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敷島の大和心を人問わ(は)ば 朝日ににおう (ふ) 山桜花(本居宣長)。日本は天皇を国家最高権威とし、民を「おほみたから」とする「シラス国」です。


祖国遙か 青葉慈蔵尊物語

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今日のお話は、いつもの3倍、約2万字あります。
読了まで約40分です。
もう8年になります。
この時期、毎年掲載しているお話です。
すでに本編をお読みになられている方は、前段のまえがきだけでもお読みいただけたらと思います。
また、まだこの物語をお読みになられたことのない方は、文字数的には1冊の本の5分の1の文字数で、しかも小説仕立てにしてあるので、読みやすいかと思います。
是非一度お読みいただきたいと思います。


20170828 芙蓉
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)


【お知らせ】
 9月 2日(土)18:30 第18回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
 9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
 9月21日(木)13:00 埼玉縣護國神社奉納揮毫
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
 *****


このお話を最初にこのブログでご紹介したのは、平成21(2009)年のことでしたが、当時、この物語をご紹介するやいなや、「ねずがまた嘘を書いている」どころか、「ねずが書いていることだから嘘に違いない」などと他のサイトでずいぶんと書き立てられたものです。

本当のことであっても、私が文章にすることで、それが事実ではないと言われる。
自分が中傷されたり、悪口を書かれたりすることは、自分の不徳ですし、日本はそれこそ言論の自由の国ですから、いろいろな意見があってしかるべきだし、それは良いのです。
相手にする値打ちもない。

けれど、お亡くなりになられた英霊のみなさまや、辛い日々を送って最後に自決までされたうら若き女性たちまでも自分がそれを文章にしたことでかえって貶められる。
そのことを、当時は、果たして私が書くことが、亡くなられた彼女たちへの冒涜になりはしないかと、とても悲しく感じたことを覚えています。

けれど少し考えたらわかることですが、私の小さな感情以上に、まさに血の涙を流すほどの悔しさ、悲しさ、つらさを、20歳前後の若い女性たちや、その親、祖父母たちが味わったという歴史があるのです。
この物語にあることは、敗戦という事実の前に、ここに登場する女性たちだけではなく、満蒙や半島にいた多くの日本人女性たちが、現実に味わったことです。
その事実の前に、私自身のちっぽけな感情など、歯牙にも値しない。

このことに気づいて、以後、毎年、この記事を年に一度は必ず掲載させていただいています。

ちなみに、全然話は変わるのですが、最近、アニメ映画の「君の名は」がDVDになりました。
映画館には行けなかったのでレンタルで観たのですが、もうボロボロになって泣いてしまいました。
あまりに感動したことをある先生にお話しましたら、その先生もとても感動されて、ある著名な方にその感動を話されたのだそうです。
するとその著名な方いわく、
「あの映画のどこが面白いのか、まったくわからない・・・」

世の中には、そういう感覚の方がおいでになることをあらためて知りました。
優秀で勉強もできるし弁も立つけれど、感動したり、涙することができない。
人としての愛や喜びや幸せや美しさを受け入れることができない。

ものごとをどのように感じるかは人それぞれです。
しかしすくなくとも自分は、そういう人にはなりたくないと思いました。





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20170526 古事記弐



 *
《祖国遙か 青葉慈蔵尊物語》


この物語の主人公は、掘喜身子(ほり きみこ)さんといいます。
彼女は、幼い頃から病人を看護することが好きで、女学校を出たあと、昭和11(1936)年に満州に渡り、満州赤十字看護婦養成所に入所して、甲種看護婦三年の過程を修めたあと、郷里の樺太・知取(シリトリ)に帰って樺太庁立病院の看護婦をしていました。

昭和14(1939)年の春、彼女は医者である堀正次さんと結婚するのですが、結婚してちょうど1年目の春、堀喜身子さんに召集令状が届いています。
看護婦として従軍せよ、という令状です。

彼女は令状を受けた一週間後に、単身で任地である香港第一救護所に出発しました。
まもなく、彼女は任地が上海に移り、ついで満州国牡丹江から、さらにソ連との国境に近い虎林(こりん)の野戦病院に48名の同僚とともに異動しています。出征して6か月目のことでした。

虎林の野戦病院には、医師である夫の正次も令状を受けてやってきました。
このあたり、当時の陸軍は実に人情的です。ひとりひとりの家庭環境に配慮しながら人事を行っていたのです。
ご夫婦は、そこで医師と看護婦として、毎日前線から送られてくる傷病兵の治療をして過ごしていました。
そしてこの時期に、長男静夫(しずお)、長女槇子(まきこ)の二人の子宝にも恵まれています。

昭和20(1945)年8月9日、ソ連が日ソ不可侵条約を破って、突然満州に攻め込んできました。
戦況は激しいものでした。
爆撃の危険から、虎林の野戦病院では、患者全員を長春に移すことに決定しました。

けれど患者のうち70余名は、伝染病の重患なので一緒に連れて行くことができません。
野戦病院では、軍医中尉であった夫の堀正次と、他に2名の軍医、それと5名の兵隊さんを残して、ある程度元気な者のみ、長春に向かわせることにしました。

喜身子さんは、夫からもらった将校用の水筒を肩に、長春に向かいました。
二人は、これが今生の別れとなりました。

*****

虎林を出発した病院の医師、看護婦、患者たちの一行は、牡丹江を過ぎ、ハルピンを通過して、一週間目の8月15日に、ようやく長春に到着し、そこで終戦の玉音放送を聞いています。
けれどその長春も、ほどなくしてソ連軍に占領されました。

当時、ソ連軍に占領された町がどのようだったかは、
≪奉天駅前事件≫(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1100.html)をご参照ください。

長春がソ連軍に占領された後、掘喜身子さんは、将校夫人や子供たちと一緒に、女ばかり76名で合宿所に入れられました。
そこでは身上調査を受けました。

調査の結果、掘喜身子さん以下虎林の野戦病院から来た看護婦34名は、長春第八病院に勤務せよとの命令を受けました。
月給はひとり200円です。
彼女たち34名の看護婦は、その給料をみんなでまるごと出し合って、一緒に収容されている将校家族を養う費用にしたそうです。
ここでは、辛い時もうれしい時も、みんなが等しく皇国臣民であるという価値観が共有されていたのです。

けれど、長春の物価はあがる一方でした。
生活は日に日に苦しくなりました。
堀喜美子さんも、次第に体がガリガリに痩せ細って行きました。

昭和21(1946)年春、第八病院の婦長をしていた堀喜身子さんのもとに、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所から、一通の命令書が来ました。
内容は、
 看護婦の応援を要請。
 期間は一か月
 月給300円
というものでした。

生活が苦しい中、月給300円は魅力です。
それに、いくらソ連軍とはいえ、世界各国で公認されている赤十字を背負う看護婦に間違った扱いなどすることはないだろうと思われました。
しかもソ連陸軍が発令した「公文書」としての「命令書」です。

婦長をしていた堀喜美子さんは、一抹の不安はあったけれど、引率者である平尾勉軍医と相談して、看護婦の中でも、もっともしっかり者だった大島花枝、やはりしっかり者の細川たか子、大塚てる、の3名の看護婦を選びました。

出発の日、堀喜美子さんは、三人に、
「決して無理はしないように」と言い聞かせたそうです。
大島花江看護婦は、元気いっぱいの笑顔で、
「心配はいりません。敗戦国であろうと、世界の赤十字を背負う看護婦として、堂々と働いてきます!」と答えてくれました。

「大島さん、細井さんと大塚さんのこともお願いね」と気遣う婦長に、
細井、大塚両名も、
「あら、大塚さんばっかり。私たちはいつまでたっても一人前じゃないようだわ」
「ほんとうに、失礼しちゃうわね」
と明るく冗談を言い合い、みんなで明るく笑いあいました。

堀喜美子さんは、出発する3名に、きちんと制服(看護婦の白衣の他に軍看護婦としての制服があった)を着せました。
そして、制服の右腕に、しっかりと「赤十字の腕章」を付けさせました。
誰がどこからどうみても、赤十字の看護婦であることがひとめでわかるようにしたのです。

こうして三名の看護婦は、元気に一か月の別れを告げて出かけて行きました。

ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に到着した三人は、それぞれ離れた場所に別々に部屋を与えられました。
部屋は個室で、ベットまで付いていたそうです。
大部屋暮らしだった大島看護婦たちにとって、個室はまさに夢のような環境でした。

*****

やがて一か月が経過しようとしたとき、同じ病院から、また3名の追加の命令書がきました。
堀喜美子婦長は、荒川静子、三戸はるみ、沢田八重の3名を、第二回の後続として、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所に送りだしました。

もうまもなく、最初の三名が交代して帰ってくる。
誰もがそう思っていました。
ところが帰ってこないのです。

さらに一か月が経過しました。
すると、また3名の追加の命令が、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所からもたらされました。
堀婦長は、心配になりました。
引率者の平尾軍医に、命令を断るよう談判しました。

一か月という約束で看護婦を送っているのです。
「最初の3名が行ってから、もう3か月経過しています。2回目の看護婦が行ってからも、2か月です。その間、誰も帰してもらっていません。向こうが約束を反故にしているのです。そんな約束も守れないようなところに、大切な部下を送ることなんてできません。しかも6名とも、行ったきり音信不通です。おかしいではないですか?」

けれど相手はソ連軍です。
命令に背けば、医師や看護婦だけでなく、患者たちまで全員が殺されてしまう危険があります。
病院としては、命令に背くことはできない。
みんなで相談しあい、やむなく井出きみ子、澤本かなえ、後藤よし子の3名を送り出しました。

けれど、仏の顔も三度までといいます。
4度目の命令がきたら、こんどこそ絶対に拒否してやろう。
先に行った者たちが心配でたまらない堀婦長がそう思っている矢先、一か月後、誰ひとり帰らないまま、4度目の命令が来たのです。
今度もまた3名の看護婦を出せ、というものです。

なんという厚顔無恥!
残る看護婦は、婦長の堀喜美子の他、22名です。
その中から、4度目の3名を選出しなければならない。
堀婦長の心の中には、暗澹とした不安がひろがりました。

その日の夜、堀婦長は、次に向かう3名を呼びました。
明後日出発すること、先に行った看護婦たちに手紙で状況を報告するように話してもらいたい旨を、3名に伝えました。

その日の夜のことです。
すっかり夜も更けたころ、病院のドアをたたく音がしました。
(こんな時間に何事だろう・・・・)
堀婦長が玄関の戸を開けました。

小さく明けた戸口から、髪を振り乱し、全身血まみれになった人影が、「婦長・・・」とつぶやき、ドサリと倒れこんできました。

見れば、その人影は、なんと最初に出発した大島花枝看護婦でした。
たいへんな重体です。
もはや意識さえ朦朧(もうろう)としています。

大島看護婦は、全身11か所に盲貫銃創と貫通銃創を追っていました。
裸足の足は血だらけでした。
全身に、鉄条網を越えたときにできたと思われる無数の引き裂き傷がありました。
脈拍にも結滞があります。
着ている服もボロボロです。

「なにがあったのか」

堀婦長は、とっさに「そうだ。こうまでしてここに来なければならなかったのには、理由があるに違いない。その理由を聞かなければ」と思い立ちました。
そして、
「花江さん!、大島さん! 目を開けて!」と、大声で大島看護婦を揺り動かしました。

重体の患者です。
ふつうなら、揺り動かすなんてことはしません。
他の看護婦が「婦長! そんなことをしたら花江さんが!」と悲鳴をあげました。

けれど堀婦長は毅然として言いました。
「あなたたちは黙って! 花江さんは助からない。
 花江さんの死を無駄にしてはいけない!」

大島看護婦が目を覚ましました。
そして語りました。

「婦長。私たちはソ連軍の病院に看護婦として頼まれて行った筈ですのに、あちらでは看護婦の仕事をさせられているのではありません。行ったその日から、ソ連軍将校の慰みものにされてしまいました。
半日たらずで私たちは半狂乱になってしまいました。
約束が違う!と泣いても叫んでも、ぶっても蹴っても、野獣のような相手に通じません。
泣き疲れて寝入り、新しい相手にまた犯されて暴れ、その繰り返しが来る日も来る日も続きました。
食事をした覚えもなく、何日目だったか、空腹に目を覚まし、枕元に置かれていたパンにかじりつき、そこではじめて事の重大さに気が付き・・

それからひとりで泣きました。
涙があとからあとから続き、自分の犯された体を見ては、また悔しくて泣きました。
たったひとりの部屋で、母の名を呼び、どうせ届かないと知りながら、助けを求めて叫び続けました。
そしてどんなにしても、どうにもならないことがわかってきたのです。

やがておぼろげながら、一緒に来た二人も同じようにされていることもわかりました。
ほとんど毎晩のように三人か四人の赤毛の大男にもてあそばれながら、身の不運に泣きました。
逃げようとは何度も思い、しかもその都度手ひどい仕打ちにあい、どうにもならないことがわかりました。

記憶が次第に薄れ、時の経過も定かではなくなった頃、赤毛の鬼たちの言動で、第八病院の看護婦の同僚たちが次々と送られてきていることを知って、無性に腹が立ち、同時に我にかえりました。

これは大変なことになる。
なんとかしなければ、みんなが赤鬼の生贄になる。
そんなことを許してはならない。
そうだ、たとえ殺されても、絶対に逃げ帰って婦長さんにひとこと知らせてあげなければ・・・

赤鬼に汚された体にも、命にもいまさら何の未練もありませんでした。
私は、二重三重の歩哨の目を逃れ、最後お鉄条網の下を、鉄の針で服が破れ、肉が引き裂かれる痛みを感じながら潜り抜けて、逃げました。
後ろでソ連兵の叫び声と銃の音を聞きながら、無我夢中で逃げてきました。

婦長さん。
もう、ひとを送ってはなりません・・・・」

そこまで話して大島花江看護婦は、こときれました。

なんという強靭な意志の持ち主なのでしょう。
蜂の巣のようにされながら、この事実を伝えようとする一心だけで、まさに使命感だけで、彼女はここまで逃げてきたのです。

病室内に、
「はなえさん・・・」
「大島さん・・・」という看護婦たちの涙の声がこだましました。

こうして昭和21(1946)年6月19日午後10時15分、大島花江看護婦は、堀婦長の腕の中で息をひきとりました。

大島看護婦の行動は、どんなに勇敢な軍人にも負けない、鬼神も避ける命をかけた行動です。
大島看護婦の頬は、婦長や同僚の仲間たちの涙で濡れました。
あまりにも突然の彼女の死を、みんなが悼みました。

翌日の日曜日の午後、遺体は、満州のしきたりにならって、土葬で手厚く葬りました。
そして彼女の髪の毛と爪を、お骨代わりに箱に納め、彼女にとってはなつかしい三階の看護婦室に安置してあげました。
花を添え、水をあげ、その日の夜、一同で午前0時ごろまで思い出話に花をさかせました。
すべて、懐かしくて楽しかった内地の話ばかりだったそうです。

****

翌朝、堀婦長が、出勤時刻の9時少し前に病院の看護婦室に行くと、そこに病院の事務局長の張(チャン)さんがいました。張さんは、日本の陸軍士官学校を卒業した人です。
張さんは、ひどく怒っていました。
看護婦たちが、だれも出勤していないからです。
こんなことは前代未聞です。

「変ですね~」と最初、気楽に答えた堀婦長は、その瞬間、はっと気が付きました。
無我夢中で3階の看護婦たちの宿所に走りました。

いつもなら、若い女性たちばかりでさわがしい宿所です。
それが、今朝は、シーンと静まり返っています。
もの音一つしないのです。
堀婦長の胸に、ズシリと重たいものがのしかかりました。

宿所の戸を開けました。
お線香の匂いがただよっていました。
内側の障子は閉まっています。

(なにが起こっているの?)

おそるおそる障子を開けました。
部屋の中央に、小さなテーブルがありました。
その小さなテーブルの上には、大島看護婦の遺品と花とお線香、そして白い封筒が置かれていました。

そして、その周囲に・・・





きれいに並んだ、22名の看護婦たちの遺体が横たわっていました。

机の上の白い封筒は、彼女たちの遺書でした。

【遺書】
「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。
私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。
たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。
その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。」


遺書の終わりには、22名の名前が、それぞれの手で記されていました。
遺体は、制服制帽の正装姿です。
顔には薄化粧がほどこされていました。
両ひざはしっかりと結ばれ、一糸乱れぬ姿でした。

その中で、たったひとり、井上つるみの姿だけは乱れていました。
26歳で最年長だった彼女は、おそらく全員の遺志をまとめ、衣服姿勢を確かめ、全員の死を見届けた上で、最後に青酸カリを飲んだと推定できました。
畳を爪でひっかいた跡にも、顔の表情にも、それは明らかでした。

*****

現場に、通訳を連れたソ連軍の二人の将校と二人の医師がやってきて、現場検証が行われました。
堀婦長は逮捕されてもいい覚悟で、国際的にも認められている赤十字の看護婦に行った非人道的行為を非難しました。
事のてんまつを訴えました。
最後は、泣き崩れ、言葉にさえなりませんでした。

ソ連の将校たちは無言のままでしたが、事態の重大さは、わかったようでした。
この22名の集団自決による抗議に、ソ連軍当局も衝撃を受けたらしく、翌日、
 ■ソ連の命令として伝えられることで納得のいかないことがあれば、24時間以内にゲーペーウー(ソ連の秘密警察)に必ず問い合わせすること。
 ■日本の女性とソ連兵が、ジープあるいはその他の車に同乗してはならない。

というお触れが、日本人の宿舎にもまわってきました。

22名は、死ぬ前に全員、身辺をきれいに整理整頓していました。
ちなみに、彼女たちが「土葬にしてほしい」と遺言したのは、婦長や引率の平尾軍医などにお金がないことを気遣ってのことでもありました。

「それではあまりに22名の看護婦たちがかわいそうだ。火葬にしたうえで分骨し、故郷の両親に届けれあげれるようにしようじゃないですか」と、張氏が、当時ひとり千円もする火葬代を出してくれました。
日本が負けて立場は変わっても、陸士出身の張さんの温情は変わらなかったのです。
張さんは「せめてこれまで朝夕親しく一緒に働いた人たちへの、これがささやかな供養ですから」と述べてくれました。

こうして22名の骨壺がならび、初七日、四十九日の法要もお経を唱えて手厚く執り行われました。

*****

その四十九日のことです。
張さんが、亡くなられた看護婦さんたちに、せめてお饅頭でも作ってあげたら?と饅頭を作る材料費を出してくれました。

堀婦長は、張春のミナカイという市場に出かけました。
ミナカイは当時、東京でいえば銀座のような、張春一番の繁華街でした。
(といっても、闇市のようなバラック市です)

堀婦長は、そのミナカイで、ふとしたことから、噂話を耳にしました。
長春第八病院に向かった9名の看護婦のうち、亡くなった大島花江を除く8人が生きている、というのです。
場所は、張春市内にあるミナカイデパート跡で、その地下のダンスホールに、ソ連陸軍病院第二救護所に送られた8名が生きてダンサーをしている、というのです。

堀婦長は、矢も楯もたまらず、その足でダンスホールに駈けました。
ダンスホールは、中は十畳ほどの広場になっていて、客はソ連人です。
働いているのはソ連人と中国人で、ダンサーは日本人、朝鮮人、中国人でした。

入口から中に入ろうとすると、ソ連人がそこにいて、入室を拒みました。
けれどどうしても彼女たちが気がかりで会いたいと思う堀婦長の迫力に圧倒されたのでしょう。
その入り口にいたソ連人は、隅にある小さな部屋で待っていろ、といいました。

部屋にひとり待っていると、ガチャリと音がして、扉が開きました。
そして肌もあらわな派手なパーティドレスを着た女性たちが部屋に入ってきました。

「ふ、婦長・・・」
「婦長さん!!」

「みんな・・・」

堀婦長にも、彼女たちにも言葉はありませんでした。
互いと会うことができた。それだけで涙があふれました。

しばらくして落ち着くと、堀婦長は言いました。

「大島さんがね・・・」
「知っています。同僚たち22名が集団自決したことも聞いています。」
「だったら、こんなところにいないで、早く帰ってきなさい!!」
「・・・・」

「あなた達の気持ちは、痛いほどわかるわ。だけど帰ってきてくれなかったら、救いようがないじゃないの」

8名の看護婦たちは、その婦長の言葉に、うつむいて黙ってしまいました。
堀婦長は、自分の言葉があまりに一方的にすぎたのかと思いました。
けれど、彼女たちからすれば、そんな単純なものではなかったのです。

眉を細く引き、口紅を赤くし、ひとりひとりの顔は、以前の看護婦に違いありません。
けれど8人には、まるで生気が感じられませんでした。
それどころか、目をそらして堀婦長の目から逃れようとさえしていました。

堀婦長は心を鬼にして言いました。
「どうして黙っているの?どうして返事をしないの?
そう、あなた達は、そういうことが好きでやっているのね。」

そう突き放したとき、ひとりが答えました。
「婦長さん、そんなにあたしたちのことを思っていてくださるのなら、お話します。
私たちは、ソ連軍の病院に行ったその日から、毎晩7、8人のソ連の将校に犯されたのです。
そして気づいてみたら、梅毒にかかっていたのです。

私たちも看護婦です。
いまではそれが、だいぶ悪くなっているのがわかります。
もう、私たちはダメなのです。
もう、みなさんのところに帰っても仕方がないのです。

仮に、幸運に恵まれて日本に帰れる日が来たとしても、こんな体では日本の土は踏めません。
この性病がどれほど恐ろしいものか、十二分に知っています。
だから、私たちは、梅毒をうつしたソ連人に、逆にうつして復讐をしているのです。

今はもう、歩くのにも痛みを感じるようになりました。
ですからひとりでも多くのソ連人に移してやるつもりで頑張っている・・・」

もう何も受け付けない。
もう何を言っても、彼女たちには通じない。
彼女たちを覆っているのは、完全な孤独と排他と虚無だけでした。

彼女たちのその言葉を聞いたとき、堀婦長は流れる涙で、何も言えなくなってしまいました。
自分が人選したのです。
責任は自分にある。

彼女たちが負った傷の深さ、過酷さを思えば、彼女たちが選択したことに否定や肯定をするどころか、何の助言さえもしてあげれない。
ただただ自分の無力さに悔し涙が止まらないまま、この日、気まずい雰囲気のまま部屋を後にしたのでした。

「けれど」と堀婦長は思いました。
このままでは済まされない!
なんとしても彼女たちを助け出すんだ!

堀婦長は、その日の夜、ひっそりと静まり返って誰もいなくなった薬剤室に入り、梅毒の薬を持ち出しました。
そして翌日、ふたたびダンスホールへと向かいました。

通されたのは、昨日の部屋です。
女ばかり9人が、そこに集まりました。
婦長は、せいいっぱい元気よく明るく彼女たちに声をかけました。

「みんな!今日はお薬を持ってきてあげたわ。みんなの分、たくさん持ってきたから!
あなたたちは、まだ若いのよ。
復讐する気持ちはわかるけれど、それでは際限がないじゃない!
それよりも、この薬を飲んで、一日も早く体を治してちょうだい。
そしてね、気持ちを立て直して、生きることを目標に努力しようよ!」

「婦長さんのお心はありがたいと思います。
だけど婦長さん。
そのお薬は、日本人が作ったものです。
そんな貴重なものは、私たちには使えません。
私たちのことは、もういいんです。
本当に、もういいんです・・・・」

「そんなことを言ってはダメ!
お願いだからあきらめないで!
お薬、ここに置いていくわ。
それじゃ、帰るわね・・・」

薬を置いて帰ろうとしかけた堀婦長に、ひとりが立ち上がりました。
「婦長さん。そんなに私たちの気持ちがわからないなら、わかるようにしてあげます。」
彼女の中のひとりが、そう言ってスカートをたくしあげ、自分の性器を露出しました。
梅毒は、性器全体に水泡ができます。
そしてそこがただれて膿が出ます。
さらに尿道口にも膿が出て、排尿困難、歩行困難が起こり、性器が腐ります。

広げた足の間には、典型的な梅毒の症状がありました。
それは、あまりにむごい末期の姿でした。
もはや手遅れかもしれない。

けれど、病気は弱気になったら負けです。
堀婦長は、きっぱりと彼女たちに言いました。

「この程度なら、時間はかかるけど、必ず治ります!!
根気よ! 薬は十分あるのだから、あなた達も、絶対に良くなるんだという強い気持ちで治療するのっ! いいわね!」

「治らない、治りっこないなんて、勝手な思い込みはやめなさい!
もう商売なんかしてはダメよ。
良くなるのよ!
毎日お互いに声をかけあって、手抜きをしないで治療するの。いいわね!!」

こうして彼女たちは、わずかでも「治る」という希望を持ちました。
そして治療を受けると約束してくれたのです。

*****

薬の調達は容易ではありませんでした。
ただでさえ、日本人の医師や看護婦に扱える量は少ないのです。

それでも堀婦長は、彼女たちを助けたい一心でした。
薬をすこしずつ確保し、貯めた薬が一定量になる都度、彼女たちのもとに、お饅頭と一緒に、通いました。
お饅頭と、堀婦長の誠意、そして日、一日と軽くなる体に、彼女たちの目にも少しずつ光が宿りはじめました。

このような彼女たちとの関わり合いは、帰国命令の出る昭和23年まで続きました。
そしてまる2年越しの交流の中で、堀婦長は、彼女たちがひどい仕打ちを受ける以前よりも、彼女たちにたいしてより深い愛情を持つようになっていました。

「一緒に日本に帰ろうね」

その言葉を、彼女たちにどれほどかけたでしょう。
けれど、敗戦の混乱が続く日本に帰ったとしても、楽な生活など待っているはずはありません。
それでもみんなと仲良く、苦労をわかちあい、助け合って生きていくんだ。
みんな、私が面倒みてあげるんだ。
堀婦長は、そう固く決心していました。

*****

昭和23(1948)年9月、張さんが病院にバタバタと駆け込んできました。
長春にいる在留邦人に、帰国命令が出た、というのです。
その日の午後7時に、一週間分の食料を持参で南新京駅に集合することになっている、というのです。

あまりにも急な話です。
時間がない。
あの娘たちに知らせなければ。

堀婦長は、二人の子供たちに、とにかく準備をするようにと言い残し、自分の身支度も忘れて、彼女たちのもとに走りました。
「みんな一緒に日本に帰れるんだ」
走りながら堀婦長の目に涙が浮かびました。

ダンスホールに着きました。
堀婦長は、彼女たちに面会を求めました。
そして、
「午後7時に南新京駅に集まるように」と話しました。

わーい、帰国命令だぁ、良かったぁ~!!
彼女たちは、満面の笑顔で答えてくれました。
ほんとうにうれしそうでした。

「きっと来てくれるわね?」
「婦長さん、ありがとうございます。7時までには準備して、必ず参ります」
「必ずよ! 準備をして、必ず来てるのよ」

婦長もうれしくてたまりません。
「みんな一緒に帰れるんだ。帰れるんだ。」

こだわりはあることでしょう。
ないはずなんてありません。
けれど、自分がなんとか彼女たちを立ち直らせてみせる。
絶対に立ち直らせてみせる!

帰宅した堀婦長は、子供たちと自分の身支度を整えると、心配でたまらずに、集合時間の2時間も前に南新京駅に行き、彼女たちを待ちました。

まさか・・・とは思いました。
けれど、彼女たちは「時間までには行きます」と約束してくました。
その言葉を信じよう。
きっと来てくれる。

貨車が到着しました。

長春にいた日本人たちが、続々と貨車に乗り込み始めました。
堀婦長は、それでも彼女たちを待ちました。

もう出発の時間です。
来ないかもしれない。。。。そう思った時です。

「婦長さ~ん!!」と明るい声がしました。

どこにいたのか、意外と近くに、ワンピースにもんぺ姿の細井、荒川、後藤の三人の姿が見えました。
とっても嬉しそうな顔をしています。

「こっちよ~~、早く~~!」

「あとの娘たちは?」
「大丈夫です。あとから来ます。それより、これ、食糧のたしにしてください。」

「ええっ!こんなにたくさん?! こんなことしたらあなた達が困るじゃないの」
「いいんですよ、婦長さん。私たちの分は、あとからくる娘たちが持ってきます。
だから、これ、みなさんで。それからこれ、ほんの少しですけれど、何かに使ってください。」

「何なの?」
「アハハ、あとでですよぉ~。じゃあ、あたしたち、澤本さんたちを探してきますね」
「わかったわ。でも、もうあまり時間がないと思うから、早くしてね。急ぐのよ」
「はいっ!」

そのとき、振り向いた彼女たち3人の笑顔を、堀婦長は生涯、決して忘ることができません。
忘れようがないです。
三人とも、とても明るい、ほんとうに何事もなかったかのような、明るくてさわやかな、ほんとうに昔のままの明るい笑顔だったのです。

堀婦長が、彼女たちが戻ると安心して、貨車に乗る順番の列に並んだ時です。
バン、バンと2発の銃声がしました。
そしてすこし遅れて、バンと、3発目の銃声が響きました。
列車への乗車を待っている日本人たちが、騒ぎ始めました。

「おいっ!自殺だ」
「若い女3人みたいだ」

「!」

三人とも即死でした。
後藤さんと荒川さんの体を覆うようにして、倒れていた細井さんの右手にピストルが握られていました。

申し合わせてのことでしょう。
細井たか子が先に二人を射殺し、最後に自分のこめかみを撃ったことがわかりました。
頭部からは、まだ血が、流れていました。

わかる。わかるわ。
あなたたち、こうするほかなかったのね。
ごめんね。ごめんね。ごめんね。
はやく気が付いてあげれなくて。
もう、なにもかも忘れて、楽になってね。
今度生まれてくる時にはね、
絶対に、絶対に、もっともっとずっと強い運を持って生まれてくるのよ・・・・・。

「お母さん、お母さん!」
子供たちの叫ぶ声に我にかえり、堀婦長は汽車に乗りました。

結局、澤本かなえ、澤田八重子、井出きみ子の三人は、姿を見せませんでした。
このほかに二人、どこにいるのか行方知れずに終わりました。
ひとりは、ソ連将校が連れ帰ったという噂でした。

引き揚げ列車は南下し、それぞれの悲劇と過酷な過去から、まるで逃れるように、祖国日本へ向け鉄路を南へ向けて走りました。

*****

堀喜身子婦長が、長男静夫(5歳)と、長女槇子(3歳)を連れて、九州の諫早(いさはや)で日本の土を踏んだのは、昭和23年11月のことでした。
親子三人を待っていた日本の戦後社会は、想像を絶する混乱の社会でした。
戦争に負けた。それだけのことで、人心が変わってしまったのです。

それまでの日本は、まさに家族国家でした。
人々が地域ぐるみ、家族ぐるみで助け合い、支えあって生きることがあたりまえの社会でした。
それが、終戦によって180度変わってしまったのです。
人の情けがなくなりました。
人情が消えました。
支えあうという考えが、人々からなくなっていました。

堀喜身子さんは、ソ連に抑留されている夫正次氏の故郷である、山口県徳山市に向かいました。
戦前の社会では、いまでもそうした風潮は残っているけれど、いったん嫁に入ったら、夫の家の家族です。
自分の生家に帰ろうとは思わない。
戦前は、それがあたりまえでした。

ところが親子して夫の実家に到着すると、夫の母(お姑さん)が「引揚者は家には入れられない」といいます。
敷居の中にさえ、入れてくれませんでした。
当時、いろいろな噂話があったのです。
引揚者の女性は、穢れているとか、です。

堀喜身子さんは、その意味では看護婦であって引揚げに際して不埒な真似に遭うことはありませんでした。
けれど世間体がある。
何があったかなんてわかりゃあしないわと、姑は納得してくれません。

はるばる徳山まで来て、子供の前で自尊心をズタズタに引き裂かれ、泊まるところもなく、とほうにくれたお堀喜身子さんは、二人の子供の手をひいて堀家の菩提寺を訪ねました。

ご住職に事情を話すと、わかりましたと言って、一夜の宿と、命に代えてもと持ち帰った23名の看護婦のご遺骨を、菩提寺の墓所で預かっていただけました。
親子は、ようやく肩の荷を少しだけ卸したのです。

翌日、親子は、堀喜身子さんの母親が住む、北海道の帯広に向かいました。
帯広では、幸い看護婦として市内の病院に就職することができました。
けれど終戦直後というのは未曽有の食糧難の時代です。
勤務の制約などもあり、給料も少なく、生活費をぎりぎりに切りつめても、末っ子の槇子を養うことができません。
涙ながらに因果を含め、堀喜身子さんはたいせつな娘を、親戚の家に預かってもらうことにしました。

そんな苦しい生活を送りながらも、堀喜身子さんの脳裏を片時も離れないもの。
それは、命を捨ててまで事態を知らせに来てくれた大島花江看護婦と、井上つるみ以下自決した22名の仲間たちのご遺骨です。
年長者26歳、年少者はまだ21歳の女性たちです。

年が明け、昭和24年の6月19日の命日がやってきました。
その日、不思議なことがありました。
堀喜身子さんのもとに、彼女たちがやってきたのです。
そしてこう言いました。
「婦長さん、紫の数珠をくださいな」

紫の数珠というのは、終戦の年の冬の初めにあったできごとに端を発します。
その日、張春の第八病院に、モンゴル系の女性が担ぎ込まれてきました。
妊婦でした。
難産でした。

助産婦の資格をもつ堀婦長が軍医とともに診察しました。
すでに重体です。
もはや妊婦の生命は難しい状態です。
あとはせめて赤ちゃんの命だけは、という状態でした。

その日のうちに嬰児はなんとか取り上げました。
けれど出産で、妊婦は瀕死の状態です。

そこから二日三晩にわたって、婦長と看護婦たちみんなで献身的な看護をしました。
「なんとかして命だけは助けてほしい」と何度も哀願するご家族たちが、「ここまでやってくれるのか」と感激して涙を流すほどの真剣な看護でした。
そしてようやく、妊婦は一命をとりとめたのです。

一部始終を見ていた妊婦の身内の中に、モンゴルで高僧と言われた老僧がいました。
この老僧が、妊婦の生命をつなぎとめた神業のような看護を、驚異の眼で評価してくれたのです。
そして老僧は、生涯肌身離さず持ち続けるつもりでいたという紫の数珠を、お礼にと堀婦長に差し出してくれました。

その紫の数珠は、紫水晶でできていて、2連で長さ30cmほどのものです。
見た目もとても美しいが、それだけではなく、一個一個の珠に内部が覗けるように細工がしてあります。
そこから透かしてみると、ひとつひとつに仏像が刻まれていました。

その日から、そのお数珠は看護婦たちの憧れの的になったそうです。
やまとなでしことはいえ、若い娘たちです。
美しい宝珠に興味津々だったのは、想像に難くありません。
婦長は何度も彼女たちにせがまれ、何度も見せてあげていました。

ある日、婦長はみんなに、
「いっそのこと、数珠の紐を切って、みんなで分けようか?」と提案したことがあります。
このひとことで看護婦たちは大騒ぎになりました。

彼女たちが亡くなったとき、婦長は彼女たちに誓いました。
「私の命に代えても、みんなの遺骨を日本に連れて帰るね。
日本に帰ったら必ず地蔵菩薩を造って、みんなをお祀りする。
その地蔵菩薩の手に、この紫の数珠をきっとかけてあげるね・・・・」

けれど、まだ地蔵菩薩はありません。
彼女たちの遺骨は菩提寺とはいえ、無縁仏にちかい形で置かれたままです。

婦長はなんども心の中でみんなにお詫びしました。
「ごめんね。いまの私にはどうすることもできないわ。
でもね、きっと、必ず、お地蔵さんを造ってお祀りする。
だから、もう少し待っていてくださいね・・・」
どうすることもできない境遇の中で、そのことを思う都度、婦長の眼からは涙があふれてとまりませんでした。

帯広で生活するようになってしばらくしたとき、徳山の夫の生家から、夫正次戦死の公報があったとの知らせが届きました。
こうなると、北海道にいる堀喜身子さんにとっても、遠く山口県の徳山市とのご縁も遠くなってしまいます。

けれど、死んだ仲間たちの遺骨は、徳山にあります。
なんとかしなければ。
そう思う堀婦長の心に、23名のご遺骨のことが、ずっと重い負担となり続けました。

なにもしないでいるわけにはいきません。
堀喜身子さんは、あちこち手立てを講じて、元の上官であった平尾軍医とようやく手紙で連絡をとりあいました。
そして二人で地蔵菩薩の建立費を積み立てようと決めました。

そして堀婦長から平尾元軍医にあて、毎月送金することにしました。
たとえ少額でも、たとえ一回に少しのことしかできなくても、こうして積み立てていれば、いつか必ず地蔵菩薩を建てられるに違いない。

そうと決まると、月給は少しでも高いにこしたことはありません。
堀喜身子さんは、給料の良い職場を求めて、静岡県の清水市にある病院に転職しました。

*****

この頃、戦後の何もない時代、庶民の唯一の娯楽といえばラジオくらいしかありませんでした。
なかでも、謡曲や浪花節は人気が高く、この時代に、広沢虎造や春日井梅鶯などが庶民の人気をさらっていました。

この春日井梅鶯の愛弟子に、将来を嘱望された「若梅鶯」と呼ばれる浪曲家がいました。
その若梅鶯が熱海で公演をしたとき、旅館のお帳場でお茶を頂いていると、旅館の社長さんが週刊誌を手にしてくるなりこう言ったのだそうです。
「いやあ、すごいものですねえ、満州の長春で、ソ連軍の横暴に抗議して、22人もの看護婦が集団自決したんだそうですよ。終戦の翌年のことだけどね・・・」

若梅鶯は、旅館の社長さんからその週刊誌をひったくると、むさぼるようにしてその記事を読みました。
読みながら、若梅鶯は、全身に鳥肌がたったそうです。

「こんな酷いことがあったのか・・・」

実は、若梅鶯こと松岡寛さんは、敗戦時に樺太と関わりを持っていました。
その樺太で、ソ連軍がやった殺戮や略奪、暴行、強姦の実態をつぶさに見ていました。
ですから、長春の看護婦たちの話も他人事には思えなかったのです。

松岡さんは、一座の者を使って、堀婦長の追跡調査をしました。
するとなんと熱海からほど近い清水に、堀婦長がいることがわかったのです。

その日のうちに松岡さんは、清水に向かいました。
そして堀喜身子さんの勤務する病院に行き、面談を申し込みました。
そして、地蔵菩薩の建立に資金的な協力をしたいと申し出たのです。

けれど堀元婦長は、あっさりと断りました。
ただお金があればいいというものではない、そんな思いが婦長の心にあったのかもしれません。

けれど松岡氏も真剣でした。
「ならば、自分は浪曲家です。この語り継ぐべきこの悲話を、大切に伝えて行きたい。ぜひそうさせてください」
松岡さんの真摯な態度に、堀喜身子さんの心は動きました。

実は、終戦から復員にかけての混乱の中で、亡くなられた看護婦たちの身元がわからなくなっていたのです。
浪曲家である松岡氏が、その物語を全国で公演してまわれば、もしかすると彼女たちの身元がわかるかもしれない。

堀婦長は、当時の様子を松岡氏に語って聞かせました。
松岡さんは、誠実でまじめな人です。

彼は堀元婦長から聞いた話を「満州従軍看護婦集団自決物語」の浪曲に仕立てました。
そしてこの物語を語るために、世話になった師匠に事情を話して、春日井若梅鶯の芸名を返上し、師匠の一座までも離れ、無冠の松岡寛一座を開きました。
彼は、白衣の天使たちの悲話の語り部として、後半の人生を生き抜く決意をしたのです。

いくら人気の一番弟子とはいっても、独立すれば会社の看板のなくなったサラリーマンのようなものです。
なんのツブシも聞きません。
中央のラジオのゴールデンタイムの人気浪曲家だった若梅鶯は、名前も変えて、まるまる一から地方巡業でのスタートをきることになりました。

終戦の悲話が、直体験として日本中に数多くあった時代です。
白衣の天使の集団自決の浪曲が売れないはずがありません。
松岡師匠の公演は、またたくまに全国でひっぱりだこになりました。

その松岡師匠は、浪曲の中で、必ず「皆様の中で心当たりの方はいらっしゃいませんか?」と問いかけました。
そして3年余りの公演によって、実に23名中19名の身元が判明したのです。
そして19名のご遺骨は、ようやくご両親のもとに帰ることができたのです。

一方、松岡師匠がこうして巡業をしながら看護婦たちの身元を尋ねて回っていたころ、堀元婦長は、自身の給料の中から、実家にいる子供たちと、元上司の軍医のもとへの少なからぬ積立金の送金を続けていました。
その金額もある程度のものになったと思われたので、そろそろお地蔵さんの建立を、と思って元上司に電話をかけました。

すると、元上司は「それなら、前にもお話した群馬県邑楽郡大泉村に建てましたよ」というのです。
群馬県大泉村というのは、看護婦たちが満州へ向かう前に、厳しい訓練を受けたところで、彼女たちにとっての出会いとゆかりの場です。
そこにお地蔵さんが建った。
ほんとうなら、これほどうれしいことはありません。

ちょうど、彼女たちが亡くなってから7周忌でもある年でした。
堀元婦長は、松岡師匠にもこの話を伝えました。
松岡師匠はたいへんに喜んでくれて、それなら私が見に行ってみましょう、とおっしゃてくれました。

師匠はさっそく群馬県大泉村の役場をたずねました。
地番を探しに行ってみたところ、そこはあたり一面、草ぼうぼうの原っぱでした。何もありません。
役場にとって返して聞いてみたけれど、地蔵なんて話は聞いたこともないといいます。

帰ってきて堀喜身子さんにその話をすると、どうしたことだろう、ということになって、元上司に問い合わせをしました。

すると、実はよんどころない事情で遣いこんでしまったという。
思い当たることはあるのです。
その上司の奥さんが、結核で入院されていたのです。

間が抜けていたといえばそれまでだけれど、汗水流して貯めた貴重な地蔵尊建立基金は、こうして霧散してしまいました。

同じ年、埼玉県大宮市に、山下奉文将軍の元副官で陸軍大尉だった吉田亀治さんという方がおいでになりました。
吉田亀治さんは、自己所有の広大な土地に、公園墓地「青葉園」を昭和27年11月に開園しました。
そしてそこに、沖縄戦の司令官牛島中将の墓をはじめ、多くの立派な軍人さんたちの墓所を設け、さらに園内に青葉神社を建立し、鶴岡八幡宮の白井宮司の司祭によって、鎮座式も行いました。

その青葉園が開園して間もない頃、地元の大宮市(現・さいたま市大宮区)で松岡寛師匠の浪曲の公演がありました。
演目は、もちろん「満州白衣天使集団自決」です。

この公演の際、吉田亀治さんは、松岡師匠から直接、堀元婦長が存命で、いまも看護婦たちの身元を探していること、命日になると、亡くなった看護婦たちが寄ってきて、お地蔵さんの建立をせがむことなどの話を聴きました。
そして吉田亀治さんは、松岡師匠を介して堀元婦長に面会し、地蔵尊の建立を快く引き受けてくださったのです。

埼玉県大宮市は、命を捨てて危険を知らせに来てくれて亡くなった大島花枝看護婦の出身地です。
なにやらすくなからぬ因縁さえ感じます。

資金は、すべて吉田氏が引き受けてくれました。
こうして大宮の青葉園のほぼ中央に、彼女たちの慰霊のための「青葉慈蔵尊」が建立されたのです。

青葉慈蔵尊
青葉慈蔵尊


地蔵尊の墓碑には、亡くなられた看護婦たちと婦長の名前が刻まれています。

(五十音順)
荒川さつき 池本公代 石川貞子 井出きみ子 稲川よしみ 井上つるみ 大島花枝 大塚てる 柿沼昌子 川端しづ 五戸久 坂口千代子 相良みさえ 滝口一子 澤田一子 澤本かなえ 三戸はるみ 柴田ちよ 杉まり子 杉永はる 田村馨 垂水よし子 中村三好 服部きよ 林千代 林律子 古内喜美子 細川たか子 森本千代 山崎とき子 吉川芳子 渡辺静子
看護婦長 堀喜身子

*****

※この物語は2009年12月のものをリニューアルしたものです。
※本稿は、日本航空教育財団の人間教育誌「サーマル」平成18年4月号に掲載された「祖国遙か」をもとに書かせていただきました。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
ソビエト満州国境に散華した邦人の霊に捧ぐ。
後方からは、ソ聯軍、前方には満人土民の反乱軍、飢えと敵から最後まで邦人を守りぬいた開拓義勇軍、紅顔の美少年たちの奮死、然しながら、十時間に亙る戦闘も我に利あらず、悉く戦死を遂げた。
その数一千名。


屍は衣服を剥取られ、裸体の儘で山をなし、あヽ凄惨極める地獄絵図



暗夜、婦女子収容所を襲ひ、野獣の如き暴行を働くソ聯兵。



意ノ如くナラザレバ・・・虐殺カ・・・アヽ世ニ恐シキ地獄絵図。


「昭和20年8月9日、日ソ不可侵条約を一方的に破棄通告をして、ソ連軍は満州国へなだれこんできた。

上空からは、ソ連軍機の機銃掃射、後方よりは、ソ連戦車隊の追撃、行く手には、土匪民した満州現住民たちの待ち伏せ、多くの在満日本人が尊い生命をおとしたのである。

目の前で倒れた人をどうする事も出来ずそのままにして逃げるよりほかなかったのである。

昨日までの幸せが、今日は地獄のどん底につき落とされたのである。」

「お国の為、お国の為と、個人の生活は無きに等しかったあの頃。

武運長久のタスキをかけた出征兵士は、妻子の方に気を取られながら、お国のために戦ってきますとなれない手つきで敬礼をして出て行った。

アメリカ兵が上陸してきた場合、竹槍の練習も率先して、一生懸命やった。

当時、国策として、15歳から16歳の少年は、満蒙開拓義勇軍として、約7千名が渡満していた。

勇ましく、戦争を賛美する軍歌が、つぎつぎに流されていたあの頃。

そして、戦死することは美徳だと褒められて、日本国は、戦争の道へつっぱしっていった。

そうした時代が、私の青春時代であった。」

ある満州から帰還された日本人女性の回顧録より



72年前の日本人が持ち続けていた鬼畜米英打倒の精神は、やはりまちがっていたのか・・・

そして、現代の日本と現代の日本人たちは、どのような日本を目指しているのだろうか。

今でも、

「お国の為だ」と言われて、「はい!」と言って、天皇陛下をお護りしながら、日本臣民としての立場を最優先に、生きていくような日本が良いのか。

それとも、

「お国の為」ではなく、国民は、その「お国の為」って強制されたおかげで、若い兵隊さん達は、戦地で、無駄死にばかりさせられて、さっさと降伏すりゃいいのに、軍上層部が一億層玉砕なんて刃向うもんだから、とうとう原爆まで落とされて、更に無駄死に増やしてしまった昔の日本なんか、何の意味もないよ。

これからの日本は、過去の日本が犯した過ちを反省しつつ、未来永劫に渡って国際社会とうまく共同していく進歩的な日本を目指すべきだ。

軍事予算よりも、経済施策や外国人が住みやすいような政策を実現する政策を優先とすべきだ。間違っても、軍事費に通費やすべきではないのさ、だって、だれも、子が親より死ぬことを賛美する訳はないだろ。

それに、軍備を拡張すれば、逆に、相手を刺激させてしまい、戦争になりやすいと思うよ。

どの国より先駆けて、「不戦の誓い」を願い、軍隊を持たずにいることこそ、日本が世界に対して、誓わなければならない事だ。

みなさん

残念ながら、どちらかといえば、今の国民性は、どちらかと言えば、後者のような考え方に近いと感じませんか。

そのような考え方を持つ大多数の国民に、戦争難民を経験したご先祖様の言葉は、全く届かない。

大東亜戦争だの満州国だの特攻隊だの・・・には、無関心でしょう。

今、北朝鮮は、アメリカと対戦するも辞さずの構えも見せています。

ここで、考えたいのが、我が国は、敗戦後から今日までの72年間、自国を護る軍隊はないのです。

軍が無い国です。

しかし、みなさん

もうアメリカと言う白人国家に半ば植民地的護衛を有難く受け入れている卑怯な国民性と向き合うべきです。

ソ連兵に拉致されて、1年数か月に渡って、ただただ性をむさぼり続けられた彼女たちを支えていたものは何ですか。

身も心もぼろぼろになり、発狂してもおかしくはないほどの清き若き日本人女性達を支えていたものは何ですか。

みなさん

帰国できる当日、朗らかに婦長の元へ集まり、全く自決する素振りも見せずに、明るく応対をして、そして、決心した自決をした若き日本の乙女達の想いとはなんだったのでしょうか。


血涙


あの日、多くの日本人が、祖国日本に帰国できるのに、こんなに凄惨な体になって、帰国することも叶わないことを悟って、それでも、残り僅かな人生の中で、夢にまで見た日本へ帰国できる現実がついに来たことへの感謝とそして、その中には、自分と同じようなつらい目にあっていた同じ日本人が、「どうか、神様、その方々を、無事に日本へついてほしい、そして、その傍らでもいいから一緒に連れて行ってもらいたい」と願い、自決されたのではないでしょうか。




あれから72年を経て・・・




今の日本の有様をみたら、




本当に申し訳ない。




やるせない。




そして、自分自身には、ヘドが出るほど、情けない。


長文失礼しました
2017/08/29(火) 00:08 | URL | konta #-[ 編集]
平和?
巷では、「戦争反対」「平和憲法を守れ」と、叫ばれています。
それを、叫ぶ方々の目は、死んだ鰯の目です。

日本を守るために命を懸けた方々を想えば、私には平和を語る資格は有りません。
バブル時代の常軌を逸した娯楽の数々を思い起こせば、敗戦で失ったものの大きさを感じます。

焼け野原からの復興には感謝をしますが、大切なものとの引き替えだったとしたら、空しくも思えます。

世間の人々は、気付かない振りをして笑っていますが、孤独な未来を感じとっているように思います。

「諸行無常」なのでしょう。
2017/08/28(月) 23:11 | URL | 神無月 #UXr/yv2Y[ 編集]
いつもありがとうございます。
胸が苦しくなりました。
知らないでいることは、罪なことですね。本当にあったことを、このブログで知ることが出来て、本当に感謝してます。私の祖父もシベリア抑留組です。既に90を超え、寝たきりですが、数年前に戦前、戦中、戦後の話が聞けて、本当に良かったです。
今後とも宜しくお願いします。
2017/08/28(月) 22:16 | URL | くまもんもん #-[ 編集]
悔しく思います。
本当に考えさせられるお話、ありがとうございます。
こんな悲惨な、日本人が受けた出来事なのに
何処かの国は自ら金儲けの為に進んで春を売っといて、ほとぼりが冷めれば被害者だった、と醜く喚く。
更には日本にいるおかしな人がその片棒を担いでる。

こんな現状が本当に悔しいです。
2017/08/28(月) 18:41 | URL | ゴマメ #mAwMPEbk[ 編集]
変な男を追い払う。
自分は、対日工作新興宗教の朝鮮人、中国人、白人の“日本人の警察や自衛隊の目の届かないところ”で活動している連中のブラックな会話を聞いたので、断固 戦う意思です。

ねずさんも頑張ってください。

では、みなさん、ひとまずご機嫌よう(^ ^)/
2017/08/28(月) 14:17 | URL | #-[ 編集]
必要なのは「覚悟」
日本の安全保障にとって一番必要ことは「戦う覚悟」です。
いくら最新兵器を持っていても「戦う覚悟」がなければ何の役にも立ちません。

圧倒的な戦力を持つアメリカに対して対等にやりあっている北朝鮮に対して手を打てないのは彼等には「戦う覚悟」があるからです。

弱くても「戦う覚悟」がある相手にはなかなか手を出せないものです。
子供のいじめ問題でも同じことが言えます。

反撃される相手にはいじめっこも迂闊に手を出せないものです。
「戦う覚悟」こそ今求められることではないでしょうか。
2017/08/28(月) 11:19 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
ねず先生
お早うございます。
今年も6月21日にお参りして来ました。
冷たい雨が降っていました。
改めてまして合掌です。
2017/08/28(月) 08:41 | URL | takechiyo1949 #-[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
最新刊
『ねずさんと語る古事記・弐〜天照大御神と須佐之男命、八俣遠呂智、大国主神』

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議論というものは、すくなくともこのブログのコメント欄が、国政や地方自治、あるいは組織内の意思決定の場でなく、自由な意見交換の場であるという趣旨からすると、互いに互譲の精神を持ち、相手を尊敬する姿勢、ならびに互いに学びあうという姿勢が肝要であると存じます。

私は、相手に対する尊敬の念を持たず、互譲の精神も、相手から学ぼうとする姿勢も持ち合わせない議論は、単なる空論でしかなく、簡単に言ってしまえば、単なる揶揄、いいがかりに他ならないものであると断じます。

ましてや、自分で質問を発したものについて、それぞれお忙しい皆様が、時間を割いて丁寧にご回答くださった者に対し、見下したような論調で応対するならば、それは他のコメントされる皆様、あるいは、それをお読みになる皆様にとって、非常に不愉快極まりないものとなります。

従いまして、謙譲・互譲・感謝、そして学ぶという姿勢のない連続投稿、粘着投稿に類する投稿をされた方については、以後のコメント書き込みを、管理人である私の判断で投稿の禁止措置をとらせていただきますので、あしからずご了承ください。
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パチンコをはたき出せ!
パチンコ撲滅
パチンコ市場は21兆円
そのお金を消費に向ければ莫大な経済効果が生まれる!

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