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古事記を読むに際して必要なことは、どこまでも先人の知恵に学ぶという姿勢であろうと思います。
そして今回のこの段での学びは、
「何事も『ひ』が上である」
という点です。
絵:紙芝居・古事記(文・神谷宗幣)より
(画像はクリックすると、お借りした当該画像の元ページに飛ぶようにしています。
画像は単なるイメージで本編とは関係のないものです。)七五読み古事記をお届けします。
日本語は言霊の言語ですから、いっけんむつかしそうな古事記の漢字文も、七五調で声に出して読むと、その意味がストンと腑(ふ)に落ちます。
前回は伊耶那岐(いさなき)と伊耶那美(いさなみ)の「成り成りて」の会話をお届けしましたので、今回はその続きをヒルコまで読んでいきます。最新動画《江戸の天才数学者 関孝和》『ねずさんのひとりごとメールマガジン』
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<七五読み古事記>
かくごときに きめてのりては
如此之期乃詔
なはみぎに まわりあえ
「汝者自右廻逢
あはひだりより まわりあふ
我者自左廻逢」
イザナキがイザナミに、
「お前は神との交信施設である天御柱(あめのみはしら)を右から回りなさい。私は左から回ろう」
と述べています。
大和言葉では、ひだりの「ひ」は「霊(ひ)」を意味し、みぎの「み」は「身」を意味します。
そして何事も、霊が上、身が下です。
女性であるイザナミは、肉体をもって子を生みますから、身を意味する右回りになります。
男性であるイザナキは、神々の命(みこと)を得るために「ひ」を意味する左から天御柱を回ります。
ちぎりをおへて まわるとき
約竟廻時
いざなみみこと まずいわく
伊耶那美命、先言
あなにやし えおとこを
「阿那迩夜志愛(上)袁登古袁(此十字以音、下効此)」
のちにいざなき みこといわくは
後伊耶那岐命言
あなにやし えをとめを
「阿那迩夜志愛(上)袁登売袁」
前段のように約束事を取り決めて、実際に二神は天の御柱をお回りになられます。
そして天御柱を回り終えて出会ったところで、イザナミが
「ああ、良い男であろうか」
と声をかけます。
その後に男性であるイザナキが
「ああ、良い乙女であろうか」
と互いに言葉を交わします。
まず天御柱は、創生の神々に通じる神々との交信施設ですから、これを回るという儀式は、いまでいう婚礼の義にあたります。
肉体が結ばれるだけでなく、魂を結ぶのです。
そのための許可を神々にいただくのですから、イザナキが「ひ(霊)」を意味する左から柱を回ります。
そして出会ったところで声をかけるのですが、ここで「阿那迩夜志(あなにやし)」と互いに声をかています。
漢字で書いてありますが、注釈に「以音(こゑをもちひる)」と書いてありますから、ここでは漢字は意味を持ちません。
ですから古語で「あなにやし」と述べたことになります。
「あな」は、古語で感動詞で、「ああ」といった感じの言葉です。
「にやーし」は、「にや」が「〜であろうか」と疑問をあらわす言葉で、これに強意を意味する「し」を付けています。
従って、「あなにやし」は、
「ああ、〜であろうか、〜であってほしい」と述べていることになります。
続く「えをとこを」は「良い男」ですから、「あなにやし、えおとこを」を現代語に訳すと、
「ああ、良い男であろうか、いや良い男であってほしい」
となります。
同様に、イザナキも
「ああ、良い乙女であろうか、いや良い乙女であってほしい」
と述べています。
二神は、すでに互いに会っているのです。
にもかかわらず、天御柱を回って、互いにこのように言葉を交わして相手を見る。
それは、これから結ばれようとする男女を意味するし、天御柱をまわって、互いの魂を結ぶ儀式を経たあとに、あらためて、互いを見つめ合うという様子を意味しています。
つまり「成り成りて」と言葉を交わしたときの二神と、天御柱を回ったあとの二神では、魂の結びの有無が異なるわけで、ということは天御柱を回る儀式は、魂を結ぶ儀式であった、つまり結婚の儀(結魂の儀)であったと読むことができるわけです。
これは「そのように解釈できる」ということではなくて、ちゃんと読んだら、そういう意味になるということです。
なお、
「阿那迩夜志愛(上)袁登古袁」
「阿那迩夜志愛(上)袁登売袁」
の真ん中にある(上)は、上声(じょうせい)といって、音符でいうフォルテシモのようなものです。
ですから強調して読みますので、ここは
「えぇおとこ」、「えぇおとめ」のように、「え」をすこし強調して読み上げます。
おのおのが いひおへたのち
各言竟之後
そのいもに つげていわくは
告其妹曰
おみなより いふはよからず
「女人先言、不良」
現代語訳すると、互いに「ああ、良い乙女(男)であろうか、いや良い乙女(男)であってほしい」と言い終えたあと、イザナキがイザナミに告げて言うには、
「女性より先に言うのは、よくない」
と述べた、となります。
何事も「ひ(霊)」が先、「身」が後なのです。
ところが「身」を先にしてしまうことは、神々を軽んじることになってしまう。
だからイザナキは、「良くない」と述べています。
この一文をもって、古事記は男尊女卑だという人がいますが、それは違います。
女性は妊娠し、出産することができるのです。
そして生まれてくる子は、神々の祝福を得た子でなければなりません。
そのために、神々に命を捧げるのが男性の役割です。
神々に我が命を捧げることを「義」と言いますが、清き御魂を神に捧げることで、女性に丈夫な子を孕(はら)んでもらうのです。
そのために、わざわざ婚礼の儀をあげているのです。
これが「み(身)」の結びが先になってしまっては、「良からず」です。
それでは単に欲望の結果、新しい命が生まれることになってしまいます。
命の誕生は、もっと神聖なものなのだという自覚が、古事記にはあるのです。
しかるゆゑ くみどにはじめ
雖然、久美度迩(此四字以音)興而
うまれたみずこ ひるこゆゑ
生子水蛭子
かくのこは あしふねいれて ながしさる
此子者入葦船而流去
つぎにうまれた あはしまも
次生淡島
これもまたこの たぐひにいれず
是亦不入子之例。
現代語訳すると、
「このためイザナミの女陰からはじめに生まれた子は、未熟児のまま流産してしまった。そこでやむを得ず、この子は葦の船に入れて流すことになった。
次に生まれた子の淡島(あわしま)も、これまた子の数には入れることができなかった。」
原文にある「久美度(くみど)」は以音ですから、漢字に意味はなく、大和言葉の「くみど」です。
「くみど」というのは、古語で複雑に組まれた戸のことで、女陰を意味します。
その女陰から生まれた最初の子は、蛭のように、まだ形が整わない子であったというのですから、要するに未熟児であったということです。
その未熟児が「生子水」ですから、水の子を生んだ・・・つまり生まれた子を水子(みずこ)にしたということです。
要するに妊娠早期に流産してしまったということです。
このため、その子のために葦で船を作って海に流しました。
これは要するに海葬にした、ということです。
縄文時代の遺跡には、いずれも貝塚がありますが、海に近いところで生活していたわけで、葬儀が海葬が主流だった時代もあったということなのかもしれません。
ちなみにこの後に、イザナミがお亡くなりになったときには、比婆(=火場)で葬ったと書かれていますから、祖代における葬儀の形は、海葬、火葬、土葬など、さまざまな形があったということなのでしょう。
次に生まれた子も「淡島」です。
そもそもここは「国生み神話」の始まりなのですから、島を生んだという記述はそれはそれで良いとして、その島が消えてしまいそうな淡い島だというのですから、もしかするとこれもまた早産で流産となったということかもしれません。
そして、流産した子ですから、蛭子も淡島も、この数には入れないと書かれています。
短い部分ですが、従来の解釈とだいぶ異なることにとまどわれた方もおいでになるかもしれません。
けれど、古事記の原文を漢字の意味だけでなく、七五読みしていくと、さらにまた違った古事記の側面が現れます。
何が正しくて何が間違っているのかまでは、わかりません。
ただ古事記を読むに際して必要なことは、どこまでも先人の知恵に学ぶという姿勢であろうと思います。
そして今回のこの段での学びは、
「何事も『ひ』が上である」
という点です。
お読みいただき、ありがとうございました。
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右の「み」=「身」
∴「霊」が先で「身」が後。
「身」を先にして「義=儀」を後にするするは「神々を軽んじる行為」と…ねずさんは仰います。
そう言えば…神社に参詣して柏手を打つ時は、右手を左手の第一関節辺りまで下げますね。
少し前のことですが、大宮氷川神社で「霊を主体とする神道の考え方」について聞いてみました。
・左手=「陽=霊」
・右手=「陰=体(身)」
ねずさんと同じお話でした。
但し、柏手を打った時はまだ神と人は一体では無く、祈りを込める時に左右指先を合わせてはじめて神の力を体得できる…のだそうです。
古事記の「七五読み」
いいですよね。
朝からバッチリ勉強してます。