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先人たちが目指した日本の姿。それは私達の国が常に「よろこびあふれる楽しい国(=豈国)」であり続けることです。


名将・山口多聞中将とミッドウェー海戦のお話

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20180501 表紙完成2のコピー

6月5日から7日にかけては、ミッドウェー海戦が行なわれた日です。
昭和17(1942)年のことです。
そこで毎年恒例で、この時期にミッドウェー海戦と、名将・山口多聞(やまぐちたもん)中将のことを書いてみたいと思います。


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20180604 ミッドウエー海戦
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)


【お知らせ】
<東京・倭塾、百人一首塾他>
6月9日(土)18:30 百人一首塾第27回
6月10日(日)13:30 チャンネルAJER 古事記に学ぶ日本型経営学/戦いの時を古事記に学ぶ
6月30日(土)13:30 倭塾・東京 第52回
7月14日(土)18:00 倭塾・東京 第53回
7月28日(土)18:00 百人一首塾 第28回
8月15日(水)ねずさんと靖国昇殿参拝
<関西・倭塾>
8月10日(金)19:00 倭塾・関西 第一回 (IK歴史勉強会 十七条憲法と創生の神々)
9月9日(日)14:00 倭塾・関西 第二回 (IK歴史勉強会 イザナギ・イザナミと古代の朝鮮半島情勢)
10月19日(金)19:00 倭塾・関西 第三回 (IK歴史勉強会 大航海時代と大国主)
11月11日(日)14:00 倭塾・関西 第四回 (IK歴史勉強会 唐の皇帝と日本の天皇)
12月8日(土)14:00 倭塾・関西 第五回 (IK歴史勉強会 稲作の歴史と古墳のお話)


山口多聞中将は、旧日本海軍でも「提督の中の提督」として、世界中のファンを魅了している人物です。
生まれは東京・文京区小石川で、明治25年、旧松江藩士・山口宗義の子です。れっきとした武家の家柄です。
多聞というのは、すこし変わった名前ですが、実は、楠木正成の幼名、多聞丸から、命名されています。
山口家の仕えた松江藩というのは、出雲一国の藩です。もともとは毛利領でしたが、幕末時の藩主は松平家で、山口家は出雲松平家の家臣でした。

この出雲松平家というのは、江戸中期以降、全国の大名が年貢米に頼って藩の財政をひっ迫させた中で、唯一といっていいほど豊かだった藩でもあります。
なぜ豊かだったかというと、実は、タタラによる製鉄事業を藩の産業として育成し、同時に藩の財政を徹底的に改革していたのです。
おかげで寛政年間には八万両もの蓄財をしています。
つまり、非常に合理性を尊ぶ気風があった藩であったというわけです。

この出雲松平藩の合理主義は、幕末にも活かされています。
出雲松平藩は、徳川家の親藩です。ところがはやくから時代の変遷を予測して、幕府方にも新政府側にもつかず、藩の中立、独立を保ったのです。
こうした合理性、客観性を尊ぶ家風は、山口多聞の海軍兵学校生活で、さらに磨きがかけられました。

彼はいまでも進学校として名高い開成中学(現開成高校)を卒業したのち、海軍兵学校第40期生となりました。
入学時の成績は、150人中21番です。
卒業時の成績は、144名中2番です。
同期には特攻隊生みの親・大西瀧次郎中将がいます。


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20180326 イシキカイカク大学


山口多聞中将
山口多聞中将


旧日本軍の将校の物語になると、必ずこうした「成績何番」という話がでてきます。
卒業時の成績が生涯ついてまわります。
戦後は、このことによる弊害ばかりが強調されていますが、当時の成績順というのは、もちろん単に学業の成績が良ければ事足りるというものではありません。

なにせ、ひとりの生徒に、教師が4人も5人もついて、徹底的に鍛え上げるというのが当時の兵学校です。
すべてを見極めた上で、序列が決められるのです。
ただガリ勉して学科試験の成績が良くなれば上位というものではありません。
栴檀は双葉より芳し。
その栴檀を、双葉から徹底的に鍛え上げていたからこそ、成績順が大事なものとして扱われたのです。

昨今では、日教組が平等教育をうたい、成績の公表すらしない学校が増えていますが、はき違えもいいとこです。
いいものはいい。悪いものはわるい。
能力には上下があるのです。
人として対等であるということと、能力の差異は、まったく別な議論です。

とくに軍隊は、実戦において無能な指揮官が上に立てば、部下は全滅します。
「誰もが平等」というわけにはいかないのです。
これは企業におけるビジネス戦争でも同じです。
日教組の「誰もが平等」なる思想の子供たちへの強要は、教育の名を借りて役立たずの社会人を育成しているともいえます。
そうであるなら、それは反社会的行為です。

さて山口多聞中将は、第一次世界大戦時には欧州派遣艦隊に所属しました。
もともと水雷、砲術出身の士官であり、本来の専門は潜水艦です。
軽巡洋艦「五十鈴」や戦艦「伊勢」の艦長を歴任するのだけれど、海兵同期の大西瀧治郎の薦めで、当時発展途上だった航空関係に転向します。

船舶や陸戦は、水平運動です。
潜水艦は水平運動に垂直運動が加わります。
つまり動きが上下左右の三次元行動なのです。
ですから潜水艦の専門であった山口多聞中将にとって、三次元運動をする飛行機は、非常に入りやすい媒体であったわけです。

山口多聞中将は、昭和9(1934)年に在米大使館付武官として2年間、米国で暮らしました。
彼は学生時代にプリンストン大学に留学した経験をしていますから、米国暮らしはこれが二度目です。
ちなみに山本五十六大将はハーバート大学で学んでいます。
そして両者とも、駐米武官を経験した国際派となりました。
またたいへんな愛妻家、子煩悩家としても知られています。

もともと合理主義の家系に育った山口多聞中将が、海軍兵学校でその合理主義にさらに磨きをかけ、そして駐米武官として米国の大学で学んだのです。
その合理主義的頭脳に、いっそうの磨きがかかったであろうことは容易に想像がつきます。

その山口多聞中将が、駐米武官として最も関心を抱いたのが、日米の国力の違いです。
なにせ開戦前の昭和15年当時、米国の原油の生産量は日本の150倍です。
日本は石油消費量の90%を輸入に頼り、しかもそのうちの70%が米国からの輸入なのです。
石油の備蓄量は、聯合艦隊の2年分しかありません。
米国と開戦するということは、日本海軍は艦船を動かすための石油を失うということになるのです。
加えて、戦艦を建造するための鉄鋼産出量は、米国は日本の13倍です。

日本は資源輸入を米国に頼っていたのです。
その日本が、米国との関係を悪化させるということは、日本は「資源を失う」ということです。
当時、日本国内では、メディアがさかんに鬼畜米英などといって米国との開戦を煽っていましたが、これが当時の現実だったのです。

もし日本が米国と開戦するとなれば、日本は資源を南方の東南アジア諸国に求めざるを得なくなります。
開戦相手は米国だけでなく、東亜諸国を植民地として支配するオランダや、フランス、英国などとも戦争をしなければならなくなります。
しかも日本は国際連盟から委託された南方の島々の平和を守る責務を負っているのです。
つまり日本は、太平洋の島々から東南アジア諸国にまで戦線を拡大しなければならなくなるのです。

すでに、Chinaではイクサがはじまっています。
これをさらに我が国が戦線を拡大するということは、我が国の国防力を分散させるということです。
国防力の分散は、すなわち国防力の弱化です。
ですから、米国の現状をつぶさに見聞した山口は、米内、山本らとともに、日米開戦に堂々と反対しています。

この時期、多くの日本の軍人が、日米開戦に反対だったことは注目に値することです。
海軍だけではありません。陸軍も反対です。
武人は合理性を尊ぶのです。
戦いは勝つべくして勝ち、負けるべくして負けるものです。
戦いに敗れることは、武人にとっては即、死を意味します。
死を恐れることはありませんが、無駄死は避けたい。
ましてや部下をそのような戦いに用いたくない。
それは武人であれば当然の思いです。

ところが文人は能書きが先行します。
平和を維持しよう、戦いはいけない、などなどです。
客観性よりも思想が優先されるのです。
しかも武人のように職務が「死」と隣り合わせではありません。

実はここに明治から現代に至るまでの憲政史上の最大の弱点があります。
とりわけ戦後は、文人しかいませんからなおさらです。
この点江戸時代は、施政者全員が武士でしたから、全員が常に死と隣り合わせにあり、権限と責任が完全等価にあったことは注目に値することではないかと思います。

現実に、シビリアン・コントロール(文民統制)なるものが、いかに「いかがわしい」ものであるかは、歴史が証明しています。
「武人は戦争を起こすから、文人が制御すべし」というけれど、そんなものは虚構にすぎません。
むしろこのことは、権限と責任の問題として捉えるべきことだからです。

明治維新で戊辰戦争を戦ったのは、武人たちです。
明治27年の日清戦争も、武人によって開戦が行なわれました。
ロシアの南下に対して必死の努力でこれを阻止しようとしたのです。
この日清戦争が、国際的にみて「やむを得ない戦争」であったことは、歴史が証明しています。
けれど日清戦争は、国力からしたら数十倍の国力を持つ清国との戦いです。
日本は、からくも勝利し、ロシアの南下を阻止することに成功していました。
しかし日清戦争による戦果、すなわちロシアの南下をまるで無駄にして、あらためて日露戦争を起こさざるを得ない情況を引き起こしたのは、文人たちの無責任です。

武人が多大な命を犠牲にして日露戦争に辛勝すると、これに浮かれて軍縮などとわかったようなことを言いだし、あげくChinaを蹂躙する蒋介石に付け入る隙を与えて、China事変に至らしめたものは、無責任な人道主義に基づく文人たちの「平和外交」です。

平和を愛する「文人統制」といえば聞こえは良いですが、責任を伴わない者に権限を与えることは、結果として国民が迷惑を被るのです。

さて、大東亜戦争開戦時、山口多聞中将は、海軍少将で第二航空戰隊司令官でした。
日米開戦が決定すると、山口中将は航空母艦「飛龍」に乗って、真珠湾攻撃に出撃しています。
日米避戦論者であっても、ひとたび開戦が決意されるや、命をかけて戦い、国家を護らなければならないのが軍人の使命です。

開戦前の昭和16(1941)年10月中旬から11月中旬、山口多聞は、航空部隊に猛訓練を施しました。
この頃、山口中将は、口の悪いパイロットから「人殺し多聞丸」とあだ名されたそうです。
「丸」は、彼が太っていたからです。
「人殺し」は、彼が行う猛訓練がすさまじかったからです。

山口中将は、物心ついてから病気らしい病気をしたことがなかったし、学業が優秀なだけでなく、合気道や馬術もやっていたし、大飯ぐらいで、体力も強かったそうです。
それだけに、部下が「頭が痛い」「腹が痛い」などといっても、訓練に一切の容赦などありません。
ほんのわずかなミスも許さない。
当然のことです。
150倍の国力を持つ米国と、さらに世界の85%を支配する白人国家全部を相手に日本は戦うのです。
頭が痛い、腹が痛いなどと、甘ったれは一切許さない。

ある日山口中将は、みなに聞こえるように、
「人はよく頭や腹が痛いとよくいうが、
 ありゃいったい
 どんな感じのものなのかね」
と言ったそうです。
訓練生たちにはこの言葉が相当ショックだったらしく、いまも語り草になっているそうです。

山口多門中将に訓練されたパイロットたちが、11月中旬、いよいよ実戦のために空母に乗り込んだとき、全員がびっくりしたそうです。
艦内のあらゆる場所に、ところかまわず重油の缶が山積みされていたのです。
居住区といわず通路といわず、少しの空所も見逃さず重油の缶が置かれていました。
ドラム缶はむろん、一斗缶まで動員されて、ところ狭しと置いてあったのです。

山口中将が、船体強度が許すかぎり、然料庫以外の場所に ドラム缶や石油缶を積み上げさせたのです。
そのため居住区まで重油の臭気が満ち、船の航行中は、船体のピッチングやローリングで洩れた重油が床を這い、これに滑って転倒する者も少なくなかったといいます。
それくらい大量の重油が積載されていたのです。

なぜでしょうか。
実は、山口多聞率いる第二航空戰隊は、「飛龍」、「蒼龍」の二隻の空母を基幹としていました。
けれど両船とも航続距離が短かいのです。
これが第一の理由です。

平時なら油送船を一緒に連れていけばよいだけのことです。
然料が切れたら 洋上で補給すればいい。
けれど真珠湾攻撃の機動部隊は秘匿(ひとく)行動です。
連日荒天が予想される北太平洋コースがとられることが決定しています。

冬季の北方航路です。荒波に洋上補給は不可能です。
しかも、のんびり航海していて、途中でどこかの国の船に発見され、無線一本打たれたら、万事休すです。
要するにハワイ近海まで、いかに隠密裏にたどり着くかが課題だったのです。
そうなると航続距離の短い「赤城」「飛龍」「蒼龍」は、連れてけない、ということになってしまいます。

ですから当初、軍令部(大本営海軍部)は、飛行機は他の空母に搭載して、この三艦は内地にとどめおくべし、と決定しました。
けれど、これを聞いた山口少将(当時)は、烈火のごとく怒り、即座に南雲中将に面会しています。
そして南雲中将の胸ぐらをひっつかんで怒鳴りまくったのです。
結果、山口中将の強い抗議と要望で、三空母が作戦に参加することになりました。

なぜ山口中将は、ここまで航空機にこだわったのでしょうか。
彼は戦争が「艦隊主義」から「航空戦の時代」に変わったことを知っていたのです。
ここにも、先例主義でない、あくまで合理性を尊ぶ山口の個性があらわれています。

理由の第二は、山口中将の標的は、真珠湾だけでなかった、ということです。
真珠湾にいる米艦隊は、日本が攻めて来ることを予期し待機しています。
だからこそ米艦隊は日米の中間点である真珠湾に艦隊を配備したのです。

もっとも真珠湾で米艦隊が、あれだけの大きな被害を受けたのは、米国の予想をはるかに上回るものでした。
これは日本が真珠湾で、「航空機による浅瀬での魚雷攻撃」という新戦法を、世界で初めて実用化したからです。

真珠湾は浅い湾です。
浅いから敵潜水艦は入れません。
水雷艇がやってくるには、ハワイはあまりにも日本から距離がありすぎます。
ということは真珠湾は魚雷攻撃の心配がないのです。

そうであれば、米軍が注意を払わなければならないのは、日本の航空機による爆撃と、艦砲射撃だけです。
まだGPSによるピンポイントのミサイル射撃などなかった時代です。
揺れる海上から撃つ日本の艦砲射撃に対し、海面が静かで揺れない湾内と、陸上砲台から撃つ米軍の対艦攻撃の方が、圧倒的に有利なのです。
加えて、戦闘態勢をとった戦艦は、絶対に航空機には破壊できないと当時は考えられていました。
その航空機にさえ、多数の米戦闘機部隊を配備することで、十二分に対抗できるというのが米軍、というより大統領府の考えだったのです。

真珠湾攻撃が、米国にとって、米国の欧州戦線参戦に際して必要なことであり、あえて日本を真珠湾に誘い込もうとしたということは、近年、様々な米国の公開資料によって明らかになってきています。
ルーズベルトの予想と政治は、あくまで真珠湾基地に日本を誘い込み、日本に攻撃をさせながら、逆にこれを徹底して撃退し、米国の強さを世界にアピールするとともに、米国内の国民世論を開戦に向かわせようとするものだったと言われています。

ここは間違えてはいけないポイントです。
ルーズベルトは真珠湾を日本に晒し、攻撃を受けることを待ち受けましたが、そこで日本にやられるとは、まったく予期していなかったのです。

ところが日本は真珠湾で、米軍がまったく予期していなかった「航空機による魚雷攻撃」という、当時の世界の常識にはありえない前代未聞の戦法をとり、真珠湾の米海軍の艦船を全滅させました。
あり得ないことが起こったのです。

そしてそれが「ありえないこと」であったことは、戦後、まったく語られて来なかったことです。
なぜなら、「日本に攻撃をさせるだけで、絶対に壊滅することのない真珠湾」という所期の予定がくつがえされて、真珠湾が壊滅したことを掘り下げられると、米国と日本の開戦時の関係のもたらす意味が、まるで違うものになってしまうからです。

どういうことかというと、「日本に真珠湾を攻めさせて、その攻撃を米軍が跳ね返す」という予定が、「日本に真珠湾を攻撃されて、真珠湾基地が壊滅した」という結果を招いたことは、これは明らかなルーズベルトの失政ということになります。

そしてもっと大事なポイントは、この真珠湾攻撃において、日本は「航空機による戦艦の壊滅」という当時の常識では考えられないほどの戦果をあげながら、真珠湾における他の周辺施設、すなわち、石油の貯蔵施設や、爆弾などの収蔵施設、あるいは非武装の米兵たちがいる兵舎などに対して、一切の攻撃をしかけていないことです。

繰り返しになりますが、当時、「戦闘態勢をとる戦艦は、絶対に航空機では沈めることができない」というのが、世界の軍事の常識です。
その戦艦が、真珠湾にいるのです。
しかも日本の爆撃機を迎え撃つために十分な数の戦闘機が待機しています。

常識で考えたらわかることですが、爆撃機というのは、重たい爆弾を腹にかかえていますから、空で軽快な行動をとることができません。速度も遅いし、小回りもきかない。
これに対し、戦闘機は、速度も速いし、小回りも利きます。
つまり、戦闘機からみたら、爆撃機というのは、撃ち落としのための格好のネタでしかなかったのです。

日本が真珠湾に攻撃をしかけてくるならば、それは日本の艦隊では、海上からの陸上への攻撃となりますから、陸上にたっぷりと防衛施設を持つ米軍が、圧倒的に有利です。
しかも戦艦は、戦闘機では沈めることはできず、やってくる爆撃機は、戦艦の持つ速射砲の餌食になる。
加えて日本の爆撃機は、米軍の戦闘機のネタです。

そうなれば、日本は、真珠湾の米艦隊へも攻撃をしかけるだろうけれど、いきおい、狙いは、真珠湾の基地施設、つまり石油の貯蔵庫や、爆弾などの兵器の貯蔵施設、あるいは米兵たちの兵舎になるであろうと予測がつくわけです。
従って、これに対する守りをきっちりと固めていれば、真珠湾が壊滅することはない。
むしろ、遠路はるばるやってくる日本軍の側が、ネタになるのです。

当時、真珠湾に米空母がいなかったことを問題視する人もいますが、ルーズベルトの目的は、日本を追い込んで日本に真珠湾を攻撃させることにあったわけです。
もし、そこに空母がいれば、米国は日本を攻撃に行く意思があったことになりますし、対空防衛力の弱い空母を、何も日本が来るとわかっている真珠湾においておく必要もなかったのです。あたりまえのことです。

そして日本の攻撃は、戦艦への攻撃は航空機では無理、日本の戦艦による艦砲射撃も当たらないとなれば、日本の攻撃は爆撃機による米軍兵舎や、補給施設に限られると予想できます。
そうであれば、米大統領府は「卑劣なジャップ」という印象を米国民に与えることができるし、その日本の攻撃を真珠湾で圧倒的な戦力で「防いだ」となれば、米軍への世間の評価は圧倒的なものとなり、欧州戦線への参戦も容易になるし、おそらく総力をあげてやってくるであろう日本海軍に大きなダメージを与えることで、東亜の攻略さえも容易になる。
それがルーズベルトの「もくろみ」です。

ところが、日本の攻撃は、意に反して、絶対に沈まないはずの米戦艦に向けられたものだったし、日本は真珠湾基地の米軍兵舎や補給施設には、まったく攻撃をしかけない。
しかけないどころが、圧倒的な戦いで真珠湾の米太平洋艦隊そのものを壊滅させただけで、悠々と引き揚げてしまいました。
ということは、日本には、米国を侵略する意思などまったくなく、誰がどうみても、日本はあくまで米国の日本への政治的干渉に対して、乾坤一擲の大槌をふるっただけ、ということになります。

国家の行う戦争というのは、ただ武力を行使するだけの暴力事件ではありません。
充分に計画された政治的問題解決のための手段です。
実際、日本の意思はまさにそこにあったわけです。

「日本に真珠湾を攻撃させて、これを完璧に防ぎきり、米軍の強さを世界にアピールし、返す刀で日本の海軍力に壊滅的打撃を与える」というルーズベルトの「もくろみ」は、完全に崩れました。
米国の真珠湾基地は、日本の艦隊に一発の報復もできることなく、またたく間に、壊滅してしまったのです。
しかもその攻撃は、米軍の「待ち構えていた」攻撃施設に対してだけ行われました。

つまり、真珠湾攻撃で、日本は、米国の対日強硬戦略という政治目的を粉砕したわけです。
そこに日本の真珠湾攻撃という政治目的があったし、そのことは日本の攻撃の仕方、引き揚げ方に明確に現れているわけです。
ようするに日本は、真珠湾攻撃を、あくまで政治目的達成のための手段と位置づけていたということが、ここに明確になります。

一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
それが「リメンバー、パールハーバー」です。
「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
つまり後講釈です。

そして後講釈であるからこそ、米国は、あくまで対欧州戦線参戦のために、日本を追いつめただけであったのに、結果として太平洋側にまで大きな戦力を割かなければならなくなり、多数の米国人の命を犠牲にしています。
最近、米国内でも、こうした議論が行われるようになってきました。
このことは、おそらく戦後世界の体制を一変させるインパクトを持つものに育っていくことと思います。
真実は、嘘で覆い隠すことはできないのです。

山口多聞中将は、真珠湾にいる米艦隊の撃滅だけでは、国力のある米国を黙らせることはできないから、真珠湾近郊にある米軍の補給施設や艦船の修理施設を破壊し、米太平洋艦隊を数年間、まるで役に立たないまでに、完全に無力化すべきあるという立場をとっていました。
そこまでしなければ、米国の開戦決意を鈍らせることができない。

これはまったくの正論です。
戦争である以上、勝たなければならないのです。
そのために必要なことを、武人として、山口中将は堂々と主張し続けていたのです。

けれど、その山口案は、退けられてしまいました。
それでも山口中将は、情況次第では、そこまでの攻撃をしておく必要性有りとして、ところ狭しと重油を積載し、戦いに勝つ道をつけようとしていたのです。

山口多聞中将は、平素は無口で、たいへんにおとなしい人だったそうです。
学業優秀だから、いわゆる秀才で、とりわけ海兵四〇期というのは、粒よりの秀才ぞろいといわれた年次です。

しかし、ひとつまちがうと、なにごとによらず、たちまち烈火のごとく怒る。
体力にすぐれ、武道も強く、怒りだしたら始末におえない。しかもその怒りに筋が通っている。

いまどきの日本男性は、怒らないことがまるで美徳のように育てられています。
しかし、筋の通らないことに怒るのは、男子の美徳です。
このことも、大切なポイントであると思います。
日本男児は、もっと怒るべきなのです。

さて、昭和16(1941)年12月2日、聯合艦隊は「ニイタカヤマノボレ、1208」との電報を受信しました。
山本司令長官からの「12月8日に開戦と決す」という暗号電文です。

当日未明、空にはまだ月が残り、星も淡くまたたいていたそうです。
六隻の空母の甲板上に、第一次攻撃隊全機が並びます。
そしてエンジンに着火し、プロペラの爆音を轟かせました。

時刻到来。空母はいっせいに風上に艦首を向け、スピードをあげました。
十分な速度になるとともに、飛行甲板のから、先頭の制空隊(零戦二一型)、水平爆撃隊(九七艦上攻撃機)、急降下爆撃隊(九九艦上爆撃機)、雷撃隊(九七艦上攻撃機)、合計183機が順に、飛び立ちました。

そして、空が明るさを増し、しばらくたったとき、攻撃隊総指揮官淵田美津雄中佐から、有名な「トラ、トラ、トラ」の暗号電報が飛び込んできます。「ワレ奇襲ニ成功セリ」です。

待ちに待った電報でした。
このとき、喜びに湧く艦橋で、山口多聞二航戦司令は、旗艦赤城にある艦隊司令部に向けて、
「ワレ 第二攻撃準備完了」と発光信号を送っています。
これは「第二波攻撃の必要あり、許可を求む」というものです。

米太平洋艦隊司令長官ニミッツ提督が、戦後記した「太平洋海戦史」に、次のような記述があります。

********
攻撃目標を艦船に集中した日本軍は、機械工場を無視し、修理施設に事実上、手をつけなかった。
日本軍は湾内の近くにあった燃料タンクに貯蔵されていた450万バレルの重油を見逃した。
この燃料がなかったならば、艦隊は数ヶ月にわたって、真珠湾から作戦することは不可能であったろう。
********

実は、山口多聞中将は、真珠湾攻撃の二カ月前の「長門」での図上会議の席上でも、第三次攻撃までの企画をあげています。
真珠湾における燃料タンク、修理施設まで攻撃対象とすることを主張したのです。
このとき、南雲忠一司令長官は黙ったままだったといいます。

山口中将は、実際の真珠湾においても、第三次攻撃隊まで準備していました。
しかしいくら待っても旗艦の「赤城」から応答がない。
双眼鏡を顔から離した山口多聞は、
「南雲さんはやらんだろうな」
とつぶやいたといいます。

南雲大将は武人です。
武はあくまで敵を懲らすものであり、むやみに戦線を拡大すべきものではないという、信念の人でもあります。
ですから真珠湾での徹底した破壊はしないで、むしろ日本の圧倒的な強さを見せつけ、あとは外交によって、和平の道を探る。
そのための道を閉ざしてはならないと考えています。

実際、日本は真珠湾で米軍の施設を徹底破壊し、そのまま真珠湾を占領し、そこを拠点にして米本土への攻撃をしかけることもできたのです。
それだけの軍事力は日本にあったし、米本土が焦土となる事態となるならば、それは米国としても絶対に防がなければならない事態です。
それだけのことが「できる」ということをはっきりと示したうえで、外交によって問題の早期解決を図る。
真珠湾攻撃の時点における日本の国家としての狙いも、まさにそこにあったのです。

まさか、宣戦布告文書を、前の日の宴会の二日酔いで、モタモタとさぼって米国に日本の駐米大使が手交を遅らせるなどとは、誰も考えない。
堂々と宣戦布告文書を手渡し、その直後に、日本軍の襲来を意図的に待ち受けた真珠湾が壊滅したとの報告がはいれば、それだけで、日本の外務省は、堂々と米国に対して、和平をもちかけ、それ以上の戦争を抑止することができたはずなのです。

ところが、日本の駐米大使は、寝ぼけて宣戦布告文書の手交を遅らせました。
それによって、日本は、「だまし討ちだ」とそしられる外交上の隙をつくり、結果として長引く大戦へと引きずり込まれてしまったわけです。

しかし、宣戦布告文書というのは、国家間の戦争に必ず必要なものではありません。
むしろ宣戦布告などないままに、始まるのが戦争の一般的な姿です。
世界の歴史をみたらわかりますが、宣戦布告をしてから戦争が始まるのではなくて、宣戦布告が行われた時は、逆に戦争に至らないことの方が、世界における常識です。
宣戦布告があれば、その戦争をはじめないために、当事者両国が真剣に努力するからです。

もし日本が、米国と徹底戦争をするつもりならば、宣戦布告など、そもそも必要ありません。
事実上、米国の領土、了解をどんどん侵蝕していけば良いのです。
いまのChinaが、東シナ海や南シナ海を侵蝕しているのと同じです。
米国の領土了解を、蚕食し、できるだけ前線基地を米本土に近づけて、米国への本土空襲を行い、米国政府を降伏させて、米国を日本の占領下におけば良いだけのことです。

ですから戦いの政治目的がそこにあるならば、日本は真珠湾の米軍基地を配給施設まで含めて徹底的に壊滅させ、真珠湾に上陸し、そこを占領し、ハワイを日本の占領下におさめ、そこを拠点として米国本土への攻撃を加える。
そこまでするのが、戦争というものです。
戦いに勝つには、そこまで徹底した攻撃が必要なのです。

ですから、戦いのプロとして、山口中将は、第二波、第三波の攻撃を進言しました。
けれど、最終的に彼も、南雲大将の指揮に従いました。
大将の意図することを、山口中将自身が、ちゃんとわかっていたからです。

日本は、古来、平和を愛する民です。
しかし、戦時における下手なやさしさは、かえって事をややこしくし、結果として多くの日本人の命を奪います。
そのことは、いまを生きる日本人が歴史から学ぶ教訓として、しっかりと再認識すべきことではないかと思います。

平素はやさしくて温和だが、ひとたび怒らせたら徹底した報復を行う。
残念ながら、これが国際政治において最も求められる国家としての資質です。
そして、いまの日本は、むしろその「徹底してやられる側」にクビまでどっぷりと浸かってしまっているということを、あらためて認識しなければならないと思います。

さて、開戦から半年後、昭和17(1942)年6月、ミッドウェー海戦が起きました。
海戦に先立ち、山口中将は、戦艦大和の艦上で行われた研究会で次のように述べています。

「ミッドウェーは、日米両海軍の決戦場である。
 そのために、これまでの艦隊編成を抜本的に改め、
 空母を中心とする機動部隊を編成すべきである。
 空母の周辺に戦艦、巡洋艦、駆逐艦を輪形に配置し、
 敵機の襲来に備え、
 少なくとも三機動部隊を出撃させなければならない。」

しかし、アリューシャン作戦で戦力は分断され、ミッドウェーには真珠湾作戦よりも二隻少ない四隻の空母での出撃となってしまっています。
ミッドウェー海域で、敵の機動部隊接近の報を得た山口中将は、すぐに各艦の艦載機を発進させるように南雲司令部に進言しました。
進言の時点で、各空母の攻撃機はミッドウェー空襲のために、陸用爆弾を抱いて装備していました。

船は魚雷でなくては沈みません。
しかし山口中将は、攻撃機の爆弾を魚雷に変える時間を惜しみます。
だからまず陸用爆弾で敵空母の甲板を破壊して動きを封じ、海戦の主導権を握るべきだと主張したのです。

すくなくとも敵空母の甲板に穴が空いたら、敵航空部隊は出撃できないのです。
仮に出撃していたとしても、敵航空機は、最早着陸することができない。
敵航空機は、燃料切れとともに海に没するしかなくなるのです。

しかし南雲艦隊司令部は、魚雷による攻撃と、護衛戦闘機の準備ができていない事を理由に、艦載機の発進を見合わせてしまいます。
これが仇になりました。
初動対応を遅らせてしまったのです。
敵に先手を許してしまう結果となりました。

午前七時すぎ、雲間から突如襲来した敵爆撃機によって、聯合艦隊は、瞬時に「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の3空母を失ってしまったのです。

7時10分、三空母が黒煙と焔を噴出したことを知った山口は、搭乗艦の「飛龍」から艦隊司令部に「全機今ヨリ発進、敵空母ヲ撃滅セントス」と電文を打ちます。
「飛龍」は、この時点で、奇跡的に無傷だったのです。

山口中将は、即座に第一次攻撃隊(艦爆18機、艦戦6)を発進させました。
このとき、搭乗員に向かって彼は次のように述べています。
「ひとつ体当たりのつもりでやってくれ。
 俺も後から行く」
すでにこの時点で、山口中将は死を決意していたのです。

第一次攻撃隊を発進させた山口中将は、護衛艦の到達もまたずに、空母「飛龍」を単独で爆走させました。
米空母をめざしたのです。
そして進撃しながら、艦隊司令部に、
「各損害空母には駆逐艦一を付け、
 主力部隊の方向に
 向かわしめられたく」
と要請しました。

この時点で、これは要請とというより命令です。
部下が上司に命令したのです。
カタチはどうあれ、この時点でもはや他に選択肢はないのです。
生き残った聯合艦隊は、飛龍のあとを追います。

9時10分、「飛龍」を発進した第一次攻撃隊が、敵空母「ヨークタウン」を発見しました。
敵空母からは猛烈な対空砲火があったけれど、第一次攻撃隊は砲火をかいくぐって爆弾を投下し、これを命中させています。

10時30分、山口中将の指揮する「飛龍」は第二次攻撃隊の雷撃機10、 艦戦6を発進させ、同時に第一次攻撃隊を収容しました。
このとき生還できた機は、発進した24機中、わずか6機でした。
いかに激戦であったかがわかります。

11時45分、第二時攻撃隊が敵空母に到達しました。
そして日頃の訓練の成果を遺憾なく発揮して、魚雷2本を命中させました。
山口は、これで二隻の敵空母をやっつけた、残りは空母一隻と判断します。

けれど実際には、第二次攻撃隊が魚雷を撃ち込んだのは、最初に爆撃を成功させた空母「ヨークタウン」だったのです。
つまり米空母はこの時点で、まだ二隻が無傷でした。

12時20分、山口中将は、司令官、第三次攻撃の実施を、夕方に延期することを決定します。
第二次攻撃隊の被害も大きく、残存の飛行機がほとんど底をついてしまっていたのです。
乗員の疲労も極限に達していました。

午後2時、疲れ果てた「飛龍」に、敵爆撃機13機が飛来します。
敵は、上空から、太陽を背にして急降下してきました。

このときの「飛龍」艦長、加来止男大佐の操艦は、歴史に残る名操艦といわれています。
「敵機来襲!」
と絶叫する見張員の声に、即座に回避運動に移り、
敵の爆弾をなんと7発まで躱(かわ)してしまったのです。

しかしそこまでででした。
見張員が叫び声をあげたのが2時1分、
そして2分後には4発の爆弾が「飛龍」に続けざまに命中したのです。

最初の命中弾は、前部の昇降機(飛行機を甲板に上げるエレベーター)にまともに当たりました。
昇降機をひきちぎって、空高く放り上げました。
そして舞い上がった昇降機が、艦橋の前面に激突します。
艦橋は、前面ガラスが粉みじんに割れ、その破片が山口司令官や加来艦長の頭上に降りそそぎました。

このため「飛龍」は、一時的に操艦不能になりました。
しかしエンジンは動いている。
機関部にいた船員たちは、次々と爆弾が着弾する中、必死の努力でエンジンを回し続けたのです。

「飛龍」は、走りつづけました。
しかし機関部に海水が流れ込む。
船員たちは、油まみれになって必死の努力で海水を掻い出すのだけれど、日暮れどきになって、ついに「飛龍」はエンジンが停止してしまいます。

海面が静かな月光に照らされていました。
海上は、夕凪で、波ひとつない静けさだったそうです。
その洋上を「飛龍」が漂っていました。

浸水がはじまり、艦が左に傾き始めました。
深夜になって、艦橋の艦長加来大佐は、側に立つ司令官山口多聞少将に、
「残念ながら、
 飛龍の運命も
 これまでと思います。
 総員退去の
 許可を求めます」
と申し出ました。

山口中将と加来大佐は、二人揃って、黙って飛行甲板の左舷部に降り立ちました。
そこはまだ火の手が回っていなかったのです。
そこには、汗と煤煙に汚れた800名の乗組員たちがいました。
彼ら乗組員たちは、山口中将と加来大佐を取り巻きました。

このときの様子を、当時飛龍飛行長だった川口益(すすむ)氏が語っています。

「月のせいで、そんなに暗くなかった。
 艦は30度くらい傾いていたのではなかったか。
 山口司令官の訣別の訓示は、
 『皆のお陰で、
  他の三空母(赤城、加賀、蒼龍)の分もやった。
  敵空母二隻と巡洋艦一隻をやっつけた
  (と、我々はそのときそう信じていた)
  どうもありがとう。
  しかし飛龍をみて分かるとおり
  内地に帰還するだけの力ははすでにない。
  艦長と自分は
  飛龍とともに沈んで責任をとる。
  戦争はこれからだ。
  皆生き残って、
  より強い海軍を作ってもらいたい」
 と訓示した。」

その場にいあわせた生存者全員が泣きました。
日本男子は声をあげて泣くことをしません。
人間、ほんとうに辛いときには、声など出して泣かないものです。
みんなが声もたてずに、ただただ涙をポロポロと流しました。
日頃は涙など決して見せない男たちが泣いていました。

そしてみんなで日本の方向を向きました。
山口長官の音頭で、万歳をとなえました。
そのあと、「飛龍」に高らかに掲げられていた軍艦旗と将旗を降ろし、退艦儀式を手順どおり進ませました。

主計兵曹がまず、御真影(天皇・皇后両陛下の額入りの写真)を背におぶり先頭にたちました。
そして、負傷者、搭乗員、艦内勤務者の順に退艦しました。
日本の駆逐艦二隻が接近してきて、短艇をくり出してくれました。

そのときです。
山口中将を師と慕う主席参謀伊藤清六中佐が、
「司令官!」
と大きな涙声で叫びました。
「何か頂く物はございませんか」
山口中将はふり向き、こんなときでもニヤリと笑ったそうです。
「これでも家族に届けてもらうかぁ」
そう言って頭にかぶっていた、黒の戦闘帽を脱ぎました。

伊藤中佐が受け取りました。
山口中将は、
「それをくれ」
と、彼が腰に下げていた手ぬぐいを指さしました。
空母が沈むとき浮き上がらぬよう、自分の体をどこかにくくりつけるつもりだったのでしょう。
でも本当は、みんながいなくなったあとに、涙をぬぐう手ぬぐいがほしかったのかもしれません。

日付が変わった6日午前2時、白煙を上げながら漂う「飛龍」に、駆逐艦「巻雲」から二本の魚雷が発射されました。

戦後、ハーマン・ウォークという作家が、「リメンバランス・オブ・ウォー」という本を書いています。
彼はこの本の中で、次のように書いています。

「ミッドウェー海戦で
 米国太平洋艦隊の航空母艦が失われれば、
 海上で日本軍の侵攻を止める術がなくなるから、
 陸軍の主力を西海岸に配置しなくてはならない。
 そのためヨーロッパや、北アフリカで
 イギリスを助ける力が弱まり、
 (中略)
 イギリスは絶体絶命となり、
 ヒトラーがヨーロッパの勝者になった
 可能性が高くなったであろう。」

ミッドウェー海戦は、なるほど日本の負けに終わったけれど、戦いはまさに伯仲の戦いだったのです。
もし、このとき日本が先に米海軍の機動部隊を発見していたら、海戦は日本の勝利に終わっていました。
戦闘が始まったとき、もし日本が陸上用爆弾を搭載したまま、敵空母を叩いていたら、日本が海戦に勝利していたことでしょう。

いやそれ以前に、もし日本が、真珠湾で米国のハワイ軍事基地を補給基地ごと叩き、さらに敵空母を壊滅させていたら、ミッドウェーは日本の完全勝利に終わったことでしょう。
ミッドウェーは、それほどまでに伯仲した戦いだったのです。
山口多聞中将は、当時もいまもこれからも、世界の海軍史上に名を残す名提督です。

享年49歳。
そんな提督がいた帝国海軍を、私はとても誇りに思います。

ところで戦後に秘匿された歴史の真実のひとつに、実はこの戦いで、米軍の哨戒機を、日本の哨戒機が先に発見していたという事実があります。
米軍の哨戒機が飛んでいるということは、近くに空母がいる、米艦隊がいる、ということです。
そのことをすぐに日本の哨戒機が、ちゃんと通報していたら、その時点で日本は先に戦闘配備を済ませ、ミッドウェーに100%の確率で勝利していたであろうといわれています。

ところが歴史はそうは動きませんでした。
米軍哨戒機を発見した日本機のパイロットは、その発見の報告を握りつぶしてしまったのです。
戦後そのときのパイロットは、名前を変え、航空自衛隊の幹部になりました。
それを見つけたある元パイロットが、本人の胸ぐらをつかんで問いただし、事実が明らかになりました。

なぜそのときの日本のパイロットは、報告を握りつぶしたのでしょう。
彼は帰隊したあと、米軍の哨戒機を見つけながら、それを撃ち落とさなかったことで責任を問われることが怖かったと白状したそうです。
しかしそのために、多くの日本兵が犠牲になりました。
そしてミッドウェーの敗戦によって、日本は制海権を失い、大東亜の敗戦に至っています。

ときどき思うのです。
真珠湾でもし、日本が米軍の施設の徹底した破壊を行い、そのまま真珠湾に上陸してそこを占領していたら、その後の歴史はどう変わっていたのだろうかと。
もし、ミッドウェーで、そのパイロットが、勇気をもって早期の報告をし、日本がミッドウェーに勝っていたら、その後の歴史はどのように変化していったのだろうかと。

神々のご意思は、人の身では計り知れないものです。
ただ、よく言われることですが、戦前の日本はたしかにいっぱい良いところがあったし、とてもつもなく強かったけれど、どこかで日本が、あるいは多数、もしくはほんのひとにぎりの日本人に、謙虚さを欠き、他の諸国の人々を見下す弊はなかったといいきれるだろうか。

そしてまた、もし仮に先の大戦で日本が勝っていたとするならば、そのことが日本にとっての成功体験となってしまったのではないか。
明治維新から大東亜の終戦まで、わずか80年です。
そのわずか80年の間に、戊辰戦争、西南戦争、佐賀の乱、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第一次上海事変、第二次上海事変、日支事変、満州事変、大東亜戦争と、日本は11回もの戦争を繰り返しています。
その日本が先の大戦に勝利したとき、果たして戦後の70年間の平和は、日本に訪れたでしょうか。

戦後が良いと言っているのではありません。
戦前の良いところはたくさんあります。
けれど、戦後の良いところもまた、たくさんあるのです。
その良いところを組み合わせて、もっと良い未来を築いていくことが、今を生きる私達に課せられた使命だと思うのです。

※この記事は、2010年3月の記事のリニューアルです。

お読みいただき、ありがとうございました。

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コメント
No title
よく言われる帝国海軍の人事の硬直化は本来航空には航空専門の将官を司令官とするべきところ、水雷専門の南雲中将が年功序列の人事により機動部隊司令官になったと。適材適所、餅は餅屋の言葉があるように柔軟性をもった人事であればまた違った結果になったことでしょう。

ルーズベルト大統領による参戦意図についてはどなたかが仰っているように日本を追い詰めたものという話も近年は米国においても話があるようです。FDR政権の前の共和党政権だったフーバー元大統領はルーズベルトこそ戦争を進めた狂気の人物と発言していたようですね。やはり歴史というものは注意深く学び取るものだという感を強くいたします。

昨日6/12の米朝会談に行く末に本当に平和な未来があるのかどうか予断を許さないと思うのが当たり前の感覚と思います。北朝鮮は20年以上に渡り何度も条約を破り国際社会を欺き支援のみ得てきた国であり簡単に信用できるものではありません。私達日本国民は平和な日々が当たり前ではないことを肝に銘じておく必要があると思います。

我が国は日本海を挟んで隣に位置し韓国や中国とて我が国と真の信頼関係がある国ではありませんからさらに注意深くする必要があります。
今この時代に山口多聞中将のような方々が日本の防衛を担って居たらどんなに心強いだろうかとは思いますが仕方がありません。
今の日本を未来の日本国民から預かっておる現代日本国民一人一人がしっかりと自覚をもって日々暮らして行くことが大事と思います。
2018/06/13(水) 19:17 | URL | 一有権者 #-[ 編集]
No title
ねず先生
ミッドウェー海戦が日米戦争の分岐点というのは理解していました。しかし、
哨戒機の発見について、日本のほうが先というのは、本日、はじめて知りました。小学生のころ、ミッドウェー海戦に参戦した空母のプラモデルに熱中し、
なぜ偉大な海軍が負けてしまったのか、残念で仕方が無かった記憶が蘇りました。大人になって靖国の博物館に赴き、戦時の軍服等を見る限り、日本人の小柄
な体躯にも驚かされ、物量で圧倒的な米国に立ち向かったことに更に驚かされま
した。今は、唯々、英霊の皆様に感謝があるのみです。
記事の掲載ありがとうございました。
2018/06/11(月) 19:12 | URL | 774 #-[ 編集]
失礼、タイポです。
>真珠湾以前は大多数のアメリカ国民が賛成に大反対だったのに

読んで戴けばわかるかとも思いますが、

真珠湾以前は大多数のアメリカ国民が参戦に大反対だったのに
(「賛成」ではなく「参戦」)
のタイポです。
失礼いたしました!

尚、当時はその判断で致し方なかったのかもしれませんが
山口中将にこそ、日本に生還していただいて
その後も活躍していただきたかったと思ったのは
私一人ではないでしょう。
2018/06/07(木) 15:38 | URL | 千早 #onZghF5A[ 編集]
ルーズベルトに関する記述は
ねずさんのブログからは色々教えて戴くこともあり
時折お邪魔しては拝読させて戴いていますが
ルーズベルト(FDR)に関する記述には賛同いたしかねますので、コメントします。

公開された米国の機密文書を17年余調べ上げたあとに米海軍兵士だった
ロバート・スティネットが著した"Day of Deceit"(和訳本あり)を読めば
http://insidejobjp.blogspot.com/2016/12/75.html
真珠湾攻撃は、米国が「事前に暗号を解読していた」どころではなく、
ルーズベルトの命によって「日本が先制攻撃をするよう」に追い詰めた結果であり
選挙戦中に「母親たちよ、私は決してあなたの息子や娘をこの戦争には送らない」
と言って大統領になったFDRが、参戦するための口実として利用した、つまり
完全に仕組まれた動きだったのです。

しかも日本の艦船の動向を全て把握していたにもかかわらず、そうした情報を
ハワイの米軍トップには一切伝えず、意図的に奇襲攻撃を起こさせ、成功させ
甚大な被害をわざともたらすように仕向けた結果が真珠湾です。

被害が甚大であるからこそ、”Remember Pearl Harbor!”のスローガンが
最大限に生きて、真珠湾以前は大多数のアメリカ国民が賛成に大反対だったのに
あの一件で、一夜にして大逆転したのです。

一般市民の心理を巧妙に利用・悪用するのは洋の東西を問わず
どこの似非政府も恒常的にやっていることです。
http://insidejobjp.blogspot.com/2012/12/blog-post.html

米軍の爆破解体専門チームが世界貿易センターの南北タワーと第7ビルを崩壊させ
“ビン・ラディン率いるアラブのテロリストの仕業だ”と大嘘をついて、その後も
ずっと、全く虚構の対テロ戦争を展開している現在の米国と同じなのです。
#自国民の犠牲など、屁とも思っていない。

だからこそ、その9/11の一年前にラムズフェルド、チェイニー等が
“New American Century”文書に「新たな真珠湾が必要だ」と書いたのです。
真珠湾が、上述した通りの まさに仕組まれた罠だったと同様に
少しでも事実を調べれば明白なヤラセであった 9/11 同時多発テロを<演じた>
ということです。

スティネットの同書、是非ご一読ください。
それからラベンダーさんが書いていた「宣戦布告文書が遅れた本当の理由」
知りたいですね。

私は日本大使館にスパイがいて、わざと遅らせたと思っています。
米国民に対し、日本をより一層卑怯な国に見せるために
2018/06/07(木) 14:52 | URL | 千早 #onZghF5A[ 編集]
日本の歴史を再発見することが大切です。。。
 明治以降の個人主義の蔓延により大東亜戦争では負け戦になったと思います。
日清・日露戦争では薄氷を踏む思いで戦いました。世界は言うに及ばず日本国内でも勝ちを予想した人は軍人にはいなかったのではないでしょうか?それほどの国力差や軍事力に差がありました。
 しかし陸軍も海軍の人達も全員がそれこそ火達磨になって戦ったわけです。“もし”という何か一つでも起こっていたら負けていたと思われます。
 一方、大東亜戦争では山本大将や南雲中将の戦略・戦術ミスだけではなく、アメリカ大使館員の宣戦布告問題、お話にある哨戒パイロット、陸軍と海軍での装備のサイズ違いによる融通性のなさ等々“もしだらけなのです”すべてが国家よりも海軍とか陸軍とかの組織優先、自分の立ち居地優先、人事の年功秩序優先等々本学よりも末学を優先する本末転倒の教育で育った日本の組織が敗戦を招いたと言えると思います。
 いまこそ日本の歴史に学び、かつて私達の祖先・先輩たち日本人が如何にすばらしい貢献を世界的に実現したのか(世界から植民地はなくなった)若い世代に伝承していかねばなりません。

追伸:去る海軍記念日の日に中学生4人が靖国神社で海軍の慰霊碑を参拝していた旨、虎の門ニュースで井上和夫さんが紹介していました。

2018/06/06(水) 13:16 | URL | 日本を愛する日本人から一言・・・ #bvoP3EXo[ 編集]
ねず先生

まるで映画を見るような臨場感溢れるお話を、ありがとうございました。

8年前に、こちらの山口多聞中将のブログを読み、ずっと考えています。資料を読んだり、講演会にも行きました。

そして、また今日のブログを読ませていただきまして、さらに深く考えさせられました。

こちらの一文です。

***

一方、読みが外れて困りきったルーズベルトは、まったく異なるへ理屈を持ち出しました。
それが「リメンバー、パールハーバー」です。
「侵略されて反撃するのは正当な戦争行為」という、世界の常識を持ち出したのです。
つまり後講釈です。

***

この部分も、後講釈ができるためのあらゆる工作をルーズベルトはしていたのです。

今では、宣戦布告文書が遅れた本当の理由も平間洋一先生が発表されています。

今日のブログを読んで、やはり確信しました。

明治維新による弊害の魔が、この時の軍の上層部、マスコミを侵していた、なので勝ち戦であるはずのパールハーバーで、山口中将の意見も却下されてしまったのではないかと。
戦艦に祀られた神様も、ともに戦ってくださいました。
しかし、敗戦し日本的価値観や信仰が分断されてしまいました。
それを再興し、後世に語り伝え、この場面を今後に生かし、必ず勝利することが、山口中将や神々の願いなのだと思います。

これからも、素晴らしいブログをよろしくお願い申し上げます。
2018/06/06(水) 10:55 | URL | ラベンダー #MMIYU.WA[ 編集]
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ねずさんのプロフィール

小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず

Author:小名木善行(おなぎぜんこう) HN:ねず
連絡先: nezu3344@gmail.com
執筆活動を中心に、私塾である「倭塾」、「百人一首塾」を運営。
またインターネット上でブログ「ねずさんのひとりごと」を毎日配信。他に「ねずさんのメールマガジン」を発行している。
動画では、CGSで「ねずさんのふたりごと」や「Hirameki.TV」に出演して「奇跡の将軍樋口季一郎」、「古事記から読み解く経営の真髄」などを発表し、またDVDでは「ねずさんの目からウロコの日本の歴史」、「正しい歴史に学ぶすばらしい国日本」などが発売配布されている。
小名木善行事務所 所長
倭塾 塾長。

日本の心を伝える会代表
日本史検定講座講師&教務。
(著書)

『ねずさんの昔も今もすごいぞ日本人』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!和と結いの心と対等意識』

『ねずさんの 昔も今もすごいぞ日本人!日本はなぜ戦ったのか』

『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』日本図書館協会推薦

『ねずさんと語る古事記 壱〜序文、創生の神々、伊耶那岐と伊耶那美』
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