向かった特攻隊員たちの思い、また沖縄戦で戦い、散って行かれた軍人さん達、あるいは現地に残って最後まで民生に勤めた県の職員や警察、消防員たちの思い。
その根底にあったのは、すべて
〜〜〜〜〜〜〜〜
思いやりの心
〜〜〜〜〜〜〜〜
だったといわれています。

家族に対する思いやり、県民に対する思いやり。仲間たちへの思いやり。
激戦のなかにあって、その思いやりのために、みずからの尊い命を捧げたのです。
片足を失い、片腕を失い、腹に大穴を空けられ、指が飛ばされても、それでも戦ったのは、すべて他人を思いやる心が、日本人共通の意思としてあったからです。

輸送船第一号として那覇港を出港した「天草丸」は、すこし走っては停まっては耳を澄ます、また少し走っては、停まってあたりを警戒するという動作を繰り返しながら、すこしずつ航海をすすめました。
敵潜水艦による攻撃を警戒したのです。
通常ならわずかな道のりの航海も、だからこのとき、鹿児島に着くまでに2週間もかかっています。

航海の途中、勝也少年は、ある日、黒く長い物が水面すれすれに、ジャブジャブと泡を立てながら、船体をかすめていったのを目撃しています。
大きな魚かと喜ぶ勝也少年を、大人たちは「じっとしなさいっ」と叱りつけて、ぎゅっと体をつかまえたそうです。

それは敵潜水艦の魚雷だったのです。
天草丸は間一髪で助かったのです。

ひとつ、たいせつなことを付け加えます。
非戦闘員を運ぶ船舶への魚雷攻撃は、国際条約に従い明らかな「戦争犯罪」だ、ということです。

戦後日本は、東京裁判で、戦後の事後法である平和に対する罪などで裁かれました。
しかし、法律不遡及の原則といって、法というものは遡って罪をなすりつけてはいけない。
法には不遡及の原則があるのです。
けれど、東京裁判は、事後法で裁かれました。
一方、輸送船を意図的に攻撃してはならないという、国際法は、米国を中心とする連合軍によって、公然と破られました。
そして勝った連合軍は、そうした不法行為について、一切裁かれることはありませんでした。

日本の輸送船は、当然のことながら非武装輸送船(疎開船)であることを示す標識を掲げて航海していたのです。
しかも、走ったり停止したりを繰り返しています。
さらに、進路は戦地に兵員や軍備を運ぶ「行き」のコースではなく、沖縄から本土に向かう「帰り」のコースです。

誰がどうみても、素人判断でさえも、あるいはよほど頭の足りない戦闘員であったとしても、それが「非戦闘船」であることは、明白でした。
それでも、こういう船を一方的に攻撃されたのだということを、私たちは事実として忘れてはならないと思います。

また、非戦闘船でありながら、ジグザク走法をして敵潜水艦による魚雷攻撃を警戒したことにも理由があります。
実は、沖縄疎開開始決定に先立つ8ヶ月前の昭和18(1943)年12月21日に、沖縄那覇から本土に向けた定期航海の輸送船団が米国潜水艦によって、撃沈させられるという事件があったのです。
「湘南丸事件」です。

場所は、対馬丸が沈没した海域と同じ海域です。
攻撃を受けたのは、日本の「沖903船団」でした。
船団は、輸送船が湘南丸、大信丸、延寿丸、慶山丸の四隻、護衛は佐世保防備戦隊所属の特設捕獲網艇の第二新東丸と柏丸の二隻でした。

12月19日に那覇を出た船団は、20日には奄美の名瀬港に着きました。
ここまでは何事もなく航海を続けることができたのです。

同日午後5時、船団は名瀬港を出発し、鹿児島に向かいました。
そして21日午前1時38分、沖永良部島西方18km付近で、湖南丸が、米国潜水艦からの魚雷攻撃を受けたのです。

魚雷は、2本が湘南丸の右舷に命中しました。
湖南丸は、わずか2分で沈没してしまったそうです。

けれど、そのわずか2分の間に、湘南丸の船員達は、湘南丸に付属している救命艇を海に降ろし、また筏になりそうなもの、浮き輪などを、海に放り投げました。

湘南丸に乗っていたのは、海軍飛行予科練習生予定者や女子挺身隊などを含む民間人が683名、船員72名、海軍警戒隊4名の合計759名です。

沈没した湖南丸から海に投げ出された乗客たちは、船員達が必死で投げてくれた救命艇や浮き輪などによって、その多くが一命をとりとめました。
一方、沈没のその瞬間まで、乗客達のために救命艇や浮き輪を用意した船員達は、湘南丸と命をともにして、海中に沈みました。

海上にただよう乗客達は、救命艇や筏につかまり、海に漂いました。
人命第一は、今も昔も変わりません。
護衛艦の柏丸は、海に漂う乗客達を助けるために、エンジンを停止させ、人命救助にあたったのです。
柏丸は、こうして湘南丸の乗員約400名を救助しました。

ところが、です。
明らかに停船して、海上に漂う人々を救助し、その救助活動によって海上のほとんどの人が柏丸に乗り込んだのをみとどけた米潜水艦は、その護衛艦の柏丸に向けて、魚雷を放ったのです。

いくら護衛艦とはいっても、停船している状態では戦闘能力はありません。
動くことも、避けることもできないまま、護衛艦柏丸は、魚雷をまともに受けてしまうのです。

魚雷は、海から救助され、暖を取るために遭難者の多くが集まっていた、柏丸の機関室を直撃しました。
柏丸は大爆発を起こし、救助された人々と、命がけで救助にあたってくれた柏丸の乗組員たち全員を連れて、ほとんど瞬時に沈んでしまっています。

当時、米潜水艦は、ウルフバックといって、3隻くらいの複数艦で行動することが多いという情報が寄せられていました。
そして、被災者の救助活動を終えたところを、目の前で撃沈されたのです。

護衛艦の第二新東丸は、柏丸と湘南丸の生存者の救出をいったんあきらめ、他の輸送船(大信丸、延寿丸、慶山丸)の乗客たちを守るため、輸送船団を指揮して、いったん全艦で、その場を離脱しました。
なぜなら、それぞれの輸送船には、他の大量の乗客がいたのです。

他方、知らせを受けた日本海軍は、即時、対潜艦4隻を現場に急行させるとともに、夜明けとともに航空機を現場に急派しました。
そして、海軍の増援艦隊を確認した護衛艦の第二新東丸はは、再び現場に戻り、生存者の救命活動を行ったのです。

けれど、発見できた生存者はわずかでした。
湖南丸だけでも、死亡者は、船客576名、船員69名・海軍警戒兵3名の合計648名です。
助かったのは、わずか111名だけでした。

沈められた湘南丸、柏丸に乗船していて亡くなられた方々のおひとりおひとりには、それぞれ家族があり、友人があり、それぞれに人生がありました。
それだけでなく、湘南丸には、沖縄や奄美から本土にいる家族らに宛てたたくさんの手紙が乗っていました。
その手紙の一枚一枚には、遠く離れた家族への思いが綴られていたことでしょう。

非武装の輸送船を攻撃することも国際法上違法なら、救命活動中の船舶への攻撃も、明らかな違法行為です。
それでも攻撃されてしまう。

すでに沖縄〜本土間の制海権は、半ば敵の手に落ちています。
けれど、それでも沖縄決戦となれば、そこに残る人々は、まず生きて帰れない。
だからこそ、危険を承知で、精一杯の注意を払いながら、疎開船を出さなければならなかった。
それが、昭和19年夏の、沖縄の情況だったのです。

対馬丸事件は、こうした状況の中で起こりました。

対馬丸が那覇の港を出港したのは、昭和19(1944)年8月20日午後6時35分のことです。
目的地は、長崎でした。

一緒に船団を組んでいたのは、
 輸送艦 対馬丸、暁空丸、和浦丸
 護衛艦 蓮、宇治 
の5隻です。

対馬丸には、一般人及び那覇国民学校の児童、その介添者合わせて1,788名と、86名の乗組員が乗船していました。

他の2隻は、和浦丸に、学童疎開者だけで1,514名、暁空丸には一般疎開者だけで約1,400名が乗っていました。

子供達の対馬丸での様子は、「まるで修学旅行でも行くかのよう」だったそうです。
「先生、ヤマトに行くと雪が見られるのでしょう?」
「雪って、どんなかなぁ」
「先生、長崎ってどんなとこなんですか?」
「あ、向こうに船が見える!、先生、あの船、なんて名前?」

子供達で沸きかえる船内では、手が空いた対馬丸の乗務員が、子供達に付き合って、「戦争の話や、前に遭難して助かった話など」をしたりしていたそうです。

一方、米海軍は、暗号解読などによって、対馬丸ら一行の予定航路をおおよそ把握していたそうです。
そしてその航路に網を張った米潜水艦のボーフィンは、8月22日午前4時10分に、レーダーによって対馬丸を含む船団の位置を探査し、特定しています。

米潜水艦のボーフィンは、潜航状態で観測を行いました。
船団には、哨戒機が2機が張り付いていました。
しかも船団は、レーダーを妨害するために、強烈なジャミングを発していました。
これにより、ボーフィンは、「当該輸送船団は、重大任務を負っている」と判断。
航空機の援護ができない夜間に攻撃をしかけることを決め、船団から約40キロの距離を置いて、ひそかに追尾しました。

夜になり、対馬丸では、引率教師たちが児童に、救命胴衣の着用を指示しています。

午後10時9分、米潜水艦ボーフィンは、船団との距離を2.5kmにまで詰め、艦首発射管から魚雷6本を発射しました。

対馬丸は、見張員がその魚雷を視認します。
ブリッジでは、艦長がただちに「取舵一杯、両舷全速前進」を命令しました。
けれど、近距離での発射です。
魚雷はみるみる接近する。

艦長の指揮で、1本目の魚雷は船首前方をかすめ去りました。
しかし、続く3本が、左舷の第一、第二、第七船倉に命中したします。
そしてすこし間を置いて、別の魚雷1本が第五船倉右舷に命中する。

魚雷の命中によって、船内にはおびただしい海水が流入します。
船体の保持困難とみた艦長は、即座に「総員退船」を命令する。

子供達を引率していた先生たちは、寝付いたばかりでなかなか起きない子供達を、蹴っ飛ばしてまで起こしたそうです。
そして海水の浸入するなか、船内から乗組員たちと一緒に、子供達をいちはやく梯子を登らせて甲板に出そうとした。
けれど、梯子を踏みはずして下に転落する子供、おびえて体が動かなくなる子供。そして、みるみるうちにせまってくる海水。

一方で、甲板にいる乗組員達は、やはり大急ぎで、救命艇や浮き輪、筏になりそうな器材等を海に放ります。
そうこうしているうちに、乗客の児童や教師たちが甲板に上がって来る。

乗組員達は、急いで海に飛び込むように指示するのだけれど、舷側が高くて、これを乗り越えられない者、夜の暗闇の海への恐怖にふるえて海中に飛び降りれない児童もいます。
船はどんどん傾いて来る。
乗組員達は、子供達を舷側から海に放り投げもしていたそうです。

そして魚雷命中からわずか11分後の午後10時23分、対馬丸は、大爆発を起こして沈没します。
爆風で、舷側にいた救命ボートが転覆し、何人かは吹き飛ばされて海に消えました。

その日、海は近づいている台風の影響で、大しけに荒れていました。
その荒れた海の上で、大声をあげて生存者を捜す者、せっかく来ていた救命胴衣が大きすぎて、そのまま海で溺れて沈む者。

護衛艦の「蓮」は、敵潜水艦による次の攻撃を避けるために、持っている機雷を全て海に放出しました。
そして護衛艦蓮と、宇治は、残った輸送船の暁空丸と和浦丸を連れて、全速力で現場を離れました。

これは正しい判断です。
すぐ前に、同じ海域で、湘南丸事件があったのです。
しかも、米潜水艦は、常に複数で行動している。
その場にいたら、他の輸送船の乗客達まで、犠牲になる危険がある。

一方、対馬丸の生存者は台風で荒れる海の上で、漂流しながら救出を待つことになりました。
漂流は、暴風雨、三角波、眠気、真水への渇望、飢え、錯乱等との戦いでもあったそうです。

漂流中、対馬丸の小関保一等運転士は、当初、10名ほどの児童が乗った筏につかまりながら、漂流している児童を見つけてはいかだに乗せました。
そうしてまる17時間、小関さんは救助した乗客達を筏に乗せ、自分は海に浸かったままで一昼夜を耐え、8月23日午後3時ごろ、付近を航行していた漁船2隻に救助されています。
このとき漁船に救助されたのは児童、一般人83名、兵7名、乗組員21名でした。

わずか10名の乗る小さな筏で、それだけ多くの人数の人命を保ったのは、海水が腰の高さまで浸水している筏にあって、小関さんが、とにかく「座れ、座ってろ!」という強い指示があったからでした。
彼は、嵐と高波に翻弄される筏にあって、重心を下げることで筏の転覆をついに防ぎきったのです。

同じく乗組員の吉田薫夫さんは、児童3名と筏で漂流しました。
子供達を励まし、軍歌を歌ったりして気を紛らしたりしたそうです。
けれど、体力の衰微とともに、2名の子供が相次いで死んでしまいます。
悲しみにくれながらも、吉田さんは、万一助かったときのためにと、亡くなった子供の遺体とともに、漂流を続け、翌々日の8月24日に捜索隊によって救助されています。

こうして、312名が救助されました。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、嵐がやんでから軍の救助隊や、軍から連絡を受けた奄美などの漁師たちの船によって救出されました。
いちばん長い人で、10日間もの漂流をしています。

けれど対馬丸の乗員1788名のうち、児童804名を含む、1,418名が、犠牲となられました。
犠牲者の遺体の多くは、奄美の宇検村などに流れ着いたそうです。
現地には慰霊碑が建立されています。

沖縄からの疎開船は、昭和19(1944)年7月21日の第1号の天草丸からはじまり、翌昭和20(1945)年3月まで、延べ187隻が繰り出され、合計で8万名以上が日本本土と台湾へ疎開しています。

そして、同年3月23日、洋上を埋め尽くした米国の大艦隊の艦砲射撃とともに、延べ二千機におよぶ米航空機による空爆が始まりました。
沖縄戦のはじまりです。

激戦は6月下旬まで続きました。
そして、日米両軍合わせて約18万人が死傷しました。
結果として、沖縄の民間人9万4千名が犠牲となっています。
 
開戦前に、沖縄から逃げ出した泉知事に代わって、1月から県知事に赴任した島田叡(しまだあきら、当時43歳)氏は、県警部長の荒井退造氏とともに、最後の最後まで県民の疎開に尽力し、もはや海上輸送による疎開では間に合わないとなるや、沖縄県本島北部に、避難施設を作って、3月までに約9万人を疎開させ、さらに医者と半年分の食料を避難民のために確保しました。

こうした努力によって、当時の沖縄本島の住民49万のうち、約20万人が、何らかの形で疎開することができたのです。

けれど、牛島軍司令官が6月23日に自決し、その数日後、荒井県警部長はアメーバ赤痢で亡くなり、島田県知事は、近くの海岸の自然壕でピストル自決してお亡くなりになりました。
戦前の日本にも、ろくでもない人物はいました。
戦後の日本にも、いい人はたくさんおいでになります。

けれど、戦前の日本にあって、いまの日本に欠けているもの。
それは、私は、「思いやりの心」なのではないかと思います。

そしてまた、対馬丸事件に関していうなら、申し訳ないけれど、非は、輸送船と知って魚雷攻撃を仕掛けた米潜水艦と、その攻撃をさせた米海軍の指揮官にある。
なるほど、護衛官の蓮と治は、輸送船の暁空丸と和浦丸を連れて現場を離れているけれど、その判断によって、すくなくとも輸送船和浦丸の学童1,514名、暁空丸の一般疎開者約1,400名は、助かっている。

そして、沖縄からの疎開船による約8万名の輸送のうち、犠牲となったのは、対馬丸の1,418名だけであったという事実、さらに、最後の最後まで乗員達を助けるために、命を賭けて必死の活動をした対馬丸の船員達の最後まで思いやりの心を失わずに、乗客たちを助けるためにした努力の数々と死を、犠牲者への哀悼とともに、私達は心に刻んでおかなければならないと思うのです。

歴史は、ジグソーパズルのピースのいくつかを拾っただけでは、全体像は見えて来ません。
そして全体像をみなければ、昨日の記事の対馬記念館のガイドさんのように、間違った判断をしてしまうということも、あわせて学ばせていただきたいと思います。

最後に・・・
対馬丸の犠牲者のみなさまに、心からのご冥福をお祈り申し上げます。

※この記事は2012年10月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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「お詫びと訂正」
第一巻八十三ページに「これは千葉の常若神社の渡邊宮司から教えていただいた話なのですが、聖徳太子の十七条憲法の各条文は、それぞれ創成の神々の神名と関連付けて書かれているからこそ、十七条なのです」とありますが、私が教わったことは古事記と聖徳太子に関するお話であり、聖徳太子の十七条憲法と神々の神名との関連付けは教えていただいたことではなく、私の考えであると、渡邊宮司をはじめ、関係各位に深くお詫びして訂正いたします。

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コメント
No title
こんにちは。
こんな話がある。戦争中、アメリカの敬虔なキリスト教徒の御婦人方は慰安
所に反対運動をした。ご立派ですねえ。それで何が起きたか?ノルマンジー
上陸作戦で米兵が上陸したフランスの一地域では、一般家庭の女性達が多数、
レ・プ被害にあった。自治体の長は慰安所を設けてくれと米軍に訴えたが一
蹴されたと。で、フランス人のジョークが・・我々は米兵が来るまでは男を
隠し(地下で抵抗運動をやっていたから)米兵が来てからは女を隠した。
ではアメは?米軍は仏国の女性を踏みつけにした挙句、ど~やらねえ・・・
米国でおフランスってのは性的パラダイスだと内々に吹聴してた模様。まあ
そんな記述のある文章ってのがあるわけで。推測するに1951年のアメの
ミュージカル映画・巴里のアメリカ人・・コレはど~もね、おフランスのフ
リーメイソンから自由の女神像を貰ってただけにね・・アメ建国時にも仏国
にはお世話になってたし・・おフランスの名誉への気配りのようなね・・・
リキ入れて作ってたよね・・推測だよ~w
まあ・・ベルリン陥落時の露兵の婦女子への暴力よりはマシだったかもしれ
ない。推定、ベルリンだけで10万人、ドイツ全域で200万人、自殺者1
万人と。・・ドイツは昨年の移民による大規模レ・プ事件から、路線を変え
始め、移民制限へ。現首相はポーランド移民の御子さん・・おやおや・・。
よりによってポーランド・・・。
2017/03/26(日) 20:20 | URL | くすのきのこ #-[ 編集]
No title
▅▀▅▀日本版FOXニュース▀▅▀▅
ネット時代になって、サヨク政治家のほとんど外患誘致
的な難点がネット上で明るみになり、ネット世論が正常
化されたましたが、芯あるいは核となるものがないので、
なかなか国民世論までになりません。その点サヨクはメ
インストリームメディアを牛耳ってるので有利です。
よって日本版FOXニュースが必要です。
2017/03/26(日) 19:01 | URL | #-[ 編集]
No title
吉田清治の息子は朝鮮人…在日成り済まし説を追う
http://dogma.at.webry.info/201401/article_2.html
2017/03/26(日) 07:54 | URL | junn #p4GOlP7Y[ 編集]
No title
この話を、ぜひ沖縄の人々の前でして見てください。
2017/03/26(日) 07:40 | URL | #-[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
静岡県出身。国史啓蒙家。倭塾塾長。日本の心をつたえる会代表。日本史検定講座講師&教務。
連絡先: nezu3344@gmail.com
著書
『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』第1巻〜第3巻
『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』
日々、先人たちへの感謝の心でブログを書き綴っています。それが自分にできる唯一のお国への、先人たちへの、そしていま自分が生かさせていただいていることへのご恩返しと思うからです。こうしてねずブロを続けることで、自分自身、日々勉強させていただいています。ありがたいことです。

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口座番号 0083820
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