読んで目が覚めたこと。
それは土偶についての考え方です。
このブログでも、土偶については度々触れ、これまで土偶は「妊婦の安全な出産を願っての身代わり本尊のようなもの」という解釈をご紹介させていただいてきました。
けれど小林先生は、それは違う!と明言なさいます。
なぜ違うといえるかというと、初期の頃の土偶にはそもそも頭部がなかったりする。中期のたとえば縄文の女神のような美しい立像であっても、やはり顔がない。
みなさまよくご存知の遮光式土偶には顔があるけれど、その顔は、人間の顔とは似ても似つかないものとなっています。
本の中で先生は土偶は精霊を表したのではないかと述べておいでになります。
しかし、単に精霊とするだけでは、なぜ土偶の多くが女性なのかという疑問もあります。
妊婦は、新しい生命を体内に宿すわけです。
つまり、縄文の人たちは、新しい生命の誕生と精霊を大切にしたのではないか。
それが土偶という形になったのではないか、と、そのように思えました。
たとえば百人一首がなぜ百首なのかといえば、もともと百首歌というのがあって、願掛けをするときに、百首の歌を奉納したりする習慣があったのです。
百という字は、一+白で、ひとつのかたまりを示します。
訓読みは「もも」で、桃は霊力の象徴でしたから、百首の歌が霊力を持つのです。
藤原定家は、そのことを踏まえて百人の百首の歌で一首とする歌集を作っています。
そして藤原定家のその百首歌に込めた思いは、縄文時代から脈々と受け継がれた日本人の霊力とか精霊とかを大切にする姿勢から、生まれたものといえます。
しかもそのことに、私たちは1万年をはるかに超える歴史を持つのです。
縄文初期から私たち日本人に言葉があったということは、縄文時代の生活を細かく分析していくと、まちがいなく「あった」といえることです。
そこから生まれた大和言葉で、「からだ」は、もともとは「からだま(殻魂)」であり、「ほとけ」は「ほどける(解ける)」なのだそうです(玉響5月号)。
つまり魂が本体、肉体は乗り物という考え方は、縄文以来の日本人の伝統的思考なのであって、その目に見えない魂を表現したものが土偶である、ということなのであろうと、これは目を覚ます思いで先生の本から感じ取りました。
とにかく、何と書いて良いのかわからないほど、感動が詰まった本でした。
これはみなさまにも是非、お薦めです。
いま、Amazon考古学本で1位です。
お読みいただき、ありがとうございました。

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