ところが歌から受ける印象は、素人目にも全然異なるものがあります。
まず語句を解釈してみると、
「わたの原」の「わた」というのは大海の古称です。
それが原のように広がっているということですから、この場合、あきらかに大海原を指しています。
その大海原に「漕ぎ出でぬ」です。
「ぬ」は完了の助動詞ですから、「漕ぎ出したのだ」と続くわけです。
しかもそれが「八十島(やそしま)かけて」です。
八十島の八十(やそ)は、「八」が霊数で「たくさんの」という意味、その「たくさん」が10個もあるわけですから、これはもう、数え切れないくらいたくさんのという意味の言葉です。
その「島」ですから、まさに数えきれないくらたくさんの島々というわけで、その島々を「かけて」です。
「かけて」というのは、駆けぬけるとか、目指してといった意味がありますから、たくさんの島々をめがけて駆け抜けるわけです。
つまり「数え切れないくらいたくさんの島々をめがけて駆け抜けようと大海原に漕ぎ出した」のです。
そしてそのことを「人には告げよ」と言っています。
「告げよ」ですから、これは命令です。
誰に向かって命令しているのかといえば、「あまの釣船(つりふね)」です。
船頭さんではなくて、釣り船に命令しています。
しかもその釣船は「あまの」釣船です。
「あまの」は、海人(あま)を意味すると訳されることが多いのですが、「あま」は天空の一間を意味します。
つまり、天朝様の船のことを、そんなものは気楽な趣味の釣り船のようなものだ、と言っているわけです。
要するに、天朝様が命じて出港する船に向かって、参議篁は、「そんな船は気楽な釣船にすぎないぜ、オイラは数え切れないくらいたくさんの島々をめがけて大海原に漕ぎ出したとでも伝えときな!」と詠んでいるわけです。
なよなよしているどころか、むしろ雄々しい歌に見えます。
実際、歌から感じる言霊(ことだま)も、実感として「なよなよ」よりも、気宇壮大な雄々しさではないでしょうか。
だからこそこの歌は、古来、多くの人の心をとらえた歌になっていたのだと思います。
そもそも「大海原に向けて漕ぎ出す」しかも「八十島を駆け抜けて」という言葉から、なよなよとした女々しさを感じなさいという方が、土台、無理があるように感じるのですが、みなさんはいかがでしょうか。
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり舟
そもそも百人一首に参議篁(参議(さんぎ)は職名、篁(たかむら)は名)とありますが、名前は小野篁(おののたかむら)です。
生まれが802年、死没が853年です。
平安時代前期の公卿・文人で、従三位の参議ということですから、まさに高位高官だった人です。
ところが『前賢故実』によれば、小野篁は「野相公、野宰相、野狂」と異名を取るほどの反骨精神の持ち主であったとあります。
そこで小野篁の生涯を振り返ってみますと、13歳の頃、陸奥守に任ぜられた父・岑守(みねもり)に従って陸奥国へ赴きました。
奥州は弓馬の盛んなところです。
小野篁は、まさに弓馬に夢中になります。
父は漢詩に優れ侍読を務めるほどだったのですが、篁は帰京後も学問をせずに弓馬ばかりに夢中になっていたために、嵯峨天皇が「岑守の子なのにどうして弓馬の士になってしまったのか」嘆かれたのだそうです。
いまでいうなら、東大医学部の学部長を務めるほどの英才の息子に生まれ、頭も良くて将来を嘱望されながら、中校生になると野球やサッカーに夢中になり、まるで勉強をしなくなって、成績もビリにあって、このままでは大学進学も覚束ない・・みたいな状態になって、それを天皇が心配してくださったというわけです。
これを聞いた篁は恥じて悔い改め、そこから学問を志し、なんと弘仁13年(822年)には二十歳で文章生試に及第しています。
これも今風に言えば、東大医学部を現役で首席で合格したようなものです。
こうして武芸だけでなく、学問においても優秀な成績をのこした小野篁は、天長元年(824年)に巡察弾正(だんじょう)に任ぜられます。
弾正というのは、正義によって権力を監視するという天皇直下の機構である弾正台の職員です。
この弾正台は、一般の庶民向けに機能することはありませんが、権力を持つ高官にとっては、きわめて恐ろしい役所です。
ひとむかしまえに、シルベスター・スタローンの映画で『ジャッジ・トレット』という娯楽映画があり、この映画の中でスタローンは、逮捕した犯罪者をその場で裁判・判決・刑執行を行える権限を持った司法官を演じていましたが、まさに政治権力者に限定して、これと同じ権限を付されていたのが、実は弾正台であったわけです。
その弾正台に採用になった小野篁は、なんとその年のうちには弾正少忠(だんじょうしょうちゅう)に昇格しています。
弾正台は、トップが「尹(かみ)」で、ナンバーツーが「大弼(だいすけ)」、ナンバースリーが「少弼(しょうひつ)」、次が「大忠(だいちゅう)」、その下が「少忠(しょうちゅう)」ですが、要するに本省の課長級にいきなり出世しているわけです。
そして天長10年(833年)に仁明天皇が即位されたときには、31歳で局長クラスの「弾正少弼」に昇格しています。
そしてこの年、小野篁は、弾正台の弾正少弼と兼任で皇太子である恒貞親王の東宮学士に任ぜられています。
どれだけ優秀な人物であったかということです。
またこの年に完成した『令義解(りょうのぎげ)』の編纂に参画して、その序文の執筆も任されています。
まさに当時の朝廷にあって、エリート中のエリートであったわけです。
しかも弾正という役職は、天皇を護り正義を貫く御役目です。
ですから弾正の家柄になった者は、法を正義とするのではなく、法を超えて正義を貫きます。
つまり世の不条理を正すことが仕事なのですから、法で対応しきれない問題に対しても行動を起こします。
我が国の歴史上、弾正台が活躍した事例がまったくないため、弾正台そのものが有名無実の名前だけの存在であるかのように言う先生もいますが、そうではなくて、我が国では弾正台が出張(でば)ることがないほど、弾正台がしっかりとした重石となって監督機能を果たしていたから、弾正台が出動しなければならない事態が起きなかったのです。
この弾正が活躍したのは、歴史上ではたった一度だけです。
織田弾正信長が、桶狭間で今川義元を討った、事例です。
織田家というのは、もともと弾正の家柄で、弾正であったことが誇りとなっている家系です。
その惣領(そうりょう)の信長にとっても、これは誇りであり、また織田家一門の誇りでもあったのですが、その織田家のいる尾張を今川義元が征夷大将軍の地位を目指して通ろうとしたわけです。
ところが今川家というのは、足利将軍家の親族の家格で、足利家の御一家である吉良家の分家です。
ですから本人の自覚としては、「足利将軍家が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ」と言われていたほどで、権勢もあり、次は我が将軍だという意思もあったようですが、要するに源氏の嫡流でもなく、足利家の分家の分家です。
しかも当時の織田家と今川家では、国力があまりにも違いすぎます。
ですから完全武装して尾張を踏破しようとする今川義元に信長が挑むということは、いわばダンプカーに、原チャリで挑むようなものです。
単に力関係だけを言うのなら、信長にとっては、むしろ今川義元に頭を下げて味方して傘下に入ったほうが、はるかに安全です。
それでも信長が戦うことを選択したのは、織田家が弾正の家柄だからです。
弾正家という誇りが、織田の版図にある吉良家を差し置いて上洛して将軍職を求めるという義元を許すことができない。
これは単に信長ひとりの意思ということではなく、弾正家である織田の一門の誇りの問題です。
義元の行動を認められるならば、力さえあれば何をやって許されるという時代を認めることになる。
だから弾正である信長は戦わなければならなかったのです。
話が脱線しましたが、それほどまでに弾正というのは、古来、誇り高い役職だったのです。
そして小野篁は、その弾正台の、現役の局長(弾正少弼)にまでなった男です。
その小野篁は、33歳のとき、遣唐副使に任ぜられると、翌年と翌々年に、二度に渡って遣唐使としての出発を行っています。
もっとも、二回とも渡唐は失敗に終わっています。
ここで小野篁が、遣唐副使に選ばれたという点も注意が必要です。
当時の日本人は、Chinaの人たちからは「倭」と呼ばれていました。
「倭」という漢字は、背の低い人、小さな人を意味する漢字です。
戦時中の山本五十六や、鈴木貫太郎などの軍服を見ると、いまの女子中学生くらいの体格しかなかったことがわかりますが、当時でもだいたい日本人の男子の平均身長は5尺、つまり150cmくらいでした。
女子はもっと低くて4尺7寸、つまり140cmくらいです。
もっと古い、魏志倭人伝や漢書、梁書などの時代には、倭人の平均身長は4尺と書かれています。
つまり120cmくらいしかなかったわけで、かなり小柄であったわけです。
それでChineseたちに舐められたらいけないということで、遣隋使、遣唐使の使節として乗船する男子は背が高い者だけが選ばれました。
また使節員たちは、頭が良くて、顔も良く、礼儀作法のしっかりとした青年が選ばれています。
つまり、当時の日本は、倭人=背が低い蛮夷というイメージの払拭に勤めていたわけです。
そうした時代にあって小野篁は、学問もできるし、弓馬の達人です。
そして遣唐副使に選ばれたということは、背も高くて、イケメンであったということがわかります。
いまで言ったら、身長180cm、イケメンで、東大出で、スポーツ万能で武道家、しかも性格良好で、礼儀正しい人物が、小野篁であったわけです。
そんな小野篁ですが、承和5年(838年)36歳で三度目の航海に出ようとしたとき、遣唐大使の藤原常嗣の座乗する第一船が損傷して浸水し、出港できなくなってしまいます。
常嗣は、小野篁が乗る第二船を第一船にして、そこに乗り込もうとするのですが、これに対して小野篁は猛然と抗議しました。
「己の遣唐使としての利得のために
他人(小野篁)に損害を押し付けるような
道理に逆らった方法がまかり通るなら、
面目なくてオレは部下を率いることなど
到底できない」
というわけです。
これは、いってみれば、戦艦大和を旗艦、武蔵を副艦としてミッドウェーの海戦に出撃しようとしたら、大和の館長の不手際で大和が故障したので、大和の全乗組員を艦長ごと武蔵に乗せろと言ってきたようなものです。
武蔵の艦長としては、これは到底容認できることではありませんから、この場合、小野篁の理屈に理があります。
それでも出発しなければならないからと、強引に船の明け渡しを迫る藤原常嗣に小野篁は、
「オレは病気持ちだし、
先年亡くなった父に代わって
老母の世話をしなければならない」
として、ついには副使として遣唐使に出ること自体を拒否しました。
結果、遣唐使は、小野篁を残して6月に出発しています。
ところがこの出発の後、小野篁は『西道謡』という遣唐使の派遣を風刺する漢詩を書き、そもそもいまさら何の学びも、得るところもない遣唐使などを出していること自体が大きな間違いなのだ公然とうそぶいたわけです。
当時上皇となっていた嵯峨上皇は、この漢詩を読んで激怒しました。
遣唐使は仮にもミカドの使節団です。
これを軽んじるとは何事か、というわけです。
そこで小野篁の罪状が審議されることになり、その結果、同年12月に小野篁は官位剥奪の上、隠岐の島に流罪になってしまいます。
そしてこの流罪となったときに詠んだ歌が、冒頭にある百人一首に収蔵された、
わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと
人には告げよ海人の釣船
であるわけです。
だからこの歌は、「これから島流しになる寂寥感の歌だ」と言われるわけですが、そこでちょっと待っていただきたいのです。
歌に「八十島(やそしま)」とあります。
実は「八十島」というのは、この時代「大八島(おおやしま)」の別称です。
小野篁が48歳のとき(850年)、文徳天皇がご即位されるのですが、実はこの文徳天皇の時代から、「八十島祭(やそしままつり)」という祭祀が始まっています。
これは天皇の即位儀礼の一環として難波津で行なわれた祭祀で、平安時代から鎌倉時代にかけて22回行われ、現在は廃絶している儀式です。
このことから、この時代に「八十島」という用語が一般用語として定着していたことがわかります。
そして小野篁は、802年に生まれて852年に50歳で没するのですが、この歌は36歳の頃の作品です。
つまり「八十島」という語が現役で活躍していた時代の作品ということになります。
その「八十島」は、一般には「大八島」のことであるとされます。
「大八島」は日本列島のこととされています。
ところがもうひとつ、この時代の感覚としての「大八島」は、地球上の全世界を示す語感を持つ言葉という意味合いがあります。
ずっと後世になりますが、江戸時代においてもクニといえば藩のことで、これはいまの都道府県を意味します。
日本全体のことは「天下」と呼ばれていました。
ところがここでいう「天下」という語の語感も、地上界のすべてですから、いまでいうなら「世界」です。
問題は「八十島」という語が、「大八島」が「十」集まったという語になっていることです。
上にも述べましたが、「八」は霊数で「たくさんの」、それが十個あるわけですから、数え切れないくらいたくさんの島々を意味した語句です。
つまり「八十島かけて漕ぎいでぬ」とは、
「俺は世界に向けて漕ぎ出して行くぜ」
という気宇壮大を示した実に男らしい表現として読むことができるのです。
そしてさらにいうと・・・と、ここからが面白いのですが、日本列島の形はそのまま世界の五大陸の形をしています(下図)。

(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。そして「八十島」が「大八島」が十個集まったほどのたくさんの島々とするならば、日本列島だけなら、島の数は数え切れるわけです。
けれど地球上のすべての島々となると数え切れませんから、まさに「八十島」になるわけです。
そして島といえば、実は魏志倭人伝や、後漢書、梁書などにおもしろい記述があります。
以下に該当の部分をご紹介ます。
****
魏志倭人伝(『三国志』魏書烏丸鮮卑東夷伝 第三十倭)
「去女王 四千餘里 又有裸国・黒歯国。復在其東南船行一年」
女王の国から4000余里に裸国・黒歯国あり。東南に船で一年で着く。
後漢書(『後漢書』東夷列傳第七十五倭)
「自女王国南四千餘里至朱儒国人長三四尺
自朱儒東南行船一年 至裸国 黒歯国 使驛所傳 極於此矣」
女王国よ俊南匹千余里、朱(像)儒国に至る。また国あり。皆、倭種なり。人の背三、四尺。
保儒国より東南、船を行くこと一年、裸国・黒歯国に至るべし。
使訳の伝うるところ、ここに極まる。
梁書(卷五十四 列傳第四十八 諸夷傳 東夷条 倭)
「其南有侏儒国 人長三四尺 又南黒歯国 裸国 去倭四千餘里 船行可一年至」
南に小人国がありその南に黒歯国がある。倭から4000余里。船で1年で着く。
****
東南へ船で1年かけて進めば、たどり着くのは必然的に南米西海岸になります。
琉球・サイパン、グアム、ソロモンあたりまで島伝いに進むと、赤道潮流にあたります。
この海流はソロモン諸島あたりから赤道の下を南米に向けて進むのです。
ですからサモア・マルケサス・タヒチの諸島を経て、自然とペルーかエクアドルあたりに到着できるのです。
ポリネシア諸島に人がぼちぼち移り住み始めたのは、ほとんどが紀元後のことですから、多くの島々は無人島であったでしょうし、そうであれば異民族接触による深刻な闘争も起こりません。
そして「船行1年」とは、直行ではなく、島伝いに短期間の生活しながら進むという意味であると考えられます。
海洋学の茂在寅男博士(東京商船大学名誉教授)によれば、
「ヨットや帆つきカヌーでも潮流にまかせれば約1年で大平洋は走破できる」
「ミクロネシアにある大型のアウトリガーつきの双胴船は非常に安定していて、かなり離れた島から島への
民族移動は可能だった」
のだそうです。
実例として、天保12(1841)年10月、愛知県知多半島の漁民31人が難破し、6ケ月目後にペルーに着いた記録があります。
漂流しながらも全員が無事だったのは、途中で魚を釣り、雨水を貯めて飲料に用いていたからで、全員無事に生還しています。
また昭和37年8月23歳の堀江健一さんがヨット「マーメード号」で太平洋横断に成功してニュースになりました。
大阪の西宮を出て93日ぶりにサンフランシスコ入港していますが、このときはちょうど3カ月の航海でした。
この航海の模様を出版した本は、石原慎太郎主演の映画『太平洋ひとりぼつち』として大ヒットしています。
ちなみに戻りの航海は、亜熱帯循環海流を用いると、太平洋の赤道の北側あたりをまっすに日本に戻ってくることが可能です。
さて、そのエクアドルですが、エクアドルのバルデヴィア遺跡から出土する土偶は、裸体で歯が黒く、ひたいに刺青があります。
つまり「裸国、黒歯国」はここだったのかもしれません。
ここには現代もその末裔たちが生存しています。
また、南米西岸の深いジャングルには、全裸で暮らすパサードス裸族などがいます。
カヤパス族は、歯の健康のため「ウィトの木の実」で、歯を黒く染める風習を保つています。
このウィトの実ですが、超強力な黒色染料で以前テレ朝のディレクターが大変なことになったことがありました。

江戸期、日本の既婚女性はお歯黒をしていましたが、未婚の間は白い歯が美女の要件ですが、既婚になれば、こんどはいかに歳をとっても歯を丈夫に保つかが健康のための課題になります。
お歯黒の習慣が、そこから生まれたとするならば、カヤパス族などがウィトの実で歯を黒く染める習慣が、つまり裸国、黒歯国の歯を丈夫に保つための習慣が、同じ倭種の習俗として日本に伝わったと考えれば、これまた十分に納得ができるものとなります。
そもそも関東地方の後期旧石器時代3万8千年前の遺跡から、舟を使わないと往来できない伊豆諸島の神津島産の黒曜石が発見されています。
つまり3万8千年前には、船で神津島まで往来する技術を日本人は持っていたのです。
3万8千年前というのはとほうもない昔です。
明治維新から現代まで、まだたったの150年なのです。
また茂在寅男博士の論のなかに「ミクロネシアにある大型のアウトリガーつきの双胴船」のお話が出ていますが、これについて、日本書紀と古事記にも実は記述があります。
******
『日本書紀』履中紀。
三年冬十一月六日、天皇は二股船を磐余(いわお)の市磯池に浮かべられ、妃とそれぞれの船に分乗して遊ばれた。
『古事記』垂仁紀。
尾張の相津の二俣の杉で二俣の小舟を作り、大和の市師で軽(かる)を池に浮かべて遊びましき。
******
という語が出てきます。
二股船というのは、どうみてもアウトリガー付きの船です。
「軽(かる)」というのは、カヌーのことを漢字で表記したと考えると、文意が通ります。
要するに、アウトリガー付の双胴型のカヌーが、この時代に広く用いられていた可能性は否定できないものともいえるわけです。
アウトリガー付双胴船(モアナと伝説の海より)

さらにまた、先般、神谷宗幣さんがペルーを視察訪問した際、現地のガイドさんだったペルーのアイマラ族の女性は、
「ペルー人は、日本からやってきた民族だと言い伝えられてきた」
と述べられたのだそうです。
つまり倭人たちは、まさに太平洋を縦横に航海する、まさに海洋民族であったともいえるわけです。
そしてそのことを、魏志倭人伝や後漢書、梁書などが、「水行一年でたどり着く裸国、黒歯国は倭国の一部である」という記述をしているわけです。
そしてそのことは、実は、奈良平安期には、常識であったかもしれないのです。
というのは、紫式部の『源氏物語』に、この「黒歯国」が登場するのです。
「末摘花の脚注」ですが、次のように記されています。
「歯黒、山海経云 東海有黒歯国。其俗婦人歯志黒染」
(歯黒とは
山海経に云う東海にあるという黒歯国で
婦人が歯を黒く染める習俗のこと)
この短い一文から、まず「歯黒」という習俗が、平安中期にはまだ日本では行われていなかったことがわかります。
その一方で「東海にある黒歯国」は、教養人の間では常識として知られていたこともうかがえます。
ではなぜ魏志倭人伝や後漢書、梁書、山海経などが述べている「裸国。黒歯国」が倭国の一部から外れるという結果になったのでしょうか。
これについては、推論ではありますが、大化の改新が非常に大きく影響していると思います。
大化の改新前まで、我が国は豪族たちのゆるやかな連合体となっていました。
豪族ごとに言葉も文字も違うわけです。
万年単位で続く古い国ですから、このような状況が起こります。
ところが白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗退し、さらに唐と新羅が、海を越えて日本に攻め込んでくるという脅威がありました。
そこで我が国は、なんとしても統一国家を形成していかなればならないということで、大化の改新が行われ、律令が敷かれ、全国に中央の朝廷から国司が派遣されることになったのです。
しかし、では海を水行一年で渡った先の倭種はどうするのでしょうか。
国司を派遣しようにも、その国司が安全に裸国や黒歯国までたどりつける保証はないのです。
しかも行き先は裸国で、素裸で暮らすというわけです。
国司の奥方や娘さんは、果たしてどのように言ったでしょうか。
また、律令体制は、そもそもが外国からの軍事的脅威への備えが発端です。
水行一年の先の国では、いざというときに、兵を提供してもらうわけにもいかないことでしょう。
そういうわけで、遠い昔から、同じ倭種の国とされていた裸国や黒歯国は、律令制度の制定の後は、日本ではない倭種の国という扱いになっていったのであろうと思われます。
このような次第で、小野篁の時代には、おそらく裸国や黒歯国は、小野篁クラスの教養人の間では、十分に知られた存在であったろうし、だからこそ小野篁は、
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと
人には告げよ あまのつり舟
という歌の中で、
「遣唐使の船なんていうものは、
気楽ないわば釣船にすぎない。
俺なら東海に浮かぶ、
数え切れないくらい
たくさんの島々をめがけて
大海原に漕ぎ出すぜ。
そう都人(みやこびと)たちに
伝えときな!」
と、いかにも野相公、野宰相と呼ばれた野人らしい、そして弾正の誇り高い、まさしく小野篁らしい歌を、配流の際に詠んだのだといえるのだと思います。
平安時代の貴族というと、なにやら和歌ばかり詠んでいたひ弱で線の弱い人達で、身分にあぐらをかいて民衆から収奪を重ねながら、男女関係にばかりうつつをぬかしていただけの、まるでろくでなしであるかのような印象操作の歴史観が蔓延していますが、ぜんぜんそんなことはありません。
今も昔も、日本人は日本人だし、日本男児の大和魂を背負って生きてきたことは、民衆も貴族も武家も、なんらかわることはないのです。
むしろ小野篁からみたら、酔ったような解釈しかできず、小さな日本国内にしか思考の出来ないでいる現代日本人の方が、はるかにちいさくなっているのかもしれません。
お読みいただき、ありがとうございました。

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