パラオ・ペレリュー島の戦い - 大和心を語るねずさんのひとりごと

パラオ・ペレリュー島の戦い

2008年09月17日07:46  未分類 写真あり

パラオご存知ですか?

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観光ガイドでおなじみの、日本からだいたい8時間かかるとても綺麗な南洋の島・・・。

最近の遺跡などの調査で、この島には約4000年前から人が住んでいたといわれています。

いまから70年ほど前、パラオには、たくさんの日本人が住んでいました。

日本人たちは、パラオの人たちのために、学校をつくり、教育を施し、医療を充実させ、野菜や果実の栽培方法を指導したり、工場を建設したり、道路を造ったりしました。

パラオの南部に、ペリュリュー島という小さな島があります。

そこには、899人のパラオの村人が住んでいました。村人たちと日本人は、とても仲良しで、みんなで一緒になって、パラオの歌や日本の歌を歌ったりもしていました。

でも、その南海の楽園パラオにも、戦争の恐怖が襲ってきます。
米軍が迫ってきたのです。

日本人と仲の良かった村人たちは、大人も子供も、一緒になって日本とともに米軍と戦おうと決意します。そして尊長さんたち数人が代表となって、日本の守備隊長の中川州男大佐のもとを訪れました。
図1
中川州男大佐


ふだんから温厚でやさしい中川隊長なら、自分たちの思い
・・・一緒に戦う・・・

をきっと聞いてくれるに違いないと思ったのです。

そして中川隊長に、
「自分たちも一緒に戦わせてほしい」と申し出ました。

ところが・・・

それを聞いた中川隊長は、瞬間、驚くような大声をあげたのです。

「貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」


「・・・・・・」

村人たちは、驚きました。
日本人は仲間だと信じていたのに、それはみせかけだったのか。。。

村人たちは、日本人に裏切られた思いで、みんな悔し涙を流しました。

日本が用意した船で、パラオ本島に向かって島を去る日がやってきました。

村人たちは悄然として船に乗り込みました。
港には、日本人はひとりも、見送りに来ていません。


そして、汽笛が鳴った。

船が岸辺を離れた。



その瞬間です!!

ペリュリュー島に残る日本兵全員が、ジャングルの木陰から浜に走り出てきたのです。

そして一緒に歌った歌を歌いながら、ちぎれるほどに手を振って彼らを見送ってくれた。


そのとき、船上にあった村人たちは、わかった。

日本人は、自分たち村人を戦いに巻き込んではいけないと配慮したんだって。


日本人の「真実の愛」

仲間を思いやる心・信頼する心・愛する心・・・・

どんな状態でも、忘れない大和魂・・・

腹の底から涙が出た。


泣いて泣いて、ちぎれるほどに手を振った。

岸辺に見える日本兵に向かって、村人たちは、号泣しながら、手を振った。

誰もが泣いた。こわれるくらいに手を振った。


1944年9月12日、ペリュリュー島をめぐる日米の戦闘の火ぶたは切られました。

島に立てこもる日本軍10,500名。

対する米軍総員48,740名。


激戦のすえ、日本軍は全滅します。
図2


1981年、パラオ共和国が誕生したとき、パラオの人々は、独立を記念して、ペリュリュー島守備隊だった日本人を讃える歌をつくりました。

そして独立にあたり、国旗を制定することになりました。

国民の間からデザインを一般公募した結果、日の丸をもじった今のデザインが採用となりました。

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パラオの国旗


周囲の青は太平洋。まんなかの黄色い円は月をあらわします。
月は日章旗の太陽との友好を示すものなのだそうです。
そして、パラオの国旗の満月は日の丸の旗の太陽とは違って,中心から少しズレています。
日本に失礼だからと,わざと中心をはずしたのだそうです。
これはパラオの人たちの慎み深い態度を表しているのだそうです。


戦前、日本人は学校で、日本だけでなく世界の人々を大きな家族として愛しなさいと教えられていました。

忘れてはいけないおおきなやさしさ。大和魂。

その心を、私達は決して忘れてはいけないのではないでしょうか。

そして亡くなられた多くの先人たちの正しく生きようとした心を、しっかりと受け継いでいくことが、現代を生きる私達の責務であり、戦火に散った尊い命へのご供養になるのではないかと思います。
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