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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


Korea Warと韓国建国の英雄

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今回の解散を、小坪慎也氏が「ミサイル解散」と命名しました。
私もそれがピッタリだと思います。

さて今回は、現代朝鮮はもともと南北朝鮮ではなく、統一朝鮮として始まった、というお話です。


Korea War
20170919 Korea War
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています)


【お知らせ】
 9月17日(日)13:30 第43回 倭塾 公開講座(古事記)
 9月21日(木)13:00 埼玉縣護國神社奉納揮毫
10月 1日(日)11:00 日心会『ねずさんと古事記』出版を祝う会(古事記)
10月15日(日)13:30 古事記に学ぶ25の経営学
10月26日(木)18:30 第19回 百人一首塾 公開講座(百人一首)
11月 3日(金・文化の日)第2回 名古屋倭塾 公開講座(古事記)
11月 5日(日)第45回 倭塾 公開講座
11月25日(土)第20回 百人一首塾
 *****

昭和25(1950)年6月25日午前4時、突如として北朝鮮軍が北緯38度線を超えて韓国領域に侵入しました。
はじめに北朝鮮による雨のような砲撃が行われました。
続いて11万の歩兵とソ連製のT型戦車の大部隊が38度線を突破して韓国領域に侵入しました。
国境にいた韓国軍はまたたく間に粉砕され、北朝鮮の戦車隊は怒涛のようにソウルに侵入してきました。

ソウルの町が大混乱に陥入ったのはいうまでもありません。
ソウル市民は、為す術もなく立ち往生の情況になりました。

ソウルの街の真ん中には、街を南北に分断する漢江が流れ、韓国大統領府は、漢江の北側に位置します。
韓国軍は大統領府を守ろうと、必死の防戦をしたようです。
けれどもソ連製の戦車は、韓国軍の抵抗もむなしく・・・というよりも、まさに無人の野を行くが如く、破竹の進撃をしました。

この状況のもと、韓国の初代大統領の李承晩は、早々と大統領府を抜け出して、漢江を渡って川の南側に逃げ落ちました。
大統領は軍の責任者ではありませんから、ここまでは許容範囲といえるかもしれません。
ところが李承晩は、自分が橋を渡った後、北朝鮮の戦車隊の追撃を恐れて漢江に架かる橋の爆破を命じ、それを実行しました。

このときまだ、橋の北側にはソウル市民も、韓国軍も残留しています。
その兵士たちや民間人が、その後どのようになったのか。
公開された歴史上の記録はありません。

さらに李承晩は、逃げ落ちる途上にある村々を、警備の軍に命じて皆殺しにしています。
恐怖に駆られた李承晩には、一般の民間人がことごとく北朝鮮兵に見えたからだといいます。
これが一国の最高責任者が自国民にしたことというのですから呆れます。

ただ、大陸や半島においては、これは伝統でもあります。
便衣兵は何もChina国民党の専売特許ではなく、そのあたりの軍の一般的行動だからです。
そもそも軍と暴徒とヤクザがまったく同じものだという、信じられないような伝統がChinaや半島の文化です。



こうしてKorea Warは始まりました。
この戦争は、昭和28(1953)年7月27日の停戦まで、まる三年続きました。
この戦争で、韓国軍約42万人、民間人106万人が命を失い、1千万人が一家離散の悲劇にあっています。
そしていまなお半島では、北朝鮮が韓国が互いに戦争を継続中です。

ではなぜこのような悲惨な戦争が朝鮮で起こったのでしょうか。
実は、大東亜戦争の終戦時、朝鮮半島には統一朝鮮としての国家が建設されていたのです。
これを否定したのが李承晩です。

 *

昭和20(1945)年8月15日正午、日本はポツタム宣言を受諾し、玉音放送とともに一切の戦闘行為を停止しました。
そのポツタム宣言は、第8条において、
「カイロ宣言の条項は履行せらるべく、
 また日本国の主権は、
 本州、北海道、九州及四国
 ならびに吾等(われら)の決定する諸小島に局限せらるべし」
と書かれていす。
ですから日本は、ポツタム宣言受諾によって、台湾や朝鮮半島などを日本国内から切り離すことを同時に承諾したわけです。

朝鮮総督府では、阿部信行陸軍大将と朝鮮軍司令官上月良夫陸軍中将が、玉音放送の当日、朝鮮総督府に掲揚された日章旗をすべて降ろさせ、いまの韓国国旗である太極旗の掲揚を命じています。
朝鮮は日本と合邦となる前までは、独立した国で、大韓民国を名乗っていました。
そして日本との合邦後も、日本からの独立を求める人たちがいました。

もともと日本と朝鮮半島では文化が異なります。
ですから日本は、半島の合邦に際して、教科書も日本の学校にはない、ハングルを日本語と一緒に併記しました。
これは、「いずれは半島には近代国家として独立してもらいたい」という明確な意思が日本側にあったからです。

では最初からハングルだけにすればよいではないかと思われる方もあるかもしれません。
しかしそれはできなかったのです。
近代国家の建設のためには、近代的法律用語や経済産業用語、科学技術・社会用語の確立が不可欠です。
そのために日本は幕末から明治にかけて、膨大な量の翻訳語を作成しました。
先日も書いた「人民」や、「共和」、「民主」あるいは「国民国家」などといった用語は、ことごとくこの時代に日本で生まれた翻訳語です。

ですからそこは日本語を学んでもらうしかない。
このためいまでも朝鮮語では、社長、部長、課長は、それぞれ「シャチョン、プチョン、カチョン」です。
他にも様々な社会用語や科学技術用語は、ことごとく日本語、そのままです。

基本的にハングルは、日本の対馬の豪族が古代から中世にかけて用いていた阿比留文字の変形です。
ちなみに文字というものは、すくなくとも東洋においては、もともとは亀甲占いや、鹿骨占いによる、甲羅や骨を焼いたときにできるひび割れ模様をパターン化して意味をもたせたところからスタートしたものです。

このひび割れパターンが体系化されてできたものが、東洋のヒエログラフ(古代文字)であり、カナ文字であり、それが組み合わさってできたものが、漢字や、漢字に近いハングル文字です。

基本的に東洋の文字は、象形・指事・会意・形声の4種類から成り立つとされています。
このうち「象形文字」は、山や川のように、ものの形から生まれた文字です。
「指事文字(しじもじ)」は、横線一本で「一」、二本で「二」、棒の上だから「上」、下だから「下」のように、絵として描きにくい物事の状態を点や線の組み合わせで表した文字です。
「会意文字(かいいもじ)」は、田んぼの力持ちが「男」のように、二文字以上の文字が組み合わさってできたものを言います。絵柄が会うから、会意です。
「形声文字(けいせいもじ)」は、「晴れ」のように意味を表す文字と読みを表す文字(青(せい))が組み合わさってできた文字をいうとされています。
これが現代の通説です。

しかし会意文字や形声文字は、象形文字や指示文字の組み合わせによって成り立っています。
また、よく考えてみますと、そもそも文字は言葉や意味があるから文字になるわけです。
つまり何らかの意味を持つ符合があって、その符合に特殊な意味が割り当てられて、象形文字や指事文字になっているわけで、象形文字にしても、指事文字にしても、そのもととなる言語文化がなければ、育つべくもありません。

そこでここに亀甲占いや鹿骨占いによって得られたパターンに意味が割り当てられ、それぞれに読みが付いたと仮定すると、実は文字の生成が極めて合理的に説明がつくようになるわけです。

そうした視点でハングルを見ますと、もともと阿比留文字があり、それを真似て韓国語に適したカナが作られ、そのカナの組み合わせによって、さらに複雑なハングルが生まれたと解すると、非常に合理的なのです。
ハングルには、日本語のカナにあたる文字と、そのカナを組み合わせてできた会意文字がありますが、カナがあったから、会意が確立できたのだと考えなければ辻褄があわないのです。

話が思わず脱線しました。
要するに日本は、終戦に際して、朝鮮半島がひとつの朝鮮として独立できるように、8月15日の時点で、しっかりと後事を託したのです。
具体的には、それは終戦の日に、朝鮮総督府政務総監だった遠藤柳作が、日本統治終了時点で人望のあった朝鮮人の呂運亨(ろ・うんりょう)に、「朝鮮建国準備委員会」を設置を求めたことにはじまりました。
呂運亨は、教養人であり人格者でもあり、朝鮮をこよなく愛する人です。
そしてこの「朝鮮建国準備委員会」が上手に機能すれば、朝鮮は南北に分断されることなく、ひとつの国家となっていくことができるはずでした。

ところが満洲を征したソ連は、朝鮮半島にまで進出し、8月24日にはいまの北朝鮮の首都である平壌まで軍を進めてきました。
このままでは、朝鮮はソ連の手に落ちてしまいます。
そこで朝鮮では9月6日に、呂運亨率いる「朝鮮建国準備委員会」が、半島全体を統一国家とする「朝鮮人民共和国」の建国を宣言しました。

これはKoreanによる、KoreanのためのKoreanによる統一朝鮮国です。
そしてこの建国式典には、後に北朝鮮の建国の父となる金日成も参加していました。
参加するだけでなく、金日成は、統一朝鮮の成立を何より喜んだひとりでもありました。

ところがこの「朝鮮人民共和国」の建国に、猛烈に異議を唱えた人物がありました。
それが後に韓国の初代大統領になる李承晩です。
李承晩は得意の英語を活かして米軍に、ありもしない日本による朝鮮への非道や、かつての朝鮮についての、まるでファンタジーにもならない荒唐無稽な夢物語を宣伝していたいかがわしい人物ですが、戦意高揚を図らなければならない米軍にしてみれば、李承晩は戦時中は利用できる人物でした。
つまり李承晩は、堪能な英語力を活かして、当時の朝鮮人としては、もっとも米軍の中枢に近い立場にありました。

その李承晩は、マッカーサーに「共産主義者である金日成が一緒に参画しているのはおかしではないか」と進言しています。
マッカーサーにしてみれば、李承晩の言い分などは、はっきりいってどうでもよいことですが、ところがここに困った事態が起こりました。

ソ連の南下を懸念した呂運亨が、9月6日に「朝鮮人民共和国」の建国を宣言してしまったのです。
ソ連の南下を阻止するためには、米軍が朝鮮半島に兵を進めて、朝鮮半島を占領しなければなりません。
ところが朝鮮に新国家が誕生してしまうと、米軍は朝鮮半島に入り込めなくなるのです。

どういうことかというと、米軍による占領統治は、そこが日本であったからできることです。
ところが独立して主権国家が誕生していると、米軍(もしくは米軍を筆頭とする連合軍)が、朝鮮半島を占領するわけにはいかなくなってしまうのです。

このことに慌てた米軍は、翌9月7日に、米軍による仁川上陸を果たしています。
そしてその日の内にソウルに到達した米軍は、そこに掲げてあった太極旗を全て降ろさせ、改めて日章旗を掲揚することを命じています。

日本だから占領できるのです。
だから日本の国旗を掲げさせたのです。

そして9月9日にはマッカーサーもソウル入りして、朝鮮全土の占領統治を宣言しています。
さて、9月9日に占領統治を布告したマッカーサーは、そのまま「朝鮮人民共和国」の建国を否認しました。
統一朝鮮である「朝鮮人民共和国」は、わずか5日で崩壊してしてしまったわけです。

これをチャンスとしたのが李承晩でした。
米軍による占領によって、朝鮮半島の産業は一時的に混乱します。
その停滞に、李承晩は財閥と結んで、米軍との折衝役を買って出るのです。
こうして朝鮮財界は、李承晩を頼らざるをえないように彼は仕組んで行ったわけです。

一方、この時点で朝鮮半島の統一の実質的総責任者となっていた呂運亨は、このあと2年間の間に、荒縄、棍棒、拳銃、手榴弾などによって、なんと12回ものテロに遭っています。
なるほど呂運亨は、昭和22(1947)年7月19日、19歳の韓智根(かんちこん)の銃弾に倒れて亡くなっています。

その犯人の韓智根は、暗殺当時極右団体の仕業と発表されたのですが、最近ではソ連の息のかかった教唆主義者朴憲永(ぱくけんえい)一派による犯行説が有力とされています。
私は、それは違うと思います。
私は李承晩が、朝鮮の政権を握るために半島内の極右団体と手を結んで、呂運亨を繰り返し襲撃させたのだとにらんでいます。
そうでなければ、歴史の辻褄が合わないからです。

さて、呂運亨という統一朝鮮樹立の中心核を失った朝鮮半島では、その後、急速に李承晩が力を得るようになりました。
その李承晩の当時の最大の米軍へのウリは、朝鮮が防共の砦となるというものです。
これはすでに米国への対決姿勢を明確に打ち出していたソ連への対抗上、米国にとっては都合のよい主張です。

同じ頃、Chinaでは、蒋介石率いる国民党の敗退が始まっていました。
それまで、China共産党軍である八路軍に対して圧倒的優位にあった蒋介石が敗退をはじめたのは、米英が、国民党への軍事支援を打ち切ったからです。
日本との戦争が終わったので、蒋介石は「用済み」となったのです。国際政治は冷たいものです。

支援物資の補給を断たれた国民党、ソ連から旧日本軍の装備を無償で譲り受けた毛沢東の八路軍(中国共産党)、となれば、勝敗はおのずと明らかです。
補給を断たれた国民党は、China各地で八路軍に追われて後退し、Chinaはソ連の影響を受けた共産主義化が目前となっていきました。

ソ連は、朝鮮半島内部でも同じことをしていました。
金日成(キム・イルソン)率いる共産パルチザンに、旧日本軍の装備を次々と与えたのです。
これにより、南満州で国民党の残存勢力を駆逐したことで手柄をたてた金日成は、朝鮮北部へと侵攻し、昭21(1946)年2月8日には「朝鮮臨時人民委員会」を設立し、日本が築いた半島北部の財産である重工業地帯を強襲して強奪します。

これはとても重要なことで、彼はこれによって、朝鮮半島の富を完全に奪うことに成功したのです。
そして彼が奪った施設と富は、ことごとく日本によって戦前に築かれたものでした。

これに対抗するためと称して、李承晩が築いたのが、昭和22(1947)年6月の「南朝鮮過渡政府」の設立です。
ここで李承晩は、「南」とこだわっています。
すでにこの段階では、北を奪われた以上、自分は南で独立国の王になるという考えでいたことを、この名称は明確に物語っています。
つまり、李承晩にとっては、Koreanが統一国家を建設することよりも、自分の権力の及ぶ範囲が明確であることを望んだわけです。

米国は、共産主義者との対立が深まる朝鮮半島について、南北の話し合いの場をもとうと、同年11月、国際連合に半島統治問題を提起しました。
ところがこれに危機感を募らせたのが北の金日成です。
危機感を抱いた金日成が、そこで何をしたかというと、ソ連に根回しをして、翌昭和23(1948)年2月8日に「朝鮮人民軍」を創設します。
そして26日には、北緯38度線以北を「朝鮮民主人民共和国」とすると一方的に宣言します。

つまり順番からすると、朝鮮半島の南北の対立を、明確にさせたのは、あくまで李承晩が先なのです。
李承晩が、話し合いを呼びかけるのではなく、短兵急に「南朝鮮過渡政府」などと事を急ぐから、金日成が危機感を募らせて「朝鮮民主人民共和国」を建国したのです。

米国は、その金日成の行動を激しく非難しました。
これに対して金日成が打った手だてが、いまにしてみれば、笑えます。
なんと彼は、南半部への送電を全面的に停止したのです。

当時南半部の電力は、日本によって建設された北部のダムによる発電に頼りきっていたわけです。
その送電がなくなれば、南朝鮮は真っ暗闇です。
民衆の不安感は増大し、米国に対する非難も高まります。

さらに金日成は、手を打ちます。
半島南端の済州島で、南朝鮮労働党という共産主義グループに、停電に呼応して武装蜂起させたのです。
主張は「自分たちも北の共産党に入りたい」です。

これに対して、南の長である李承晩が打った手は、歴史に残る蛮行でした。
彼は、武器を持たない済州島民8万人を、南朝鮮労働党員であるかないかを問わず、そこにいたというだけで皆殺しにしてしまったのです。(昭和23(1948)年済州島四・三事件)。

当然、これに対して非難の声が出ます。
その非難を跳ね返すために、李承晩は同年8月15日、「大韓民国」の成立を宣言したのです。
金日成はこれに対抗して翌月9日に「朝鮮民主主義人民共和国」建国を宣言しました。

つまり、後先考えない李承晩の韓国建国によって、ついに朝鮮半島は、同じ朝鮮族の、38度線をめぐる南北の政党同士の政権争いから、北と南の国どおしの争いに紛争が拡大したのです。
そしてこれによって、北緯38度線は単なる国内境界線ではなく、「国境」となってしまったのです。

こうした国内政権抗争劇を、国家規模の戦争にまで拡大した朝鮮族の李承晩に対し、米国は昭和25(1950)年1月12日、さしもの米国もあきれて、トルーマン政権下のディーン・アチソン国務長官が次のように述べています。

「米国が責任をもつ防衛ラインは、
 フィリピン、沖縄、日本、アリューシャン列島までである。
 それ以外の地域は責任をもたない。」

つまり、朝鮮半島には、米軍は責任を持たないと、ここで宣言するわけです。
朝鮮半島には、当時、米軍が駐留していました。
にもかかわらず米国が朝鮮半島を含まないと発言した意図は、これはどうみても李承晩の暴走を抑え込もうという意図しか感じられないものです。

李承晩は、没落した朝鮮両班の出身です。
たまたま近所に出来た教会で、米国人牧師から洗礼を受けた李承晩は、両班という身分も相俟って、李王朝によって、米国に留学させてもらえるという栄誉に預かりました。
ですから彼の頭の中には、自分は両班という特権階級の人間であるという選民意識と、李氏朝鮮時代への強烈な復古意識があります。
ですから当然の流れとして、彼は成人して、日本統治反対運動に身を投じることとなり、ついに上海で「統一韓国臨時政府樹立」なども行っていました。
もっとも、この臨時政府の大統領に就任した李承晩は、勝手に交易の約束などをして、臨時政府からも追い出されてしまいます。
そして、間の悪いことに、日本の憲兵隊に逮捕されてしまう。

日本の憲兵は、いつまでも李氏朝鮮を恋しがる李承晩を、なんとか改心させようと、いろいろと努力したようです。
そしてある日、彼を平手で一発打ちました。
これが決定打になりました。
李承晩は、生涯をかけて、反日思想に凝り固まったのです。
なぜかというと、「俺様の頬を打った」からです。

実際には、これが他の国であれば、政治思想犯として、李承晩は何の取り調べもなく、また改心させようなどという説得さえもなく、強制収容施設に入れられ、苛酷な労働を課されるか、身の毛ものよだつ拷問を加えられた上、一族郎党、全員皆殺しにされるのがオチです。
実際、李承晩は、自分が権力をとったあと、親日派と目される人々に片端から、そのような仕打ちをしています。

北と南に別れた韓国と北朝鮮は、それぞれが我が国こそ朝鮮半島の正規の政府であると主張しました。
実際には、李承晩は、韓国建国前の臨時国家の名称が「南朝鮮過渡政府」であることにも明らかなように、南朝鮮だけにしか政治的影響力が及ばない状況にあったわけです。

もう戦争は終わったのです。
いまさら誰も戦争などやりたくない。
ですから、李承晩はそれでおとなしくしてれいば、良かったのです。

ところが彼は、北に対して、次々と敵対行動をとります。
ということは、南北で戦争が起きてしまう。

米国政府は、李承晩にいい加減、手を焼きます。
やむをえず米国は、韓国の軍事力の大半を米国で請け負うことで、韓国軍が単独で重装備して北朝鮮に攻め込むことを防ごうとしました。
要するに、韓国軍に僅かな兵力しか与えないことで、とにかく李承晩の暴発と半島内での紛争を防ごうとしたのです。

ところがこのことは、北の金日成に、南朝鮮の李承晩による北侵攻の危機を抑え込む好機を意味しました。
金日成は、昭和25(1950)年3月、ソ連を訪問し、スターリンに李承晩との開戦許可を求めます。
スターリンは、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認しました。
同時にソ連軍事顧問団に、南侵計画である「先制打撃計画」の立案を命じます。

スターリンの考えは、金日成の南進によって朝鮮人同士で戦わせ、万一、金日成がしくじることがあっても、ソ連は直接には手を下さず、毛沢東に後ろ盾をさせようというものだったのです。

同年5月、金日成はシナの毛沢東を訪ねました。
そして「北朝鮮による南半部への侵攻に際し、中華人民共和国がこれを援助する」という約束を取り付けます。

こうして、昭和25(1950)年6月25日午前4時、北緯38度線で北朝鮮軍の砲撃が開始されました。
30分後、11万人の大軍からなる北朝鮮軍が、38度線を越境しました。
宣戦布告はありません。いきなりの侵攻です。
ちなみに北朝鮮は、現在に至るまでこの開戦を「韓国側が先制攻撃してきた」と主張していますが、この主張はソ連崩壊後のロシア政府でさえ、公式に否定しています。

このとき、38度線の警護にあたっていた韓国軍は、一部の部隊が警戒態勢をとっていただけの状況でした。
ただでさえ少ない韓国軍兵士は、6月の田植えのために、ほとんどが田舎に帰っていたのです。
しかもソウルで前日に、陸軍庁舎落成式の宴席があったため、軍幹部が二日酔いで登庁すらしていません。
大統領である李承晩への「北来襲」という報告すら、奇襲後6時間経過してからのものでした。

手薄な前線の韓国軍には、対戦車装備すらありません。
そこに北朝鮮軍は、ソ連から貸与されたT-34戦車を中核にして、次々押し出してきました。
各所で韓国軍は総崩れとなり潰走します。

Korea Warの攻防
Korea War03


初戦の猛攻での大勝利。
金日成は、一気呵成に李承晩を半島から追い落とし、5回目の光復節をソウルでむかえると宣言しています。
北朝鮮軍の士気はおおいに盛り上がりました。
おかげでわずか開戦3日目の6月28日には、韓国の首都ソウルが陥落しています。

「このため韓国政府は首都をソウル南方の水原に移した」と説明しているものがありますが、全然違います。
韓国大統領が水原に逃げ落ちただけです。
そしてそこには、多くの負傷兵や、ソウルから逃げてきた市民が集まりました。

事態を重視したマッカーサーは、水原にやってきました。
けれど、その惨状を目の当たりにしたマッカーサーは、その日の内に東京に帰ってしまいました。
理由はいろいろと説明されています。
しかしもし、これを読んでいる方ご自身がマッカーサーの立場なら、きっと同じことをしたと思います。

繰り返しますが、韓国の首都は、そもそもソウルです。
ところがそこに北朝鮮が攻めてくると、李承晩は、防戦する韓国軍やソウル市民を残したまま、漢江にかかる橋を爆破しています。

理由は自分が逃げるためです。
これによって孤立した韓国軍兵士とソウル市民やそこにいた婦女子たちがどのような目にあったのか、想像するだに恐ろしいことです。
さらに李承晩は、水原に逃げる途中にある村々の無辜の韓国市民を片端から殺害しています。
武器を持たない自国民を、ただ殺したのですから、それは用意なことだったでしょう。

殺した理由も明らかです。
逃げる途中にある村々が、北朝鮮兵に見えたのだそうです。
まさに野蛮な行為そのものですが、これまたChinaや半島の文化です。
彼らにとって軍と暴徒とヤクザは同じものです。

国際法では、近代以降の戦争では、軍服を着用し、頭に兵士とすぐにわかる帽子かヘルメットを被り、銃などの武器を携帯した者は、敵兵として殺しても良いことになっています。
そうしなければ、自国軍が殺されてしまうからです。

逆にいえば、軍服を着ていない者は民間人ですから、殺してはいけない。
ただし、その民間人の中に、軍服を着ていない便衣兵のような者がいれば、民間人を含めて全員殺して構わない。
これまた、そうしなければ自国軍が殺されてしまうからです。

原爆投下や、都市への空爆、ベトナム戦争の焦土作戦などが正当化される理由もここにあります。
そこに軍の施設や軍人がいて、どこまでが軍人なのか識別がつかなければ、皆殺しにして構わないというのが、冷徹な戦時国際法です。

それでもかつての日本軍は、Chinaにおいて、一般の民間人に隠れた便衣兵にさんざん苦労しながらも、極力民間人を保護し続けてきました。
日本人にとっては、それこそがあたりまえの武士道精神であったからです。

ところが水原に落ちる李承晩は、逃げ落ちる途中の村々から、たった一発の銃弾をあびたわけですらないのに、北朝鮮が攻めてきたという自身の恐怖だけで、途中にある村人たちを皆殺しにしています。
これは、野蛮な恥ずべき行為です。
それでいて米軍に助けてほしいとは、聞いてあきれます。

しかし放置をすれば、朝鮮半島はソ連と、その息のかかった北朝鮮の金日成によって征圧されます。
東京に帰ったマッカーサーは、迷った末、米国政府に在日米軍2個師団(約3万人)を投入するように要求しています。
北朝鮮軍は、この時点で80万の大軍を持って進撃してきています。
これに対して2個師団というのは、ほとんど警備兵の位置付けでしかありません。

しかしその2個師団派遣さえも、米国政府は反対しました。
そして結論として、1個師団が送られることになりました。
米軍は、水原南方の烏山の高地に陣取りました。
これはつまり、韓国軍の後方に位置します。
要するに「後ろで見守っててあげるから、君たちでしっかりと戦いなさい」という意思表示です。

北朝鮮の第4師団が、ソ連製T-34-85戦車やSU-76M自走砲などの車輌を先頭にやってきました。
水原にある60万の韓国軍全軍対、6万の北朝鮮軍の戦いです。
韓国はもともと日本だったところです。
従って韓国軍というのは、いわば元日本軍でもあるというのが米国側の認識です。
そしてその日本軍は、航空機や重戦車部隊まで動員したソ連軍に、10分の1,20分の1の兵力で打ち勝ってきた軍です。
それが、兵力差は、逆に10倍あるのです。
しかも米軍が後ろ盾になって水原には鉄壁の布陣が敷かれました。
普通に考えれば、当然、北朝鮮軍は壊滅するであろうところです。

こうして、そこに北朝鮮軍が、まさに罠に自分から飛び込むような形でやってきたわけです。
数分とまでいかずとも、数時間以内に、北朝鮮軍は壊滅するはずでした。

ところがここで信じられないことが起こります。
北朝鮮軍の戦車部隊が見えた途端、つい先程まで、ヤクザの出入り前のように勇壮に大言壮語していた韓国兵たちが、堰を切ったように逃げ出したのです。
そして北朝鮮の戦車部隊が、はっきりと見えるようになったとき、なんと、最後方にいたはずの米軍だけが、烏山の高地にぽっこりと取り残されたのです。

そして米軍は、全滅させられてしまいました。

実は、この頃、反日に凝り固まった李承晩は、旧日本軍人を全員、平の兵隊にしか使っていなかったのです。
しかも、元日本軍に所属していたというだけで、同一の小隊に複数を配置することなく、元日本軍人同士で互いに横の連携をできないようにしたうえで、さらに監視まで付けていたのです。

ですから、李承晩率いる韓国軍は、上から下まで、ただ威勢が良いだけの、まったく軍事の経験のない、いわば素人集団でした。
これでは敗けてあたりまえです。
しかも、敵が来れば、いの一番に逃げ出す。

ところがこの韓国軍は、武器を持たない自国民に対してだけは、ものすごく強い軍隊でした。
李承晩とその軍は、ソウルや水原のみならず、せっかく応援に来てくれた米軍さえも放置して、南へ南へと、逃げ続ました。
そして、その途中にある韓国の都市や村々を、都度、襲撃しては、略奪を繰り返して個人の蓄財を図ったのです。
表向きの理由は、「右翼活動の経歴があったから」です。
しかしそれは、表向きというよりも、後講釈です。
この韓国軍の敗走によって、韓国国内では、韓国軍によって民間人数十万人が殺されています。

そしてこの虐殺から逃れてボートピープルとなった朝鮮人たちが、祖国を捨てて大挙して日本に逃げてきました。
これが、いま日本にいる在日韓国人たちです。

こうして李承晩は、ついに朝鮮半島最南端の釜山まで追い詰められてしまいました。

釜山は、この時点で韓国にとっての最後の砦でした。
ここを追い落とされたら、あとはもう海の中です。
韓国軍は釜山を取り巻くように防御線をひいていました。

このとき、米軍を主力とする国連軍はすこしずつ増援されてきていました。
しかし、兵力の逐次投入という愚をさけるためと称して、彼らは兵力を釜山にとどめ、戦いに参戦しない。
戦略的に時間をかせぎつつ大兵力がたまるのを待つ、というのです。

このとき、歴史はひとつの奇跡を生みます。
韓国軍の救世主となる、金錫源(キム・ソクウォン)という人物が現われたのです。

金錫源は、漢城出身の生粋の朝鮮人です。
けれど幼いころからたいへんに優秀で、日本の陸軍幼年学校、陸軍士官学校を経て、満州事変やシナ事変で一個大隊を率いて中国軍を殲滅し、朝鮮人としては初、また生存している佐官では異例の功三級金鵄勲章を天皇陛下から授与された経歴を持つ人物です。

釜山にまで韓国および多国籍軍が追いつめられるまで、残念ながら戦いのプロである金錫源将軍には、なんのチャンスも与えられませんでした。
日本の陸軍士官学校を卒業し、生粋の日本人であった金錫源将軍を李承晩は嫌悪し、彼に監視をつけ、一切の行動を取らせないようにしていたのです。

ところが、釜山まで追いつめられた。
もうここを追われたら、逃げるところさえない。
そこまで追いつめられたとき、はじめて、金錫源将軍に、なんとかしてほしいと依頼がきたのです。

彼はこのとき、国連軍の総司令官がマッカーサーを嗤って、次のように述べています。
「日本軍を破った男が日本軍を指揮するのか。
 よろしい。
 日本軍が味方にまわればどれほどたのもしいか、
 存分にみせつけてやりましょう。」
彼はそういって軍刀の柄をたたきました。

金錫源は、元日本兵だった経験を持つ1個師団だけを率いました。
そして粛々と釜山東部の守備に就かせました。

そこに北朝鮮軍がやってきました。
最後の決戦なのです。
北は大軍です。
北朝鮮軍は金錫源将軍率いる師団を静かに包囲しました。

金錫源将軍の師団は完全に孤立してしまいます。

その状態で、8月15日深夜、金錫源将軍は、なぜかこっそりと米軍本部に使いを出しました。
そして一部の兵力を夜のうちに海岸線方面に移動させました。

翌朝、双方の戦いが始まりました。

金錫源は、飛び交う銃弾の中で、日本刀を振りかざして陣頭に立ちました。
そして敵軍を睥睨し、撃て~!と叫びました。
大将が、先頭に立って指揮をとる。
それは、Korea War始まって以来、ついぞ見られることのなかった姿でした。
朝鮮人の兵隊たちからみて、その姿は、これこそがほんとうの軍人の姿だと思えました。
そして兵の士気は、著しく高まりました。

金錫源将軍たちが、孤立した丘で奮戦している間、米軍は動きません。
多国籍軍も、釜山にあってひたすら沈黙を守っていまする。
金錫源将軍の率いる師団に、援軍はありません。
「孤軍」の状態で、金錫源たち旧日本兵師団は戦います。
しかも、多勢に無勢、兵力、火力とも10倍以上の違いがあります。

金錫源将軍側の陣の敗色が濃くなった頃、彼は頃あいをみて、兵力を敵右翼に集中しました。
そこから北朝鮮軍に一斉砲撃をしかけました。
そして、にわかに突撃を命じました。

相手は命知らずの旧日本軍韓国兵です。
その猛烈な戦いぶりに、北朝鮮軍はあわてて後退します。

敵殲滅の好機到来です。
金錫源軍の士気はいやがおうにもあがります。

ところがこのとき、なぜか金錫源は、全軍に退却を命じてしまいます。
深夜です。
日付はすでに16日になっています。

北朝鮮軍は、韓国軍が退却し始めたのを見ると、反撃に転じました。
そして金錫源軍をいっきに殲滅させようと迫ってきました。
それは実は、金錫源将軍の読み通りの展開でした。

北朝鮮の機甲軍団は、韓国軍を追って進路を東に転じ、岬をまわって海岸線に出てきました。
その出たところに、あらかじめ金錫源将軍から連絡を受けていた米艦艇が、やにわに姿を現したのです。
そして北朝鮮軍めがけて、一斉に艦砲射撃をあびせた。

天地がくつがえるかと思われるような轟音がひびきました。
無数の砲弾が、まる裸の北朝鮮軍第五師団のうえに降りそそぎました。
米国誇る太平洋艦隊の主砲です。
陸上では、バズーカ砲さえ歯がたたないT型戦車といえども、戦艦の巨砲の前にはひとたまりもありません。

それを待っていた金錫源将軍の第三師団は隊列を変化させ、北朝鮮軍を包囲して砲撃を開始しました。
艦砲、迫撃砲、榴弾砲などあらゆる種類の砲弾が火を噴きました。
北朝鮮の戦車を粉砕し、兵を空中に飛ばしました。

ほんのわずかな間の出来事でした。
北朝鮮軍は一瞬の後に壊滅し、兵たちがバラバラになって敗走をはじめます。
ところがその潰走ルートには、金錫源があらかじめ忍ばせた伏兵がいました。
そして潰走する北朝鮮兵に猛射をあびせました。

「草木皆ナ兵ト化ス」

恐慌状態におちいった北朝鮮軍は、軍隊組織として統制のとれた行動をすることが不可能になりました。
そして北朝鮮軍は予想外の損害をうけ、いったん盈徳を放棄して西北にさがり、休息と再編を余儀なくされてしまいます。それだけでなく、友軍との連携すらとれなくなった。各部隊の孤立化がはじまったのです。

8月22日、金錫源たちが戦った釜山の反対側の西側では、遊鶴山のふもとを守っていた韓国軍一個大隊が、北朝鮮軍の攻撃に耐えかねて後退を開始ます。ここにも元日本兵が数多くいました。

このままでは米軍第27連隊の側面が敵にさらされる。戦線の崩壊もまぬかれない。
釜山が陥落すれば、もはや韓国はおしまいです。

そこに、白善燁(ペク・ソンヨプ)師団長が駆けつけました。
そして散らばっていた兵を集合させて座らせました。
白善燁師団長も日本陸軍将校の出です。
1939年平壌師範学校を卒業したのち、奉天の満州軍官学校に入学、41年に卒業して満州国軍に任官し、43年には間島特設隊に配属され戦っています。

実はこのとき、白善燁師団長は、このときマラリアを患い、高熱を発していました。
けれど集まった西側守備隊の兵士たちに
「二日間,補給もないのによくがんばってくれた。感謝の言葉もない」
とねぎらいの言葉をかけ、
「ここが破れればわれわれには死が待っている。それに見ろ。アメリカ人もわれわれを信じて戦いに来ている。かれらを見捨てることができるか」と静かに語りました。

そして突然立ち上がると、大声で兵士たちに言いました。
「ただいまより、あの四八八高地を奪回する!
 ワレに続け!
 もし俺が臆病風にふかれたら後ろから撃て!」

そうさけぶと、銃をとり、先頭にたって突撃を敢行したのです。
兵たちは驚きました。
いきなり前線に、高熱の師団長が現れたかと思ったら、鬼気がのりうつったかのように咆え、駆けだしたのです。
「師団長に続け~~!」
鬼人と化した韓国軍は、わずか一時間で四八八高地を奪還してしまいました。
そしてそこから谷底の北朝鮮軍にむかって猛烈な砲火をあびせました。
そしてここでも北朝鮮軍は完全に潰走しています。

前線の北朝鮮軍が無力化されたことで、米軍はその退路を断つ作戦を発動します。
そして仁川に上陸すると、南進していた北朝鮮軍の補給路を完全に断ち、9月28日には、ソウル奪回を果たしました。

勢いを得た米韓多国籍軍による南軍は、反攻に転じ、10月1日にはそのまま38度線を突破、10月20日には、北朝鮮の臨時首都の平壌までも制圧します。

北朝鮮が完全に壊滅とみられたとき、中国共産党義援兵が北朝鮮に味方して参戦します。
100万人以上の大兵力です。
米韓多国籍軍は、シナの人海戦術に、平壌を放棄し38度線近くまで潰走した。

しかしシナの大軍の装備は、ソ連から補給された日本軍の残存兵器です。
それ以上の装備はない。旧式兵器に頼るシナの援軍は、度重なる戦闘ですぐさま消耗し攻撃が鈍ってしまいます。

米韓多国籍軍は、ようやく態勢を立て直して反撃を開始し、翌年3月14日にソウルを再奪回。
しかし、戦況は38度線付近で膠着状態となった。

そして最終的に38度線を休戦ラインとして、現在にいたっています。

以上がKorea Warの概略です。

戦いには「勢い」と「転機」があります。

北朝鮮の南進により、もはや対馬海峡に追い落とされるのも時間の問題にまでなった韓国軍を、その窮地から救ったのは、旧日本軍に所属し、数々の武功を立てた元日本兵でした。

上に登場した金錫源将軍は、朝鮮動乱で韓国軍が雪崩を打って敗走を重ねた時、軍刀(日本刀)を振りかざし、
「攻勢こそは最大の防御」
「死をもって戦うときにのみ勝機は訪れる」と部下を叱咤激励したといいます。
韓国軍が釜山で辛うじて全軍の崩壊を免れ踏みとどまったのは、かつての大東亜戦争の英雄が「ここにあり」と奮戦する姿に鼓舞されたからだともいいます。

金将軍は多くの将校が近代戦には邪魔になるといって軍刀をはずす中、
「日本刀は武人の魂である」と、ひとり軍刀(日本刀)を手放さない人でした。
昭和55年、金錫源将軍は、靖国神社に参拝されました。
靖国には、フィリピンのルソン島各地を中隊長として転戦し、アレプンヨ高地で壮烈な戦死を遂げた彼の次男、金泳秀が祀られているのです。

金錫源将軍は、参拝後、一緒に参拝した元日本陸軍の兵士たちにこう語ったといいます。
=======
自分の息子は戦死した。
それは軍人として本望である。
本人も満足しているであろう。
=======

息子を犠牲者として日本を恨むような卑怯な姿は、金錫源将軍には、微塵もありません。
逆に、並いる旧日本軍将兵らが、金錫源将軍に「軍人精神の神髄」を見たと感嘆したそうです。

韓国人が日本統治時代の歴史を肯定的に評価した「親日派のための弁明」という本があります。金完燮(キムワンソプ)という人が書いた本です。
金完燮さんは、この本のために、韓国内で問題視され、本は青少年有害図書に指定され、金完燮は逮捕されました。

彼はこう書いています。
=======
まず日本社会が一日も早く米国と周辺国により強要された自虐史観と植民史観から抜け出す必要がある。
過ぎた歴史に対する反省はどの国家でも必要なことだが、日本は、過去史に対する反省があまりにも行き過ぎている。
日本では過去の歴史に対する正当性を理解しようという動きがより強化されねばならず、これを通じて歴史に対する主体性回復がなされなければならない。
=======

どこの国にも、その国の民族の歴史と伝統と文化があります。
それをそれぞれ尊重するのが、正しいあり方だと思います。
戦前の日本は、大東亜共栄圏を構想しました。
それは東亜の各国がそれぞれの国の歴史と伝統と文化を、尊重し、育み、独立して、互いに共存共栄するという構想でした。
大東亜共栄圏構想は、日本一国が繁栄すればよいという、偏狭なナショナリズムではありません。
みんなが良くなる。みんなが繁栄する。
そのために互いに協力する。
これは、友愛などと言葉だけの美言で、日本の歴史・伝統・文化を否定する思想とは、まったく逆のものです。
そういう日本の正しい歴史を、わたしたちは取り戻す必要があります。

ちなみに、このKorea Warのとき、日本にボートピープルとなって逃げてきた朝鮮人を、当時の日本は、まだ戦争の傷跡の癒えない焼け野原の中で、助けました。
それが戦後60年を経て、いまや日本国内に200万人の半島出身者が居住する。
どんなに派手なネズミ算をしても、245人が60年で200万人に増えることはありません。

要するに、Korea Warのときに、日本に逃げてきた朝鮮人の子孫が、いまの在日コリアンです。
そして彼らは、日本は悪い国だと言う。

日本が戦前に徴用した朝鮮人は多数いましたが、戦後、日本は国費をもってそれら朝鮮人を本国に帰還させています。
どうしても帰りたくないと、日本に残った朝鮮人は、正式に記録に残っていますが、わずか245人です。もうしわけないが、戦前日本にいた朝鮮人と、いま日本にいる在日朝鮮人は、異なります。

韓国の初代大統領李承晩は、戦時中に半島の独立運動を謀ったかどで憲兵に逮捕され、暴行を受けた経験を持ちます。そのため彼は極端に日本を嫌悪しました。
しかし彼は、韓国内で自国民を大量虐殺している人物でもあります。
そして北の金日成の南進を招き、釜山界隈まで追い詰められ、半島の自由民主主義勢力を、壊滅の危機まで追い込んでいます。

皮肉なことに、李承晩率いる韓国を、最後の最後で北朝鮮の支配から救ったのは、彼が最も嫌悪した旧日本軍の帝国軍人でした。

終戦後72年。
Korea War停戦後64年。

日本も韓国も、そして在日コリアンの方々も、もういちどこれまでの歴史観を一度「リセット」し、本当の歴史、真実の歴史を、あらためて見直してみるべき時にきていると私は思います。

※この記事は2009年10月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
No title
日本統治時代は朝鮮も満州も平和で豊かでした。
その平和を打ち砕いたのが白人たちです。
全て植民地政策の弊害。
たらればを言うのは良くないことですが、もし大東亜戦争がなければ、今のミサイル解散などは必要なかったかと思います。
2017/09/21(木) 03:28 | URL | 浪速のお節介オヤジ #-[ 編集]
国連で拉致に言及ートランプ大統領
こちらの記事は、朝鮮半島系の元日本軍人が、いかにまっとうか、描かれているので、今日本在住の半島系の方々に対しても、徹底的なフェアネスが貫かれていると、また日本への便衣兵、李承晩系工作、侵略、搾取は許さない、日本人へのフェアネスも貫かれていると、思いました。

太平洋戦争において、日本軍人も米国軍人も、工作に騙されて激戦をさせられました。今、日本の意識が変わり、日米安保を二人命がけでされた岸伸介総理と佐藤栄作氏の側で歴史を見ていた安倍総理の依頼で、

議員になられた青山繁晴議員は、武士の精神のみならず、お父上が、繊維業で、糸売りの島買い、生糸繊維業を犠牲にして、沖縄を取り戻したことを知り、ペルーでの日本人拉致事件でも、現場にい、白洲次郎同様、事実を知り、英語を駆使できる状態で、米国軍人とも、ハリス太平洋司令官とも直接話される、

安倍総理は、日本人拉致被害者奪還を、現実に実行してきた方で、諦めていない。米国、ロシア、インド、直接話される。

トランプ大統領が、13歳で拉致された横田めぐみさんらを念頭に、国連で北朝鮮への日本人拉致に言及されたのには、びっくりしました。

あとは、国内が、変わることです。中山成彬先生の、改革実行力に、期待したいです。何らかの形で、影響力を発揮していただきたいです。
日本人の精神に基づく、日本人の主権と生存権たる交戦権を回復した日本国憲法を取り戻すこと。拉致や搾取を北朝鮮にやりたい放題にされる国際法違反の縄縛りを外すこと。


訂正、工務死→公務死
2017/09/20(水) 06:49 | URL | 扉を開こう #fI9PwTrA[ 編集]
韓国語ではなく、朝鮮語では?アメリカ語と言わないように、韓国語とも言わないでしょう。強いて言うなら、朝鮮語韓国弁では無いでしょうか。
2017/09/20(水) 01:00 | URL | 名無し #-[ 編集]
アメリカのリベラル反日歴史家たち
アメリカの歴史家やマスコミ、リベラル知識人たちは基本的に「反日」意識を持っています。韓国歴史を研究し、多くの著書を書いた「カミングス」氏の著書を見ると明らかです。

彼の有名な著書に「朝鮮戦争」という大書があります。さすがに史実はそれほど変えていないが、随所に「日本軍批判」が書かれ、韓国の問題は全て日本のせいだといったニュアンスが多くみられます。

戦後の韓国人歴史家が書く英語のファンタジー歴史書の影響は計り知れません。日本の歴史家も英語の真実の著書をアメリカで発行していくことが大事ではないかと感じています。
2017/09/19(火) 20:14 | URL | にっぽんじん #-[ 編集]
朝鮮戦争と言うと、昔、学校の教科書では、必ず朝鮮特需の話しになり、日本の復興は朝鮮戦争のお陰なんですよ。
となっていた記憶があります。
実は、関わった企業の殆どが、おお赤字だったと言われています。 カラクリは、原材料、機械、ライセンス料をアメリカから高い値段で買わされ、出来た製品をアメリカの決めた安い値段で売らなければならなかった、当時の占領日本の立場が原因だったそうです。
でも、高性能な戦車を国産で作れるようになったのは、確かに、朝鮮特需のお陰かもしれません。
入社当時、富士山で自衛隊研修がありまして、初めて実物の戦車を見た時、その威圧感に圧倒されました。74式戦車でした。
みんなで、「こんなのが突進してきたら、武器を放り出して逃げるなぁ。」と嘘か誠か分かりませんが、言ってましたねぇ。
2017/09/19(火) 20:09 | URL | ジャイアントロボ #-[ 編集]
No title
ミサイル解散!
いいですね。
マスゴミでは大義なき解散などと一生懸命印象操作をしていますが、
逆に大義ある解散が今まで何回あったか、どれが大義ありで
どれが大義なしの解散かマスゴミに聞いてみたいものです。
2017/09/19(火) 17:58 | URL | Kaminari #-[ 編集]
No title
>そこに軍の施設や軍人がいて、どこまでが軍人なのか識別がつかなければ、皆殺しにして構わないというのが、冷徹な戦時国際法です。
>原爆投下や、都市への空爆、ベトナム戦争の焦土作戦などが正当化される理由もここにあります。

戦争法上では、そこに軍がいて、何処までが軍人なのか識別が着かなければと言うようなときには皆ごろしにしても構わないのですから、ゲリラや便衣兵は総てこれに該当します。
便衣兵を使う軍隊は、自国の国民がこれのために巻き添えを食っても、気にしないというものでした。そして、これの理由は制服を着た正規兵が、ゲリラや便衣兵のように民間人と見分けがつかない兵から被害を受けることを避けるため、言わば正々堂々と戦え途の主旨です。

しかし、原爆投下や都市への空爆は、爆撃機の乗員に何のリスクもありません。従って、これをみなごろしにしても正当だとするのは腑に落ちません。

空襲を正当化するのは、一つ目は爆撃地域に対空砲がある場合。もう一つは、爆撃地域に軍需工場がある場合ではないでしょうか。
例外規定は、戦争後に勝利した国の爆撃機の乗員です。
カーチス・ルメイは、米国の爆撃を指示した指揮官ですが、彼は戦争に負けたら戦犯になるというようなことを言っていたようです。


李承晩韓国大統領は、米国が作り出した最低の政治家でした。
朝鮮戦争が起こるまでは、極端な反日、朝鮮戦争が勃発したら先般のセオゥル号の船長のように、避難する国民のことなどほったらかしにして逃げる、逃げるのに邪魔な者はころす。
釜山まで逃げたのですが、釜山も危ないと思ったときには、日本の山口県に亡命政府を作ると考えていました。

そして、戦況が有利になり始めたら、38度線までの回復ではなく、朝鮮半島全域の獲得を望み、米軍に停戦させませんでした。
これが中共の介入を呼んで、米軍は押し戻されました。

また、日本の海上保安庁はマッカーサーの仁川上陸作戦の頃に、輸送船の誘導や機雷の掃海をしましたが、李承晩は韓国軍に日本の軍隊を見たら北朝鮮と戦争するのを止めて、日本軍と戦えと命令しています。(それなら、山口県に亡命政府など作ると言うなと思います。)

李承晩は、朝鮮戦争の休戦中に李承晩ラインを一方的に設定し、この時、竹島を軍事占領しています。
この時の日本は、保安隊(陸上部隊のみ)はありましたが、連合軍の占領中であり、何もできませんでした。

李承晩ラインを設定した韓国は、この後の13年間に日本人抑留者3,929人、拿捕された船舶328隻、死傷者44人の被害を受けています。抑留者は6畳程の板の間に30人も押し込まれたとのことですが、これは、韓国の拷問の一つでした。
2017/09/19(火) 14:38 | URL | ポッポ #/5dmJF4E[ 編集]
朝鮮戦争を知りませんでした
朝鮮戦争について、何も知りませんでした。
あの国が、こんなにも過酷で、血塗られた建国だったなんて。そして、こんなにも感動的な英雄達がいたなんて。
ありがとうございます。
2017/09/19(火) 12:50 | URL | アナコンダ #-[ 編集]
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小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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口座名義 小名木善行
【問い合わせ先】
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